行基と弾圧

目次  一 養老元年(717)の弾圧 二 養老六年の禁圧  1 追放令  2 行基への科罪  3 科罪されなかった理由  4 行基は弾圧されたか 三 天平三年(732)の公認 四 行基の官との関わり  1 行基活動の一部公認  2 行基の入京と地位の高まり  3 官の承認・援助 はじめに 『続日本紀』に初めて見える行基は、「小僧行基」とされ、僧尼令に反する行為で弾圧を受ける ところから始まる。そして、行基集団に属する高齢者の出家容認をされる頃から法師と称され、世 の人からは大徳及び菩薩と崇められると、大仏勧進を経て、終には、官僧の最上位である大僧正 にまで上り詰める。  『続日本紀』等による行基の最も簡略な経歴は以上のとおりであるが、行基の僧尼令違反行為 を考える時、素朴な疑問が持ち上がる。長山泰孝が、「官人でもない一民間人がその社会活動に ついて直接名ざしで非難されるということはきわめて異例のことであるが、行基の布教活動はなぜ このようにきびしい取り扱いをうけねばならなかったのであろうか。(1)」とするのと同感である。  また、ことさらに、僧尼令の条項を並べて、僧尼令違反を強調するのはなぜだろうか。  しかしながら、行基への弾圧は、小僧と蔑称で名指しをされるものの、他の行基の伝には、『続 日本紀』に見られるような僧尼令違反行為が見えず(2)、むしろ、『行基菩薩伝』の如く、朝廷と交 わり、鎮護国家のために衆生を利益すと伝承される行基の姿との乖離がある。そのように他の行 基の伝には、厳しい弾圧を受けたことが記されておらず、奈良時代を代表する僧である行基が50 歳の頃に小僧と名指しされることの不自然さが気になるのである。さらには、文殊菩薩の化身、霊 異神験が多い僧とされる行基の実像が十分に解明されずにあるなかで、行基の僧尼令違反行為 は大変興味深い問題であり、行基が本当に弾圧を受けたのかどうかを先学の研究を紐解きながら 考察する。 表 弾圧の年表
年次記事
慶雲3年(706)文武天皇 蜂田寺49院修理料の杣施入[行基年譜]
和銅元年(708)行基天地院(法蓮寺)を建立[東大寺要録]
和銅5年5/3上洛『竹林寺略録』
和銅6年元明勅免、菅原寺別山杣山
霊亀元年(715)5/ 浮浪3月以上他郷に留まる農民に対して、その地で調庸を課す土断法を出す。
霊亀2年4/19和泉監を置く/行基49歳
養老元年(717)4/23の詔行基の民間伝道を僧尼令違反として禁圧。小僧行基と指弾。「妄りに罪福を説き、朋党 を合はせ構へ、(中略)余物を乞ひ、詐って聖道を称し、百姓を妖惑す」 5/17百姓の流浪し、課役を忌避して王臣に仕え、資人を望み、得度を欲することを禁ず。
養老2年10/10の詔僧徒の浮遊を禁じ、衆理講論・諸義学習・経文読誦・禅行修道に励ましむ。また、僧 徒の村里乞食を禁ず。
養老4年7/3不比等薨。 8/3僧尼に公験を授ける。課役を免れるため、官許を得ず僧侶となることを禁ず。
養老5年「命交(受カ)朝廷参上、京都二人得度」[行基年譜] 大和国の拠点菅原寺建立[行基年譜] (『歓喜光律寺略縁起』では、霊亀元年(715)とする)
養老6年太政官符7/10行基を念頭においた布教の禁止令が打ち出され、以前の制限令よりも厳しい措置 が打ち出された。「勒還郷族」本貫地和泉国、高志氏に身柄を預けられるか。/菅原寺建立
神亀元年(724)10/1治部省奏言、名籍不備の僧尼への公験発給を許す
神亀2年9/ 久修恩院起[行基年譜] 9/12山崎橋架橋、天皇帰依給[行基年譜]
神亀3年長谷寺供養
神亀5年9/13皇太子基王薨、基王のために東大寺の前身である金鐘山房を建立 大野寺建立[行基年譜]
神亀6年2/12長屋王の変・王自決。
天平元年(729)4/3異端幻術、呪詛を禁ず。/ 8/5天平改元 9/29野天の大集会。平城京の東の山原で多くの人を集め、妖言して衆を惑わす者あり。〈天地院 (法蓮寺)の付近か〉
天平2年鎮撫使の設置で武力政策。 行基は本貫を離れ摂津に進出する。
天平3年7/5行基入京[住吉神代記]、「如是院年代記」 8/7行基法師に従う優婆塞・優婆夷のうち雨法の如く修行する者は、男は六十一歳以上、女は五 十五歳以上に限って、出家を許す。 畿内の惣管、鎮撫使の設置
天平4年8/17四道に節度使を置く。12/17狭山下池を造る。
天平5年閏3/ 朝廷與?車一両・得度卅五人給『行基年譜』
天平8年8/8菩提遷那摂津国難波に到着。『行基年譜』
天平9年大養徳国
天平10年大徳『古記』
天平12年和泉監を河内国に合併(和泉監の廃止)。→天平宝字元年和泉国独立。泉橋寺『行基年譜』
天平13年恭仁大橋造営による行基集団の部分的公認、泉大橋建設『行基年譜』11/11大養徳恭仁大宮
天平15年10/15行基法師、弟子等を率いて衆庶を勧誘。『続日本紀』
天平17年2/17行基大僧正に任ずる。『続日本紀』
天平21年2/2 行基入寂。4/14天平感宝改元。7/2天平勝宝改元『続日本紀』
