楊津院と神前船息
目次
1 行基の施設の連携
2 楊津院
3 神前船息
4 神前船息の比定
はじめに
『行基年譜』を見ると、行基は畿内各地方に数多くの施設を造る。行基の社会施設等の配置を
地域別にみると、これらの諸施設は、摂津・河内・和泉・山城の四箇国に広く散在するが、子細
にみると、いくつかのまとまりをもち、また互に有機的な連関をもって存在することが知られる。
このような有機的な連関から見たところ、先学によって比定された楊津院と神前船息は、その
存在が孤立しており、異質と思われる。この二つの施設を考察する。
1行基の施設の連携
社会施設と院
まず農耕用の灌概施設についてみると、@行基の生誕地である和泉大鳥郡に池六カ所が集中し、
同和泉郡の久米田地等の池・溝各二カ所もこのグループに含めてよいであろう。次にA河内茨田
郡の堤樋三カ所・溝一カ所が挙げられよう。淀川左岸の低湿地帯では、溢水の防止と排水を兼ね
た「堤樋」が、開発のための必須の前提であったことが知られる。B摂津河辺郡の猪名川中流域
には昆陽池をはじめ、池四カ所・溝二カ所が集中する。これら池・溝ないし堤樋の存在は、当該
地域における大規模な墾田開発を予測せしめるものである。次に交通施設のあり方をみると、右
に述べた農耕施設と密接な関連を有するもの、およびこれら農耕施設を互に結びつける役割を果
すものの多いことがわかる。@の和泉大鳥郡には布施屋二カ所があり、Aの河内茨田郡について
は、大庭堀川が関連し、Bの摂津河辺郡では先述のように嶋陽布施屋があった。さらにこれらを
相互に結びつけるものとして最も重要なものが高瀬大橋であった。
交通施設
和田萃は、「行基の利他行によって設けた諸施設を結ぶと、行基の活動した地域が道によって結
びつけられ、一つの体系として浮かび上ってくる。いま、その体系を行基の道と仮称するならば、
西摂昆陽の地と行基の拠占である生馬を結ぶ道が存在してこそ、行基の道は、全てが有機的に結
びつけられるのである。そのポイントは、高瀬大橋にあると言ってよい。(1)」というが、この橋の重要
性をよくいい得たものである。この橋からさらに北西に位置する「次田堀川」および「垂水布施屋」の
両施設も、河内と摂津を結ぶ交通・運輸の施設として理解されねばならないであろう。
これは、行基が作った交通施設などの配置と道程を考えるときの重要な視点である。
2 楊津院
『行基年譜』に
「行年六十三歳庚午、聖式天皇七年天平二年庚午
善源院口堀三月十一日起
尼院 己上二院、在摂津国西城郡津守村
舩息院 二月廿五日起
尼院 己二院同国兎原郡宇治郷
高瀬橋院 九月二日起
尼院 己上同国嶋下郡穂積村在
楊津院 在同国河辺郡楊津村」とある。
上記のとおり、『行基年譜』は、天平二年、摂津国川辺郡楊津村に楊津院を造ったとするが、
楊津院の所在については、諸説がある。
まず、河辺郡楊津村の所在であるが、平安時代中期に作られた『和名類聚抄』の「川辺郡」に
八郷の内に「楊津郷」がある(2)。
楊津郷の位置
楊津郷については、川西市史に「楊津郷 『[大日本史]国郡志』に「いま木津・対津の二村あ
り、即ち其の遺名なり。」と見え、『[日本]地理志料』には「柏原…木津に亘る十二邑を六瀬谷と
いう。布木…河原の八邑にわたる、高平谷という。倶に多田庄に属す。是れ其の地なり。」とある。
また『[大日本]地名辞書』には「今、中谷村・六瀬邑なるべし。」としるしている。現在の猪名川
町の大半にわたる地域を指し、中心は木津あたりとする点は一致している。…奈良時代、行基が
建てた楊津院は、この楊津郷の名からつけられたもので、おそらく木津あたりに建てられたもの
… (3)」とされている。
『日本地理志料』は「この楊津の呼称は、中世に降っても楊津庄(楊津河尻庄とも所見)の名で
