行基伝の研究
目次 1 隠された行基の正体 2 行基に授与された尊号 3「行基」は菩薩号 4 「諱」について 5 行基の卒年齢 6 行基の出自 はじめに 奈良時代、小僧行基と呼ばれて弾圧された僧が、時代の経過と共に律令政府からは法師・大徳 と呼ばれ、時の人からは菩薩と崇められ、ついには僧の最高位である大僧正の位まで登りつめた。 四十九院の建立をはじめ、池溝開発や布施屋などの社会福祉施設、道路、橋、津の交通施設など 行基の事跡は近畿を中心に数多くあり、これら行基の行動力は眼を瞠るほどの超人的な活躍とも いえる。 しかし、行基が大僧正になってからは、すなわち、745年[天平17年]からあと行基は目立った行 動はしていない。(1) そして、行基は生存中に「菩薩」と呼ばれていたとされるが、これに疑問を持 った人は知らない。 行基は、『日本霊異記』にも、天眼を示す文殊の化身、隠身の聖とされ、『今昔物語』など数々の 仏教説話や伝説が残り、正史である『続日本記』には「霊異神験類に触れて多し」とされるなど謎 の多い僧である。行基の研究は先人により多方面から取り組まれ、素人には付け入る隙間もない であろうが、果敢にも行基の真の姿に迫ることに挑戦する。行基は単に一介の乞食僧(2) であっ たのか。民衆を導く官僧であったのか。民衆の味方から大僧正の位を得て転向したのか。 行基の生きた時代は千三百年前の奈良時代のことであり、行基が遺した史料は勿論のこと、 当時の史料が少なく、行基の真実の姿に近づくには困難を極めるが、幸いに多くの伝記・伝説・ 説話がある。そこには、行基の出生から入滅時の年齢、大僧正の授与された日まで数々の伝記 に多くの違いがあり、行基の複雑多様な姿が混沌としており、行基の実像と虚構が交錯している ものと考える。これを解きほぐす 研究の手法としては、先人が残し伝えてきた多くの伝説・説話・伝記を基にして、この多様な行 基伝承等を比較分析する中で、行基伝の編作者各人が真に伝えたいとする主張を手繰り、隠さ れている事実を探り出す。そのためには、拙いながらも想像力をたくましくして、多様な行基伝の 揺らぎの中から、虚構を除き、垣間見える真実らしき点をつなぐ作業を行う。 その前提として、ふたつの仮説を提起する。 [仮説1:行基の正体は隠されている。] [仮説2:「行基」の名は死後の追号(謚名)である] そして、論述するなかで、行基に関する第3の仮説を導き出し、隠された行基の真の姿に近づい てみたいと考える。 1 隠された行基の正体 (1) 行基の出生の記 『続日本記』は、生年を記さないが、天平勝宝元年(天平21年)2月2日、遷化八十歳から推測す ると天智天皇御宇九年となり、他の伝記の天智天皇御宇七年白鳳八年生戊辰年と異なる。 表1行基の出生の記注1)崑崙山昆陽寺略縁起は、1688年とするが、藤本史子は1702年の異説がある。 2)温泉山記には、「行基菩薩者豊後国幡多人也、或云和泉国人」とする。 これは、二葉憲香が、「「薨時年八十」というものは、はじめからこのように書かれていたとす れば、誤りであるが、もと八十二とあったかも知れない(3)」と解するように、元は「八十二」で あったならば、「八十」にしたのは何らかの意味を持たしているものではないだろうか。『続日本 記』以後は「八十」であるが、『七大寺年表』以後は「八十二」歳説がでる。その中で、『大僧上 舍利瓶記』は特異である。 奈良時代に亡くなった人物の墓誌が十六点ほど整理されている(4)。その中に船王後と行基の墓 誌がある。行基の属する高志氏一族が船王後とも同じ百済王の末裔とし、船王後の改葬年が戊辰の 年(668年)であり、行基の生誕と同じくする。 行基と船王後を関連づけるならば、行基の前世が船王後であり、行基が船王後埋葬後の生まれかわ りとする仏教の輪廻転生思想と相通じる形になっている。『仏教伝来記』は、聖徳太子の生年が唐 の南岳恵思大師の入滅年と同年であり、聖徳太子は南岳大師の後身とするのと似ているのである(5)。 そして、舎利瓶記には、船王後の墓誌の表現が用いられている。(6) 唐招提寺保管の『竹林寺略録(1305)』は、行基の生年の月を八月とするが、これは『竹林寺略録』 以前の史料及び以後のすべての史料に月まで明記したものは一つも見えないので、作為であることは 確実である。ここに「八」の数字に故意性が見られる。このことから、唐招提寺保管の『竹林寺略録 』(1305)は他の部分についても作為が含まれていると考えられる。 『行基菩薩伝』の幼名「俗名史首」は、「史首」が一時忌避された如く、聖武天皇と藤原不比等の 名であるから、行基は両者と関係があるような作為がされている。(7) ?行基の卒日 次に卒日であるが、『三宝絵詞』の「天平勝宝元年三月二日」、東寺王代記の「天平二十年二月寂。 或説天平勝宝元年二月二日」、『一代要記』の「二十年戊子三月二日入滅」以外は、総じて、「天 平勝宝元年二月二日」であるが、行基の入滅の日に複数の説が存在することを指摘しておく。 なぜ、このように行基の卒伝が多様化するのか。『大僧上舍利瓶記』は、「廿一年二月二日丁酉之 夜」と、「天平」の年号を省略したうえで、干支に加え、亡くなった時間帯を「夜」とする。亡く なった時間帯を「夜」とするのは、慶長十七年(1612)の『歓喜光律寺略縁記』と比較的新しい伝記 である元禄十五年(1702)の『本朝高僧伝』である。『歓喜光律寺略縁記』及び『本朝高僧伝』は、 『大僧上舍利瓶記(以下『舍利瓶記』とする。)』発見以後に書かれたものであるので、『舍利瓶記』 を参照したものとすると、『舍利瓶記』の「廿一年二月二日丁酉之夜」は入滅時の記載が詳細である ことに独自性を持つ。この「夜」に関して、行基の和歌がある。生駒の山のふもとにて、をはりとり 侍りけるに「法の月ひさしくもがなと思へども小夜更にけり光かくしつ」(新勅撰)である。また、 亡くなった時間帯を記すのは、忍性の舍利瓶記の「七月十二日子剋(真夜十二時)」とよく似ること を指摘しておく。 行基の舍利瓶記は、拙論で先に、忍性の舍利瓶記を模倣したことを論じた。(8) また、『舍利瓶記』の「大倭国平群郡生駒山之東陵」が、安元元年(1175)に記された『行基年譜』 の「大和国平群郡生駒山之東陵」と国名の表記が異なるのを除くと、全く同文である。 『行基年譜』は、葬地について他の行基の伝記ともすべて異なる独自性を持つ(但し、『行基年譜』 が参考にした『行基菩薩伝』の「大和国平群郡生鳥山東陵」とはよく似る)が、舍利瓶が、天平勝宝 元年に埋葬されて、鎌倉時代にそれが発見されるまで、舍利瓶記文を見ることはなかったと考えると、 両記が一致することは不審である。行基の舍利瓶記の表現は、忍性の舎利瓶記の他に『行基年譜』を 引用したものと考えられる。 表2 行基の年齢及び卒日等の比較
暦年 史料名 行基の出生 備考 幼名等 749 大僧上舍利瓶記 近江大津之朝戊辰之歳誕 797 続日本記 遷化八十歳から推測すると天智天皇御宇九年となるが、「八十」には特別の意味を持たしている。 984 三宝絵詞 俗姓高階氏、和泉国大鳥郡人なり 984-5 日本往生極楽記 天智七年 1106 行基菩薩伝 淡路朝廷八年戊辰歳托生 俗名史首 1094 扶桑略記 天智九年 1274 明匠略伝 淡海朝七年戊辰托生 1305 竹林寺略録・流布 人王第三十九代天智天皇御宇七年戊辰菩薩誕生、年号即白鳳八年也 年号…也。八字衍 1305 竹林寺略録・唐 人王第三十九代天智天皇御宇七年八月菩薩誕生、年号即白鳳八年也 同上 1316 行基菩薩縁起図絵詞 天智天皇御宇白鳳八年生戊辰托生 1322 元亨釈書 天智七年生 基 1331 興福寺略年代記 同年行基生 1372 明匠略記 淡海朝七年戊辰托生 1380 東寺王代記 天智天皇七年、行基生。和泉州人也 1399 阿娑縛三国明匠略記 淡海朝八年戊辰托生 1446 三国伝記 生、産子 1573 行基大菩薩行状記 うみたる子をみれば普通の赤子にはあらずしてかたち心太ににたり 行器丸 1673 一代要記 天智(天地)八年 1688 崑崙山昆陽寺略縁起 天智七戊辰年十二月二日胞衣に包まれて生れる。 胞嚢子 1688 和泉名所図会 天智帝七年 幼名法貴丸 1702 本朝高僧伝 天智帝七年生 1743 行基菩薩草創記 天智天皇戊辰十一月二日降誕 法寄丸 行基の死亡した二月二日は、二・二と並べて書くと、四を意味し、四=死と通じるので、作為が 感じられる。行基の二月八日火葬を記す史料は、『続日本紀』及び『行基年譜』に見られず、『大 僧上舎利瓶記』(749)、『竹林寺略録(菅原寺)』( 1305)、『行基菩薩縁起図絵詞』(1316)、『歓喜 光律寺略縁起』(1612)に記される。史料の出所は、竹林寺、家原寺、菅原寺の寺院関係史料に 限られていることが特徴である。また、『大僧上舎利瓶記』が発見された文暦二年(1235)から、 嘉元三年(1305)までは、『略録』以前の史料に「火葬」の記載がないので、寺院関係の記事は 『大僧上舎利瓶記』に拠ったものと考えられる。