上町台地難波宮考



上町台地難波宮考―前期難波京は豊崎宮か―

はじめに
 難波長柄豊碕宮の歴史的位置は、「一九五四年、山根徳太郎氏によって上町台地法円坂一
帯の発掘調査が始められた。やがて、前後二時期にわたる宮室遺構が検出され、後期遺構は
聖武朝難波宮と推定されたが、前期遺構については容易に解釈が定まらなかった。…
一九八一年の内裏東方遺跡、八六・九四年の「朝集殿」、八七年の内裏西方倉庫群、八八年
の東八角殿、九三年の「朱雀門」など次々に貴重な発見がなされ、前期難波宮に関する知見は
厚みを増している。今日では〈上町説〉は、まず誤りないものと考えられる。難波長柄豊碕宮は、
主に考古学的方法によって、その地理的位置がほぼ確定されるに至ったのである。」(1)とされて
いる。
 この確定したとされる「上町台地のおける前期難波京を難波長柄豊碕宮とする」解釈が妥当で
あるかどうかを考察していきたい。

1 歴代天皇の難波宮

表1 歴代天皇の難波宮の変遷
天皇備考
応神天皇大隅宮
仁徳天皇高津宮
欽明天皇難波祝津宮
推古天皇聖徳太子天王寺建立
孝徳天皇難波長柄豊碕宮など小郡宮、難波碕宮、味経宮、大郡宮、難波長柄豊碕宮白雉3年完成
斉明天皇難波宮斉明元年、六年(660)
天武天皇羅城・難波宮天武6年(678)摂津職、8年羅城築造、12年複都制、朱鳥元年(686)火災により焼失
文武天皇難波か大宝元年、遣使於河内摂津紀之国営造行宮
元正天皇難波宮養老元年
聖武天皇難波宮神亀三年藤原麻呂造事難波宮、天平六年造難波宮長官
孝謙天皇難波宮
桓武天皇難波宮建築材を長岡京に運ぶ
 難波における歴代天皇の宮は上表1のとおり、多くの天皇代において、宮城が造られて いる。そのほとんどは、所在が不明であり、孝徳天皇の代においても小郡宮、難波碕宮、 味経宮、大郡宮、難波長柄豊碕宮があり、消失したとされるものには、孝徳天皇大化三年 晦に中大兄皇子の宮が火災に遭っている。正史の中には記載されない火災も存在する可 能性がある。そのような状況の中から、上町台地における前期遺構の火災の痕跡だけをと らまえて、その火災が天武天皇の朱鳥元年(686)の火災であると決めつけ、その火災痕跡 のある宮施設を前期難波宮の遺構を難波長柄豊崎宮と特定するのはいかがであろうか。 2 上町台地における難波宮 (1)「火災に遭った痕跡のある」前期難波宮の遺構  上町台地法円坂町周辺の発掘調査により、宮城の遺跡が確認されることとなる。  中尾芳治は、「後期難波官に先行し、火災に通った痕跡のある前期難波宮の遣構が天 武天皇の失鳥元年(686)正月に焼亡した難波官に当たることは間違いがない。 問題はそれがいつ造営されたかであり、日本で初めて本格的都城と言われる孝徳朝の難 波長柄豊碕宮との関係如何ということである。」(2)とする。  この長柄豊碕宮の所在については、江戸時代以来多くの学者が論争を重ねてきたところ であるが、 その説の一つは上町台地であり、もう一つの説は長柄豊碕の地名から本庄長柄 のあたりとする下町説である。  そして、その上町台地説を支えるのが、発掘調査による考古学的研究成果・見解である。  一九五四年から山根徳太郎が発掘してきた上町台地法円坂一帯の遺跡調査の比定から、 長柄豊碕宮が脚光を浴びる。山根徳太郎は法円坂遺跡を四期に分ける。 「第一期は白雉三年に完成した難波豊碕宮、第二期は天武天皇の時に改造され朱鳥元年 正月に焼けた難波宮、第三期はその後再興された難波宮、第四期は神亀三年から天平六 年までに改造され、延暦十二年に廃止された難波宮に相当すると推定されている。」(3)  この四期説はその後どう変遷したのか。 「山根徳太郎は、…聖武朝難波宮に先行する建築が少なくとも二時期あり、その第U期の時 に火災に遭って消失していることが明らかになった。」(4)とする。 表2 上町台地難波宮の比定説
山根徳太郎 1954山根徳太郎 1959澤村仁 19631970中尾芳治 1995積山洋 2014
第一期難波豊碕宮難波豊碕宮難波豊碕宮前期難波宮=難波長柄豊碕宮33年後消失孝徳朝(初期)
第二期天武天皇難波宮天武天皇十二年造替宮火災第3期と同規模の難波宮火災天武朝(前期)
第三期再興した難波宮聖武天皇難波宮朱鳥元年(686)火災難波宮聖武朝(後期)
第四期聖武天皇難波宮聖武天皇難波宮後期難波宮=聖武天皇難波宮聖武朝