鎌倉末期までは用いられていたことが知れる。(4)」とし、鎌倉後期からこの楊津にかわって木津
・対津の呼称が登場し、楊津から木津・対津への地名の転換がみられるとする。
木津は天平三年撰とされる『住吉大社神代記』に見えている地名でもある。
この楊津庄(楊津河尻庄とも所見)については、後述するとおり、西本昌弘が論じている。
川西市史は、「律令制下における摂津国や川辺郡の地域的特徴といったものを各種の台帳の
分析を通してみてきたが、いわゆる奥川辺の実態はなお明らかではない。しかしこの奥川辺で
人々が生活していたことは確かであり、その中心舞台となったのが楊津郷であった。 (5)」とする
が、その場所は、高瀬大橋から、旧西国街道に一旦出て、猪名川に沿ってその上流を遡らなけ
ればならないから、行基の宗教活動からは外れるように思われる。
尹達世は「楊津郷の津は湊という意味であるから、猪名川沿いの湊の管理をした政府の管理
と思われる。(6)」 とし、猪名川町史は、「単なる宗教施設でなく、川港であったことを示す木津と
いう地名を現在も残す。(7)」とする。
猪名川の上流の奥地は、寺院建築用の木材の供出地という点からは考えられないことはない
が、行基の活動地としては、遠方に過ぎて、ふさわしくないと思われる。
猪名川町史は「木津の天沢寺がその後身だという(8)」とする一方、「『摂津史』も採っておらず、
また、その遺跡と伝える天沢寺の箇所にしても行基のことにふれるところがない。明治十二年
(1879)調査の川辺郡寺院明細帳の天沢寺の項も「開基円光。応永十一年甲申六月創立」とす
るのみで、行基開基の所伝はない。現在のところ、考古学的にも町内木津周辺に奈良時代の
寺跡が発見されておらず、楊津院のあったことを疑問視する考古学者もいる。」 (9)としている。
河上邦彦は「楊津院は川辺郡楊津にあるとされているが、これは現在の猪名川町附近と言
われている。ここには奈良時代の遺跡すら発見されていない。特に交通の要所でもなく、他に
施設等を作ったことも『行基年譜』からはみられず他の院の立地からは理解し難い。(10)」とする。
また、毛利憲一は「楊津院の猪名川町木津説は近世以降に出現した。(11)」と考える。
西本昌弘は、「大東急本「和名類聚抄」古辞書叢刊『和名類聚抄(20巻本) 大東急記念文庫
蔵』雄松堂書店、1973年」の摂津国川辺郡条に楊津・也奈以豆があり、川辺郡内に楊津郷が
あったことが確認できるとする。楊津郷が郡家郷(伊丹市伊丹付近)と余戸郷(尼崎東部付近)
の間に記載されるので、猪名川上流地域にあてるより猪名川下流の尼崎市域にあてる方が
無難であるとする。そして、楊津庄屋、柳津庄の存在から、その中心地が神崎川河口部の尼
崎市神崎、西川付近に求められるとすると、楊津院はその付近に存在したと考えるのが穏当
であろう。(12)」とする。
楊津郷の位置を図1に示す。
図1 大神郷・楊津郷の比定地(『神戸阪神間の古代史』2011年、214頁。)
『行基年譜』の行年六十三歳条、天平二年に七院が造られる。それは、摂津国西城郡津守村
から同国嶋下郡穂積村を通り、兎原郡宇治郷に至る動線を考えると、表1に並び替えたとおり
「楊津院」はその途中にありそうである。但し、『行基年譜』の記載する建立時期は無視した。
表1 続日本紀の行基関係の記事
『行基年譜』の行年六十三歳条
の七院 | 摂津国西城郡津守村 善源院 同尼院
摂津国嶋下郡穂積村 高瀬橋院 同尼院
摂津国河辺郡楊津村 楊津院
摂津国兎原郡宇治郷 舩息院 同尼院 |
柳津庄の史料
『真如堂縁起』に「摂津国柳津庄橘御園摂津国柳津庄河尻地内」とある。(13)
この摂津国柳津庄は、柳津郷にあったものと思われ、橘御園の中の河尻地内に存在したから、