一 養老元年(717)の弾圧  養老元年夏四月壬辰、詔して曰はく、「職を置き能を任することは、愚民を教へ導く所以なり。法 を設け制を立つることは、其れ姦非を禁断するに由る。頃者、百姓、法律に乖き違ひて、恣にその 情に任せ、髪を剪り髻をそりて、輙く道服を着る。貌は桑門に似て、情に姦盗を挟むことは、詐偽 の生する所以にして、姦き斯より起る。一なり。凡そ僧尼は、寺家に寂居して、教を受け道を伝ふ。 令に准るに云はく、「其れ乞食する者有らば、三綱連署せよ。午より前に鉢を捧げて告げ乞へ。 此に因りて更に餘の物乞ふこと得じ」といふ。方に今、小僧行基、并せて弟子等、街衢に零畳して、 妄に罪福を説き、朋党を合せ構へて、指臂を焚き剥ぎ、門を歴て仮説して、強ひて餘の物を乞ひ、 詐りて聖道と称して、百姓を妖惑す。道俗擾乱して、四民業を棄つ。進みては釈教に違ひ、退きて は法令を犯す。二なり。僧尼は、仏道に依りて、神呪を持して溺るる徒を救ひ、湯薬を施して痼病 を療すこと、令に聴す。方に今、僧尼輙く病人の家に向ひ、詐りて幻怪の情を祷り、戻りて巫術を 執り、逆に吉凶を占ひ、耄穉を恐り脅して、梢く求むること有らむことを致す。道俗別無く、終に? 乱を生す。三なり。如し重き病有りて救ふべくは、浄行の者を請し、僧綱に経れ告げて、三綱連署 して、期日に赴かしめよ。茲に因りて逗留して日を廷ぶること得じ。実に主司厳断を加へぬに由り て、この弊有ることを致せり。今より以後、更に然すること得ざれ。村里に布れ告げて、勤めて禁止 を加へよ」とのたまふ。(3) この記事は、正史に見える行基の初出であり、ここでは「小僧行基」とされる。  彼の布教に対し養老元年(717)の詔は「妄りに罪福を説き、朋党を合はせ構へ、(中略)余物を乞ひ、 詐って聖道を称し、百姓を妖惑す」(同)といい、僧尼令違反とし布教を禁圧した。  井上薫は、「…民衆が“業を捨て”て行基のもとに走り集まった勢いに政府は心肝を寒うし、行基 の活動に弾圧を下したのである。養老元年に行基道場建立がないのは(『年譜』)弾圧の激しさを 反映している。(4)」とする。  しかし、『行基年譜』には、弾圧の翌養老2年から同6年の間に行基が建立した寺院として、大和 国隆福院(養老2年)、河内国石凝院(同4年)、菅原寺(同5・6年)の3寺院が見えるので、禁令は 出たもののそれには制約されないかの如く、行基の寺院建立は進められている。  この『行基年譜』の記事を信頼するならば、養老元年の弾圧は、井上薫が指摘するとおり、同年 だけに対して有効であったと思料できるが、果たして詔は当年度のみ有効であるものだろうか。  法令は、常識的には発布された以降有効なものであり、改変されない限り、養老元年の詔も同 年以降も引き続いて効力があるべきものと考える。すると、井上薫の指摘は当たらないことになろ う。それではどう考えればよいのか。  養老元年四月壬辰条からは、行基の僧尼令違反による弾圧があったと読み取れるが、二葉憲 香は、「行基生存中の記録によると思われるもので、上掲諸伝がほとんど無視するものに『続紀』 の行基弾圧記事がある。養老四年条に「小僧行基」というものがそれであるが、『僧尼令』の立場 と真向から対立する行基を示すものとして注目せられているものである。…小僧と言う意味は貶称 であるとせらるるが、それは大僧に対するものではないだろうか。…国家は、行基を僧として認めた 上で弾圧していると考えられる。(5)」としているように、明確な弾圧があって寺院の建立に支障が あったとまではどの史料も触れていないのである。  養老元年に行基道場建立がないのは弾圧がなされた結果と考えるのではなく、年譜作者は弾圧 を記さないから、『続日本紀』の記載の信憑性にも関わるが、たまたまその年には弾圧と関係なく寺 院の建立がなかったか、(建立があっても記載されなかっただけ)と考えることもできるのではないか。    そして、『行基年譜』に養老2年から6年にかけて、大和国隆福院、菅原寺、河内国石凝院の三寺 院建立の記載があることは、むしろ養老元年(717)の詔は、行基の僧尼令違反に対して何等効力を 持たなかったように思われる。 僧尼令違反と処罰  中井真孝が、「この詔、とくに第二項は行基弾圧の詔として著名である。詔の文章が僧尼令の重犯 罪規定の語句で綴られているので、この詔の実効性については、若干の疑問がないわけではない。 たとえば行基弾圧の詔といわれる第二項の、「街衢に零畳て、妄りに罪福を説」くは、僧尼令の第五 条…に触れる。また、「詐りて聖道と称し、百姓を妖惑す」は、同令の第一条…に触れる。この場合、 『令義解』によると、「罪の軽重を問わず、皆まず還俗せよ」とあるので、第五条と同じく、違反すれば 還俗させられて、僧尼の身分を失う規定である。ところが、この詔の発布によって、行基が公権力の 手で逮捕され、強制的に還俗させられた、という明証はない。行基は還俗に処せられるどころか、い ぜん活動をつづけている。(6)」とする。  この禁令の考察については、田村圓澄が「行基とその集団にたいする政府側の最初の反応は、 七一七年(養老元)に出された詔において示されている。このとき政府は、行基とその集団が釈迦の 教えに違い、法令を犯している事実を指摘し、村里に布告して禁止するよう命じた。