忍海野 烏那羅(おしみの・をなら)論文集


[ 2017/2/13・修正2018/10/30]
お羊さま考−多胡郡碑−
難読地名考(2020/7/27修正)     邪馬台国考(未定稿) 長柄豊崎宮考[ 2020/8/26] 上町台地難波宮考[ 2020/8/29] 万葉集読解[ 2020/7/27-2022/3/27]

[難読地名考 2017/2/13-2021/3/8]

[一口(いもあらい)] 2021/3/8修正 京都府久御山町に東一口の地名が残る。 時代によって、「いもあらい」の地が変遷するようである。 昔は、巨椋池があった。巨椋池の西に淀城の水車があった。 城内の利水のために水車を使って水をくみ上げていたのである。 地形の特徴として、巨椋池に宮津の天橋立のような通路があり、 古図を見る限り、東一口の集落は、巨椋池からの流出口であった。(注1) 昭和初期、巨椋池の干拓により、巨椋池が埋め立てられて水面は消滅した。 また、木津川の付け替えにより、木津川が南寄りの石清水八幡宮の方へ近づいた。 泥が付いた里芋などを洗っていた場所が「いもあらい」の地名であったのであろう。 皮をむいたり、洗うための道具「芋洗い器」(注2)を使っていたと思われる。 水車と同様に、水流を利用して里芋などを洗う「芋洗い器」は、今も地方で使われているようだが、 入り口(出口)が一つである。 「いもあらい」の地形が入り口が一つという「芋洗い器」に似ていたのであろう。 「いもあらい」の地は鎌倉時代には「芋洗」と表記されていた。(『吾妻鑑』承久3年(1221)6月7日条) 「いもあらい」「芋洗」の表記が面倒と考えた人がいたならば、「芋洗」の「芋」のくさ冠の横棒の「一」と、 「洗」のサンズイ篇の水=河から「口」を借用すれば、「一口」ができる。 「芋洗」の表記は、地形をも考慮して「一口」と捻った略字表記をしたものであろう。 (注1)乾幸治『南山城の歴史的景観』古今書院、1987年、41頁。図2-2参照。 (注2)「川の流れを利用して使う、小さい水車風の民具(芋車)」とある。     『京都の地名 検証』勉誠出版、2005年、65-68頁。「一口」の項。
[十三(じゅうそう)] 2018 4/13修正 淀川の下流右岸に「十三」がある。 淀川は、京都の八幡で三川が合流し、その他流域の小河川が流入する大河川である。 淀川下流の両側には当然のこととして堤が造られた。その辺りの場所を「つつみ」と呼んでいたのであろう。 奈良県御所市にも葛城川の東側に北十三、南十三がある。 『和名抄』の忍海郡津積郷に比定され、堤に津積、十三(つつみ)の字を当てたものと考えられる。(注1) 「堤」は、画数が多いので、簡略化して、土編の中の「十」と旁の「日」の横棒で、「三」を使い、「十三」と書いた。 一文字を分解することは、空海の『遺告二十五条』(偽書とされる。)に「箱」を「竹木目」とするようなことがある。 いつしか、「つつみ」の呼び名が使われなくなり、「十三」と書かれた地名が忘れ去られ、 「十三=じゅうそう」とされたのではないか。 (注1)『奈良県の地名』平凡社、1981年、45頁。
[伊丹(いたみ)] 伊丹の呼び名は、海が糸のように内陸部へ入り込んでいるから、「糸海いとうみ」と呼ばれ、 それがなまったことから、「いたみ」と名付けられたという説がある。 地元の郷土誌に『絲海』がある。「板見」と書くこともあった。 「い」は、いろはの「伊」を書くから、さして難しくはない。 「丹」は、「海」の旁の「母」の一部を省略して、「丹」としたのであろう。 すなわち、「いたみ=伊丹」である。 「室生山」のことを「宀一山」と略す。 こちらは、「べんいちさん」と読むそうであるが、指し示すものは同一である。 「室」の冠の「宀」と「生」の下部の「一」を組み合わせたものと同様に 「十三」や「伊丹」が簡略されたものと考えられる。
