大野寺と土塔

目次   1 神亀四年銘瓦の出土 2 大野寺 3 土塔 4 文字瓦 5 土塔の性格・意味を考える。 はじめに  大野寺土塔からは神亀四年の銘を持つ軒丸瓦が出土している。それは、「神亀四年□卯年二月 □□□」が「神亀四年丁卯年二月三日起」と復元されている。大野寺の建立については、『行基年 譜』に記されており、まさに、「神亀四年丁卯年二月三日起」とされている。出土した軒丸瓦の瓦当 面に残された文字の部分が、その『行基年譜』の記事と一致するところから、このように復元された のである。  本当に、そうであろうか。新聞報道の第一報で素朴な疑問を感じた。  平成10年6月27日付け朝日新聞朝刊の記事に「紀年銘軒丸瓦は、土塔の南西の隅、大門池の 斜面の中世の堆積層にあった」。とあった。つまり、軒丸瓦が出土した堆積層は奈良時代のもの ではなく、中世の堆積層とされていることである。中世の堆積層から発見された奈良時代の遺物 は不審である。後人の作為があった可能性を見いだせないだろうか。  ついで、「神亀四年丁卯年二月三日起」と復元される軒丸瓦の文字である。これは、元号が入っ た瓦としては、最古に属するものであるが、『行基年譜』の記事と一致することは、信憑性を示すも のでなく、逆に不審を醸し出すものである。この最古の文字瓦が信用できるものか、検証を進める とともに、『行基年譜』に土塔は見えないので、行基が関与したかどうかについては識者の意見が 分かれるため、行基と土塔の関係を考察したい。 1神亀四年銘瓦の出土 (1)神亀四年銘瓦のこと  大野寺土塔からは神亀四年の銘をもつ軒丸瓦が出土している。この資料は 元号を記す文字瓦 の中ではおそらく最古に属するだろう。しかも文字が瓦当面に記されているという、めずらしいもの である。(註1)  「神亀四年□卯年二月□□□」と記す。「神亀」は縦位置に、「四年」は文字の頭を中心に向け、 「□卯年二月□□□」は文字を瓦当中央に向けて、瓦当左半部下方を始点として、中房の円弧に 沿って記されている。これらの文字は、范に彫り込まれたもので、中房が低いので彫り直しではな く当初からのものである。丸瓦は、瓦当部の裏面に溝を彫って接合している。丸瓦凹面側の接合 時の補強粘土の部分に、丸瓦の凹面に入れた平行の刻みの痕跡がネガとして残っている。(註2) ・出土状況  この型式の軒丸瓦は、三点出土した。図1は、土塔南西隅付近の大門池斜面の中世堆積層か ら出土したもの(瓦当左半)と、同じく土塔南西隅に築かれていた古墳時代の須恵器窯跡付近の 灰原を掻き上げた土と江戸時代の灰白色粘土の整地層とが互層になったところから出土したも の(右半)が接合したものである。後者はかなり摩耗しており、出土地点も数十m離れることから、 土塔から崩落後二次的に移動したものと思われる。他は、土塔北西隅付近から出土したものと、 土塔西辺南半部の日南地区の攪乱から出土したものの計三点である。  軒瓦に年号を記銘したものとしては、国内最古のもので、出土した場所から隅軒に葺かれたも のと考える。(註3) 「右半はかなり摩耗しており、土塔から崩落後二次的に移動した…」と考えるこ とは、磨耗の程度が異なることをいい、ふたつが接合するものの同一性が疑われるのではない か。  「年譜」および「神亀四年」銘軒丸瓦には、「起」と記されており、同年の「二月三日」に起工され たと考える。つまり、瓦の製作もこの日以降に始められたのであろう。神亀四年から製作をはじめ、 「神亀五年」の文字瓦が出土しているので、最低でも二年間は製作していたことがわかる。この型 式の丸瓦・平瓦は、727(神亀4)年から数年間に位置づけることができる。(註4)とされるが、「神亀四 年」銘軒丸瓦の信憑性は疑われていない。 ・復元  創建瓦 「神亀四年丁卯年二月三日起」と復元されている。  これは、『行基年譜』の行年六十歳丁卯条に 「聖武天皇四年神亀五年丁卯 大野寺 在和泉国大鳥郡大野村、二月三日起」と記されているこ とから、推定されているのである。因みに、『行基年譜』の神亀五年とあるのは、正しくは神亀四年 である。 評価 ア 奈良時代のもの  この「神亀四年」紀年銘軒瓦の製作年代については,「瓦当面の紋様が白鳳時代から奈良時代の 前半にみられる紋様であることや丸瓦を瓦当部に接合する際に丸瓦の凹面に傷をつけてはがれな いように細工をしている技法は奈良時代の特徴であること,さらに文字が奈良時代の字体であると いう点から,この瓦は瓦当面に記された『神亀四年』に造られていたものであると考え」(堺市立埋 蔵文化財センター報「堺埋蔵文化財だより」第12号)とされており、「神亀四年」銘軒丸瓦の信憑性 は微塵も疑われてはいないようである。 イ 最古の文字瓦 「神亀四年」銘軒丸瓦は、創建瓦を意味するとともに最古の紀年文字がある軒丸瓦であるとされる。 ウ 『行基年譜』との一致  古尾谷知浩は、「神亀四年/×卯年二月×」の銘軒丸瓦について  「これは笵の中房部に鏡文字で陰刻した銘を瓦当に転写したものである。つまり、瓦当笵製作段 階に記された文字ということになる。