Impressions 2004 vol.1







■  ファインディング・ニモ  監督:アンドリュー・スタントン
■  ジョゼと虎と魚たち  田辺聖子 角川文庫
■ * ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔  監督:ピーター・ジャクソン 原作:トールキン
■  不道徳教育講座  三島由紀夫 角川文庫
■  幽玄の美 金剛宗家 能の世界展  @美術館「えき」KYOTO
■  ラストサムライ  監督:エドワード・ズウィック
■ * テルマ&ルイーズ  監督:リドリー・スコット
■  アニー・ホール  監督:ウディ・アレン
■ * 火星の人類学者  オリヴァー・サックス ハヤカワ文庫
■ * 解夏  さだまさし 幻冬社文庫 
■  トルコ三代文明展  @大阪歴史博物館
■ * ディープ・インパクト  監督:ミミ・レダー
■ * WATARIDORI  監督:ジャック・ベラン
■ * 美保の松原  @静岡県清水市
■  伊豆・水津シーパラダイス
■ * あなたの脳にはクセがある  養老孟司 中公文庫
■  大阪城梅園
■  人狼  原作・脚本:押井守 監督:沖浦啓之
■ * 下妻物語−ヤンキーちゃんとロリータちゃん  嶽本野ばら 小学館文庫
■ * 日本の色事典  吉岡幸雄 紫紅社








■■■ ファインディング・ニモ ■■■ 監督:アンドリュー・スタントン

ディズニー的擬人化の世界だなあ、という感じ。動物モノは人間本意の論理を持ち込んでいるのがどう足掻いても不自然だからなあ。あんまり「何で?」とか考えなかったら楽しめるかも。或いはそれを上回る何かがあれば、没頭できるかも(「ライオン・キング」とか)。イソギンチャクの揺れ様やピンククラゲの大群なんかがとてもきれいだった。リクガメの子供達の話しぶりもキュート。なんでも世のお父さんが感情移入して泣くらしい。・・・いいかも。

◇ Amazon: 「ファインディング・ニモ」








■■■ ジョゼと虎と魚たち ■■■ 田辺聖子 角川文庫

短編集。「恋の棺」が良かった。女の人が持てる余裕に悪びれた味付けをして、さも格好いいスタイルか何かのように纏う様を見るのは好きではない。わざとらしいのが嫌なのだ。この女は年齢からくる余裕を持っていても、自分のスタイルに使い回そうとしていないのがいい。それから男の子が可愛い。やっぱり“男の子”は頑張ってムヅカシイこと言ってても、どっか可愛いのがいいな。「雪の降るまで」も悪くないけど、ワタシ的にはこの類は何を読んでも立原正秋の方に軍配が上がってしまう。彼の方が耽美で覚悟が効いてて。

言葉遣いがおっちゃんおばちゃんの喋るコテコテの大阪弁で、対象年齢の喋っているように聞こえなかったのが残念。初版は1987年。当時でもここまでコテコテな喋り方ではなかったと思う。作者が年輩なので仕方ないか。

◇ Amazon: 「ジョゼと虎と魚たち」








*■■■ ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔 ■■■ 監督:ピーター・ジャクソン 原作:トールキン

なっがー。四時間。ショップの棚に残ってるのが唯一スペシャルエクステンデッドエディションだったので、何も考えずに借りたんだが。おまけにコメンタリー映像が四本付いてきて、全て字幕付き。流石ファン層の厚い映画は違う。

ゴラム/スメアゴルのCGの元となる演技をしたAndy Cerkis。監督・脚本家・制作・キャストと皆が絶賛する中、コメンタリーに声だけでしか登場しないので、非常に気になった。“中の人”はこんな人だったらしい。*この人が全身タイツで跳ね回る姿を見たかったなあ。また、ヘルム峡谷へ向かう途中ワーグの襲撃に遭った際、レゴラスが一瞬有り得ない馬の乗り方(とてもアクロバティック)をしたのだけれど、あれもどのように撮って合成したのかが気になった。実に、メイキングフィルムを付けて欲しかったと思う。一番凄いなあと思ったのは、外撮りと内撮りで光の違和感がないこと。後にスタジオで色調調整を掛けるにしても、セットとロケの質感の違いも含めてとても大変だと思うのだけれど、素人目には全然分からなかった。唯一違和感があったのが、エントの絡むシーンくらい。他は本当によく出来ていたなあ、と思う。馬が兵を蹴散らして細道を進む処とか、高い梯子が倒れて大勢の兵が飛び散る処とか、たかだか20年前には決して見られなかった映像だもんねえ。

そんな感じで、映画の内容より、コメンタリー映像で語られていた内容の印象の方が多分に強いのだった。コメンタリーやメイキングフィルムを見るのは好きだし、出来れば全部観たかったのだけれど、途中で文字通り胸が悪くなって目も痛くなってきたので止めにした。映画も併せると全部で20時間も掛かる。無理だ(笑)。・・・また内容を忘れそうなので、次 (film 3) は早い目に観たい。