しかし注意される のは、行基およびその集団の私度僧を、犯罪者としてとり扱っていないことである。行基およびその 集団の言動は、僧尼令の規定にてらしても、処罰を免れることはできないはずであったが、その後 の経過をみても、政府は消極的な禁制の措置を講じたにとどまり、積極的な処罰にまで及んでいな い。(7)」とする。  これらのことからすれば、『続日本紀』の僧尼令違反の記載にも関わらず、行基及びその集団に対 して、実質的な処罰いわゆる弾圧は加えられなかったと考えることができる。  川崎庸之は、「七一七年(養老元)の詔によると、まず人民がほしいままに出家するものが多いこと をのべたのち、乞食にかんする「僧尼令」の規定を引用して、行基とその弟子たちの行為が法に触れ るゆえんを指摘しているが、そこで彼らが「街衢に零畳して、妄りに罪福を説き、朋党を合構し、指臂 を焚剥して、歴門仮説し、強いて余物を乞ひ、詐って聖道を称して、百姓を妖惑す」といわれているこ とは、その文章そのものが「僧尼令」のあらゆる禁止規定を綴りあわせてできあがっているような点 があり、したがって具体性に欠けるものがある…(8)」と指摘する「文章そのものが「僧尼令」のあらゆ る禁止規定を綴り合せていること」は、詔そのものに「僧尼令」の名称は表れないが、「僧尼令」の内 容を示す記載となっていることから、「僧尼令」の言葉に誘導するものと考える。すると、その先にあ る特定される言葉は、「小僧行基」であろう。 二 養老六年の禁圧  養老六年七月己卯(十日)、大政官奏して言さく、「内典外教、道趣異なりと雖も、才を量り職に揆る こと、理致帰を同じくす。比来僧綱ら、既に都座に罕にして、縦恣に横行し、既に平かに理め難し。 彼此往還して、空しく時日を延ぶ。尺牘の案文、決断を経ず、一曹の細務、極めて擁滞多し。其れ 僧綱は、智徳具足して、真俗の棟梁なり。理義該通して、戒業精勤なり。緇侶これを以て推し譲り、 素衆是に由りて帰仰す。然るに居処一に非ず、法務備はらぬを以て、雑事荐に臻りて、終に令条 に違ひぬ。薬師寺を以て常に住居とすべし」とまうす。また奏して言さく、「化を垂れ教を設くること、 章程に資りて方に通す。俗を導き人を訓ふること、彝典に違ひて即ち妨ぐ。近在京の僧尼、浅識 軽智を以て、罪福の因果を巧に説き、戒律を練らずして、都裏の衆庶を詐り誘る。内に聖教を黷し、 外に皇猷を虧けり。遂に人の妻子をして剃髪刻膚せしめ、動れば仏法と称して、輙く室家を離れし む。綱紀に懲ること無く、親夫を顧みず。或は経を負ひ鉢を捧げて、街衢の間に乞食し、或は偽り て邪説を誦して、村邑の中に寄落し、聚宿を常として、妖訛群を成せり。初めは脩道に似て、終に は?乱を挟めり。永くその弊を言ふに、特に禁断すべし」とまうす。奏するに可としたまふ。太白昼 に見る。(9) 1 追放令  養老六年七月己卯(十日)の太政官奏言では、行基の名前が出てこないが、先学の中にはこれ を行基及び行基集団を念頭においたものとみなす見解がある。  米田雄介は、「…養老六年に、再度行基を念頭においた布教の禁止令が出され、前の制限令よ りも厳しい処置が打ち出された。そこでは単に、異端の僧の行動を「僧尼令」違犯として指弾するに 止まらず、かかる活動家に対しては、「京城及諸国、国分遣判官一人、監当其事、厳加捉搦」とし、 僧侶にして聖道を詐称し、百姓を妖惑するものは律によって科罪するばかりか、其の犯者には「勒 還郷族、主人隣保及坊令里長、並決杖八十、不得官当蔭贖、量状如前」という厳しい処置を出して いる。ここで注目されるのは、専当官人を設けて異端の徒に捉搦を加え、その名を「勒して郷族に 還す」ということである。ここに並々ならぬ政府の意図が窺えるが、このような追放令とも称しうる 法令の発布は、当然、行基の活動に影響するところが大であったろう。行基がこの法の施行により、 実際に捉えられ、郷里に送還されたかどうかは史料にみえない。しかしさきに行基の活動範囲が大 和から和泉に移っているのが養老六年以降であった、という点を併せ考えると、行基は養老六年の 法令によって本貫地に帰っていることは明らかである。(10)」とする。  これに対して、吉田靖雄は、「この[養老6年]官奏が、行基の徒を直接の対象としたものでないこ とは既に論じたが、米田氏は、禁令から行基の郷里送還を想定している。しかし官奏の文章は、「其 犯者決百杖、勒還郷族」とあって、犯罪僧尼は還俗の上杖罪に処し、更に郷里に送還するのであっ て、郷里送還は独立した処罰ではない。行基が還俗した事は伝えられないから、養老六年の段階 で、彼が郷里に送還された事は想定できないわけである。(11)」として、僧尼令違反―還俗―杖罪 ―郷里送還の流れの中で還俗の事実が見えないから郷里送還はないと断ずる。  また、米田雄介は、「行基は養老六年までは主として大和で活躍し、養老六年に帰郷を命じられる と本貫地の和泉に活動を移しているから、大和→和泉→摂津・山背と活動範囲の移動がみられる。 …天平二年再び行基は本貫を離れ、摂津国に進出する。彼の活動の一部が容認される前年のこと である。(12)」とする。