行基と文殊

目次  1 文殊菩薩と信仰 2 行基と文殊菩薩 3 文殊の秘密 4 門守 5 隠身の聖 はじめに  『日本霊異記(以下『霊異記』とする)』に見える行基は、「文殊菩薩の反化」とされ、『続日本紀(以 下『続紀』とする)』では、「文殊」とされず、「小僧行基」として、僧尼令に反する行為で弾圧を受け るところから始まる。  『霊異記』の「文殊菩薩の反化」は、ひとつの物語と考えられたとしても、『続紀』では、「霊異 神験類に触れて多し」とあるから、『霊異記』を踏まえて、行基の卒伝が物語化されているように窺える。  物語化された行基像という視点を保持しつつ、なぜ、行基は文殊菩薩とされるのかを論ずる。  菩薩とは、さとりを求めて修行する人(広辞苑)である。  吉田靖雄は、「民衆利益を志し実践する大乗の修行者行基にささげられた「菩薩」の称が、彼の死 後、「文殊師利菩薩の反化」になるのはなぜであろうか。(1)」と疑問を呈する。 おなじところで、「『霊異記』上巻第五縁は、聖徳太子の侍者であった大部屋栖野古の蘇生譚で、屋 栖野古が「雲の道を往くに」「黄金の山」があり聖徳太子が待っていた。太子と共に登るに「金の山の 頂に一の比丘あり」、太子と共に「南無妙徳菩薩」と誦礼して帰り、夢さめて蘇生したというのである。 作者景戒は、「黄金の山とは五台山なり」「妙徳菩薩とは文殊師利菩薩なり」「行基大徳は文殊師利 菩薩の反化なり」と解説をつけている。」 ここには、大部屋栖野古の蘇生と、聖徳太子、妙徳菩薩=文殊師利菩薩=行基大徳がからんでくる 構成がある。  追塩千尋は、「文殊、太子、行基の三者をそれぞれ結び付けて考えることは、奈良末から鎌倉に至 るまでの長い伝統があったといえよう(2)」と、三者を結び付けるが、本稿では聖徳太子には触れない。  また、吉田靖雄は、「景戒が『霊異記』の稿本をまとめた延暦6年(787)頃には、五台山文殊信仰と金 閣寺のことは日本仏教界によく知られ、五台山金閣寺→塗金の寺→黄金の山という印象が成立して いたのであろう。さて、文殊師利は「維摩経」における維摩居士との問答のことが有名で、従来造像さ れる場合は、在俗有髪の菩薩形をとるのが普通であった。不空三蔵の喧伝した文殊師利は密教形の 文殊菩薩で、たとえば彼の居住寺であった長安大興善寺の翻経院に勅命をもって作られた「大聖文 殊鎮国閣」には、「文殊六字菩薩」、つまり密教形の六髻文殊像が安置されていた。また金閣寺の本 尊も、「金閣を開きて大聖文殊菩薩の青毛の獅子に騎り給へる聖像を礼す」と円仁が記したように、 密教形の菩薩像であった。  しかし不空以前に、文殊師利が五台山に出現したとする伝承においては、出家比丘形をとる場合が 多かった。…(3)」とする。  大雑把にとらえるならば、中国の金閣寺、黄金の山、大聖文殊菩薩、文殊師利といったことが日本 の僧行基に係わってくるのである。 1 文殊菩薩と信仰 (1) 文殊菩薩  文殊菩薩は、『国史大辞典』に、「文殊菩薩 梵語(省略)音訳して文殊師利または曼殊室利と書きそ の略称文殊を菩薩名とする。悟りをひらくために必要な般若の智恵の徳を象徴する菩薩。実在した 人ともいわれる。釈迦に随侍する菩薩として釈迦三尊の場合、象に乗る普賢菩薩と対応して獅子に 乗る姿に表現されている。また維摩会に用いる維摩と問答する文殊菩薩も作られた。また独尊とし ての信仰も盛んで、『華厳経』で説く清凉山に擬せられる五台山を、中国での文殊応現の地とする 信仰から、文殊の聖地として有名である。入唐僧円仁は五台山文殊を日本に伝えたといい、渡海 文殊五尊像は彫像や画像としてしばしば作られた。…通常経巻を左に、剣を右に持ち、頭上に結 ぶ髻の数で一髻文珠、五髻文珠、八髻文殊の別がある。密教の曼荼羅では胎蔵の中台八葉院 の主要な四大菩薩の一つであり、文殊院の主尊である。(3)」とある。 文殊師利菩薩は、諸仏の知恵を象徴する。字義は、「めでたいきざし」の意味を持つ菩薩で、多く の菩薩の上首とされ、従って三尊(釈迦,文殊,普賢)を形成するとされる。 表1 文殊の別名
項目内容
人物舎衛国バラモンの子、法照禅師(宝物集P342)、寒山(『居易録』『仏祖統紀』)杜順(『華厳五教止観』『仏祖統紀』)片岡山飢人、病人非人、貧窮孤独者(涅槃経)、野に伏せる乞食の沙門(宝物集P187)、達磨和尚(袋草紙)、行基、菩提遷那、郡士の女(聖誉抄)、叡尊「生身之文殊」、精進菩薩(注好選)、律師 清範『今昔17-38』、小野篁『帝王編年記』、白楽天『拾玉集』『文集百首』
別名文殊師利の略称。妙吉祥菩薩、曼殊室利、妙吉祥、妙徳、妙首、文珠菩薩、妙音、金剛利、法界語自在、文殊金剛、龍種如来、大身仏、神仙仏、普見如来、歓喜蔵摩尼宝積如来(仏)、妙光菩薩の再誕『法華経』、三世の仏母、法王子、大威徳明王、己成の菩薩、天神:文殊之垂迹也、軟首(童真)、覚母文殊、新羅明神本地、「めでたいきざしの…」
文殊霊験「文殊化現」「文殊化身」〈文殊瑞相〉「文殊ノ応現」「文殊ノ応化」「文殊之霊瑞」「文殊垂跡」「文殊の反化」「文殊の変化」「文殊再生」「文殊強化の力『心地観経』」 注. 〈文殊瑞相〉以外は、全て行基に係るもの。「文殊宗帝王」
特徴学問・技芸を本質とする弁財天と同一視される。獅子に乗る。創造神。文殊海中の強化。渡海文殊 右手で剣、 左手で典籍を持っている。如意を持つ。三昧耶形、青蓮華、利剣、梵篋、蟹に騎る。
史料『文殊師利般涅槃経』『維摩経』『法華経』五台山の第一次史料である三種の清涼伝『広清涼伝』『大蔵経』『四庫全書』『文殊師利宝蔵陀羅尼経』『華厳経』
文殊会7月8日、3月25日貧病者に布施する法会、般若寺・興福寺東金堂・西大寺・東西寺、『西宮記』『三代格』『公事根源』
文殊講3月25日、毎月25日鎌倉時代に始まる。
 文殊菩薩は、通常、文殊師利の略称。また妙吉祥菩薩などともいう。曼殊室利等とも音写され、 妙吉祥、妙徳、妙首などとも訳される。三昧耶形は青蓮華(青い熱帯スイレンの花)、利剣、梵篋 (ヤシの葉に書かれた経典)など。種子(種字)はマン(maM)。  文殊菩薩はやがて『維摩経』に描かれたような現実的な姿から離れ、後の経典で徐々に神格 化されていく。釈迦の化導を扶助するために菩薩の地位にあるが、かつては成仏して龍種如来、 大身仏、神仙仏などといったといわれ、また未来にも成仏して喜見如来という。あるいは現在、 北方の常喜世界に在って歓喜蔵摩尼宝積如来と名づけられ、その名前を聞けば四重禁等の罪 を滅すといわれ、あるいは現に中国山西省の清涼山(五台山)に一万の菩薩と共に住していると もいわれる。また『法華経』では、過去世に日月燈明仏が涅槃した後に、その弟子であった妙光 菩薩の再誕が文殊であると説かれる。  また文殊菩薩を「三世の仏母」と称える経典も多く、『華厳経』では善財童子を仏法求道の旅へ 誘う重要な役で描かれる。文殊菩薩の徳性は悟りへ到る重要な要素、般若=智慧である。