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ソシュールのパラドックス
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書評・『ソシュールのパラドックス』

―研究会「シグノ」会報(126号)から転載―

研究会「シグノ」会員 齊藤一誠

(付)ソシュールの言語観と和敬塾シンポジウムにおけるオギュスタン・ベルク氏の発言とに触発された、言語の「意味生成」に関する若干の考察                 

 相 原奈津江著『ソシュールのパラドックス』(京都、エディット・パルク、2005年)の主要部分は、かつて同じ著者が共訳した『フェルディナン・ド・ソ シュール一般言語学第三回講義』(同、2003年)をめぐる、相原氏自身と編集者との対談である。これは「『一般言語学第三回講義』を訳して」という題の もと、一年半にわたり出版社のホームページに掲示された連続対談が元になっており、今回の出版にあたって大幅に手が加えられた。
 しかし、本書にはもう一つ、「『日本語』を再審する」と題された文章が収められていて、これは、日本語教師である著者が、学校との対立から職を辞するに あたり百部を印刷して同僚に配布したという曰くつきの小冊子の再録。小文ながら切っ先の鋭い、日本語教育の現状に対する一教師渾身の異議申し立てである。
 著者とソシュールとの出会いは、どうもこの日本語教育をめぐる学校側との対立に起因しているようだ。それは、本書「あとがき」に記された「当時勤めていた 学校と意見が対立し、もう一度、言語を問い直そうとして出会ったのが、ソシュールでした」という述懐から察することができる。そして、そこまで知らされて みれば、なるほど、あの目を洗われるように軽やかな翻訳文体の『フェルディナン・ド・ソシュール一般言語学第三回講義』から聞こえてくる何か叫びを押し殺 したように切羽詰ったもの、あるいはその訳書をめぐって本書で展開される密度の高い対談の底で常に重たく唸っているものは、かの「『日本語』を再審する」 が発するドスの利いた(失礼!)“執拗低音”(丸山真男の用語)の、音なき緊迫の調べであったわけか、と合点がゆく。

 そのような事情を反映してであろう、著者によるソシュールの読みは、言語学の世界におけるこれまでのソシュール論議、すなわち『一般言語学講義』の”原 典”(バイイ、セシュエ版)批評とそこからの派生する“ほんとうのソシュール像”探究にかかわる研究史からは一旦離れて、むしろ「”日本語”とは何か」と いう、われわれ一般読者にとってより身につまされる問いと直に結びついている。相原氏にとってソシュールを読むことと「『日本語』を再審する」こととは不 可分であるようだ。その相即不離の関係が、対談においては、ソシュールの言葉の夥しい引用という形で現れる。すなわち、相原氏のあらゆる発言に絡めるよう にして第三回講義におけるソシュールの言葉が他ならぬ相原氏自身によって終始呼び出され、また逆に、相原氏の発言に迸る日本語教育への意義申し立ての数々 が呼び出されたソシュールの言葉によって穏やかに擁護されるのである。その結果、本書の読者は、緻密な対談を楽しみつつ、加えて当の対談者たちによって暇 なく引用されるソシュール自身の言葉にもたっぷりと触れることができる、という余禄に与るのであるが、これは、ソシュールの生の言葉に読者を誘おうとい う、対談者たちの啓蒙的な配慮の現われでもあっただろう。ともあれ、ソシュール思想への誘いと「日本語」の再審と、そのふたつの動機が、夥しいソシュール 言説の引用の陰で、対談の緊迫を持続させている。