この米田雄介の論の中には論理的に矛盾したところが見られる。  「行基は養老六年までは主として大和で活躍し…」とするが、帰郷が命じられたとするならば、それ にも関わらず、数年後に摂津国の他所に移動して活動することである。  『行基年譜』の五十八歳条によると、養老6年から3年後の神亀二年には、「久修恩院九月起、… 大菩薩発願従二同(九)月十二日一、始度二山崎橋一云々、天皇帰依給云々」とあり、行基は神亀 二年に久修恩院・山崎に出現するから、和泉国に「勒還郷族」されていて、天平二年以後に本貫を 離れたのではなく、自由に河内国、摂津国などにおいて活動を続けていると考えなければならない。 反対に、『行基年譜』の神亀二年条を疑わしいとする論がある。   「聖武天皇二年、神亀二年乙丑、    久修恩院、山崎、九月起     在河内国交野郡一條地内、    九月一日将彼弟子修杜多行、到山埼川、不得暇掩留、河中見一大柱、#問云、彼柱有知人矣、    或人申云、往昔老旧船大徳所渡柱云云、大#発願従二同月十二日一、始度山埼橋云々、    天皇帰依給云云、」  栄原永遠男は、「五十八歳条は、きわめて信憑性の低い部分であり、その取扱いには慎重な配慮が 必要であろう。(13)」ことが指摘されている。  栄原永遠男が指摘する信憑性の低い部分は五十八歳条のどこの箇所か明示されないが、「神亀 二年久修恩院山崎」は、信憑性の高い部分とする(14)ので、信憑性が低いとするのは、養老元年の 禁圧に関わらず山崎橋を架橋している説話か、或は「天皇帰依給云云、」の部分であろうか。  確かに、禁圧の最中の山崎橋架橋の活動や聖武天皇の帰依については、疑問がなくもないが、 神亀二年の久修恩院の建立についての信憑性だけを認めることは理解しにくいことである。  山崎橋架橋の時期は、『扶桑略記』、『東大寺要録』、『七大寺年表』、『濫觴抄上』など多くの史料 は神亀三年とするので、『行基年譜』の神亀二年と一年の差がある。  山崎橋架橋を神亀三年とする『扶桑略記』、『東大寺要録』、『七大寺年表』は、『行基年譜』に先立 つ史料であり、どちらかといえば、『行基年譜』の神亀二年の架橋は紀年の根拠が疑われるものと思 われる。  また、久修恩院は、『石清水八幡護国寺久修恩院縁起』(15)によると、久修恩院は「聖武天皇御願、 行基t草創也…神亀四年丁卯二月建立、仏殿同五年戊辰二月造立、本尊尺迦像、長谷寺観音化作 也」と詳細に記されている。久修恩院の対岸にある山崎の宝積寺も行基建立の伝があり、建立は神 亀四年とされている。(16)  そうすると、養老六年の禁圧にもかかわらず、山崎、橋本、楠葉に集中する神亀年間における行基 の活動の記録・伝承は一致し、行基は山背、摂津、河内の国境近辺で活動しているのである。  次に『続日本紀』天平二年九月二十九日条に、平城京の東の原の大集会が記される。明確に、行 基とは名指しされていないが、行基集団とみなされるが(17)、何らおとがめはなしである。  養老六年の禁圧が行基に係わるものであったとしても実質的に行基の活動に対して何ら影響を及 ぼさなかったと考えることができる。 2 行基への科罪  吉田靖雄は、「信頼すべき行基の伝記は、彼の科罪について、何ら語るところがない。わずかに『元 亨釈書』の行基伝のみが行基の科罪について記している。…ここでの行基は超人間的な霊能者に表 現されているので、…事実であったかのか、疑われる。行基とその徒への処断を述べない。…橋本政 良氏や中井真孝氏らの科罪された僧尼例の調査によれば、犯罪に対して僧尼令や律は、そのまま適 用されたのではなく、概して規定よりも軽い刑罰を課された事例が多いという。この論を適用すれば、 行基は、還俗後さらに実刑を課されるという重罰を免れ、還俗以下の杖罪―即ち苦使刑―に処せられ たという想定もできるのである。行基が、いかなる処罰を得たのか明らかではないが、行基が、その後 も僧徒として活動している以上、還俗以上の処罰でなかったことは明らかである。行基とその徒の処罰 については、政治的配慮から軽減が加えられたのであろう。(18)」として、政治的配慮を理由とする処罰 の軽減により、明確な科罪及び処罰については否定する。 3 科罪されなかった理由  処罰に及ばなかった理由として、吉田靖雄は、田村圓澄や小山田和夫の論に分析を加える。  「田村圓澄氏は、行基とその集団が科罪の処分を受けなかった理由として、(1)行基のカリスマ性に対 する畏怖観、(2)行基を護る人が広範に存した、(3)役民運脚夫に対する救済者という面の評価、?新羅 留学者の多い僧綱は、新羅の民間布教者元暁のイメージを行基に見、処罰をさしひかえたとする。田村 氏はこのうち?を最も重視している。ところで、(4)については…元暁の布教と行基の布教には全く同一 性がなく、しかも当時の日本において、元暁は学匠として大いに評価されていたが、布教者として評価さ れていた形跡はないので、成立しない論なのである。いったい僧綱は、僧尼令によれば、僧尼犯罪に対 する何等の科罰権をもたなかったことは明らかである。