中国 においては、山西省の五台山が文殊菩薩の住する清涼山として古くより広く信仰を集めており、 円仁によって日本にも伝えられている。  文殊師利菩薩の霊験は、「文殊化現」「文殊化身」「文殊瑞相」「文殊ノ応現」「文殊ノ応化」 「文殊之霊瑞」「文殊垂跡」「文殊の反化」「文殊の変化」「文殊再生」などがあり、「文殊瑞相」 以外は、すべて行基に係わるものである。  文殊は実在の人物であり、『文殊師利般涅槃経』によると、舎衛国の多羅聚落の梵徳という バラモンの家に生まれたとされる。また一説に釈迦十大弟子とも親しく仏典結集にも関わった とされる。  文殊とされる人物は、唐には、寒山、杜順と白楽天がいる。  寒山については、拾得とともに「寒山拾得図」として画題とされる。(5)  「四睡」と言う言葉がある。画題で、「禅の真理を示すもの。豊干、寒山、拾得が虎とともに眠 る図。」(広辞苑)とある。豊干は(阿)弥陀、寒山は文殊、拾得は普賢とされている。これに、よく 似た構図が「東大寺四聖」である。四聖本地説の初出は、『建久御巡礼記』とされ、奈良時代 より後のものである。(6)  「東大寺四聖」の発想は、「四睡」からもたらされたものではないだろうか。 表2 四睡と四聖の比較
四睡文殊普賢弥陀
寒山拾得豊干
四聖文殊普賢観音弥勒
行基菩提遷那聖武天皇朗弁
 『仏祖統紀』には、「杜順文殊化現。/寒山文殊化現。」と中国華厳宗の祖である杜順や四睡の 寒山を文殊菩薩の生まれ変わりとする。  婆羅門では、達磨、菩提遷那がおり、日本では、行基と、片岡山飢人(宝物集では野の中にふせ る乞食の沙門)、法照禅師、「生身之文殊」とされる叡尊、律師清範がいる。各人はなぜ、文殊とさ れるのであろうか。  達磨、片岡山飢人について、追塩千尋は、「…十世紀末の『日本往生極楽記』『三宝絵詞』など に収められた太子伝中の片岡山説話には達磨は登場しない。ただ、藤原後生の「奉加村上天皇 四十御算和歌序」(965年)に「達磨和尚、至富緒河寄於斑鳩宮太子」(『本朝文粋』巻十二とある のが、天台以外の文献において達磨説が登場する早い時期の例といえる。十一世紀の『和漢朗 詠集』には達磨からの太子に対する返歌が収録され(673番)、十二世紀の『袋草紙』上巻(藤原 清輔撰、1159年二条天皇に奏覧)では飢人は文殊の化身としての達磨とされる。ただ、『袋草紙』 に先行する『俊頼髄脳』(源俊頼撰、1111〜1114年の間か)では、飢人は文殊ではあっても達磨 とはされていない。それは飢人に対する認識の揺れを示すものと考えられ、飢人=達磨説が必ず しも定着していなかったことが知られる。飢人=文殊説は、成立時期がほぼ明確である『俊頼髄 脳』を基準とするなら十二世紀初頭に至り確認することができる説といえる。それ以前では、喜 撰法師作とされる『喜撰式(倭歌作式)』(『日本歌学大系』1所収)に見えるのが早い例である。  そこでは、飢人が詠んだ歌は文殊の作であることが語られている。(7)」 達磨が詠んだ「いかるがや…」の歌  『袋草紙』上巻は、  「権化の人の歌  聖徳太子、救世観音化身なり。   しなてるや片岡山のいひにうゑてふせるたび人あわれおやなし  達磨和尚 文殊の化身なり。     いかるがや富の緒川の絶ばこそわが大君の御名はわすれめ  これは達磨の餓人の體を作して伏せるをみて太子のよみ給ふ返歌なり。  行基菩薩、文殊化身なり。      法華経を我がえしことはたきぎこり菜つみ水くみ仕へてぞえし   霊山の釈迦のみまへにちぎりてし眞如朽せずあひみつるかな  婆羅門僧正答歌        伽毘羅衞にともにちぎりしかひありて文殊のみかほあひみつるかな  これは東大寺供養の導師に請ぜられて来り臨むの時、難波津において船より下り給ふ時、行基、 婆羅門と手を取りて詠じ給ふ歌なり。婆羅門名は菩提。南天竺の伽毘羅衞國人なり。天平勝寳の 比なり。(8)」とあるが、天平勝宝元年は行基菩薩の寂滅の年である。 (2) 文殊菩薩の信仰  中国・日本における文殊信仰は、その発生の歴史過程から三つある。第一は維摩経、第二は華 厳経、第三は密教から生じたものである。(9) 『国史大辞典』は、「文殊信仰 文殊菩薩に対する信仰。すでに白鳳期の法隆寺金堂壁画には、 『維摩経』所説による文殊と維摩の対論が描かれているが、日本で文殊信仰が興隆するのは平 安時代である。中国では唐後期から五台山に生身の文殊が住むとの信仰が盛んであったが、 入唐した天台僧円仁はこの信仰に強い影響を受けて帰国し、貞観三年(861)比叡山に文殊楼を 営み、円仁没後、楼に騎獅文殊像などが安置された。また円仁は密教の文殊八字法を伝え、文 殊八字法は十二世紀には息災・安鎮の修法として重んじられるようになり、九世紀以来の文殊 会とともに貴族社会の文殊信仰を形成した。鎌倉時代には、旧仏教の再興をめざし貧病者救済 の慈悲行を実践した真言律宗西大寺叡尊の門弟忍性は、深く文殊に帰依し、仁治元年(1240) 額安寺西辺宿で文殊像供養の際、非人に布施を行なった。以後、西大寺教団は各地で文殊供 養と大規模な非人布施を行い、文殊信仰を大いに高揚した。(10)」とするが、奈良時代の行基と 文殊菩薩信仰との関わりがもうひとつ明確でない。  叡尊・忍性の文殊信仰  鎌倉時代、真言律宗の僧叡尊・忍性は深く文殊菩薩に帰依し、1240年以後、各地で文殊供養と 大規模な非人布施を行ったのは、行基の活動を再現したものと考えられる。  『国史大辞典』は、「 文殊会 文殊菩薩が礼拝供養する行者の前に貧窮孤独の衆生に姿を変え て現われるとの『文殊師利般涅槃経』の所説により、貧病者に布施する法会。天長五年(828)二月 二十五日の太政官符で毎年七月八日に救急稲利を割き文殊会を行うよう諸国に命じた。文殊会は 初め僧正勤操と元興寺僧泰善の私的な催しであったが、以後、公的行事となった。承和七年(840)、 大・上国は二千束、中・下国は千束の正税を出挙して文殊会料にあてることとし、この規定は『延喜 式』に受けつがれた。また『三宝絵詞』によれば、王朝貴族の年中行事として東寺・西寺で盛大に行 われていた。律令国家の没落とともに文殊会は衰退したが、十三世紀には真言律宗によって再興 された。(11)」とするが、奈良時代の行基と文殊菩薩信仰との係わりがもうひとつ明確でない。 (3) 文殊菩薩の像  日本三文殊は、 大和の安倍文殊(奈良県桜井市) 丹後の切戸文殊(京都府宮津市智恩寺) 出 羽の亀岡文殊(山形県高畠町大聖寺)があり、また高知の竹林寺、国東の文殊仙寺も三文殊の一 つとされている。山城の中山文殊(京都府京都市左京区金戒光明寺)には、日本三文殊随一の扁 額もある。  『雍州府誌』の宝幢寺文殊は、出羽の亀岡文殊に替わり本朝三文殊とされる。  なぜ、三文殊とされるものが三箇所が選ばれているのか。三つ以上あるのに、なぜ三文殊なの かを考えてみると、「さんもんじゅ」は、「山門守」と書き換えられる。つまり、仁王のいる門を指すの であろうか。禅宗寺院などで、古都奈良の「南大門」にあたる門を「山門(三門)」というのも「山号」 によるものとされている。(12) 表3 日本三文殊