ところが、葬地の「生馬山之東陵」の表記は、 『略録』・『喜光律寺略縁起』だけでなく、瓶記発掘前の資料である『行基菩薩伝』『年譜』に見 られるのである。古い資料に無い火葬の記事と、葬地の「生馬山之東陵」の表記が同時に見 られることから、『瓶記』は、『行基菩薩伝』『年譜』を参照し、『竹林寺略録(菅原寺)』と『行基 菩薩縁起図絵詞』のほぼ同時代に作成されたといえる。 2 行基に授与された尊号 (1)大僧正の尊号 表3のとおり、行基を崇めた尊号には、大僧正の尊号と菩薩または大菩薩の称号がある。 初めに大僧正の尊号を考える。大僧正の称号付与の時期は大きく分けて三つある。『大菩薩 遊化行事一巻』の天平十四年以後、『日本霊異記』・『三宝絵』の天平十六年、『続日本記』・ 『行基年譜』及び『大僧上舍利瓶記』などの天平十七年である。『日本往生極楽記』など、時期 が明記されていない史料もある。しかも、授与の月日までが伝記によってまちまちである。大 僧正という日本で始めて授与されたとされる名誉ある尊号が、伝記によって何故このようにば らばらに伝えられてきたのか、これも大きな謎である。これほど大僧正の補任の時期が異なる のはどういう意味を持つのであろうか。ここには、正史である『続日本記』が伝える行基像と異 なる行基の姿があり、行基に関する事柄を、各伝記の相違の中に見いだして真実の姿を伝え ようとする行基伝の作編者の思いを感じる。 『七大寺年表』(続群類七九二)永万元年(1165)は、天平十六年までは、僧正・大僧都・小 僧都・律師の名を記載し、天平十七年条で「大僧正行基。大僧正始也。任日有三説。任正月 21日。七十六任職」と初めて大僧正行基について記すが、大僧正の任については三説ある内 の天平十七年以外の他の二説を挙げない。この大僧正任日三説は、他に『大菩薩遊化行事 一巻』の天平十四年、『日本霊異記』の天平十六年を想定するとも考えられるが、『七大寺年 表』の記事の中から別の二説を読み取ることができる。一つは、「十五出家。廿四受戒。七十 六[大僧正]任職」とするので、「天平二十一年時の没年八十二歳」から逆算すると、大僧正任 職年は、「天平十五年」に該当するが、これは他の史料には見えない。また、『七大寺年表』は、 天平勝宝元年条で、行基の入滅年を「八十二歳」以外にもうひとつ「八十八歳」を挙げる。行基 の入滅年の比較については後述するが、「八十八歳」とする史料は他には『僧綱補任抄出上』 と『初例抄』の「天平勝宝元年寂八十八歳」があるが、ここに何らかの意図が感じられる。 はじめの大僧正任職「七十六歳」は、これを「天平二十一年時の没年八十八歳」から計算した 場合は天平九年に該当する。この天平九年の大僧正任も他の史料には見えない。すると、大 僧正任は、天平十四年、天平十六年、天平十七年以外に、天平九年、天平十五年が計算に よって算出されることを示し、ますます混乱を増すばかりである。また、『僧綱補任抄出上』は 八十八歳だけであるから、そこからは天平九年の大僧正任が導かれる。ここでは、特異な 「没年八十八歳」から導き出される「大僧正任天平九年」を覚えておこう。 なお、大僧正任職「七十六歳」は、初例抄上には、異説で「大僧正始。行基。…直任。七十 七。…」がある。異説の「七十七」を「ナゾナ」と読むことができるとすると、謎の名前は「大僧 正」或は「行基」を指すことになるかもしれない。 表3 行基の大僧正等の称号付与の記
史料名 卒時 卒時の記 葬地 火葬 大僧上舎利瓶記 廿一年二月二日丁酉之夜奄終 菅原寺東南院入滅 寿八十二 大倭国平群郡生馬山之東陵 二月八日火葬 続日本記 廿一年二月丁酉遷化 薨時年八十 − 日本霊異記 天平廿一年己丑春二月二日丁酉々時(午後6時) − 法儀捨生馬山 三宝絵 天平勝宝元年二月二日ヲワリヌ 時ニ年八十 三宝絵詞 天平勝宝元年三月二日をわりぬ 時年八十七 日本往生極楽記 天平勝宝元年二月唱滅 時八十 日本紀略前篇 二月丁酉遷化 時年八十 − 本朝法華験記上 天平勝宝元年二月四日唱滅 時年八十矣 扶桑略記 天平廿一年二月丁酉釈行基寂 遷化春秋八十歳 行基菩薩伝 同(天平廿一年)二月二日夜入滅了 生年八十二 大和国平群郡生鳥山東陵 東大寺要録巻一 天平廿一年二月二日入滅 入滅生年八十 生馬山入滅 (菅原寺でない) 七大寺年表 天平勝宝元年二月二日入滅 @遷化八十二 A入滅年八十八 僧綱補任抄出上 天平勝宝元年二月二日入滅 入滅年八十八 初例抄 天平勝宝元年 八十八 温泉山記 天平勝宝元年二月十五日入滅 行年八十一 行基年譜 天平廿一年二月二日夜入滅/即日中夜(真夜中)入寂 行年八十二歳 大和国平群郡生馬山之東陵 仏法伝来次第 同(天平廿一年)二月二日丁酉 春秋八十歳 明匠略伝 天平廿一年二月二日 入滅八十二 竹林寺略録(菅原寺) 天平廿一年二月二日夜半(真夜中)奄焉円寂 春秋八十有二 生馬山竹林寺之東陵、生駒山之東陵 同月八日火葬 是依遺命也 行基菩薩縁起図絵詞 天□□□一年二月二日御入行 御入行年八十二 荼毘之陵墓、生馬山 二月八日荼毘 元亨釈書 天平廿一年二月二日寂 寂年八十二 興福寺略年代記 天平勝宝元年二月二日遷化 遷化年八十 濫觴抄 今年(天平廿一年)二月二日丁酉 春秋八十者 東寺王代記 天平二十年二月寂。或説天平勝宝元年二月二日 六十九 帝王編年記 入滅春秋八十二 神皇正統録上 天平勝宝元年己丑二月二日入滅ス 時年八十二歳 行基大菩薩行状記 天平勝宝元年二月二日 時八十二入滅 歓喜光律寺略縁起 天平勝宝改元己丑年二月二日丁酉之夜半 春林(秋)八十又二 生馬山竹林寺之東陵、 同月八日火化 一代要記 二十年戊子三月二日入滅 入滅年八十 東国高僧伝巻第一 天平廿一年二月二日終 春秋八十有二 昆陽寺略縁起 天平勝宝六年二月二日 本朝高僧伝 天平廿一年二月二日其日中夜 世齢八十有二 葬於生馬山東嶽 東大寺雑集録巻一 天平廿年甲子二月二日遷化 八十壹 一年早い死 東大寺正倉院開封記 天平廿一年二月二日 八十二歳 年歯鉄杖 官職備考 天平勝宝元年二月二日入滅ス 行年八十七歳ナリ 表4 大僧正の任命時期
暦年 史料名 大僧正称号の記 大菩薩 738頃 古記・大宝令註釈書 行基大徳 − 742 (1215) 大菩薩遊化行事 (行基年譜) 天平十四年四月五日[死後] 任大僧□位、諱行法[法行]大僧正、 天平十四年以後の『大菩薩遊化行事』に「大菩薩」が使われている。 740〜45 優婆塞貢進解 師主薬師之寺師位僧行基 − 749 大僧上舍利瓶記 天平十七年大僧正、和上法諱法行、薬師寺沙門 − 769 南天竺婆羅門僧正碑并序 前僧正大徳行基、行基 − 797 続日本記 大僧正(天平十七年一月二十一日)、 時の人号けて行基菩薩と日ふ 822 日本霊異記 天平十六年十一月 876 三代実録記 故僧正行基[山城国泉橋寺申牒] 984 三宝絵 天平十六年冬ハジメテ大僧正ノ職ヲサヅケ給、度者四百人ヲ給、 987 日本往生極楽記 聖武天皇甚敬重、詔授大僧正 1036 日本紀略 天平十七年正月十七日 1094 扶桑略記 天平十七年正月十七日 天平廿一年正月十四日即日改大僧正を改めて大菩薩 1255 行基菩薩伝 天平十四年四月五日 任大僧正 同廿一年正月十四日即日改大僧正、号日大菩薩 1134 東大寺要録巻一 天平十七年乙酉正月詔以行基法師為大僧正 □施四百人出家 − 1165 七大寺年表 天平十七年、大僧正行基。大僧正始也。任日有三説。任正月二十一日。七十六任職[天平十五年に該当] @天平十九年四月八日聖武天皇授菩薩戒日、改大僧正号大菩薩、A異本・天平廿年 1165 僧綱補任抄出上 天平十七年正月廿一日任。七十六任職 時人号二行基菩薩一 1175 行基年譜 @天平十四年四月五日 任大僧位諱行法大僧正[大菩薩遊化行事]A天平十七年正月十七日 天平二十一年□月□日 1180〜 仏法伝来次第 天平十七年正月行基菩薩為大僧正 − 1257 私聚百因縁集 天平十六年正月廿一日任大僧正。 一ツの不思議あり、不思議にまけて大僧正に任ず、 1305 竹林寺略録(菅原寺) 大僧正(天平十四年四月五日)、 天平廿一年己丑正月十四日大菩薩 1305 竹林寺略録・唐 天平十四年壬午4月5日)、 − 1308 仁寿鏡 天平十七年任大僧正神亀元年任大僧都 [聖武天皇] 二十有一年春正月釈行基者大僧正 − 1322 元亨釈書 天平十七年正月加大僧正 天平二十一年正月賜号大菩薩書錫褒也 1331 興福寺略年代記 @ 平十七年正月、A天平十八年 天平勝宝元年二月[三日]遷化、時人号日行基菩薩 1322 初例抄上 天平十七年正月廿一日任。直任。七十七。 − 1355 釈家官班記上 天平十七年正月廿一日任。(七十六)。 天平廿一年正月十四日。