 『難波宮址の研究』第六(難波宮址顕彰会、1970年)では、 「山根徳太郎によると、第一期の遺跡は、火災にあってない宮跡で、難波豊碕宮と想定され た。第二期の火災跡がある遺跡を天武天皇難波宮とした。」とされるように、火災の痕跡の 有無が難波宮の比定の判断基準となっている。  「火災痕跡のあるものより先行する時期の建物が第一〇次、十一次、一二次で検出された 東・西細殿のほかに発見されないこと、しかも東・西細殿の造替が掘立柱の耐用年限によるも のでなく、実用上、デザイン上の理由によると考えられる。」 (5) 火災の後が見えない施設 「第二期の建築のみが火災を受けている事実」から、火災にあってない宮跡第一期の遺跡は、 東・西細殿だけであることをどう考えるか。課題として残す。 二つの時期の火災  「発掘の結果、まず天武天皇朱鳥元年(686)に焼けた難波宮がここであることが確実とみ られるようになり、ついでこの火災を被った宮殿建築以前にも、ほぼ同じ規模と配置の建物 が一度建てられ、改造再建されてから火災のかかったとみられることが明らかになった。」(6) とされる。  二度の火災があった状況から、前期難波宮は何度も再建されたと思われるが、「一九六七 年八月刊行の『日本の考古学』Zでも、焼失した難波宮は天武朝に新しく成立したものでなく、 長柄豊崎宮が一部改築されたり、修理されたあとで焼けたとされた。」(7) とされる。  「前期難波宮では、一部を除くと全面に造替の痕跡が認められない点に対する疑問」 (8) があるが、結論として、「大化当時営まれた孝徳朝の難波長柄豊碕宮が天武朝まで存続して いたのを利用して、それを一部改築・補修して再用したものであって、それが天武天皇朱鳥 元年正月に焼失したのであると考えることができる。」 (9)とするが理解し得ないのである。 単純化する難波宮の成立論  「前期難波宮は朱鳥元年(686)の火災により焼け落ちたことがわかっている。」  「難波長柄豊碕宮は、完成した白雉三年から消失した朱鳥元年正月までの三十三年間を 存続しえた」  「出土木簡の「戊申年」は共伴土器の年代観により大化4 年(648)と推定される。」  「一九七〇年の『難波宮址の研究』第六では、 ついに前期難波宮こそが難波長柄豊碕宮 であろうとの論断を行なった。」  上町台地上にあった難波宮は、孝徳天皇時代だけでも、小郡宮、大郡宮、長柄豊崎宮など があり、位置が特定できない。大化元年(645)から長岡京遷都の延暦4年(785)まで、約140年 の間の宮城の成立は単純化できるものではないと思われる。  複雑な物事を単純化すると分かり易くなるところはあるが、物事を切り捨てたり、省略する ことは物事が見えなくなることに繋がるのではないか。 (3)難波地域の土器編年からみた難波宮の造営年代について 表3 土器編年の区分・年代と時代の概要
区分細区分年代時期備考
15C-6C初頭法円坂遺跡大倉庫群が造営される時期大型倉庫16棟
2古段階6C前半倉庫群が廃絶後、集落が営まれた時期
新段階6C第4半期- 7C第1半期
3古段階620-640年代難波宮下層遺跡:建物増加、規模拡大四天王寺の造営、前期難波宮の造営
中段階650年代難波宮下層最末期、埋立谷埋土、水利施設第7層
新段階660年代出土範囲が宮城周辺に広がる
4古段階7C第4半期上町台地の人の活動が見えなくなる。史料は縁辺部で出土。飛鳥遷都と一致するか。
新段階8C第1半期
5古段階8C第2半期広範囲に史料が増加する。後期難波宮の時代平城宮土器3の前半に並行する。
中段階平城宮土器4-5に並行する。
新段階8C末-9C初頭長岡京遷都784年長岡京、平安京初期に並行する。
以後上町台地の遺構・遺物は中世まで途絶える。河内系土器
 佐藤隆論文(10)から土器編年の根本である土器史料を示さないまま、暦年の区分を記載し た表5をまとめた。  佐藤隆は、「白石太一郎論文が、難波と飛鳥の資料の比較から、「難波宮整地層の土器のも っとも新しく見える個体を660年代中〜後半と位置付け、三次水利施設第七層の土器が660 年代の早い段階としても、652年完成の難波宮整地層にあるのはおかしいとする」ことを述べ、 更に「難波3中段階の暦年代は七世紀中頃や640年〜660年を推定し、仮に660年に近い年 代であったときには難波長柄豊碕宮であるという結論にはならない。ただし、これは土器という 遺物が持っている資料的限界であると考え、あくまでも『日本書紀』の記事によれば、という表現 を用いてきた。」 (11)とする。  「第四〇次調査において、前期難波宮朝堂院東回廊址の掘立柱掘形埋土中より七世紀中葉 に比定できる完形須恵器坏の蓋が出土した。この須恵器の年代が直ちに前期遺構の造営時期 をきめるものではなく、その上限を画するにすぎないとしても、少なくとも整地や遺構の造営時期 を七世紀中葉とみる見解と矛盾しない点を評価したい。」 (12)とする一方、小森俊寛は「前期難 波宮の整地層の下にある…下層遺跡の年代下限は出土遺物などから六六〇年代前半頃と考え られる。このことから、「前期難波宮遺構」は天武朝期の造営としか考えられない。」(13)とするよう に幅がある。  土器の編年にかかる資料的限界については、相対的年代観は想定されても絶対的な年代の 決定は困難と思われるところである。  佐藤隆は「多くの研究者が652年に拘る理由がよく理解できない。…前期難波宮は七世紀中 頃に造営された宮殿であり、それを『日本書紀』を編纂した八世紀前葉の人々が、「難波長柄豊 碕宮」と記したということである。…『日本書紀』の記述に縛られず、七世紀中頃に難波地域に造 営されたこの宮殿をどう評価して歴史の中に取り入れていくかについて改めて問題提起を行いた い。」 (14)とされるように、実存した「前期難波宮」の解明が課題である。 3 前期難波京の構造 表4 前期難波宮の中枢部の構造
段階中枢部の構造備考
中枢部内裏、内裏後殿、内裏前殿、東西八角殿、内裏南門、朝堂院、朝堂院南門、東西朝集堂、宮城南門(朱雀門)内裏前殿は後の大極殿に相当する。全て掘立柱建物で屋根は板葺き。火災の痕跡
東方官衙倉庫を伴う同一区画の官衙的施設(三区画)火災の痕跡が見えない。
内裏西方官衙倉庫を主体とする官衙、並び倉、水利施設並び倉は正倉院の構造に似る。
注)『難波宮址の研究』に準拠する。磐下徹2020年、30頁により作成する。 内裏南門 「内裏南門は時代が下るとともに小規模化する傾向があるが、SB3301は古代の官殿につく られた内裏南門としては藤原官の大極殿南門と同じ柱間数であり、最大規模のものである。 …柱は抜き取られているが、抜き取る方向として、南側柱は南側に、北側柱は北側に、また 中央棟通りの柱は西側に抜き取られている。  建物周囲に、本柱よりはひとまわり小規模な柱穴が検出されている。 …柱の抜き取り穴には焼土や炭化物が混入しているという特徴があるが、この小柱穴にも同 様に焼土が混入しているものが多いことから、この柱も焼失時に存在していたことがわかる。」(15) 大規模な宮殿構造  朝堂院が14棟乃至16棟の規模を持つ。 これは、後の元明天皇藤原京の12棟より多いのである。 宮殿建築:大陸式の建築様式が採用されるようになるのは藤原宮以降である。 前期難波宮の建築は、過渡期の建築様式として、極めて興味深い例といえよう。(16) 大極殿左右の建物  藤原京(東西一対の楼閣)、平城京(二対)に東西に長い建物が見える。 前期難波宮では、これが複廊で囲まれた、一辺17.5mの八角形の楼塔をなす。  一九八一年の内裏東方遺跡、八六・九四年の「朝集殿」、八七年の内裏西方倉庫群、八八年 の東八角殿、九二年の「朱雀門」が発掘された。 ・寸法 柱間29.2m(10尺)は、船首王後墓誌天智天皇7年668年(29.391p)の時代観に近い ところがある。 ・瓦が使われていない。 ・内裏西方官衙は、倉庫を主体とする官衙、並び倉のほか、その北西に水利施設がある。 ・並び倉は正倉院の構造に似る。 東方官衙・宮殿中枢部の火災痕跡の有無  「内裏や朝堂院など中枢部の遺構からは焼け焦げた土等が検出される」 (17)  「東方官衙は区画施設が重複しており、同場所で建て替えが行われた。  東方官衙の柱穴からは焼土が発見されておらず、686年(朱鳥元)の火災に被災していない とみられる。一方、宮殿中枢部は建て替えられておらずに火災痕跡があり、東方官衙では火 災痕跡がなくて建て替えが行われている。このことを解釈すると、火災で焼亡した前期難波宮 は建替えを行う寸前まで老朽化していたとも考えられ、その創建が天武朝ではなく、孝徳朝で ある蓋然性が高まるのである。」(18)  このような見方により、前期難波宮は孝徳朝に完成した653年から686年まで、33年存在 したとする結論が導き出されていると思われるが、木造建築物が長期間存続することは無理 があり、批判される。 (19)  また、東方官衙に関して言えば、東方官衙の建造は火災痕跡がないので朱鳥元年正月以 後に建造されたものと思われ、同年12月に天武天皇が崩御するから、持統天皇以後に建造 された可能性までが視野に入ると思われる。  つまり、前期難波宮は天武天皇以後まで時代が輻輳する可能性がある。 4 難波宮下層遺跡の建物群  前期難波宮造営直前まで集落遺跡があり、造営時の整地層によって埋没している。 (20)  難波大郡説:前期難波宮の内裏前殿と重なっている。(21)  中央地域(前期難波宮の西八角殿院の一帯) ・台地平坦部に方向が同一または直交する傾向の建物群が存在する。 ・台地平坦部にN20度強Eで方向がまとまる、大型の東西棟・長い南北棟・塀などで構成 される建物群が広がる。 ・官衙的な建物群が存在した。 ・柱間寸法約2.5mと周辺の難波宮下層建物に比べて広い。 ・溝の一つからは七世紀前半の須恵器が出土している。 ・建物群の東に別の一群があり、中に11間(21メートル)以上に及ぶ回廊のような建物があ る。 (22)  以上、前期難波宮の下層遺跡として、集落遺跡と共に官衙的な建物郡の存在が想定され、 難波大郡とする見方がある。孝徳天皇の宮には、長柄豊崎宮のほかにも小郡宮、大郡宮が あるので、大郡宮=味経宮とするならば、上町台地上に大郡宮が存在した可能性は高いと 思われる。  『日本書紀』の記事に、白雉元年正月辛丑条「車駕幸味経宮、観賀正礼」、同年二月甲申 条「朝廷隊仗、如元會儀、左右大臣百官人等、為四列於紫門外…至中庭…」、白雉二年十 二月晦条「於味経宮、請二千一百余僧尼、使読一切経。」とあり、長柄豊崎宮に遷るまでに 存在した大郡宮=味経宮には、宮廷行事や仏事を行う広い宮空間があったことが想定される。  『日本書紀』の記事からは、大郡宮と難波長柄豊碕宮は、場所は異なるが、時期的には共 存していることが窺える。  前期難波宮を難波長柄豊碕宮と考えるならば「前期難波宮の下層遺跡を難波大郡とする」 ことは論理的に整合しない。  また、難波宮の規模を考えた場合、『日本書紀』では難波長柄豊碕宮が白雉元年十月に着 手されてから完成する白雉三年九月まで二年間とする。このような短期間で、前期難波宮が 造営されたとは思えない。 5 難波宮の出土遺物について  「前期難波宮は朱鳥元年(六八六)の火災により焼け落ちたことがわかっている。その後の焼 け跡処理にあたって、壁土等の残骸を宮殿東側の窪地に投棄したものとおもわれる。それら は位置関係から主に内裏の中心部の建物に使用されたものと考えられている。  壁の表面が残るもののなかで七割は荒壁・中塗りの二層からなり、残りの三割は白土塗り である。これまでの調査でみつかっている焼上の出土状況(位置)から、内裏周囲の回廊など の大多数の建物は白土塗りでない通常の土壁であると考えられており、内裏前殿などの一部 の中心建物が白土塗りの白壁であったと考えられる。 鉄釘はこれまでの調査で出土していたものと合わせて二点ある。釘頭が二・八センチ×二・四 センチで、復元すると三〇センチほどとなり、現存するものでは唐招提寺金堂の地垂木止釘 に近いという。  榛原石は正確には流紋岩質溶結凝灰岩といい、奈良県西部の室生地域で産出する。 端面を丁寧に打ち欠いて直線的に加工し、二〜三センチの厚みに平たく整形している。 残存する長辺が一〇センチ以上のものが二五点ある。奈良地域では古代寺院の基壇や敷石 に使用されており、前期難波宮でも類似の使い方がなされていた可能性が高いが、使用部位 は明確でない。このほかに碑も出土している。  前期難波宮は全体の計画から個々の建築の設計、施工計画にいたるまで、高度な計画性 がみられ、中国大陸もしくはその影響を受けた朝鮮半島の進んだ造営思想、設計手法、技術 が反映されていることを先に述べた。それらを具体的に示す資料として、上記の出土物は興味 深いものと言える。」(23) 周辺施設の時代検証  「府庁の一帯では、難波宮下層遺跡や奈良・平安時代の遺跡がみつかっているが、前期難 波宮の段階にだけ遺構がなく、人々の生活の痕跡がない。」(24) 水利施設遺構  難波宮の西にある倉庫群の西隣に石組と湧水をためた水利施設が見つかった。石組みの 上水路は六甲山などから運んだ大きな花崗岩で作られ、長さ二百メートル以上と推測される。(25)  大型の水溜め木枠の伐採年が年輪年代測定により六三四年とされる。