日本三文殊大和の安倍文殊:奈良県桜井市、丹後の切戸文殊(九世戸の文殊『蠡測集』):京都府宮津市智恩寺、出羽の亀岡文殊:山形県高畠町・大聖寺
本朝三文珠(和州旧跡幽考19)奥州永井、丹州切門、和州安陪山(文殊堂)
本朝三文殊(雍州府誌)宝幢寺文殊・大和の安倍文殊・切戸文殊
日本三文殊随一山城の中山文殊:京都市左京区黒谷・金戒光明寺(元宝幢寺)
日本三文殊(2)高知の竹林寺、国東の文殊仙寺
 「三人寄れば文殊の知恵」がある。  丹後の切戸文殊には、「はしたての松のふくりも入海の浪もてぬらす文殊しり哉」の句がある。 この句の後に「浪(なみ)」=[名見]があり、文を切り取ると、前の部分に「はしたてのまつのふくり 」の中に「まふくた」がある。後述する真福田丸の名が隠されている。 山形県天童市鈴立山若松寺には三文殊がある。和銅元年(708)行基開山、行基菩薩の坐像あり。 それ以外にも、文殊堂の本尊であったり、行基と関係の深い家原寺の本尊であったりする。 普賢菩薩と一対になって釈迦の脇侍に当たる通形の文殊がある。  四国八十八ヶ所観音霊場の寺院中、本尊仏が文殊菩薩であるのは、行基開創伝承のある竹林 寺(31番札所)だけである。 表4  文殊菩薩像の形態
形態寺院
釈迦普賢文殊三尊妙心寺(千光寺、尾道市)、久米田寺、清涼寺、慧日寺、安倍文殊院、多田院、興福寺五重塔、清水寺
維摩像・文殊像二尊法隆寺五重塔、東大寺講堂、興福寺東金堂(文殊堂)、大安寺歩廊(又は中門)
渡海文殊五尊像安倍文殊院、比叡山文殊楼院、西大寺、唐招提寺(元竹林寺)、竹林寺(高知)、醍醐寺(旧光台院)、金戒光明寺三重塔、高山寺、智積院、中尊寺、大光寺(宮崎)、慈恩寺(山形)
単独像施福寺、仁和寺、広隆寺、禅定寺(宇治田原)、平等院(文殊堂)、高山寺、延暦寺、清涼寺、円證寺(奈良)、白毫寺
四大菩薩の一つであり、文殊院の主尊、四聖の一つ/五聖の如来・菩薩の一つ新薬師寺(仏涅槃図 釈迦、文殊等4菩薩、計21仏) 室生寺金堂(文殊菩薩立像、五尊・十二神将像)
釈迦三尊十六善神蟹満寺、西大寺、知恩寺、仁和寺、高山寺、等持院、南禅寺、相国寺、海住山寺文殊堂
聖僧文殊 寺院食堂に置く。施福寺、教王護国寺(東寺)、法金剛院(天安寺)、円成寺、南禅寺、善水寺(滋賀)
東大寺四聖の一人である行基を文殊菩薩とする思考法は、上記のいずれの形態で示される文殊信 仰とは異なるようである。「沙石集」巻5下に見えるところで古い思想ではない。 文殊菩薩像の変遷  文殊菩薩像は、維摩像と一体で現れる。或いは、釈迦三尊普賢菩薩と一対の形、四聖・五聖(尊) やのひとつ、十六善神などとして表現される。後の時代になるほど多くの菩薩、善神像の中に埋もれ ていくようである。平城京、平安京の主だった寺院の中で文殊菩薩像が見られる。しかし行基と文殊 が結びつく気配は希薄化する。行基=文殊は、霊異記、東大寺四聖、行基と関連する家原寺などの 一部寺院に限定され、広範な広がりを持たないようである。 表5  その他文殊堂・文殊菩薩像
所在製作期文殊菩薩備考
薬師寺文殊堂天平文殊菩薩坐像いにしへの西塔の跡なり[大和名所図絵3巻]福島県能満寺に同一像[虚空蔵菩薩]
興福寺講堂天平十八年阿弥陀・観音・勢至浄名・四天王興福寺講堂
比叡山文殊堂延暦12(793) 最澄
海住山寺文殊堂鎌倉前期釈迦三尊十六善神
談山神社十三重塔文殊菩薩を安置清涼山宝池院の十三層の塔を写す。
香久山興善寺文殊院戎下村[大和名所図絵6巻]
竹林寺文殊堂文暦代(1305)発掘後骨臓器を埋め文殊像を設置慶安2(1649)再興 正保4(1647)文殊堂鬼瓦銘
表6  文殊菩薩像を本尊とするもの
所在製作期文殊菩薩備考
五台山金閣寺大暦2(767)文殊師利 塗金の寺『旧唐書』『資治通鑑』不空三蔵
家原寺貞観8(876)初めて文殊を本尊とする。870年造顕。 黄金文殊菩薩。876年七尊像。
般若寺永仁4(1296)周丈六文殊菩薩像叡尊発願造立
大智寺(橋柱寺)弘安年間(1278-88)・泉大橋橋柱に文殊菩薩を刻す ・騎獅文殊菩薩像(寄木)西大寺慈真、橋柱山橋柱寺
大智寺(和束)鎌倉坐像/磨崖仏
智恩寺文殊堂(宮津)鎌倉時代騎獅文殊菩薩像、如意を執る善哉童子、優填王の三尊構成
室町時代文殊菩薩像(図)扶桑周耕(16C後半)作
金色堂(宇治市)康和(1102) 大聖文殊菩薩享和年間文殊堂、四条皇太后寛子創建
岩尾神社(福崎町)正暦2(991)田原の文殊菩薩妙徳山神積
 「文殊菩薩が本尊となったのは家原寺が最初(13)」とする。 これは、貞観8(876)であるから、行基の死後、127年後である。以後、行基と文殊を結びつける ことが頻繁となった。家原寺の黄金文殊菩薩は、五台山金閣寺及び霊異記の「行基の入る黄 金の宮」と結びつく。  妙心寺所蔵 文殊菩薩像(千光寺、広島県尾道市)普賢菩薩とともに釈迦如来の脇侍をつと める(参照:釈迦三尊)ほか、単独でも広く信仰されている。 文殊菩薩像の造形はほぼ一定している。獅子の背の蓮華座に結跏趺坐し、右手に智慧を象 徴する利剣(宝剣)、左手に経典を乗せた青蓮華を持つ。密教では清浄な精神を表す童子形 となり、髻を結う。この髻の数は像によって一、五、六、八の四種類があり、それぞれ一=増 益、五=敬愛、六=調伏、八=息災の修法の本尊とされる。  また、騎獅の文殊、先導役の善財童子、獅子の手綱を握る優填王、仏陀波利、最勝老人を 従える文殊五尊像も造形された。この五菩薩は、五台山の五峯から構成されている。  禅宗においては、修行僧の完全な姿を表す「聖僧」(しょうそう)として僧堂に安置され、剃髪 し坐禅を組む僧形となる。この場合、文殊もまた修行の途上であるとの観点から、菩薩の呼称 を避け文殊大士(今昔物語1-13)と呼ばれることがある。  日本における作例としては、奈良の興福寺東金堂の坐像(定慶作、国宝)や安倍文殊院の 五尊像(快慶作、国宝)、高知の竹林寺の五尊像(重要文化財)などが見られる。 (4) 渡海文殊  「文殊渡海図 騎獅文殊を中心に、善財童子が先導し、仏陀波利と最勝老人とが付き添い、 優?王が手綱をとる図像。智恵第一とされ、獅子に乗る姿で、普賢菩薩と一対になって釈迦 の脇侍にあたる通形の文殊などと区別される。中国山西省五台山の文殊五尊像の系統と伝 えられるが、図像の由来や意味は明確でない。また文殊と四人の従者の組合せには一定の 典拠は見当たらない。『旧訳華厳経』二十九、菩薩住処品や『文殊師利法宝蔵陀羅尼経』な どによって、五台山は文殊菩薩の示現・居住する聖地とされた。多くの堂塔・伽藍が山中に 建立され、歴代王朝は厚く保護し、多くの高僧・信者が巡拝した。カシミールの僧仏陀波利や 日本の円仁も上山し、円仁は五台山文殊像の図像を日本に請来した。台密の『阿娑縛抄』に は仏陀波利・善財童子・大聖老人・難陀童子・于?