即改大僧正号菩薩 1372 明匠略記 天平十七年直任 − 1380 東寺王代記 持統天皇六年(692)法蔵行基為陰陽博士、天平十六年十月行基為大僧正 天平二十年行基賜大菩薩号 〜1470 法中補任 天平十七年正月十五日直任僧正 同廿一年正月十四日改大僧正号大菩薩 1573 行基大菩薩行状記 − 天平二十一年一月、大菩薩の尊号 1680 諸門跡譜 天平十七年行基始任之大僧正是始也 菩薩号天平廿一年正月 日賜行基大菩薩云々 1687 東国高僧伝巻第一 擢為大僧正(時期記さず) 行基大菩薩之号(天平二十一年1月21日) 1695 官職備考 天平十七年行基為二大僧正一 天平勝宝元年二月二日入滅ス行年八十七歳ナリ、謚ヲ行基菩薩ノ号ヲ賜 1702 本朝高僧伝 天平十七年正月勅為大僧正 賜行基大菩薩之号(天平二十一年1月14日) 東大寺雑集録巻一 (天平)十七年正月勅為大僧正 天平廿年二月二日遷化行基八十壹、天平感宝二年庚寅正月行基賜菩薩號 (2)菩薩号 次に菩薩号を考える。「菩薩とは、さとりを求めて修行する人、もと成道以前の釈迦牟尼及びそ れ前世のそれをさして言った。後に大乗仏教で、自利、利他を求める修行者を指し…。また、観 世音、地蔵のように、仏に次ぐ崇拝対象ともされる。」[広辞苑] 菩薩号の付与・命名には三つがある。一自称、二つは授与されたもの、もう一つは世間の人か ら菩薩と呼ばれた呼称である。菩薩の例は、肥後国八代郡の尼が「舎利菩薩」と呼ばれ、霊異 記には、金鷲菩薩、南菩薩、寂仙菩薩がある。(8) 天平十三年に大般若経を書写した報信菩 薩を初見とする。(9) 自称は、後に制限される。 大菩薩号は、八幡大菩薩など神名にも付けられている。(10) 正史である『続日本記』及び『大僧上舍利瓶記』『日本往生極楽記』などは大菩薩号の授与は 記さない。 奈良弘之は、「行基に対して、菩薩号が下賜されたか否かは今のところ不明であるといわね ばならないであろう。(11)」とする。一方に記録があるが、他方に記録がないことをもってこれを 不明とするみとは記録ある史料の否定につながり、肯首できない。 『行基年譜』をはじめ、多くの伝記は、聖武天皇などの菩薩戒に伴う尊号の授与に位置づけて いるのは、もっともらしい理由付けであろう。 『七大寺年表』は、@天平十九年四月八日聖武天皇授菩薩戒日、改大僧正号大菩薩A異本 ・天平廿年とする。『東寺王代記』の天平二十年、『行基大菩薩行状記』・『行基年譜』・『元亨釈 書』・『菅原寺行基伝智光東国高僧伝』巻第一・『本朝高僧伝』の天平二十一年、『興福寺略年 代記』の天平勝宝元年二月などの行基の晩年に授与されている他に、『行基年譜』の中で、『大 菩薩遊化行事』は天平十四年の時点で「大菩薩」が使われている。また、「大菩薩」でなく「菩薩 」が使われているものがある。『日本往生極楽記』は、「行基菩薩」と表現している箇所が16箇所 ある。 他方、『続日本紀』の行基の伝は、「時の人号けて行基菩薩と日ふ」とし、菩薩は世間の人から 崇め慕われた号とする。時の人が号けて「行基菩薩」と言うのは気にかかる。普通なら、「行基さ ま」とか「菩薩さま」と呼ぶのではないか。さて、どちらが真実といえるであろうか。 この問題の解は、後回しにするが、もう一つの問題は、行基に付与された大僧正乃至大菩薩の 尊号授与の時期がばらばらであることをどのように解釈するかということである。ばらばらの尊号 授与が出てくる原因は何なのか。その解は、仮説1の如く行基の正体が隠されたことと関連を持 つと考えられるのではないか。行基の正体及び生死の時期が隠されたことが根本にあるから、 伝作者が思い思いに創作したことにより、授与される時期が異なると考えられるのである。そし 、次に[仮説2:「行基」の名は死後の追号である]ことを考察する。 (3)大僧正等尊号の追号 大僧正の尊号、菩薩号の歴史を紐解くと、古い事例はほとんどの場合が追号である。天皇の 追尊、官人に対する位階の追贈も多く見られるところである。 聖武天皇に皇帝号が追尊されたのは、崩御4年後の天平宝字四年八月である。『続日本紀』 の冒頭、文武天皇即位前紀には「日並知皇子尊は、宝字二年勅有りて、尊き号を追崇し、岡宮 に御宇しし天皇と称す。」と草壁皇子(日並知皇子尊)に尊号が追崇され、岡宮御宇天皇と称し たことが記されている。これは、天平宝字二年八月戊申条「勅、日並知皇子命、天下未称天皇。 追崇尊号、古今恒典。自今以後、宜奉称岡宮御宇天皇」の追記である。このように、追号及び 追尊は多くが行われた。 また、別の例として鑑真を挙げる。鑑真の大僧正任は、『続日本紀』天平宝字七年五月戊申 (六日)条の鑑真卒伝に「聖武皇帝師レ之受レ戒焉。及二皇太后不?一、所進医薬有験。授二 位大僧正一」とあり、皇太后の不予に際し、進めた薬に効があり、大僧正を授けたことを記す。 『東大寺要録』巻一によれば、天平勝宝六年四月五日に少僧都、同七年十月二十五日に大 僧都に任じたとあり、『同書』九所引の『東大寺始行受戒作法記』には、天平宝字四年に僧正 となり、同七年の入滅に際し、大僧正を贈られたとする(12)。すると、『続日本紀』と『東大寺始 業授戒作法記』の記載が異なることが分かり、後者の鑑真の大僧正授与は追号である。どち らに誤りがあるのか。正史である『続日本紀』が常に正しいのであろうか。鑑真の経歴が詳し く記された『東大寺始業授戒作法記』を信頼できるものとすると、『続日本紀』に偽りの記載が ある可能性があるものと思われる。『続日本紀』は、僧正の追号、として大僧正を使ったので はないだろうか。行基についても、菩提遷那の死後の記録である『南天竺婆羅門僧正碑并 序』に、行基のことを「前僧正大徳行基」としているから、769年以後に「大僧正」の「大」を付 加された可能性がある。 次に菩薩号を考える。 表5 菩薩号の追号
紀年 月日 史料名 天平14年 4月5日 行基菩薩伝(1106)、大菩薩遊行事行基年譜 (1175)、 竹林寺略録・唐 (1305) 天平16年 10月 東寺王代記(1380) 天平16年 11月 日本霊異記(822) 天平16年 冬 三宝絵(984) 天平17年 1月 @興福寺略年代記(1331)、仏法伝来次第(1180)、本朝高僧伝(1702)、 天平17年 1月15日 法中補任(1490)、僧官補任 天平17年 1月17日 扶桑略記[1094以後]、行基年譜(1175)、日本紀略(1036) 天平17年 1月21日 続日本記(797)、七大寺年表(1165)、僧綱補任抄出上(1165)、初例抄 (1351)、釈家官班記上(1355) 天平17年 − 大僧上舍利瓶記(749)、東大寺要録巻一(1134)、仁寿鏡(1308) 、元亨釈書(1322)、一代要記[1681]、明匠略記(1372) 天平18年 − A興福寺略年代記(1331) 記載せず − 日本往生極楽記(987)、東国高僧伝(1687)、行基講式(1308) 注)『法中補任』(続郡類94)永正11(1514)菅原和長 『極楽寺縁起一巻』「元徳元年己已暦仲春日謹誌」本文の終に「後醍醐天皇」が忍性菩薩の号を 勅賜したこと、わが国で菩薩号を得たのは行基、興正、大悲、忍性の四人であることを説く。覚盛に 大悲号をおくられたのは元弘元年(1331)である。 「忍性菩薩号は、忍性入滅後、二十五年を経て嘉暦三年(1328)五月後醍醐天皇から「忍性菩薩」 の号を勅許された。忍性の法諱をそのままに菩薩号を冠したのは、門弟らが行基菩薩の号にならい 私に師を「忍性菩薩」と呼んだ既成事実にもとづいたことであろう。」とするが、行基の場合、法諱は 法行『瓶記』または行法『年譜』であるからそのままではないが、行基菩薩に倣い、忍性菩薩と呼ば れていたことが窺える。『多田院文書』中に「宣命案、沙門忍性」と題する一巻があり、『忍性菩薩号 勅書奉書案』、『関東御教書案』の写を収める。(13) 『興正菩薩伝(群書類従69)』には、「後伏見天皇御宇正安二年庚子七月四日。伏見院宣下。潤七 月三日後伏見綸旨下。思円上人謚興正菩薩号。滅後至此十三[筆者:十]年。」とある。叡尊は思 円上人とも呼ばれていたが、興正という菩薩号を受けたのは、滅後十年後のことであるので、「興 正菩薩」が追号であることが理解できる。 忍性菩薩、大悲菩薩号についても然りである。そうすると、行基の場合はどのように考えたらよい だろうか。 『東大寺雑集録巻一』には、「(天平)十七年正月勅為大僧正、天平廿年二月二日遷化行基八十 壹、天平感宝二年庚寅正月行基賜菩薩號」とあり、『官職備考735』には、「天平十七年行基為二 大僧正一、賜行基大菩薩之号(天平21年1月14日)…入滅ス謚シテ行基菩薩ノ號ヲ賜フ」とあるか ら、行基菩薩号は、鎌倉時代の三人の例と同様に死後の追号でようにうかがえる。 そして、大僧正の称号授与の時期がまちまちであるのは、『続日本紀』の編纂が延暦十六年 (797)まで遅れたため、死後に追号されたことが明確に出来ないまま正史より先行したものがあっ た可能性があるほか、わざと正史と異なる時期を記したものが続いたことが想定される。 『行基年譜』に記される二つの大僧正の称号授与の時期が@天平十四年四月五日とされるのは、 四月五日は数字の意味は「シゴ(死後)」であり、A天平十七年正月十七日と『続日本紀』の天平 十七年正月二十一日との期日の差は「四」である。