行基と智光
目次 1 智光説話 2 智光の実像 3 行基と智光の関係 4 真福田丸説話 5 せりつみし 6 曼荼羅と万葉集 はじめに 奈良時代を代表する僧に、行基と智光曼荼羅で有名な智光がいる。この二人の関係は『日本霊異 記(以下『霊異記』とする。)』(1)に見られるとおり、智光が行基の栄達をねたみ、地獄に落ちる話 から始まる。地獄では、行基の入ることになる金の宮殿を見つつ、智光は、地獄の責め苦に遭うも のの、許されて蘇生し、難波で活動する行基に許しを乞うというものである。また、智光が若い頃 に、真福田丸と呼ばれ、行基の前世である姫君に導かれる説話がある。これら、智光と行基が係わ る説話・伝承の意味するところは何であろうか。 山岡敬和は、「…「真福田丸説話」は、時代と目的の違う諸書−説話集から『今昔物語集』・『古本 説話集』・『私聚百因縁集』、歌論書から『奥義抄』・『袖中抄』・『古来風躰抄』、そして、太子伝の一 書『聖誉抄』や当麻曼陀羅を講釈した『當麻曼陀羅疏』、また謡曲や近世の地書など−に記載されて いるため、不分明な生成・伝播の過程の一端を解明してゆく上で貴重な手がかりを与えてくれるの である。そこで、この論においては、枝分れして流れゆく伝承の河を遡及して、真福田丸説話が生 成されたときの姿と、その方法について論じてみたい。(2)」とするように、智光、行基は多くの説話 に取り込まれ、枝分かれしていくのである。 なぜ、智光は行基と比較されるのか。 なぜ、智光の幼少時代が真福田丸とされ、どのように智光と行基が結びつくのかを考えてみたい。 1 智光説話 (1)智光説話の変遷 波々伯部 守は、「智光説話の形成」の中で、智光説話の系譜を挙げる。(3) @堕地獄説話 A往生(曼荼羅)説話 B真福田丸説話である。 これを見ていこう。 表1 智光説話の変遷図1 智光説話の系譜(略) @堕地獄説話 ○霊異記の智光と行基 『霊異記』に「(智光)吾是智人、行基是沙弥、何故天皇、不レ歯二吾智一、唯誉二沙弥一而用焉。」と される。 智光の堕地獄説話 智光の蘇生譚になる。 波々伯部 守は、「『霊異記』中巻七(智者誹二妬変化聖人一而現至二閻羅闕一受二地獄苦一縁)の説 話は、つぎの五つの部分から構成されている。 @智光・行基の出自と略歴 A智光が行基の大僧正就任を妬んで誹謗し、時を恨んで鋤田寺に退居する。 B智光はたちまち痢病にかかり臨終。誹謗の罪により 閻羅王の使に召され、冥界遍歴をする。 C蘇生して行基に発露懺悔する。 D景戒の「不思議光菩薩経」引用による戒言と、行基・智光の遷化。(4)」とする。 『続日本紀』に行基は、「霊異神験類に触れて多し」とある。霊異神験は、BCに該当する部分で あるが、あるいは@〜D全てに当てはまるとみるのはいかがであろうか。 ここで、霊異記にみえる言葉群の一部を表2 に挙げてみよう。 表2 霊異記に特異な言葉
区分 史料 堕地獄説話 『日本霊異記』『三宝絵』『日本往生極楽記』『本朝法華験記』扶桑略記第6、元亨釈書 (『今昔物語集』・『私聚百因縁集』、) 往生(曼荼羅)説話 日本往生極楽記・往生拾因・水鏡・今昔物語集・十訓抄・元亨釈書・本朝高僧伝 真福田丸説話 『今昔物語集』・『古本説話集』・『私聚百因縁集』、『奥義抄』・『袖中抄』『和歌色葉』『古来風 躰抄』『聖誉抄』『當麻曼陀羅疏』、謡曲や近世の地書など 場所は、鍬田寺・難波・和泉国泉郡、人物は、智光・行基・血沼県主倭麻呂、霊異神験は、蘇生・ 地獄の「西方にある金楼閣・門の左右の神人」、行基は、沙彌・大徳の二つの態様であり、智光をみ て「笑み」、「口は身を傷ふ災ひの門」と諭す、これらの言葉群はそれぞれ行基の説明に用いられた ものであるように思われる。 A往生(曼荼羅)説話 米山孝子は、「智光の曼荼羅説話は『極楽記』が文献上の初出であったが、それは行基の全く関与 しない、元興寺で頼光との修行を通して夢想感得できた浄土変相図とそれへの観想往生が内容であ った。…智光曼荼羅説話は『今昔』に至るまで、『時範記』(1099年)『往生拾因』(1103年)『七大寺日 記』(1106年)等で記録され、『極楽記』のそれと顕著な違いが見られるのは、『七大寺日記』の段階 で智光往生の住坊が独立して「極楽坊」と称され、そこに曼荼羅が祀られている点である。…智光の 曼荼羅説話の流布状況から見る限り、智光に関する説話は行基との関係を離れて遍く大衆化し、同 時に多くの人々から信仰の対象となり得ているのである。 従って、こうした時期に真福田丸説話が生成されていることを念頭に置くと、もはや智光側の立場か ら行基の化導を必要としたとは思えなく、むしろ、行基伝承の側で著名になってきた智光曼荼羅説話 の逆利用を計ったのではないかとさえ思われるのである。…(5)」とされるように、智光曼荼羅説話が 行基の伝承に逆利用されたことは指摘のとおりであると思われる。さらには、智光曼荼羅が行基と結 び付けられる大きな理由は、曼荼羅図を構成する構図が、万葉集という歌が構成する世界に誘導す る意味があるのではないだろうか。 行基の伝承が肥大・拡散されていく中で、次の真福田丸説話もまた、歌学書の中に取り入れられ伝 承されていくからである。 B真福田丸説話 智光の若い頃が真福田丸として描かれる。 米山孝子は、 真福田丸説話生成の背景として、「真福田丸説話は、文献上では智光堕地獄説話(九 世紀半ば)、智光曼荼羅説話(十世紀後半)の次に表れてきており、その内容から見ても両説話が前 提となって成立していることは疑いえない。従って、行基との関わりの中で伝承されてきていることが 不可欠の条件となっている。さらに、「今昔」は結果的に智光の負のイメージを拡大させているが、原 拠形態を『古来風躰抄』型として考えてみると、本来は智光は努力と反省を併せ持つ高僧として描か れ、それは往生譚と矛盾なく結びついて成立していると言える。つまり、真福田丸説話は行基の化導 によって高僧となり、また曼荼羅往生を遂げたという、智光を全面的に評価する説話として成立してい たのである。これらの事を考えあわせると、その背景には、何らかの形で智光と行基の結びつきを一 層強化する説話の必要が生じていたのではないかという思いに至る。(6)」として、真福田丸説話が行 基との関わりの中で伝承され、行基と智光の結びつきをより強化する必要があったとしている。これは、 行基説話の著編者の意図は智光を通じて、行基の姿を明らかにしようとしたのではないかと憶測する。 このことは、以下に明らかにしていきたい。 (2)智光説話の構造 山岡敬和は、真福田丸説話を「第一形態」と「第二形態」の二つに区分する。(7) 表3 真福田丸説話の区分