王の五人を文殊の使者として上げ、また 『諸文殊図像』(醍醐寺蔵令重要文化財)では童子と老人各二人の四人の従者を示している。  この図像に出家の菩薩は背後に波に洗われる岩頭が描かれ、渡海を暗示する。ただし付 近に全く海や湖のない五台山では渡海の意味は不明である。中国には文殊が雲にのり、 従者を伴って示現する説話が各地に見られ、むしろ『華厳経』にいう南海を遍歴する文殊、  そして文殊を訪ねる善財童子と、五台山に関係する仏陀波利や優填王などを加え、さら に『法華経』提娑品の説話ともからめて合成して、文殊示現の相を表わしたと見るべきであ ろう。円仁の『入唐求法巡礼行記』にも五台山において文殊の示現を感得し、五台山の文 殊五尊の記述があるが、その由来や意味についてはふれていない。ただ日本では絵画と しては醍醐寺の文殊渡海図(国宝)、彫刻では快慶作の阿倍文殊院の文殊五尊像(重要 文化財)など、いずれも鎌倉時代の制作になる宋様式の影響を受けた作例が著名である。 (14)」  渡海文殊像は、『国史大辞典』の別刷に14例が記載されており、一覧にすると、表7の とおりである。(15) 表7  文殊菩薩像
番号形態史料所在製作期備考
1渡海文殊(醍醐寺)図京都府・醍醐寺鎌倉『諸文殊図像』国宝
2文殊菩薩図敦煌出土
3五台山文殊図京都府・醍醐寺鎌倉『諸文殊図像』
4渡海文殊和歌山県・西南院旧蔵南北朝
5渡海文殊大阪府・叡福寺鎌倉
6版画文殊菩薩騎獅像清涼寺北宋
7渡海文殊東京博物館鎌倉
8渡海文殊米国鎌倉
9渡海文殊岩手県・大長寿院南北朝
10文殊菩薩脇侍像5躯奈良県・唐招提寺鎌倉
11文殊菩薩脇侍像4躯奈良県・安倍文殊院建仁3(1203)重文、快慶作
12文殊菩薩脇侍像5躯奈良県・西大寺正安4(1302)重文
13文殊菩薩脇侍像5躯奈良県・唐招提寺鎌倉
14文殊菩薩脇侍像5躯東京博物館弘安8(1285)別に、文永10(1273)興福寺康円作あり。
渡海文殊像の変遷 敦煌発見の文殊像の版画がある。(16) 海上の雲の上の騎獅文殊菩薩と童子、老人が描かれる。初期の文殊渡海図になるものだろうか。 これは、獅子を虎に換えると、「四睡」の構図に近いものとなる。  智恩寺(宮津) の三尊形式は、善哉童子は経箱を持ち、獅子の手綱を持つ優填王は剣を帯びる。 その役割も変遷する。インドから中国にやってきた文殊菩薩一行は、中国で二人の仙人と童子に 合掌して迎えられるのが古い図形と思われる。その従者の二人は、優填王と婆羅門僧の仏陀波 利であり、次には中国で迎えた童子が善財童子として一行を先導し、これに大聖老人(最勝老人) が随行する図絵である。右手で剣、 左手で典籍を持っている文殊菩薩像は  西蔵(チベット)の文殊菩薩像は、両刃の剣・筺経を持つ姿である。(17) ○文殊菩薩騎獅像 鎌倉時代 金戒光明寺蔵  金戒光明寺の三重塔初層に安置されていた文殊五尊(善財童子が欠けているため実際は四尊) のうちの中尊。本来は京都岡崎の宝幢寺(ほうどうじ)の安置像で、同寺廃絶後(時期は不詳)に 金戒光明寺の方丈へと移り、その後三重塔に移された。  獅子に乗る文殊を中心に、優填王(うてんおう)、仏陀波利(ぶっだはり)三蔵、最勝老人、善財 童子からなる文殊五尊は、中国・五台山の文殊信仰にもとづくもので、わが国では平安後期以降 大いに隆盛した。  西大寺像は正安四年(1302)に完成したことが納入品からわかるが、堂々たる体躯の本像は、 それよりもさかのぼる可能性が高い。叡尊が関与していたかどうかはさておくとしても、13世紀の 文殊像の優品としても大変貴重である。 ○聖僧文殊  中国の唐の時代、不空が文殊を聖僧として制定して以来、わが国でも聖僧文殊の 風が承け継がれた。(18)  食堂に文殊師利像を安置するのが天竺から大唐にいたる大乗寺の仕方であるという。(19) (5) 奈良時代の文殊像  吉田靖雄は、「奈良時代における文殊師利の造像例は、…四例しかあげることができず、しかも いずれも単独像として製作されたわけではなく、維摩詰像と対をなして安置されていた。維摩会に おいても、平安時代の事例から推定して、文殊師利維摩詰の両像が併置されたものと考えられる。  この両像をもって一対とする思想は、疑いもなく「維摩経」の所説に基づいており、奈良時代の文 殊信仰は主として「維摩経」から発生しており、それはいまだ独立性に乏しいものであったことがわ かるのである。(20)」とする。 [大和名所図絵3巻]によると、天平年間には、薬師寺の古への西塔の跡に文殊堂が建てられ文 殊菩薩像が安置され、福島県能満寺にある虚空蔵菩薩といわれる像と同一像とされる。 以上のとおり、奈良時代における文殊師利の造像例を見ても、奈良時代の行基とは結びつかない ことになる。 表8 奈良時代の文殊菩薩像
所在製作期併置像備考
薬師寺文殊堂天平文殊菩薩像福島県能満寺に同一像[虚空蔵菩薩]
興福寺講堂天平十八年阿弥陀・観音・勢至浄名・四天王維摩会、鎌足の病気平癒を祈願
東大寺講堂同十九年維摩像
大安寺歩廊(又は中門)神護景雲元年以前維摩羅漢等像
法隆寺五重塔奈良時代維摩像塔本、東西塑像
2 行基と文殊菩薩 (1) 史料に見えるもの  造形的には、文殊菩薩像と行基の結びつきは限定的であり、広がりを持たなかったが、史料の中 では、文殊菩薩と行基の結びつきは枚挙がないほど多く引用されている。これは、いかなる理由か らであろうか。言葉で結びつく文殊菩薩と行基を考察する。 表9 文殊の史料
暦年史料記事
749昆陽寺鐘銘天竺婆羅門僧正朝観之始、知行基僧正乃是文殊化身也。
822霊異記行基大徳は文殊師利菩薩の反化、妙徳菩薩とは文殊師利菩薩なり。文殊、北方常喜世界の仏であるから北行した。文殊ノ霊瑞猪(上5)
984三宝絵詞導師婆羅門僧正、呪願行基、勧進朗(良)弁
985-1042日本往生極楽記・法華験記文殊菩薩化身
1106-34 東大寺要録大僧正百済智鳳之弟子也、是文殊化身也。天地院縁起云、是文殊化身行基菩薩建立也。
1113俊頼髄脳飢人は文殊なり、行基菩薩婆羅門僧正このふたりは同じく文殊におはしましけるとぞいい伝えたる。
1120今昔物語集彼ノ文殊ノ此ノ国ニ誕生シ給フト云フハ、行基菩薩是也。 行基菩薩は文殊の化身。清範知文殊化身。
1135-44奥義抄姫君は行基の化身、行基は文殊也。まぶくた丸は智光なり。
1157-8袋草紙達磨和尚文殊の化身なり。行基菩薩文殊の化身なり。
1185前後袖中抄人の文殊供養しれる導師にて仁海僧正のゝたまひける也。
1195-1207古本説話集真福田丸事、行基菩薩は文殊なり。
1198和歌色葉文殊の変化
1219長谷寺霊験記行基菩薩ハ大聖文殊ノ変化
1233教訓抄文殊師利菩薩者利益東土之衆生為、化生彼国土給了、伝へ聞其名ヲ行基菩薩ト曰
1257私聚百因縁集巻第七文殊師利大聖尊・大聖文殊など
1269『仏祖統紀』杜順文殊化現。/寒山文殊化現。
1283-1308沙石集・文殊達磨大師ノ善巧 ・文殊ノ智門ノ方便、東大寺四聖同心ノ寺、行基菩薩文殊 ・大乗ノ寺ニハ文殊ヲ聖僧トスル