「シ(死)」が違うこと、また、「シ(死)」が早いこ とを意味する暗号かと考える。 (4)法行について 行基は法行の別名がある。 『行基年譜』には、「天平十四年四月五日任大僧□位、諱行法[法行]大僧正」とあり、『大僧上 舍利瓶記』には、「天平十七年大僧正、和上法諱法行」とある。 ところで、この法行の名は、延暦五年三月六日の太政官符に「定威儀法師員事」として、 「右得自武省解称威儀法師其員不定。比年之間猶有増減。望請。准法行大僧正・時定補六 口。若共闕随即申官者。官判依請永為恒例」(14)として、行基の別名が残っている。 つまり、行基は、正式には、少なくとも延暦五年(786)までは法行大僧正とされていたのである。 3「行基」は菩薩号 『扶桑略記』『行基年譜』『行基菩薩伝』には、「大菩薩」を賜われたとする。 『続日本紀』には、行基の大菩薩号の授与については記載されず、「時の人号(なず)けて行基 菩薩と日ふ」とし、行基菩薩は世間の人から崇め慕われた号とするから、これを霊異記中七に 「時人欽貴、美称菩薩」とあるように、「時の人号けて菩薩と日ふ」と読み替えれば、「菩薩」が 世間の人から呼ばれた呼称とされている。 次に、忍性菩薩号は、行基菩薩号を倣ったとされたが、興正菩薩号についても、『興正菩薩 伝(群書類従69)』に、正安二年(1300)七月四日、伏見上皇は院宣を以って叡尊の行徳を称し、 「行基菩薩之先蹤。贈興正菩薩之貴号」つまり、行基菩薩の先例により興正菩薩の貴号を贈 ると記される。このことは、叡尊滅後十年後に追号された興正菩薩号が行基菩薩の先例によ るものとされることから、行基号もまた死後の追号・菩薩号である可能性が高いと考えられる。 授与された「行基菩薩」号の中では「行基」という名が追号の対象となる菩薩号であると考え られる。『桂川地蔵記下』(続群書類従第961)に、「日吉社十禅師是也。御本地者地蔵菩薩也。 地蔵即菩薩号也」とある。この「地蔵菩薩」の「地蔵」が菩薩号とされていることは、「行基」の 場合も同様の構造を持つものと考えられるのではないだろうか。 また、『昆陽寺鐘銘』「嘉暦改之歳仲冬十七日」に「粤有菩薩 奉号行基」とあり、『大日本 金石史』は「菩薩ここにあり、行基を奉号す」と読み下す(15)。 「奉号す」という言葉は、どういう意味であろうか。「奉号す」は、「奉」を「たてまつる」と解す ると、『角川新字源』には、「ア 進める。そなえる。献上する。イ 神や天子に対する動作のう やうやしさを表す言葉、ウ 謙譲の補助動詞」とあり、行基に名を「奉(たてまつ)る」は上記の 用例に該当しにくい。 しかし、「奉職、奉禄」と同じ用例の「奉号」と考えると、「行基」の号を「奉(うけたまわ)る」 になる。世間から菩薩と慕われた人(僧)が先にあったとすると、その後に「行基」という具体 的な菩薩号を「奉る(うけたまわる、または謹んで受ける意味)」と理解できないだろうか。 『続日本紀』は、光明皇太后に「天平応真皇太后」の尊号を「たてまつる」のは、「宝字二 年、上二尊号一日二天平応真皇太后一」と「上(たてまつ)る」を用いる。行基の場合、尊号 を上(たてまつ)るとするならば、大僧正号であり、菩薩号であろう。もし、神や天子に対する 動作のうやうやしさを表す言葉として、「奉(たてまつ)る」を使ったとするなら、行基は神や天 子と同等かそれに準ずる立場の人であったことを想定しなければならないが、そうでなけれ ば、行基の名を「奉(たてまつ)る」ことはしっくりこない。『昆陽寺鐘銘』の「粤有菩薩 奉号行 基」の解釈は、『続日本紀』、『霊異記』によって「ここに菩薩あり。行基の号を奉(たま)わる 。」と読むこととし、世間から菩薩と慕われた人(僧)が先にあって、その後に「行基」の尊号 を奉(うけたまわ)ったことを意味すると考える。 4 「諱」について 「追号」の問題と同時に考えなくてはならないことは「諱」である。 『角川新字源』によると、「諱」は、死者の生前の名を称するのを忌む思想によるもので、 死者の本名である。生きているときは「名」といい、死んでからは「いみ名」となる。 行基の伝で、「諱」が使われている史料は、行基年譜七十五歳条の「諱行法大僧正」であ り、『舎利瓶記』の「法諱法行」である。この二つの史料からは、行基の生前の本名が「法 行」または「行法」であったことを示すが、これは、延暦五年三月六日付太政官符に「法行 大僧正」の表記がある(17)ことからすれば、行基の諱は「法行」とすることが妥当であると 思われる。 また、後世の史料であるが、『官職備考』には、「天平勝宝元年二月二日入滅ス行年八 十七歳ナリ、謚ヲ行基菩薩ノ号ヲ賜」(16)とあるから、死後の行基は、謚を行基という菩薩 名を賜ったことになる。従って、生前に「法行」であれば、死後に「行基」の名が与えられた ことが推定できる。 [仮説2:「行基」の名は追号である。]から必然的に導き出される結論は、数多い「行基」 の名で作られた文書類はすべて行基の名に仮託されて作成されたもので、いわゆる偽書 と考えることができる。 表6 行基著名の史料
人物 入滅 菩薩号 備考 行基 法行 天平21年(749) 行基 『行基年譜』大菩薩号は、天平21年 叡尊 思圓上人 正応3年1290 興正 正安2(1300) 忍性 良観上人 乾元2年1303 忍性 嘉歴3(1328) 覚盛 窮情上人 建長元年(1249) 大悲 元弘元(1331) 家原寺金筒銘文は、行基名がある最古のものとなるが、『行基年譜』に記されるだけで、実物が 存在しないので、信憑性など評価が出来ない。 既に偽書とされている『隆池院縁起』『菅原寺起文遺戒状』『起父遺戒状[唐招提寺保管]』の他 に、『大和葛城寶山記』『岩金山太神宮寺儀軌』がある。 また、天平十二年~十七年のものとされる『優婆塞貢進解』は、「師主薬師之寺師位僧行基」とさ れているが、別字で大きく「反」が書かれているので採用されたものでない。 「天平四(七三二)年から十七(七四五)年までの「貢進文」(以下「度人貢進文」とする)にみる出家 希望者の修行内容は、この条件に適合したものが多い。いわば、この天平六年の出家得度の条 件は、この条件に適合しないかぎり得度は許可しない。だが、 一方において、適合するかぎりに おいては何人もこれを許可するというものである。」(17)とされている。 従って、要件さえ満たしておれば、行基が師位僧という官僧であり、すぐにも大僧正となる行基 の推薦が「反」とされたことは、行基名の貢進解が偽書とする判断も許されるだろう。 また、根本誠二は、「正倉院編文書」の一例を除き、「優婆塞貢進文」を分析して、天平四 (七三二)年から十七(七四五)年の貢進文について、一例を除き、「優婆塞」「優婆夷」なる語句が 使用されていないことを指摘する。(18) その例外は、師主薬師寺僧平註の「日置部君稲持貢進文」であるから、「師主薬師之寺師位 僧行基」の「丹比連大歳貢進文」は、例のような貢進文から偽造された可能性がある。誦経 三 経の頭文字「 八・多・観」は、「蜂田を見よ」となる。 表7 行基の優婆塞貢進文
史料名 大僧正称号の記 備考 家原寺金筒銘文 沙門行基愍末代輩、記貽来葉云云 歳次戊寅(天平十年) 隆池院縁起[続類800] (奥書)天平十年戊子二月十八日勧進沙門行基 戊子は戊寅の誤り 戊子の年は天平二十年 大和葛城寶山記[続類65](偽書:健治1275〜弘安1287以後) 行基菩薩撰「于時己卯沙門行基奉勅撰鈔之、天平十一年己卯」 神祇の系統本、行基作に仮託した (群類解題436頁。) 優婆塞貢進解 師主薬師之寺師位僧行基 天平十二年〜十七年とされる。 菅原寺起文遺戒状[仏教全書] 天平廿一年二月二日仏子行基 起父遺戒状[唐招提寺保管] 天平廿一年二月二日仏子行基 行基式目 行基菩薩国符記七巻 行基菩薩 長谷寺縁起に記される。 国府記七巻 行基菩薩撰 本朝書籍目録[郡類495] 以仁和寺宮本書之「普廣院殿」 岩金山太神宮寺儀軌 今上聖武天皇勅行基菩薩撰 仏全118 表8 天平十五年頃の優婆塞貢進文