(26) 年輪年代測定による伐採年が正確ならば、木枠が再利用された可能性があるかを考慮しなけ ればならない。 前期難波宮の出土木簡   『難波宮跡北西部の調査』(大阪府文化財センター現地説明会資料2、2004年)によれば、 「戊申年」と書かれた木簡が出土したのは難波宮跡の北西に位置する大阪府警本部で、その 谷だった所(7B地区)の地層の「十六層」で、「木簡をはじめとする木製品や土器を包含すると ともに、花崗岩が集積した状態で検出されている。出土遺物からみて前期難波宮段階の堆積 層である。」(12頁。)とされている。敷地から、古代の谷を検出し、粘土層から、絵馬や斎串の ほか、人形や琴柱などの祭祀関連遺物が出土した。  木簡は「山部王」「王母前」「秦人凡国評」など三三点確認されたものが出土している。(27) 最古の「戊申年」木簡  「1999年(平成11)に内裏西方官衙北方での「戊申年(西暦六四八年)」木簡の発見によって、 遺構としての前期難波宮がすなわち孝徳朝の難波長柄豊崎宮であることが証明されたとみて よい。」(28)  「戊申年」=648年は、大化四年にあたる。味経宮の造営開始の時期である。 「戊申年」を大化四年とする根拠が乏しいと思われる。戊申年を和銅元年(708)、神護景雲2年 (768)と考えることも可能であろう。 日本最古の万葉仮名文木簡  二〇〇六年秋、難波官跡の発掘調査で発見された木簡が新聞各紙の一面を飾った。 この本簡はわずか一一文字が残るだけであるが、日本語の発達史に大きな一石を投じる資料 となった。  木簡は長さ一八・五センチ、幅二・七センチの小さなもので、片面に「皮留久佐乃皮斯米之 刀斯」と書かれ、 一二字目をわずかに残して下が欠けていた。  「春草のはじめの年……」と読むのが最も穏当とされている。「春草の」ではじまる文は和歌 のように思われる。(29) 6 後期難波宮 表5 後期難波宮の中枢部の構造
段階中枢部の構造備考
後期難波宮古段階内裏、大極殿院、朝堂院、五間門区画(東部)朝堂院の南に朝集殿院があった可能性がある。
後期難波宮新段階内裏、大極殿院、朝堂院、北・南区画(西部)五間門区画→南北溝(築地か)
後期難波宮内裏東方遺跡、「朝集殿」、内裏西方倉庫群、東八角殿、「朱雀門」
 前期難波宮よりも層位的に後出することの明らかな一連の遺構を、後期難波宮とよんでい る。 (30)  高橋工によると、後期難波宮についても、古段階と新段階の二区分を想定している。(31) ・内裏は掘立柱建物であるが、大極殿院、朝堂院の建物は瓦葺、礎石立ちとなる。区画施設に は、築地塀も採用されるようになる。造営尺0.298メートル (32) ・宮殿は瓦を使用する。蓮華文と重圏文の軒丸瓦は後期建物に葺かれていたもの。(33) ・基壇や整地層から良好な土器の資料が得られていない。 ・「難波5古段階の土器と伴出するものが、最も古く、造営年代を知るうえでの手がかりと なっている。(34) ・東方官衙区画2からシビ片が出土する。 ・前期と比べると、八角殿がなくなり、朝堂の数も減少している。 7 上町台地難波宮の変遷 表6 上町台地宮の変遷
高津宮比定説区分備考
難波宮下層遺跡難波大郡台地平坦部に方向が同一または直交する傾向の建物群、別に一群あり。
前期難波宮東西八角楼閣、規模が大きい。
前期難波宮焼失後東官衙持統天皇以後。
後期難波宮説
(聖武天皇)
藤原麻呂造事難波宮
注)五世紀には十六棟の倉庫群が存在した。磐下徹2020年、34頁。 豊碕宮ほどの朝集殿はついに飛鳥の地に出現しなかった(35) 豊碕宮が巨大化した理由は大化五年に「八省百官の府」が発足して官僚機構の執務空間が宮 内に設けられた。(36) 難波宮の上下二層の遺構は、ともに規模や格式が他に抜きんでており、その画期性や重要性 を看取できる。(37)  以上、上町台地の難波宮を通観してきた。 〇東西八角殿、大規模な朝堂院(38) 〇石造及び六三四年伐採の水利施設 〇日本最古の「戊申」年木簡(39) 〇日本最古の万葉仮名文木簡(40) 〇最古の絵馬残欠(41) 〇各地から集められた花崗岩(42)  これらを並べてみると、違和感がある。 中軸線が同一の宮城  「後期難波宮の朝堂院や内裏は、前期の朝堂院や内裏回廊のなかにほぼ収まっている。… 前期の建物が後期の建物配置を規制することは明らかである。何らかの目印があったことを示し ている。」