1169梁塵秘抄文殊は誰か迎え来し、文殊はそもそも何人ぞ、三世の仏の母といます。十方如来諸方の仏
1305竹林寺略録大聖文殊師利菩薩之化身、覚母文殊之化現
鎌倉吾妻鏡五字文殊像の供養
1311三国仏法伝通縁起行基菩薩ハ文殊ノ応現ナリ(東大寺四聖垂応)
1316行基菩薩縁起図絵詞文殊之霊瑞、家原寺(19)堂一宇塔三重 文殊垂跡之仁祠也。
1344寺徳集新羅明神本地何、一説云、文殊師利菩薩也。
1550頃行基菩薩行状記文殊の化身、日本の文殊、文殊応化の霊場、文殊再生の大士
1352竹林寺十種大願三世覚母大聖文殊師利菩薩、三世能生之母、大聖文殊高祖大師
1352東宝記第一文殊すなわち幸寿、幸寿すなわち文殊。(摂津名所図絵と同じ) 夜叉神「古老伝云、東雄夜叉本地文殊」
1372明匠略伝行基菩薩。是唐清涼山文殊化身
1399阿娑縛三国明匠略記唐清涼山文殊化[身がない]、義淵僧正弟子
1532塵添?鈔16高野山、是唐清涼山の文殊の示現也
1612歓喜光律寺略縁起大聖文殊之化身
1687元亨釈書談山神社十三重塔に文殊菩薩を安置[諸書にも]
1702本朝高僧伝為二文殊之応化一
1798摂津名所図絵幸寿は文殊の化身なり。文殊すなわち幸寿、幸寿すなわち文殊。西には文殊師利。
心地観音経文殊師利大聖尊、三世諸仏以為母、十方如来初発心、皆是文殊以強化力
□□(ほき)内伝文殊宿曜経、天に天形星あり、地に下りて牛頭天王と曰ふ
(2) 霊異記  霊異記には、「たくさんの仏・菩薩を信仰の対象としてあげているが、そのうちでも観音菩薩に関 する説が最も多くにのぼり、釈迦…がある(21)」が、文殊菩薩は出てこない。反面、人物としての 行基関係の説話が7話あり、最も多い。(22)  しかし、「文殊の反化」とされながら、行基と文殊信仰の結びつきは、明確な形で見えていない。  吉田靖雄は、「『日本霊異記』には、「行基大徳は文殊師利菩薩の反化なり」「行基大徳は…化 身の聖なり、隠身の聖なり」と記されている。行基が文殊菩薩の化身であるとする説は彼の死後に 発生したものであろうが、行基は数多くの諸菩薩のなかでなぜ文殊菩薩に比定されるに至ったの であろうか。また『霊異記』が表現する「隠身の聖」とは、いかなる歴史的意味をもつものであるの か考えてみたい。(23)」として論を展開する。  そして、「文殊師利が五台山に出現したとする伝 承においては、出家比丘形をとる場合が多かった。… 五台山文殊菩薩が僧形をとって出現する という観念は、もともと文殊菩薩は、弥勒菩薩と共に出家の菩薩であったという古い伝承に基づ いて生じたものであろう。行基が五台山文殊菩薩に結びつくのは、両者が僧形の修行者である という相似点ばかりでなく、行基の行業が経典にあらわれる文殊師利のそれに酷似していたか らである。(24)」とされるが、行基が文殊菩薩とされるのは、もっと凄い意味が隠されているので はないか。  また、吉田靖男は、「『霊異記」中巻第二十九縁における行基は、「化身の聖、隠身の聖なり」と 表現されており、彼はふつうの人間に身をやつして現われた聖人であるとされる。彼は上巻第五 縁では、「文殊師利菩薩の反化なり」と表現されているから、「化身隠身」の語に対して、行基の 本身は、「文殊師利菩薩」であったことになる。(26)」  同様に、増古和子は、「行基は人間が転生したものでなく、文殊師利菩薩の権化(25)」とする。  説話としてはあり得るだろうが、行基が修行を積み奇跡を行うとしても人間であることを前提と すれば、文殊菩薩が行基に転生することは実際にはあり得ないことである。  しからば、行基の本身が文殊師利菩薩であることは、どういうことを指すのであろうか。  行基の活動は、道昭の橋や道場の建立に通じるところがあるが、行基の先駆とされる道昭は、 日本の文殊とされてはいない。  行基に冠せられる称号のひとつが、文殊または文殊師利菩薩に収斂するのである。 私聚百因縁集巻第七には、文殊の記載が多様化される。(27)   文殊菩薩は「妙」、師利は「頭、徳」とするから、文殊は「妙徳菩薩」とする。「妙徳」は「名解く」 とすると、「文殊菩薩」も同様に言い換えができるのではないか。 (3) 菩提遷那 菩提遷那と文殊菩薩  平野博之は、「婆羅門僧正と関係づけた行基文殊化身説で最も古いたしかなものは三宝絵詞 (九八四年成立)である。三宝絵詞の行基説話は日本霊異記及び小野仲広撰日本名僧伝(今 亡)より採録した旨を記している。しかるに霊異記には行基を文殊化身とする言葉はあるが、(上 の第五話)婆羅門僧正との関連がない。従って三宝絵詞の説話は日本名僧伝から取られたもの であろう。これが件の説話の文献的にさかのぼりうる上限である。しかし霊異記に文殊化身という 言葉があり、続紀にも「和尚霊異神験触類而多、時人号曰行基菩薩」とあるから、当時この説話 があったのに景戒が採録しなかったのであるとも考えられる。しかし、之を「鐘銘」の成立時期= 天平二十一年まで遡らせることは出来ないだろう。菩薩の尊称は生前のものにせよ、之を文殊の 化身として理論化するに至ったのはもっと後れてのことではなかろうか。婆羅門僧正との説話の 中に含まれている。五台山の要素からして、天台の徒の付会と考えたい。更に、景雲四年(770 年)の弟子修栄による南天竺婆羅門僧正碑并序には、天平八年八月僧正が摂津国の治下に到 ると前僧正大徳行基は之を旧知の如く迎えたと記すのみで そこには何等の神秘化も見られない し、文殊化身説は勿論ない。(28)」とするから、婆羅門僧正菩提遷那と文殊菩薩行基の結びつき は、三宝絵詞(984年成立)以後のことであるといえよう。なぜ、菩提遷那と文殊菩薩・行基が結 び付けられることになったのかを考えよう。 来朝の時期  婆羅門僧正の来朝は、多くの行基伝では、東大寺大仏供養のため、天平十五年頃の時代設 定となっている。これは、なぜなのか。『続日本紀』を見ると、天平八年に到来した外国からの 僧侶は菩提遷那が中心でなく、菩提遷那は、後年、大仏開眼の導師や僧正になったものの、 天平八年当時は脇役である。『続日本紀』には、天平八年八月庚午(23日)条に、「入唐副使従 五位上中臣朝臣名代ら、唐人三人・波斯人一人を率ゐて朝を拝す。」とある。この「唐人三人・ 波斯人一人」の中に菩提遷那は入っていない。そして、同年冬十月戊申(2日)条には、「唐僧 道?・波羅門僧菩提らに時服を施す。」と初めて、菩提遷那の名を出すが、摂津国難波に到着 したときには、菩提遷那の名は見えない。天平八年八月に、行基と菩提遷那を結びつけるのは ふさわしくないのである。  菩提遷那が来朝するまでは、聖徳太子とともに現れる片岡山の飢人を文殊とするのはなぜか。  孤独貧窮者に化身して、或いは達磨が行基とともに「文殊菩薩」として結び付けられる要素であ ったが、よりやさしい理解は、婆羅門僧正菩提遷那が登場してから、行基と文殊の結び付けを強 化する要因となったと考えるわけである。  