西本昌弘の楊津郷の比定は肯首できる。
3 神前船息
神前舩息がある和泉国日根郡 近木郷の位置も楊津院と同様に孤立している。
(1) 『行基年譜』の船息
『行基年譜』に
「舩息二所
大輪田舩息 在摂津国兎原郡宇治
神前舩息 在和泉国日根郡日根里、近木郷内申候」とある。
「神前舩息」は、『行基年譜』だけに見られる港(船息ふなすえ)であり、現在、神前舩息の痕跡
は残っていない。その所在地は「和泉国日根郡日根里近木郷内申候」とあり、この「近木郷内申
候」は、和泉高父宿禰の追記であるという。この追記の意味を考えなければならない。
『行基年譜』には摂津国の大輪田船息と和泉国の神前船息の二箇所しか記載されていない。
しかし、三善清行が延喜十四年(914) に奏上した『意見封事十二箇条 (14)』に、播磨の?生、
韓、魚住、摂津の大輪田泊、河尻までの五泊(港)は、行基が一曰間の行程(航程)を測り、築造した
ことが記されている。そのうち、摂津の大輪田泊は、『行基年譜』に示される唯一つの泊りである。
延喜十四年(914)に書かれた三善清行の『意見封事』における行基建置の五泊はあまり重要視さ
れていない。境野黄洋は、五泊が行基の事蹟に含まれないことを「諸書之を除いて居るのは、如
何なる理由であるか知らない(15)」とする。この大きな理由の一つは、『行基年譜』の記事と異な
ることに起因するものであろうか。
『行基年譜』には摂津国の大輪田船息と和泉国の神前船息の二箇所しか記載されていないため、
それと異なる「意見十二箇条」の行基の摂播五泊が無視されているものと思われる。
長山泰孝は、「『行基年譜』に「大輪田舩息 在摂津国兎原郡宇治」とあるが、他の泊について
記述はみえず、行基が五泊すべてに関係したかは明らかでない。(16)」とする。
また、千田稔は、「『意見封事十二箇条』には、「行基菩薩が建置する」と記されている。しかし
大輪田泊以外については『年譜』にその名をあげないので、実際行基によって五泊がつくられた
かどうかは疑わしい。『意見封事十二箇条』によると、五泊は船によるほぼ一日行程の間隔をもっ
て設置されたもので、瀬戸内の東部を航海する船にとって重要な停泊地であった。五泊の一つ大
輪田泊は、少なくとも行基によって設けられたことが『年譜』から知られるので、五泊の建造に
すべて行基が関わったという伝承が生まれたのかもしれない。(17)」とする。
『行基年譜』の信憑性
『天平十三年記』は信頼できる史料とするが、他方、四度の転写がされる中で改ざんの可能性
も指摘されており、摂津国川辺郡の「長江溝」のように「長江池」と一体となって、川辺郡山本
郷にあるべきものが西城郡に所在するよう記載されているように、『天平十三年記』についても
明らかな誤りを含んでいることに注意を要しなければならない。現在の神前なる地名が過去から
永続してきたのかを検討すると共に、神戸、神崎、神前など神の字が付く地名は全国各地に多く
みられるので、『行基年譜』に記載される地名の比定には慎重を期すべきであろう。
(2) 近木郷
千田稔は、「近木郷は、現在の貝塚市を流れる近木川下流、右岸あたりで、式内社近木崎神社
がある。 (18)」とする。
吉田靖雄は、「近義郷は、貝塚市を流れる近木川の旧河口地帯であると考えられ、現在、ここ
に神前なる地名を残している。式内社神崎神社も、この地に所在しているので、現在の神前地区
は、神前船息の所在地であったと見てよい。(19)」とする。
『貝塚市史』は、「貝塚の近木川口あたりに求められるのが、最も穏当なように思われる。」
とし、後世に「神前船息」の名が残らないのは、「繁栄には自ら限界があった。」とする。(20)