霊異記中巻7 (智光)吾是智人、行基是沙弥、鋤田寺、西方にある金楼閣、蘇生、大徳、咲み、口は身を 傷ふ災ひの門、門の左右の神人、難波、和泉国泉郡大領血沼県主倭麻呂 「第一形態」と「第二形態」の二つの、区分の明確な相違は、智光の往生の有無であり、第一次 では、行基と智光が生きているときに出逢い、敵対関係で描かれていたのに対して、第二次では、 智光が往生した後、行基が登場してくるのである。(8) 補足すると、第一次形態は、堕地獄説話の両者関係を引き継ぐものであり、智光が蘇生するのに 対し、第二次形態は、行基の転生譚が描かれるのである。そして、どちらも大成した智光に対して、 若い行基が描かれる。後述するように、実際とは、老若が逆である。 米山孝子は、「地獄説話においても、真福田丸説話後半の智光と行基の論議の場においても、智 光が一貫して行基よりも年長(老僧)であるという設定になっているのである。これは如何なる理由 に基づくものであろうか。(9)」とする。 これを考えたとき、智光は、行基より20〜40歳若いのである。その智光が死んだ後に、現れる行 基は、蘇った、或いは再生した神仙のような位置づけとなろう。霊異記には、多くの蘇生譚がある。 そして、行基は、二生の人つまり、転生する人として描かれる。 これは、霊異記が行基を文殊の化身とするのと同様に、説話上のことであり、実際に有り得ない ことである。 表4 霊異記にみえる蘇生譚
「第一形態T」 今昔物語集・古来風躰抄 行基と智光が生きているときに出逢い、敵対関係。 「第二形態U」 古本説話集・奥義抄・袖中抄 智光が往生した後、行基が登場してくる。 2 智光の実像 (1)説話・伝承による智光 蘇生譚 『霊異記』に見られる智光は、元興寺(飛鳥寺)官僧でなく、河内国安宿郡鋤田寺之沙門として、 鋤田連、後改二姓上村主一、母飛鳥戸造(安宿)であり、蘇生する僧として描かれる。 根本誠二は、「智光は、河内国安宿郡の鋤田寺 (現在は廃寺。寺祉は柏原市東条尾平廃寺であると の説がある)の僧侶で孟蘭盆経・大般若経・般若心経等の注釈書をなす程の学僧であった。これ程 の学僧である智光が、和泉国 (天平宝字元年成立、それ以前は河内国和泉郡、もしくは和泉監と称 す)の出身の行基を沙弥であるとして誹謗したのである。これが原因で智光は、鋤田寺で急な病気 により死に、下略の部分で活与されているように地獄の責苦に遭い 九日後に蘇生したとする説話の 中心人物になっている。蘇生後の智光は、行基に自らの誹謗への許を乞い「従レ比己来、智光法師、 信二行基菩薩一」じて、「弘法伝教、化レ迷趣レ正、以二白壁天皇世一、智嚢蛻二日本地一、奇神 遷二不レ知堺一I。」とあり、行基と同様に人々に仏法を説き弘め、白壁天皇の時代、即ち光仁天皇 の時代である宝亀年間に死去したというのである。(10)」とする。 表5 実際と説話・伝承
史料 人物 記事 上4 願覚 大倭国葛木高宮寺、円勢師、近江、聖の反化、光を発す 上5 大伴(部)古連公 3日蘇、還活連公、難波居住・卒、僧都、聖徳太子、仙薬 上30 膳臣広国 3日蘇、備前国宮子郡少領、金宮、門を守る人、少子ちいさこ、経 中7 智光 9日蘇、河内国安宿郡鋤田寺沙門、行基沙彌、金楼閣、難波 中16 綾君の召使 7日蘇、讃岐国香川郡坂田里、鵜垂郡同姓の衣女 中25 布敷臣衣女 讃岐国山田郡、鵜垂郡同姓の衣女、金宮 下19 猴聖 舎利菩薩と号し、道俗帰り敬ひて化主とす 下22 他田舎人蝦夷 7日蘇、信農国小県郡跡目里、使4人、黄金宮、法花経、中の道 下23 大伴連忍勝 5日蘇、信農国小県郡嬢里、召使5人、大般若経写願、上の道 下26 肥前国火君 松浦郡、黄泉、物部古丸 この話の中で、蘇生した智光は難波に行き、智光を見て、笑みする行基に許しを請うのである。 同じ言葉を繰り返すのは、そこに秘められているものを感じるからである。 智光は、光仁天皇の時代である宝亀年間に死去したとされるから、年齢差がある大僧正行基に 対して若年である事実とは異なった智光像が形成されていたことになる。 (2)智光の業績、年齢 米山孝子は、「因に、智光の業績を掲げてみると、元興寺の学僧として『般若心経述義』『浄名 玄論略述』『大般若経疏』『中論疏述義』『法華玄論略述』『無量寿経論釈』『大恵度経疏』などの 著書を残し、『三国仏法伝通縁起』によると「智蔵上足有三般匠、乃道慈・智光・頼光也、智光・ 頼光奈良新元興寺[新薬師寺が正しいか]住侶、立仙光院弘通法宗、荘厳極楽坊図安養依正 安置彼房、是智光師所建也」(大日本仏教全書101)とあって、智蔵に従って三論の学統を受け ている。詳しい伝記は不明であるが、唯一年令らしきものが知られるのは、『般若心経述義』 (752年)に著した序文の「智光、従レ生九歳、避二?両処一、遊二止伽藍一、然自二志学一、 至二于天平勝宝四年中、三十箇年中、専憩二松林一、縛レ身研レ神、随レ堪二礼読一、周二 覧聖教一、其最要者、唯此経焉」(大日本仏教全書七)という文言であり、志学(十五歳)より 天平勝宝四年まで三十箇年とすると、其年四十四歳になる。逆算すると和銅二年(709)の生 誕、入寂は『霊異記』によると宝亀年間(770−81)であるから、行基(668−749)と比べると約 四十歳若いということになる。智光住止の寺は、諸記録から元興寺ほか鋤田寺(椙田寺)、八 田寺(蜂田寺)、仙光院が判明している。(11)」とする。 智光が籠もった鋤田寺の名は寺院の名としては珍しい名であり、その所在は不明である。(12) 吉田靖雄は、「智光は、天平勝宝四年(七五二)撰述の『般若心経述義』の序文によれば、 生年は慶雲四年(707)の頃らしく、…(13)」とするので、米山孝子より2年早く考えるが、行基 の方が智光より概ね四十歳年嵩であることは、普通、二世代違うこともあり、時間軸において 両者の接点は見出しにくいものであるが、それをことさらに比較することは、行基と智光は、 何か特別の関係で結びつくものと思われる。 (3)鋤田寺(椙田寺) 『霊異記』には、智光について、「河内国安宿郡鋤田寺之沙門、鋤田連、後改二姓上村主一、 母飛鳥戸造(安宿)」とする。この鋤田連及び鋤田寺(椙田寺)はどこからもたされたのか。 柏原市玉手町に行基伝承のある安福寺があるから、行基とも関連するのであろう。 (4)地理的環境 次に二人の地理的な関係をみる。 波々伯部 守は、実際の智光について「天平勝宝七年八月二十一日付の「紫微中台請経 文」 (『大日本古文書』十三-154)に、紫微中台が随羅尼集経十二巻と如意輪e羅尼経一巻 を「八田智光師所」に請じたことがみえ、智光の蔵経は密教経典にも及んでおり、この頃多く の経論を所蔵し八田に別所を構えていたと思われる。この八田の別所は堺市八田寺町に比 定できるのではないか。この地域は令制行政区画の和泉国大鳥郡蜂田郷にあたり、町内か らは多くの布目瓦が出土して奈良前期の寺院跡の存在が確認されている。この蜂田郷は行 基の母の蜂田首(「大僧正舎利瓶記」、「霊異記」では蜂田薬師とする)の本貫地であり、母 の家を改めて寺としたと伝える「行基四十九院」の第一にあげられる家原寺が存在し、現家 原寺(堺市家原寺町)には行基誕生塚があり、この地はかつての塔跡の遺構とされ、境内か ら奈良後期の古瓦が出土する。八田寺町と家原寺町とは一キロメートル以内の地にあり、 行基・智光とも大鳥郡蜂田郷に因縁があったのである。行基対智光の説話構成は、先学が よく説かれるような奈良時代を代表する二人の高僧を登場させるという意図からだけでなく、 二人の境涯にもともとその説話の素材となる地域環境が内合されていたのではないか。… ここにおいて、智光を罵ったのが少僧=行基であり、『霊異記』説話の立場と逆転し、真福 田丸=智光が修行に出る際に水干袴を縫ってもらったのが大鳥郡に住む娘=行基の先身 であるという構成は、行基と智光を大鳥郡に関係づけ、行基の先身が娘であるという男女 矛盾した無理な付会となったのも蜂田郷が行基の母の居地であったことに起因するので はなかろうか。