その45

《お客さんはあそこです》

 猿山が親しくしている田中さんの勤める西村書店は50坪ほどの店である。 店の隅に小さな経済・経営書のコーナーがある。 その品揃えは、 大型店に比べれば満足できるものではない。 置きたくてもスペースがないのでしかたがないからだ。 経済書や経営書を探しに来た会計事務所の人達だって満足しているとは思えない。 そして何より大きな売上が期待できる棚でもないのだ。
 で、 なぜ西村書店にそんなコーナーがあるのか。 それは近くに会計事務所が2軒あるからである。 お客さんはそこの人達だけ。 品数の少ないこの店に対してお客だって大きな期待はしていない。 でも西村書店ではちゃんと経済・経営書が売れている。 なぜなんだろう。

 猿山は以前 、田中さんから直接聞いたことがある。
「ほらこの道の向こうに会計事務所が2軒あるのは知っているでしょう。 そこの人が帰りに立ち寄って、 文庫や雑誌を買ったついでにチョットこの棚を見てくれるんですよ。 それで欲しいのがあれば買ってくれるというわけです。 そういうわけだから1点で何冊も販売できないけど、 いろいろと本を見せてあげれば、 ポツポツと本が売れて行くということです。 自分でも細い商売だな、 なんて思うけど、 会計事務所ご用達棚なんてのがあるのもいいじゃないですか。」 と笑いながら田中さんは言った。
 なぁーんだ、 簡単な仕掛けだなと、その時、猿山は思った。 でもこの簡単な仕掛けを維持するためには、 かなり頻繁に商品の更新が行われなくてはならず、 その管理は簡単ではない。 また日々注意深くどんな商品が動いているのかを見ていないと、 見当違いな本が並び、 客は逃げて行く。 地味な仕事だけど、 ご近所さんに本を買って貰える喜びを知っている彼の仕事を猿山は素晴らしい仕事だと思った。

 この話は、 犬猫堂の朝礼で話をしたことがある。 書店のお客さんというのは、 不特定なもののように見えるが、 実は特定されているということについてだ。 商圏には限りがあり、 その商圏の中で、 競合する書店と読者を獲得しあって成り立っているということについて話をした。 そのとき、 「特定のお客さんを捕まえるためには、 具体的に何をすればいいのか」 と林は猿山に質問した。 その質問に猿山は自信を持って答えた。
「それは、 簡単なことです。毎日、 毎日の仕事の中で、 何が売れたのか何が売れなかったのかを、 意識的に理解するだけです。 その積み重ねから、 ぼんやりとだけどお客さんの顔が見えて来ます。 時間のかかる作業ですが、 必ずいい結果が待っています。」

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