丹比連大歳 大養徳国城下郡鏡造郷戸主 立野首斐太麻呂戸口 読経 法華経一部並破文 最勝王経一部 千手千眼経 薬師経 「反」(異筆) 誦経 八名普密経 多心経 観世音経 師主薬師之寺師位僧行基 浄行五年『行基菩薩国符記七巻』は、『長谷寺縁起文』の中に記された文書の一つであるが、『群書解題』 第七巻下出積によるとその存在が疑わしい書物とされている。これは、本朝書籍目録の地理の部に 『国府記七巻行基菩薩撰』(大日本仏教全書118)とあるから、その書の存在自体は信じられるが、 行基の名に仮託したものであろう。 『行基式目』は、「役人行基の名を借りて式目といふ書を造りしものなるべし」とされている。 (19) そして、「信頼すべき史料による限り、行基は生涯に一冊の著書も残していないとされる。 (20)」ことも、行基名の著書はあっても偽作とされるから、「行基」追号説を裏付けるものと考え ている。 5 行基の卒年齢 (1) 卒年の比較 行基の卒年を考える。行基の卒年は、大きく分けて八十歳説、八十二歳説、その他と三つに分 けられる。なぜ、このように没年齢が違うのか。これも大きな謎である。行基の没年は、正史で ある『続日本記』の「八十歳」より、死後まもなく作られたとされる『大僧上舍利瓶記』の「八 十二歳」が正しいとされているが、八十歳説、八十二歳説は、概ね『七大寺年表』(1165年)を 境にして、以前は八十、以後は八十二に分かれる中で、天平勝宝元年に作成され、鎌倉時代に 発見されたとされる『大僧上舍利瓶記』に記載される「八十二」は特異である。正史である 『続日本紀』以降『七大寺年表』までの諸史料ではすべて「八十」であるのに対し、『大僧上 舍利瓶記』のみが「八十二」とすることは、それが『七大寺年表』の永万元年(1165)前後以降 に作成された可能性があると指摘できる。また、その他説は、『七大寺年表』の「八十八」説 の他、「六十九」説には『東寺王代記』、「八十七」説には『三宝絵詞』がある。 表9 行基の入滅時の年齢の比較
「辛国連甘貢進文」(二―三三一〜二) 謹解 中貢出家人事 辛国連猪甘 年三九 河内国日根郡可美郷戸主日根造夜麻戸口 読経 法華経一部 最勝王経一部 註維摩経一部 注法華経一部 涅槃経一部 維摩玄一部 法華玄一部 肇論一巻 法華遊意一巻 三論 以前、経論文、方読如件、謹解 (主力) 依師師礼明僧 恵任僧 天平十五年正月七日貢人外従五位下勲十二等 日根造大田 「日置部君稲持貢進文」(二―三三二〜三) 謹解 申貢優婆塞事 合弐人 並出雲国 日置部君稲持、年四拾、出雲郡漆沼郷戸出雲大国戸口 誦最勝王経一部 唱礼具 維摩経一部 千手千眼経一巻音訓 金光般若経一巻 本願薬師経一巻 誦唱礼具 千手千眼陀羅尼 不空羂索陀羅尼 仏頂尊勝陀羅尼 十一面陀羅尼 如意摩尼陀羅尼 師主薬師寺僧平註 天平十五年正月八日 出雲国守従五位下勲十二等多治真人大国特異な年齢説について考える。 表2・7のとおり、『七大寺年表』(続群類792)は、@遷化八十二A入滅年八十八の二つが記 されているが、奇妙なことである。また、『七大寺年表』の大僧正任の三説は、天平十七年のほ かに、天平十五年の任と同九年が導かれたことは先に述べた。『七大寺年表』には行基の没年 が二説しか記されないが、玄ムについては、「入滅事有三説」とするから、玄ムの例に倣うと行 基の「入滅事」も三説有ることをも想像させられ、大僧正の「任日有三説」はそのまま入滅時三 説に誘導されるのかもしれない。 次に、『東寺王代記』は「天平二十年二月寂、六十九」と特異な没年と年齢を記載して注目さ れるが、この特異な記文に細工が施してあると推測する。 国の正史である『続日本記』の八十歳説と比べて、『東寺王代記』の六十九歳は、十一歳早 く没したことになり、『東寺王代記』は、没年を「天平二十年」とするから、逆算すると、 (天平20年―11=)「天平九年」が算出できる。 つまり、『東寺王代記』は、真の行基の没年を「天平九年」と謂いたいのである。ここに奇しくも 、『七大寺年表』の行基没年「八十八歳」から算出された大僧正任職年と『東寺王代記』から算 出された没年に「天平九年」が合致する。 行基大僧正の追号説と東寺王代記の隠された入滅説を重ね合わせると、行基は天平九年に 入滅したことになる。[仮説3:行基の天平九年入滅説]。 この「天平九年入滅説」は、『続日本記』を初め、全ての行基伝を否定することになり、奈良時 代の歴史の見方を大きく変えることになる。少なくとも、『続日本記』は、行基の記事に関して大 きな作為を含むものと考える。正史である『続日本記』の行基没年である天平勝宝元年を否定 し、それが虚構である根拠を他の伝記等の隠された部分に求めていくのは学問の研究方法と しては適正を欠くところもあり、仮説によって論を展開する詭弁性は承知するが、今はその方 法を採用し、まず、行基の没年が天平勝宝元年からどこまで遡れるかを試みる。 (2) 卒年の遡り 行基大僧正追号説を前提にすると、大僧正の任日以前に行基は入滅したことになる。 そうすると、入滅日は、『行基年譜』以外の伝記からは、『日本霊異記』・『三宝絵』の天平十六 年まで遡れる。『行基年譜』は、その中に『大菩薩遊化行事一巻』の記録を載せ、大僧正の任を 天平十四年とする。次に、「天平十三年記」の存在がある。この「天平十三年記」は、行基の社 会的活動をまとめたものである。『行基年譜』の「年代記」には、天平十三年以後の社会的活動 は、聖武天皇との会談、天皇への菩薩戒の授与を記すのみで、寺院建立以外の社会活動の記 録はない。そうすると、「天平十三年記」は行基の生前の事跡をまとめたものと考えることが可 能となる。 根本誠二は、「行基は天平十三年以降、在地での社会的活動も少なくなり…(21)」と官僧に 重きが移る見方をするようであるが、その活動の中心は大仏の勧進であろうが、具体的には 姿が見えないのである。『続日本紀』天平十三年十月癸已十六日条に「賀世山の東の河に 橋を造る」とあり、これに従事した優婆塞ら七百五十人に得度が許されるが、その優婆塞ら は行基の弟子と考えられているが(22)、やはり、行基の姿は見えないのである。 「天平十三年記」に、「布施屋九所 見三所 破損六所云云」として、天平十三年の時点で、 布施屋が九箇所のうち、破損が六箇所あるのに対して、現存が三箇所しかないことが記され ている。これについて、吉田靖雄は、「霊亀二年から養老四年頃が設置の盛期であった布施 屋は、「天平十三年記」の施設の中に破損云々の記事は布施屋にしか見えないから、この頃、 布施屋設置の運動の盛りをすぎ、また破損を修繕する意思もなかったことを示している(23)」 とし、布施屋の必要性の減退及び運動からの撤退を指摘する。しかし、天平十二年以降の恭 仁京・紫香楽宮や大仏の造営、難波遷都等に伴う役民の負担を考慮するなら布施屋の役割 が減じたとは考えられず、井上薫は、「病気や食料欠乏で帰郷できなくなった運脚夫が飢人と なって市に沢山いたことは天平宝字三年五月九日の勅で知られる。(24)」とし、現実に東大寺 池上郷布施屋・十市郷布施屋や官の布施屋の例(25)が後年に見られるのは、吉田靖雄の説 を否定することに繋がるものと思われる。 「布施屋九所 見三所 破損六所云云」の記事を信頼できるものとすれば、天平三年に行基 の部分的公認があり、天平十四年以後天平十七年までに大僧正に上り詰める勢いにあるは ずの行基の影響力の低下が、実際には同十三年以前の時点で発生している事実を示すこと にほかならない。つまり、行基の死後、布施屋の維持が困難であったことを意味するのでは ないだろうか。 「天平十三年記」の挿入前の、行年七十四歳条は、天平十三年に当たるが、「或云、此記 天平十一年云々」と注記が付され、年次が遡るような曖昧さを示している。そして、天平十三 年三月十七日、山城国泉橋院で行基と聖武天皇が終日談、同年六月二十六日、泉橋院で 終日讌樂し、給孤独園を所望、天皇と和歌を贈答したこと等を記した後に、「遷化之後大小 寺誦経了云々」とある。『続日本記』の行基薨伝に見られる「遷化」の文字が天平十三年記 の記載の前に残ることは、この時点までに、行基が遷化していたことを示すか、或いはその ように記載した史料が存在した可能性があろう。更に、行年七十一歳条は、天平十年であ るが、「私云、此年家原寺金筒銘文被埋置歟」と注記されているところの金筒銘文は、行基 年譜の行年三十八歳条の前に記載されている。銘文末尾に「歳次戊寅沙門行基」と「行基」 の銘記があるから、行基追号説から考えると歳次戊寅年に該当する天平十年以前に行基は 入滅していたことになる。追号は、死亡時に遡り適用されている。 次に、天平十年頃に成立した『大宝令』の注釈書『古記』に僧尼令五・非寺院条の法文中 「別立道場、聚集教化」の具体例として、「行基大徳行事之類是」とされている。この「行基 大徳」の評価は、行基追号説から生前の評価でなく、行基の死後の評価と考えることがで きる。 また、秦堀河君足の記録『大菩薩遊化行事一巻』を引用する『行基年譜』・『行基菩薩伝』 は、「天平十四年四月五日任大僧位、諱行法大僧正」とする。「大僧位」は、正しくは「大僧 正位」であろうが、この特異な大僧正の任日の表記を暗号として見ると、ここでは「正」が脱 漏しており、「正」がないのは正しくないことを意味するのではないか。そして、天平十四年 の時点で諱(いみな)行法=生前の名を明記している。つまり、大僧正は追号であることが 隠されているものと判読するのである。さきに、四月五日は、「死後」の意味とした。 『行基年譜』の天平十三年には、行基が聖武天皇に請う為奈野の給孤独園の記事が掲 出されるが、正和5年(1316)の『行基菩薩絵詞』猪名寺孤独園池の建立の絵篇第三十一 では、「天平十年三月廿日、橘大公(諸兄)は勅を奏り草創す。故有る伽藍也。」とされる。 