いずれにしても真福田丸説話は、智光と全く関係のない幼名真福田丸とい う僧の出世譚を『霊異記』の説話をもとに架構したもので、和泉国大鳥郡蜂田郷に所在し た家原寺と八田寺の関係から発展した説話といえる。(14)」とする。 ここでは、波々伯部 守が指摘する智光と真福田丸の関係について、二人の共通する 地域環境として、八田(蜂田)を挙げているが、それだけでは物足りない気がする。 次に、全く関係のない幼名真福田丸を採用することから、智光とその幼名真福田丸を結 びつけるものが存在すると考えなければならない。さらに、行基と智光の立場や行基の前 世が大和国長者の娘(姫)とする無理な付会についても、何らかの意図があるのではないか。 そして、智光の鋤田寺(椙田寺)もまた、行基に関する謎を秘めているのでないか。 3 行基と智光の関係 (1)行基と智光の対立関係 ○霊異記の智光と行基 『霊異記』に「(智光)吾是智人、行基是沙弥、何故天皇、不レ歯二吾智一、唯誉二沙弥一而 用焉。」とされ、智光は、身分の低い沙彌である行基が天皇に重用されることをいぶかしむ。 智光は、なぜ行基と比較されるのか。 米山は、「…こうした説話が成立した由縁を考える必要があろう。事実を核にして伝承されて きた説話ならば、どんなにそれが変容しようとも、生成の原因を見極めることにあまり困難はな いが、事実をそれと認識できない類の話は、人々の願望や思惑など形而上的な問題がからん で、容易にその要因をつきとめることは難しい。従って、説話伝承者の思想や立場、収録物の 性質、当時の思潮などを考慮して究明せざるを得ないが、この説話に対して既に推察されてき たことは、法相・三論の対立という当時の仏教界の動向が強く反映されているという見方であっ た。…私も基本的にはこれらの観点と同じく、当時の仏教政策の動向と『霊異記』説話の内容 を照合しながら、薬師寺の僧景戒の説話編纂態度に独自な戒律や僧尼観が見られることを指 摘して、この智光説話には同じ薬師寺の僧行基への尊崇の念と法相教界への配慮が見られ ると述べたことがある。(15)」とする。 景戒が『霊異記』に描く智光これを智人とし、行基を沙彌と誹る言葉は、その後の『極楽記』 『法華験記』『行基年譜』まで引き継がれる。 行基、智光が属する宗派である法相・三論の対立という純粋な宗教的な摩擦は分からない でもないが、ただ四十歳も年が離れ、老若が入れ替わる二人の関係は同一時代で論争する ような宗教的な対立を代弁するとは思えない。 表6 行基と智光の比較
項目 実際 説話・伝承 出身 元興寺(飛鳥寺)官僧(15歳から天平勝宝4年約30年間) 「摩訶般若波羅蜜多心経述義」 三論教学、浄土教学『浄土源流章(凝然)』、 河内国人、。俗姓鋤田連、後改二姓上村主一、母飛鳥戸造 智嚢、奇神『霊異記』 稲葉村『和泉名所図会巻3』 鋤田寺 (椙田寺) 柏原市国分・東条尾平廃寺に推定 安宿郡鋤田寺之沙門也(霊異記)智光ハ 鋤田寺ヲ作ル。是安宿郡亀瀬ノ西(聖誉抄) 別所・住坊 八田智光師所「紫微中台請経文」・仙光院智光法師『三論祖師伝』元興寺極楽坊、新元興寺 生年 慶雲4年(707)[吉田]和銅2年(709)[米山、岩城] 没年 宝亀年間(770-81行基より後) 白壁天皇のみ世(霊異記) 元興寺僧、真福田丸説話、行基少僧・智光老僧『今昔物語集』智光が行基より年長(老僧)、行基より早く寂/天平十三年三月二十五日没 著作 摩訶般若波羅蜜多心経述義 注) 「第一形態T」は、行基と智光が生きているときに出会い、「第二形態U」は、智光が往生した後、 行基が登場してくるのである。 景戒以外の行基伝著編者も、二人の対比を行うことを踏襲するが何故であろう。 『三宝絵』の智光は、「智光大法師と云僧あり。智り徳満てる大師也」(古典文庫本)とされる。 ここに、「智光」は「智り満てる」と言い換えられている。智光の名前からは、「智見つ」が導か れる。 智光は、『今昔物語集』で「ひしり」とされ、『奥義抄』では、「たふときひじりにて うせぬ」と されている。智光[智みつ]の「智」の字は、知と日の重なりであり、逆さから読むと日知(ひし り)=聖である。よって、智光の名の中に「聖」を内包しているといえよう。 智光・聖に対応する行基は沙彌である。沙彌も同様にいえば、サ見であろうか。それは、 『元亨釈書』が「我才智宏淵」とするように、行基の父が「サダ智(サイ智)」とされることと結 びつくような関係を示すものと思われる。 (2)智光の蘇生 行基と智光の関係を言葉遊びから考える。智光は誹る僧である。「そしる」が「蘇知る」に かけられる。『霊異記』では、智光は九日後に蘇生するが、その後の説話では十日である。 これは、蘇に十(ソ)日がかけられている。蘇は分解すると、「サイオ(ウ)ノキ」となる。小野妹 子は、小野妹子と略され、中国名は、蘇因高である。つまり、蘇=小とするならば、蘇える 僧は、小僧であり、行基の蔑称ともされているのと関連付けられる。 表7 智光の蘇生日数
史料 行基 668-749(82) 智光 707〜709-770〜781(62〜74 ) 今昔物語集T 行基ハ智浅キ小僧也 我ハ智深キ老僧ナリ 古来風躰抄T 二生の人にこそおはしけれ。 童名まふくだ、たふとくなりにけり。 それなむ智光法師なりける。 霊異記中巻第七縁 俗姓越史也。越後国頚城郡人也。母 和泉国大鳥郡人、蜂田薬師也。 行基是沙弥 河内国人、其安宿郡鋤田寺之沙門也。 俗姓鋤田連、後改二姓上村主一、 吾是智人、智嚢、奇神 日本往生極楽記・本朝法華験記 行基浅智沙彌也 我是智行大僧 三宝絵詞 行基ハサトリアサシキ沙彌也 我ハ智深キ大僧也 行基年譜 行基智浅沙彌也 我智深大僧 古本説話集U 行基は文殊なり。 行ぎぼさつはもんずなり まふくた丸は智光がわらはなゝり。 まう者智光 奥義抄U 姫君は行基の化身、行基は文殊也。 まぶくた丸は智光なり。智光頼光とて往生したるものは是也。 袖中抄・私聚百因縁集U 行基ハ智浅キ僧ナリ 吾ハ智深キ大法師ナリ 元亨釈書14 行基只営二小行一耳 我才智宏淵[才智は父の名の一つ] 『和歌色葉』 姫君は行基の化身也。行基菩薩は文 殊の変化也。 まふくだ丸は元興寺の往生人智光なり 聖誉抄 智光ハ鋤田寺ヲ作ル 注)『霊異記』では三つの地獄を巡る話が本書[三宝絵]では一つに合理化され、蘇生の期間も九日間 から十日間へと変化している。米山95頁。 4 真福田丸説話 (1)『今昔物語集』 根本誠二は、「『今昔物語集』には、行基と智光をめぐる所伝に、新たな要素として、「其家ニ仕フ 下童有リ、庭ノ糞令二取棄一ル者也。名ヲ真福田丸ト云フ」とある。いわゆる真福田丸の伝承が付 加されている。この伝承は、行基が和泉郡の人の娘の再来で、この家に仕えていた真福田丸が、 即ち、後年の智光であるというものである。娘の父が、修行におもむこうとする真福田丸に水干袴 (片袴)を与え、「比ノ童ノ修行ニ出ヅル料也。功徳ノ為也」としたのであった。後年、大僧となった 智光の法莚に列した娘の再来とする行基が「真福田丸ガ修行ニ出デシ日、藤袴、我レコソハ縫ヒ シカ、片袴ヲバ」と語り、前世でのつながりをさとすのである。しかし、智光はこれに気がつかなかっ た。[娘が行基であったことか。二生(性の転換)は知るよしもないことであろう。:筆者記]これも智 光が地獄で責苦を負う原因となったのであるとするのが、真福田丸の伝承の概要である。