最初に戻る

項 目
(1)居合について

居合について

(2)口伝のはなし

首級のあげ方
八幡座のこと
誰何の仕方
刀の差し方
目付の事
とおやまの目付の事のつづき
「中入りといふ事」と「見越三術といふ事」
着物の仕立て方の事
刀礼の時の下緒捌きのこと

項 目

(1)居合について

項目へ戻る

 居合には大きく分けて二つの伝統があると思います。一つは武芸としての居合で、もう一つは所謂芸能としての居合。勿論どちらが上とか下とかではなく、ともに日本の文化が生んだ遺産であるとわたくしは思っております。
 『蝉丸神社文書』を見ると江戸時代には大道芸としての、「見せる居合」というのが存在していたことが分かります。今日あまり武芸と縁のない方が「居合」というと時代劇でみる「蝦蟇の油売り」が見せる大道芸としての居合をイメージされるのではないでしょうか。又江戸時代には「居合踊り」などというものもあったようです。

 「口伝のはなし」の所でも述べていますが、少なくとも英信流山内派に限って言えば居合は時々耳にする「不意に敵に襲われたときに身を守る術」というような、いわば日本刀を使った護身術ではなく、平時においても、又戦場においても用いられる剣術です。このことは多分他の流派もそうではないでしょうか。享保二年(1717)に刊行された『武備和訓』には居合について次のような記述があります。

 居合は、習ふ事尤剣術より先にすべし、是則剣術と一術なるべきを、別て教を異にする事心得がたし、剣術の惣躰、居合を以て本とし、起合(たちあい)を以て末とすべし、必本をしらずしては、末治まるべからず―略―能居合の道理と、孫武の兵法と、大武小武符合する事あり―略―武人刀剱の藝を鍛錬せむとおもはゞ、先づ居合の事理を致(きはめ)て其後剱術を習ふべし

口語訳

 居合は剣術より先に学ぶべきである。というのは居合と剣術というのは本当は一つのものであるはずなのに、別の道として教えるのは得心のいかないことだ。剣術というのは居合をもととし、立合の稽古を末とすべきものである。根本をしらなくてはその末のことがわかるはずがない。―略―居合の道理と孫子の兵法は一致することが多い。―略―武士たるもの、刀剣の術を鍛錬しようと思うのであれば、まず居合の道理をきわめて、それから剣術を習うべきである。

   ここに見る通り少なくとも、享保という八代公方様(吉宗公)の御治世であり、非常に武道がさかんであった時代を生きた片島武矩という武士は居合が剣の基本であり、木刀や竹刀を使っての立ち合いの稽古はその末であると考えていたようです。又彼は「此藝剱術の發端にて、彼と同じく優劣を論ずべからざれ」とも述べているように、居合を剣術の発端・本と考えてはいるけれどもだからといって他の剣術と居合を比較してどちらが上の下のと優劣を論じているわけではありません。従ってわたくしもこの文を引用して居合と剣術の優劣云々を言おうと言う気は更々なく、唯言いたかったのは居合は単なる日本刀を使った護身術ではなく剣術であって、平時・戦時ともに視野にいれた武術であるということだけです。又、『故事類苑』からの孫引きになりますが『けん(補助水準5807)園秘録』に

 昔ノ武士ハ剱術ナク、居合ヲ専ニ習タリ、甲冑ノ上ニテハ刀ノ寸ノ延タルハ抜カヌルモノナリ―略―廻リナガラ刀ヲ抜テ、彼ノ若黨ヲ抜打ニ胴切ニシラレタルト、戦場ニテハ如此ワザモアレバ、昔武士ノ居合ヲ専トシタルハ、尤ノコト也

口語訳

昔の武士には剣術というものがなく、もっぱら居合を習っていた。甲冑の上に指すと寸ののびた長い刀はなかなか抜けないものである。―略―刀を回りながら抜いてその若党を抜き打ちに胴を斬ったと言うが、戦場ではこのような(抜き打ちで人を倒すような)技も時として必要なので、昔の武士が居合をもっぱら学んだというのはもっともなことである。

