Impressions 2004 vol.2







■ * 高岡英夫は語る すべてはゆるむこと  松井浩 小学館文庫
■  イノセンス  監督:押井守
■  バッテリー  あさのあつこ 角川文庫
■  スワロウテイル  岩井俊二 角川文庫
■  いじめてくん  吉田戦車 ちくま文庫
■  2004年全日本武術太極拳競技大会  @西京極京都市体育館
■  高畠華宵展  @美術館「えき」KYOTO
■  マグロは時速160キロで泳ぐ  中村幸昭 PHP文庫
■  オーケストラ楽器別人間学  茂木大輔 新潮文庫
■  沖縄のナ・ン・ダ  沖縄ナンデモ調査隊 双葉文庫
■  いけばなの根源池坊展 大阪花展  @なんば高島屋
■  日本三文オペラ  南河内万歳一座+天下の台所改善隊プロデュース
■  プロジェクトX リーダーたちの言葉  今井彰 文春文庫
■  42nd Street  脚本:マイケル・スチュアート 演出・脚本:マーク・ブランブル
■  捨て犬を救う街  渡辺眞子 角川文庫
■  ショコラ  監督:ラッセ・ハルストレム
■ * ぼくは747を食べてる人を知っています。  エレベーター企画
■ * 大人も子どももわかるイスラム世界の「大疑問」  池上彰 講談社+α文庫
■  パイロットフィッシュ  大崎善生 角川文庫
■ * CHICAGO  監督・振付:ロブ・マーシャル








*■■■ 高岡英夫は語る すべてはゆるむこと ■■■ 松井浩 小学館文庫

運動科学の話。体格・重量・筋肉量のハンデを超えて、どうやって相手を倒すか。どうやって最速スピードで瞬時に動くか。その他、諸々。自分のやっていること(表演太極拳)にも関係のある内容で興味深かった。四〜五回は読み返したように思う。

“高度な合気”を説いている部分が面白かった。肩から指先までの“支点揺動”は、太極拳に通じる処がある。太極拳の場合は、単なる波状ではなく、らせん状に支点=重さ・力(勁)を相手に伝えていく為、如何なる時でも絶対に胸や肩や肘を張ってはいけないのだが、腕の始まりは肩ではなく肩甲骨全体、という捉え方をする。この肩の捉え方は、高岡氏の論と同じである(実際の勁の始まりは肩甲骨ではなく下半身なのだけれど)。逆に支点を相手から自分側に伝えていく、“支点転動”と高岡氏の呼ぶ動作もある(これ、まだ馴れないんだなあ)。いづれにせよこの類を掛けられると、強い力を受けるというより、重量の大きいブルドーザーで振り回されるような感じを受ける。氏の言う用法もそんな感じのような気がした。

高岡氏は、弛んでいないと咄嗟に最速スピードで動けないので全身の力を抜け、というのだけれど、太極拳では弛んだ状態を放鬆(ファンソン)と呼んで一番重要視する。発勁(打撃などで力を発すること)は放鬆の状態にないと出来ない。放鬆上の自分の問題点は、下半身。股関節の使い方だ。何しろ極限まで力の抜けた重い上半身が一本軸で載っている。その状態で更に股関節を“弛めて”然るべき用法(この辺省略。少林拳etc.などの長拳系とは全然違う)で足を出したり寄せたり体重移動したりしなくてはならないので、なかなか面倒なのだ。発勁直後なんてつい体軸がぶれるし。ぶれたら上半身の妙な処に力が入るし。そうするともう、太股の後ろ側の筋肉で支えられなくなっているし(笑)。体軸を保って全身をプラプラさせるくらいならともかく(これ結構得意 w)、脱力状態をキープしたまま、用法を守って、意のままに体を動かすのは大変なのだよ。ついでに自分の場合、放鬆(脱力)とは別に、股関節自体も固い(周囲の筋肉が固くて可動域が小さい。座禅がきちんと組めないくらい)。なるべく寝る前に柔軟運動をするようにはしているけれど、まだまだ身体能力が不足している感。・・・身体的かつ用法的な股関節の柔軟性。この辺、関連図書を読むなりして研究したら、自分にとって突破口になるかもしれない。

・・・と、私が読んで、実感できたり役立てられそうに思ったりしたのは、その辺までの内容。複数の屈強な男子を瞬時にくずおれさせるとかいったケースの、瞬時の力の割り振り判断や方法などは、全く想像が及ばなかった。せいぜい、視覚情報や思考に頼らず己の身体感覚(センサー)で判断する、というのは確かにそうなんだろうなあ、くらい(普段、勁を感じるのに視覚は要らないよなあと実感しているから)。何事でもそうだけれど、自分より上のレベルのことは、自分がそのレベルに達さないことには実感できない。使える処は使って体感出来ていったら、かなり役に立ちそうだなあ、と思った。

◇  はてなダイアリー;高岡英夫
◇ Amazon: 「高岡英夫は語る すべてはゆるむこと」








■■■ イノセンス ■■■ 監督:押井守

きっとまたどうせ難解な独自用語が満載で、理解スピードが追いついていかないに違いない、と思い、オフィシャルウェブサイトで用語解説を読み込んでから観に行ってみたら、用語解説をそのまんま繋げた話で、全然新鮮味がなかったという(汗)。HP、まともに読むんじゃなかった。