この伝 承については、さらに『古本説話集』『奥義抄』『袖中抄』『私聚百因縁集』にまで引きつがれ、智光 の一代記的性格を有しているので、行基伝としてだけでなく、智光伝としても機能したと指摘してい る。加えて、両者の河内国と和泉国という地縁的なつながりをもって両国のある地域に伝承されて いた難題聟譚と、それぞれの国の誇りである高僧(菩薩=行基と往生者=智光)二人を結びつけ ようとする試みが、その土地や寺院に関連の深い人(人々)によってなされたことが想像される。 加えて行基と智光の新たな関係を語るために生成されたとも指摘している。いわば、『霊異記』か ら『今昔物語集』、そして『古本説話集』に至る行基と智光をめぐる伝承が、単に行基側の要請でな く、智光の側 (元興寺や八田寺をさすか)に伝承を拡大発展させていく要請なり要素が存在していた ことを示唆するものである。(16)」とする。 『今昔物語』は、功徳のため、娘の父が「片袴」を与えたことが別の説話では娘(姫)が「片袴」 を与えるように変化していく。また智光と行基の関係に新たに前世の主家の娘が真福田丸を善 導する役割を加えていく。そして、恋焦がれた娘(姫)は亡くなり、恋は成就せず、僧として大成し た後の智光に、行基が昔「片袴」を与えて善導したことを諭し、智光がはじめて気が付く筋書き は巧妙である。 山岡敬和は、「山田白滝譚の主人公の名がその境遇を象徴的に表すものであったことは、後 に難題として詠まれる娘の歌において、二人の身分の違いと主人公とを懸詞にして表現するた めの構成上のことと推測される。それに対して、真福田丸説話の難題は僧になることであって、 そこに両者の共通性はみられないのだけれども、年老いた智光に、若き行基が投げかける まぶくだが修行にいでしかたばかま われこそぬひしかそのかたばかま という論義の言葉(和歌)は、主人公の智慧を試みる点で難題の片鱗を残すものとみることが できるのではないだろうか。(17)」とする。 この歌は、言葉の一部が換えられて、各説話に取り込まれる。その変化の中に、謎が込め られているものと考えるので、後述する。 (2)真福田丸の名前、生い立ち それらの作品の中で使われる真福田丸の名前の表記は、概ね3つに分類できる。 表8 真福田丸の名前
九日 霊異記 十日 今昔物語集・元亨釈書・日本往生極楽記・本朝法華験記・本朝高僧伝・東国高僧伝 名前の変遷は、まふくた→真福田丸→麻福田丸となり、丸が付かない「まふくた」が古い形であ る。 『行基年譜』には、「孟□陀加修行仁以天示藤袴 麻呂曽怒悲計牟行袴」とあり、「孟□陀」と「ふく」 が隠されている。 『古本説話集』によると、真福田丸は、「門守りの女の子なりける童」である。古い史料は、庭の糞取 りであったり、場所が河内国からやまと国へと変遷が見られるので、ここにも行基の謎が秘められてい るのであろう。 (3)福田思想 まふくだの名前を考えるとき、福田思想との関係が論述される。 山岡敬和は、「真福田丸という下童の名前は、すでに指摘されているように、 『空海御遺告』や『大 乗本生心地観経』などで用いられている、真実の福田僧(真福田)との関連が考えられる。 真福田とは、信仰・供養することで、田が収穫の実りを結ぶように人に福徳を授けるものの意味で、 仏・菩薩・僧を指すのだけれども、智光の童名としてこの言葉を冠するためには、この話の生成時に 智光が、人々に福徳を与える存在として認められていることが前提となる。しかし、すでにみてきた ように、『日本霊異記』や『今昔物語集』が伝える智光像は、傲慢さゆえに地獄の罰を受ける、とて もこの名に値しない不名誉な姿でしかなかった。『日本霊異記』では最後に人々を導く様が述べら れてはいたが、それも堕地獄の汚名を濯ぐだけのものであったかというといささか心許無い。むしろ この名は、智光より民衆利益行に邁進した行基にこそふさわしいものであろう。(18)」とされる。 仏教の福田思想からは行基の方が真福田の名にふさわしい僧とされるから、智光に真福田丸の 幼名が使われることが否定的に考えられているので、別に、真福田丸の名前の意味を考えなけれ ばならない。 往生者としての智光像からまふくた丸説話を導いたものに、既有の類似する仏教説話があり、民 間に育った難題聟譚に方法を借りた[米山孝子]とするものや、『今昔物語集17-33』の虚空蔵利生 譚があるが、原典元種があったと思われる。 (4)馬郎婦の故事 霊異記では、智光は、病気になって、体が弱り、亡くなる。他の類話でも、まふくた丸や母は病気 になる。そして、今昔物語集では、まふくた丸は、智光を罵る名前として使われた。これをつなぐと、 「くたばる」・「くた」が想像される。体が病気になる、弱くなること「くたばる」は、 名義抄に「体力が 衰える。弱る。」とあり、死ぬこともいう。下略とすると、「まふくた」ができる。 新明解古語辞典に、「朽つ 平安時代中ごろから「くだつ」とも、衰えかかる」とある。 馬郎婦観音の縁起・故事から真福田丸の名前が作られる。 「まふくた・まぶくた」の名前の由来を考えたとき、馬郎婦観音の縁起・故事がある。(19) 『閑田次筆二』は、「…然るに馬郎婦の観音の縁起を聞しに、全くかくのごとし、國ことにして同じ さまの利益ありけるか、もしは馬郎婦の縁記をとりて智光の傳を潤色しけるかしるべからず、いと あやしむべし、(20)」とある。 ここに、真福田丸説話と名前の原点があるのではないか。 「馬郎婦は体が弱って亡くなり、亡骸はすぐに腐った」 馬婦(まふ)が腐(くた)つ、あるいは馬婦(まふ)の体が病気になる「くたばる」は、下略とすると、 「まふくた」ができる。新明解古語辞典「くたつ(降つ)」は「朽つ くたすと同根。平安時代末ごろ から「くだつ」とも、衰えかかる」「腐す」は「朽つ、くたつと同根」であるから、馬郎婦観音の縁起・ 故事から真福田丸の名前が作られたと考える。 (5)二生の人 二生の人行基 智光は、白壁天皇の時代、即ち光仁天皇の時代に逝去したとされる。これが智光説話の真福 田丸説話の第二段階では、智光の寂後、行基が出現する逆転現象が生じている。行基の前世 は、長者・国の大領あるいは猛者の姫君であって、智光が大成するまでに亡くなっている。 「二生の人」とは、『古来風躰抄』に「前世も現世も共に人間に生れてきた人、すなわち、行基 を指す。(21)」とある。 『霊異記』には、「行基は文殊の反化」として、行基の本体が文殊であったとする。いずれも、 現実にはあり得ないことを記す。そして、「二生の人」の意味は、行基の存在以前に別の前世が あったことを示すものではないか。前世の後、つまり死後に「行基」となつて現れ、智光の寂後 には不死の行基が出現する形となっているのではないか。ちょうど、『霊異記』上4では、葛木 高宮寺北の房に居住する願覚師が死して、火葬の後、近江国に復活した如くである。 『奥義抄』は、行基の前世をいつき(斎き)の姫君とする。行基が天皇の使者として、伊勢に出 向く説話がある(22)から、斎王を連想させられるものである。 或いは、私聚百因縁集、奥義抄に見られる厳しき姫君は、斉明天皇を指すか。 表9 行基の前世