当該の軒丸瓦は創建期のものであるから、この文字も創建段 階で記されたものである。この史料から、『行基年譜』当該部分の信頼性が確かめられ、大野寺の 聖武四年創建の記事は、架空の記述ではないことが確実になった。(註5)」とされる。  ここでは、文献資料と物質資料が一致するから、その事実があったとされる論法である。 「当該の軒丸瓦は創建期のものであるから、この文字も創建段階で記されたものである。」と考 えることは、いかがであろうか。 図1「神亀四年」銘八葉複弁蓮華文軒丸瓦(史跡土塔―文字瓦聚成―)(略)  今まで、どの研究者も、この「神亀四年」銘軒丸瓦の出土を『行基年譜』の「神亀四年」と一致する ので『行基年譜』の記載が信頼できるとして疑いを持たない様子であるから、「当該の軒丸瓦は創 建期のものである」と直ちに判断したのであろう。  しかしながら、「神亀四年/□卯年二月□□□」の銘があり、文献資料と一致するからといって、 それを鵜呑みにせず、醒めた眼で信憑性を検証することが必要であろう。 (2)神亀四年瓦の疑問 @出土した地層  神亀四年瓦の疑問は、はじめに、書いたように軒丸瓦が出土した堆積層は奈良時代のもので はなく、中世の堆積層とされていることである。中世の堆積層から発見された奈良時代の遺物は 不審である。作為の可能性があるのではないかと疑われる。 A『行基年譜』との一致  なぜ、『行基年譜』の起工の日付と一致するのか。  瓦に文字を入れるのは、施主の判断に委ねられることであろうが、その際、紀年を入れるのは、 @起工の日A瓦製作日(笵を彫刻した日)B竣工日など寺院の建築を記録すべき大事な日が考 えられるが、笵を彫刻した日からすれば、それぞれ未来の日付となろう。そこに日まで入れるこ とは、難しいところがある。  池を作るため大地を掘り、土を盛りあげ、瓦を葺き、土塔を完成させる過程で、鍬入れ、起工の 日は流動的に考えられるが、瓦製作だけを捉えても、窯の築造はもとより笵の製作から粘土の 調達、成型、乾燥、焼成まで相当の日数がかかる。天候、労力の確保など不確実な要素を含む 期日をあらかじめ準備することは無理があろう。  また、出土瓦の記述年月日が、『行基年譜』の記事と一致することが逆に不審である。  『行基年譜』の神亀四年丁卯四年二月三日に大野寺が起工されたならば、寺院の建築準備が かなり進捗している段階の神亀四年二月三日のかなり以前に、瓦当笵が製作されたことになる。 瓦当笵の作成日に記した日が、寺院の起工日と一致するのは、作為があるとはみなされないか。 B 摩耗度  出土した神亀四年銘瓦そのものの磨耗度が少ないことである。現物写真をみると、蓮華の文様 が鮮明で、文字も明確に読み取れる。図3-1のとおり同じ笵で作られた外周部分のあるものは、 くっきりとそのままの縁を残している。他の出土物とは少し違う傾向が窺える。瓦の専門家でもない まったくの素人が判断するのであるから、軽はずみだとは思うが、以上そのまま感じたことを指摘 する。その他は、項目を立てて、問題提起をしていきたい。 (3)神亀四年銘瓦の信憑性 @神亀四年記名の意味  天平十三年に国分寺建立の詔が出された。聖武天皇が進めた国策であるが、何度も建立推進 の詔が出されているから、なかなか進展しなかったようである。そのような中、七重の塔が全国に 造られる以前の「神亀四年」に、貴重な瓦が多用される大野寺・土塔が一人の僧を中心に、その 支援者・知識により建造されたとする時代背景は考えにくいと思われる。 A高橋健自の論 ア 文字瓦の多くは捏造  大正時代の瓦文字研究者の高橋健自は、「当時時我が国に於ても考古學的研究の機運勃興し、 藤貞幹は安永五年『古瓦譜』を編して之を知人に頒てり。実に『秦漢瓦當文字』に先つこと十一年な りとす。我が考古學史上その名最著れ、學界に貢献するところ少からざりし彼れの編するところなれ ば、この古瓦譜は後の古瓦研究者の必一たび参考するところなりとす。然れども熟々此書を閲する に.古瓦文字の殆ど半は捏造したるものと認むべし。」(註6)と、古瓦文字の多くの場合は捏造であるこ とを指摘している。 イ 瓦文字の類型  瓦が記された文字を分類して、「一つは瓦当文と名づくべく、二は銘文と称すべし。瓦當文とは建築 物の檐先に於ける瓦の葺留の部分即ち巳瓦及び唐草瓦の正面に現れたる文字にして、建築上一の 装飾として或は少なくとも装飾の一部にして外部より見得べからしめたるものなれば、また装飾的文 字といふも可ならむ。銘文とは平瓦及び丸瓦の面、鳥衾の上面、鬼板或は鵄尾の側面の如き、外部 より一見直ちに知ること能はざる部分に現れたる文字にして、もと記念の意義より記されたるものなれ ば、また記念的文字とも称すべし。(註7)」とある。   そして、装飾的文字は装飾の一部にして外部より見えるものであり、記念的文字は外部より見えな い部分に、記念の意義より記されたものとされ、その分類からすれば、神亀四年銘瓦は、その両方の 性格を併せ持つものである。しかし、文字の具体的な内容から、「神亀四年二月」という装飾であるこ とに不審がある。瓦当笵を造る意味は、大量に同一のものを量産するときに用いるものである。