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1.種子島=火縄銃

項 目

(1)種子島による射撃
(2)種子島の補修について
(3)「松風」と銀象嵌のある種子島について
(4)火縄の事
(5)弾丸の事
(6)鷲打御用
(7)「高館」と鉄砲

私が種子島を始めた理由
 
 

(1)種子島による射撃

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  天文十一年(1543)に伝来した種子島はそれまでの戦闘方法に大きな変革をもたらし、戦国時代を終わらせるのに大きな役割を果たしたということは中学や高校の日本史で習いましたし、長篠合戦図屏風なども資料として教科書に出ていたと思いますので、大抵の方は「火縄銃」という言葉は御存じであろうと思います。去る六月二十六日和歌山県海南市の射撃場で火縄銃の射撃練習を見学させて戴き、其の様子を写真に収めさせて戴きました。
 競技では13発発射し、成績の良い10発を得点とします。的までの距離は50メートルですので練習もそのように行われます。ここで御稽古しているのは十匁(直径約十九o)の弾丸を発射する種子島(士筒−さむらいづつ−)です。


弾丸と弾薬

 これは弾丸・弾薬の装填に誤りのないように玉薬をプラスチックの筒に詰めた物を用意して立て並べ、その前に弾丸を並べるようになっている台の上に弾丸・弾薬を13発分用意したもの。弾薬は黒色火薬で一発あたり7グラムを使用。

            

 種子島に使用される火薬は、薬夾に入れて密閉してある今日の弾丸の火薬とは違い、むきだしのままですのでその日の天候・湿度の影響をうけやすいものです。従って銃身内の汚れ方も日によって違います。そう言う点からいうと種子島というのはとても自然を感じることができるものだといえましょう。

@引き金を引いた瞬間、火皿から火柱があがる(写真・左)

  引き金を引き、銃身横に取り付けられた火皿の上の口薬に火縄の火がついた瞬間。この火が銃身内の火薬に引火して爆発、弾丸を撃ち出します。

A発射後、硝煙が立ちこめる(写真・中)

 使用しているのが黒色火薬であるため、発射後もうもうたる硝煙が立ちこめます。   又、往々にして衝撃と火道から噴き出すガス等により火縄が吹き飛ぶ。右肘の横に見える赤いのは火縄の火。又煙の中をよく見ると銃口から赤い火が出ているのが見えます。

B銃口から息を吹き込み、ガスを追い出す(写真・右)
  次の弾薬を装填するため、銃口から息を吹き込んでガスを追い出すと銃身内のガスは火道を通って火皿の所から霞がたなびくように出て来ます。猶、都合上、この写真に限り筒は十匁ではなく、二匁半の筒です。


火蓋を切り、火皿を露出したところ。

火蓋=ルーペのケースの様になっておりピンで火皿に留められており、そのピンには横から紙縒 (こより)をさして落ちないようにする。

火皿=真ん中の窪みに口薬をいれ、安全のため火蓋で覆う。この時余計な口薬は火蓋で削られるので、其の分を息で吹き飛ばす。

火挟み=先のU字型の部分に火縄を挟む。

(2)種子島の補修について

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(ア) 現在補修中の種子島

 現在、補修を手がけているのは写真の「松風」という号を銀象嵌した種子島です。江州日野(現在の滋賀県)で、江戸の中期以降につくられた射的用のものです。制作場所や時期は「江州日野住和田太一郎重正」という作者銘から分かりますし、射的用であることは弾の大きさによって分かります。種子島の場合、弾丸の大きさを何口径、何ミリ口径と弾の直径をいう言い方はせず、「何匁」と弾の重さで弾丸の大きさを言います。この「松風」の場合「二匁半」の弾を使用しますので射的用と言えようかと思います。

(イ)補修作業

 種子島は大きく分けて銃身・台木・カラクリ(撃発機構)の三つからなります。「松風」のカラクリは毀れておりませんでしたが銃身は中も外も錆びており、台木も痛んでおりましたので補修を必要としておりました。