「『日本語』を再審する」について■
 『フェルディナン・ド・ソシュール一般言語学第三回講義』をめぐる対談を主としつつもその全体を「『日本語』を再審する」の鋭い 光が貫いている、という本書の構成に従えば、書評にあたって、対談そのものよりもむしろ、補遺のように置かれた「『日本語』を再審する」の方に先ず触れて おくということが、ものの順序というものであろう。
 「『日本語』を再審する」において、著者は先ず「日本語」というものの自明性に大きな疑問符をつける。日本語教師が外国人生徒に「日本語」を教えると き、それも「正しい」「日本語」を教えよと学校から要請され、自らもそれに応えようとするとき、しかしその「正しさ」とは何か。学校が(そして、その背後 にある国家が)「正しい」と認定する「日本語」とは、一体どこにその「正しさ」の根拠があるのか。そしてそのような「正しい」「日本語」は、実際に日本語 話者の日常において生きて使われているものなのか・・・。このようにいささかの反省をしてみただけでも、「日本語」なるものの根拠はたちまち曖昧になる、 と著者は言う。
 そこから著者は「『日本語』とはそれを各地域で話す人々の言語ではなく、国家の、国家による、国家のための言語なのだろうか」(『ソシュールのパラドッ クス』212頁、以下同様)と問う。そして、イ・ヨンスク『「国語」という思想』(東京、岩波書店、1996年)を援用しつつ、国家主導で「国語」から 「日本語」が分離されてゆく過程、およびその中で両者がより一貫して「動脈と静脈のように相関し、拡大する大日本帝国に『民族の血液』を送り続けてきた」 (222頁)ことを明らかにする。また、その同じ歴史過程において「言文一致」が果たした役割を追い、殊にそこで書記法(エクリチュール)が話し言葉の実 態に優先されて、“人工言語”としての「標準語」、「『話すとおりに書く』ではなく「書くとおりに話す」架空の東京語が創りあげられた」(231頁)こと を指摘する。またそこで確立された「正しい発音」については、「意味作用と無関係に切り離された一つひとつの音が、文字と一対一に対応させられ、話し手の いないところでその『正しさ』が作成される。その異常さ」(237頁)と批判する。
 さらに著者は「文法」もまた「書く−読む」という場の中から登場する、という。だからこそ「話す主体の意識と関わりなく単位を区分し、それらを統一的に 組織化するのを可能にする」(245頁)のであり、「文法記述とは『話す−聞く』の行為からは、決して導き出せない作業である」(同)とも言う。その上で 「国文法を含まない国語学は存在しない。それは、書き言葉を持ち、辞書を作り出し、言語に輪郭を与え、他の言語との区別を確定し、国境による個別化を図ろ うとする欲望である」(同)と断言し、次のように結論する。
 「文法は書き言葉をもとにした、あくまで書き言葉での規範である。書き言葉は話し言葉に比べて規範的でありうる。しかし、規範ではありえない。なぜな ら、書き言葉もまた、書かれることによって生成し、変化するからだ。意味生成の現場で起こっているのは、規範のなぞりあいではなく、絶えざる解釈であり、 捉え直しの同一性なのだ。文法はつねに、話し言葉の後を足をひきずりながら追いかけているにすぎない。『語の意味とは言語内でのその慣用である』(『哲学 探究』)ために、アプリオリにその単位や意味があるのではない。それは話す主体−聞く主体の関係の中で生まれてくるものである。」(250頁)
 こういった主張は、たとえば小松英雄にみられる以下のような見解を想起させる。そして、響き合いつつ、日本語文法というものに対する再考を迫るもように思える。
 「端的に言うなら、現今の国文法は、和歌から帰納された文法を散文にも当てはめたものである。<三十一文字>の檻のなかに閉じ込められたことばの行動を もとにして、散文のなかの行動を説明しようとするのは本末転倒であるが、その矛盾はほとんど認識されていない。」(『日本語はなぜ変化するか』、東京、笠 間書院、一九九九年、二頁)「退屈で難解なのは学校の国文法であって、日本語によるコミュニケーションを可能にしている洗練された運用規則ではない。規範 文法から、言語の生きた姿は見えてこない。」(同、二五四頁)「日本語のすばらしい姿とは、動いている姿、働いている姿である。」(同、273頁)

 ところで、「文法」に対する意義申し立ての後、著者はさらに先に進んでいわゆる「主語」の問題を問う。オギュスタン・ベルクの「印欧諸語に関する限り− (中略)−主体=主語は、あらゆる文脈以前に、文脈を超えた所で、それ自体で存在し続けている」(『空間の日本文化』、東京、筑摩書房、1994年)とい う言説を引用して、日本語はそういった意味での「主語−述語」という形式を持たず、したがって日本語で「主語」がない文章においても、それは「主語が省略 されているのではなく、そういう文節化が不可能なのだ。『外国人』に教える場合、その概念が異なっている以上、主語−述語の形式で分節化することは、いら ない混乱をもたらすだけである」(256頁)と、ふたたび日本語教師として教室の現場に立ち返って主張している。
 そして最後に、いわゆる「文学史」が権力の側から文化を選別することにつながる危険、そしてその中で“認定”される「文学作品」にもまた同様の胡散臭さ がつきまとうことを指摘し、そういった既存の「文学」観を排して、むしろ「テクスト」としての作品に対峙すべきことを勧める。
 「『日本語』を再審する」は、ほぼ以上のような主張を持った刺激的な小文である。そして著者は、このような問題意識を抱えてソシュールに出会い、その第三 回講義を共訳し、加えてその翻訳について深い対談をした。それが、本書『ソシュールのパラドックス』の主要部分にあたる。いよいよそこに言及したいと思う のだが、その前に、念のため『一般言語学講義』というテクストをめぐるアカデミズムの顛末概要を、ここで簡単に思い起こしておこう。