近木崎神社や神崎神社の存在をもって、神社名と同様の地名を比定することは、無理な論法では
ないだろうか。同じ名前の神社は数多く存在するのである。
後世に「神前船息」の名が残らないのは、「繁栄には自ら限界があった。」とする繁栄も証明
されないことであり、船息の痕跡が見えないから否定されてもいいだろう。
(3)土佐日記等の記録
千田稔は、「この港の名前は他の史料にはほとんど知られないが、阿波や土佐から、あるいは紀
伊から難波をめざす船にとって重要な停泊地であったと察せられる。『土佐日記』には、紀貫之が
土佐からの帰路、和泉国の海岸を北上するが、承平五年(九三五)二月二日、三日と波が強く、
船を出すことができずに滞留し、四日には「このとまりのはまには、くさぐさのうるはしきかひ、
いしなどおほかり」と記されているが、この停泊地を神前船息とする説がある。(21)」とする。
これに反して、『泉佐野市史』では、紀貫之が土佐からの帰路、和泉国の海岸を北上する時の停
泊地を佐野湊と考えている。 (22)
『土佐日記』から時代が下るが、『御室御所高野山御参籠日記(高野山文書、又続宝簡集30)』
には、久安三年(1147)五月三日、「午前六時住吉浜より綱手を引かせながら日野湊[佐野港]に到着
した。日野湊で下船して新家庄に至った。」
「帰路、二十三日、早朝新家庄を出発して日野湊で乗船、午後二時住吉前浜に帰着、翌年四月
三日、住吉浜発、午後二時頃日野湊に到着した。(23)」とある。
このように、行基年譜が記される直前の『御室御所高野山御参籠日記』には、住吉浜と日野湊
の行程をほぼ8時間と想定できる。高野山に参篭するに当たり、日野湊を利用したことしか見え
ず、途中の神前泊については何も記されていない。日野湊と近木川河口の間はわずか三キロであ
る。近木川口あたりは二色浜と言われる小石の砂利の浜であるので、湊の整備は困難を極めるだ
ろうし、近木川河口に湊を立地する利点はない。
表2 港・河川の位置
市町名 | 港名 | 河川名 | 道路等 | 行先 |
大阪市 | 住吉 | 大和川 | 住吉 | 住吉大社 |
堺市 | 堺港 | 石津川 | 西高野街道 | 大鳥神宮・家原寺 |
高石市 | 高石港 | 芦田川 | | 鶴田池 |
泉大津市 | 旧大津港 | | 府中 | |
忠岡町 | 忠岡港 | 槙尾川 | | |
岸和田市 | 阪南港 | 春木川 | | 久米田池 |
岸和田港 | | | |
貝塚市 | 貝塚港 | 津田川 | | 阿理真神社 |
二色浜 | 近木川 | | 水間寺・木積釘無堂 |
和泉佐野市 | | 見出川 | | |
和泉佐野港 | 佐野川 | R170号 | 藤井寺 |
粉河街道 | 粉河寺−高野山 |
田尻町 | 田尻漁港 | 田尻川 | | |
泉南市 | 岡田漁港 | 新家川 | 県道41号線 | 男里(呼唹駅)−雄山峠−山口 |
菟砥漁港 | 男里川 | 根来街道 | |
阪南市 | 尾崎港 | | 紀州街道 | 和歌山 |
箱作 | | | |
岬町 | 淡輪港 | | | |
深日港 | | 県道26号線 | 和歌山 |
表2で、大阪湾東側の「港・河川の位置」を示した。河川下流域の港は数多くある。
行基年譜以外に見いだせない神前船息の存在は慎重に検討されるべきであろう。
「神前舩息」の固有名詞である「神前」が地名に由来すると考えると、根拠となる地名を探さ
なければならない。
吉田靖雄が述べる、「式内社神前神社も、この地に所在しているので、現在の神前地区は、神前
船息の所在地であったと見てよい。(24)」とするが、近世により細分化する地名と同名の神社がある
のは決して珍しいことではないが、論理的に考えるならば、「神前」の名前が一致しても、それは、