(43)  「難波宮跡出土瓦は、ほとんどが後期難波宮にともなうものである。ところが、前期の遺 構から瓦が出土する事例がある。例えば、前期東八角殿の柱穴からは完形の重圏文軒 丸瓦が出土し、前期の内裏南面の柱の抜き取り穴などからも瓦が出土している。こうした 現象は前期の掘立柱を抜き取る際、付近にあった後期の瓦が混入したと考えない限り説 明がつかない。とすると、前期の柱は後期の造営の開始にともなって(後期のための瓦が 用意されてから)抜き取られたことになる。しかも抜き取りは一斉に行われている。つまり 前期の内裏や朝堂院の焼け残った柱は、後期の造営が始まるまでの約四十年間、その まま保全されていたのである。そしてこう考えることで、前期と後期の建物の絶妙な位置関 係も理解できる。後期の中枢部は、焼け残った前期の柱を目印に配置されていたのであ る。」(44)  前期の柱を目印に後期の柱が配置されたという理解で、前期・後期建物の整地層の出 土物について齟齬を来さないものならば、別の見方ができる。  火災した前期の建物が四十年間、そのまま保全されていたというより、前期建物が火災 後、そう遅くない時期に後期建物が建設されたとする方が理屈に合うのではないか。  さらに考古学的に説明が不足している点を挙げると、 ・前期難波宮が朱鳥元年(686)の火災により焼失したこと。 ・前期難波宮から後期難波宮が建造までの期間の想定。 であるが、それが不明のまま論を進める。  『日本書紀』「朱鳥元年正月乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉に焚けぬ。 或曰はく、「阿斗連薬が家の失火、引りて宮室に及べり」といふ。推し兵庫職のみは焚けず。」  兵庫職を残して「宮室悉に焚けぬ。」とあるから、相当規模の火災であったことが窺える。 その焼け跡は炭化した木材などが整地層に残ったり、近くの谷に放棄されたと思われるが、 資料からは火災を受けた痕跡や焼けた壁土の残滓に留まるようである。  前期難波宮では、東方官衙が火災を受けていない。東方官衙だけが朱鳥元年の火災に 会わなかったことは不審である。次に想定できることは、東方官衙は朱鳥元年以後の建造 とすることである。次に、正史ではすべての出来事を記載しているのではない。宮室の火災 は、朱鳥元年だけに留まるものでないことを想定すると、前期難波宮の火災痕は部分的な 火災ではなかったか。そのように考えて、次に移る。  『続日本紀』天平十六年三月十五日に東西の楼殿において僧三百人を講じて、大般若経 を読ませているから相当規模の建物であると考えられる。聖武朝と目される後期難波宮には、 東西の楼殿がない。『続日本紀』には、東西の楼殿が八角殿とはしていないが、僧三百人が 入ることができる楼殿には前期難波宮の東西の八角殿を充てることができる。 法隆寺西円堂は養老年間、夢殿は天平九年に作られている。興福寺にも天平六年八角円 堂の北円堂、南円堂が造られる。  後期難波宮にはない東西の楼殿(八角殿)が前期難波宮に存在することから、前期難波宮 は聖武朝に作られたと思われる。それによって、宮殿の構造や出土物の年代観が修正される。  後期難波宮の造建年代を知りたいところであるが、聖武朝の前期難波宮が部分的な火災後、 同地で建て替えられたものと思われる。後期難波宮の規模が縮小するのは、元正太上天皇 または聖武太上天皇の崩御後かもしれない。 まとめ  上町台地の難波宮を通観すると、二期の中軸線を同じくする宮殿があり、建て替えと火災 の痕跡から、前期を難波長柄豊碕宮、後期を聖武天皇の難波京とする有力な通説を是認 するまでには至らなかった。難波における歴代天皇の宮殿で前期難波宮が難波長柄豊碕 宮と特定し、また、飛鳥遷都後も難波長柄豊碕宮がそのまま継続し、朱鳥元年(686)の火災 により焼失したとすることは無理があろう。考古学的には、前期難波宮が朱鳥元年(686)の火 災により焼失したことを明らかにすることが必要である。  前期難波宮の規模・造形、特に、東西八角殿の存在は、聖武天皇の難波宮と考えることが できる。上町台地の周辺からの出土遺物を見ても、聖武朝と考えれば矛盾なく説明がつくも のと思われる。そして、その後に中軸線を同じくし、規模を抑えて造られる宮は、聖武・孝謙 天皇以後の宮と思われる。 註 (1) 吉川真司「難波長柄豊碕宮の歴史的位置」『日本国家の史的特質:古代中世』思文閣出版、1997年。 