『一般言語学講義』をめぐって■
 フェルディナン・ド・ソシュール(1857―1913)の『一般言語学講義』は、本人の手になる著作ではなく、1906年から 1911年にかけてジュネーブ大学で行なわれた3回にわたる講義を、ソシュールの死後、シャルル・バイイとアルベール・セシュエが聴講生たちのノートをも とにしつつ、しかしかなり大胆に再構成して、1916年に出版したものである。そして、こういった編集作業につきまとう講義"歪曲"の危険は編者たち自身 によってはじめから自覚されており、すでにその「まえがき」において自らの仕事を「再創造」と呼んでいた。
 やがて、1955年以降、相次いで発見された別資料を基としてロベール・ゴデルやルドルフ・エングラーらがバイイ、セシュエ版『一般言語学講義』との比 較・校合作業を詳細に進めた。そしてそれが、『一般言語学講義』本文に対する膨大な補註とソシュールに関する伝記、批判資料等を含む、トゥリオ・デ・マウ ロ『ソシュール一般言語学講義校註』(1967年)へとつながっていった。
 日本では、小林英夫が1926年にバイイ、セシュエ版を『言語学原論』として翻訳し、その「改訳新版」が1940年に刊行された。そしてその後、欧州に おけるデ・マウロまでの研究経過を瞥見しつつ、本文はそのままに、しかし訳注、索引などを充実させた「改称版」が『一般言語学講義』として1972年に出 版され、今日に至っている。
 また、欧州でのソシュール"原典"批判研究に触発されて、日本でも1980年代初頭から、丸山圭三郎およびその学弟にあたる前田英樹、立川健二といった 研究者がバイイ、セシュエ版『一般言語学講義』批判をよりラディカルに展開し、今日に至るまで"真のソシュール像"を追い求めつづけている。前田英樹は 『ソシュール講義録注解』(東京、法政大学出版局、1991年)にA・リードランジェによる第二回の講義録の序説部分を収め、『沈黙するソシュール』(東 京、書肆山田、1998年)ではソシュールの講演草稿を蒐集した。また、立川健二は『《力》の思想家ソシュール』(東京、書肆風の薔薇、1986年)にお いて、師にあたる丸山圭三郎の説にも批判を加えつつ、ソシュールの「通時態」の理論を、それまでの研究史から一歩抜きん出た地点で解き明かしている。
 一方、山内貴美夫はゴデル編纂による第二回講義聞書きを『言語学序説』(1971年)として訳出し、またトゥリオ・デ・マウロ校註版『ソシュール一般言語学講義校註』の翻訳を1976年に上梓した。

 1910年から翌年にかけての第三回講義については、エミール・コンスタンタンによるノートの存在が1958年に明らかになった。第三回講義はバイイ、セ シュエ版『一般言語学講義』においてもその骨格となったものだが、二人の編者たちは当時もちろんこのコンスタンタンのノートを閲覧していない。このノート の翻訳が、相原奈津江・秋津怜 共訳『一般言語学第三回講義』として発行されたのは2003年である。この「質量ともに傑出し、講義のほぼ全容を伝えている」(同書「訳者はじめに」) ノートの翻訳は、バイイ、セシュエ版構成との大きな違いと、その訳文に講義口調を模した文体が採られていることとが相俟って、きわめて斬新な印象を読者に 与えた。
 そして本書『ソシュールのパラドックス』には、この『一般言語学第三回講義』をめぐる訳者のひとり相原奈津江と編集者との集中的な対談(原題「『一般言 語学第三回講義』を訳して」)と、「日本語の再審」と題された相原による日本語教育の現状に対する異議申し立てとが合わせ収められている、ということは、 この書評の冒頭で述べたとおりである。

対談「『一般言語学第三回講義』を訳して」について■
 そこで、本書の主要部分をなす対談であるが、これは著者と編集者との間に交わされた密度の高い対話であり、そこには『一般言語学 第三回講義』からの引用がふんだんに鏤められている、ということは既に指摘したとおりである。ただ、そこにもう一言加えれば、本書においては、ソシュール の言葉の引用に加え、しばしばヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』や『哲学探究』の引用までもが裁ち入れられていて、これは対談相手である編集者の発 言の中に現れる。したがって、ここではあたかも四人の発言者が座談をしているような形になって、読者は、いわば腹話術師としての著者と編集者が、それぞれ ソシュールとヴィトゲンシュタインの人形を携えて、あたかも四人による対談をしているかのような錯覚にしばしばとらわれるだろう。
 そして、その発言と引用とで織り成された緻密な対談を通じて、ソシュールやヴィトゲンシュタインの言葉に裏打ちされながら明らかにされるのは、日本語教 室で教えられる"日本語"なるもののあやふやさ、または言語の不確かさであり、エクリチュールによる言語の歪曲の事実であり、使用の場面が言語の発現その ものであるという認識、そして、政治が画定しない限り言語にとって"国語"はありえないということである。