  と見えており、是なども居合が日本刀を使った護身術ではなく、戦場の剣法であると武士達に考えられていた例として上げることが出来ようかと思います。  猶、大道芸としての居合と制定居合について述べておきますと、京都には「長田塾」というのがあり様々な大道芸の保存をされていると聞きますのであるいは大道芸としての居合も此方では保存されているのかもしれませんがわたくしは大道芸としての居合よりも武芸としての居合に興味がありますので其方だけ稽古してまいりました。流派は「無双直伝英信流山内派」と呼ばれています。
 このほかに剣道連盟の方で「制定居合」といって昭和47年でしたでしょうか、新たに作られて今日では盛んに競技や昇段試験に使われているものがありますがわたくしはこちらにも興味がありません。むしろ興味があるのは朱子学でいう「居敬」、自分の内面を見つめることであり、無意識の領域にある、自分が自覚していない自分の色々な面を見いだすことですので、誰かに誉めて頂いたり、段位を取得することには興味がありません。むしろ居合の稽古の経験を踏まえて朱子学を勉強したりユング心理学の本を読んだりすることに興味がありますので、それには制定居合よりも今日では「古流」と言われる自分の流派が適していると思います。勿論、古流に比べて大道芸としての居合や制定居合が劣ると考えている訳ではありません。特に大道芸としての居合はまがう事なき日本の伝統芸能であり末永く後々の世まで伝えていって欲しいとおもいますし、制定居合も武士も町人もない、まして芸能者だからといって差別されることのない時代、戦後の民主主義の中で生まれてきた模擬刀や日本刀を使った新しい競技・スポーツとして広く愛好者が増えて盛んになることは大変結構だと思います。ときどき、「制定居合に興味がない」というと「制定居合を否定されるのですか」と言われる方がありますけれどそうではありません。たとえばわたくしはマックスやスピードの曲は聴きませんし、ワーグナーにも興味が有りません。
 しかし、だからといってマックスやスピードの曲、或いは其のファンを否定するわけではありません。マックスだろうがスピードだろうがワーグナーだろうが全く興味がないということだけであり、それがマックス否定につながるとはどなたも思われないと思います。

 又、時々「試し斬り」について聞かれることが有りますが、英信流山内派に限って申せばあまり、「試し斬り」という事を好みません。

項目へ戻る

(2)口伝の話

 山内派には戦場の作法についても幾つかの口伝があり、結構面白い話なので御紹介致したいと存じます。居合というと刀を使った護身術のようにのみ考える方も多いようですが、少なくとも英信流に関してはこのような口伝があり、又「軍場の剣」などというそのものズバリの業も伝えられており、抜き合わせてからの業もあったり槍や薙刀への対処方法も伝えられているなど護身術に終始しているわけではありません。

首級のあげ方

項目へ戻る

 戦場で敵の名だたる武者や大将の首を上げるのは武士の名誉ですが、功を焦って拾い首をしてくる者もあり、何かの誤解で折角討ち取った首を「拾い首」と勘違いされぬとも限りません。そこで英信流には首級のあげ方に口伝があります。

 敵を倒したら脇差を首の真ん中に差し込み、柄を足でけって刃を半回転させ、首を半分切ります。それから首を抱え上げ、残りを脇差で掻ききります。そうすると首を二太刀で落とした跡が残り、偶然、自分、あるいは誰かの刀や長刀などが敵の首に当たってその辺に転がっていたものを拾ってきたのではなく、自分がちゃんと組討ちをしてあげた首だと言うことが認めてもらえるというのです。こうして上げた首は首帳に記して貰ってはじめて手柄となるわけですが、この首帳の付け方にも故実があります。『備前老人物語』に

 首帳をつくる時、一番首持ち来るとも二番の首を見てのち一番首を付く。さて、二番三ばんと付くべし。四番目よりは番付あるべからず。首をうちし人の名の下には尉の字をかくべし。首の名には尉の字かくべからず。これ故実なり。

 

口語訳

首帳を付けるときは一番首を持ってきても(すぐには首帳に記入せず)二番の首をみてから一番首を記入する。それから二番三番とつける。四番目からは番号をつけない。その首を討ち取った人の名前の下には「尉」の字を書くこと。討ち取られた首の下には「尉」の字を付けてはいけない。

  とあり、首は一番首が届いたからと言って直ぐに首帳に記載せず、二番首を見てから記帳すること、そのさい首を上げた人の名前の下に「尉」の字をつけるが、首の名前のしたには「尉」の字をつけることはしないというのです。猶英信流では、首を落とすとき太刀・刀を首に打ちつけて落とすと言うことは決してしません。それは二太刀云々と言うこともありますが、「倒れている相手は斬らない」というのが英信流の約束事だからです。と言うのは首を取る時に限らず、倒れている相手に斬りつけると大事な切っ先を欠いたり、折ったりする危険性が高いからです。