名前 史料 変遷順位 まふくた(まふくだ・まぶくた) 奥義抄・和歌色葉・古本説話集・古来風躰抄、袖中抄 1 真福田丸 今昔物語集・古本説話集 2 麻福田丸 私聚百因縁集・当麻曼陀羅疏・聖誉抄 3 5 せりつみし (1)せりつみしの歌 真福田丸説話に関して、 せりつみしの歌がある。 「芹つみし昔の人も我ごとや心に物はかなはざりける」の和歌である。(23) 米山孝子は、歌学書における真福田丸説話伝承として、「智光の幼少時代が真福田丸、行基の前生 が大事に育てられた娘、この二人の交流が〈片袴〉の歌を介在させて説話化されているという骨子に沿 って他書にその伝承を追ってみると、この真福田丸説話は『奥義抄』以下、その説を受けて『袖中抄』 『和歌色葉』『古来風躰抄』と言う主に歌学書の中で伝承されている。歌学書ではない『古本説話集』 『私聚百因縁集』にも『奥義抄』とほぼ同文で収録されているが、…歌学書に本話[真福田丸説話:筆 者注記]が伝承されている理由は、〈芹つみし昔の人も我ごとや心に物はかなはざりける〉という歌の 解釈に関わる説話として本話が収載されているからである。従って、この〈芹つみし〉の歌説話の流れ をたぐっていくと、その伝承は『綺語抄』『俊頼髄脳』『和歌童蒙抄』等、『奥義抄』以前の歌学書にまで 遡っていく。〈芹つみ〉説話は、身分のある女性と身分の低い者とのかなわぬ恋がテーマとなって、そ の説話や出典等が各歌学書で論じられてきたが、『奥義抄』の段階で新たにこの真福田丸説話が〈芹 つみし〉歌の解釈にあてられているため、以後の歌論書は自ずと『奥義抄』の説をも踏襲する結果とな っている。(24)」とする。 真福田丸説話が〈芹つみし〉歌の解釈にあてられているのは何故なのか。 山岡敬和は、「それでは、次に、この歌と深い関わりを持つとされる「芹摘みし」という言葉に、目を転 じてみよう。この言葉は、『枕草子』に初出し、その後『更級日記』・『狭衣物語』・『成尋阿闍梨母集』と 引き継がれ、『讃岐典侍日記』まで用いられている。後冷泉帝の時代を頂点として、一条帝から鳥羽帝 にかけての後宮女流作家たちによる散文作品のなかで、「不如意」の嘆きを表明するため用いられて いるのである。特に、『狭衣物語』以後の作品では、過去のでき事−芹摘みし昔の人−とする時間認 識を伴っている。この後を受け継ぐ形で、先に掲げた歌学書が、それぞれの解釈を展開する一方で、 俊頼をはじめとした男性歌人たちが、和歌の中に「芹を摘む」という行為を詠みこんでいるのである。 「芹摘みし」という言葉、「芹摘みし昔の人」の和歌、及び、歌学書が想定している芹摘みの物語− 「芹摘み説話」−この三者の関係を考えるとき、女流作家たちが直接的には恋と結びつけて「芹摘み し」を使っていないことや、時代毎に使用状況が裁然とかかれていることなど、重なり合わない部分は 残されている。しかし、ひとまず、この三者は互いに関係があり、同一の表現世界を志向しているとみ ることは許されるのではないだろうか。(25)」とする。 表10 に「芹摘み」の歌を掲げる。 表10 「芹摘み」の歌
史料 行基の前世 霊異記 行基は文殊の反化なり 今昔物語集 和泉国大鳥の郡に住みける人の娘 私聚百因縁集 大和ノ国猛者ノ厳シキ姫君 奥義抄 大和国、猛者のいつきの姫君 聖誉抄 行基ハ先年郡士ノ女也 袖中抄 古本説話集 大和国の長者の姫君 古来風躰抄 やまとのくになりける長者、国の大領などいふ物のむすめ/二生の人にこそ御座しけれ。 當麻曼陀羅疏 和歌色葉 大和国猛者のいつき姫君/姫君化身 注) 奥義抄類似歌は、『俊頼髄脳』『袖中抄』『和歌色葉』『古来風躰抄』『古本説話集』 『私聚百因縁集』『綺語抄・中巻』(続群類467) 万葉集に、葛城王と薩妙観命婦の贈答歌がある。 また、芹の言葉はないが、行基の歌に「法華経を我が得しことは薪樵り菜摘み水汲み仕へてぞ 得し」がある。葛城王(後の橘諸兄)、行基は、「せりつみし昔の人」の一人であったといえるかも 知れない。また、橘嘉智子も「せりつみし」説話と結び付けられる。(26) (2)せりつみし歌の謎 せりつみし歌は、献芹の言葉から、「お口よごし」、つまり、人への贈り物をへりくだって言う 言葉であるが、身分の低い者の高貴な女性を思う歌とされている。 「芹を摘みて功徳につくれ」この言葉は謎かけのように思われる。 「心にものはかなはざりけむ」の言葉を考えよう。『奥義抄』に「つくりかさねたる心を読めり」 とある。昔は、「積み重ねた日」である。「芹摘みし昔」には、「せり積みし」が掛けられている。 「せり」は「すること」、「心にもの」を積むと、「惣」の字が出来る。惣=総、全ての意味から、 「全てはかなはざりけむ」の意味となるか。『竹馬抄』に「人の世に住むは十に一も我心にかな ふことはなき習いなり」とあり、住と十がかけられ、全てかなわぬの変形である。十と一口で叶 うの文字ができる。思い通りにならないことは「然うは問屋が卸さない」という言葉もある。これ が、真福田丸に関係するであろう。真福田丸の説話の難題は、僧になることとあるから、「惣」 と「僧」がかけられているとするのは単純すぎるか。 「舎利讃歎」に「曽」の字にムカシと訓されている。「惣」はいそがしい(いそがし)の意味(『角 川新字源』)、イとソを積むと僧となり、むかしの人は僧である。 「芹(きん)」は、「今」に通じ、「昔」の文字と合わせると「今昔」となり、今昔物語集に誘導され る。また、戻ることになるが、今昔物語集には、真福田丸説話があり、行基の前世譚が付加さ れる。真福田丸の藤袴の歌に注目しよう。 (3)真福田丸の藤袴の歌 次に、歌学書に真福田丸説話が取り込まれることになる。これは、真福田丸説話の「まぶくた 丸がふちばかまわれぞぬひしかそのかたばかま」の和歌に、一部の言葉を換えられ類似する 和歌が作られるのである。「藤袴」には、藤の繊維で織った袴とされるが、一つにはフジ(無事) がかけられているのだろう。智光が蘇るのは、不死か。 それ以外は、不知(ふち)知らずにかかる。藤氏にも通ずるか。 表11 真福田丸への歌
史料 歌 奥義抄 せりつみし昔の人もわがごとや心にものはかなはざりけむ 万葉集20- あかねさす昼は田賜びてねばたまの夜の暇に摘める芹これ(葛城王) ますらをと思へるものを太刀佩きてかにはの田居に芹そ摘みける(薩妙観命婦) 三宝絵・拾遺和歌集 法華経を我が得しことは薪樵り菜摘み水汲み仕へてぞ得し(行基または光明皇后) 俊頼髄脳 我をいとほしと思はば、芹を摘みて功徳につくれ/其の后は嵯峨の皇后とぞ申しける。 俊頼口伝集・上 その後、いひおきしごとくに、芹をつみて、仏にまゐらせ、僧にくはせなとしける 和歌色葉 後の報恩には芹をつみて、仏前に供養せよといひてをはりけるをよめると云々 三国伝記第10(第3) 「膳手之后事」 山家集 なにとなく芹と聞くこそあはれなれ摘みけん人の心知られて 枕草子 御笛の事どもなど奏し給ふ、いとめでたし。御簾もとにあつまり出でて、見たてまつ るをりは「芹つみし」などおぼゆる事こそなけれ。 更級日記 いくちたび水の田芹をつみしかど思ひしことのつゆもかなわぬ 狭衣物語 いとかく、「芹摘みし世の人」にも問はまほしき御心の中、言ふかたなかりけり 成尋阿闍梨母集 人のねぜりとて もてきたれをみるに こたへせば いりえのせりに とひてまし むかしの人はいかがつみしと五月五日とて をさなきちごどもの さうぶとりちらして これにものかけといえば いつかとも しらぬこひぢのあやめぐさ うきねあらわす けふにこそありけれとも… 讃岐典侍日記 かばかりのことだに心にまかせず、道理にぬぐべきをりも待たずぬぎてんこと、心う きに「せりつみし」といひけんふるごとを、身に思ひよそへらるる。 曽禰好忠集 芹摘春の澤田におり立て衣のすそのぬれぬ日そなき 春ことに澤へに生る芹の葉を年と共にそ我はつみつゝ 山岡敬和は、「行基が智光に投げかける言葉は、各書によって次のように異なる。 各書がこのように微妙に異なっているのは、口承性の反映なのであろうか。(27)」とする。 事例の中に隠されたものを探す。 表12 真福田丸の衣服
