難波長柄豊崎宮考



難波長柄豊崎宮考 ―上町台地前期難波京は豊碕宮か―

はじめに
 皇極天皇四年、蘇我入鹿が中大兄皇子らに滅ぼされた乙巳の変後、皇極天皇から譲位さ
れた弟の軽王子は、孝徳天皇として即位し、都を飛鳥板葺宮から難波宮へ移した。
 孝徳天皇が難波に造った宮の中でも、白雉三年(六五二)に完成した難波長柄豊碕宮は、言
葉で言い尽くせないほど立派な宮であったとされるが、難波長柄豊碕宮はどこに造られたか、
日本書紀の記述などにより考察していきたい。
 ここでは、上町台地の考古学的な研究成果を考慮しない文献を中心に紐解いていくこと
とする。


1 日本書紀孝徳天皇紀
 『日本書紀』孝徳天皇紀(以下孝徳紀と略称する)には、「難波遷都」や難波宮造営に関す
る記事が少なからず見え、また子代離宮・蝦暮行宮・小郡宮・武庫行宮・難波碕宮・味経
宮・大郡宮など多くの宮の名が現われる。また、単に「宮」とする場合や賀正の行事を行
う「宮」名を記さないものがある。
 孝徳天皇は大化元年(六四五)に飛鳥から難波に移って、白雉三年(六五二)に難波長柄豊
碕宮が完成するまでの間、難波地域の仮宮や小郡や大郡を改造した宮を転々としていたよ
うに窺える。そして、それらは名前が異なるが同一の宮が含まれている可能性がある。
孝徳天皇紀を追って行こう。

表1 『日本書紀』孝徳天皇紀
紀年内容
大化元年十二月癸卯条天皇遷都難波長柄豊碕。老人等相謂之日、自春至夏、鼠向難波。遷都之兆也。
大化二年正月是月条是月、天皇御子代離宮。遣使者、詔郡国脩営兵庫。蝦夷親附。或本云、壊難波狭屋部邑子代屯倉、而起行宮。
大化二年九月是月条是月、天皇御蝦蟇行宮。或本云、離宮。
大化三年是歳条壊小郡而営宮。天皇処小郡宮、而定礼法。其制曰。凡有位者、要於寅時、南門之外、左右羅列。候日初出、就庭再拝、乃侍予庁。 若晩参者、不得入侍。臨到午時、聴鍾而罷。其撃鍾吏者、垂赤巾於前。其鍾台者、起於中庭。
大化四年正月壬午条[武庫行宮]賀正焉。是夕、天皇、幸于難波碕宮[=小郡宮か]。
大化五年正月丙午条[難波碕宮]賀正
白雉元年正月辛丑条車駕幸味経宮、観賀正礼味経此云阿膩賦。是日、車駕還[難波碕]宮。
白雉元年十月条為入宮地、所壊丘墓、及被遷人者、賜物各有差。即遣将作大匠荒田井直比羅夫、立宮堺標。[宮=新宮、難波長柄豊碕宮]
白雉二年十二月晦条於味経宮、請二千一百余僧尼、使読一切経。是夕、燃二千七百余燈於朝庭内、使読安宅土側等経。於是、天皇従於大郡、遷居新宮。号曰難波長柄豊碕宮。
白雉三年正月一日条元日禮訖、車駕幸大郡宮[味経宮か]。自正月至是月、班田既訖。
白雉三年三月戊午条車駕還宮[新宮か]
白雉三年秋九月戊午条造宮已訖。其宮殿之状、不可殫論。
白雉四年是歳条皇太子等居倭飛鳥河辺行宮。天皇恨欲捨於国位、令造宮於山碕。
白雉五年冬十月癸卯条皇太子等赴難波宮。壬子、天皇、崩于正寝、仍起殯於南庭。
注)表中の[…]は、筆者の判断による補記である。 2 『日本書紀』孝徳天皇紀の分析 (1) 群別分類 難波地域(難波長柄豊碕)の孝徳天皇が所在した宮を初出の順に並べると、 @子代離宮(大化二年正月是月条) A蝦慕行宮(大化二年九月是月条) B小郡宮(大化三年是歳条) C難波碕宮(大化四年正月一日条) D味経宮(白雉元年正月一日条) E難波長柄豊碕宮(白雉二年十二月晦条) F大郡宮(白雉三年正月一日条) と七つの宮が特定できる。これを分類する。 表2 分類
A離宮・仮宮@A
Bその他B〜F
表3 Bグループの時期別区分
時期別区分難波宮備考
B1大化三年〜大化五年B小郡宮、C難波碕宮BCは同一かどうか。
B2白雉元年〜白雉三年D味経宮、F大郡宮DFは同一かどうか。
B3白雉元年十月〜同三年E難波長柄豊碕宮新宮で他と区分できる。