吉田靖雄は、「天平八年に「林邑僧仏哲唐国僧道?」らと共に来日した南天竺の僧菩提遷那は、 五台山を巡拝したという伝承をもっている。『東大寺要録』巻二に引用する『大安寺菩提伝来記』 によると、菩提は「迦毘羅衛城人」にして、彼の地において「祈三願往二遇文殊一」したところ、 「化人」あって「此菩薩居二住震旦之五台山一」と教えられ、五台山に到ったところ夢中に「今因 在二那婆提一此日本旧名也」と示されたため、さらに文殊師利の化身である行基を尋ねて来日 したように記されている。…「大安寺菩提伝来記」のいう五台山参詣説は信用できるものであろ うか。…  菩提遷那の伝記のうち最も信頼度の高いのは、彼の没後一○年目の神護景雲四年(770)に、 弟子の修栄が撰述した『南天竺波羅門僧正碑并序』である。それによれば彼は「波羅門種」にし て、「唐国道俗、仰二其徽猷一崇敬甚厚」とあり、来日の際行基はこれを迎えて、「主客相謁、 如二旧相知一」とあるが、五台山巡礼および和歌の贈答のことはみえない。…「碑銘」は彼の 五台山巡礼について全く語っておらず、『絵詞』『極楽記』も同様であるので、『今昔』のいう五 台山巡礼説はきわめてあやしいものといえる。(29)」とする。  そうすると、菩提遷那と五台山信仰は、結びつく要素がなく、史実上のこととしては希薄とな るが、文殊菩薩との繋がりも説話として、行基-文殊-菩提遷那が結びつけられるのである。 (4) 菩提遷那との贈答歌 表10菩提遷那との贈答歌
史料行基婆羅門僧正
「拾遺和歌集」 「古来風体抄」霊山の 釈迦のみまへに ちぎりてし 真如くちせず あひ見つるかなかびらゑに ともにちぎりし かひありて 文殊のみかほ あひ見つるかな
日本往生極楽記霊山の 釈迦のみまへに 契りてし 真如くちせず あひ見つるかも迦毘羅會に ともに契りし かひありて 文殊の御貌 あひみつるかな
法華験記霊山の 釈迦のみまへに 契りてし 真如くちせず あひみつるかな迦毘羅會に ともに契りし かひありて 文殊の御貌 あひみつるかな
『行基年譜』霊山ノ 釈迦ノ御前ニ 契テシ 真如不朽 相見ツルカナ迦ヒラヱニ 共ニ契シ 甲斐有リテ 文殊ノ御加保相見ツルカナ
「俊頼髄脳」霊山の 釈迦のみ前に ちぎりてし眞如くちせず あひ見つるかな迦毘羅會に ともに契りし かひありて 文殊のみかほ あひ見つるかな
私聚百因縁集霊山ノ 釈迦ノ御前ニ 契テシ  真如不レ朽セ見ツル哉迦毘羅衛ニ 共ニ契シ 甲斐有テ  文殊ノ御貌相見ツル哉
袋草紙霊山の 釈迦の御前に 契りてし 眞如朽せず あひみつるかな伽毘羅衞に 共に契りし かひ有りて 文殊のみかほ あひみつるかな
 吉田靖雄は、「『絵詞』『極楽記』および上記二書と編集時をほぼ同じくする『拾遺和歌集』には、 行基が難波津で菩提遷那を迎えた時の贈答歌をのせている。「霊仙の釈迦のみまヘに契りてし、 真如くちせす逢見つるかな」(行基)、「迦毘羅衛に共に契りしかひありて、文殊の御顔相みつる 哉」(菩提)。迦毘羅衛は釈迦生誕の地であり、その地において過去世の行基=文殊師利は、 同じく前生の菩提と将来の邂逅を誓い、それが今日実現されたというのが歌の大意である。この 二首の歌は、上記の三書が編集された十世紀末には、人口に膾炙した歌であったため、三書と もこれを記録したものと考えられる。この和歌は『碑銘』にみえず、行基については特筆大言する 態度をとった『霊異記』にもみえないので、『霊異記』撰述の弘仁十四年(八二三)以後に成立し たものであろう。和歌の基底をなす行基は「文殊の化身」なりとする説は、すでに『霊異記』にみ えており、これと行基が菩提来朝時に迎接したとする『碑銘』の説とが結び付いて、二種の歌が 醸成されたように考えられる。右のように考えれば、この和歌の成立は『霊異記』撰述よりだい ぶ遅れた時期、すなわち九世紀末か十世紀初め頃と考えてよいのではあるまいか。(30)」とさ れるから、行基と菩提遷那の邂逅は、後の時代に創られたこととなる。  二人の贈答歌は何を意味するのか。  二人の贈答歌の構造を分析してみると、両歌に共通するのは「ちぎり」「あひ見つるかな」があり、 二回繰り返される。また、波羅門僧正の歌の中には、「に」と迦毘羅會の「かび」と甲斐の「かひ」 が2回重なることが隠されている。つまり、「にかい」から連想する言葉と歌の大意を併せて考える と、二人の贈答歌に隠されている言葉は、「再会」といえるだろう。その心は、「サイと会う」である。 (5) 行基と文殊の結びつき  吉田靖雄は、「行基が五台山文殊菩薩に結びつくのは、両者が僧形の修行者であるという相似 点ばかりでなく、行基の行業が経典にあらわれる文殊師利のそれに酷似していたからである。(31) 」とする。  「行基の作った九カ所の布施屋・昆陽施院・山城布施院などは、貢調運脚夫・役民・貧窮者・病者 などの社会的弱者に食物を施与していた施設であったと認められるのである。隣国五台山に住する 文殊菩薩は出家比丘形の修行者であること、彼の菩薩行は三宝と衆生に食物を飽食せしめること であると経典に説かれていること、以上二点は行基に共通することがらであり、この故に行基は 「文殊師利菩薩の反化」とされるに至ったのであろうと考えられるのである。(32)」  「反化」は生まれ代わりとされ、文殊菩薩が人間である行基に生まれ変わったとする。その意味で 使われているのかも知れないが、説話上のことであり、実際的には、ありえないことであろう。  行基が弱者救済をするのは、文殊菩薩が化体したことによるものとするのは、もっともらしい理由 であるが、行基信仰の理由は文殊菩薩が本体であるから当然視されても、人間行基が尊敬される 度合いが減ずるように思われる。話として、観音菩薩が33相にも姿を変えて出現するのはそれら の名前の観音菩薩がおられるので理解できても、高僧は一定の修行・修練を積み、僧位の高みに 登るものであり、或いは神仙になるものと考えると、文殊菩薩が人間の高僧になるのは突飛過ぎる 発想であろう。 3 文殊の秘密 (1) 俊頼髄脳  「行基菩薩の歌に、    霊山の釈迦のみ前にちぎりてし眞如くちせずあひ見つるかな   婆羅門僧正の返し    迦毘羅會にともに契りかひありて文殊のみかほあひ見つるかな   霊山と申すは釈迦如來の法華經とかせ給ひける所なり。眞如といへるはまことといへるなり。  返しの迦毘羅會も同じことなり。このふたりは同じく文殊にておはしましけるとぞいひ伝へたる。(33)」  ふたつの言葉が変えてある。「迦毘」と「かひ」、「契り」は「ちぎり」である。  「文殊」も同様に書き分けることができるとすると、どうであろうか。  『古来風體抄』には、「聖武天皇東大寺をつくりたまひて供養あらむとての日、行基菩薩なにはの  きしにいでゝ、南天笠の波羅門僧正をむかへられけるとき、僧正ぼだいのきしにつきて、たがひに  てをとりゑみをふくみてものがたりしたまひて、行基菩薩のよみたまひけるうた   霊山の釈迦のみまへにちぎりてし眞如くちせずあひみつるかな  波羅門僧正のかへし   かびらゑにともにちぎりしかひありて文殊のみかほあひみつるかな」(34)とある。 (2) 文殊の秘密  『袋草紙』上巻には、「権化人歌」で、聖徳太子は救世観音化身、達磨和尚は文殊化身、そして、 行基菩薩も文殊化身とされている。達磨和尚が文殊化身とされるのは何故か。  『俊頼髄脳』には、行基と並んで、婆羅門僧正も文殊である(35)とする。  婆羅門僧正は、四聖説では、普賢菩薩の化身とするのはあるが、文殊とするのは初めてである。 また、行基が文殊とされるのは、婆羅門僧正と出会ってからのことである。  そして、『奥義抄』に「姫君は行基の化身、行基は文殊也。まぶくた丸は智光なり。智光頼光とて 往生したるものは是也。是はかきたることにてもあらず。」(36)とある。「是はかきたることにてもあ らず。」ということは、文の形でなく、耳で聞くべし、ということであろうか。文殊は、モンジュの音を 聞くと、想像される言葉がある。  ここから考えるに、文殊の「文」と婆羅門の「門」が同じ音訓の音で言い換えられることに気づく。 (3)智光説話  『古来風體抄』には、「又行基菩薩まだわかくおはしけるとき、智光法師に論義にあひたまへりけ るを、智光すこしけうまんのこゝろにやありけん、わかきかたきにあひたりとおもへるけしきなりけれ ば、うたをよみかけられける   まぶくだが修行にいでしかたばかまわれこそぬひしかそのかたばかま  かくいはれて、二生の人にこそおはしけれと歸伏しにけり。 この事は行基菩薩のさきの身に、やまとのくになりける長者などいひけるは國の大領などやうのも のにやありけん。 そのいへのむすめのいみじくかしづきけるが、かたちなどいみじくをかしかりける を、門もりするおみなのありけるが、子にまぶくだといふわらはありけり。(37)」とある。  『古来風體抄』には、平仮名が多用される。平仮名は言葉をより多く想像させられるのである。  行基と婆羅門僧正の歌は、『俊頼髄脳』と同様の文字使いではないが、新しい要素として、智光 の説話が入ってくる。ここには、智光法師の童名が「まぶくだ丸」で、その母のおみなは「門もり」 である。これら言葉を誘導しているかのようである。すると、「文殊」を同様に考えるならば、「門守 」とすることができる。  次に、達磨が文殊とされる達磨=文殊説を考える。  「聖徳太子伝」の関わりで、追塩千尋は、「藤原後生の「奉加村上天皇四十御算和歌序」(九六 五年)に「達磨和尚、至富緒河寄於斑鳩宮太子」「本朝文粋」巻十一とあるのが、 天台以外の文 献において達磨説が登場する早い時期の例といえる。十一世紀の「和漢朗詠集」には達磨からの 太子に対する返歌が収録され(六七三番)、十二世紀の「袋草紙」上巻(藤原清輔撰、1159年二条 天皇に奏覧)では飢人は文殊の化身としての達磨とされる。ただ、『袋草紙』に先行する『俊頼髄脳 』(源俊頼撰、1111 〜1114年の間か)では、飢人は文殊ではあっても達磨とはされていない。 それは飢人に対する認識の揺れを示すものと考えられ、飢人=達磨説が必ずしも定着していなかっ たことが知られる。(38)」とする。  ここに現れる達磨は、文殊菩薩・文殊師利菩薩でなく、ただの文殊である。達磨は、 (梵語Bodhidharma菩提達磨)禅宗の始祖。生没年未詳。南インドのバラモンに生れ、般若多羅に 学ぶ。諡号は円覚大師・達磨大師・達摩。バラモンとは、インドの四種姓制中の最高位たる僧侶・ 祭司階級。(39) つまり、バラモン種である。達磨大師がバラモン種であることは人物についての 知識がなければ難しい。次には、達磨より、分かりやすくするために、菩提遷那を婆羅門僧正菩 提とした。南天竺婆羅門僧正僧正碑并序には、「僧正諱菩提遷那、姓波羅遅、婆羅門種僧正也」 とある。つまり、「もんじゅ」は「バラ門種」のことである。『行基年譜』にも「バラ門僧正」と「バラ門」 を強調している。どの物語も、ひたすら「門まもり」に誘導する。守門の者=門守(文殊)である。 4  門守  真福田丸が関わる説話は、どれも門まもり(門守り)に誘導する。 奈良県曽爾村今井に所在する門僕神社は、まふくだ丸伝説がある「門守の神社」である。(40)  守門ノ者=門守、音が同じものは文殊である。  文殊から門守を導かれるのではないか。 表11 門守
史料内容
真福田丸説話奥義抄「門まもり」和歌色葉「門まぼり」古来風体抄「門もり」
智光説話聖譽抄上「菩薩影向ノ所アリ、到リテ拝スレバ其門ニ守門ノ者多在リテ、智光不レ可レ入云」
『行基菩薩行状記』日本の文殊、此のときより行基大僧正は文殊の化身なりとしろしめされけり
5 隠身の聖  『霊異記』に行基を「隠身の聖」とする。  吉田靖雄は、「『霊異記』中巻第二十九縁における行基は、「化身の聖、隠身の聖なり」と表現され ており、彼はふつうの人間に身をやつして現われた聖人であるとされる。彼は上巻第五縁では、「文 殊師利菩薩の反化なり」と表現されているから、「化身隠身」の語に対して、行基の本身は、「文殊師 利菩薩」であったことになる。(41)」とする。  『行基年譜』などに、東大寺造立の際の供養講師を行基が辞して外国の大師に奉仕させるべきとし て婆羅門僧正菩提遷那を摂津国難波津に迎える説話がある。それは、行基が大仏造営の勧進を始 めた天平十五年(743)の話となっているが、実際の婆羅門僧正の来朝はそれに先立つ天平八年 (736)のことである。それが説話上では東大寺落慶供養の導師として招請されたように作り変えられ ている。何故か、それは天平八年の出来事を天平十五年まで引き伸ばしたということであり、事実を 後年に移すという時間の操作を加えている。時間操作を必要とする理由のひとつは、天平十五年の 時点には、行基が存在しなかったからではないかと考える。そうすると、『続日本紀』の天平十五年 条における大仏勧進は当然のこととして編者の作為になるが、行基の薨伝にも関わらず、行基が 早く示寂したならば、死後に姿を現す神仙・高僧の説話は『霊異記』などに多く出てくるので、死後 に蘇り、大仏勧進を行い活躍する行基は、まさに霊異神験そのものを表わすものである。  『続日本紀』の編者は、行基を死後に再生する霊異神験の人、あるいは神仙として存在させたと 考えられないか。天平勝宝元年以後に見える行基の姿は、単に紀年を錯誤したものでなく、死後 に蘇生し姿を見せる不老不死の人として描かれているものと解し、『行基年譜』などの智光説話に 現れる地獄にある黄金の宮殿に行基が死後に住み給う処とする作り話の存在から、「行基を神仙 とすること」は「霊異神験」の出来事としてもおかしくないのである。隠身の聖は、まさに行基の正体 が隠されているものである。『行基菩薩行状記』では、婆羅門僧正と出会う行基を「此のときより行 基大僧正は文殊の化身なりとしろしめされけり」、「日本の文殊」とする。