八幡座のこと

項目へ戻る

 大江正路先生から直接教えを受けた方々の中で最近までご存命であった宇野又二先生のお話に「相手の八幡座が見えたら勝ち」というのが有ります。八幡座というのは兜のてっぺんにあり、これが見えると言うことは相手の腰が引けてしまっているということですから、此方の勝ちということだそうです。『備前老人物語』にも

 物前にて甲の立てものうつぶき、差しものもうつぶきたるは、其の備え黒く見ゆるなり。是を勝色という。又まばらになりて甲の内見ゆるは、其の備え白くみゆるなり。是を負色という、心得べし物にあいたる人のいいしなり。

と見えており、ここでは敵の甲の立て物や指物がうつむいていたら勝ちといっておりますが、要するに同じ事だと思います。ただ『備前老人物語』のほうは敵全体の事を遠くから見たときのことをいっており、英信流の方は甲の八幡座が見えるくらいの距離、即ち大分近くで、しかも敵全体ではなく個々の敵の事を言ってるわけですが、一人の敵であれ、敵全体であれ、腰が引けている相手には既に勝っているということです。それから、この「勝色」というのは武士の社会では古くから広く知られた言葉のようで、『太平記』巻第七「千劒破城軍事」に長崎九郎左衛門師宗が連歌の発句に「サキ懸テカツ色ミセヨ山櫻」としたことが見えており、能の『田村』に「弓馬の道もさきかけんと、かつ色見せたる梅が枝の」とあり『箙』には「かつ色見する梅が枝一花開けては天下の春よと、軍の門出を祝ふ心の花もさきかけぬ」とあります。

    

八幡座−『日本の武具・甲冑事典』(柏書房・笹間良彦)より転載

 向かって左の図の兜のてっぺんの所を八幡座という。まだ球形の鉄板を作る技術がなかった頃、鉄板を何枚か矧ぎ合わせて兜の鉢を作ったので自然にてっぺんに穴ができた。ここは神が宿る場所と考えられていたので、後に技術が進歩して鉢のてっぺんに穴が無くなってからも形式的にわざわざ穴を開けたものがあり、右の図はその例である。

 又余談になりますけれど、兜の立て物というと『武辺咄聞書』に

 近国の大名より使者あり―略―是は冑を一刎三斎の物数寄にて仕立度との使也三斎注文を書せ被遣に立物水牛の角下地は桐の木と書付有之使者申候は主人入念候仁にて候立物の下地桐の木と御座候物に当り折れ候所承届申聞せ度と有三斎気色変りケ様の大立物は折れ安きかよし働く時物に懸り外れ兼候時折たるかよしとの挨拶也。使者承り折れ申候ては後日に如何と存候と申す三斎あさ笑ひ給ひ兵の戦場に出るは生て帰らんと不思法也立物折ては後日の如何との思案ならは二つとなき命の思案は如何被存候そ働て立物折れたらは猶見事可成たとへ折たり共後日に何にても可立命か折たらは何とかせられん二つなき命を捨て働く上は立物の気遣は無用也唯軽きを本にして能からんと被申其座に居たる人後に物語せしと也

口語訳

近くの大名より使者があった。―略―それは冑をひとつ三斎の意匠で作りたいとの使いであった。三斎がデザインを書かせてあたえたところ、たてものの水牛の角、下地は桐の木とあるので、使いの者は「私の主人は非常に念の入った人なので、たてものの下地が桐とあり、これでは何かにあたったときに折れてしまうと思うのですが、その辺の訳をお聞かせ願い、主人に説明致したく存じます」と言ったので、三斎は顔色を変え、「こういう大立物は折れやすい方が良いのだ。激しく戦うとき何かに引っかかってはずれにくい時はいっそ折れた方がよいのだ」というとその使者は「壊れてしまったら後日の始末が・・・」というと三斎はあざ笑って、「武士は一度戦場に向かうとき生きて帰ろうとはおもわぬものだ。(だから壊れた冑の立物の思案などする必要はない)それなら(冑がひっかかってもたもたしているうちにやられてしまったら)二つとない命はどうするのだ。大体、立物が折れるほどに激しく戦ったならいっそう見事である。立物など壊れたってまた後日、なにででも作れば良いではないか。武士は二つとない命を捨てて戦場で働く以上、立物が壊れたらどうしようなどという心配は無用のことだ。ただ(働きやすいよう)軽く作るのがよい、と言われたとその場にいた人が後日ほかの人に語ったということだ。