ここで注目されることは、行基らしき僧が見える絵表現でなく、天平十年の詞の表記に 行基の名が見えず、替わりに橘諸兄の名が登場することである。 猪名寺に限ると、行基の四十九院には当たらないので、行基が登場しないとみることも出 来ようが、『行基年譜』に給孤独園の記事があることから考えると、行基が登場しても不思 議でない。この見方としては、「天平十年三月廿日」の時点で、既に行基が入滅していたと 読み取ることができるのではないか。 また、表6のとおり、偽書とされている『隆池院縁起』は、信憑性がないものの「天平十年 戊子[戊寅の誤り]二月十八日勧進沙門行基」とするので、「天平十年二月十八日」の時 点で、行基が入滅していたと読み取らなければならないだろう。これらによって、行基の天 平九年入滅説にあと数箇月に至るまで接近した。 『南天竺婆羅門僧正碑并序』によると、行基は天平八年八月八日に菩提遷那を難波津に 迎え、都合三回会していた。(26) ここで、注目されるのは、行基と菩提遷那の会見が三回 だけという少なさである。『行基年譜』にある親密な邂逅や二人が出会う伝承とは異なるよ うだ。会見が三回だけという意味は、行基が菩提遷那に会えない理由があったと思われる。 それは、行基の入滅であり、天平八年八月からまもなく、天平十年二月十八日までの間の 天平九年に入滅したと考えても矛盾は生じないと考える。すると、隠されてきた行基の天平 九年入滅説がようやく視野に入ることとなった。 (3) 『行基年譜』の作為 ここで『行基年譜』の大きな作為を述べる。『南天竺婆羅門僧正碑并序』は、神護景雲四 年(769)による天平八年の菩提遷那の来朝を記すが、『行基年譜』は、天平十五年(別には、 天平五年にも書かれている)の出来事に仮装する。 表10 婆羅門僧正の来日
年齢 史料 年齢 卒年 備考 80歳説 続日本記 80 天平21年(749) 82歳説 大僧上舍利瓶記、七大寺年表 82 その他 東寺王代記 69 天平20年(748) 天平20年―11=天平9年 東大寺雑集録巻1 81 天平20年2月2日 天平感宝元年2月2日造住吉神社 三宝絵詞、官職備考 87 七大寺年表 88 表10の通り『行基年譜』は応安五年(1372)以後の成立とされる『明匠略伝』の記載と異 なる。『明匠略伝』には「天平八年七月三日、乗船下云[去イ]善源寺。於寺内庄厳余。蓮 華ヲ浮於河水。迎道出居。有待[人イ]・之氣色也。俄爾之間、二僧乗舩来。…」とされる 天平八年の出来事を、『行基年譜』は、「 同年七月三日、乗船下着善源寺、於寺内以二 千余造花庄厳、以二十余造花浮於河水、迎送於出居、俄尓之間、三人僧乗舩到来、…」 として、行年六十六歳条の天平五年の記事に続けて記し、その後段部分(摂津国難波で 婆羅門僧正を迎え、和歌を贈答する記事など)は天平十五年十月十五日以後に記載する。 これは、明らかに、天平八年にあった出来事を天平五年と同十五年にあったことのように 偽装しており、行基が婆羅門僧正と会った事実を天平十五年まで延長させていると考える ことができる。つまり、行基の死を偽っているのに通じるのである。天平五年の五は「誤」、 十五年、十五日の十五は「齟齬」を意味する。 因みに、天平十五年十月十五日は、『続日本紀』によると、大仏発願の詔が出された日 であるから、意図は、大仏開眼ため、菩提遷那の来朝を予言する行基を超能力者にした ものである。 6 行基の出自 (1) 行基の出自 行基の経歴については、智光のように行基を誹る者は地獄に落ちる話があるが、現実 には行基の名である限り、伝記をどのように書いても、行基の墓所の正当性を主張しても、 どこからの咎めもなく、許容されてきた。とするのは、現代こそ、個人の尊重や表現の自由 が保障されているが、前代はそうではない時代であったにも関わらず、行基の混乱する事 跡が誤りのまま放置されていることが奇妙に思われるのである。 米山孝子は、「時代が下るごとに、行基伝にも様々な要素が加わって変容を余儀なくされ る。」とし、行基の祖先を漢高祖、百済王子王仁と結ぶ理由は、「行基が漢王という貴種の 流れをくむ人物であることを知らしめるという一点につきるだろう(27)」とする。 行基伝の編作者たちは、隠された行基の正体をそれぞれの思いの中で明らかにする工 夫を重ねてきたと思われる。その結果が今見られるように行基の事跡の多様化・複雑化で あろう。 行基伝の比較的新しい部類に属する『東国高僧伝巻』第一の菅原寺行基伝は、行基の 出自を「刹利之種也」「其母以為不詳」とする。「刹利之種也」はインドのカーストの第二 段目の階級である。さしずめ、王族の次の貴族の階級というところだろうか。そして、『東 国高僧伝』に見られるとおり、「其母以為不詳」と母の出自も隠すようになってきたので ある。 行基の出自を表9にまとめる。 吉田靖男は、「行基の出自について、『霊異記』(中巻七縁)は、「俗姓は越史なり、越後 国頚城郡人なり」としている。これについて、井上薫が指摘したように、行基の生まれた 天智朝には、越後国は存在せず、また、行基の大僧正補任の年月を誤まっており、『霊 異記』の所伝は疑わしいといえる。(28)」とする。和泉国大鳥郡人、出生は河内国、続紀 は編纂時の表記を用いた。 表11 行基の出自
明匠略伝 天平八年七月三日、乗船下云[去イ]善源寺。於寺内庄厳余。蓮華ヲ浮於河水。迎道出居。有待[人イ]・之氣色也。俄爾之間、二僧乗舩来。… 行基年譜 同年七月三日、乗船下着善源寺、於寺内以二千余造花庄厳、以二十余造花浮於河水、迎送於出居、俄尓之間、三人僧乗舩到来、… 注1)父を高志氏、母を蜂田とする史料は、興福寺略年代記、初例抄上、東寺王代記、歓喜光律寺略縁起、一代要記、日本紀略前篇、扶桑略記、七大寺年表などである。 (2) 行基の父母 父母の名前を考える。信頼できる最古の資料とされる『舎利瓶記』には、「父 高志厥考才智、 字智法君長子、母 蜂田古爾比売、大鳥郡蜂田首虎身長女」とある。田中重久は「菩薩伝に母 の名を薬師古とあるのは誤りである。また、大菩薩行状記に幼名が行器丸とあるが之も信じ難 い。(29)」とするが、『舎利瓶記』を重視する考察によるものであろう。 ここで、母の「虎身長女」に記される「虎身」は、「羊と同様、日本人になじみの少ない動物で、 而も盛んに命名の対象となったものにいま一つ虎がある。主として奈良朝の人物に見られるの だが、「刀良」及び「刀良女」とあって虎の字を用いたものは平安朝に入ってからのことと思われ る。」(30)から、『舎利瓶記』は時代が遅れる史料と思われる。また、「虎身」は、行基の遺誡「口 虎破身」から出来ていると思われる。 行基の父母の姓名を、表10、11にまとめる。 父の姓名は、「高」と「サダチ」に集約できる。「高」は、高志(高氏)、越、高階(高し名、高品、 高い階で、高い身分または位の人物という意味であろうか)、高、と「サダチ」は、「サ」・「ダ」・ 「チ」に分解できる。「チ」は、知ること、智サトルことを意味する。「佐・左・沙・サ」だと、「サ」を 指し示すことになる。「サ」を行基の符丁と考えると、菩薩(ササ)の「サ」である。 表12 父の姓名
史料名 父 母 出自 大僧上舍利瓶記 高志厥考才智、字智法君長子、 蜂田古爾比売、大鳥郡蜂田首虎身長女 百済王子王爾後 隆池院縁起 高志定知 続日本記 俗姓高志氏 和泉国人也 日本霊異記中7 俗姓越史、越後国頚城郡人 和泉国大鳥郡人蜂田薬師 三宝絵 高階氏 蜂田 和泉国大鳥郡人 日本往生極楽記 俗姓高氏 和泉国大鳥郡人也 本朝法華験記上 俗姓高志氏 − 和泉国大鳥郡人也 行基菩薩伝 高志史羊、佐陀智、高志赤猪 蜂田薬師古、蜂田権智子、和銅三年正月母逝化 百済王胤 僧綱補任抄出上 高志氏 蜂田連 行基年譜 高志氏、高志貞知 和銅三年正月母逝化 漢朝為貴種、王仁者漢之文人也 私聚百因縁集 高階氏或ハ高子ノ貞千世 半田ノ薬師(大鳥ノ大承ノ下女也) 和泉ノ国大鳥ノ郡ノ人 行基菩薩講式 慈父之本姓不レ卑百済王之末孫云 仮宿蜂田下賎之母胎 内証秘深位王之胤 竹林寺略録(菅原寺) 高志貞知、慶雲元年甲辰喪於慈父 蜂田氏、和銅三年庚戌正月七十日母卒 河内国 泉郡後分レ国蜂田郷家原村、漢高帝之苗裔 竹林寺略録・唐 高志貞知守サダトモ、慶雲元年甲辰喪於慈父 蜂田氏 河内国和泉郡和泉大村蜂田郷家原村也、漢高帝之苗裔也 行基菩薩縁起図絵詞(正智院) 高志宿祢佐?智 蜂田薬師子 居住蜂田家原村 行基絵伝(家原寺蔵) 高志宿祢佐陀和 蜂田薬師子 元亨釈書 世姓高志氏、泉州大鳥郡人 百済国王之胤 釈家官班記上 高志氏 和泉国大鳥郡人 三国伝記 俗姓ハ高階。父者高子ノ貞千。 母ハ半田ノ薬師女。 和泉国大鳥ノ郡ノ人也。 行基大菩薩行状記 高志宿祢貞知 蜂田薬師女、和銅三年正月十五日母逝化 家原寺縁起 母ノ名ハ薬師女、西御堂是也。 東国高僧伝巻第一 高志氏 其母以為不詳 泉州人、刹利之種也 和泉名所図会 高志貞知サダトモ 蜂田首虎身の女、薬師姫 本朝高僧伝 高志氏 泉州大鳥郡人、其先東漢帝之裔 沙石集五末 薬師ト云下女、薬師御前 和泉国ニ降誕 表13 母の姓名