*後に幾ばくかのメイキングフィルムを発見。跳ね回るアンディも見れた。"SOUND EDITING"が意外やアナログで興味深かった。飛行機や車の音の入らない深閑とした屋外を求めて夜の墓場で叫び声を録ったり(なんでスタジオ録音じゃダメなんだろう?)、クリケットスタジアムのハーフタイムに二万人以上の観客を指揮して兵の唱和を録ったり。その他、剣を制作する際、刃に受ける衝撃で付け根から折れないよう束の内部にスケボー用の衝撃吸収材を忍ばせてあったり、馬にモーションキャプチャを付けて作り上げたCGを実写に上手くブレンドしてあったり。色々面白い。出来ればもっと観たいんだが。

◇  オフィシャルウェブサイト 日本
◇  オフィシャルウェブサイト 米国
◇ Amazon: 「ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔」








■■■ 不道徳教育講座 ■■■ 三島由紀夫 角川文庫

明星に連載されていたとかいうエッセイ集。最初の方は割と面白かったのに、途中から段々不発が多くなってくる。取り敢えず人と違うことを熱心に論理立てておけばよいか、みたいな感じで、ちょっと調子に乗りすぎ。等間隔の強制的な連載の形でなく、書き溜めたものをまとめて出版する形であったならば、結構密度の濃いものになっていたのではないか、という気がした。

とはいえ面白くない話でも、この人のは不思議とそうダサく感じられない。自意識過剰を上回る頭の良さの為せる技か。大前提となることが、幅広く、飽き飽きするほど分かっている人なのだ。やっぱり飽き飽きするほど分かってる人って、そっから話が始まるからいいな。それにしても、太宰治をこんなにバカにしていたのに、この三年後に自決するなんて。その辺どうなんだ。
 どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。
 というのは、どんな人間でも、その真実の姿などというものは、不気味で、愛することの決してできないものだからです。これにはおそらく、ほとんど一つの例外もありません。
真実ねえ。正反対の真実とか内包してたりするから余計にエグいんよね。もとい、大抵の社会性のある人間は、その辺無意識のうちに上手く選択&演出して生きてる訳で。まあそう言わずにとりあえず明日も生きましょうよ、と思うんだけど。

◇ Amazon: 「不道徳教育講座」








■■■ 幽玄の美 金剛宗家 能の世界展 ■■■ @美術館「えき」KYOTO

主に装束と面の展示であった。入り口付近のモニタで道成寺を観る。うーむ。分からない。蛇がぐるぐるするのは歌舞伎の方であったか?、といった程度(そちらの物語は正しくは「安珍清姫の悲恋」で、モニタで観た能はその400年後の「娘道成寺」の方)。日本人ではあるけれど、残念ながらこれを観てすんなり素晴らしいと思える程の感性は、昨今の近代教育では育ち上がっていない。

しかし装束は純粋に楽しめた。様々な世代を表せるよう、色遣い・柄共に多岐に渡っている。淡い金色の装束は神やそれに近い翁用。無紅(いろなし)と呼ばれる地味な色遣いの物は中年女用。どんなに大きな柄物でも、派手でも、不思議に品が良い。こういう着物を脱ぎ与えた昔の大名達の、飽きる程の着道楽に思いを馳せる。面はあまりに沢山の種類があり、面食らった。せいぜい十指で数えられる程度だろうと思っていたからだ。鬼や般若に限らず霊的な物を顕す面は目が金色をしていて何処か恐ろしい。他、頬の痩けた面など、様々な心情・立場を表す面が並んでいた。足利義満から賜った布だとか、豊臣秀吉が作らせた面だとか。由緒ある古いものは建築物か襖絵といった大きな調度品でしか見たことがなく、そういった物よりより身近で生々しい感じがした。

出口には“能はむづかしくない!”系の本がズラリ。・・・表現形態が、現代の身の回りの全てからかけ離れているからなあ。古語をナチュラルスピードで分かる頭脳と、独特の立ち居振る舞いを良しと思える感性。内容はお勉強で楽しめるようになったとしても、感性の方はなかなか一朝一夕には育たなさそうだ。

◇  社団法人 能楽協会








■■■ ラストサムライ ■■■ 監督:エドワード・ズウィック

維新後、官軍に立ち向かう最后の侍達の話(フィクション)。時代状況的に白黒すっきりしない背景があるせいか、純粋なエンターテイメントのようには(侍側に)感情移入しにくかった。もとい、"It's perfect."と言いながら死んでいく勝元にしても、つい「この人やっぱヘンだ」と我に返ってしまったし(・・・あそこは泣く処だ)。テロ、原理主義、などといった単語が脳裏を過ぎる。立場を違えた時、武士道の美学と何が違うのか。オールグレンは軍人として不満足な生を生きていたので、あのような無茶も昇華に結びついたのだろうが、自分は生き死にの世界を生きてきた訳ではない。自決も含めて“価値観”の問題なので、こういうのは幼少の頃から刷り込まれていないと厳しい。二次大戦を経た世代までは、理性を越えてすんなり共感できるのかもしれない、と思った。・・・個人的には官側の大村が興味深かった。最后の方では悪者扱いされてはいたが、結果的には近代化を推した複雑な灰色キャラだ。