という話が見えています。京都近くの大名が細川三斎に使いをやって兜のデザインを相談したところ、水牛の角の立物で下地は桐の木、と言われたので、使いの者が何故折れやすい桐の木かと尋ねたところ、「何かに引っかかって外れなくなったとき折れた方がよい、立物より命の方が大事である。」との返事。「兜の立物」ということでこの話をふと思い出しました。その他にも面白い話があるのですけどあまり長くなりますのでこれだけにしておきます。

誰何の仕方

項目へ戻る

 戦場で陣を張っているとき、敵が紛れ込んできたりします。旧軍では怪しい人影を見つけたら「誰か」と三度問いただして返答が無いときは発砲する事になっていたとお年寄りから伺ったことがあり、「旧軍は親切だなぁ」と思ったことがあります。だって、三度も声をかけてくれるのですから。わたくしどもの口伝では一声しかかけません。と、もうしましてもかけ方が一寸ひねって有りますけれど。

 口伝では、怪しき者には我が名を問いかけよ、といいます。つまりわたくしが仮に、山田太郎だったとして、怪しい者を見かけたら「山田太郎殿か?」と問いかけるのです。これが味方だったら「いや、海野次郎でござる。」などと自分の名を名乗るのですが、もし潜入してきた敵だったら−しめしめ、どうやら味方と間違えているな、よしこのまま押し通そう−と考え「如何にも、山田太郎で御座る」などなりすまそうとするはずです。ですから、怪しい相手には自分の名前で呼びかけ、その名の人物に相手がなりすまそうとしたら敵ですから斬って捨てるということになっています。

刀の差し方

項目へ戻る

 角帯を三重に巻きつけ、外から数えて1枚目に脇差をさし、2枚目に大刀をさします。他の御流儀の中にはこれが逆の御流儀もあるそうです。どちらが良いと言うことではなく、刀の指しようなどというのは御流儀やその御家中の家風によっても違いますのでとやかく言うことでは有りません。因みに鍋島家では落とし差しにするのが御家風と『葉隠』にでています。

 さて、大小を帯びると概ね大刀の柄頭は12時方向を向き、脇差の柄頭は2〜3時の方向を向くことになり、そうすると大小の鍔が重なるなど不都合がなく、いざというときに刀が抜きやすくなっています。しかし、この「いざ」というときに実は口伝があり、いざというときに、右手で大刀の柄頭、左手で小刀の柄頭を握り、ぐるりとひねるようにして脇差を真っ直ぐに立てて左の脇の下に持ってきます。そうすると、もし脇差が邪魔に感じられていたとしても刀を抜くときには全く気にならなくなります。このやりかたを「さしちがへ」と言っております。このさしちがえをすると先程述べたように脇差は左脇の下に来ており、大刀はいつも御稽古をしている鍔が臍の前、という位置に来ております。勿論不意に襲われたときはこんな事をしている暇はありませんが、何事か起こって身拵えをする時間があったときなどはこれも覚えておけば便利だったと思います。確かに「居合根元之巻」では腰刀が三尺三寸、脇差が九寸五分と見えておりますが、江戸時代、日常国元でなら兎も角、藩候のお供で千代田のお城に上がるとか、あるいは出仕するとき、祝儀・不祝儀のときは基本的に「献上拵」・「裃差」という様式があり、いくら小脇差や短刀が好みであっても格式は守らなくてはなりません。又、戦場でも予備の刀のつもりで大脇差や刀を差し添えることはいくらもあることですから、ときに脇差・差し添えが邪魔に感じられるときもままあろうかと思います。そういうときはこの「さしちがへ」の口伝が役に立つと思います。