…小山田和夫氏は、行基が科罪されなかった理 由として、(1)当時の僧正義淵は行基と共に道昭の下で唯識学を学んだ関係にあり、処分を下すのを躊躇 した、(2)養老元年四月の時点における僧綱は、僧正と僧都の二員しか存せず、機能は停滞していたとす る。(1)・(2)とも僧綱の権能として、犯罪僧尼に対する処罰権の存することが前提とされているので、これも 成立しないわけである。行基糺弾の文章は、詔として発せられている。僧綱の本来的使命は僧尼教導で あるから、詔をうけた僧綱は、行基の徒に教喩を加えねばならない。しかし詔の激しい語調からみて、詔 が行基とその徒を処罰する意志を持っていたとしたら、僧綱が、そうした意志を変更させることができたと は考えられないのである。…行基の徒への科罪についても、僧綱は独自の判断によることはできず、大 政官の処断にまつよりほかなかったものと推定されるのである。行基への処罰が記録されなかったのは、 それがきわめて軽微なるものであったからであり、処罰を法文どおりに施行しなかったのは、大政官の 判断によるものと推定されるのである。…律令は教化法であるから、行基の場合は、罪刑法定主義が 貫かれず勧戒に重きがおかれたとしても、何故に行基にのみそうした配慮が行なわれたのか疑問が 残る。(19)」とする。    吉田靖雄は、行基の僧尼令違反が極めて軽微で有り、太政官の判断により法文どおりの処罰が行わ れなかったと推定することは、憶測の範疇から出ないものであろうから、事実関係は不明としなければ ならない。行基及び行基集団への指弾は軽微であるとされるなら、『続日本紀』に記されることはなかっ たであろうから、その疑問は解決しなければならない課題として残されるものと考える。 4  行基は弾圧されたか  以上の養老元年の詔及び養老六年の追放令並びに行基集団の活動や行基への科罪をみたところ、 積極的に行基が郷里送還を受けたことも、厳密な処罰を受けたことも明らかでない。 本郷真紹は、明確に「神亀三年以降…天平年間に至るまで、行基集団に弾圧が加えられた形跡は 存在しない…(20)」と論ずる。  『元亨釈書』の行基伝のみが記す行基の科罪については、 「(行)基、私度二沙弥一、勅禁圄、身在二獄中、而出遊二里□[門かまえに干]一、獄吏以聞、詔赦之…」 とあるように、獄中にあっても自由に獄から出入りする行基の姿がある。(21)  これは、霊異記の世界に属する行基の霊異神験を表わす作り話と思われる。  中井真孝は、「養老元年の詔をもって律令国家が僧尼令をたてに、どこまで真剣になって僧尼の 民間伝道を取り締ろうとしたのか、疑問がわいてくるのである。おもうに、当時は実行できない内情 があったのか、あるいは律令国家の対行基観、対民衆仏教観に変化が生じて、発布後まもなく法 的な実効性を喪失していったのか、のいずれかであろう。(22)」とすることも国の法令に違反する者 を断罪しない国家のあり方は疑問であり、「小僧行基」を明記する『続日本紀』の記事が意図する 目的があるものと考える。 三 天平三年の公認  天平三年八月七日、次のような詔がくだされた。   「 比年、随二遂行基法師一優婆塞優婆夷等、如レ法修行者、男年六十一巳上、女年五十五以上、    咸聴二入道一、自余持鉢行路者、仰二所由司一、厳加二捉搦一、有レ遇二父母夫喪一、期年    以内修行勿レ論、」  吉田靖雄は、「この詔によって行基に追従する在俗信者らのうち、(1)如法修行者で男は六十一歳以 上、女は五十五歳以上の者は出家を許されるが、(2)上記の条件にあてはまらない乞食行者は、依然 として取締りの対象とされ、(3)父母夫の喪により一年間のみ乞食行を修める場合は、取締りの対象で はない、とされた。養老元年四月の行基の徒を呵責する詔においても、「歴門仮説、強乞余物」と表現 される彼等の乞食行が指弾されているが、(2)からこの乞食行は天平三年の段階でなお盛んであった ことが窺われ、また(3)からは服喪制を利用して、行基集団が常に新たな参加者を獲得していた有り様 がわかる。(23)」とする。  また、弾圧の緩和、部分的公認という見方があるが、この背景について  吉田靖雄によると、融和策の背景として、井上薫は三点をあげる。とする。  「こうした宥和策の出てくる背景として井上薫氏は、(1)行基が弾圧に屈してしまわずに伝道を続けた、 (2)長屋王の変や光明子立后に対する非難をかわそうとする藤原武智麻呂らの策、(3)豪族と結んだ 行基的な池溝開発の公認、の三点をあげている。…養老末年以来の行基の活動は、地方官憲によ る合法性の保証を受けるように努めていたのであり、天平三年の政府による部分的公認は、そうした 地方的公認の上に成立したものであったと考える。さて、私見は、天平三年の公認に際しては、藤原 宇合の力があったのではないかと考えるのである。(24)」と行基の活動には、弾圧に屈しない姿勢や 豪族の協力が伴うことや為政者の対応の変化をみている。  特に、神亀三年から天平四年における行基の活動は、知造難波宮事に任じられた藤原宇合の推 挽があったと想定している。  