終わってからぼんやりと思ったのは、草薙素子はあっち側で何をしてたんだろうなあ、というようなこと。そもそも何が決定的理由で体を捨てたんだったか(前作まるで覚えてないよ)。なんか、あっち側(マトリックスの裂け目の向こう側、ですか)って、死後の世界みたいである。その全能性は、こちらの人間には体感できないし、理解不能だ。どこからでもあなたのことを見守ってるからね、というのも、死んだお祖母ちゃんか何かのようである(守護霊)。はっきり言って、ほら今もあなたの肩先に来ておられますよ、の状態。で、自動車事故に会いそうになった時だけ姿が見えたりして、具体的に奇跡的に助けてくれるのだ(笑)。・・・人間をやめ、プログラムと融合した存在でずっとネット上に居続けるのも、こちら側の人間からしたら、疲れたり人恋しくなったりしないんだろうか、と危惧する訳だけれど、その辺もきっと時間感覚や五感、しいては価値観が、現世とまるきり違うから全然OKなんだろう。で、あっち側を味わいたいのなら、人間を止めるしかなくて。死ぬのと同じで、片道切符。痛みも空腹もない。想像もつかない素晴らしい体験の連続なので、現世でのお金や名声はもはやどうでもよくなる。・・・ほらやっぱり、サイバーパンク版・死後の世界だよ(笑)。

ああいう人の身体機能をいくらでも上げられる世界において、人は他人の何処を愛するか。オリジナルなものでなくとも、キッカケは顔とかガタイとか巨乳とかなんだろう。でももはや知識でも技能でもなくなってくるよなあ。行動の仕方、考え方。そういったパターンの記憶、かもしれない。人となりの記憶。バトーなんて、ある意味、妻に先立たれた内気で頑固なお爺さんだもの。・・・純愛っていうけどさ。最先端をいけばいくほど、のっけから物凄く老成を必要とされる社会になるのかもしれない。

これでもかと使われる引用句がちょっと衒学的すぎてイヤミに感じた。勿論、作中の社会では電脳から辞書のようにして名節を引いてこれるという演出になっているのは分かるけど、なんだか独自用語や引用句のややこしさで、評価の底上げを計ろうとしているみたいに見える(事実、むづかし気というだけ俄然張り切っちゃう人は多いだろうし)(いや、こういうのを嬉しがるむづかし好きのややこしやでないと、「人形とはッ?」とか「犬は何のメタファーであったかッ!」とか、乗ってきてくれないのかもしれないが)。ストーリィはシンプル。味わうべきは、やはり設定世界や背景への考察あれこれなんだろうな、という気がした。

ところで、CGが美しかったんだけれど、お陰で2Gが浮いて見えてしまい。これくらいやるのなら、もはやセル画にこだわる必要もないのでは、という気がする。そういえば、チャイニーズ化された択捉特区の退廃が、高層ビルから見下ろした現代の東京や大阪より美しかった。美しい退廃は好きだけど、あれはちょっと美しすぎだなあ。あんなゴージャスな旧正月、取っておきたいくらいだが。美しいといえば、「行くわ」の後の、最后の人形の一体の崩れ方も、恐ろしく美しかった。本当に力が抜けていて。ばらんばらん、て感じで。

追記:この辺にもイノセント絡みの言及が。

◇ Amazon: 「イノセンス」
◇  イノセンス HP








■■■ バッテリー ■■■ あさのあつこ 角川文庫

小学校六年生から中学一年生にならんとする男の子の物語。母親の実家へ引っ越したばかりの家族や、新たな近所の人々との中で話が進んでいく。生まれつきピッチャーの才能のある男の子は、努力家だが心は閉じている。邪魔くさく感じた人の気持ちは、全て跳ねつける。周囲の大人達は大人なりの賢さを身につけてはいるが、同時に大きな欠点もそれぞれに抱えていて、本人は気付いていない。

横並びの視点で一人の人間として主人公の男の子を見ていると、どうにも腹が立った。他人を無視しすぎである。色んな立場の他人と関係を持つこと、その関係を保つ為に他人に思いを馳せること、それらを全部を切り捨て、その分浮いた精神的労力を、自分のしたい努力に全て費やして生きている。身近な他己について真面目に考察しないなら、自分は誰にも理解されないなど、内心思う権利はない。結局、最后まで他人の気持ちや立場は跳ねつけたまま。・・・何なんだよコイツは。ひどすぎ。友達になりたくないよ。

しかし大人の視点で見れば、可哀想な男の子ではある。母親は病弱な弟に掛かりきり、父親は仕事ばかり、才能に恵まれた者の孤独や努力を理解してやれる人間はいない。しかもまだ思春期に差し掛かったばかり。数え上げればハンデは沢山ある。

母親の言葉が気になった。曰く、野球をやるために生まれてきたような人間は、最初から他人に憧れたりはしない。他人に憧れて野球を始めるような人間は、いつかだめになる。自分を誰よりも優れていると思える人間でないとモノにはならない。・・・ちょっと分かるような、そうは思いたくないような。しかし、上の言葉をして、「あんたみたいな(傲慢で才能のある)子には、凡人(ちなみに弟)がうかつに上を目指してしまう悲劇なんて分からないでしょうよ」と実の息子をなじる母親というのも、なんかもう殆ど他人以上にひどい状況である。二十歳を過ぎた息子に言うんならまだしも、これを言われる息子はまだ十二歳やそこら。その年の子に実の母親が言う台詞じゃないよなあ。勿論、肉親とはいえ相性はあるにせよ。

・・・という訳で、根本的な処で前途多難な家庭だ。原田少年は、豪ちゃんみたいな人間的に賢くて器量の大きい子に、傍で精神的にフォローして貰うしかないなあ。せめて思春期が終わるまで。という訳で、豪ちゃん任せた(笑)。

◇ Amazon: 「バッテリー」








■■■ スワロウテイル ■■■ 岩井俊二 角川文庫

本当は映画を観たかったのだが、すっかり機を逃して、本。維新派の野外舞台が建つ時に必ず横に出来る、バラック建ての居酒屋群みたいなセットを想像しながら読んだ。・・・やっぱり映像で観てみたかったな。