氏 高志、越、高子、高階、高、古志、古市 姓 連、宿祢、史 名 才智、定知、佐陀智、佐?智、貞千、佐陀和、貞知サダトモ、貞千世、(史)羊、赤猪、 赤=チ 出身地 和泉国大鳥郡人、河内国和泉郡蜂田郷家原村 出自等 字智法君長子、百済王子王爾後、百済王胤泉州大鳥郡人、其先東漢帝之裔漢高帝之苗裔、高志氏は西文氏の系統に属する氏族・王仁の子孫(井上薫)、「和泉国、諸蕃漢の条)古志連文宿彌祖王仁之後。(『新撰姓氏録』)」 地名の「高師」「高脚」「高石」も同様に「たかし」と読めば、「高氏」(極楽記)で、「高い氏」 に通じる。 『行基菩薩伝』には、父の名が「高志史羊、佐陀智、高志赤猪」と三通り記載されている。 その内の「高志史羊」は、羊の名から、古代の上野国の「多胡郡碑」(31)を連想する。 碑には、六行の配列で漢字八十字が刻まれている。 「弁官符上野国片?郡緑野郡甘/良郡并三郡内三百戸郡成給羊/成多胡郡和銅四年 三月九日甲寅/宣左中弁正五位下多治比真人/太政官二品穂積親王左太臣正二/ 位石上尊右太臣正二位藤原尊」 この碑文のうち「羊」をどう読むかについては、古来議論があり、「…三百戸を郡と成し、 羊に給いて多胡郡と成す」と解釈するように「羊」を人名とする説があるが、「人名ならば、 氏や姓をそのうえにつけるのがふつうだ。これはどうも無理がある。」ともされる。(32) 碑文の文字の省略説としては、「半」・「養」・「群」・「祥」・「詳」等がある。(33) 井上通泰は、「詳」の略字とみて「さながら多胡郡と成す」と考える(34)。 私見、井上と同じく「詳」の略字説を採り、「言」篇を省略していると考える(35)。 「多胡郡碑」の「羊」を「詳」の省字と見做すならば、行基の父を「高志史羊」とすること は、「史」は、詳しく述べれば、「不比等」であり、高い氏の人物「不比等」との暗号とも考 えられる。奈良時代は、不比等を史と用いていた。(36) 因みに、「多胡郡碑」文中の「右太臣正二位藤原尊」は藤原不比等のことである。 (3) 名前の暗号 『行基年譜』・『行基菩薩伝』は、和銅三年正月母逝化とする。『行基菩薩行状記』 [群書類従第二百四]に、行基の母は、「蜂田薬師女、和銅三年庚戌正月十五日。 臨終正念にして。西にむかひ往生をとげ給けり。」とある。「十五日」と日付があるの は、本記だけであるが、この「十五日」は、果たして信頼の置けるものであろうか。 行基の伝には、この「十五日」の日付けが多出すると同時に、「十五歳出家」「池十 五」「同(天平) 十五年」がみられる。この「十五」は、何を意味するのであろうか。 「十五」に言葉を当てはめると、一つは「齟齬」を意味するかもしれない。『竹林寺略 録』は、母の卒を「和銅三年庚戌正月七十日母卒」とする。「七十日」はわざと間違 えており、「ナゾ」とする暗号であろうか。 加藤謙吉は「舍利瓶記が行基の母方氏族とする蜂田首の一族の名は、古代の 他の資料には全く見えない」(33) とするように「舍利瓶記」は信頼のおけない史料 である。 母の姓名、古爾比売は、「舍利瓶記」だけに見える名前である。 薬師女、薬師古、薬師子、薬師、は薬に関係する人物を示す。或いは、 「奇(く)すし」になるか。権智子は、権力を知る女性と言う意味であろうか。 『竹林寺舎利瓶出現注進状』の行基の母は、託宣を行い、疑うなかれと命ずる強 い威厳を感じさせる。そうすると、御母儀とされる託宣を行う行基の母は市井の庶 民でなく、託宣を行いうる何らかの資格・素質を備えた人物と見なされる。実際に行 基の母が夢の中に現れて託宣を行うことは、その事実がなかったとしても、寂滅を 含む同時代人が行基の母と認知できるまでに、行基の母が何らかの権威を持った 有名な人物として周知されていたか、あるいは、出家の事実があったことが想像で きる。 人名を眺めると、共通して、智が付くことが分かる。知るの意味を指すか。 智は、「サトリ」とも読む(38)が、隠された読みは「ヒシリ=聖」である。推古紀元年 条に「聖の智なり」がある。 『竹林寺略録』は、父である高志貞知の死を明確に「慶雲元年甲辰喪於慈父」と して、年次を示すただ一つの事例であり、不審である。慶雲元年(704)は、『行基年 譜』では行基の生家を家原寺とした年であり、父の供養のために生家を寺に造り替 えたように装う節が窺える。父母の名前が様々に存在することは、隠された両親の 名前を知らしめるために編作者たちが作り上げた暗号の案内標識であろう。 (4) 行基誰 『私聚百因縁集』に「行基ノ一ツノ不思議(39)」がある。「道を行き過るに、催さざ るに家々に居たるも競ひ出て之を拝み、往還の輩も告ざるに必ず礼す」と、行基の カリスマ性を説く。 次は、行基菩薩と呼ばれた人物の特定である。『元亨釈書』22の「満誓誰、笠右 丞也」に倣えば、「行基誰、○○○也」である。 『続日本紀』の行基卒伝は、「薨時年八十」と「薨」の字を使用している。卒伝の 「薨、卒、死」には、明確な区分があり、喪葬令第十五は、「凡そ百官身亡なわば、 親王及び三位以上は薨と称せよ」とある。喪葬令では、「薨」は親王及び三位以 上の官位を有するものに使われるので、「行基」はそれに相当する地位の高い 物の一号と考えることができる。『続日本紀』編纂時に官位が三位以上であった のであろうか。行基の卒伝の記事に「薨」の文字が使用され、出自が和泉国とあ るが、和泉国は天平宝字元年五月までは存在しないから、その頃までに官位三 位以上が追贈された可能性がある。 大僧正の位が上記に準ずるかをみたとき、行基の次に大僧正となった鑑真は、 『続日本紀』卒伝(天平宝字七年五月戊甲(六日)条)に「物化、遷化」とあるので 、「薨」は行基個人の一身上の身分に付随するものと考える(40)。 そこで、『続日本紀』の天平九年の死亡記事に当たると、表12のとおり十三名 の死亡記事がある。果たして、この中に行基とみなしうる人物がいるであろうか。 この検証は別の機会に譲りたい。 表14 『続日本紀』による天平九年の死亡記事
氏 蜂田、半田 八田 姓 首、連、 名 古爾比売、薬師女、薬師古、薬師子、薬師、権智子 奇すしをかける 出身地 河内国和泉郡和泉大村蜂田郷家原村、 出自等 虎身の女、蜂田氏は呉の孫権の子孫と称する氏族(井上薫)、母方船氏の祖王辰爾(藤本寅雄)、「新撰姓氏録」に「和泉国三氏、神別」蜂田連大中臣朝臣同祖、天児屋根命之後也、諸蕃)蜂田薬師、呉主孫権王之後也、同、呉国人津久爾理久爾之後也」 行基遺誡「口虎破身」の二字略から成る。 結びに ここで、整理すると、行基の生前の僧としての法名は「法行」とすることが妥当であると思わ れる。大僧正の尊号及び「行基」という菩薩号は追号であると論じ、更に行基が入滅したと想 定できる年は天平九年であると論じた。もちろん、死後に「行基」菩薩号を賜ったことになる。 二つの見方 ひとつは、中川修は「行基には直接自らを示す―例えば著書のような―いわゆる一次資料 が残されていない…(41)」とすることから、行基の名は追号である可能性が高い。また、行基 の名がある文書のほとんどは偽書であり、行基の名に仮託されたものと思われる。 米田雄介は「行基の行状については、 早くより記録化しようとする傾向のあったことは行年 七十五歳の箇所に、「天平十四年二月廿九日、使秦堀河ノ君足記録大井遊行事一巻」とあ ることから推定される。もっともこれは『行基年譜』の記事であるから方法的に問題ありとして も、同史料の「天平十三年記」は、それなりの信憑性があり、しかも天平十三年に、一応、行 基の事績を記録に留めようとしているのであるから、やはり早い時期に行基の活動を記録化 しようとする試みはあったわけである。(42)」とするが、これは、生前における記録と考えるの ではなく、死後の記録であり、『続日本記』の天平二十一年より早い時期に死亡していること につながるのではないか。天平十三年記は、行基に関する記録の中で最古の層に属するこ とになる。(43) 行基の伝承をみると、史料に一貫してこれが正統だと思われるものはない。 『続日本記』しかり、『行基菩薩伝』、『行基年譜』も然りである。最も信頼できる『太僧上舎 利瓶記』の創作性(偽作)は指摘した。百済王の子孫という人物を行基に当てることは、行基 の素性を隠す隠れ蓑であり、年譜に三十七歳以前の行基の姿が見えないことは仮説1に通 じるものである。 『日本往生極楽記』『本朝法華験記』の行基伝は、聖徳太子伝と共に後に追加されたもの である。(44) 『続日本記』にみえる行基の姿も、生国が和泉の国とされることから、編纂時に追加された との指摘もある。すべての行基伝を否定する仮説は、荒唐無稽であり、論ずるに値しないと の評価を受けるであろうが、行基は、まさに、それが霊異神験に当たることである。 また、行基伝の作者によって、このように伝が多様化する理由を考えた場合、行基伝をど のように書こうとも、それによって虚偽が罰せらることがなかったように思われる。