年月 をいれた瓦当笵は、その特定年月しか意味をなさない瓦を作ることとなり、長期にわたり瓦が作られる 場合は、特定の年月付きの瓦当笵を用いることは用をなさないものと考える。 A巴瓦の瓦当文  高橋健自の論は、表1の如く、奈良時代には、この「神亀四年」銘軒丸瓦以外の軒丸瓦には記年文 字を記されたものはないのである。  「管見にては巴瓦には東大寺の建長元年の銘あるもの一点あるのみ。他はすべて唐草瓦に属す。 …平安時代 奈良朝及その以前に於ては銘文の豐富なる前述の如しと雖、瓦當文に至りては予の 寡聞なる竟に一例をも知らざるなり。予の見るところにては瓦當文は實に平安時代より起り、鎌倉時 代に至りて全盛を極めたり。」(註8) とあって、昭和の時代に、神亀四年銘瓦が発見されるまでは、奈良時代において瓦当文がなかった と認識されていた。そういう意味では、神亀四年銘瓦は稀有の例であるといえる。 表1 瓦当文の実例
時代種別文字
平安時代前期巴瓦栗、右、□□□大工和仁部□□、
唐草瓦左兵、左寺、大伴、栗
平安時代後期 巴瓦上、大、修、旨
唐草瓦左、九、上、本、修、旨延喜六年造壇越高階茂生、久安三年丁卯三月六日、藤井寺後修理瓦、法楽寺久安五年己巳二月八日始
鎌倉時代巴瓦法隆学問寺、法隆寺、西寺、四天王寺、天台山、御堂、佛、建長元年東大寺三面僧坊、
唐草瓦建仁寺、東寺、東大寺大仏殿仁治二年浄橋寺、仁治壬寅薬師寺、弘安辛巳薬師寺東院、建長二年庚戌四月超昇寺、寛元四年、南無彌陀佛
その他阿字、種子など(梵字)
室町時代以後巴瓦慶安三年、寛元四年
唐草瓦天竜寺、安國寺、八坂塔、寛文十二年三月日、
注) 高橋健自[1915]の分類で、巴瓦は軒丸瓦を指す。 Cその後の知見  森郁夫は、「紀年を記した資料は平安時代のものにもあり、大津市堂の土遺跡(大津市勢田神 領町)から「承和十一年六月」の銘をもつ丸瓦や平瓦が出土している。(註9)」とするから、依然とし て、大野寺の瓦が古いものであり、時代の断絶がある。言い方を変えれば、技法・技術の断絶 がある。 D神亀四年銘瓦の瓦当笵について  森郁夫は、「複弁蓮華文を飾る瓦当面の中房に記されたものなのだが、もともと中房には蓮子 がおかれており、それを削って文字を刻したものと見られている。 …瓦当面の様相、蓮弁の状況や中房が大きく作られていることなどは、ここに記されている年よ りもかなり古い時期に作られた瓦当笵を転用したと考えられる。外区が欠失しているのは、意図 的に削られているのであり、もとの大きさでは神亀年間の瓦割りに合わず、大きすぎるためにそ の部分を削ったのであろう。その後の調査によって接合できる資料が出土し、このことが確実と なった。」とする。(註10)  「神亀年間の瓦割りに合わず、大きすぎるためにその部分を削ったのであろう。」とする、古い 瓦当笵を転用することは、年月が限定されるのに加えて無駄が多く不効率である。  この接合できる資料は、かなり離れた場所から出土されたようだが、大きい瓦当笵の転用及 び外区の意図的な削除は、一定の数を揃えなければならない時、効率が悪い。それが数個の ために造られるならば、まさに作為的に造られたものの可能性がある。神亀四年銘瓦は、神亀 四年以降のいつの時代にも製造できる。例えば、船首王後の墓誌は、死んでから27年後の改 葬時に作られたとされる。(註11) (4)結論として この「神亀四年二月□□□」の文字は、土塔・寺院の起工日とされているが、「瓦当笵製作段 階に記された日付」は、土塔・寺院の起工した日でもなく、瓦が制作された日でもない。それら は、笵を作成した日を基準として、もし、笵作成の当日の日付けでないとするならば、過去か未 来の日を記したことととなるから、未来の日付は考えにくく、むしろ過去の日付と思われる。『行 基年譜』と一致することは、必然的に、『行基年譜』を元にした神亀四年銘を刻んだことになる だろう。鎌倉時代に、行基の事蹟を顕彰するために作られたと考えるならば、「二月□□□」を 「三日起」とするのは、あまりに出来すぎであり、仮に想定するならば「二月大野寺」くらいが適 当かもしれない。  従って、以後の論は、土塔及び大野寺の創建時代を神亀四年とするのは否定して展開する。 2大野寺  行基の生家が家原寺になったといわれるが、同寺所蔵の鎌倉時代作の『行基菩薩行状絵伝』 には、現・土塔町に所在する大野寺の本堂・門とともに土塔など往時の様子が描かれているが (註12)、『行基年譜』には土塔の説明はない。 ・大野寺の歴史 『行基年譜』大野寺 神亀五年丁卯四年二月三日起とある。(下表) 寛政三(1791)年の『土塔山大野寺改帳』には「十三重土塔 大野寺持」とあり、… 天保14年の『泉州大鳥郡寺社覚』土師村牧郷土塔村の中に「土塔山観音院、大野寺」とある。 (註13) 表2 大野寺の史料  
史料年紀内容
和名抄承平7(937)大野郷はみえない。
行基年譜安元元(1175)行年六十歳丁卯、聖武天皇四年神亀五年丁卯 大野寺 在和泉国大鳥郡大野村、二月三日起 尼院 同所今香琳寺歟、同年