生の衣装を見る機会があったが、麻混のようなごわついた棉生地だった。オールグレンの軍服も、勝元やたかの着物生地に似てごわついた感じ。かなり考証してあるという話だけれど、昔は米国でさえ今のようなフラノやブロード織はまだ無かったんだろうか。ちょっと意外だ。

闘いのシーンは非常に迫力があった。殺陣をもう一度じっくり観たい。

◇  オフィシャルウェブサイト(日)・・・不勉強者の為に時代背景の解説が欲しい処。
◇  オフィシャルウェブサイト(米)・・・簡易日本史や武士道、侍の解説が分かりやすく親切。
◇  プロダクションノート・・・衣装や町のセットの話。
◇ Amazon: 「ラストサムライ」








*■■■ テルマ&ルイーズ ■■■ 監督:リドリー・スコット

女二人の逃亡ロードムービー。最初はヘマばかりやらかすユルいテルマが段々ルイーズを追い越し、途中からは対等に助け合いながら逃亡を続ける。どんどんエスカレートする事の次第と広がる女達のカタルシス、絡む警察との深刻な緊張感の対比が良い。

一面的な女達のカッコ良さより、状況のバランス完成度に目がいった。終わり方も良い。他に収まりの良いラストは無いように思う。途中出てきたブラッド・ピットが、そんな奴だと分かっていながらとってもチャーミング。テルマ役のスーザン・サランドンの足腰もすこぶるビューティフル。

◇ Amazon: 「テルマ&ルイーズ」








■■■ アニー・ホール ■■■ 監督:ウディ・アレン

こんな神経質なオッサンに始終横で屁理屈をこね続けられたら溜まらん。と思った(笑)。人嫌いだし、NYを出られないし、自分の彼女に教養を強要してくる癖に彼女の世界が広がりだすと慌てて括りに掛かるし、人の理屈にケチつけてばかりなのに自分は屁理屈コネだし。ちょっとした頭の良さを差し引いても、疲れる方が大きい(それも狙いなんだろうけど)。アニーの家族とアルヴィの家族の絡み、アルヴィの回想の中の自分の家族、LAから帰りの飛行機での会話、ウィットに富んでいて面白い処は色々あった。せめてアルヴィが語り手でなく登場人物の一人くらいであれば、あのキャラ面白かった、なんて思えたかも。主人公としてずっと喋られると、それだけでもうお腹一杯だ。

多分に“皮肉った自己晒し”の要素の強い映画だけれど、この人、なんかの雑誌で昔その年の“NYで一番セクシーな男”に選ばれたんじゃなかったっけ。んー、いくら久し振りに退屈を満たしてくれたとしても、こういうのを“セクシー”とは言わないよなあ。人の魅力的要素を全て“セクシー”の範疇に納めなくてはならないってのも、なんか窮屈な話だ。

◇ Amazon: 「アニー・ホール」








*■■■ 火星の人類学者 ■■■ オリヴァー・サックス ハヤカワ文庫

一人の脳神経科医による、様々な脳疾患により奇妙な生活を送る人々の観察。

人生の途中から目が見えるようになることがどんなに大変か、という話は聞き知っていたが、この本でも例が出ていた。五感は、まともに使えるようになる為にトレーニングが要る。私たちは嬰児の時から毎日欠かさずトレーニングを積み重ね、ようやく駆使出来るようになったのだが、そのことについては殆ど自覚せずに生きている。当たり前に出来ることに費やされた莫大なエネルギーに逆に思いを馳せると同時に、新たな感覚を人生の途中から得ることは、四肢や五感のひとつを失うのと同じくらい大変なことなのだ、と改めて感じ入った。多分、今の私が四肢と五感以上のものを手にしても、上手く扱えないで苦しむだけだろう。

末章に出てくる自閉症の女性は、以前自伝(「自閉症だったわたしへ」)を読んだことがあったので、偶然“その後”を知る機会が得られ、興味深かった。他人から見た彼女の実際というのがどういう感じなのか掴めなかった、という点も、本書である程度解消された。彼女は他人に気を遣ったり、他人の細やかな機微を読んだりすることが出来ない。雄大な景色を見ても、理屈や事実ではない部分で感じ入ることがない。だから彼女は人間の行動を学習し、共感出来ないまま、出来る範囲で合わせていく。学習の上に共感がなければ、“理解”はむづかしいだろう。自閉症でない人間同士でも、異文化間の交流であれば共感の部分が落ちる箇所はあるが、何から何まで取っ掛かりがない訳ではない。共感の薄い世界で人間と付き合っていくのは、長く疲れることに違いない、と思った。