ざくざくと粗っぽく物語が進んでいく中、仲間意識の根拠がいまいち描き切れていない感じがした。そんなザツい付き合い方なら、実際には好き嫌いのいざこざも激しくて、結構頻繁に裏切り合ったりするんじゃないのかな。良識あるいい人のようには描かれていないものの、設定の割に、互いに人を傷つけなさすぎ。ついでに裏街道まっしぐらな生き様の割に、みんな中学生みたいにナイーブだし。解説で宮台真司が「少女マンガ的なモチーフが溢れている」としているのだけれど、私からすると、無条件に前提として出される生暖かさ・ナイーブさが、何だか背景から浮いて胡散臭い感じがした。ギャップ感を魅力にするなら、その辺しっくりくるような、さり気ないリアルなエピソードの積み重ねが欲しいと思う。

そういえば岩井俊二って、「四月怪談」といい「ラヴレター」といい、何かと感傷的な映画が多い。「UNDO」は毛色が違うが、衝動感の見せ方が面白かった。感傷的な要素を含む話は出回っている量が違うし、触れる量が断然多いから、どうしてもリアリティの要求度が高くなる。

・・・んーそれにしても、やっぱり映画で観たかったな。

◇ Amazon: 「スワロウテイル」








■■■ いじめてくん ■■■ 吉田戦車 ちくま文庫

漫画。幼少の一時期、シャレにならない苛められっ子だった私は、この表紙とタイトルに一も二もなくそそられてしまい。某穴蔵で杏露酒のお湯割り片手に人知れずグフグフ笑いながら読み切ってしまったのだった(「いじめてくん」に相応しい閉じたシチュエーションだ・・・)。

いじめてくんは戦時中に作られた秘密兵器。人の嗜虐心を煽るよう計算し尽くされていて、彼を目にした標的は我を忘れて苛めまくってしまう。そのイジメが頂点に達した時、いじめてくんは爆発する仕掛けだ(でもいじめてくんは死なない)。

私的ベスト3は、「マチ子の庭」「手の冷たい父娘」「失恋を見る」。前者二つはあんまりイジメは関係ない。不条理。これが笑えると踏んだ作者ってスゴイなー。「失恋を見る」は分かりやすいイジメもの。みっちゃんのママは失恋して帰ってきたいじめてくんを見て、みっちゃんに言い渡す。「みっちゃん、いじめてくんに 『火星で失恋してきたの?』って 言ってきてごらん」 拒むみっちゃん。「・・・ママ、失恋を見るのが 大好きなの。失恋者の苦悩に勝るドラマは ないと思ってる。でも 自分がイジワルな役をやるのはイヤ。自分だけはいい子でいたいのよ」 しぶしぶ承知するみっちゃん。そこでママが笑顔でアドヴァイス。「そう、それじゃいい? ズバリ傷口をえぐるように言うのよ 『失恋したの?』って」 夫登場、妻をなじる。夫をキッと睨みつけ、反撃に出るママ。「美智子はまだ5歳のおぼこ娘よ!! 恋も知らないおぼこ娘 に 失恋のつらさ悲しさを・・・人生のいたみを教えるのに こんないい機会は滅多にないじゃないのよ!!!」(以下続く) いーわー、この確信犯ぶり(笑)。

・・・感想になってないけど、分析してしまうとクドイだけなので放っとこう(笑)。

◇ Amazon: 「いじめてくん」








■■■ 2004年全日本武術太極拳競技大会 ■■■ @西京極京都市体育館

今年の大会は京都でやるというので、見に行ってみた(体がしんどかったのでちょっとだけ)。

なんだか完全に若手育成目的の大会になっていた。一応日本では表演における天下一武闘会の筈なのだが、規定套路オンリーで、各種伝統拳は皆無。太極拳においては、年齢が上がるほどしみじみ上手い人も居るのだけれど、全員Cクラス。長拳では上手かろうが不味かろうが、20代後半で肩を叩かれるらしい。太極拳でもそうなってきたのかもしれない。連盟は、北京オリンピックに向けて底上げに一生懸命なんだろうなあ、と想像する。今の処、伝統拳も関係なさそうだし。・・・うーん。じゃあ全国規模の上手い人だけのフェスティバルを熱く希望(笑)。中国から八卦掌の達人や梅花扇の演武集団を特別ゲストで呼んだりして。五千円払ってでも見にいくよ。

長拳で印象に残ったのは、棍が得意と言われている某人。素人目に見ても、以前某大会で見た時より迫力がついたなあ、と。なのに器械破損で-0.4ポイント。ついでにやり直しで-1.0ポイント(棍)。よくコートの魔物に襲われるっぽい。口惜しいだろうな。太極拳の女子ではいつもの彼女が優勝。股関節柔らかい。

ちょっと見物なのが、表彰式の時の整列。拳ごとに体型が違う。・・・ほらやっぱり太極拳で痩せるなんてウソっぱちなんですよもう(>有酸素運動至上主義の健康情報番組)。痩せてる人は最初から痩せてるんですって。活性酸素出まくり故障多しでも、速筋使いの長拳の方がリニアな体型なのは一目瞭然。南拳は更にガッシリ筋肉質。共通点は、いずれも背の高い人があまり居ない処。そういう人は最初から他のメジャーな球技スポーツにでも行くのだろう。