また、磯部隆は、天平三年における行基集団の公認の理由として、行基集団の活放置を前提とす る聖武天皇の意向と禁圧を目指してきた藤原四兄弟の妥協の結果と考察する(25)など、論者の見 解はまちまちである。 四 行基の官との関わり 1 行基活動の公認について  佐久間竜は、「行基の律令政府との関係は、最大限天平三年(731)以降遅くとも天平十年(738)ごろ までが考えられる…(26) 」とする。 或いは、本郷真紹は、「行基と朝廷との積極的な関係が構築される天平十年頃から…(27)」とし、  吉田靖雄は、「行基の活動の公認が天平十三年にあった。(28)」と、各論があるのは、天平三年に は、行基集団の高齢者の入道を許すこと、天平十年頃成立の『大宝令』注釈書「古記」に、「精進練 行」の実例として「行基大徳の行」とあること、天平十三年は、恭仁大橋の造営に伴う行基集団の部 分的公認から考えられたものと思われる。 そして、佐久間竜は、『霊異記』『行基年譜』にみられる智光説話が行基と官の結びつきを示唆して いる。(29)、『霊異記』の「何故天皇唯誉二行基一捨二智光一也」とされる智光説話は、行基と官の 結びつきより、むしろ行基と聖武天皇との関係を強調しているように窺える。 また、後述するように、宗教活動とは異なる社会活動については、行基と官の早くからの結びつき が想定されている。 2 行基の入京と地位の高まり  養老元年の詔及び養老六年の追放令が出された以後にあっても各種の行基伝には、行基が朝廷 の命を受け、参上していることが伝承されている。『行基年譜』に、「養老5年(721)の詔「命交(受カ)朝 廷参上」とある。また、天平三年の公認に先立ち、『住吉神代記』に「天平三年 7/5行基入京」とされ、 『如是院年代記』も同様に「天平三年 行基入京」とするから、天平三年の公認と符合するものである。  『行基年譜』には「天平5年癸酉閏3月朝廷與二?車一両一得度卅五人給」とある。  『竹林寺略録』は、「和銅五年五月三日上洛。主上帰レ徳崇敬。」とする。  「奉レ勅住洛。主上帰レ徳崇敬」(元明天皇)とあるから、聖武天皇以前の元明・元正天皇の時代から、 行基が天皇との関わりを持つことが示されるが、この和銅の年号は正しいものか疑問がある。 3 官の承認・援助  池、橋、道路の築造など社会活動については、行基と官の早くからの結びつきが指摘されている。  『行基年譜』の「天平十三年記」に見られる行基の諸々の社会活動について、 吉田靖雄は、「…行基が官道沿い又はその近くに、橋・院・布施屋を建立しえたのは、官憲の承認が あったからと考えられる。それは津橋道路の維持管理は国郡司の責に属していた(営繕令12津橋 道路条)からである。…架橋という本来国郡司の行なうべき仕事を行基が代行するのであるから、 国郡司はこれを承認し、何がしかの援助を行なったことも考えられる。橋・布施屋のような本来は 官憲の造営すべき施設を作ることによって、行基は合法性を獲得するように努めたのである。(30)」 と考えることは、弾圧を免れるために官の業務を代行することは釈然としない。行基の宗教活動と 橋・布施屋のような社会活動が一体のものとするならば、初めから意図して合法性の獲得に努めた かどうかは判断が難しいと思われる。布施屋の設置は、平城京が造営される前後の和銅・霊亀年間 のこととされる(31から、行基の弾圧以前になされたものである。  「行基は久米田池改修については、国郡司の認可を得ていたとしなければならない。或は事態は もっと進んでおり、国郡司の公営工事に、行基が勧進役として勤めたことも考えられる。(32)」  次に、行基が建設した寺院に対する官の援助を見る。 技術及び労働力の確保と資材・資金の入手  菅原寺の造営について、大西貴夫は、「菅原寺は行基が養老五(721)年に寺史乙丸の居宅の寄 付を受け、養老六(722)年に起工されているが、…この時期は養老元(717)年から天平三(731)年 までの行基集団に対する禁圧の時期にあたっている。このような時期に京内に寺院が営めるのか 疑問である。しかし、瓦の時期からは平城京以前の転用瓦を含みながらU期までのものが主として みられることから721年の起工という時期は妥当なものと考えられる。…平城宮・京で使用される瓦 もみられることから、禁圧を受けながらもその一方で寺院造営の援助を受けるという複雑な状況が 浮かび上がる。(33)」とされるが、ここで注目すべきことは菅原寺は粗末な院ではなく、平城京の右 京にあって大きな位置を占める、瓦葺で建築された比較的大きな寺院であるといえる。    また、「隆福院[養老二(718)年]と考えられる追分廃寺出土の瓦が…これも文献にみられる創建 時期と符合する。この年代も菅原寺と同様、禁圧の時期と重なるが、使用された瓦は興福寺や京で 主としてみられるものであり、宮の瓦ではないものの官に近い立場からの援助がうかがえる。(34)」 とされる。  同様に、泉橋寺についても、泉森皎は、「平城京と同種の軒瓦を用いた泉橋寺こそ、政府の援助 を得た最初の寺院であったとみられている。 (35)」とされるが、泉橋寺が天平十二年頃に造られた ならば、菅原寺の例があるから、最初ではないものの、官の援助を得たことが指摘されている。 