朝日新聞記者だった竹内謙が鎌倉市長になったのは1993年。その2期にに及ぶ在職期間に、緑地保全の布石が行われた。環境基本条例の制定と環境基本計画の策定、緑地保全条例の制定、市民活動(NPO)センターの設立など、市民運動を中心とした保存の体制は、この8年間に定まったとみなしてよい。風致保存会の事務局を市民に任せて、活性化を図ったのも、竹内市長時代である。 「鎌倉の自然を守る連合会」の大木章八事務局長も、今日の枠組みを定めた竹内市政の実績を高く評価する。大木さんは法律家(弁護士)であり、その法制度を知悉した運動の展開は、行政にとっても無視できない存在だった。 1989年、広町の開発業者は、戸田建設、間組、山一土地の三社となり、共同事業体を設立した。これを契機に、再び宅地開発の動きが起きる。当時の中西市長は、広町緑地について「緑保全を基調とした都市的整備を図る」として、開発を容認した。鎌倉の市民たちは、環境自治体を標榜し、三大緑地を守ると公約した竹内謙候補者を市長に当選させる。この時、連合会は竹内支持団体に加盟し、積極的な選挙運動を行ったのである。 竹内市長は、ただちに開発手続きを凍結。しかし、5年後の98年、業者は凍結解除を強硬に要求し、内容証明郵便によって凍結解除に応じない場合は市長を相手に損害賠償訴訟を提起すると通告してきた。 法廷闘争に持ち込まれた場合、判例からみて敗訴は間違いない。市は手続きを再開し、事業者は緑地周辺の5ヵ所に公開標識を設置した。 この時期が保存運動にとって、もっとも切迫した山場となった。連合会では、98年8月、「鎌倉広町みどりのトラスト運動」をスタート。3ヵ月で2400万円を集め市民の意志の強さを示した。市長が「もののふの道」(赤道)を市民健康ロードに指定したのも、この翌年である。 その1999年に開発と保存の相反する潮目が変わった。緑政審議会が「広町を都市林公園として保全する」と中間答申を出し、神奈川県が財政的支援を表明したのだ。連合会は第3回市民集会を開催し、トラスト運動の拡大を図った。2000年、答申を受けた市が「都市林公園」計画化を政策決定したことによって、流れが方向づけられた。公共機関による買収方針が明らかになったのである。 この大勢をみて、事業3社の足並みが乱れた。戸田建設と間組が市の買収申し出に応じ、両社の持ち分約18haを110億円で売却する方針を示したのだ。開発断念は目前だった。ここで連合会はもう一押しする。市民集会を開催し「事業者らは全面保全に協力を」と呼び掛け、市の都市林公園構想に協力するよう決議した。 同決議で注目されるのは、メインバンクへの働きかけである。バブル崩壊後、デベロッパーの経営権はすでに金融機関に支配されている。銀行(東京三菱銀行、第一勧業銀行、三菱信託銀行)に対し、「公的資金の注入を受けたこと、および銀行業務の公共性、企業の社会的責任に鑑み、鎌倉の山林を保全することに協力し事業者の開発計画には手を貸さないこと」と釘をさしたのである。 事業3社の糧道を圧迫する一方で、不動産鑑定士に鑑定を依頼し、事業3社の所有地39haで74億円との鑑定書を受け、買取金額の基準を示した。 2001年の市長選に竹内市長は出馬せず、広町緑地等の保全を約束した石渡徳一氏が市長となった。2002年3月、連合会は石渡市長と会見し、この鑑定書の活用と緑地保全基金の活用を要請した。4月、市は「広町・台峯緑地担当」を設置し、業者との本格的な交渉を開始する。 当初、74億円の市提案額を聞いて、事業3社は交渉に応じず退席したというが、もはやポーズに過ぎない。自分たちで交渉をリードする余裕はなかった。常磐山買収価格に基づく上限115億円が市から提示されると、当初要求の半額だったが、合意せざるを得なかったのである。 鎌倉市は、神奈川県から20億円、国から20億円の補助を受ける手はずを整えており、「鎌倉の自然を守る連合会」鑑定額程度の市支出で緑地買収が可能と踏んでいた。 2002年10月2日、鎌倉市議会が広町緑地の買取りを可決したのは、県議会での広町緑地補助金審議が行われる直前だった。
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