73-74頁。 (2) 中尾芳治『難波宮の研究』吉川弘文館、1995年、18頁。 (3) 岩波文庫、『日本書紀』第4巻、413頁補注25-13。 (4) 中尾芳治 註(2) 18頁。 (5) 中尾芳治 註(2) 19頁。 (6) 澤村仁「特集日本の都城遺跡」『仏教芸術』51号、1963年。(中尾芳治19頁。) (7) 中尾芳治 註(2) 19-20頁。 (8) 中尾芳治 註(2) 1995年、20頁。 (9) 中尾芳治 註(2) 28頁。 (10) 佐藤隆「難波地域の土器編年からみた難波宮の造営年代」『難波宮と都城制』吉川弘文館、2014年。 (11) 佐藤隆 註(10) 89頁。 (12) 中尾芳治 註(2) 26頁。 (13) 小森俊寛『京から出土する土器の編年的研究』京都編集工房、2005年。 (14) 佐藤隆 註(10)94-95頁。 (15) 植木久「難波宮跡」『日本の遺跡37』同成社、2009年、39頁。 (16) 植木久 註(15)109頁。 (17) 磐下徹「難波宮:改新政権の宮と天平の都『古代史講義:宮都篇』ちくま新書1480、2020年、36頁。 (18) 高橋工「前期・後期難波宮跡の発掘成果」『難波宮と都城制』吉川弘文館、2014年、64-65頁。 (19)「豊崎宮の造営から朱鳥元年の焼亡までのは約三五年強の年数を経過しており、掘立柱の宮殿が、 この間まったく完全に保管されていたとは考えにくい。」澤村仁「難波宮址第一〇次、十一次、一二次発掘 調査報告」 (20) 松尾信裕「古代難波の地形環境と難波津」『難波宮と都城制』吉川弘文館、2014年、32頁。 (21) 南秀雄「難波宮下層遺跡をめぐる諸問題」『難波宮と都城制』吉川弘文館、2014年、44頁。 (22) 南秀雄 註(21)44-45頁。 (23) 植木久 「難波宮の建築」『難波宮と都城制』吉川弘文館、2014年、109頁。 (24) 積山洋「飛鳥時代の灘波京をめぐって」『難波京から大阪へ』和泉書院、2006年、8頁。/「上町台地 北端部では、では、八世紀後半の遺構が大川に近い場所に多く見つかっている。奈良三彩の小壺や「摂」 の文字が書かれた墨書土器が出土した井戸が見つかった「調査地」、「厨」や「浄」・「万女器」と記された土 器が出土した調査地など、上町台地北端頂部の西縁付近に集中している。そして、その付近から北端部西 側斜面に出土地点が点在している。」松尾信裕 註(20)33頁。 (25) 南秀雄『大阪遺跡』創元社、2008年、130頁。 (26) 『難波宮趾の研究・第十一』大阪市文化財協会、2000年。 (27) 市大樹「黎明期の日本古代木簡」『国立歴史民俗博物館研究報告』第194集、2015年、68-69頁。/ 「山部王」は、672年の壬申の乱で殺された山部王がいる。(生年不詳)舒明天皇の皇子である蚊屋皇子の 子とし、子に三島垂水(垂水王)がいたとする系図がある。 ところが、天平九年に生まれた「山部王」がいる。後の桓武天皇である。木簡で残される山部王は後者の可 能性が高い。 (28) 高橋工 註(18)61頁。 (29) 南秀雄『大阪遺跡』創元社、2008年、134-135頁。 (30) 植木久 註(10)112頁。 (31) 高橋工 註(18)76頁。 (32) 高橋工 註(18)67頁。 (33) 磐下徹 註(17)32頁。 (34) 佐藤隆 註(10)95頁。 (35) 吉川真司 註(1) 92頁。 (36) 吉川真司 註(1) 90頁。 (37) 磐下徹 註(17)33頁。 (38)「大化改新時の政権が果たして藤原宮に匹敵するだけの壮大な宮殿を築き得たかどうかという根本的な 疑問は誰しもが持つところである。」中尾芳治註(2) 31頁。/ 「大阪市中央区法円坂町に所在する難波宮のうち下層の前期難波宮を、この難波長柄豊碕 宮に比定する説が有力視されている。しかしながら、この宮は後の藤原宮以降の朝堂に匹 敵する巨大さを有しながら、特異な形状を有する点が議論の焦点となってきた。すなわち、 十四堂以上の規模と朝堂院区画の広さが、直後の大津宮や浄御原官には継承されず、孝徳 朝に藤原宮規模の官殿が唐突に出現することの解釈が問題となってきた。このため焼失の 痕跡を重視して、天武朝段階に造営されたとの議論も存在する。…都城の発展と律令制・官僚制の充実が 相即的な関係にあった奈良時代以降の様相を前提に考えるならば、孝徳期の前期難波宮=難波長柄豊碕 宮という議論は単純には理解しにくい。」