B氏を見知ったのは、京都三条柳馬場のと或る会員制倶楽部である。歳の頃は三、四十であろうか。長身に口髭を生やし、糊の利いた白シャツに胡桃色のチョッキを着込み、いつも似た風な臙脂のアスコットを結んでいるのが常であった。その風貌もさることながら、氏のゆるりとした動作や、聞いたこともない名の大陸の茶と思しきを注文する様などが自然に私の目を引いた。

氏は玉突きやポーカーの類に興味はないらしかった。遊戯室から漏れ聞こえる微かな喧噪をよそに、いつもオーク張りの薄暗いサロンで外地の新聞を読んでいるか、図書閲覧室で外の緑を背に独人静かに洋書を繰っているかであった。煙草はやらない。酒も飲む風になかった。もっとも、彼を見掛けるのは決まって昼間であったので、定かではないのだが。

人々から漏れ聞く話を挙げてみれば、氏は大陸の生まれらしいとか、或いは先の戦時中すら京都を一歩も出たことがないのだとか、祖父君の代からラムプセェドの輸入をやっているのが借金で首が回らなくなっているとか、いやいや元より市内に数多の不動産を有し自適の暮らしをしているのであるとか、館には絶えず数人の食客が住み着いており細君がそのことを余り快く思っていないらしいとか、そうではなく彼は未だ以て独身でさらさら身を固めるつもりなぞなく、身の回りの世話は住み込みの女中がやっているのだ、とかいった具合で、様々な体がまことしやかに語られていた。要するに、結局は誰も本当の処がよく分からないのであった。私とても、直接の知り合いが居る訳でなく、氏とは目が合えば軽く会釈する程度だった。

それが最近、ふっつりとB氏を見掛けなくなった。暫く経って顔見知りの会員に問うてみたが、誰も消息を知らないと云う。いつか支配人にも尋ねてみたが、曖昧に言葉を濁されてしまった。或いは単に、彼もよく知らなかっただけなのかもしれない。

或る日私はふと思いついて、図書閲覧室の片隅にある、個人の抽出の並ぶ場処へ寄ってみた。この倶楽部はロッカァとは別に、些細な小間物を仕舞っておける抽出を造りつけている。鍵は付いているものの、紳士の集う倶楽部ゆえ、鼻から鍵を掛けない者も多い。私はB氏の姓を表のラベルに探し出し、それと思しき取っ手をそうっと引いてみた。果たして抽出はかすれた音を立て、静かに手前に引き出された。中には何やら雑多なものが入っていた。ペリカンの万年筆に白のインキ壺、トンボ鉛筆、フエキ糊、図書目録メモ、簡易写真機で撮られたと思しき写真が数葉、写真を留める三角コーナァ、それから、ラムプセェドの見本集と、黒い厚手の冊子だった。折しも図書閲覧室は、小雨降る日の昼間とあってか人気はなかった。・・・こういうのを「魔が差した」、と云うのであろう。私は暫し迷って辺りを見回し、結局その黒い厚い冊子の方を取り出すと、黙ってそっと自分の皮鞄に仕舞い込んだ。

その日の午后は高倉通りの銀行に寄った後、烏丸三条で用を足し、帰途についたのだが、実の処床に着くまでB氏の黒い冊子のことはすっかり忘れていた。気付いたのは夜半だ。私は寝床から起き出すと、隣の書斎の灯りをつけ、昼間持ち歩いていた鞄の中から例の物を取りだした。厚い表紙を開き、一枚頁を繰ると、そこにはこう綴られてあった。


「写眞誌」
心ニ停マリシ内外ノモノ。
上等下等ノ区別ナシ。


やはり氏の覚え書きのようなものであるらしい。私は椅子に腰を下ろすと、電燈を引き寄せ、静かに次の頁を繰った。








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