摂河泉における行基の社会事業について、畑井出は、「和泉地方では旱魃対策の造池事業、猪 名野においては宗教施設(院)と合体した社会救済的な水川開発事業、淀川河川部では造都事業 に関連した交通事業、さらに淀川中流域では河口部の事業に連動したともみられる灌漑事業を特 色とするものであった。これらを通観すれば、従来の指摘以上に国家とのかかわりが大きいことが うかがえるであろう。(36)」とされる。  畑井出は、摂津国昆陽寺付近の開発に関して 「…崑陽池溝群の開発において行基集団とタイアップしたのは在地豪族クラスのものではなく、国 衙レベル以上の国家機構であったと考えざるを得ない。(37)」とする。  昆陽寺は、寺縁起で、天平五年の創建、『行基年譜』では「嶋陽施院天平三年起」とされている から、少なくとも天平五年以前から行基と国衙の結びつきが見られるのである。さらに、天平2.3年 の2年間には、15院と、49院の3割強が建立されている。  「この時期は既に行基集団の開発は律令国家とのタイアップのもとで行われていたと考えざるを 得ない(38)」   その他、行基の活動は、都城の造営と密接な関わりを指摘できる(39)、ことから、行基と社会活 動や寺院建立の活動について官の援助を得ること並びに都城の造営との関わりにおいて、官との 密接な関わりを指摘されることは、行基が単なる宗教集団の指導者としての立場以上に、官を利 用していることが窺われるのではないか。 結びに  『続日本紀』養老元年四月壬辰条に、「小僧行基」と名指しされ、『僧尼令』の立場と真向から対 立する行基の弾圧記事が記されるが、他の行基伝が無視する『続日本紀』の弾圧記事には、何ら かの意味が隠されているのではないか。米田は、「ことさらに、僧尼令の条項を並べて、僧尼令違 反を強調するのはなぜだろうか(40)」とするのは、『続日本紀』編者が「僧尼令」という言葉に誘導 する意味があるのではないかと憶測する。そして、その先にある特定される言葉は、「小僧行基」 であろう。  『続日本紀』にみえる大仏勧進が他の行基伝に見えないのと同じ構造である。  二葉憲香が行基を僧として認めたうえで弾圧しているとするものの、先に示したとおり、行基に対 する僧尼令違反に伴う弾圧の状況は、養老元年の詔及び養老六年の追放令並びに行基への科罪 については、行基が郷里送還を受けたことも、厳密な処罰を受けたことも明らかでない。むしろ、『元 亨釈書』の行基伝のみが記す行基の科罪については、獄中にあっても自由に獄から出入りする行 基の姿がある。これは、『霊異記』の世界に属する行基の霊異神験を表わしたものと思われる。  この僧尼令違反が実行されなかったのは、繰り返しになるが、「おもうに、当時は実行できない内 情があったのか、あるいは律令国家の対行基観、対民衆仏教観に変化が生じて、発布後まもなく法 的な実効性を喪失していったのか、のいずれかであろうとする(41)」が、『続日本紀』をベースに置い て、そこに記されていることを全面的に信頼することはできないように思われる。  『続日本紀』に見られる僧尼令違反については、同じく『続日本紀』の行基の薨伝(42)に見られる 「霊異神験類に触れて多し」に総括されるのである。  そして、僧尼令違反を指摘される反面、津橋道路・院・布施屋を建立するなどの行基の社会活動 については、官憲の承認があったと見做されており、橋・布施屋のような本来は官憲の造営すべき 施設を行基が作ることに何がしかの援助を行なったことも考えられる。(43)とする矛盾する答えを導 くことになる。  しかしながら、行基の社会的事業は、国家事業との比較において、匹敵する大規模なものとする 指摘もある。(44)  大西貴夫は、先に指摘したことから「官の行基集団に対する禁圧とは何であったのか問題点とし て指摘できよう。官としては規制をおこなうものの全否定をするわけではなく、僧尼令の範囲内で は援助をおしまなかった可能性や、行基の禁圧に屈しない強い活動であった可能性を考えておき たい。(45)」と問題点の指摘と回答を用意するが、差しさわりの無い可能性だけでは解決できない 問題のように思われる。  行基伝承は、行基が国家や官に対して、敵対的な行動を取る宗教家としては描かれていないが、 その活動については、宗教集団の指導者としての立場以上に、官を利用している実態が窺われる。  僧尼令違反を問われずに、官を利用できる力の源は、禁圧に屈しない強い活動だけによるものと は考えられない。井上光貞は、「朝廷の弾圧の対象であった行基の存在が想像以上に巨大なもの であったと見なくてはならなくなる。(46)」とするが、この巨大な行基の存在は何によるものだろうか。  行基の活動力の源泉は、行基個人に求められるものであろうか。  僧尼令違反を糾弾される宗教集団の指導者が50歳を超えてから禁圧に屈せず、畿内に社会活 動を展開し、49院もの数多くの寺院を建設することは、確かに、現実離れをした超人的すぎる活動 である僧としか見えない。最も素朴な疑問は、なぜそんな超人的活動が出来たのかということである。  