神前船息の存在を証明するものではない。
神前邑の位置
遠藤巌は、近木庄(郷)について、図2のとおり、「神前里」を条理図に追記し、神前里は、近木
川下流近くに、近木里は神前里より内陸部の南東に比定する。(25)
『和泉志』に、近義郷は、脇浜、畠中、鍛冶、新町、神前、石才、沢、浦田、窪田、王子、地蔵堂、
堤、橋本の十三邑を郷域とする中で、ここに邑の一つとして、確かに神前がある。地名探しとす
れば、神前神社の存在から、追記は正しいものに思える。そして、「神前舩息」の「神前」の名は、
この神前邑に由来すると考えるのが妥当かもしれない。
神前邑がどこに位置するのかを絵図で探すと、図2のとおり、18世紀中ごろの寛延から宝暦期
に活躍した森謹斎が描いた『和泉国絵図(1749) (26)』には、日根郡の郡・郷界、交通路、古蹟
名所、社寺等が詳細に記載されている。それを見ると、近義郷は十三村で構成されており、近
義川に沿って東西に長細い郡の形となるが、そのうち、神前村(図2中?で示した)は海岸より
遠く離れた地に位置し、海側から見ると神前村の手前に現在も地名が残る石才村がある。
しかし、和泉国絵図には神前村が石才村及び畠中村より海側に描かれたものもあるので、ど
ちらが正しいか決しがたいが、いずれにしても、神前村は近木川の河口にあるとは言えず、舩
息とは直接結びつかない地域と思われる。
何故、「神前船息」を「和泉国日根郡近木郷」に持ってきたのか。和泉国出身の泉高父は、
限定された地域の認識しか持たなかったことが考えられる。
そして、泉高父が、神前舩息を探したとき、和泉国を中心に求めたと考えれば、「神前」と記
される場所を誤った可能性がある。
図2 近木庄と周辺庄郷および灌漑状況図 (遠藤巌)
図3 『森謹斎の和泉国絵図』(国立公文書館蔵)
4 神前船息の比定
『行基年譜』天平十三年記にある施設数は、作為があり、長池溝のように別の場所に移され
ているものがあることから、全面的に信頼できない。神前船息は、他の場所にあると考えるこ
とができる。例えば、摂津国の神崎である。
『摂津国風土記』逸文(鎌倉時代)に「川辺郡神前の松原」が見える。
「昔、息長帯比売の天皇(神功皇后)が筑紫の国においでになった時、もろもろの神祇を川辺
の郡のうちの神前の松原に集めて幸いあらんことを御祈願なされた。 (27)」とする。
『西宮市史』は、「神功朝の神前の松原は、川辺郡神崎地方、今の猪名川下流・尼崎地方が、
古代にここで船を造り、筑紫方面へ船出する基地港であった事実をしめすものとみることは許さ
れるであろう。(28)」とする。
和泉国日根郡日根里近木郷内とされる神前船息は尼崎市神崎(河尻)にあったと考えられないか。
西本昌弘は、「行基が大輪田船息を修造するとともに、その地に船息院を建設したのと同様に、
行基は河尻の港湾施設を修造するとともに、河尻に楊津院を建設したと考えられるのである。(29)」
と指摘したように、楊津院と神前船息は、一体に整備されたものと考えられる。
そして、三善清行「意見十二箇条」の記載は信頼すべきものであるとし、五泊のうちの河尻は神
崎、西川付近であった可能性が高いとし、楊津院は尼崎市域に存在した河尻に設けられた院で
あったと結論すること(30)も肯首できる。
結びに
行基の施設のうち、その存在が孤立しており、異質と思われる楊津院と神前船息の二つの施設
を考察した。楊津は木材の供出地という点からは考えられないことはないが、猪名川の上流の奥
地は行基の活動地としてふさわしくない。奈良時代の楊津院の痕跡は残っていない。
行基の活動をの動線的に見ると、高瀬橋から淀川下流域の運河の掘削や架橋など神崎に通じ、
更に昆陽、大輪田と続く活動地域になろう。