[櫛羅(くじら) 2017 2/19]2018 4/13修正 古代の葛城と忍海郡 和名類聚抄には忍海郡に「於之乃美(おしのみ)」と訓が振られている。 古代の大和国葛城地方は、葛上郡,忍海郡、葛下郡の三郡があり、忍海郡は、北の葛上郡と南の葛下郡に挟まれた 4郷(津積・園人・中村・栗栖)の小郡であり、大和国15郡(延喜式)のうち,最小の郡である。 なぜ、このような不思議な忍海郡ができたのであろうか。 その、葛城の地名に櫛羅があり、櫛羅の滝がある。 櫛羅は、大和国葛上郡、現在の 奈良県御所市(ごせし)の大字。葛城山の東の地名である。 かっては、櫛羅村(くじらむら)であり、文久3年(1863年)、大和新庄藩の第8代藩主永井直壮が陣屋を櫛羅に新設し、 櫛羅藩を立藩した。櫛羅は藩領の中でも特に栄えていたところで、要害の地でもあったことが理由だったとされている。 ここから、櫛羅の地名は江戸時代からの地名と思われる。 「櫛羅」の由来は、「くしうら(櫛占)」の意で、古代より櫛で占うことが知られており、櫛占師の住地に由来するとある。(注1) ところが、『大和史』は、忍海郡の南に位置する葛上郡日置郡について、「櫛羅村」とせず、 「已廃存倶尸羅村」として現御所市大字櫛羅に比定する。(注2) 櫛羅は、「倶尸羅」ともされていたのである。 「櫛羅の滝」は、「倶尸羅」=「ホトトギス」の名が多岐にわたることを掛けたものではないか。
鷹等・鯨(くぢら)[2018 10/8修正] 古代の葛城と忍海郡 古事記や日本書紀(神武天皇即位前紀戊午年秋八月条)の久米歌(くめうた)に、 「宇陀の高城に鴫罠張る  我が待つや鴫は障らず いすくはし鷹等(鯨)障る」とある。 この鷹等・鯨(くぢら)は、鯨、鷹、猪(山くぢら)などとされている。 しかし、宇陀の高城は、神武天皇が東征する大和国の入り口であり、山中であるから、例えとしても海の勇魚は相応しくない。 鯨は、銛を打つもので網を用いるものでない。 同様に、鴫罠、つまり、鳥を捕らえるカスミ網に猪が掛かるのも頷けない。 鷹等(くぢら)を鳥と考えるならば、鴫と比較される鳥となる。 インドの鳥に「倶尸羅」がいる。「拘耆羅・拘枳羅・倶伎羅くきら」とも言う。 「インドにすむ黒いホトトギスに似た鳥。…また、ホトトギスの異称(広辞苑)」とある。 鴫が海から長い距離を渡ってくる鳥ならば、ホトトギスはどちらかと言えば、山にいる鳥である。 すると、「いすくはし」は、網に掛かって、「居すく(まる)嘴=鳥」ということになろう。 ホトトギスの別称は、「死出の田長」である。 この久米歌の意味は、「海から渡って攻めてくる神武天皇を迎え撃つため、菟田の兄猾(えうかし)が天皇を罠にかけるための 仕掛けを造ったが、逆に山人(仕手〔やり手〕の田長)である自分が罠に嵌まったよ。」という意味であると思われる。 宇賀志(穿邑の穿つ:丹沙を取るための穴を掘る)の地名は、迂闊(うかつ)が掛かっているように思われる。 冒頭の忍海郡は、さながら地上絵である。 押し機に上下を挟まれて、忍み(身)になっているのである。 そして、忍海郡は四郷である。 (注1)吉田茂樹著『奈良・京都地名辞典』新人物往来社、2007年。 (注2)『奈良県の地名』平凡社、1981年、43頁。 (参考文献) 角田文衛「宇陀の高城」『近畿古文化論攷』吉川弘文館、昭和38年、263-276頁。 和辻哲郎『和辻哲郎日本古代文化論集成』書肆心水、2012年、187-189頁。
名寸隅[2020/7/27] 名寸隅の地名 万葉集6-935/937 に「名寸隅乃船瀬」が現われる。 船瀬は、船息・泊・津・港・湊などと同様の施設であろうが、「名寸隅」の地名は見えない。 万葉集6-935の歌は、「名寸隅乃船瀬ゆ見ゆる淡路島」とある。 題目に「(神亀)三年丙寅秋九月十五日幸二於播磨國印南野一時笠朝巨金村作歌一首丼短歌」とあるから、 奈良の都から播磨国印南野までの道中の地名で淡路島が見える場所に位置すると思われる。  瀬戸内にある港・浜の地名を探る。
地名内容備考