行基菩薩縁起図絵詞正和5(1316)御年六十歳神亀四年丁卯大野寺建立す。 地を筑き塔となす。
行基菩薩行状絵伝正和5頃大野寺 御年六十歳神亀四年 十三重御塔在之
和泉国在所古高細見記元禄元(1688)土師村「土塔ト云古跡有行基菩薩開基ニテ、畿内四十九院ノ内、昔土ノ大塔アリ、今ハ其跡、山ノ如クナリ」
和泉志享保21(1736)土師郷の中に土塔がある
土塔山大野寺改帳寛政3(1791)十三重土塔 大野寺持
泉州大鳥郡寺社覚天保14(1843)土師村牧郷土塔村の中に土塔山観音院、大野寺
土師村絵図弘化4(1848)大野寺拾三重土塔、土塔村、大門池
 「江戸時代の一八四八(弘化四年)の「土師村絵図」(第2図)にも大野寺・土塔が描かれて おり、寺院地は野球のホームベースを右側に傾倒させた五角形で、寺院地の南側に東西方 向の、中央西寄りに南北方向の道路が通り、南北道は寺院地内を貫いている。これらの道 路は、区画整理事業が実施される以前の道路に繋がるものであった可能性が高い。また、 描かれている堂舎はいずれも同じ形状で、中央に「大野寺」と記されたものが本堂と考えら れ、東側に「観音堂」と「八幡宮」、西側に道路を挟んで「牛頭天王」と「薬師堂」があり、江 戸時代後期にはまだいくつかの堂舎が存在していたことがわかる。」 (註14) 図2 弘化四年 土師村絵図(略)    図3 土塔周辺地形図[近藤康司2014](略)  「大野寺跡と土塔では、先述のように多くの型式の軒瓦が出土している。これらの中には、 土塔に葺かれたもの、大野寺の堂舎に葺かれたものに分けて考える必要があるが、土塔 から出土した以外のものは、土塔から崩落したものか、堂舎に葺かれていたものか決定し がたい面がある。ただし、先述のとおり、土塔から出土する軒瓦の数量からみて、十三層 すべてに軒瓦が葺かれていたとは考えられず、限られた場所にしか葺かれていなかった と考えざるをえない。しかし、土塔の北・西側では、堂舎の遺構はもとより、奈良時代に遡 るような遺構もみつかっておらず、現在のところ、大野寺は、奈良時代には土塔以外には 建物が存在しなかった可能性が高い。削平されている可能性は残されているものの他遺 構が一定の深度を保っていることから、削平を受けても一定残存している可能性が高く、 完全削平の可能性は低いと考える。この想定が正しいとすると、土塔周辺から出土する奈 良時代の瓦は、すべて土塔に葺かれていたということになる。そして、『絵伝』に本堂や門 をはじめ、各堂舎が描かれていることから、遅くとも鎌倉時代には伽藍の整った寺院になっ ていたようだ。」(註15)  ここでは、軒丸瓦は「土塔から出土する軒瓦の数量からみて、十三層すべてに軒瓦が葺 かれていたとは考えられず、限られた場所にしか葺かれていなかったと考えざるをえない。」 とされているとおり、貴重な瓦を大量に使用したことは考えられないことである。 もともと瓦の笵を用いるのは、大量に同じ型のものを作るときに用いられるものであり、限ら れた場所に用いるために、大事な笵を転用して紀年を入れることは無駄のように思われる。  そして、奈良時代には、土塔以外の瓦葺の大野寺が存在しなかったと結論づけられている ことは重要である。 ・神亀五年記名の瓦  それにもかかわらず、神亀五年記名の瓦が大野寺伽藍地内から見つかる。奈良時代には、 大野寺の遺構は発見されないから、「神亀五年記名の瓦」は土塔のものとされるが、後年大 野寺建立された跡へ移動し、発見されたことは作為的で疑わしい。 ・大野寺   大野院でなくて、なぜ寺なのか  大野寺は、『行基年譜』49院の中で、院でなく、寺を使っている。『行基年譜』が寺を使うの は何らかの意味が隠されているのではないか。大野寺(字)を宛て字としていると考えると、 大野寺は「王の寺」となる。大門池も「王」に関わる池である。 九州大宰府に大野城がある。万葉集2197では、大野山を大城の山とする。大宰府の帥は 親王を当てるとある。(註16)  親王が守る城は王の城である。また、大野寺は嵯峨大覚寺末の寺であるからどこまでも 「大」が付いて回る。 3 土塔  現大野寺(堺市中区土塔町)の南東に土塔がある。  土塔は地元では「どうと」、「塔山」などとよばれ、現在でも南海バス「土塔」の停留所は 車内アナウンスでは「どうと」と発音されている。  「どうと」の意味は「堂塔」を縮約したものではないか。  土塔の南には、現在墓地がある。墓地がいつから存在するのかは不明であるが、土塔 と墓地の存在は全く無関係ではないだろう。  最も関心があることは、行基との関わり、土塔の建造目的と建造時期である。  土塔の概観から眺めていこう。 (1)土塔の概観 ・土塔の位置  江戸時代の「土師村絵図」には、大野寺の東南にある。土塔は北向きに描かれる。 土塔は、大門池が築かれている谷筋の北側の東西方向に延びる丘陵の南端に位置する。 斜面に盛土を行い、その部分に土塔の南西隅がのる。土塔の北側は余地が充分あるにも かかわらず丘陵肩付近に建立したため、谷部分の盛土という余分な作業が生じている。 南側が谷であることから眺望などの意識があったとは想定できず、なぜ南端に建立する必 要があったのか、理由が見当たらない。