また、和泉国日根郡の神前船息は、湊の名が残らず、痕跡もない。
神前船息は、「神前」という名を和泉国出身の高父が和泉国を中心に身近な地名から求めた結
果、「神前」を誤ったか、或いは故意に地元の所在を記したものであろうと思われる。
神前船息は、楊津院と一体となった神崎川下流の河尻(神崎)の泊であると想定する。
註)
(1) 和田萃「行基の道とその周辺」『探訪古代の道』、法蔵館、1988年、162頁。
(2) 『和名類聚抄』の「川辺郡」八郷「雄家郷、山本郷、為奈郷、郡家郷、楊津郷、余戸郷、大神郷、雄上郷」
があり、現地比定がされているが、論者によって、まちまちである。
(3) 『川西市史』第1巻、1974年、236頁。
(4) 『日本地理志料』上巻、臨川書店、1966年、175-6頁。
(5)『川西市史』第1巻1974年、236頁。
(6) 尹達世「猪名川流域の渡来人」『行基と渡来人文化』たる書房、2003年、71頁。
(7) 『 猪名川町史』第2巻、1989年、210頁。
(8) 前掲書208頁。
(9) 前掲書213頁。
(10) 河上邦彦「摂津における行基の足跡」『探訪古代の道』第3巻、法蔵館、1988年、197-198頁。
(11) 毛利憲一「多田院と河辺郡大神郷・楊津郷―平安時代の川西地域―」坂江渉・編『神戸・阪神間の古
代史』神戸新聞総合出版センター、 2011年、208-216頁。
(12) 西本昌弘「行基設置の楊津院と河尻」『地域史研究』第37巻第1号、2007年9月通巻第104号尼崎市立
地域研究資料館、8頁。
(13) 『尼崎市史』第4巻、1973年、95頁。/『続群書類従』第27輯、釈家部、1969年455頁。
(14) 本朝文粋巻第二「一、重請レ修二復播磨国魚住泊一事 右臣伏見、山陽西海南海三道、舟船海行之
程、自二樫生泊一至二韓泊一一日行、自二韓泊一至二魚住泊一一日行、自二魚住泊一至二大輪田泊一
一日行、自二大輪田泊一至二河尻一一日行。此皆行基菩薩計レ程所二建置一也。」延喜十四年四月廿八
日 従四位上行式部大輔臣三善清行上」(『本朝文粋』巻第二、新日本古典文学大系27,1992年、岩波書店)
(15)境野黄洋『日本仏教史講話』森江書店、1931年、408頁。
(16)『日本国史大辞典』2巻、吉川弘文館、1979年、687頁。「五泊」長山泰孝
(17) 千田稔「天平の僧行基」、中公新書、1994年、135頁。
(18) 前掲書133頁。
(19) 吉田靖雄『行基と律令国家』吉川弘文館、1986年、177頁。
(20) 貝塚市史第一巻通史、1955年、257頁、259頁。
(21) 千田稔、註(19)前掲書、133-134頁。
(22) 『泉佐野市史』1958年、
(23) 『御室御所高野山御参籠日記(高野山文書、又続宝簡集30)』
(24) 吉田靖雄、註(19) 前掲書、177頁。
(25) 遠藤巌「和泉国近木庄の馬上帳と条里制の性格」『高野山領荘園の支配と構造』奥田武編、
(26) 国立公文書館蔵の『森謹斎の和泉国絵図』
(27) 摂津国風土記逸文「美努売の松原」『風土記』吉野裕訳、東洋文庫145、平凡社、280頁。
(28) 『西宮市史』第1巻、1959年、386頁。
(29) 西本昌弘、註(12)前掲論文、10頁。
(30) 前掲論文、9-12頁。
参考文献
『日本国誌資料叢書』第8、臨川書店、1977年、「和泉国近義郷」12頁。
『大阪府史蹟名勝天然記念物』第4冊、清文社、1931年、「神前泊」224頁。
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]
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