播磨風土記明石浦、阿閉津、?[木編に射]津、印南浦、継潮、飾磨津、 宇頭川の泊、宇須伎津、御津、室原泊、林の潮松原弘宣99頁表10ほか。
日本書紀水児船瀬、務古水門(神功摂政紀)武庫水門(応神紀)松原弘宣98頁表9ほか。
万葉集明大門・門(254/255)、 明湖(1239)、藤井乃浦(938)、藤江乃浦(939)、名寸隅船瀬(935/937)、室乃浦(3164)、居名之湖 (1189)、武庫能浦(3578)、大和太乃濱(1067)、御立為之(178/180/181/188)、敏馬乃埼(389)三犬女乃浦(946) 見宿女乃浦(1066)、縄乃浦(354) 縄浦(357)、可古能湖(253)松原弘宣98頁表9ほか。
住吉大社記魚次(なすき)濱、阿閇津浜、阿閉魚住二邑松原弘宣98頁表9。
行基五泊播磨の?[木編に聖]生、韓、魚住、摂津の大輪田泊、河尻三善清行『意見封事十二箇条』延喜十四年(914)
魚住魚住泊(重源作善集:なすみ)、魚住船瀬(類聚三代格)、魚住庄(住吉年領紀)、いをすみ庄 (肥塚文書)、伊保角(兵庫北関入船納帳)、播磨国印南野魚住、
その他赤穂大津(東大寺文書)、韓泊(東大寺文書:加良止麻利)、大物浜(平安遺文)、務古水門(同左)、大輪田船瀬(日本後紀/三代格)、江崎[江井島] (和漢三才図会)松原弘宣98頁表9/136頁表16。ほか。
 船瀬「名寸隅」の地名は万葉集の笠朝巨金村作歌等の歌の世界以外には見えない地名である。(1) 「名寸隅」と「魚住」  『類聚三代格』天長九年(832)官符に「魚住」、貞観九年(867)官符に「明石郡魚住船瀬」が見える。  延喜十四年(914) 三善清行『意見封事十二箇条』に「魚住泊」が見える。年月未詳の住吉年領紀(続左丞抄)に 「神功皇后御宇被奉寄所々」として「魚住庄」とあり、摂津住吉社領であった。 (2)  摂播五泊については 三善清行が延喜十四年(914) に奏上した『意見封事十二箇条』 (3)に、播磨の?生、韓、 魚住、摂津の大輪田泊、河尻までの五泊(港)は、行基が一曰間の行程(航程)を測り、設置した重要な港として記 されている。  「播磨のいなみ野の魚住の泊りは、行基が「このあひだ遠し。舟とまりの便りよからす」とて造りたり。」(4) とある。  「魚住泊跡」は現在の明石市江井ヶ島港のことである。(5)    「名寸隅」とは「魚住」のことである。    「名寸」は「魚」の草体を誤って二文字で伝えたものであるという説と、「なきすみ→なすみ→うおずみ」と    地名表記の音の変化を考える説がある。(6)  『大日本地名辞書』は、「魚住うおすみ」を「初め名寸隅と曰へるを、また、魚住なすみに作り、何の世よりか其文字 により宇袁須美と呼ふことゝ為る、…」(7)とする。  「魚住船瀬は現明石市魚住町に位置し、『万葉集』にみえる「名寸隅乃船瀬」のことで、遅くとも八世紀前半には船 瀬として存在していた。…『住吉大社神代記』魚次濱は歌見(現二見町か)と大久保の間と考えられ、名寸隅は魚次・ 魚住と考えることは妥当である。」(8)  「魚住泊所を公認されたのは天平年間からであった。その以前は名寸隅と称していた。隅は海隅のことで、際限の ない海に一角に、一所の際目の所があるをいうのである。 名寸は凪で、凪たる海隅をいうたのである。魚住は名寸 隅の名が魚のナで、隅が住であるというが確かでない。」(9)というように、名寸隅は魚住であっても「名寸隅なきすみ 」から「魚住なすみ・うおすみ」の変化は理解しがたい。  同じく、『住吉大社神代記』に「魚次M(ナスキノハマ)」がある。(10)  神社の名にも「魚次神社」があり、『新抄格勅符』に「奈須岐」に作る(11)から、「魚次(なすき)」=「魚住(なすみ・うお すみ)」とすることは確信が持てない。(12)  「魚次」に似る地名に「宇須伎津(播磨風土記)」「名次神社(大日本地名辞書2)」「名次(なつぎ)山(万葉集3-279)」(13)、 現在の地名にも「魚崎(神戸市東灘区)」がある。  