1.台木の補修

 種子島の台木は木製で、漆を塗ったものと油をすりこんだものとがあります。「松風」の台木は漆を塗った痕跡はなく、油で仕上げられていたと思われるので菜種油を摺り込みました。油をあまりすりこみ過ぎると夏の暑い日など台木からじっとりと油が浮くことがあるそうで、そのときは浮き出た油を拭き取ってやらねばならず、現在の油のすり込み方が適切であったかどうかはもう暫く様子を見ないと分かりません。猶、台木に使用する油は菜種油の他、荏胡麻油なども使われたそうです。

2.銃身の補修

荒揉み


 銃身の外が赤錆の場合、これを綺麗に落として黒錆を附けることにより赤錆による腐食から銃身を守らなくてはなりません。又、銃身の内部の赤錆も落とさなくては銃身がどんどんダメになっていきます。そこで、種子島を昔作っていた頃と同じ方法で銃身内を研磨し、後は錆びないように油を塗っておきます。この銃身内を研磨する作業を「荒揉み」といい、研磨する道具を「モミシノ」と言います。
 今日では「モミシノ」は「リーマ」と呼ばれ、この作業も「リーマを通す」という言い方をしています。リーマは四角柱の穂先に長い鉄の柄を取り付けたものです。この穂先の側面に薄く切った紙を何枚か載せ、最後に薄い竹の板を載せて銃身の後ろに差し込み、ぐるぐる回しながら先へ先へと送りつつ中を研磨していきます。一度で綺麗になることはほとんどなく、段々紙の枚数を増やして少しづつ銃身に負担をかけないよう研磨していきます。銃身には傷が付かないようゴムのおおいを附けた万力で挟み、中に菜種油を流して滑りをよくしながら作業を進めます。

(図は特別展「 国友鉄砲鍛冶−その世界−」市立長浜城博物館編集・発行/昭和60年10月より引用させて戴きました)

3.火皿の補修

 火皿が痛んでいるとそこから腐食が広がります。また、射撃の時、火皿に盛られた口薬に点火され、この火が銃身内に入ることによって玉薬に点火・爆発する仕組みになっているので火道が広がっていたりするとガスや火の粉が沢山吹き出して危険ですので最悪の場合は火皿を付け替えたり、火道をいったん埋めて穴を開け直すことになります。「松風」の場合は火道が広がっていましたので、穴を埋め直し、もう一度開け直すことになります。  火皿を埋めて穴を開け直すことは昔からされていたようで、その埋め方も今日まで伝えられています。

(3)「松風」と銀象嵌のある種子島について

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 「松風」というと茶釜の鳴る音である「釜の六音」の一つである松風が連想されます。『茶道辞典』(淡交社)を見ますと中興名物の茶杓や京都のお菓子にも松風というのがあり、お茶をする人間にとっては嬉しい銘です。わたくしが種子島を御稽古するにあたり「お茶を稽古するのがお好きな貴方にはぴったりだから」と整備終了後、御稽古用にわたくしに下さるとのことで大変喜んでいます。

 さて、この筒に「松風」と刻ませたのは何故かと考えてみると、一つには茶道に事寄せての戒めがあるのではないかと思います。種子島の御稽古というのはなれてくると、剣術等に比べるとどうしても一撃、一撃を粗末にしてしまうのではないでしょうか。それを今発射しようとしている一発を「一期一会」の一発と思い丁寧に丁寧に発射することを教えているように思います。  それに能楽の松風も踏まえているのだろうと思います。このことは実は京都観世会館からでている「月刊 能」に書きましたのでここで詳しく述べることは義理が悪いので興味のある方は京都観世会館の方へ問い合わせて下さい。