追記:そして結局、2008年北京オリンピックに中国武術表演競技は採用されなかったのだった・・・。

◇  日本武術太極拳連盟・・・主催団体。表演オンリー。太極拳の他に、長拳、南拳も。








■■■ 高畠華宵展 ■■■ @美術館「えき」KYOTO

大正から昭和にかけて活躍したイラストレーターの挿絵展。なんだかみんな若い頃の美輪明宏に見えてくる。或いはカトリックの御絵の天使や聖人に、大正・昭和モダンの仮装をさせたかのような。皆が皆、平行二重のラテン顔なのだ。しかも虚ろな三白眼で、猫背でよじれたポーズを取っている。・・・何故この時代の女達はこうも姿勢が悪いのだろうか。いや、もとい夢二よりずっと以前の浮世絵からして、既に姿勢が悪かった。ああいう健康に悪い姿勢が“女らしい”というのは、自然の摂理に反しているのでは。内臓が弱って寿命を縮めていそうだもの。最后の方に少し紹介されてあった、同時代の他のイラストレーターの絵の女達も、軒並姿勢は悪かった。中原淳一 あたりからだ、いきなり姿勢が良くなるのは。やっぱり戦後女が外へ出て働くようになると、猫背でしなってちゃ間に合わなくなってきた、ってこと? うーむ。姿勢で見るプチ女性史(笑)。中原の絵は女性の美しさと賢さがテーマ。眉毛はきりりと太く、両目ははっきり正面を見据えている構図が多い。しかし高畠華宵の絵の女は皆どうみてもアホそうに見える。目が虚ろで焦点が合っていないんだもん(笑)。まあ、あの時代に下手に自我を持っていたら、生きにくかったのは確かだろうけどなあ。

・・・女達のめくるめく“よじれ猫背”はちょっと気持ち悪かったが、その時代のデパアトメントで売れていた洋装や、ツムラの中将湯の広告についてきたモダーンな小説世界、物凄く暑苦しい水着ファッション(腕も腿も隠す上に更にマントを羽織って日傘をさしている。そこまでして海に出なくても;)、女学校を出たばかりの女性にふさわしい髪型特集なぞ、その時代々々の一番粋とされるイラストや雑誌の一コマを見られたのは面白かった。また、凛々しく闘う少年達の絵(少年倶楽部挿絵)は、美化の仕方と煽り方からして北朝鮮に高く売れそうな雰囲気であった。美しく人殺し、くらいなら思い込みが激しかったら出来そうだけど、戦争で美しく殺しまくる、ってむづかしそうだもんねえ。死体と瓦礫の山は悲惨で汚いよやっぱり。はああ、戦中戦前の世間はこういう風にして煽っていた訳ねえ、なるほどねえ、と。私も当時の幼気な少年だったなら釣られてそうだ。こんなの見てたら確かに戦争を美化してしまうよ。

ところで高畠華宵本人も、本人が描くイラストのように平行二重・色白・なで肩のなよっとした人物だ。・・・やっぱ人形作家と同じく、誰でもどこか自分を複製してしまうものなのか。そういえば美輪明宏は中原淳一のファンで有名だけれど、華宵とは交流が無かったんだろうか、と少し不思議。華宵が美少年時代の三輪を見たら、絶対気に入ると思うんだけどなあ。華宵は稲村に超絶洋風調度品に囲まれた屋敷を建てて、美少年な弟子と住んでいたらしいから。

◇  弥生美術館 ・竹久夢二美術館・・・弥生美術館の方でブリブリの高畠華宵が見られる模様。
◇  高畠華宵大正ロマン館 ・・・愛媛の何処ぞにあるそうな。








■■■ マグロは時速160キロで泳ぐ ■■■ 中村幸昭 PHP文庫

副題“ふしぎな海の博物誌”。色んな海の生物の解説が載っていた。

元よりお気に入りのマンボウは、脊髄が1.5cmしかないのだそうだ。1.5cm!(笑) ほんとに殆ど頭で出来ているのねえ。水槽で飼うと壁に頭をぶつけて死ぬので、水族館では壁から30cmの処にビニールを張って保護しているらしい。わはは、このマヌケ振り。さすが私の愛するマンボウである。私ゃ一生君についていくよ(笑)。

やはり感心したのが牡蠣。・・・の栄養価。健康オタクで牡蠣アレルギーの私としては、こんな素晴らしいものを摂取出来ないなんて口惜しい限りである。生ガキなんてほんと美味しいのに(遠い目)。アレルギーのことに関しては何も語られていなかった。実は大人になってから何度か食中毒のように悶絶した際、ネットで虱潰しに調べてみたのだが、メジャーなアレルゲンではないのか、何処にも言及されていなかったのだ。牡蠣アレルギーって、そんなにめづらしいのかな。本当に、一つ食しただけですさまじく死にそううな勢いなんだけど(熱が通っていようが関係ない;)。

ところで海獣の章では「海獣は海の道化者」というタイトルが付いていた。やっぱり専門家の認識でも、お茶目さん扱いなのだな、とちょっと嬉しくなる(笑)。

◇ Amazon: 「マグロは時速160キロで泳ぐ」








■■■ オーケストラ楽器別人間学 ■■■ 茂木大輔 新潮文庫

指揮者による楽器別人間観察。筆者は元オーボエ奏者でもあるので、指揮者とオーボエ奏者に関しては自虐的に悪く書いてある(笑)。

結構面白かった。やけに詳しい描写が笑える。楽器別適正判別クイズでは、自分は打楽器と出た。趣味的な人生。雑学好き。ニヒルとペーソスとカタルシス。断るのヘタ。確かに、打楽器奏者というのは当たってるかも(笑)。でももう一つ被るなあと思ったのがあった。それはコントラバス。年齢不詳の奇妙な落ち着き、とやらを示唆されたのは幼稚園の頃から。めんどうくさがりである。小学校の頃の成績は良かった。ネタ帳も持っていた(笑)。「相対性理論とか花の栽培とか、ヘンな本ばっかり読んでいる」 ・・・ヘンじゃないぞ(怒)。楽観的。女性コントラバス奏者特有の印象、「どうしても男性と話をしているような気がしてくる」。初対面だったり疲れていたりでウスラボンヤリしている内は女扱いして貰えるが、そのうち馴染んでタメ口でしゃべり出すと、コレ、大体言われる。ちなみにデューク東郷や石原慎太郎はティンパニ奏者タイプなのだそうだ。寅さんはコントラバス。はー、これらの人々が自分の中に混在してるってことか?