(2) 課題  本論の目的は、難波長柄豊碕宮の所在であるが、併せて、難波地域のおける他の宮の所 在を比定することによって、目的に近づけるものと思われる。  群別に分類したとおり、E難波長柄豊碕宮は、白雉三年(六五二)に完成した新宮であるの で、他の宮と区分でき、B小郡宮とF大郡宮は、それぞれ小郡・大郡という施設(1)を改造 したものであるから、別のものであるが、孝徳天皇の宮としては、時期的に小郡宮が先行 した。  単に「宮」とする場合や賀正の行事を行う「宮」名を記さないものについては、 表1『日本書紀』孝徳天皇紀のとおり、表中の[…]に筆者の判断を示した。 次の課題は、時期がずれるB1・B2グループ内の難波宮の重なり具合等である。 課題1 B小郡宮とC難波碕宮は同一かどうか。 課題2 D味経宮とF大郡宮は同一かどうか。 課題3 E難波長柄豊碕宮と他宮の関係 (3) 考察 課題1 B小郡宮とC難波碕宮は同一かどうか。  小郡宮は、大化三年に小郡を壊して、宮を営んだものであり、礼法を定め、南門の外に 官人を整列させ、庁(まつりごとどの)に侍らせた。大化三年十月、孝徳天皇は左右大臣・諸 侯らと有馬温泉に行幸、晦は武庫行宮で過ごし、大化四年同所で賀正礼を済ませて、夕刻 難波碕宮に行幸した。その後、小郡宮・難波碕宮の名は見えず、大化五年新年賀正礼を行 った宮及び翌白雉元年正月一日に味経宮から還った宮は、難波碕宮と思われる。  大化四年正月壬午条に見える「難波碕宮」は、白雉二年十二月晦条に新宮となる「難波 長柄豊碕宮」と別の宮であり、前年大化三年に造られた「小郡宮」の翌年に「難波碕宮」が 見えるから、小郡宮と難波碕宮は同一であると考える。  白雉元年正月には味経宮で賀正礼を行った。白雉元年正月辛丑条の「車駕幸味経宮、 観賀正礼味経此云阿膩賦。是日、車駕還[難波碕]宮。」とあり、「味経宮」と「小郡宮=難 波碕宮」と別物であることが分かる。 課題2 D味経宮とF大郡宮は同一かどうか。 課題3 E難波長柄豊碕宮と他宮の関係 課題2と課題3は、次のグループの宮名等の関係を探ることである。
    A味経宮 B朝庭内 C大郡宮 D新宮 E難波長柄豊碕宮
   白雉二年十二月晦条に「於A味経宮、請二千一百余僧尼、使読一切経。是夕、燃 二千七百余燈於B朝庭内、使読安宅土側等経。/於是、天皇従於C大郡、遷居D新宮。号曰 E難波長柄豊碕宮。」とあり、  白雉三年正月一日条に「元日禮訖、車駕幸C大郡宮。自正月至是月、班田既訖。」と ある。白雉二年十二月晦条と白雉三年正月一日条は大みそかと翌年元旦の記事であるから 連続している。  D新宮とE難波長柄豊碕宮は、同一であり、B朝庭内は、A味経宮、C大郡、E難波長 柄豊碕宮のどれに該当するかを考える。  新宮朝廷内で行われる「使読安宅土側等経」の仏事は「難波宮の安鎮か」(2)とされるよ うに、新宮に遷る前の新宮安鎮の儀式と思われる。  「味経宮」の「請二千一百余僧尼、使読一切経」と新朝廷内での「使読安宅土側等経」の 二つの仏事を終えて、初めて、新宮「難波長柄豊碕宮」に遷宮したものと思われる。そして、 天皇は「大郡」より、新宮「難波長柄豊碕宮」に遷ったのである。  白雉三年正月一日の時点では、「難波長柄豊碕宮」はまだ完成していなかったので、新 宮での元日禮が終わると、孝徳天皇は大郡宮(宮とされる)に車駕幸されるから、新宮であ る「難波長柄豊碕宮」と「大郡宮」は別の場所にあることが分かる。  「味経宮」と「朝庭内」は時間差がある行事が行われており、場所の移動を想定させ、「大 郡宮」も元日に移動する場所であるから、二千七百余燈を燃やした「B朝庭内」は、「味経宮 」、「大郡宮」でなく、新宮のE難波長柄豊碕宮と思われる。  新宮に遷る前の宮は「請二千一百余僧尼、使読一切経」の仏事を行った「味経宮」と考え られる。  課題2のD味経宮とF大郡宮の関係は、白雉二年十二月晦に「味経宮」で僧尼を請い一 切経を読ませた後、夕刻に新しく成った朝廷内の燈を燃やし安宅土側等経を読ませた仏事 を済ませたことによって、宮は大郡(宮とはされていない)から新宮の難波長柄豊碕宮に遷り、 白雉三年正月一日新宮での元日禮が終わると、孝徳天皇は大郡宮(宮とされる)に車駕幸さ れる。僧尼二千一百余を請うて、一切経を読ましめた「味経宮」は相当規模を持つ宮である から、「大郡宮」と別に存在したと考えるのは不経済であり、新宮の難波長柄豊碕宮に遷る 前の宮は大郡の味経宮と理解しなければならない。つまり、「味経宮」は「大郡宮」と同一の ものである可能性が高いと思われる。  以上をまとめると、孝徳天皇の宮は、仮宮(離宮)を除き、難波碕宮(小郡宮)、「味経宮(大郡 宮)」と新宮「難波長柄豊碕宮」の三つに区分できるのではないか。  さて、このうち、本論の目的である新宮「難波長柄豊碕宮」の所在地を探る。 表4 孝徳天皇の遷宮