行基の活動を考えるときの新しい課題は、山に籠り、身につけたとされる超能力(47)ではなく、実 際に農民大衆を動員でき、豪族・官の援助を得る活動力の源泉である。違う言い方をするならば、 カリスマ性の源泉となる行基個人の資質を考えることを次の課題としよう。  註) (1) 長山泰孝『行基の布教と豪族』33頁。『研究集録』19号、大阪大学、1971年。 (2)速水侑「行基の生涯」『民衆の導者行基』吉川弘文館、2004年、28頁。 (3)『続日本紀』第二巻、岩波書店、新日本古典文学大系13、1990年、26−29頁。 (4) 井上薫『行基』吉川弘文館、1959年、71−72頁。  (5)二葉憲香『古代仏教思想史研究』永田文昌堂、1962年、391、446頁。 (6) 中井真孝『日本古代の仏教と民衆』評論社、1973年、81-82頁 (7)田村圓澄『古代朝鮮仏教と日本仏教』吉川弘文館、昭和55年、191頁。 (8)川崎康之「奈良仏教の成立と崩壊」『行基 鑑真』吉川弘文館、1983年、20頁。 (9)註(3)『続日本紀』、121-123頁。 (10)米田雄介「行基と古代仏教政策」『行基 鑑真』吉川弘文館、1983、209-210頁。 (11)吉田靖雄『行基と律令国家』吉川弘文館、1986年、160頁。 (12)註(10)、米田前段212頁、後段。217頁。 (13) 栄原永遠男「行基と三世一身法」『行基 鑑真』吉川弘文館、1983年、88頁、註(27)。 (14)同上、80頁、作成した第2表に掲げる「年代記」記載の寺院名を信憑性の高い部分とする。 (15)『石清水八幡護国寺久修恩院縁起』の抜粋による。石清水八幡宮史(資料第一)、群書類従完成会、 (16) 宝積寺も行基建立の伝があり、建立は神亀四年、『和漢三才図会』に「山崎宝寺 聖武天皇神亀四年勅願、 開基行基菩薩」とある。 (17)千田稔『天平の僧行基』中公新書、1994年、97-98頁。 (18)註(11)吉田靖雄、128-130頁。 (19)同上、130-132頁。 (20)本郷真紹「国家仏教と行基」『古代・中世の政治と文化』思文閣出版、1994年、484頁。 (21)『元亨釈書』巻第14「菅原寺行基伝」 (22)註(6)中井真孝、81-82頁。 (23) 註(11)吉田靖雄、216頁。 (24) 註(11)吉田靖雄、217頁。/註(4)井上薫、74-81頁。 (25)佐久間竜『日本古代僧伝の研究』1983年、吉川弘文館、29頁。 (26) 本郷真紹、「行基と律令国家」『民衆の導者行基』吉川弘文館、2004年、78頁。 (27) 註(11)吉田靖雄、243頁。「行基の活動の公認が天平13年にあったという指摘は、天平5~7年に行基の入師 位が実現していること、12年起工とされる泉橋院の瓦は平城宮系のものであったことの2点からも傍証される…」 とする。 (28)註(25)佐久間竜、28頁。 (29) 註(11)吉田靖雄、181−182頁。 (30)井上薫「行基の布施屋と貢調運脚夫」『行基 鑑真』吉川弘文館、1983年、119頁。 (31) 註(11)吉田靖雄、223頁。 (32) 大西貴夫「菅原寺及び周辺出土の瓦からみたその造営背景」『橿原考古学研究所論集』第14巻、八木書店、 2003年。558頁。 (33)同上、560頁。 (34) 泉森皎『古代の道』(河内みち・行基みち)上田正昭編、法蔵館、1988年、180頁。 (35) 畑井出「摂河泉における僧尼の動向」『大阪の歴史と文化』和泉書院、1994年、86頁。 (36) 畑井出「行基集団の開発と律令国家」『横田健一先生古稀記念文化史論叢』上、創元社、昭和62年、966頁。 (37)同上、971頁 (38)和田萃『古代の道』(河内みち・行基みち)上田正昭編、法蔵館、1988年、147頁。 (39) 註(10)米田雄介、217頁。(注9) (40) 註(6)中井真孝、81-82頁。 (41)『続日本紀』には行基の死に当たっては「薨」の文字が用いられる。   卒伝の「薨、卒、死」には、明確な区分があり、喪葬令では、「薨」は親王及び三位以上の官位を有するものに   使われるので、「行基」はそれに相当する地位の高い人物の一号と考えることができる。 (42) 註(11)吉田靖雄、181 -182頁。 (43)長山泰孝は、「行基の社会事業なるものは民間の一遊行僧による個人的恣意的な事業の域をこえて国家的   事業に匹敵するスケールと計画性とを備えていたことになるが…」とする。(長山泰孝「行基の布教と豪族」『研   究集録』19号、大阪大学、昭和46年。30頁。) (44) 大西貴夫『橿原考古学研究所論集』第14巻、八木書店、2003年。558頁。 (45)井上光貞「行基年譜、特に天平十三年記の研究」『行基 鑑真』所収、吉川弘文館、1983年、176頁。 (46)註(17)千田稔、70頁。行基の超能力「天眼、通眼」
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]

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