(4)火縄の事

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 種子島は火縄の火を使って火薬に点火、弾丸を発射する訳ですから危険を防止するためには火縄の火に関しては細心の注意が必要です。ですから、無闇に火縄の火を灯すことはありませんでした。『武功雑記』に以下のような話が有ります。


 晩に及びて敵のよするある歟などゝ下に疑う―略―いづれも居る所へ是を持ちて参れとて、火鉢を―略―「火縄の火をつくるに蝋燭などにはつきかぬるものなり」との御意の由

 このように夜襲が予想されている場合にでも予め火縄に火を灯すことはしなかったようです。又同じく『武功雑記』に「敵襲!」と声がかかってはじめて火縄に火を付けるものであったことを示す逸話があります。

 平佐牛之介―略―備えの場にて不図油断をさせまじき手段に、「それ、敵がいづるは」と触れたり―略―足軽の内に老人の有りしが進み出て「私も御謀にてはあらんとおもいしかども、とかくそれとて油断せぬがよしと存じて、火縄に火をつけたり―略―

 さて、確かに無闇に火縄に火を付けるものではないのですが、行軍中に襲撃を受ける可能性があるとき、こんな事をした話が『武功雑記』にでております。

 景勝御退治に、源君御下向、石部より水口を夜通しに御越しの時「惣勢のものゝ下緒に火をくゝりつけて通れ」と仰せ付けけらる。後に水口の沙汰に、権現様の鉄砲の数は扨もおびたゞしき事と申し候よし。

 これによりますと、上杉景勝討伐に向かわれた神君家康公の軍勢を豊臣家の奉行で水口の領主である長束正家や佐和山の石田三成の軍勢が襲ってくる可能性があるので、夜水口を通過するとき、「火縄に火を付けて刀の下緒につけよ」と御神君が御命じになったたところ、それを鉄砲に火縄をかけて通っていると勘違いした水口の人々は「家康公の鉄砲の数はさても夥しい数だ」と評判をしたというのです。確かに刀を差していないものなど居ないでしょうから全軍がその刀の下緒に点火した火縄を下げて大移動したらそのようにみえたのでしょう。それにたとえ小さな火でも大勢がぶら下げれば足下もけっこうあかるかったのではとおもいます。時にはこんな火縄の使い方もあったのですね。

(5)弾丸のこと

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弾丸の作り方

-玉鋳型各種、指さしているのは十匁の玉(直径約十八o)を作るためのもの-

 弾丸は溶かした鉛を玉鋳型に流し込んで作ります。玉鋳型はやっとこのような形をしており、その先に付けられた四角い鉄の箱の上にある穴から鉛を入れるようになっております。

 写真は玉鋳型の箱の部分の片方を撮したもので上のすり鉢状の穴から溶けた鉛が下の球状になっている部分へ流れ込んできます。  

 写真の上は八匁の玉を作るための、下は一匁の玉を作るためのもので、当然大きさに違いがありますが、鉛を流し込むための穴にはそう大きな違いはありません。
 但し、見てのとおり出来上がる玉の大きさは大違いです。  

   鉛が穴の上に少しはみ出すくらいに流し込むと写真のように鉛のへたが出来たような状態になります。鉛は玉鋳型にいれるとすぐに冷えて固まるので水に入れるなどする必要はありません。むしろ、幾つもつくると鋳型自体が熱くなり軍手をしていても持つのが辛くなるので水に入れて冷やすことはあります。
 しかし、それもほんの一瞬で水に漬けた鋳型はすぐに出して口を開き、中についている水が鋳型自身の熱で蒸発するのを暫く待ちます。それはもし、この時水が残っていると次ぎに溶けた鉛を流し込むと大変危険だからです。
 又、鋳型を冷やしすぎると玉に巣が入るなどして良い玉が出来ませんので気を付けねばなりません。又一番最初に玉鋳型に鉛を流し込んだときというのは鋳型が暖まっていないので良い玉が出来ないことがままあります。