いづれにせよ、マイナーな楽器であることは確かだ。まかり間違っても、バイオリンのコンマスとか本数の少ない管楽器とかじゃない訳だ。そういうポジションで生き残るのは、はなからムリ、と思っている証拠だ(間違いない)。ものぐさで過当競争を避けたがるからなあ、と改めて納得。ハマってしまえば当人にとっては何でも一緒だしねえ。社会的評価はさておき。

個人的には、習うのならオーボエがいいなあ、と思ったのだが(何故かオーボエの人気は高い)、筆者曰く、運指がとってもむづかしいらしい。パート的にも、失敗したら凄く目立つらしい。で、ストレスと責任の重さに苦しむらしい。それを聞いてすかさず脳内希望を却下(笑)。ちょっとむづかしいぞ、くらいで競争相手が少なかったら選ぶんだけどねえ、とか思いつつ。ちなみに好みのタイプはファゴット奏者とチェリストだった。ある意味同類って感じか。どうも低い音がいいんだな。

◇ Amazon: 「オーケストラ楽器別人間学」








■■■ 沖縄のナ・ン・ダ ■■■ 沖縄ナンデモ調査隊 双葉文庫

石垣島は衝撃だった。建物も植物も食べ物も違うのに、日本語で書いてあって日本語が通じる。帰りに寄った沖縄は石垣島に比べると都会ではあったが、京都土着の地味なヤマトンチュにとっては充分エキゾチックな空間であった。何処へ行っても似たようなチェーン店やショッピングモールが並ぶ日本の地方都市において、未だ異彩を放つ沖縄。なんだか東南アジアのような、米国日系社会のような(SPAMとかあるし)。空港に降り立った時から、関空とは違う匂いがしている。何なんだろうな、あの開放感は。

読んでいて、沖縄に住みたいなあ、と思ってしまった。高級リゾートとかじゃなくて、ぽーんと町中に住みたい。それで、毎日ふらふら市場へ出掛け、お総菜を買って食べたい(笑)。あの昆布と豚肉の角煮を炒めた奴、好きなのだ。ゴーヤちゃんぶるーはよく夏に自分でも作るけど、あの昆布の奴は自分で作れないからなあ。もずくも美味しかったしなあ。なんかこう、寒くなくて、決まりごととか時間とかうるさいことを言われなさそうなのがいい。そいで、みんながわいわい飲んだくれてサンシン弾いて踊ってるような処へ、たまに呼んで貰いたい。一緒に飲んで食べて踊って昼寝しちゃうよ、ははは(笑)。

なんかいいな、と思ったのは、霊の捉え方の建設的な処。沖縄だと、お化け、怖くない(笑)。キジムナーが「モノレール乗りたい」とかゴニョゴニョ話してたって・・・。これまた怖くなくて良い。

追記:キジムナーについてちょっと調べてみた。ガジュマル等古い木に住んでいる。赤髪、赤〜緑の体でけむくじゃら。赤ん坊か猿のよう。魚の目や蟹が好物で、おならと蛸が苦手。魚を捕る時は、火を出して海の上を往来する。人懐こいがしつこいのがキズ。何らかの形で追い払うと仕返しをしたりする。一説では心のきれいな人にしか見えないと言われているらしい。・・・ふーん。

◇ Amazon: 「沖縄のナ・ン・ダ」








■■■ いけばなの根源池坊展 大阪花展 ■■■ @なんば高島屋

池坊流を習っている訳でも、他の流派を習っている訳でもない。全くの部外者なのだけれど、そういう人が華展をみることってどれくらいあるんだろう。入ってみると中はやはり、関係者が多い感じがした。

正面に次期家元の巨大な作品が伸びやかにしつらえてあった。春とはいえまだ寒い三月。冷たい朝靄の中、右手からは淡い朝日がさし始めている。森の奥、かつて雷に裂け朽ちた筈の古木から新しい芽が育ち、人知れず花を咲かせている。・・・そんな感じの作品だった。もちろん、使われている薔薇は三月には咲く訳ではないし、花材はよく見るとバラバラだし、あくまで私個人の受けたイメージなのだけれど。その横でツレが一言。「あのベロンてなってる黒い奴、昆布みたい」途端に朽ちかけた渋い古木はデカい昆布に。・・・要らんこと言うなよー(汗)。

どの作品も、和花でも茶花でもなく、全て観葉植物ショップで見掛けるようなエキゾチックなものが使われていた。紫蘭とか極楽鳥とかアンセリウムとか。派手である。ちょっとびっくりした。うちで母が玄関に活けているのは、もっと地味な和花が主だ(違う流派だけど)。

手前の方には、Flanc flanc のポップな花瓶やクリスタルガラスの猪口を使ったような小品も見られた。いずれも3Dバランスが、素人には出来ない巧さ。中にはサーカス並の曲芸的チャレンジャーも。この辺のバランスの取り方は流派によって違ってくる処なんだろうけれど、こういうことを何年にも渡って続けていると、空間認識能力が非常に上がってくるだろうな、と思った。私も武術を始めてから前後左右半径1.5m位の空間認識が激変したけれど、こういう線や点で静止させた状態を作り出すのに要求される能力とは、また違う。静動両方やれば、1+1=2以上の空間認識力がつくかもしれない、と思った。例えば、宇宙でガンダム乗りながら、片方でインテリアコーディネーターするとかさ。それで、然るべきのちに無重力空間で巨大可動式インスタレーションなんかにチャレンジする訳です。

帰ってからHPを見てみた。でも、写真に撮られた活け花ってつまらない。全然違う。魅力が数分の一以下。3Dの生ものであることが、こんなに大きな事であったとは。そうのって、あまり注意して考えたことがなかった。

