副会長 北村 真
2006年サッカーワールドカップがドイツで開催されました。あっと言う間の4年が過ぎ再びワールドカップの年が巡ってきました。時間が経つのは本当に早いと感じます。身近な所でも新年度には、新しい執行部が誕生しました。長年親しんだ、田城会長の執行部から轟新会長へと変わり、気分も一転し新しい時代がスタートしました。田城会長はじめ前期まで努めて頂いた役員の皆様、本当にご苦労様でした。 筆者も40歳も半ばになり、本当に時間が経つのが早く感じます。また最近は一部の間では昭和ブームであり、ふと昔を振り返り懐かしさと共に、しばしの郷愁に時間を止めることもあります。昭和の時代はそれなりに楽しかったなあと思い出されます。
そうそう25年前は・・・・。暗室があり、現像、定着の補充タンクが入っていました。現像液を作るには、水にA剤、B剤、C剤を混ぜ合わせます。定着液を作るには、水にA剤、B剤、を混ぜ合わせます。
鼻を突くような酢酸や硫黄の臭いがし、ときにそれを吸い込み蒸せていました。また、液体が跳ね上がり、白衣に付くと黒いシミができました。それから、ケミカルミキサーなるものができ、A剤、B剤、C剤もカートリッジ式になり本当に文化的な進歩を喜びました。
CTは1回転が3分程度かかり、アーチファクトだらけの画像でしたが、頭の横断面が見えると言うことで、医師も技師もその画像について誇らしげに、本当に誇らしげに語っていました。フィルムに焼くのもマルカメ(マルチフォーマッターカメラ)と言う装置で焼いていました。マルカメは大きな(身長程度)暗箱の中にブラウン管のモニターが入っておりその画像をフィルムにカメラで焼き付けるような装置です。これが動くときにはガッタン、ブーン、ゴットンなんとものんびりした音が聞こえていました。画像の保管はオープンリールの磁気テープに収録していました。もちろんコンピュータもマルチタスクなど有りませんから、スキャン、保存、写真焼きなどは同時に行うことができず、それぞれスキャン中はスキャンのみでその他の作業はできませんでした。従って写真焼き中は写真焼きのみでその他の作業はできず、また保存時は保存のみといったような物でした。そして、その後の僅かなあいだで画期的な出来事が日々起こっていました。1回転10秒でスキャンができる超高速スキャナー(当時の表現)が登場しました。そのスキャナーには撮影中にでも写真焼きや、画像の保存ができる小型のスーパーコンピューター(当時の表現)が使用されていました。当時は一寸した自慢でしたね。そんな時代です。先輩たちは夢の時代に突入したと言ってました。新しい医療について行けないとか、新しい装置は信用できないとかも言っていました。当時若い私にはわかりませんでしたが、ものすごい変遷だったようです。
そんな時代(1980)に未来(現在、2006年頃)を予測し、現実となるように紛争していた先輩たちがいます。その方は当時・・・。「CTはもっと進歩する。1回転で全身が撮影でき、いろいろな立体画像が得られるようになる(現、MDCT)。それだけではなくX線を使わなくてCTと同じような撮影ができる装置がある(現、MRI)。もうじき出てくるで。そのフィルムもいちいち焼かんでも、撮影装置からボタン一つで診察室に送られるんや。診察室にはパソコンがおいてあって、そこに一般から、胃透視、CT、アンギオ、なんでも画像は送れるんや、画像だけではなく臨検のデータやなんかも送ってくる。カルテもコンピュータ化される。こういうことができるのが、PACSというコンピュータなんや。(当時はファイリングシステム、電子カルテ、オーダリングシステム等々をひっくるめて語っていました。PACSの意味さえわかっていませんでしたが、)もう少しで必ずこうなるよ・・・」って言っていました。その先輩達は先を読み、勉強され、情報を持っていたのだと思います。また、別の先輩は「放射線技師も変わらなあかん。教育は大学で行い、専門職を表に出し読影ができるようにならなあかん。」と言っていました。放射線技師の卒後教育にも力が注がれ、知識の標準化をはかるために全国統一講習会が開催されました。(これが今だに・・)。このような先輩達がいて、その先輩達が紛争して今の時代(現在、2006年頃)があります。先を読んでいた先輩たちに感謝しなければなりません。しかし、ここで忘れていけないのは時代の流れです。先輩達が未来に向けて頑張っていても時勢がなければ、達成できなかったでしょう。