つまり、 行基なる人物は、某人物の死後に行基の名が冠せられ、国史等に架空の人物として創作 されたものと疑われるのである。 なぜ行基の正体は隠されたのか。直ちに応える用意はないが、次の段階として行基の 正体は誰なのかは、仮説3 行基の天平九年入滅説から対象を絞り込み、論を展開する ことは可能と考える。 仮説3 行基の天平九年入滅説は、国史である『続日本記』をはじめ、他の行基伝を完 全に否定しなければ、成立しない論理であり、現段階では正当とする根拠を持ちえない が、行基に関する論文を集積する中で、一定の方向性として確信できるものに近づきつ つある。 二つの仮説をもとに三つ目の仮説「行基(なる人物)は天平九年に入滅した」を提示した。 次の課題は、「行基の正体が何故隠されたのか」を究明するには行基の実体は誰なの かを解明しなければならないと考える。 註 (1) 亀田隆之『伊丹史学』創刊号、17頁。 (2) 川崎庸之『行基 鑑真』『奈良仏教の成立と崩壊』24頁。 (3) 二葉憲香『日本仏教思想史研究』永田文昌堂、1962年、389頁。 (4) 『特別展発掘された古代の在銘遺宝』奈良国立博物館、一九八九年、七八―九六頁に記載 する出品番号、四十―五五までの十六点。 遠藤順昭「上代墓誌に関する一考察」『藤沢一夫先生古希記念古文化論叢』同書刊行会、 一九八三年、五七八頁に記載する十六点。 (5)『仏教伝来次第』(続群書類従第九五二所収)「橘豊日皇子妃巡宮中。至厩戸下。産皇子。 故号厩戸皇子。亦称聖徳太子是也。(磐余訳田宮御宇)六年丁酉六月廿二日。当于陳宣 帝大建九年。南岳恵思大師入滅之日也。慈覚大師癸状云。聖徳太子者南岳大師後身。」 (6) 拙論「行基の伊丹における活動をめぐっての一考察」2009年。 (7) 中井真孝『日本古代の仏教と民衆』172-173 (8) 続群類61神祇部61「恒例修正月勧請神名帳」172頁。 (9) 田中塊堂『日本写経綜鑑』思文閣出版、1974年、173頁。 (10) 奈良弘之「わが国における菩薩号の下賜について」『菩薩観』日本仏教学会編、平楽寺 書店、1986年、464頁。 (11)『続日本紀』第三巻、新日本古典文学大系第十四巻、岩波書店、1992年、433頁。脚注10。 (12)和島和夫「忍性菩薩伝」『重源 叡尊 忍性』吉川弘文館、S58年、364頁。 (13)『国史大系本朝文粋』第三十巻364頁。「多田院文書」 (14) 『国史大系類聚三代格』巻三、吉川弘文館、昭和58年、123頁。 (15) 木崎愛吉『大日本金石史』第一巻、歴史図書社、昭和47年、132頁。「昆陽寺鐘銘」 (16)物集高見『廣文庫』名著普及会、1916-1918年、55頁。 (17)根本誠二『奈良仏教と行基伝承の展開』雄山閣出版、h3年、165頁。 (18) 同上、163頁。 (19)「日本人口統計書」『黒川真穂全集』476頁。 (20) 速水侑「行基の生涯」『民衆の導者行基』吉川弘文館、2004年、23頁。 (21) 根本誠二『説話の森の仏教者』おうよう、2000年、91頁。 (22) 吉田靖雄『行基と律令国家』吉川弘文館、昭和61年、240頁。 「優婆塞らを行基の徒とみることは、川崎庸之氏にはじまり、諸説一致している。」 (23) 同上182-183頁。 (24) 井上薫『行基』吉川弘文館、昭和34年、49頁。 (25) 東大寺布施屋『寧楽遺文』下巻644-645「大和国十市郡池上郷屋地売買券」「十市布施 屋見在物注進解」、官の布施屋『続日本後記』承和2年6月29日勅。 (26) 神護景雲四年(769)修栄の『南天竺婆羅門僧正碑并序』(群書類従第69)、567頁。 行基との会合は、「行基又率二京畿緇素両衆五十余種一、前後合三度」であるが、伝承 には難波、善源院、東大寺西門での出迎え、菅原寺の接遇、霊山寺が挙げられる。 (27) 米山孝子『行基説話の生成と展開』平成八年、勉誠社、四八頁。 (28) 吉田靖雄『行基と律令国家』吉川弘文館、昭和62年、13頁。 (29) 田中重久「行基建立の四十九院」『史跡と美術』第118号、374頁。 (30) 村山修一「古代の人名についての覚書」『魚澄先生古稀記念国史学論叢』同記念会編 輯兼発行、昭和34年、695頁。しかし、天平五年頃の史料に「飛鳥虎(刀良)」がある。 [天平五年写経所啓、天平七年経師写紙并給?布案] (31) 早川庄八『日本の歴史』第四巻律令国家、小学館、1974年、「多胡郡碑」185-190頁。 (32) 青木和夫『日本の歴史』第3巻、中央公論社、昭和40年、164頁。 (33)『続日本紀』第1巻、岩波書店、412頁。補注5-26。「養・詳・祥」など 斉藤忠『仏教考古学と文学資料』有山閣出版、1997年、172-173頁。 (34) 井上通泰『上代歴史地理新考』東山道、三省堂、昭和18年、225頁。 同じような言い回しに、「…久麻芸等、肇賜爵位、其爵者大乙上…」久麻芸等に肇めて爵 位を賜ふ、其の爵は大乙上なり…がある。 (35) 解釈は、「…三百戸を郡と成し給ふ。詳(つまび)らかには多胡郡と成す。」である。 『続日本紀』和銅四年(711)三月辛亥条に「割二上野国甘良郡織裳、韓級、矢田、大家、 緑野郡武美、片岡郡山等之郷一、別置二多胡郡一」とあり、「詳成多胡郡」は「別置二多 胡郡一」の別表現である。「詳」の略字説を採るのは、『今昔物語集』に「不詳ズ(つまびら かならず)」、『日本霊異記』中6-12に「姓名未レ詳也(姓名詳ならず)」の用例があり、「姓 名、郡名」などを明らかにすることは「詳」で表わしたものと考える。『播磨風土記』には、 「漢部里、多志野、阿比野、手沼川、里の名は上に詳なり」とある。「言」篇を省略する例 は、古くは、『梁書諸夷伝』に「倭王賛」とあり、『宋書倭国伝』の「讃」を略字にしている。 『日本霊異記』は、上六縁「讃」の用法を「賛」(15例)とする。延暦3年在銘の紀吉継墓誌 は、「墓誌」を「墓志」とする。『日本後記』巻22、嵯峨天皇弘仁3年5月21日条「拾芥磨玉 之彦」の「彦」は「諺」であろう。椿井大塚山古墳出土の方格規矩鏡の「羊作同竟…買主 寿」は「詳(または祥・美)作銅鏡…買主寿」の省略字ではないだろうか。多胡碑記念館 拓本は、「岡」の俗字「崗」の「山」を省略しているとも考えられる。「崗」は、奈良時代に、 威奈大村骨臓器、小治田安麻呂墓誌に使われる。『藤氏家伝』は、「崗本天皇」の「崗」 を略す。また、複数ある「正」が二画目の縦棒が省略され、四画になっているようにみえる。 (36) 高島正人『藤原不比等』吉川弘文館、人物叢書、平成9年253頁。 『続日本紀』新日本古典文学大系、岩波書店、第三巻、374頁。同神亀三年正月庚子条に 「多胡吉師手」がある。 (37) 加藤謙吉「古志史とコシ国」『日本古代史研究と史料』青史出版、2005年、83頁。 (38) 智は「さとり」とよむ。よろずの理。(本居宣長『玉勝間』182頁。) (39) 『私聚百因縁集』大日本仏教全書148、名著普及会、昭和58年、119頁。 (40) 喪葬令第15は、「凡そ百官身亡なわば、親王及び三位以上は薨と称せよ」とある。 大僧正の位が上記に準ずるかをみたとき、行基の次に大僧正となった鑑真は、続日本 紀卒伝(天平宝字7年5月戊甲(6日)条)に「物化、遷化」とあり、「薨」は行基の身分に 付随するものと考える(『律令』日本思想体系第3巻、岩波書店、438頁)。 (41) 中川修「行基伝の成立と民衆の行基崇拝」『民衆と仏教』日本仏教史研究5、永田文 昌堂、1984年、101頁。 (42)米田雄介「行基と古代仏教政策」『行基 鑑真』所収、吉川弘文館、昭和58年、207頁。 (43) 井上光貞「行基年譜、特に天平十三年記の研究」『行基 鑑真』所収、吉川弘文館、 昭和58年、170頁。「行基の社会事業を考察するためには、年代記の使用をあきらめ、 もっぱら天平十三年記に依拠するのが研究法として妥当である。」 (44) 『日本往生極楽記』慶滋保胤、寛和年間(985-987)群書類従第66巻、398頁。 『本朝法華験記』鎮源、長久三年(1042)
没日 氏名 官職 記事 1/26 安倍朝臣継麻呂 大使従五位下 卒 4/17 藤原朝臣房前 参議民部卿正三位 薨、不比等之第二子 6/10 大宅朝臣大国 散位従五位下 卒 6/11 小野朝臣老 太宰大弐従四位下 卒 6/18 長田王 散位 卒 6/23 多治比真人県守 中納言 薨、左大臣嶋之子 7/5 大野王 散位従四位下 卒 7/13 藤原朝臣麻呂 参議兵部卿従三位 薨、不比等之第四子 7/17 百済王郎虞 散位従四位下 卒 7/25 藤原朝臣武智麻呂 左大臣正一位 薨、不比等之第一子 8/1 橘宿彌佐為 中宮大夫兼右兵衛率正四位下 卒 8/5 藤原朝臣宇合 参議式部卿兼太宰帥正三位 薨、不比等之第三子 8/20 水主内親王 三品 薨、天智天皇之皇女
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]