 さて、鋳型から出してすぐの玉はへたのついた林檎のような格好をしています。これをひとまとめにしておき、後で蔕の部分を根本から切り落とします。それを分厚い板の間にまとめて入れ、ころころと転がすとへたの跡やバリがとれて綺麗な球形の玉が出来ます。
 もっとも現在ではこの作業は機械で行っています。
 このへたを切るときに思い切って根本から切らないと「でべそ」の玉になってしまうので、後で又臍を削ってやらねばなりません。 

弾丸への細工

 種子島の弾丸も繋ぎ玉とか茶筅玉とか切り玉とかいろいろありますけれど、主流は球形の鉛玉であり、今日競技でもこの玉が使用されています。「射撃」は厳しく精度が要求されますので弾丸も出来るだけ正確な球形である方が良いはずです。ところが「砲術」の方は1o、2oの精度より敵を倒すことが主眼ですから、その発想に基づいて弾丸にも細工が加えられます。『葉隠』の聞書第十をみると

 鉄砲の玉、水に当たりて野打申候。玉に小刀めか歯形か付候へば、水を潜り申し候よし。又、御狩抔の時は玉に印を切付候へば、自然ように立事有之由

とあって、発射した弾丸が水面に当たって兆弾となり有らぬ方向に飛ぶのを防ぐには弾丸に小刀で切り目を入れておくか、歯形を付けると良いというのです。堀や川などの水を潜って攻めてくる敵を撃つときというのも戦場では当然あった筈で、そういう部署に配置されたときには多少精度は落ちても水面をはねないよう細工した玉を準備しておくのは当然だったと思います。功名手柄に命を懸ける武士の世界では戦場にも等しい狩り場で使用する自分の玉に印を付けておくというのも大事な心がけだと思います。

(6)鷲打御用

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 『幕末下級武士の記録』として時事通信社から刊行された「政恒一代記」は幕末の幕府の御徒(おかち)だった山本政恒が残したもので、その中に、以下のような記述が見えます。

 砲術は昔し田付四郎兵衛と云旗本あり。砲術を能し、毎年鷲打御用被仰付、砂村の土手へ小屋を設け、海中に太杭を建て板を取付、其上へ犬・猫の死骸を乗せ、小屋にて見張居れば、上総加納山辺より飛来る鷲、其犬を食し居を見留、火縄銃を以能く窺ひ打つ。当り所に依りては小屋の家根え飛来り、荒れ廻る故、亦一発なして打留め、之を献ずれば、矢羽の御用に成ると聞けり。当時鉄砲は皆火縄銃而已なりしが、安政元年外国と交通以来、西洋銃渡来、ゲベールと銃なり。之を真偽てヤーゲル銃を拵ひ、其後ミニーイルと云、筒の中に筋あり、玉は椎の実の形、短銃にして弁利なり。西洋銃を取扱ふは、拾人位並列せしめ、号令を以て気を付け、肩へ銃、荷へ筒、捧げ筒、構へ筒を教へ、熟すれば自然重き鉄砲も軽く扱ひ、夫より運動は三人・九人・小隊・大隊の運動を為し、又銃鎗、砲陣、雑[撒]兵等の練習あり

 本当は、鷲打御用の所だけ引用しようと思ったのですが、その続きも結構面白いのでつい、引用してしまいました。この本の中には上野戦争の事などもあってなかなか面白いのですけれど、どんどん種子島の話から遠ざかってしまうのでこの辺で止めておきます。

(7)「高館」と鉄砲

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 岩浪の新古典大系の『舞の本』所収の「高館」を読んでいて、「これ、絶対鉄砲伝来の影響、もろやなぁ」と一人でうけてしまいました。
 確かに、舞台は奥州で、逃れてきた義経一行がここで亡ぼされたときの話ですけれど、弁慶が戦国も後半になって出現する当世具足の「桶側胴」を付けていたりするし、作品の中で亀井の六郎が