◇  財団法人池坊華道会・・・短大のカリキュラムが「お稽古事の嵐!」って感じで、なんかそそられる。








■■■ 日本三文オペラ 疾風馬鹿力篇 ■■■ 南河内万歳一座+天下の台所改善隊プロデュース

原作、開高健。台本・演出、内藤裕敬。ウルトラマーケットこけら落とし公演(大阪城ホール内西倉庫)。そういや、南河内万歳一座を観るのは初めてだ。「日本三文オペラ」は一座にとって三度目の公演らしい。

時代は終戦前後、バラックで埋め尽くされた舞台に、汚い格好をした大勢の役者陣。広大な軍需工場跡地に残された鉄屑を、警察の目を盗んで夜な夜な掘り出しにいくアパッチ族の物語である。大量の役者が手抜きせずに動き回ってモブシーンを作り上げるので、そこで生まれるザツでポンチでエネルギッシュな空気が圧巻であった。こういう、人を環境背景に使ったテーマパークのような屋台村があったら面白そうだな、とふと思った(維新派の公演時に出現する屋台村とか、好き)。最后の方、この深刻な状況にどうやってオチを付けるのかなー、と思っていたら、ドリフターズ的に“ケツをまくる(失礼;)”策を取っていた。まあ、暗いより明るい方がいいか、と。

舞台挨拶で、座長さんが「関西で芝居小屋が減ったのは、芝居が詰まらないからではない、ということを証明したかった」みたいなことを言っていた。個人的には、行くのが相当邪魔くさいのに(←コレ大きい)DVDや本より更にあたりはずれが激しい、というリスクから足が遠のいている。でも劇場が減ったのは、単に不況な上にシステム自体が儲からないからだと思っていたけども、違うの?(汗)

◇  日本三文オペラ 疾風馬鹿力篇








■■■ プロジェクトX リーダーたちの言葉 ■■■ 今井彰 文春文庫

何年も掛かって岩を穿つような作業の数々。知られざる偉人は、色んな業種に、色んな形で、散らばっている。なのに私等は実際“働く他業種のおじさん”を見学する機会すら殆どない。

どの人も凄いもんだと、しみじみ感心する。目に引いたのは、薬師寺金堂再建の頭領と、某心臓外科医。なんかこういう、金やポリティクスではどうにもならない能力を何十年も掛かって自力で手に入れるというのは、意識的・無意識的に捨てる物も多いのではないかと思う。その代わり裸一貫で逆境に陥っても。根拠ある根性が座ってそうだ。他人としていいなと思うのは采配を振るえる人だけれど、自ら憧れる姿としてはどうもこっちだな。

よく「頭の良し悪し」とか「IQとEQ」とか色々言われるけれど、何なんだろう、と改めて思う。チームワークに秀でている人、相当ヘンコな人、地味で目立たない人、やることやってあっさり身を引く人、様々だけれど、この本に出てくる人々に共通しているのは「想いの強さ」だった。そして目的がはっきりしていた。

自分に出来ないことを人がする。人が出来ないことを自分がする。こういう本を読むと、それでいいんだな、と思う。

◇  プロジェクトX 〜挑戦者たち〜 HP
◇ Amazon: 「プロジェクトX リーダーたちの言葉」








■■■ 42nd Street ■■■ 脚本:マイケル・スチュアート 演出・脚本:マーク・ブランブル

ブロードウェイの裏側から見た、とある女の子の成功物語。主人公のヒロイン抜擢後の急激なシゴキは、後藤真希デビュー時を彷彿とさせる。ていうか、あのゴマキデビュー時の演出は、もしやコレのパクリか?(笑) 時代は大恐慌と思しき1930年代。ストーリィは単純明快、精緻なタップや姉さん方の足の美しさ、衣装の煌びやかさは圧巻。でも、ナンバーがこれと言って耳に残らなかった。この類の“古き良き単純明快ミュージカル”は、昔ロンドンで観た "CRAZY FOR YOU"と比べてしまう。あの作品は、ストーリィ展開のテンポといいナンバーといい、あまりにもウェルメイドであった(もとい音楽はガーシュインだし)。本作は観て損はなかったが、80点、て感じ。・・・アレです、“初恋の人が忘れられない症候群”です多分。初期にいいもん見過ぎた。

ちょっと毛色は違うが、“古き良き単純明快ミュージカル”と言う点で、"Hello, Dolly!"の舞台がもう一度観たいなあ、と懐かしく思う今日この頃。もちろん主演未亡人はキャロル・チャニングのガラガラ声で(ああ絶対ムリだ・・・)。

こうやって時折、眠れるミュージカル熱に再び火が点くのかもしれない。でCDを買い込む訳だ。罪だなあ。

◇  42nd Street HP
◇ Amazon: 「42nd Street」(CD)








■■■ 捨て犬を救う街 ■■■ 渡辺眞子 角川文庫

捨てられた犬や猫は、そのままでは「害獣」になる。フンは撒き散らすし、ゴミ箱は漁るし、人や子供にケガや病気をさせる恐れがある。さらに生存状況が良ければ、それらの「害獣」は繁殖する。野良犬はまづ存在を許されない。野良猫に至っては少しマシで、「エサをやりたければせめて去勢手術を施してから」というのが現時点でのコンセンサスのようだ。・・・私自身ひょんなことから、迷い犬か捨て犬がよく分からない犬の飼い主になってくれる人を探す、という経験をした。そんな折に目にした本。保健所行きの捨て犬たちの状況をレポートしてある。

人と話していると、人間の身勝手で殺される動物に深い思い入れのある人と、「可哀想ねえ」程度で余所の動物にそんなに思い入れのない人との間に、いつも大きなギャップを感じる。筆者は、ベジタリアンでない保護施設の職員にさえ違和感を感じていた。私も飼い主探しをするときに何度か涙を流したが、そこまで求められてもついていけない。もとい、犬一匹の命を救うためならどんなに人の厚意に甘えてもいいとも思えない。まあ、安易な気持ちで動いてもトラブルの元となりやすいのだけれど。この辺、実例を目にしたら色々意見の分かれる処だと思う。