史料 歌 今昔物語集 真福田が修行ニ出デシ日、藤袴、我レコソハ縫ヒシカ、片袴ヲバ まぶくだが修行に出でし日藤袴我れこそは縫ぬひしか片袴をば 私聚百因縁集 麻福田丸カ藤袴 我綴片袴(我レソ綴シ片袴ト計)/ソノ藤袴ノ片袴ヲバ、姫君曰縫 給ヒタリケル。 奥義抄 まぶくた丸がふちばかま われぞぬひしか そのかたばかま 和歌色葉 まぶくた丸が藤ばかま 我ぞぬひしか そのかたはかま 聖誉抄 麻福田が修行ニ出し藤袴 ヌイテシ物ヲ 其ノカタバカマ 袖中抄 まぶくだが修行に出し藤袴 我こそぬひしか 其かたばかま 古来風体抄 まぶくだが修行にいでし かたばかま我こそぬひしか そのかたばかま 夫木和歌集 まふくだが修行に出しかたはかま 我こそぬひし其かたはかま 行基菩薩 古本説話集 真福田丸が藤袴 我ぞ縫い(ひ)し片袴[岩波:新日本古典文学大系] 行基年譜 孟□?加修行仁以天示藤袴 麻呂曽怒悲計牟行袴 当麻曼陀羅疏 麻福田が修行ニ出シ藤袴 其片袴モヲバ我ゾ縫テキ 名所図絵巻3-57 麻福田加修行尓出之藤袴 其片褌遠波我曽縫天喜 〔花聲〕(芭蕉翁眞蹟として模刻されている) まぶくだが袴よそふかつくつくし 芭蕉の句からも、真福田丸の名前の「福」には「服」がかかる。 真福田丸の「片袴の和歌」について、『今昔物語集』は、「真福田が修行ニ出デシ日、藤袴、我レ コソハ縫ヒシカ、片袴ヲバ」とする。『私聚百因縁集』には、藤袴の片袴を綴るという言葉もある。 真福田丸は「われぞ」とされ、「我」ともされるが、「吾(霊異記)」でもある。 こじつけになるが、「吾」は、ゴロ併せのゴロであり、五つの口でもある。つまり、真福田丸の三 字に、藤(ふぢ=付字)の一字を加えて「□□□□□」を形作る。 ○ 智光曼陀羅説話の智光頼光といひて一双のたうときものなり 『古来風躰抄』の末尾に、「この智光は智光頼光といひて一双のたうときものなり。頼光はサキ ニ極楽ニまいりにけり。智光ハノチハユメニごくらくにまいりてへ極楽のありさままんだらにかきて 智光がまんだらとてよにつたへたる人なり」(28)とあり、智光の尊さの評価を支えたものが智光 曼陀羅であったことが窺えるのである。 ここで、「この智光は智光頼光といひて一双のたうときものなり。」とあるのは、智光と頼光が 一対のものとして比較する、あるいは、一つのものとして見比べるという意味を含んでいるので はないか。そして、ここに、五つのまが見られる。ま=間は、○○○○○と、示されると、先の 「□□□□□」と同じことを意味することになる。 条件を考える。行基の前世である姫は女性であるから、性が逆である。真福田丸より、早くな くなる姫君は、親からみても逆縁とされ、また、智光の「智」は「ひしり」の逆さであるから、「真 福田」の文字を、逆さにすると、「田福真」。かた(片)袴を縫うとは、片に形をかけて、衣服の形 を作ることとする。 『今昔物語集』の「水干」は、「@糊を用いず水張りにして乾かした布。A盤領(詰襟)、脇開け の装束。…裾を袴に着込めること。」とある。Aから、脇が開いていて、裾が見えないこととする ならば、「水干」の形を「田福真」と組み合わせて、「田□福真□」、さらに「真」を「麻」に置き換 えると、「田□福麻□」とような形になる。これは、何が想像できるだろうか。当然のこと、人名 を想定するならば、誰であろうか。 (4)「田□福麻□」田辺福麻呂 『古来風体抄』は、「池のほとりにいたりて、芹を摘みける…」とするが、芹は、田芹とする如く、 田に多く生ずるから田或いは田のほとりで摘むである。田のほとりは田辺である。すると、「田□ 福麻□」は、「田辺福麻□」となる。 『奥義抄』に、「十三 問云、さきくさといふはなにぞ」とある。「和名にさきくさといふ草あり、幸 草、三枝草ともかけり。それによせてつくりかさねたる心をよめり。」と、難解である。 「さきくさ」は福草ともかける。 頼光の「サキ」を考える。 『古来風躰抄』は、「善知識はまことに大ノ因縁なるものなり。この智光は智光頼光といひて一 隻のたうときものなり。頼光はサキニ極楽にまいりにけり。智光ハノチニユメニごくらくにまいりて、 極楽のありさままんだらにかきて、智光がまんだらとてよにつたへたる人なり。」とする。 言葉の表記を、平かな、カタカナ、漢字を交えて、使い分けている。カタカナは強調の意味か。 サキの文字は福に誘導されることは、「さきくさ」で見た。「さき」を充てる名前に「田辺福麻呂」 がいる。 ○曼荼羅から万葉集を連想するならば、「問十三」の説明は、万葉歌人の「田辺福麻呂」に誘 導するように窺える。ここに、『今昔物語集』をはじめ、『古来風体抄』等に隠された真福田丸の 名前の意図は、「田辺福麻呂」ということができよう。 智光が隠れた鋤田寺は河内国安宿郡にあるから、田辺氏の拠点である河内国安宿郡田辺 に近いところであるから、ここからも智光が田辺福麻呂に関連付けされる。 つまり、真福田丸は、田辺福麻呂に誘導する暗号であったと考える。 6 曼荼羅と万葉集 (1)智光曼荼羅 「智光曼荼羅」の「曼荼羅は諸尊の悟りの世界を象徴するものとして、一定の方式に基づいて、 諸仏・菩薩および神々を網羅して描いた図」である。いわゆる諸仏・菩薩および神々の組み合 わせたものと考えると、和歌を網羅した万葉集にも似る。語句も曼は万、荼は草冠にヨで葉の字 の「世ヨと木」に似る。羅は網のことであるから「集」にも通じる。 曼荼羅と万葉集の相似から、万葉集にたどりついた。 また、田辺福麻呂は万葉歌人である。ここから、考えると、万葉集が行基と関連をもつことが隠 されているのではないかと憶測する。万葉集には、行基の歌は一つも無い。しかし、その中で、 行基との接点を見いだすべく、田辺福麻呂の歌を検索していこう。 (2)万葉集 田辺福麻呂の歌は、表13のとおりである。 表13 田辺 福麻呂の歌
袴 史料 備考 水干 今昔物語集 脇があいている。裾を袴に織り込む。菊綴じを付ける。 藤・ふぢ・ふち 藤・無事・不知(知らず)、付字/襲(かさね)の色目、表裏とも紫[広辞苑] 片・かた 形、方、型、肩 行 『行基年譜』 740(天平12)年の恭仁京遷都後、「寧樂故郷を悲しみ作る歌」(06/1047〜1049)、「久迩新京を讃ふ る歌」(06/1050〜1058)が見える。744(天平16)年2月、恭仁京が放棄され難波に都が遷された後、 「春の日に三香原の荒墟を悲傷しみ作る歌」(06/1059〜1061)、「難波宮にして作る歌」(06/1062〜 1064)がある。また制作年は不明であるが、「敏馬の浦を過ぐる時に作る歌」(06/1065〜1067)、「足 柄坂を過ぎて死人を見て作る歌」(09/1800)、「蘆屋處女の墓を過ぐる時に作る歌」(09/1801〜1803)、 「弟の死去を哀しみ作る歌」(09/1804〜1806)がある(以上の作はすべて「田辺福麻呂之歌集(中)出」 と左注に記されている)。福麻呂の和歌作品は『万葉集』に44首が収められている。