…(註17)」とするが、大門池は、井上薫が「大門池を 掘ったときの土が土塔を築くのに使われたかもしれない。(註18)」と述べているように、池と土 塔の造成は関連していると見られる。 ・土塔の形  所在する土塔はピラミッドのような方錐形をした土を積み上げた段状の構造物であり、頂 上部には平坦地がある。 ・土塔の規模  土塔の規模は北辺56.4m、西辺54.6m、南辺59m、東辺54m、高さ8mである。 ・土塔の工期  完成までには何年要したかが問題となるが、七二七(神亀四)年に起工し、「神亀五年」 の文字瓦が出土しており少なくとも二年間は工事を行っていたことがわかる。また、731 (天平三)年の建立の山背・法禅院と同笵の瓦を採用していることから、同年まで工事が 行われていたと思われる。しかし、集団の人数の多さと他の建築と異なり土を積んでいく だけという単純さから考えると、さほど年月を要することなく、数年で完成した可能性が高 いと考える。(註19) とされるが、瓦を製作する作業工程を含めて考えると、そう単純ではないであろう。 ・瓦の総量  土塔全体の瓦の使用量は、本瓦枚数60,760枚(58,629枚)、立瓦6,303枚、瓦積基壇 9,704枚、計76,767枚で、一回の焼成で1500枚焼きあがると計算すると約50回の焼成 が行われたとされる。(註20)  池の掘削から土取り、土塔の造成はもとより、粘土や薪などの燃料の調達、窯の建築、 瓦を焼く時間など、相当な時間がかかると思われる。 寺院,宮城などに使われる貴重な建築材料の瓦をふんだんに使う土塔とは何であろうか。 ・土塔の補修工事  「奈良時代以降も補修は行われており、中世瓦を含む瓦敷きが検出されており、中世 に至ると瓦葺きは復元せず、瓦敷きという形で簡略化した場合もあったようである。今述 べたように、奈良時代の後半に最初の大規模な瓦葺きの補修を行った後、幾度かの補 修を行うが、軒瓦の年代観から、最後の補修は一五世紀後半と考える。…そして、土塔 の廃絶は、一六世紀前半を土塔の仏塔としての機能が失われた年代と考える。」(註21)  土塔の補修期の瓦を焼成した2号窯による瓦の製作が行われた時期は行基の死後で ある。知識としての活動は続いていたことになる。(註22)  その間、平安時代以降のものや「慶二年」と延慶2(1309)年または嘉慶2(1387)年の 可能性がある年号を記したものが1点出土している。仮に、当初から行基が関わってい たなら、行基が亡くなっても永く土塔の建造が続けられたこととなる。  以上の考察から、創建をいつにするかは別として、8世紀半頃以降に大規模な補修が あり、その後、16世紀前半まで補修されていたとすれば、年代を偽装した創建瓦を混入 することは可能であろう。また、行基の死後も長期間に亘り補修が繰り返されたことや、 他方、鎌倉時代まで瓦の寄進が続けられていることが理解できる。 (2)十三重の塔  『行基年譜』には、土塔が出てこないが、後年の『行基菩薩行状絵伝』には、「大野寺  御年六十歳神亀四年 十三重御塔在之。」とある。  『行基菩薩縁起図絵詞』には、七層しか見えず、十三重は伝承と思われていた(註23)が、 「1947(昭和22)年に森氏を中心とした平板測量が行われ、1952(昭和27)年には藤澤氏 を中心として調査が実施された [藤澤1962]。この時、土塔の北東隅は大きく削平を受け、 内部構造が露呈していた。この時の写真が『大阪府の文化財』に掲載されており[大阪府 1970]、これをみると、断面に複数の柱状の列があり、これが後述する盛土の際に粘土塊 を積上げた痕跡である。藤澤氏によると、この痕跡が十三本あったので、土塔は十三重で あることが確認できたという。この事実をもって、はじめて考古学的に土塔が十三重と 確 認されたのである。(註24)  十三重の意味は、多くの数が重なって、富を象徴する。初めて、十三重の塔が作られた のは、藤原鎌足の墓を長男の定恵が唐から持ち帰った十三重の塔を多武峰に移した伝承 から見られる。多武峰とはトウノミネの名の如く、十三(トミ=富)の象徴でもあるオオの墓所 (武=ムソ)である塔を見よ、と言うような意味を持たせたものではないかと考える。  そして、大野寺の十三重の土塔は、塔見(十三とうみ)とともに四十九をも掛けているので はないか。四と九の和は十三だからである。 (3)創建の時期 @高橋健自の論  「この遺跡の創設時代に關しては前に列挙したる人名中特に徴證とすべきもの四あり。 その一は『岡田臣姪』是れなり。岡田臣は延暦十年佐婆部首牛養等に賜ふところにして、 この以前史上所見なければ、この瓦は延暦十年以後のものならざるべからず。その二は 『淡海麻里』是れなり。國史に淡海氏は天平勝寶三年御船王に淡海真人の姓を賜はりし を初見とす。(註25)  故にこは天平勝寶三年以後ならざるべからず。その三は『百濟君刀身古』是れなり。 天平寶字三年諸姓君字を著くるもの公字に改むべき勅あるより推せば『百濟君』とある以 上は天平寶字三年以前のものたらざるべからず。