仁藤敦史『都はなぜ移るのか』吉川弘文館、2011年、73-76頁。 (39) 日本最古級の木簡 「実は木簡の年代を考える際、厳密には、A木簡に書かれた年代、B木簡に文字を書いた年代、C木簡が棄 てられた年代、の三つを区別する必要がある。No29の場合、Aが六四八年であることは動かないが、Cは 六六〇年代であった可能性がある。そうだとすれば、AとCはかなりの時間差があったことになる。そこで問題 となるのはBである。No29は二行以上で書かれていることから、記録木簡であつた可能性が高い。また、記録 木簡の場合、過去の年代が記されることも皆無ではない。過去の年代ではないとしても、No29は全部で四回 にわたって書かれており、Bに一定の幅が見込まれる点にも注意する必要がある。さらにいえば、本来「戊申 年」以下の記載は裏面に続いていたが、のちに裏面の墨書が削り取られ、別筆2・3の記載がなされた可能性 も否定できないのである。このようにNo29の年代を厳密に特定するのは難しい状況にあるが、最初の記戦が 戊申年(六四八年)になされた可能性は十分にある。」市大樹註(27)67頁。 (40) 「はるくさ」木簡の考察 「これまでは、わが国で万葉仮名により和文表記がなされるようになるのは、歌聖といわれた歌人柿本人麻呂 の貢献により、天武・持統天皇の頃、つまり七世紀の終り頃にまとめられたことに始まったという意見が大勢だ った。しかし難波宮跡からみつかったこの木簡により、 一気に二〇〜三〇年さかのぼったことになる。このこと は、わが国の日本語表記の歴史や和歌の歴史を考えるうえで画期的な資料となった。」植木久註(15)108頁。 「波」を「皮」とするから、三水偏の省略がある。文字を正しく書く時代から、文字を書くことが多くなり、簡便な書 き方を取り入れた奈良時代とか後世のものと思われる。 大伴家持の歌、万葉集20-4516 「新しき年の初めのはつはるの」にも似る。 (41) 絵馬「起源は古代における神への生馬献上の習俗に発する。生馬献上については『常陸国風土記』や 『続日本紀』など多くの古文献に散見する。ついで生馬の代りに馬形献上の風があらわれた。馬形には土馬・ 木馬などがあり、これらは神域・古墳・集落遺跡などから多数出土する(中略)こうした馬形献上の風が簡略化 されて板絵馬が出現するが、この絵馬はすでに古く奈良時代に存在した。」福田アジオ [ほか]編『日本民俗 大辞典』上巻、吉川弘文館、1999年、213頁。 「奈良時代の歴史を取り纏めた『続日本紀』には祈雨祈願には黒馬を、祈晴祈願には白馬を、大和国丹生川 上社に献上したという記述が多くみられる。しかし、一方では、生馬献上には費用がかかる為、馬に代えて土 馬・木馬などの馬形を献上する風習も生まれた。平安時代の法令集である『類聚符宣抄』には、生馬の献上が 叶わぬ場合、「板立御馬」を奉納するように命ぜられた事が記されている。更に江戸時代の神道に関する用語 を解説した『神道名目類聚抄』には、神馬を献上出来ない者が、木製馬形を造献するようになり、木製馬形をも 献上出来ない者が、馬の絵を描いて献上するようになったと解説している。」 奥山哲也編著『絵馬に学ぶ : 託された祈り・感謝・希望』熱田神宮宮庁、2008年、5頁。 以上の2点の資料はレファレンス共同データベース(愛知文化芸術センター愛知県図書館、管理番号:愛知県 図―02606)によった。 (42) 「この谷底でみつかった大小の花商岩は上町台地では産出せず、北摂能勢の剣尾山・妙見山・三草山、 近江の田上山・比良山等や、河内の亀の瀬、大和〜伊賀、岡山以西産など、実に多彩な地域から集められて いた。これらは集石遺構と呼ばれるが、石組遺構の体を成さず、放置されていた。花粉分析や珪藻分析などに よると、そこは自然の沼状の湿地であった。そのようなところに石材を集めたのは、飛鳥板蓋宮のすぐ横でみつ かった石組の苑池遺構のように、石組の池を構築する予定ではなかったかと思われるのである。」積山洋「飛鳥 時代の灘波京をめぐって」『難波京から大阪へ』和泉書院、2006年、8頁。 (43) 磐下徹 註(17)39-40頁。 (44) 磐下徹 註(17)40-41頁。

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