 そう言えば『雑兵物語』に

 お歴々の侍衆は具足の上刀脇差をさしなさるが、それは小脇差也腰當を以て刀を引付めさるゝ

 とあるように足軽と違って武士は甲冑の上から大小を帯びます。このとき差し違えをすると丁度「小脇差―略―を以て刀を引付け」た状態になります。

『室町物語』・東洋文庫−底本は宝永三年(1703)刊−より転載

−図の上部、川の側の二人、図の下、後ろからの敵を振り向きざまに抜き打ちにしようとしている男は「さしちがえ」をしている。−

項目へ戻る

目付のこと

 先日、具足の付け方や目付の事について載せて欲しいというメールを頂きました。具足の付け方となりますと大分テーマからも遠くなりますし、むしろお近くの図書館で『図録 日本の甲冑・武具事典』をご覧になったほうがわかりやすいと思います。この本は本当に名著であると思いますので。
 さて、目付のことですけれど、「遠山の目付」というのがありますね。よく「えんざんのめつけ」という方がありますが、他流・他派ではそう読むのでしょうか、山内派では「とおやまのめつけ」と読んでおります。例えば謡曲『草紙洗小町』でも「霞たてば とほやまになる あさぼらけ」とあり、「遠山」を「えんざん」とは言いません。「めつけ」が訓読みですから「遠山」も訓読みの「とおやま」で読むのがすっきりし、「えんざんのめつけ」では所謂「重箱読み」であまりすっきりしないのですけれど他流・他派のことはわかりませんので、きっと何か由緒・由来があるのであろうと思います。たしか、柳生流では「とおやまのめつけ」と言っておられたように思いますが・・・・。  

 さて、山内派の「とおやまのめつけ」について申せば口伝は二つあります。先日、師がこのページを久しぶりに見て「極意、だだもれやね」とのことで、別に悪いということではなかったのですが、奥の方は今回ちょっと遠慮して一つだけ、お話したいと思います。 
 山内派でいう「遠山」とは一つには眉間の事です。武道というのは中心と中心の取り合いですから相手の中心を常にとらえておくことが大切です。武田流軍学のバイブルともいうべき『甲陽軍鑑』では、戦場においては敵の冑の吹き返し(冑の左右に付いている耳のような金具)や背旗を見よ、と言っております。それは別にそこを見ることが大事なのではなく、吹き返しの両方を見ていれば自然と相手の中心を捉えていますし、背旗は背骨と平行に立っているのですからまさに中心ですね。  これは、一対一の時の目付ですけれど「とおやまのめつけ」にはそれ以外の場合に関する口伝もありなかなか面白いのですけれど、今日はこの辺にしておきたいと思います。

項目へ戻る

遠山の目付のことのつづき

 以前、ある方から「古流は背中まで刀を振りかぶるのが本当か?、それとも床と平行とも聞くがこれが本当か?」と聞かれた事があります。そう聞かれても「さぁ・・・」としかお答えのしようがありませんでした。わたくしはあらゆる古流を知っているわけでは有りませんので・・・・。ただその時申し上げたのは、山内派に関しては「どっちでも良いんです」ということ。
 無責任なようですけれど本当の事です。最初居合を習うとき左手を使って大きく打ち下ろすと言うことが大切であると習います。その為には刀の峯が背中にくっつくところまで振りかぶって打ち下ろしをするというのが良い稽古方法です。思い切ってお尻に刀の峯がぽ〜んと当たるところまで振りかぶって見て下さい。お尻というのは右と左に分かれていますけれど、どちらに当たりましたか?右に当たったら右手が勝っている、即ち右手で振りかぶって、右手で打ち下ろしていると言うことです。と、そんな風に習いました。それが、お稽古が進み奥居合になりますと、そういう初心のころと違い、相手の数が複数になり、素早い対応が求められますから敵を意識して稽古していれば自然に概ね床と平行位になって来ます。ですから奥居合や番外までお稽古した人はそう言った複数相手の素早い打ち下ろしが身に付いているので例え正座の部を抜いても概ね床と平行位に振りかぶることが多くなります。まぁ人それぞれ体型も使っている刀の反も違っていますからそんな計ったようには行きませんけれど・・・・。
 さて、余計なおしゃべりをしてしまいましたが、「奥居合では複数の相手」ということを言いたかったのです。相手が一人の時は目の前の相手の中心を見ていればいいのですけれど、相手が複数いるときはそれだけでは不十分です。自分の視野の中にあるもの全て、そこで起こる変化の全てを見ているということが必要で、例えば、目の前の相手の兜の釘抜きの前立をみていると同時に左の方の遠くから騎馬武者が走ってくるのも右前に大きな石が転がっているのも全部見ているということです。
 そんな器用なことが・・・、と思う方もあるかも知れません。その時は車の免許を取ったときと今とを比べて欲しいのです。教習所でどう言われようと最初の内は目の前の車、信号位をみるのが精一杯だったでしょう。ところが今では目の前は勿論、対向車線の車の動き、横を走るタクシーやバイクの動き、左右の歩道の歩行者の動き・・・、みんな見ているでしょう、前を向いたままで。これもまた「とおやまのめつけ」です。正座の部、立膝の部を稽古して、山内派はこの後で諸手・片手早抜を稽古して、で、奥居合へと稽古を進めていきます。正座の部や立膝の部で「とおやまのめつけ」を意識して稽古し、それが意識しないでも出来るようになっていると奥居合の稽古に入る頃には全体を見る「とおやまのめつけ」が出来る、もしくはお稽古できるようになっている訳ですね。