その四は『大友寸主』是れなり。延暦六 年大友村主廣道等志賀忌寸となりしこと史に見ゆ。さればこの氏族にして當時志賀忌寸の 姓を賜はらず、依然として大友村主を称せしものあらざる限りは、こは延暦六年以前に属せ ざるべからず。これら四件中其の一と其の二以下とは到底矛盾を免れず。今其の二以下に 拠りて断ぜば、天平勝寳三年以後天平寶字三年以前といはざるべからず、果して然らば延 暦十年以前岡田臣の國史に所見なきはこの姓の絶對的存在を立證すべきものにあらずし て、『岡田臣蛭』の銘は寧ろその人の佐婆部牛養等以前に存在せし反證と認むることを得 べし。余は如此解釈して暫くこの遺跡の時代を定めむと欲す。なほ同所發掘の巴及び唐草 瓦當を見るも延暦以後のものと見えざるなり。また以て傍證とするに足らむ。」(註26)とする。  巴瓦及び唐草瓦当は延暦以後のものと見えないと考えられたが、八世紀後半以降、大規 模な補修が行われており、鎌倉時代までの瓦が出土したことは先に述べたとおりである。  また、「四件中其の一と其の二以下とは矛盾し、今其の二以下に拠りて断ぜば、天平勝寳 三年以後天平寶字三年以前といはざるべからず、…」と結論されているが、論理的に考える ならば、矛盾するのは、時間の近接でなく時間の向きであるから、其の三と其れ以外である。  其の三の「君」は、本人が記したのであれば、天平寶字三年以前とするのは妥当であるが、 別人が記したすると、天平寶字三年以前に亡くなった『百濟君』を追善供養する場合、延暦 以後でも『百濟君』としただろう。また、「公」とすべきところを「君」としたかも知れない。正倉 院文書に見られるように、当時は、文字の使用について、播磨麻呂を針間麻呂と書いたり、 安子児公を安子子君と書いたように、氏名の文字だけで時代を決定づけるのは難しいとこ ろがあると思われる。(註27) A氏族名の姓の表記  近藤康司は、「次に、記述内容からみた人名瓦の年代については、かつて森浩一氏[森浩 1957]や東野治之氏[東野1983]が、氏族名の姓の表記法を検討し、年代が考察されている。 その要旨は、以下の三点である。 @天平勝宝九(757)歳に「史」と「首」が「毘登」に A天平宝字三(759)年に「君」が「公」に、「伊美吉」が「忌寸」に B宝亀元(770)年に「毘登」が「史」と「首」に戻される  この史実を用い、森氏は、「忌寸」の表記の瓦の存在から、八世紀後半にまでくだるものがあ り、土塔の完成も長期に渡ったと考察された。  しかし、東野氏は、同じく人名瓦を出土する広島県福山市所在の宮の前廃寺の資料を用い、 @Aは、それ以前に両者の表記が用いられていたものを統一するように命じたもので瓦の年 代としては、B以前の年代を付与された。これを土塔の姓の表記のある資料にあてはめると、 「毘登」は出土していないが、「公」は「秦公色夫智」「□公富尓古」があり、「忌寸」は「秦忌吉 刀自」、「林忌寸□」「□忌寸稲付」「□忌寸虫田気」がある。これらのうち、「秦公色夫智」は 丸瓦T-1類、「□公富尓古」「林忌寸□」は平瓦T-1−B類、「忌寸稲付」は平瓦W-1E類、 「□忌寸虫田気」は不明である。丸瓦T-1類・平瓦T-1−B類は、 いずれも土塔創建期に 製作された文字瓦である。つまり、天平勝宝九(757) 歳、天平宝字三(759) 年以前のもので あり、東野説を考古学的に首肯することができたといえる。(註28)」とされるが、どうであろう。  ここで、「公」、「忌寸」は、瓦の類型から創建期瓦とされることを考えなければならない。  重なる部分があるが、東野説は、  「次に問題となるのは、これらの瓦の年代である。文字瓦の人名が堂塔の造営に助勢した 人々とすれば、その年代は寺観の整備過程と密接に関係してくる。そこで文字瓦にあらわれ た姓氏の表記から、その年代を推定してみることと考察の手がかりとなるのは、姓氏の表記 の中に「史」姓のもの(B)、「君」姓のもの(C〜E、J)が含まれている事実である。この史 君姓については、従来から次のような改姓令の存在が注意され、墓誌・文字瓦の年代を推 定する重要な手がかりとされてきた。  @天平勝宝九歳(757)五月二十六日、首・史姓を毘登と改む(『類聚三代格』巻17『続紀』  宝亀元年九月壬戊条)。  A 天平宝字三年(759)十月辛丑、君姓を公姓に、伊美吉姓を忌寸姓に改む(『続紀』同  曰条)・  これはカバネを表記する場合、首は聖武天皇の諱に、史は藤原不比等の諱に、伊美吉の 美は恵美押勝の姓にそれぞれふれるため、また君は天皇を指す語でもあるため改めようと したと解されている。ただAの趣旨を解釈する場合、これ以前キミは君、イミキは伊美吉と 表記されていたのが、この制によって公・忌寸に改められたとする解釈があるのは正しくな かろう。これより先に君と公、伊美吉と忌寸の併用があっても何ら差し支えなく、現に公姓・ 忌寸姓の実例もこれ以前に見出される(例えば、『日本書紀』天武元年十二月条の「猪名 公高見」、正倉院丹裹古文文書95号の「山代忌寸国依」など)。この制によって公・忌寸へ の表記の統一が計られたとみるべきである。(註29)」とする。  