これは、と思ったのが「トゥレット症候群の外科医」。中学の時通っていた塾に、衝動的に飛び跳ねながら授業をする講師が居た。何故こんな奇妙な人物を講師にしたのだろう、と訝しく思ったものだが、もしかすると彼はトゥレット症候群だったのかもしれない。

◇ Amazon: 「火星の人類学者」








*■■■ 解夏 ■■■ さだまさし 幻冬社文庫

良かった。前作の「精霊流し」よりずっと(思ったよりレベル到達が早いなあ)。中編が四編だが、無駄はかなり削がれているので退屈しない。なのに、やっぱり芯からの悪人が出てこない。・・・さだまさしはイイ人だ、うん。

最后に持ってきてあった、呆け老人を含む家族再構築の為に管理職を蹴る男の話が、やはり一番良かった。メンテナンス(維持)という仕事は、作り出す仕事に比べると、目立たず評価も低い。それが決定的に出来ない人が居て、他が駄目でもそれには長けている人が居る。出来ない人は、その重要さを忘れていることが多い。いづれにしても、家庭でも社会でも、メンテナンスに携わる人間は絶対不可欠だ。また、その立場にあるからこそ、その人がやらなくてはならないメンテナンスの種類もある。親とか。子供とか。

長引く不況も2000年を過ぎ、TVでも小説でも何かと家族再生の物語をよく見掛けるようになった。森永卓郎の年収300万円時代という言葉を思い出す。家庭や自我を省みなかった高度経済成長期の見直しというよりも、今日日単純に労力を投資した分の回収率が高いのは、金銭的なものより個人的な心の充足感、ということなんだろう。てことは、金銭が心の充足感に直結していると、無駄にツライ思いをするケースが多い、ということか。誰もが長者になれる訳でないからなあ。

◇ Amazon: 「解夏」








■■■ トルコ三代文明展 ■■■ @大阪歴史博物館

ヒッタイト帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国の文明展。とはいえヒッタイトとビザンチンの間にはヘレニズミックな展示物もあり、オスマンな展示物の中には中国や日本からの輸入物も入っている。アナトリア・トラキアという場所の時間軸に従って、かなり毛色の違う様々な遺物が見られる特別展だった。

まず目に留まったのが、「雄牛型儀礼容器」。首のうしろに縦穴が付いているのだが、その他の穴が鼻の二つの穴しかない。容器というからには入れ物なんだろう。で、その背中の縦穴の細さから、中身は流体なんだろう。荘厳な空気の中、真面目な面持ちでウシの鼻の穴から液体を注ぎ出すのか? ・・・ヒッタイト人の厳粛さにおける感覚はよく分からない。

その次に目に留まったのが、ローマ時代の「アルテミス・エフェシア像」。胸囲にはマンゴーのようなおっぱいが無数についている。一目で分かる豊穣の女神である。が、なんで“アルテミス”なんだろう? 確か神話に出てくるアルテミスといえば、弓矢が得意でおきゃん(死語)な小娘の筈。私の知る限りでは、このような乳お化けのイメージはない。で、調べてみると、この手の豊穣の女神というのは、ギリシア〜ローマ時代にいきなり生まれたものではなくて、もともと農耕時代(約9000〜8000年前)以前からあったイメージに色々重ね付けされ、農耕時代には「月の女神」「再生の女神」の性質を帯び、豊穣と破壊を司る存在として崇められていたものなのだとか。もとい豊穣の女神というのは、その時々によって姿や名前を変え、この頃ローマの属州だったアナトリアでは、アルテミスが豊穣の女神代表で、なおかつ大きな神殿が建て直される程メジャーな崇拝対象だった、ということらしい。ちなみにギリシア神話のアルテミスはまたローマ神話でのディアナでもある。双方月の女神。月は満ち欠け、つまり明と暗の両方の側面を持つ。だから豊穣や多産のみならず破壊をももたらす神として崇められたという(参照:このへんとかこのへんとかこのへんとかその他諸々)。ふーん。乳お化けの謎、解決。

時間軸上でも最后の方になるオスマン。この辺のお宝ぶりがハンパでない。こんなマンガみたいなお宝、初めて見た(笑)。宝石がゴロゴロしている。デカい。あまりのデカさに、宝石が宝石に見えないときたもんだ。ひとつダイヤがボコボコ付いているお宝があったのだが(図録に収録されていないぞ)、このダイヤがまた物凄いデカさで、カットも大雑把で、群がる人々は、「ダイヤに見えないね」「見えない見えない」「水晶?」「なんか却って有り難みがないっていうか」「ただのガラスに見える」と口走っていた。私もほぼ同意見である。ここいらの凄まじいまでの宝刀は、王(スルタン)が自分用に作らせたのではなく、近隣国(ペルシアとか)に送って、「どうだスゴイだろう、」と相手を威圧して戦争を回避する為に作らせたものなのだそうだ(その方が安くつくから、というのが理由)。ポスターにも使われているデカいエメラルド&時計付き(この時代、時計はお宝の部類だったんだろうな)の宝刀も、そういう戦意喪失贈答品目的で作られて、たまたま手元に残ったものなのだそうだ(プレゼントしようと思って訪ねていったら、あげようと思っていた王様が殺されていたので、持って帰ってきたらしい)。まあな。人間、モノを貰っちゃったら弱いもんな。モノスゴイ血税が使われているんだろうけど、同じ威圧でもテロという方策よりかはずっといい、と思った。