此城は平城にて候へども、久しく拵へたる城にて、堀広くして底深し。いかに敵が詰めかけて、埋め草を込むと申共、三重の堀をば只一時にはよも埋め候じ

といっており、この三重の堀というと『万松院殿穴太記』の

三重に掘切て、二重に壁を仕てその間に石をいれたり。これは鉄炮の用心なり。

というのを思い出します。
 鉄砲伝来により、築城法がかわって堀も広くなったことはよく知られていることですが、亀井も高館の堀が広くて深いと言っておりますし、「三重の堀」というのは『万松院殿穴太記』の記述をすぐさま思い出させてくれます。
 う〜ん、知らず知らずの内に、何せ室町時代の作品であり、時代設定は鎌倉時代なのに、戦国の武士達に愛された幸若ですからついついこうなってしまうのでしょうね。
 それにしても恐るべし、鉄炮の威力、鎧の胴だけではなく、文芸作品にまで穴を明けてしまいました。 

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私が種子島を始めた理由

 私が種子島を始めたのは、お茶の方で流儀は違うのですが大変親しくして頂いているかたとお茶以外の趣味に話が及んだとき、たまたま種子島のことをおうかがいしたというのがきっかけです。
 そのときは多少の興味はありましたが、自分が撃ってみようと言う気はなく、その後も何度か誘われましたが全然その気はありませんでした。
 しかし、師より山内派の伝書を頂き、その責任を感じるといろいろなことを考えるようになります。そんな中で仙台にいる居合を通じての友人のことをふと思いました。
 彼は目が不自由で顔のすぐそばまで顔を近づけようやくぼんやりと見える程度だそうです。しかし、彼はそのハンディをおいながらも熱心に稽古をしています。
 多くの武道家は「武道は人格形成の道である」と言われます。それはそうでしょう。では、彼のように障害をもった人が武道を通じて、否、山内派の居合を通じて人格形成をしたいと言われたとき、果たしてどうでしょうか。
 勿論彼のような状態なら可能ですが、もし、車椅子の方が見えたら・・・・。山内派の居合は残念ながら足腰が不自由では無理です。
 それはたしかに、短い刀を使って格好だけのことなら何とかいけるでしょう。しかし、身体全体を使っての戦いの技術である山内派の居合をお教えすることは不可能で、それは形だけお茶を濁しただけになってしまいます。
 大変残念な話ですが、私の大事な友人がその障害故に軽く扱われたり、騙されたり、そういう経験をして参りました。私は自分の友人がそういう扱いを受けるのは耐え難いことであるように、ほかの障害者の方の友人もそうだと思います。ですから、もし車椅子の方が居合をしたいと私の所に見えても私は即座にお断りします。そんな、お茶を濁すようなことは出来ませんから。
 では、お断りするだけで良いのでしょうか・・・・、勿論そんなことはありません。もしその方が訳を御納得いただいて、居合でなくても良いから武道を通じて人格形成をしたいということでしたら、弓、鎗、刀、どれをとっても不可能ですが、砲術なら可能だと思います。
 『甲陽軍鑑』は、馬、鎗、剣、鉄砲を「武芸四門」と言っていることですし、武家社会が生んだ武芸は何をやっても行き着くところは同じはずですから、砲術をご紹介したいと思うのですが、私は砲術を全然やったことがありませんでした。そこでリストラになって職探しの一方で、多少の時間もあるので砲術を始めることとし、火縄に一番感覚的に近い気がするエア・ライフルから初めて種子島も始めました。
 だから、種子島を始めたのは大した理由があったわけではなく、要するに誘ってくださる方があって、障害のある友人のことからその気になり、とどめは種子島を撃つ人が非常にすくなくなり、しかも空砲だけの見せ物的なものがおおく、実弾を発射してお稽古する砲術をする人が非常に少なくなっているという事を知ったというとでした。