長坂寺の縁起に、推古天皇五年、聖徳太子が百済の王子阿佐太子が来朝し、帰国の際、明石郡魚住泊まで見送っ た(14) とあるから、天平年間以前にも、魚住泊があった可能性がある。行基は、神亀三年以前に播磨を巡行していた。(15)  先に示した誤字説、「名寸」は「魚」の草体を誤って二文字で伝えたものであるという説は、以前、ある史料で読んだ ことがあり、的を得た見解と思った。  魚の俗字は、ヨツアシの部分を大と書く。魚の上部分を「名」とし、大は「寸」と読み間違うことはあり得るし、「名寸隅」は 歌の世界でしか見えないのである。  神功皇后、聖徳太子の時代から魚住泊を経由した伝承が残る。 してみると、「名寸隅」は「魚隅」の誤字であると思われる。(16) 註 (1)藤原光俊(1203-1276)の歌に、「なきすみの船瀬を過ぎて今見れば背(そむ)きに霞む淡路島山」がある。 『宝治二年(1248)百首』『夫木和歌抄』に収載される。 (2)『兵庫県の地名』2、平凡社、122頁。 (3)竹内利三校注「意見十二箇条」『古代政治社会思想』日本思想大系、岩波書店、1972年。/ 群書類従第27輯巻474、129-130頁。/ 第十二条、重ねて請ふらくは、播磨国魚住泊を修復すべき事として、 「一、重請復播磨国魚住泊一事  右臣伏見、山陽西海南海三道、舟船海行之程、自?[木編に聖]生泊 韓泊一日行、自韓泊魚住泊一日行、自魚住泊一至大輪田泊一日行、自大輪田泊河尻一日行。 此皆行基菩薩計程所建置也。延喜十四年四月廿八日 従四位上行式部大輔臣三善清行上」 (『本朝文粋』巻第二、新日本古典文学大系27、1992年、岩波書店) (5)『明石市史』60頁。/『稲美町史』110頁。/『えいがしま歴史まちあるき』、/ 『和漢三才図会』「江崎[江井島] 」(平凡社東洋文庫505)/ (6)明石市魚住にある住吉神社案内板の解説 (7) 吉田東伍『大日本地名辞書』、冨山房、19年、851頁。 (8)松原弘宣『古代国家と瀬戸内海交通』吉川弘文館、2004年、101頁。・146頁。 (9)土口泰行編『摂津播磨における行基菩薩の御業蹟』長福寺考古資料館、1984年、143頁。 (10)「魚次M:他見なし。四至より推せば魚住なるべし」(『住吉大社神代記』刊行会編、1951年51頁下注5。) (11)『大日本地名辞書』第二巻、冨山房、1970年595頁。 (12)万葉集の「名寸隅」は古代には魚住を「名隅」「魚次(なすき)」と呼んでいたことからおそらく「魚掬き」 つまり魚を掬うの意味であろう。(『えいがしま歴史まちあるき』江井ケ島文化遺産冊子作成委員会、年、8頁。) (13)名次山は、広田大社の西の岡を云ふ。西宮市名次町の丘陵(『万葉集』1、岩波書店、地名一覧30頁。) (14) 土口泰行152頁。 (15)『峯相記』「印南郡法花山、神亀三年十月、行基僧正仙跡ヲ尋ネテ参詣ス。」(『大日本仏教全書』117、276頁。) 神亀二年には、聖武天皇の勅により行基が清水寺(加東市平井)の大講堂を建立した伝承がある。(『兵庫県の歴史散歩』 下、山川出版社、2006年、62頁。) (16)「魚住の地名は、『万葉集』に『名寸隅の船瀬』とでてきますが、これは『魚隅』の誤記とみてよいでしょう。」 (『明石の古代』(2013年11月、発掘された明石の歴史展実行委員会発行)同書8ページ) [参考] 松原弘宣『古代国家と瀬戸内海交通』吉川弘文館、2004年。 土口泰行編『摂津播磨における行基菩薩の御業蹟』長福寺考古資料館、1984年。 吉田東伍『大日本地名辞書』第三巻「播磨(兵庫)印南郡」冨山房、1970年。 『地名大辞典』「兵庫県の地名」T・U、平凡社、1999年。 『えいがしま歴史まちあるき』江井ヶ島文化遺産冊子作成委員会編、2018年。

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