なんしか混んでいて参った。入館80分待ちの長蛇の列。風邪でバテている時だったので、死にそうだった。おまけにずっと喋っていたので、次の日から全く声が出なくなった。やっぱり体力の要ることは元気の有り余っている時に限る(懲)。めづらしく買ってみた図録には、歴史的解説も色々載っていた。一通り読んだけどまた忘れるだろう。いつかトルコを旅行する時に持っていくと楽しめるかも。








*■■■ ディープ・インパクト ■■■ 監督:ミミ・レダー

彗星地球衝突話。TVでやっているのを途中から見た。ヘンにヒロイックに煽ってなくて、そこそこ人を描いてあって、良かった。黒人大統領の、大言壮語を吐かず、言えることだけを言う、苦悩を押さえた誠意ある態度とか。彗星を爆破しにいって死者を出した上に失敗したチームが、やっぱりもう一度やってみるか?(=死を意味する)、みたいな話をし出した時の、無茶苦茶深刻でもなく、酔ってる空元気でもない、さりげない雰囲気とか(でも段々自覚して涙ぐんでくる人が居たり)。人が死ぬ瞬間や死体は殆ど描かれない。多分、現実的に他人が目の当たりにすることがないからなんだろう(他人が目の当たりにするそれに近いシーンなら出てくる)。細かな状況設定の上に、大袈裟すぎず、絵空事っぽくない演出が為されている。・・・これを撮った監督は、「インディペンデンス・デイ」を観て、違うでしょ?、と思ったんだろうな。

私は抽選や福引きは殆ど外れを引くタイプなので、大方誰かと山に登っているんだろうと思うけど、もしシェルター行きが当たったとしても、子供連れのお母さんや諸事情を抱えた人に正義感に駆られてうかつに権利を譲ってしまい、後で物凄く後悔して苦しみながら死んでいきそうな気がする。自分なりに納得できてたらいいんだけど、中途半端にヘタレというか(笑)。・・・びしっと生き延びたい。のち百年ほどクヨクヨしても。いや、出来ればそうクヨクヨしないで、前向きに力強く。潮が引いた後の、異臭漂う膨れ上がった病原菌の温床となった腐乱死体の山を乗り越えて(長;)(でもまづそれくらいは想像しとかないと)。

◇ Amazon: 「ディープ・インパクト」








*■■■ WATARIDORI ■■■ 監督:ジャック・ベラン

数々の渡り鳥を、鳥に混じって同じ目線で追い続けた、驚異的なドキュメンタリー映像(仏)。ガンに混じって、ある時は同じ目線で水面すれすれを飛び、ある時は高い崖脇を舞い上がる。時にはぐれ、重油に足を取られ、撃たれ、再会する。そして元居た場所に、戻ってくる。信じられないような映像である。CGは使用していない。定めた野鳥の群を調教するのではなく、卵の時から機材や人の声に馴れさせ、人が混じっても怯えず自然な行動を取れる集団を作り出し、超軽量航空機を駆使して、三年の歳月を費やして撮影したのだという。

これはもう、アヒル飼いとしても夢のような映像だ。アヒル(カモ類)とは長年付き合ってきているので、彼等の感情や気分や衝動(ボディランゲージや鳴き方)は、ニンゲンの発する感情と同じくらいダイレクトに実感できてしまう。つまり自分は、アヒル語は喋れないが(音声の方は少しだったら喋れるが、ボディランゲージは、身体的に発せられない)、アヒル語はかなり分かるニンゲンなのだ。そんな人間にとってみれば、これはもう心の底からガンになりきって飛べる映像である。映像はガンが主だが、ガンカモ類というだけあって、ボディランゲージは非常に似通っているんである。