巻18に短歌13首 があり、巻6・巻9にある長歌10首とその反歌21首は「田辺福麻呂の歌集に出づ」とある。 田辺福麻呂歌集は現存していないが、注目すべきことは、「田辺福麻呂歌集」を出所とする歌が、 巻18に13首、巻6及び巻9に長歌その反歌が計31首あり、その形は13−31の逆数となっていることで ある。この意図することは、一つは真福田丸−田辺福麻呂の関係であろうか。もう一つ、数字が文字 を表すなら、イサ−サイとなろう。イサは、[不知=知らず]であり、サイは、[菜=芹]でもある。 三十一が行基に関わる数字であることは、四国八十八箇所の観音霊場の中で、文殊菩薩を本尊と する行基開創伝承のある竹林寺が三十一番札所であることから想定される。 「文殊すなわち幸寿、幸寿すなわち文殊、幸寿は文殊の化身なり(29)」とする言葉がある。 「13−31」は、「文殊−幸寿」の関係でもある。 次に、田辺 福麻呂の歌を分析する。 田辺福麻呂に関係する人物として、大伴家持・久米広縄、太上皇(元正上皇)、左大臣橘宿彌がいる。 『行基年譜』にみられるように、橘諸兄は、行基と関係が深い人物である。 また、『古来風躰抄』には、「聖武天皇の御時になん。橘諸兄の大臣と申す人、勅を承りて、万葉集 をば撰ぜられけると申し伝ふめる。」(30)とあり、万葉集の編纂に橘諸兄が関係する伝承がある。 直接、行基の名は、出てこないが、福麻呂が題材とするものは、行基の活動する場所であったり、 布施屋や久米田池を連想させるものがある。 注目すべき歌は、「弟の死去を哀しみ作る歌」(09/1804〜1806)である。この弟については具体的に は分からないが、詞の中に、「父母、春鳥の啼耳鳴つつ」があるから、拾遺和歌集の「山鳥のほろほ ろとなく…」行基の歌を思い起こさせる。 結びに 行基と智光の説話は、真福田丸から田辺福麻呂にたどり着いた。そして、智光曼荼羅との関連で は、万葉集、田辺福麻呂を通じて、どうやら橘諸兄にも広がりをみせる。「せりつみし昔の人」の歌か らは、薩妙観命婦との芹の贈呈を通じた贈答歌のやりとりがある。これらのことから、『行基年譜』に も、見られるとおり、行基と橘諸兄の関係が重要な関係であることが想像される。 つぎに、奥義抄に見られるとおり、行基の前世をいつき(斎き)の姫君と、性を女性にしたことは、 斎王や斉明天皇を連想させられる。「いさ(不知)」と「さい」も 気にかかる言葉となる。 智光説話の舞台は、『霊異記』は、河内国であり、真福田丸説話の舞台は『今昔物語集』は和 泉国のでき事とし、さらに、智光が講師として出向く法会は、河内国で催されている。これは、行 基の出身地と一致するものであるが、真福田丸の主人は、『古本説話集』『奥義抄』などでは、 「大和国の長者」であり、『古来風躰抄』では、「やまとのくになりける長者、国の大領なるもの」、 『和歌色葉』では、「大和国猛者」となり、行基を大和国に関連づけている。『今昔物語』の「和泉 国大鳥の郡に住みける人」から、国や身分が変わっているのである。なぜ場所をかえたのか。 そこに理由があるならば、行基は「やまとのくに」にも誘導されるものと思われる。(31) 田辺福麻呂は、恭仁京讃歌を作る。これは、「大養徳恭仁京」である。 註 (1) 「日本霊異記」正式名は、『日本国現報善悪霊異記』新潮日本古典集成、1994年、21頁。 (2) 山岡敬和「真福田丸説話の生成と伝播(上)」『伝承文学研究』31、1985年、33頁。 (3) 波々伯部 守「智光説話の形成−「日本霊異記」と百本往生極楽記の対比−」『古代史の研究』第5号、 関西大学古代史研究会、1983年11月、1頁。 (4) 波々伯部 守、註(3)、6-7頁。 (5)米山孝子、『行基伝承の生成』勉誠社、1996年、109-110頁。 (6)米山孝子、註(5)、92-93頁。 (7) 山岡敬和「真福田丸説話の生成と伝播(下)」『伝承文学研究』32、1986年、44頁。 (8)山岡敬和、註(7)、48頁。 (9)米山孝子、註(5)、100頁。 (10) 根本誠二「行基と智光」『日本古代の人と文化』高科書店、1993年、195頁。 (11)米山孝子、註(5)、90頁。 (12)鍬田寺の所在「鋤田寺(椙田寺)は河内国安宿郡にあった鋤田氏の氏寺と考えられ、『聖誉鈔』に 「是安宿郡亀瀬ノ西シナト頭ニアル鋤田寺是也」とあるところなどから、現大阪府柏原市国分東条に 鋤田寺跡と推定されてきた土地があった。しかし近年現地発掘調査の結果、この寺院趾は八世紀の 末期以前には遡り得ないことが明らかになったため、この地は東条尾平廃寺跡と呼ばれることになり、 鋤田寺跡はなお不明のままに残されている。」(岩城隆利『日本仏教民俗基礎資料集成7 元興寺極 楽坊Z』中央公論美術出版、1980年、56頁。) (13)吉田靖雄『日本古代の菩薩と民衆』吉川弘文館、1988年105頁。 (14)波々伯部 守、註(3)、6-7頁。 (15)米山孝子、註(5)、92-93頁。 (16)根本誠二、註(10)、206-207頁。 (17)山岡敬和、註(7)、40-42頁。 (18)山岡敬和、註(2)、33頁。 (19) パトリシア・フィスター「実相院蔵馬郎婦観音像の名付けの変遷」 (20)『増補元興寺編年史料』上、岩城隆利編、吉川弘文館、1966年、(上巻二二七‐二三七頁)480頁。 (21) 「俊頼髄脳・古来風躰抄」 註(23)、283頁。注19 (22) 「『元亨釈書』巻18「伊勢皇太神宮」の項に、聖武帝は東大寺造営に関する神意を知ろうとして、天平 十三年、行基を皇太神宮に参篭させたことを記している。」吉田靖雄『行基と律令国家』吉川弘文館、 昭和62年、298頁。 (23) 日本歌学体系第三巻、風間書房、1956年。203-204頁。 (24)米山孝子、註(5)、101-102頁。 (25)山岡敬和、註(7)、46-47頁。 (26) 岡崎真紀子『説話の展開と歌学』 (27)山岡敬和、註(7)、54頁。 「行基が智光に投げかける言葉は、各書によって次のように異なる。 ○真福田が修行ニ出デシ日、藤袴、我レコソハ縫ヒシカ、片袴ヲバ(今昔) ○まぶくだが修行にいでしかたばかまわれこそぬひしか そのかたばかま (風躰抄) ○まぶくだ丸が藤袴われぞぬひし、かたばかま (古本説話) ○まぶくだ丸がふぢばかまわれぞぬひしか、そのかたばかま(奥義抄) ○麻福田丸が藤袴、我綴片袴 (私聚百因縁) ○麻福田が修行ニ出シ藤袴其片袴モヲバ我ゾ縫テキ (当麻曼陀羅) ○麻福田が修行ニ出し藤袴ヌイテシ物ヲ 其ノカタバカマ (聖誉鈔) 各書がこのように微妙に異なっているのは、口承性の反映なのであろうか。」とする。 (28) 「俊頼髄脳・古来風躰抄」日本古典文学全集50『歌論集』、小学館、1975年。285頁。 (29)『摂津名所図絵』巻5、174頁。 (30) 「俊頼髄脳・古来風躰抄」 註(23)、287頁。 (31) 「やまとのくになりける長者、国の大領なるもの」の「やまとの国」の長いものは、「大養徳 国」である。 [資料] 1 「麻福田丸の説話」〔奥義抄下〕日本歌學大系1 (『増補元興寺編年史料』上、岩城隆利編、吉川弘文館、1966年) 十一 問云、せりつみしむかしの人と云ふ古歌を、あるは后のせりめしけるを、庭はく者おのづから見たて まつりて思ひに成りて、めしゝ物也とて芹をつみて、佛僧などに奉りし事のある也といへり、或は献芹と云 ふ本文の心也など申すは、いづれにつくべきぞ、 答云、いづれとさだめがたし、但或人のかたりしは、むかし大和国に猛者ありけり、いへには山をつき池を ほりていみじきことゞもをつくせり、門まもりの姫のこなりけるわらはの、まぶくだ丸といひけるありけり、池 のほとりにいたりてせりをつみけるあひだ、猛者のいつきの姫ぎみ出てあそびけるを見てより、このわらは おほけなき心つきてやまひに成りて、その事となくふせりければ、母あやしみてゆゑをあながちにとひけれ ば、わらは此よしをかたるに、すべてあるべきことならねば、わが子のしなむずる事をなげくほどに、はゝも 又病にふしぬ、その時かの家の女房此をうなのやどりに立ちいれりけるに、ふたりのものゝやみふせるを 見て、あやしみてとふに、おうなのいはく、させるやまひにあらず、しか/゛ヽのことのはべるを思ひなげくに よりて、親子しなむとする也といふ、女房わらひて此よしを姫君に語るに、姫君あはれがりて、やすき事也、 はやくやまひをやめよといひければ、わらはも親もかしこまりよろこびて、おきて物くひなどして、例のごとく になりぬ、姫君のいふやう、忍びて文などかよはさむに、てかゝざらむくちをし、手をならふべし、わらはよ ろこびて一二日にならひつ、又いはく、我父母死なむことちかし、其後は何事もさたせさすべきに、もじ知 らざらむわろし、學問すべし、わらは學問して見あかすほどになりぬ、又いはく、忍びてかよはむに、わらは ゝ見ぐるし、ほうしに成るべし、すなはちなりぬ、又いはく、そのことゝなきにほうしの近づかむあやし、心経。 大般若などをよむべし、いのりせさするやうにもてなさむと云ふに、したがひてよみつ、又いはく、なほいさ ゝか修行せよ、護身などするやうにて近づくべしといへば、修行にいでたつ、姫君あはれみて、ふぢのはか まを調じてとらす、かたばかまをばみづからぬひつ、是をきて修行しありくほどに、姫君かくれにければ、そ のよしきゝて、道心をおこして偏に極楽を願ひて、たうときひじりにてうせぬ、弟子ども後の事に行基菩薩を 導師に請じたるに、禮盤にのぼりていはく、まぶくだ丸がふぢばかまわれぞぬひしかそのかたばかま、とい ひて、かねうちてことハヽもいはでおりぬ、弟子あやしみてとひければ、亡者智光はかならず往生すべき縁 ありしものゝ、はからざるに世間に貪着して悪道にゆかむとせしかば、わが方便にてかくはこしらへいれた る也となむ有りける、姫君は行基の化身、行基は文殊也、まぶくだ丸は智光なり、智光頼光とて往生した るものは是也、是はかきたることにてもあらず、人の文殊供養しける導師にて仁海僧正のゝたまひける也、 さて、 せりつみしむかしの人もわがごとや心にものゝかなはざりけむ 之いふ歌を詠じて、此歌はこの心をよめる也となむのたまひける、 2 「馬郎婦観音伝説の起源」 (パトリシア・フィスター「実相院蔵馬郎婦観音像の名付けの変遷」HP) 「馬郎婦は直訳すると「馬氏の息子の妻」という意味である。宋朝の仏教年代記によると、陜西の金沙灘に 大変に美しい女性の仏教徒が住んでいた。八○九年 二説によると八一七年)、その女性は「観音経」(『法 華経』の「普門品」巻)を一晩で暗記できた男と結婚すると約束した。翌朝までに二十人の男が暗記するこ とができた。だが結婚できるのは一人だけだったので、その若い女はさらに「金剛般若経」を暗記できた人 と結婚すると言った。その半数の男がやり遂げた。今度は、三日間で『法華経」をすべて暗記できた人と結 婚すると女は言った。このテストに合格したただ一人の男が馬氏だった。だが婚礼の晩、若い女は病気に なって死んでしまった。女の亡骸はすぐに腐ったので、急いで埋葬された。数日後、ひとりの老僧(インド人 の僧という説もある)が馬氏の家に立ち寄り、新妻は元気かと尋ねた。死んだと聞かされると、老僧は彼女 の墓へ連れていってほしいと言った。棺を開けると、女の骸骨が金の鎖でつながれていた。骨が金の鎖で つながれているのは聖人の印と考えられていたので、老僧はこの女性は聖者の化身で、この地域の人々 を忌まわしい業から救うために現れたのだと語った。老僧は骨を洗うと、錫杖にくくりつけて飛び去った。 この部分は言い伝えによって多少違っている。たとえば、一説には、棺を開けると金になった二本の骨が あり、それが見る間に飛んでいったとされている。 「婚礼の晩、若い女は病気になって死んでしまった。女の亡骸はすぐに腐った…」 「馬家(ばけ)では婦人を息子の花嫁に迎えた。しかし、どうしたものか、花嫁の気分がすぐれないといって、 婚礼の席には出ずに別室に身を横たえた。ところが、その祝い事に集まった親類縁者の宴席がおひらきと ならないうちに、花嫁はにわかに息絶えてしまったのである。…」 「 娘は約束どおり馬郎の妻となるが、どうしたことかその日のうちに死んでしまい、その死体 は見る間に腐ってしまった。…」 [参考文献] 小林真由美『献芹考』HP 岡崎真紀子『説話の展開と歌学』 榊泰純「行基の和歌とその伝承」『大正大学研究紀要』仏教学部・文学部、第72号、1986年。 橘健二「古本説話集所収「真福田丸説話」について」『国語』第5巻、1957年4月。 今野達「中世小説-秋夜長物語」『岩波講座 日本文学と仏教』第9巻「古典文学と仏教」、1993年。 岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館、1999年。 『歌論集』日本古典文学全集第50巻、小学館、1975年。「俊頼髄脳・古来風躰抄」 『古本説話集』新日本古典文学大系第42巻、岩波書店、1990年。「60 真福田丸事」 『和泉名所図会』巻之三、「麻福田丸が恋路」 『大阪府史蹟名勝天然記念物』「麻福田麻呂宅址」 武石彰夫「讃歌」『歌謡 芸能 劇文学』仏教文学講座第7巻、勉誠社、1995年。
福麻呂の歌(巻/番号) 行基との関わり 備考 「寧樂故郷を悲しみ作る歌」(06/1047〜1049) 奈良の都、活動地域 1047射駒山、狭男壮鹿、妻 「久迩新京を讃ふる歌」(06/1050〜1058) 行基の活動地域 泉川、鹿背之山 「春の日に三香原の荒墟を悲傷しみ作る歌」(06/1059〜1061) 同上 「難波宮にして作る歌」(06/1062〜1064) 同上 1062名庭の宮はいさなとり 「敏馬の浦を過ぐる時に作る歌」(06/1065〜1067) 摂津、五泊 1067大和田の濱 「娘子を思ひて作る歌」(09/1792〜1794) 皇(白玉カ)行基年譜 姫君を連想させるか 「足柄坂を過ぎて死人を見て作る歌」(09/1800) 聖と関係するか 聖徳太子と飢人 「蘆屋處女の墓を過ぐる時に作る歌」(09/1801〜1803) 摂津国、船息院 「弟の死去を哀しみ作る歌」(09/1804〜1806) 山鳥の歌 父母、春鳥の啼耳鳴つつ、 大伴家持の館での饗宴の歌(18/4032〜4035) 左大臣橘家 造酒司令史、橘家之使者 「布勢水海遊覧」を期しての述懐歌(18/4036、18/4038〜4042) 布施屋 フセを掛ける 「水海に至りて遊覧せし時」の述懐歌(18/4046,4049) 同上 同上 久米広縄の館で饗宴、ほととぎすの歌(18/4052) 久米(田)寺 クメを掛ける
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]