 聞いてみたら「な〜んだ」というような話だったと思いますけれど、お聞きになりたいという方があったので載せてみました。最近リンクを張っていただいたお陰で、今まで一日に二件あれば多い方だったアクセスが随分増えました。こんな思いつきみたいな書き方のHPでなんだか申し訳ないように存じます。

項目へ戻る

  

「中入りといふ事」と「見越三術といふ事」

 『明了洪範』續編八巻に「中入りといふ事」と「見越三術といふ事」という話があり、大変面白いので、雑談のところで紹介しようかなぁと思ったのですが、少なくとも英信流山内派で伝書を受け、口伝もきちんと聞いておられる方にはこの「見越三術といふ事」は大変興味深いはずですし、「中入といふ事」も「見越三術といふ事」と絡ませて読むと面白いので、並べて居合のところに載せることとしました。勿論、他の古武道をなさる方にも結構面白いと思いますし、そうでない方々からご覧になっても決して退屈な話ではないと思います。

   中入といふ事

中入と申は敵の油斷を窺ひ申手段と相聞へ候兵法には敵の油斷を討んと心得 候事は嫌ひ申候敵の油斷を存じ押寄候ても敵油斷せざれば味方負申候良將の敵 を討には必ず敵の備を此方より油斷をさせて勝安き様に致して勝を敵を仕ふと も申又虚實は我にあり奇正は敵にありなど習申候

   「中入」というのは敵の油断を狙う手段と聞いている。兵法では敵の油断を 突こういう考えは嫌うことである。(というのは)敵が油断していると思っ て攻めかかってみても敵が油断していなければ味方は負けてしまう(からで ある)。良い大将が敵を討つときは必ず敵の備えを此方から(働きかけて) 油断させて、(此方が)勝ちやすいようにして勝つ。(これを)「敵を仕ふ /てきをつかう」とも言い、又「虚實は我にあり奇正は敵にあり/きょじつ はわれにありきせいはてきにあり」などとも言い習わしている。

 見越三術といふ事

 敵人數を御後へ廻すべしとは兼て御存の事と存られ候其故は小牧御着陣の日 より小牧は地形高くして風烈し若御旗抔風の吹折候事有ては然べからず候間 旗をば飾るなと仰られて御旗圓居をも飾らせられずと承り及び候此事を考へ 候得ば敵御後へ人數を廻し候時横合に御馬を出されんを敵の計り知申可處を 兼て御遠慮之有故成べしと武功の者は申ける由承り候加様の儀を兵法にて見 越三術とも又は敵の味方を計るを微妙の智恵にて計る抔と申習はし候

敵が軍勢を(陣地の)後ろへ廻すであろうとは既に御存じであったようである。 というのは(御神君は)小牧に御着陣されてより、「小牧は地形が高く、風が烈 しい。もし旗などが風に吹き折られることがあってはよろしくないので、旗を飾 るな。」と仰せられ、御旗圓居も飾らせられなかったと聞いているからである。 このことから考えてみると、敵が軍勢を(陣地の)後ろへ廻したとき、横合いか ら御馬を出され(その敵を討たれ)ることは敵も予め予想しているであろうと( 御神君は)お考えになっていた、それ故(御旗や圓居を飾られなかったの)であ ろうと武功の者が申していたということを聞いている。このような(敵は自分の 攻撃に対する我が軍の出方をどのように想定しているかと、敵の推理を更に読む )事を兵法では「見越三術/みこしさんじゅつ」とも、又は「敵の味方を計るを 微妙の智恵にて計る/てきのみかたをはかるをびみょうのちえにてはかる」など とも言い習わしている。

    ※若・もし ※抔・など  ※圓居・まとい

項目へ戻る

着物の仕立て方のこと

項目へ戻る

   夏もそろそろ終わりですねぇ。夏のどうしようもなく暑い日に一日ゴロゴロしていられるときはわたくし、単衣の着物に絽の袴でごろごろしています。これだと裸同然の感覚でクーラーの冷気もストレートに当たる感じでとても涼しいし、にわかに誰か見えてもすぐに出られますから。
 さて、和服というと和服の仕立て方に口伝があります。他の箇所については特に聞いていませんが、袖口の寸法がちょっとかわっています。先ず右の袖口は小さくしていざというときに柄頭が入らないようにする。一方左は袖口を大きめに作る。これは何らかの理由で人を討ち取り、その首を持ち運ばねばならぬとき、例え何かで包んだにせよ目立つので、左の袂に入れて運ぶべし、という口伝があり、この仕立て方は首を袂に入れやすくするためです。基本的に明治まで日本人は腕を振って歩きませんのでこういう袖口の仕立て方をしていても他人に気づかれることは先ず無かったでしょうし、気が付かれても単に仕立てが下手なだけだと思われたのでしょうね。  