ガンカモ類というのは、序列だのイジメだのもあるけれど、ニンゲンよりずっと仲間内の壁が薄い。仲間が怒れば自分も腹が立ってしまうし、自分が怖がれば仲間も急に不安感に襲われる。釣られ易くも感情の伝播が激しいのだ(そうやって群れで危険を回避して生きている)。要するに、一人は嫌でいつも一緒に居て欲しいし、他人と同じような行動を取りたいし、同じように感じ合いたい生き物なのだ。長期間ガンカモと過ごしたクルーは、甘えられるような人工的な間柄ではなかったにせよ、ガンカモ独特の濃密な共依存の世界にどっぷり浸かって結構ヤラレてしまったんじゃないのかな(ほらアレだ、米国のゲイが日本に来て、その集団行動振りに窮屈さを感じる以上に気遣いや近距離感の心地の良さにハマってしまう、みたいな)。馴らしても慣らさなくても、「火星の人類学者」に出てきた自閉症の研究者やムツゴロウさんじゃなくても、ヒトは誰でも時間をかけて一緒に過ごせば誰でもその動物の感覚に近づけるんじゃないか、と私は常々思っている。・・・これもまた、クルーによるメイキング話が聞きたかったなあ、と強く思った。多分、彼等の感覚は半分以上ガンカモになっているんじゃないか、と思って。きっと語り出すとアツイと思うんだな。

◇ Amazon: 「WATARIDORI」








*■■■ 美保の松原 ■■■ @静岡県清水市

ちびまる子ちゃんと清水エスパルスで有名な静岡県清水市の海岸。辺りは東海大学関連施設とサッカー関連施設が幅を利かせている。

昔から海水浴といえば若狭湾だったので、あまりまともに太平洋って見たことが無かったのだけれど、大人になって初めてじっくり見る機会を得、なんて日本海と違うんだろう、としみじみ思った。全然表情が違う。同じ本州の海とは思えない。すぱーん、と広がっていて、のほーっ・・・としている。水温ぬるそう。塩分薄そう。ってそんな訳はないんだろうけど。でも日本海の方が内容物が濃くて黒い感じがする。風もこんな茫洋とした風ではなくて、吹くときはもっと厳しくイレギュラーなイメージだ。ついでに何故かぜんぜん磯臭くなかった。やはり海の内容物がどこか違うのか。

・・・そんなこんなで、なかなか気に入ったのだった。海辺から内陸の御穂神社へと続いている「神の道」とか、天女の羽衣伝説の残る「羽衣の松」とかも有名らしい(万葉集にも詠まれているそうだし)。でもってこの浜も、本当は湾曲した先に富士山が見える筈なのだそうだ。ふーん。見えなくても結構良かったよ。出来ることならもうちょっと独人でぼーっとしていたかった。

近辺で静岡のおでん(甘い赤味噌で煮込んであって、それはそれで美味しかった)を食べて、スウィートスプリングというみかん(これはデコポンの方に軍配が上がるな)を買って、タクシーに乗る。「この辺の人達も、(ここの気候みたいに)割とのんびり穏やかなんですか」と聞くと、「ええまあそうですねぇ」という返事が返ってきた。・・・もしそうなら、いいことだ。

◇  美保の松原・・・浜の写真が見られるかも。








■■■ 伊豆・水津シーパラダイス ■■■

静かな内海の水族館。期待しないで行ってみたら、海獣いろいろ。小分けにされた海洋生物もたくさん。意外や楽しめるのだった。

ラッコは屋内水槽に居たのだが、浮いたままクルクル回りつつ、飼育員に貰った貝の剥き身を引きちぎっては食べていた。なんでも貝柱だけ食べて残りの部分は捨ててしまうのだそうだ(飽食;)。貝殻ごと渡すと、ガラス壁にガンガン打ちつけて割ってしまうので(アナーキー;)、貝殻ごとは渡さない。勿論(貝を割る為の)小石も危ないので渡さない。水底に落ちてしまった貝殻は、飼育員が潜って回収するのだが、それを見ていたラッコが自分も拾ってきては「はい、」とお兄さんに手渡しするようになったのだのだとか。それでまたご褒美にエサを貰っては食べ。・・・それ、モクモクファームのミニブタより確実に芸達者だぞ(・・・あそこのミニブタは一部ステージには立つのだが、激しくやる気のない駄目ブタ達なのだ)。

入り江の仕切に居た、何の変哲もないバンドウイルカ二頭。自分達の存在はニンゲンにとってまんざらではない、というのを知っており、人が通りがかるとエヘエヘという感じで寄ってきて、立ち泳ぎで顔を上げる。足を止めていろいろ話しかけると、体を斜めに傾け、片目で人を見上げ続ける。・・・可愛い(ほのぼの~*)。人が飽きてきて気が逸れ始めると、もういいか、と顔を上げるのをやめて体を休める。それなりにゲンキンである(笑)。いつか南カリフォルニア沖で船に乗っていた時も、野生のイルカに跳ねながら後を追われたのを思い出した。きっと生まれつきの“遊んでちゃん”なのだな、と思った。

狭いとか自然じゃないとか色々あるかもしれないけど、ニンゲンにちやほやと相手をして貰ったり、責任ある“お仕事”を与えられたり、またそれで褒められたり叱られたりして日々暮らすのも、結構馴れるとやりがいがあって楽しいんじゃないのかな、と思った。海獣って、どれもこれもある意味わんこみたいだし。