時期備考
難波碕宮(小郡宮)大化三年壊小郡而営宮。
味経宮(大郡宮)白雉元年正月辛丑条 車駕幸味経宮、観賀正礼味経。是日、車駕還[難波碕]宮。白雉二年十二月晦条 於味経宮、請二千一百余僧尼、使読一切経。
難波長柄豊碕宮白雉二年十二月晦遷宮〜白雉三年秋九月戊午完成
3 難波長柄豊崎宮の所在地 表5 難波長柄豊碕宮の比定説
比定説近代歴史学上古
上町台地説吉田東伍、幸田成友、大井重二郎荒木田久老『難波旧地考』(1800年)
長柄、本庄付近説喜田貞吉・天坊幸彦「天満森説」岡田後志『摂陽群談』(1701年)、並河誠所
1多数説は前期難波宮説の上町台地説であり、 2別には豊崎村説がある。 私説は、長柄豊碕の地名から、「上町台地説」でない「長柄、本庄付近説」を採る。 4 難波長柄豊崎宮  「 『新撰姓氏録」右京皇別には次のような旨の記事がある。「孝徳天皇の御世、旱魃に見 舞われたとき、豊城入彦命の子孫である阿利真公が高樋を作り、垂水の岡の水を難波長柄 豊崎宮まで通したので、天皇はその功を賞して垂水公の姓を賜わり、垂水神社を司らしめた。 …豊崎宮については、上町台地説や大阪市大淀区の豊崎宮付近など諸説があるが、いずれ にせよ淀川・中津川をはさんで千里丘陵は指呼の距離である。」とする。(3) 垂水の岡の水を孝徳天皇が造営した難波長柄豊崎宮まで高樋で通したという記事である。 水は高きから低きに流れる。丘陵地の垂水神社から高樋という自然流下の道具を使用して、 清水を難波長柄豊崎宮まで通したならば、難波長柄豊崎宮は低地に存在することを示してい る。 高樋伝承の信憑性   「ところで阿利真公の作った高樋とは、どのようなものであったろうか。古代の樋は、ふ つう丸木材や竹を半分に割り、内部をくりぬいたものをつなぎ合せて作ったらしい。これに 支柱をつけ、地上に架け渡したものが高樋であろう。問題は、このような高樋を「垂水の岡 基」から難波宮まで架け渡すことができたかどうかである。 今、地図上で略測すると、水源地と見なされる垂水神社の神泉から給水先の長柄豊碕官 ([上町台地上:筆者]前期難波宮)まで、直線距離にして約一○キロメートルを測る。  次に両地占の比高を考えてみると、垂水神社の神泉の湧出地は海抜約二七メートルの 地点に位置する。  一方、難波宮の主要殿舎は海抜23〜24メートルの上町台地の上位面にのっているが、 前期難波宮の整地面は地下1.5〜2メートルに存在するから、遺跡の立地は海抜21〜22 メートルとおさえることができ、両者の比高差は約五メートルである。  垂水と難波宮の問には、幸い障害となる山や丘陵はなく、一万分の五の勾配をもった 高樋を直線的に架設し、水を供給することは論理的には可能である。  しかし、早く吉田東伍が「然れども垂水岡(豊島)の地より長柄まで高樋を造作する理なし、 大河を隔てたる所なればなり」(4)といったように、両者の間には、どうしても越えねばならぬ 神崎川・中津川、堀江川という三つの河川が介在する。これらの河川の川床は海抜○メー トルに近く、高樋に直線的な構造をもたせるとすれば、渡河地点では一○メートルに近い支 脚を設けねばならないことになる。それは不可能ではないが、至難の業であろう。こう考えて くると、阿利真公の作った高樋は、途中数か所に中継点を設けて高さを按配し、またその中継 点に人力による揚水装置(つるべなど)を備えたものであったと考えなければならない。)」(5) とする。  揚水装置(つるべなど)を備えは、実際的には実現困難であろうと考えるので、長柄豊崎宮 の所在を上町台地上に置くならばそのような揚水施設は不可能であろう。  