その2

《女子便所のドアを激しくノックする男》

 その日は大人気のコミック 「ボンボン王 4巻」 の発売日だった。 犬猫堂の総力を上げて仕入れた50冊は、 その日の内に完売されるはずだ。

 開店後、 「ボンボン王」 は順調に売れていった。 しばらくして、 アルバイトで丘の下について働いている寅に、 ちいさな男の子が声をかけた。
「あのー、 ボンボン王ありませんか?」
寅は、 平台を指さし、 あそこだよ、 と言おうとした時驚いた。 「ボンボン王」 がないのだ。
「あ、 あ、 ないね。 今すぐ持って来るかね。」 と言うと、 倉庫に向かって駆け出した。
 確か羊子さんは、 倉庫に入ってすぐ右の棚に置いていたはずだ。 走りながら寅はそう思っていた。 しかし倉庫に入るとそこにはなかった。 再び、 寅はレジに向かった。
「羊子さん、 どこ。」
アルバイトの鶴田は、 どうして寅が血相を変えているのかわからないまま、
「四番だと思うけど」 と言った。
四番とは、 隠語で便所のことだ。 店ではお客さんに聞かれるとまずい言葉を隠語で表現する。 四番もそのひとつなのである。
寅はまたまた便所に向かって突進した。 そして躊躇することなく女子便所のドアを激しくノックした。

「羊子さん、 羊子さん、 ボンボン王が倉庫にないんですけど、 どこにあるか知りませんか。」
羊子は心臓が止まる思いがした。 今まさに放出しようとしていた時、 女子便所にあるまじき男の声、 そして乱暴なノック。
「バ、 バ、 バ、 バ、 バカ。 あんた何考えてんの。 ここは女子便所よ。」
「大変なんですよ。 ボンボン王がないんです。」
羊子は、 寅のとんでもない行為に対する怒りより笑いが込み上げて来た。 それは寅の慌て方があまりにも尋常ではなかったからだ。
「あのね。 今日中に売れてしまうのがわかっているものをなんで倉庫にしまったりするんですか。 あれはレジに置いてあるから。」
「レ、 レ、 レ、 レ、 レジ。」
寅はまたまたレジに向かってダッシュした。 レジに戻った寅の目の前で、 鶴田がボンボン王にカバーをかけている。
「寅くん、 どうしたの。 そんなに息を切らして。」
何が起こったのか知らない鶴田が、 寅をじっと見ている。 寅はカバーをかけてもらっている男の子に、
「よかったな。」、と頭をなぜてやった。そして寅の額には汗が光っていた。

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