行基の本身は、「文殊師利 菩薩」と理解される表現であることを、言葉遊びとして捉えるならば、発想の連鎖を広げ、日本の文 殊を読み替えるならば、「日本の門守」に行き着く。「日本の門守」とは何なのか。外国からの使節 は、大宰府に到着するが、その後、難波にたどり着く。そこで国司の出迎えを受けるのである。 婆羅門僧正は百官を引き連れた行基に迎えられたのである。外国からの使節を迎える関守、つ まり「日本の門守」は、摂津職の官人であり、その長は摂津職の大夫である。  従って、行基の本性は、摂津職に関与する官人が隠されているものと思われる。 結びに  行基と文殊菩薩の関係を考察してきたが、奈良時代に活躍した行基と文殊菩薩は、造形的にも 史料的にも結びつかず、行基が文殊の反化とされることは、実際にはあり得ないことである。  そして、行基がなぜ文殊を被せられる言葉の群に埋めつくされるのかが不明であった。  行基を「隠身の聖」とする視点をすこし変えて、単純に、言葉の遊びとして考えると、文殊=門守 と同音であることが知れる。 行基は、その正体が隠された人物とするならば、行基が日本の門守であることから考えると、婆 羅門僧正を百官を引き連れた行基が迎えたように、外来の客を迎える窓口は、関守として、摂津 の国の官人が導きだされた。つまり、行基の実像は、摂津職に関与する官人と思われる。 註 (1) 吉田靖雄『日本古代の菩薩と民衆』吉川弘文館、昭和63年、107頁。 (2) 追塩千尋『中世の南都仏教』吉川弘文館、1995年、233頁。 (3)吉田靖雄、註(1) 108頁。 (4) 『国史大辞典』「文殊菩薩」吉川弘文館、 (5) 「寒山拾得」広辞苑「寒山は経巻を披き、拾得は箒を持つ図様が多い」 (6) 藤巻和宏「東大寺縁起と『三宝絵』」『三宝絵を読む』吉川弘文館、2008年。 (7) 追塩千尋「片岡山飢人説話と大和達磨寺」『北海学園学術リポジトリ』年報新人文学(9)、2012年。 (8) 藤岡忠美校注『袋草紙』上、新日本古典文学大系29、岩波書店、1995年、151−152頁。 (9) 小林月史『渡海思想について』京都観照会事務局、1980年、45頁。 (10) 『国史大辞典』「文殊信仰」吉川弘文館、 (11) 『国史大辞典』「文殊会』吉川弘文館、 (12) 山門は山号による史料は確認できず。 (13)米山孝子『行基伝承の生成』勉誠社、1996年、179頁。 (14) (百橋 明穗)『国史大辞典』「文殊渡海図」吉川弘文館、893頁。 (15) (速水 侑)『国史大辞典』「文殊渡海図」892-893頁。 (16) 東洋文庫『五台山』57頁。「海上」とするのは、図の左上方に「海亀」が描かれているから      である。 (17) 『チベットの仏教世界 もうひとつの大谷探検隊』龍谷大学 龍谷ミュージアム、2014年、   「12文殊菩薩像」30頁。「74文殊菩薩坐像」103頁。 (18)『仏像集成』3 83 84頁。 (19) 吉田靖雄、註(1) 、243頁。 (20) 吉田靖雄、註(1) 、236頁。 (21) 増古和子「日本霊異記における行基信仰」『上野学園大学創立75周年記念論文集』上野学園大    学・短期大学研究紀要、1979年、188頁。 (22) 増古和子、註 (21)論文、186頁。 (23) 吉田靖雄、註(1) 、105頁。 (24) 吉田靖雄、註(1) 、108-109頁。 (25) 増古和子、註 (21)論文、183頁。 (26) 吉田靖雄、註(1) 、112頁。 (27) 私聚百因縁集巻第七『大日本仏教全書』148、名著普及会、1983年、[3行基菩薩の事]   「文殊師利大聖尊ハ三世諸佛以テ爲スレ母十方如来ノ初發心ハ皆是文殊ノ教化ノカナリ。…」   「大聖文殊ハ在ニ三世ノ諸佛ノ母ニ一共ノ中ニ殊ニ彌陀ニ形取レリ密教ノ意ニテ彌陀文殊大威徳豈殊ニ異ンヤ乎。」   「先擧二普賢。妙徳ト一。妙徳ハ是レ文殊ナリ。」   「又丈殊ハ常ニ在ニ五臺山ニ一詣二ス法照禅師ニ一教テ欲ニセ疾成佛セント一者無トレ過二タルコト念佛ニ一給フ。  叉日本我朝ニ聞ル行基菩薩ハ即チ文殊也。初ハ薬師寺ノ僧ナリ。」   「行基ノ一ツノ不思議ハニ。行キレ道ヲ過ルニ不ルレ催サ家々ニ居タル人モ競ヒ出テ、拝ミレ之。往還ノ輩モ不ルニレ告必ス禮ス。…」   「行基ハ知二文殊師利菩薩ト一。」   「行基菩薩難波ノ庭二渡シレ橋ヲ掘リレ江ヲ作クルレ船津處ニ…」   「行基菩薩ノ云ク。霊山ノ釈迦ノ御前ニ契テシ真如不レ朽セ會見ツル哉。婆羅門僧正ノ返事ニ云ク。迦毘羅衞ニ共ニ契シ甲斐有テ文殊  ノ御貌相見ツル哉卜。自ニ爾時一行基ハ知二文殊師利菩薩ト。」   行基菩薩遺言「不ニスン浄土ニアラ一者。何クカ有ニラン稱フレ恩ニ處。非二スン聖衆ニ一者誰カ有ニン随フレ心人H随ハレ世ニ似夕リレ  有ニレ望。背ケハレ俗二如ニシ狂人ノ穴憂ノ世間。隠ニン一身ヲ何クノ處ニカ一骸ハ曝二サレテ閻浮ノ蓬カ下ニ一。神ハ訴ニフ炎魔ノ廳ノ  前ニ一。可キハレ厭フ流転ノ苦域。可キハレ欣フ淨土ノ樂邦。欲セハレ出ニント火界ヲ一速ニ抛二ヨ名利ヲH欲セハレ登ニラント蓮臺ニ一常ニ  勵ニセ稱名ヲ一已上。」「行基ハ文殊ナリ。文殊ハ覺母ナリ。」 (28) 平野博之「昆陽寺鐘銘」『日本歴史』126号、1958年、94頁。 (29) 吉田靖雄、註(1) 、238-240頁。 (30) 吉田靖雄、註(1) 、258頁。注(81) (31) 吉田靖雄、註(1) 、109頁。 (32) 吉田靖雄、註(1) 、112頁。 (33) 『俊頼髄脳』日本歌学体系第一巻、130-131頁。 (34) 『古来風體抄』初撰本、日本歌学体系第二巻、309頁。 (35) 『俊頼髄脳』日本歌学体系第一巻、131頁。 「このふたりは同じく文殊にておはしましけるとぞいひ伝えたる。」 (36) 『奥義抄』日本歌学体系第一巻、358-359頁。 (37) 『古来風體抄』註(34) 、309頁。 (38) 追塩千尋、註(7) 12頁。 (39)広辞苑「達磨」 (40)門僕神社は、まふくだ丸伝説があるように読んだことがあるが、史料は確認できない。獅子舞で有名。曾爾は、漆の発祥地、清貧の女性が仙女     となる伝承がある。 (41) 吉田靖雄、註(1) 、112頁。 参考文献 ウィキペディア「文殊菩薩」。 『美術史研究』第26号、 1998年、 内田啓一 上田さちこ『中世社会の成立と展開』吉川弘文館1976 小林月史『渡海思想について』京都観照会事務局編、1980年。 宮崎圓遵『中世仏教と庶民生活』永田文昌堂、1987年。 高橋俊美「寺子屋における天神信仰について」『天神信仰』雄山閣出版、1983年。 森下要治『行基と竹と文殊のえにし−『篁山竹林寺縁起を読む』−』HP
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]

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