自然流下式の高樋を想定するならば、長柄豊崎宮は長柄川付近の低地でなければならない。 有馬温泉行幸  孝徳天皇は、たびたび有馬温泉に行幸した。有馬温泉の途中に、武庫行宮を設けている。 この武庫行宮は、武庫川の西側、蔵人の北部、小林の東、伊孑志の南と推定されている。(6)  孝徳天皇の行幸は、難波から武庫川下流まで、船を利用したのであろうか。船を利用ならば、 武庫川の河口で下船し、武庫川西岸を北上、宝塚から有馬の山に向かうことになるがそのこと は日本書紀などには見えない。  足利健亮は、難波京から有馬温泉を指した計画古道を豊中市庄本〜伊丹御願塚〜宝塚市 〜有馬温泉を想定する。(7) この途中に、御願塚があり、孝徳天皇の伝承が残る。  「孝徳天皇の御遺体は御願塚にある。御願塚は、最初は、宣化天皇の皇子の一人、上殖葉 皇子(韋那君、多治比君の祖)がここに葬られ、その後、同じところに孝徳天皇が葬られた。 孝徳天皇は、有馬温泉に何回も通われたようだが、そのうち、入湯からの帰途か或いは行く 途中に病が重くなられ、有馬道に沿った「いなの」の地で介抱をうけたが、その甲斐もなく崩御 されたようである。そこで御遺体を有馬の方へお頭を向けて西向きに陵墓がつくられたらしい。 仏教に熱心であった孝徳天皇の陵墓を行基が拝んだのであろう。」(8)とする。   伊丹御願塚を拝む行基像が立てられている。孝徳天皇の崩御の記事は、白雉五年冬十月 癸卯条に「皇太子等赴難波宮。壬子、天皇、崩于正寝、仍起殯於南庭。」とあり、孝徳天皇の 病の際、中大兄皇子らが飛鳥から、難波宮に見舞いに来たが、「難波長柄豊崎宮」とはされて いない。崩御は「正寝」で、差しさわりがないものになっているのが、『日本書紀』の編纂者の 機微があるのであろうか。  難波宮の近くに難波の海、長柄の船瀬があるが、船を利用しない行幸は、難波宮の所在地 とも関わりがあろう。大化三年十月有馬温泉行幸後、「難波長柄豊崎宮」建造に着手しており、 孝徳天皇の皇子に付けられた有馬皇子の名のとおり、有馬の地名に特別の思いがあって、 「難波長柄豊崎宮」を建造したならば、「長柄豊崎」の地名にも思い入れがあった宮であった ことが想定される。 まとめ  孝徳天皇は、飛鳥から難波遷都にあたり、子代離宮や蝦蟇行宮の仮宮を利用しつつ、大 化三年に小郡を壊して小郡宮を改造したのであろう。これは「難波碕宮」とも呼ばれた。      次いで、大郡を改造した大郡宮を建造し、有馬温泉行幸後、「難波長柄豊崎宮」建造に着 手した。「難波長柄豊崎宮」は、有馬温泉に行くためには船便を利用せず、陸路で最短の場 所を選んだものと憶測する。 註 (1)「難波大郡についての通説的見解は、直木幸次郎氏の「行政区画や地域を指す名称でなく、 外国の使節を饗応・接待したり、または使節のもたらした貢献物を検校したりする外交用庁舎を 指す語」といえよう。」「難波小郡の性格については、直木氏の「小郡は国内各地―といっても 主として西国地方―に派遣される使者や国司が命令を受領し、また報告。復命のために参集 するところであったのではあるまいか」との見解に従いたい。」(松原弘宣『日本古代水上交通 史の研究』吉川弘文館、1985年、76・80頁。) (2)『日本書紀』4巻、岩波文庫、1995年、317頁。 (3) 小林章『日本の神々 神社と聖地3』、白水社、2000年、191-192頁。 (4) 吉田東伍『大日本地名辞書』上巻、1900年、432頁、。 (5)『吹田市史』第1巻、1990年、227-228頁。 (6)『宝塚市史』第1巻、1975年。 (7)足利健亮「難波京から有馬温泉を指した計画古道」(竹内理三編『歴史地理研究と都市研 究上』大明堂、1978年。 (8)堀内秀夫「御願塚古墳の祭神考」『絲海』第17号、1993年。

[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]

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