◇  伊豆・水津シーパラダイスHP・・・吉本の若手芸人が、かなり危うい“アシカ新喜劇”なるショーをやっていた。タクシーの運転手さんは「面白いでしょう?」と言っていたが、いやー・・・。まあ頑張ってくれ(汗)。








*■■■ あなたの脳にはクセがある ■■■ 養老孟司 中公文庫

脳的なもの:都会、大人、ジャーナリズム、清潔、統制。体的なもの:自然、田舎、子供、学生紛争、時に不清潔、非統制。前半は脳的なものと体的なものの例を挙げて、筆者独特の都市論・社会論が進んでいく。ある意味説得力があり面白かった。後半は割と聞いたことのあるような話で、そんなでもなかった。

筆者は、現代人は都会のシステムを作るが如く、自分の体も同様の手順で制御しようと考えている、と指摘する。まさしくそうだ。当たり前だ。少しでもコントロールできる術が分かっているなら利用しない手はない。抗酸化物質で体内酸化を食い止め、同時に老廃物の排出をよくする。筋肉を弛め、体液の循環をよくした上で、必要な栄養素を適量摂取する。適度に温める。冷やさない。負荷をかけ過ぎない。休める。実に脳的なアプローチだ。そこで思い出したのは「甲殻機動隊」という物語に出てくる、脳以外全てを機械化したサイボーグ達のことだった。彼等は、「脳」で以て全身の脳化を全うした姿をしている。サプリを飲む、という行為を、更に徹底して進化させた形を取っているのだ。体の動きは全て脳=意思によって制御可能。汚物も排出しなければ、腐る部位は何もない。壊れれば修理交換出来る。治らない、などということは生身の体と違って一切ない。生身の状態より機能を上げることすら出来る。彼等は都会に住み、私の知る限り主要人物には子供は居なかった。これまた徹底的な「自然」の排除である(子供は統制が効かないのだから)。体調を崩すたび、機械のように体をメンテナンスできたらいいのに、とよく思う。果たしてもし本当に、サイボーグのように脳の願うがまま制御も交換も出来る体になったなら、そこで失うものは何なのだろう。脳化、都会化、全ての徹底制御を試みた挙げ句、社会の様々な場面でこれだけガタが来ているのなら、きっと何か重大な精神的危機を迎えるのではないか。自分が求めている究極の状態が故に、その先が非常に気になる。

そういえば、登場人物の一人は体も脳も捨て、意識をプログラムに融合させてネットの向こう側へ行ってしまった。別の一人は生身の犬を飼い、自宅に置いて愛していた。犬は自然である。汚物を出す。世話が焼ける。メンテナンスも病気や怪我によっては時の運だ。行動も機械のようには統制できない。都会化の塊のような男が唯一大事に手元に置いたのが、自然物だった。そういう者が、体を脱ぎ捨てずに人間であり続けた。この矛盾と当然の道理。やはり脳化、都会化だけでは、人は人間である意義を見失ってしまうことをおのずと顕しているのだろうか。望んで合理化・機能化を押し進めているのに、何故どうしても精神的に自然を求めてしまうのだろう。

◇ Amazon: 「あなたの脳にはクセがある」








■■■ 大阪城梅園 ■■■

大阪城の足下に、梅園があるのだという。という訳で、誘われて寄ってみた。あるある。あたり一面に立ちこめる、よい匂い。こんなに大量の梅を一度に見たことがない。もう殆ど散っているものもあったが、本当に色んな種類の梅の木が植わっていた。斜め上に向かってしゅっしゅと枝が伸びたシャープな梅やら、短く節くれ立った枝に花が付いてぽやぽやしたのやら、濃いピンクやら淡いピンクやら白のやら。目にしてみると、確かに水墨画にはこういう梅も描かれているよなあ、と思い出す。家の庭には枝垂れ梅しかないので、普通の梅の絵を描きなさい、と言われると瞬時に思い出せない。

とてもいい天気で温かく、老人と小さな子供連れが多かった。日光を全身に浴びつつコンビニ弁当を食べる。お陰で大分体が温もった。帰りに通りがかった内堀では、ヒドリガモのオスメスとキンクロハジロのオスを見掛けた。キンクロハジロは水鳥図鑑でしか見たことがなく、初遭遇。ちょっとラッキー。

ここもまた、もう少しゆっくり出来たら良かったなあ、と。

◇大阪城梅園・・・梅の解説色々。米軍管理地だったとは。それにしても人面石って?








