開発圧力に対抗し緑地を守る市民たちの鎌倉

自治会を基盤とした市民活動

 広町保存を可能とした要素に、地元8自治会の連合組織「鎌倉の自然を守る連合会」が早い段階で結成され、ねばり強い保存運動を継続してきたことがあげられる。
  話は1973年に遡る。広町緑地の開発圧力は73年と89年の2次にわたって起きているが、この年、最初の動きが起こった。間組、昭和地所、藤島の3社が開発計画を発表。地元の新鎌倉山自治会住民の反対に会い、一時、中断したものの、10年後の83年に、事業3社は600戸の住宅建設計画を市に提出した。
  住民たちは、この時も、6万人の反対署名を集め、開発の一時凍結を実現した。しかし、開発を中止させることは、法的に難しい。このため、8自治会が開発反対の連合組織「鎌倉の自然を守る連合会」を結成し、行政や事業者への継続的な働きかけを行う。そして、翌年には市民集会を開催し、「鎌倉市緑地保全基金制度」の創設を提案した。
  市が緑地保全基金の提案を受け入れたことは、市民と行政が緑地保全をめぐり協働する基盤となった。市民はみどり基金募金運動を展開し、緑地保全基金大幅増額を要請。その結果、基金は一時期115億円まで拡大し、緑地保全に活用される(現在残高は50億円)。今回の広町緑地保存にも、最終的に35億円が基金から拠出される(そのほか、市はみどり債を発行する)。
  連合会の働きは基金創設に止まらない。新たな鎌倉市政が誕生する度に、緑地保全の公約を得た。特に、重要な役割を果たしたのは、竹内市政誕生の時だった。

鎌倉の環境保存運動は、鶴岡八幡宮の裏山「御谷」に始まる。世に「御谷騒動」と呼ばれる開発反対運動で、今、この地には「史跡鶴岡八幡宮保存計画」見直しの記念石碑が建っている(上写真)。
  昭和39年、御谷住民がブルトーザーの前に身を投げ出して阻止した行動が発端となって、日本で初めての「ナショナルトラスト運動」が起こり、「古都保存法」が誕生した。
  石碑は、この市民運動の「輝かしい伝統」を受け継いだ地域住民が結束して、昭和63年に策定された行政による「保存計画」に反対し、12年間に及ぶ反対運動を展開した結果、その見直しを実現した経緯が記されている。
  「御谷」が開発されていれば、右頁に観るような八幡宮の環境が損なわれていただけでなく、以後の歴史的環境保存運動も大きく遅れたであろう。
  鎌倉市民の環境運動は、今日でも、この「御谷」の存在が核となっている。
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