項目へ戻る

 

○刀礼の時の下緒捌きのこと
 

 

項目へ戻る

 刀礼の時の下緒の捌き方として、先ず、柄を左にして刃を自分の方に向けて刀を寝かせます。このとき、全体の三分の一のところを右手の小指に掛けておいた下緒を掌を上にみけて右にやりつつ刀の鞘に沿わせるのですけれど、下緒は鞘と平行に一直線に延ばしてもよいし、こじりのところで直角に曲げてその先が自分の方へ来るようにしてもよいし、途中から湾曲させ、いわば刀の反りとと下緒がYの字になるような形でおいても構いません。たしか「名人」というビテオでしたでしょうか、故・森繁樹先生はこの方式でやっておられたと思います。わたくしも、刀が長く、既製品の安物の下緒を使っている為、このやり方が一番便利なのでそうしております。
 下緒と申しますと、旧幕時代は大体五尺から五尺五寸くらいのものが多かったようですが、こんにちは制定居合の影響か武道用品店などで安く手に入る下緒は七尺ほどのものが多いように思います。十年ほど前、ある京都では結構有名な組紐屋さんに家にあった旧幕時代の下緒をみせ、これと同じ様なものを作っていただきたいのですが、と聞いてみたら6〜7万円位と言われ断念したことがあります。その下緒の長さが確か五尺三寸だったと思います。

(3)山内派のくせ

項目へ戻る

 業とはまたちょっと違うのですけれど山内派には独得の「癖」みたいなものがあります。先日四年に一度開かれる山内派の研究会が仙台であり、故・山内豊健先生のご子息である豊臣氏が開会の辞の中で山内派の癖とも言うべき、親指の事に少し触れておられましたので、親指のこと、小指のこと、・・・・思いつくままに述べてみたいと思います。

 

親指のこと 

項目へ戻る

 山内派では座っているときに親指を手の中に握り込んで座る癖があります。柔術や合気道をなさる方はよく御存知だと思いますが、親指を制せられることにより、身体全体を制せられることがありますので親指を握り込みます。ただ、長時間座っているとだんだん肩に力が入ってきて肩をすぼめたような格好になることがありますね。その時は今まで掌の方を膝の上に載せていたのをひっくり返して手の甲を膝の上に載せるようにすると肩に入った無駄な力が抜けますのでそういたします。
 どなたか、他流儀か他派の方だったと思いますが「山内派は殿様芸ですので、それはやはり、片手に軍配、片手に采配を握っておられる姿なのですか」と聞かれたことがありますけれど、そうではなく、単に肩の力を抜くためにする行動です。「殿様云々」ということでしたら、それとは別に足さばきにそれがあります。他派にはない動きだそうで、大江先生が山内先生に以下のような足捌きを教えて差し上げたのが始まりのようです。

 

足さばきのこと 

項目へ戻る

 立て膝の姿勢から行う業を行い、ちぶるい・納刀のとき、前足を単に真っ直ぐ引いてくるのではなく、先ずほんの少し、真っ直ぐに引いてから大きく右へ廻して弧を描きながら引き戻してきて、あらかた引き戻してきたら、素早く右に小回りをさせて足を収めます。いわば、序破急の足さばきですね。(こういう言い方はしません、普通に「足さばき」といっており、ここでは解説のためわたくしがそう説明しただけです)
 猶、先程「ちぶるい・納刀のとき」と書きましたが、山内派では「ちぶり」と言わず、「ちぶるい」と言います。別にだからどうということも有りませんが所謂「癖」のようなものですね。ただ、前屈みになっていてはこの形は絶対とれません。

 

柄頭の握り方のこと

項目へ戻る

 納刀の後、柄頭を握って、ぎゅ〜っと刀を鞘の中に押し込むようにしますけれどこのときは柄頭を握って行います。先ず左手は勿論刃筋を避けて、親指で鍔を押さえており、右手は先ず、小指と薬指で柄頭の方・概ね頭金の下辺りを握り、親指の腹で頭金を押さえ、で、残りの中指と人差し指でその指を握り込み、刀を鞘の中にぐ〜っと押し込みます。以前、京都の伯耆流のある方がこれをなさり「英信流のようなまねをするな!」と師よりお目玉を頂戴したとか・・・・。京都はやはり山内派が多いのでこのような御指導をうけたのでしょうね。多分、他派ではこういうことはしないのではないでしょうか???   