しかし、「伊美吉」と「忌寸」の混在は、年代の判断が「伊美吉」が天平宝字三年以前とす ることは妥当としても、全ての表記が法令どおりに実行されたわけでなく、「山口伊美吉西 成」が『三代実録』貞観六年正月十七日条に見えるように例外が存在する。  「忌寸」の表記だけでは、天平宝字三年の前後の判断はできないということである。  次に、東野治之は、君・公の混在の実例として『日本書紀』天武元年十二月条の「猪名 公高見」を挙げるが、「猪名公」の「公」は姓でなくて、王族の尊称として用いたものと考え る。(註30)  そうすると、「公」姓が使用された「秦公色夫智」の丸瓦T-1類、「□公富尓古」「林忌寸 □」銘の平瓦T-1−B類とする創建瓦は、天平宝字三年(759)十月以後と考えるべきで はないか。  井上薫は、「高志史□」について、「天平神護二年(766)に連を賜わった高志毘登ら五十 三人が一族の全てでない場合、高志史□の生存年代は宝亀元年(770)以後であり、それ まで土塔の建造が続けられていたこととなる。(註31)」とするのは肯首できる。 4 文字瓦  文字瓦の多数を占めるのが、人名などの文字を箆書きで記したものである。 (1)人名瓦の分類 ○同名同筆  同名同筆として分類された人名は,泰順(3点)・蓮光(15点)・聖□(2点)・村廣方(2点)・友 足(2点)である。  近藤康司は、「 @「蓮光」という僧侶に比定できる名前がある。この名が記された瓦は 一五点出土しており、土塔の文字瓦の人名の中で最多数出土している。そして、その全 てが同筆である。また、「泰順」は三点出土しており、同筆である。 A一枚の瓦に複数の名を記したものが出土している。創建期の丸瓦1-1類の凸面に「聖 林」、凹面に「行満」と記すもの、補修期の平瓦W-1-E類の凹面に記されたもので、「凡 海連□/□波連□」と二名の別名を記すものがある。しかも、これらの名は筆跡も異なる。 また、後者の例は筆記具も異なっており、「凡海連□」は先の尖った工具で、「□波連□」 は先のやや平たい工具で筆記する。 これらの例からみると、記名は基本的には各自で 行ったと考える。(註32)」とされ、同筆の瓦は、7名分とされるが、その中には下表のとおり異 筆が含まれると考える。 表3 同筆とされるが、異筆と思われるもの
文字同筆の史料番号異筆の史料番号備考
泰順17〜1919川が広く短い
蓮光35〜4837.3837光の左足の丸み 38光の小
聖□53.54聖の耳の形、□の右上の部分が違う
友足289.290.518 友・足が違う
村廣242.243廣が違う
 西崎 亨は、具体的に同名同筆と分類されたものの中に異筆が含まれているものとして、4点 (泰順、蓮光、村廣、友足)を指摘している。(註33) ○別名同筆の例 @「矢田ア連龍麻呂」という人名がある。この人名は、八点出土している。また、「矢田部ァ田々 ?古」という人名がある。こちらは、四点出土している。これらの両名の筆跡をみると同筆である。 つまり、二名の人名を同一人物が記名した可能性が高く、全ての人名を本人が記したということ ではないという例である。 A別名で同筆の他の例として「秦人得□/秦人麻□」があり、一枚の瓦に二名の名が記されて いる。この例も「矢田ア」と同じく「秦」であり、別名でも同筆の人名瓦は、氏が同じものに限られ ており、極近い関係の人物間でのみ行われたものということができる。(註34) ○同名異筆の例  同名別筆として分類された人名は,賢実(2点)・長賢(2点)・連小(2点)・連善(2点)・東人(3点)・ 信(2点)・足嶋(2点)・徳足(2点)・刀自古(3点)・億足(2点)・廣忍(4点)である  「さらに、人名の中には、同名であるが、異筆の例がある。例えば、「刀自古」や「刀自女」と いった一般的名前を別にすれば、「連善」、「賢實」といった僧名がその例である。 「連善」、「賢實」は各二点出土しているが、別筆のようだ。基本的に、これらの人物が同一人 物であったかどうかという根本的な問題もあるが、同名でも必ずしも同一人物が記名したとい うことでもないようである。(註35)」とする。  さらに、史料の中から、同名と思われるものの異筆を指摘できるものがある。 表4 同名異筆と思われるもの
文字史料番号備考
神蔵33.34
大田君若157.164同名かは不明であるが、別筆
連小49.50蓮光と同名か。連小は珍しい名であるから蓮光の上下略の可能性がある。