「捨て犬を救う街」というのはサンフランシスコのことで、そこには犬が入所したら、新しい適切な飼い主が見つかるまで決して殺されない施設があるという。まさに夢のような話である。日本では「動物愛護センター」とか「動物管理センター」とかいう名の公の施設の下で、捕獲時から稼働日三日で、安楽死とは言えない安価な方法で殺されることになっているからだ(予算の問題)。どうして日本の動管センターは、たとえ三日でも、ボランティア愛護団体のようにネットを使って日々里親さんを公開募集しないんだろうなあ、と思う。手間だけで費用は大して掛からないのに。そのようなことをやっている処は、かつてネットで調べた際、全国で一カ所しか出てこなかった。この本にも出てきた施設である。閉じていたら世間の波風は立たないけど(事情も無視して「殺すなんて非道い!」とか言うだけ言う人、一杯出てきそうだからね)、好む好まざるに関わらずずっと殺戮場のままだ。・・・もう少し、波風を立ててみてもいいと思う。

◇ Amazon: 「捨て犬を救う街」








■■■ ショコラ ■■■ 監督:ラッセ・ハルストレム

フランスの田舎町へやってきたショコラティエの母子と、取り巻く封建的な町の人々、流れてきたジプシーの男を巡る物語。チョコレートのひとつひとつが、魔法の麻薬であるかのように頑なな人々の心を解きほぐしていく。その辺、話の展開はおとぎ話っぽい。反面、人々の描写は写実的で手堅く、浮いた処が見当たらない。この一見アンバランスな演出の組み合わせが、実際には上手く機能していて、なんとも不思議な感じだった。

また人物設定や行動論理も、精緻に計算された作りとなっていた。たとえば、厳しい母親に抑圧された少年はグロテスクな絵を描いて精神バランスを保っているし、流浪の旅を嫌がる主人公の娘は、心の中に“足が悪くて何処にもいけないカンガルー”を飼うことでささやかな願望を具現化している。主人公の女も、同じく流浪の民だった母親から受け継いだ壺を大事にすることで、自らにもその流浪の呪縛を課している。その他、母子の確執、老いと病、長きに渡る秘めた恋、家庭内暴力、余所者に対する差別、古き物と新しき物・キリスト教的な価値観とそうでない価値観の葛藤、などなど、社会を濃縮するかのように様々な問題が描かれていた。チョコレートの甘いおとぎの皮を被ってはいるけれど、かなり現実的な内容だ。

静かな町並と人々の控えめなファッションが、均整が取れていて美しい。ジュリエット・ビノシュも魅力的。ジョニー・デップが連れていた小さな女の子は、滅茶苦茶目が大きくて、小動物みたいで可愛かった。監督は「サイダー・ハウス・ルール」を撮った人らしい。裏ではきっちり計算されていて、表ではほんわり切なかったり暖かかったりする物語を、丁寧に撮るのが好きな人なのかもしれない。「ギルバート・グレイブ」も観ていないけれど、「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」が観てみたいと思った。

◇ Amazon: 「ショコラ」








*■■■ ぼくは747を食べてる人を知っています。 ■■■ エレベーター企画

二年振りに観るエレベーター企画。いつも乙な小品を嗅ぎ出してきては、錬金術のような演出で独自の作品にしてしまう。原作を知る場合は、この変貌ぶりと抽出ぶりが面白かったりもする。

原作は、ベン・シャーウッド "The man who ate the 747" だそう。好きな女に振り向いて貰うために、飛行機を食べ続ける男の話。男の元へ世界記録を取る男が現れ、マスコミが介入し、スポンサーが現れ、女の気持ちは新しく現れた男の方へ向かい、村ごと予期せぬ事態へと巻き込まれていく。

今回は、白自転車五台と白のツナギを着た人間五人を使った演出だった。私の観た回は、それに生ピアノの即興BGMが加わる。白い小型自転車は、状況に応じて動いたり止まったり並べられたり組まれたりひっくり返されたり投げ出されたりする。それによって、飛行機にも粉砕器にも車にも壁にも柵にも食堂の椅子にもなる。白のツナギを着た人間は、役柄は固定されておらず、次々に現れ来る登場人物を適宜担ってゆく。時に同じ人間が少年から飼い犬に役を変えたりもする。役者も演出道具のように突き放して扱われている感が面白いと思った。

話の流れはじれったく待たされる感が強かった。なのに、村人がぽつりぽつりと主人公の後を追い始めた時、涙ぐんでいた。この時の為の「撓め」だったか、と気付く。もくもくと飛行機を食べ続ける男が、木訥として押しつけがましくないのも良い。お陰で、誰もが手出ししにくい、静のバランスが村に続いてきたことを得心させられる。

男が絶望故に植物人間に陥っても泣けないけれど、人々が理屈を超えて他人の想いに共鳴する処には泣ける自分を発見。訳の分からない行動で感情をさらわれる箇所の方が、物語要素的にはレベルが高い気がする。頭で処理できるレベルの状況を目にした場合、沈み込む感情は抱けても、泣くような感情には繋がらない(だってあの場合、一方的な想いが成就しないのは仕方ないことだもん)。エレベーター企画にしては、めづらしく心温まる展開だった。こういうのもいいな、と思った。

◇  エレベーター企画 HP








*■■■ 大人も子どももわかるイスラム世界の「大疑問」 ■■■ 池上彰 講談社+α文庫

涙を流して大絶賛。待っていた、こういうサルにも分かる中近東本を。これを書いてくれた人はエライ!