 このあたりは、先にみたように、「『日本語』を再審する」の問題意識が基調となっており、そこへ『フェルディナン・ド・ソシュール一般言語核第三回講義』 からソシュール自身の言葉が丁寧に拾い集められ、自説と絡めて提示される。しかし、だからといって、それがいわゆる牽強付会に陥っているというわけではな い。むしろ、そういった我田引水とは全く無縁の境地で、対談者たちはソシュールの思索にきわめて素直に向き合っている。
 ただ、著者の切実な問題意識が、その切実さゆえに、ソシュールの言説をありありとしたその問題意識のカタチに鋭く切りとってしまうことはある。しかし、 それは決して否定されるべきことではなく、その切実な切り取り作業によって、そのカタチにおいてこそ明らかになるソシュールの思考の、いわば本来の生命を 息づかせていることも事実なのである。
 その意味で、この対談は、著者と編集者が単にその意見を応酬させるというものではなく、むしろ対談の体裁を模した『フェルディナン・ド・ソシュール一般 言語核第三回講義』の詳細な、しかも“日本語”についての問題意識を貫き通した解説というべきだろう。そして、対談者たちは常に読者をソシュールの言葉そ のものへと誘う。欄外に詳細に付された、対談に登場するキーワードごとの『第三回講義』本文参照ページ、その工夫も、そういった本書の性格を強調してい る。
 そして対談は、「『日本語』を再審する」における主張の線に沿うかたちで、ソシュールの思想の要諦をつぎつぎと抽き出してゆく。すなわち、

 ・ 言語は体系だがそれは規範文法のようなものではない。
 ・ 語と言語単位とは別だ。
 ・ 言語単位は意味作用と表裏一体であり、言語は発せられた音ではなく聴かれた音によって   機能するから、聴覚イメージが言語単位であり、それが言語学的実在の一切だ。
 ・ 定義ではなく判断が意思疎通を可能にするのであって、だからこそ音と結びつかない諸表   記が可能。

 ・ いわゆる"正書法"が書き記された言語を言語そのものと錯覚させる。
 ・ そういったエクリチュールが"方言"を生み、そのような実在しない"正しさ"を求めるという   ことが言語の認識を誤らせる。
 ・ 言語(ラング)の機構は同一性と差異の周辺を巡り続けるのであり、その際、見る言語は   言語そのものではあり得ない。
 ・ 比較と対立から生まれる"価値"が言語作用を保証し、促し、実現する。
 ・ 意味生成に関しては空間的には連辞的配列、潜在的には連合的配列が機能的に作用する    が、言語記号の恣意性は、定着した使用“習慣”によって、必ずしも均一ではない。
 ・ だからこそ、言語は動的に変化する。
 ・ 言語(ラング)においてはポジティブな観念もなければ、ポジティブな音もなく、ただそ   れぞれにおける差異が両者をとりもったとき、その事実によって観念と音の結びつきがポ   ジティブ性を生じる。
 ・ そのとき、観念と音はそれぞれ単なる片割れにすぎない。
 ・ したがって、相対的恣意性が言語の現実であり、差異こそが言語(ラング)のすべてであ   る。等々。

 もち ろん、こういった要諦をいきなり突きつけられれば、ソシュールの思索に馴染みのない一般的な読者は、かえって混乱し、辟易し、拒絶反応もまた大きくなるだ ろう。しかし、心配は無用である。本書の対談がその全てを解き明かすのだから。本書の精緻な解説的対談によって、これまでソシュールとは無縁であった読者 も、ソシュール自身の言説をたっぷりと聴きつつ、その革命的な言語観に直接触れることができる。しかも、日本語教室の現場で著者が煩悶しつつ獲得した具体 的な言語学的経験がそれと切り結ぶから、対談を読み進むわれわれは、真に革命的なソシュールの言語観に、自らの日常の言語生活の実態を踏まえながら、接近 してゆくことができる。世に多い学説祖述的なソシュール本と本書とが明確な一線を画す所以である。

(2005年9月16日)

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