 

小指のこと

項目へ戻る

 山内派では「小指」というものをとても大事にし、基本的に抜き付けから納刀まで右手の小指は柄を握りっぱなしです。刀が抜ける瞬間、小指を緩めて素早く締め直すことにより、スナップを利かせるということはしませんし、納刀の瞬間に小指を緩めると言うこともやはりしません。他流や他派の方の中にはそうしておられる方を割合多く見かけますが、そうすると、小指を緩めないと言うのは山内派独得の癖のようなものなのかなぁとも思います。勿論これは理由のないことではなく、切先を活かすためであると説明されています。
 わたくしは居合が大変下手で、特に左手を利かすということが下手であり、それを矯正するのに三尺一寸三分という長い刀を使っているということは別項でも申したとおりですが、こういう長い刀を収めるのには右手の小指のみをしっかり締めて後の指は全く力を抜き、親指と人差し指の間の谷間に柄が載っているだけというだけにして終始左手と右手の小指のみで納刀しないと刀を収めるのは困難です。

項目へ戻る

(5)故・山内豊健先生のこと

項目へ戻る

柄巻のこと

 わたくしは勿論、故・山内豊健先生とは面識はありませんが、大学時代ある人の紹介で脇指の柄巻の為にある老柄巻師を尋ねたのが縁でその後今日まで親しくして頂き、この方が昭和六年ころに別家してまもなく、故・黒住龍四郎氏の紹介で山内先生がお見えになったというお話を聞くことが出来ました。
 山内先生は二度目以降は必ずお一人でお見えになり、服装は決まって和服で黒木綿の紋付きを着用され、他のお客さんのように上がり込んで話し込むなどと言うことは一切無く、柄巻の方法も、「捻りがよい」とも「摘みがよい」とも仰らず、又出来に関しても「良い」とも「悪い」とも仰らなかったとのことです。因みに巻き方は諸摘巻・黒糸で仕上げたとのことえでした。  

 このお話を聞いて、やはり「帝王学」を身につけた方だなぁと思いました。君主たるものは自分の好みをはっきりさせると必ずそれに迎合するものが現れるので、何が好きか抔ということは決して口にすべきではないという教えがありますし、君主たる者が怒気を発すれば怒りを被った家来は死んでお詫びするということが多々あるわけですから、決して怒ってはいけないというのも帝王学ですね。
 柄巻の仕方の好みも仰らず、出来に善し悪しを仰らなかったというのはきちんとした帝王学を身につけた方だったということを示す逸話だと思います。

 さて、その柄巻師の方はどういう素性の方かは全く存じ上げなかったのですけど、近々東京へ帰られるとのことで、最後の柄巻の仕事をして差し上げたとき、うっかり財布を忘れてにお見えになり、後日送るということで名刺をおいていかれたとのこと。
 その名刺には住所が無く、「子爵 山内豊健」とのみ記されていたとかで、その柄巻師の方とその奥様に「山内先生というのはどういうお方でした」というと  

 「物静かな、ほんまにえぇお方でした」  

 との事でした。  

項目へ戻る

業−その他、もろもろ−2

ファイルの都合上、こちらに業の「その他、もろもろ」のつづきを居候させました。    

項目へ戻る
 

○チラリ風車の事
 昨日、とある方からこんなお話を伺いました。ある高名な英信流の先生が「山内さんはお殿様、その人がそんなに居合を稽古しているはずがないし、そんなに沢山の業が伝わっている筈がない」との言われたというのです。
 その高名な先生から見ると山内家の居合大したことはないのかもしれませんし、その先生が御存知である業数から見ると山内家の居合の業数というのは確かに大した量ではないのかもしれません。その中にはちょっと恥ずかしい業もはいっていますし・・・・。  先日京都の奥山麟之助先生のお宅に遊びに行き、故・山内先生のお話を伺っていると「けっして武徳殿では居合を抜かず、抜くときは常に平安道場でした。眉目秀麗で居合も本当に綺麗な居合でした」と話して下さいました。そ