大体、これくらい整理して言って貰わないと、学問したい訳ではない素人の脳味噌では話を追う為の一時記憶もままならない。っていうか、この程度で充分なんだよ、取り敢えず。小学校で初めて習う日本史程度の大きな足がかりがあれば(とはいえ一回読んだくらいじゃ、まだしっかり頭に入っていないが)、突如ピンポイントで蕩々と語られる海外ニュースサイトの記事も、何がどうなってそうなのか、きっと内容に付いていける筈(と期待を込めてみる)。惜しむらくは、歴史説明が湾岸戦争で終わっている処である。求ム、そっから先!

この本は手元に置いておいて、「あれ、どうだったっけ?(汗)」と思った時にまたパラ読みしようと思う。前半の宗教・文化背景知識についてはほぼ周知なので、残りの量はそう大量でもない(やはり興味柄、文化に強く歴史に弱い;)。邪魔臭がらずに手に取るのだ、自分!

◇ Amazon: 「大人も子どももわかるイスラム世界の『大疑問』」・・・ほらねほらね、五つ星続出。みんな実は分からなくて困ってるんだよ。








■■■ パイロットフィッシュ ■■■ 大崎善生 角川文庫

四十一歳・編集者の過去と現在。ちょっといいなと思えるようなくだりと、陳腐な感じの持って行き方と、村上春樹的おとぎ作り話とが入り混じっている感じがした(ちなみに村上春樹は好き)。

良かったのは、ひたすら「川底にあおむけに沈んでいる」感じの使い回しとか(これ、分かるなあ)、女の子がアジアンタムを残していく処とか(彼女の分身のつもりかも、とか余計なことを書かず、育てにくい、程度で話を逸らしてある処がいい)。陳腐だったのは、駅のホームで線路越しに大声で大事な会話をする処とか(十年前の月9か?)、沈痛な心持ちでひたすら通行人を千百二十三人数える処とか(しません;)。でも、透明で動いていて数えにくいアクアリウムのエビを数えるのは、あの状況ではアリだと思った。思いつかないけど、しっくりくる、まだ使い古されてない、という点で。

アクアリウムの生態系を整える為に、最初に投じられ捨てられるパイロットフィッシュがタイトルに、冷たい済んだ湖に溜まっていく喩えの「記憶」についての論が、繰り返しテーマになっている。「川底にあおむけに沈んでいる」の表現といい、何かと“水関係のモチーフ”で揃えてある処が、裏表紙の宣伝にある「透明感」に繋がる演出となっている模様。

表紙のネオンテトラが涼し気だ(この辺にも透明感の演出が)。初めて名を聞く作家だった。角川文庫・夏の百冊その1らしい。

◇ Amazon: 「 パイロットフィッシュ」








*■■■ CHICAGO ■■■ 監督・振付:ロブ・マーシャル

ショービジネス界での成功を望むヴェルマとロキシーが、些細なことから別々の処で殺人を犯し、同じ刑務所に入れられる。看守に金を払い、有能な弁護士にアクセスし、マスコミと大衆を利用して、命のみならず名声をも手に入れようとシノギを削る二人。二転三転する状況変化が面白い。殺人者ロキシーの、被害者意識で狼狽える姿の愚かしさ。熱しやすく冷めやすい大衆を馬鹿にし、開き直って世相を操ろうとするところも小気味良い。

ミュージカルの映画化だが、ストーリィもナンバーも非常に楽しめた。特に、キャサリン・ゼタ・ジョーンズの歌はその気迫に圧倒される("All That Jazz")。他、操り人形のシーンと看守“ママ”の独唱も気に入る。看守“ママ”は、何と言ってもあのスイカのような爆乳に釘付けである。しかもがっつり大胸筋で支えられているあたりがスゴイ(←垂れてないんですよ奥さん!)。あの風貌に、あの声。まさしく"Big Mama"って感じで、やられる。

女達はどれも荒っぽく傲慢でセクシー。「秘すれば花」の対極を行く。そういえば、かつてブリジット・ジョーンズを演っていたレニー・ゼルウィガー。精一杯踊っている時の背中や足は筋肉質で、大人振りを振りまいているのだけれど、話し方は米国英語でもやはりどこか舌足らず。いくらセクシーにしていても、“その辺の姉ちゃんのもっさ臭さ”が見え隠れする(また、その地位の女優にありながら、豊胸していないのも一因なのかも)。金髪で歌えて甘くてセクシーな女優なら、他に候補はいたに違いない。でもこの人が使われるのは、この人の持つ、もっさ臭さとか、鈍くさそうな素人臭さとか、そういう微妙な味わいが受けてのことなんだろうなあ、と思った(頭が悪そうなのとはまた違った隠し味)。もっさい処とセクシーな処を行ったり来たりできる人って、居そうでなかなか居ない。マドンナは頭良さ気すぎだし、モンローは頭悪そ気だけどもっさ臭さはない。こういうレニー・ゼルウィガーのような味はめづらしい。

終わってみれば、ロキシーの旦那さんがかなり可哀想だった("Mr. Cellophane")。でもあんな女達は稀だから(笑)。Cirque du Soleilもどきが舞う中で堂々と歌うリチャード・ギアにも意外。今ひとつ迫力には欠けるけど、ミュージカル畑出身の男優だったとは知らなかった。

改めて、"FOSSE"(ボブ・フォッシーのベストダンスレビュー)が観てみたいと思った。求ム、来日公演! しかしこの監督がまた"RENT"を撮った日には、必ず観ると思う。やっぱり舞台→映画と何度もふるいに掛けられている作品(「エビータ」とか)は、オリジナルミュージカル映画(「ムーラン・ルージュ」とか;)と違ってハズレが少ないな。

◇  CHICAGO EXPRESS
◇ Amazon: 「CHICAGO」







back  next
corner's top
home