■■■ 人狼 ■■■ 原作・脚本:押井守 監督:沖浦啓之

昭和三十年代の紛争がベースとなった、架空の“特機隊”と“公安”による権力闘争の物語。ラストは始めから想像がつくが、途中明らかにされる事実で事の次第が二転三転する。その辺は、普通のサスペンス映画という感じ。カラクリ外の処に目を向けてみても、さして心に染みいるでもなく、詰まらない訳でもなく。悲惨な割に美しさのカケラがなかったせいかもしれない。

周囲の登場人物達の辛口描写は良いのだけれど、主人公の伏(ふせ)を押さえすぎの感。もう少し彼の人となりが見てとれるような演出をして欲しかった。また周囲は彼を人狼(ケモノ)だと言うけれど、最初も最後も彼自らの手で赤ずきんの女を殺した訳ではないし、もとい普通の人間のように目前の死がトラウマになっている。周囲の名も無き特機隊員達の方がよっぽどまっとうな人狼だったのでは、という気がする。彼が殺したのは敵対関係にある、しかも銃を向けてくるような、同性のみ。辺見は「あの女と俺のどこが違うんだ、お前だって人間の筈だろう」というけれど、女が殺せなかったのは、そりゃ普通にいたいけに見えたり異性だったり関係性があったりしたからでないの、と思う。伏は、多分これからも場合によっては人狼になりきれない日々が続くのではないか。下手したらベトナム帰りと同様の精神的悲劇に陥るかもしれない。「不夜城」のラストのように感情を抱く相手に自ら手をかけたとしても、伏のような人間が、そう一息に鋼の情緒安定性を手に入れられるとは思えないのだが。

地下水道の脇道から装甲を纏った伏が横に出てきた時、赤く光る暗視眼鏡が薄い残像の帯を引いたのが印象に残っている。多分殺された人間は、最后の記憶として強烈に脳裏に焼き付いただろう。

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*■■■ 下妻物語−ヤンキーちゃんとロリータちゃん ■■■ 嶽本野ばら 小学館文庫

笑った。嶽本野ばらにして耽美さ皆無のコメディ。大槻ケンヂに「丘の家のミッキー」を書かせたかのような味わい(ブラック;)。じきに古くなる小説だとは思う。でも消耗品としてのインパクトは永久保存品には出せない。

遺物のようなヤンキーが低脳にボケて、孤高のロリータが常識的に突っ込む。ヤンキーに疎い私はその描写の真偽のほどはよく分からないが、取り敢えず作者本人はヤンキーなんか大嫌いで思い切りバカにしていた筈である。それをここまでちまちまとよく調べ上げたものだ。自家中毒起こさなかったか。もとい、こんなにもどっぷりヤンキーカルチャーに付き合ってしまったら、うかつに愛が芽生えたんでないの、なんて。

最后は「放っときながら・認め合おうよ・異端」みたいなテーマが見え隠れする(いや、そんなことよりこの本は笑える部分の方がミソなんだけど)。最近ようやく一部では“放っとける”様にはなったけど、放っときっぱなしで交差することは永遠にない訳で。こういうのって散々語り尽くされているけど、まだ出てくるか。それが出来ないお国柄なのに。いや出来ないお国柄だからこそ、か。

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◇  映画 下妻物語・・・深田恭子主演。乙葉主演でも似合っただろうな。監督は「サッポロ黒ラベル」スローモーションの卓球篇を撮った人らしい。
◇  BABY, THE STARS SHINE BRIGHT・・・作中出てくるロリータなお洋服の店。めくるめくドーリィな世界。モノによってはズン胴を誤魔化せるデザインである処が主人公の敬愛するロココ調と大きく違う(笑)。確かにアツキオオニシ系(膝丈のPINK HOUSE in 80'sって感じ)。MILKやJane Marpleより古典的。ヴィヴィアンよりかなりロリ。








*■■■ 日本の色辞典 ■■■ 吉岡幸雄 紫紅社

オールカラー日本の伝統色。色の出し方(植物染色、顔料による染色)や歴史など、染織家の視点で丁寧に説明してあって面白い。

思いのほかカラフルかつ派手な色の数々に驚いた。何も和の色は海老茶や藍や紅ばかりではないのだ。青磁色のような淡い緑は、色留袖にも使われれば、春物の薄手スカートにも使われる。今様色や撫子色なんて、キティちゃん売り場に見える色彩だ。ましてや、同じ顔料がアフリカやヨーロッパでも伝統的に使われていたりする処を見ると、「“純粋な和風の色”とは、一体どういう色を指すのだろう?」という根本的な疑問に帰結する。

それでも、大手チェーン店の安価な呉服屋の店頭や、成人式時の町中を見渡せば、確かに和の冒涜としか思えないような色の選択に多々遭遇する。勿論その辺の悪印象にはデザインも大きく寄与している筈ではあるのだが、それにしたって素人目にも何故“いんちき和風”という印象が得られてしまうのだろうか。無意識の基準もまた、何に基づいているのかよく分からない。まあ意識される分には、「いんちき和風」というより、むしろ「趣味が悪い」とか「派手で下品なのと、華やかで品があるのとは違うぞ」とか、そういう感想になる訳なんだけれども。

気に入ったのは一位色。うっすら赤味がかった暖かみのあるサンドベージュだ。赤味を押さえた処で胡桃色もよい。一位のような色のカシミアセーターがあったらいいな、と思った。

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