○同名異筆の問題点  同名異筆を取り上げるのは、記名は基本的には各自本人が行うものとされたが、同名の者が 数名いて各自が記名する場合を除くと、蓮光(14点)・廣忍(4点)・泰順(3点)など「同名でも必ずし も同一人物が記名したのではないこと」が明らかな場合は、知識本人が自分の名を書いたので はないことを意味するだろう。 (2)箆書きは何のためになされたか  最も妥当性が高いと思われるのは、行基のもとに協力した知識の人々の名という解釈である。 (註36) つまり、瓦の寄進行為とするのであるが、同名異筆がある場合には該当する説明にはなり 得ないだろう。 ・知識  「×遣諸同知職尓入× 八月u日」 この史料は、大野寺土塔が知識によって造営されたことを 端的に示すものである。(註37) しかし、寄進行為のために、自分の名を残すのは、墨書で足りる。わざわざ、瓦の製造現場へ 出向き、名前を刻む手間を惜しまないのは、知識本人より、もっと大切な人の供養のために、つ まり物故者の名前を残す場合が考えられるだろう。 ○追善供養  「(16)[]・(17)[]のように「某の為め」と記するのをみると、本人自身の他、物故した近親者の 供養のため入れられた銘もあったであろう。(註38)」と、追善供養を示す「?連若子為」といったも のなどが10点ある。 表5 追善供養の文字(文字瓦聚成1070〜1079)
                            [真カ]          [母カ] 「為丹比□・]連若子為」・]為父」・]勝為」・祖父□・為従□・祖代・為□・□江自父    [父カ] 母為・□母作□
 一人が同筆で別名を記名した場合、「為」と追善を願う記名があることを考えると、記名は 基本的には知識たる各自本人が行っただけでなく、追善冥福の対象である故人の名前を 記したものが含まれると考えればよいだろう。 5土塔の目的  近藤康司の著書を引用して、土塔の性格・意味を考える。 (1)古墳か仏塔か ・墳墓説  土塔は、かって古墳や墓と考えられていた時代があり、森浩一氏への聞き取り調査で、地元 では、「朝鮮半島の人の墓」と言われていた時期があったとのことで、梅原未治氏論文[梅原 1915]や森氏自身も方墳と考えられていた時期がある[森浩1949]。ただし、古墳の可能性が 考えられつつも瓦が採集されることから、梅原氏のように頂上に堂を建てたという説や末永氏、 森氏のように墳丘上に瓦を葺いたとする説が出された。また、遡っては、大正時代には、高橋 健自氏は論文中で「未解決の珍遺跡」と表現するなど[高橋健自1915]、古墳状の盛土から 瓦が出土するという異例な遺跡の評価が当時としてはまだ定まっていなかったことがわかる。 (註39) ・仏塔説   仏塔は、仏教寺院の塔、仏舎利の奉安を本来の目的とする建造物、蘇我馬子が建てた大野 岡の北の塔が最初見、妙楽寺は、鎌足の墓の上に十三重塔を建てた。(註40)  戦後に入ると土塔の測量調査が1947(昭和22)年に森浩一氏らによって行われ、その成果は 末永雅雄氏の論考中に図面が掲載されている[末永1950]。また、森氏は、その後の論考中に おいて土で造られた塔であるとの考えを公表されている[森浩1957]。このように、土塔に対す る評価が錯綜していた時期にあって、井上薫氏は仏塔であるとの説を提示されており、当時と しては卓見であったといえる[井上薫1959a・1959b]。主に『絵伝』に描かれた土塔から推定さ れており、「土を盛り上げて造った主体の表面を瓦葺きにした宝形造りで、頂上に塔の意義を 示す宝珠が乗せられ、四隅の下り棟だけに行基葺きの丸瓦を伏せ、下り棟以外の部分に平 瓦を並べ、九重ないし十三重の意味を表すように、横線の区画がつけられていて、屋根の軒 先は大地に接していた、と考えられるのである。」と、かつての古墳説を一蹴し、仏塔である ことを主張されている。(註41)  土塔は、古墳か仏塔かの二分式では、仏塔説が優位である。埴輪が出土しないから古墳で ないとしても、釈迦の舎利を納めた仏塔でもないであろう。  古墳か仏塔かの二分式ではない見方はできないであろうか。、地元では、「朝鮮半島の人の 墓」(註42)と伝承されてきたように、墓としての要素はないのだろうか。墓地中の大型五輪塔のよ うな惣墓,供養塔としての役割を考えれられないか。土塔の東側には、墓地が現存している。 (2)土塔の起源  この土塔はどこから発想されたか。 ○類似の塔  斉藤忠によると、類似の塔には、奈良市に在する頭塔(五百立山頭塔)、及び岡山県赤磐郡 熊山町の一種の石築遺構の3か所が挙げられている。それ以外では、奈良市に秋篠寺のド ヨー塚や現在は存在しないが、かって四天王寺に土塔があった記録がある。(註43)  また、日本の古墳の中では円墳に次いで多い形状が方形構造の古墳に、塚穴古墳(羽曳 野市)(註44)、都塚古墳(明日香村)がある。 表6 類似の塔・古墳
名称・所在築成・形状施設関係寺院
宝塔山古墳(前橋市)土築・方錐二段築成横穴式石室、石棺山王廃寺(放光寺)
龍角寺岩屋古墳(千葉県稲旛郡栄町)土築・方錐三段築成横穴式石室龍角寺
駄ノ塚古墳(千葉県山武市)土築・方錐三段築成横穴式石室
頭塔(奈良市)土築・方錐階段式龕(?)、仏像東大寺・新薬師寺
土塔(堺市)土築・方錐(階段式)瓦葺大野寺
熊山石築遺構(岡山県)石築・方形階段式龕、仏像(?)、上頂部竪穴状石室霊山寺(熊山寺)
ドヨー塚(奈良市)土築・方錐秋篠寺
土塔(大阪市)土築四天王寺
土塔(奈良市東九条)土壇状の地形古瓦片が残存穂積寺[今昔物語集] 穴積寺[今昔物語集]
土塔(八尾市)大野寺土塔様仏像が刻まれる常光寺
塚穴古墳(羽曳野市)方錐(階段式) 土嚢の使用
都塚古墳(明日香村)土築石積み(階段式)
注)斉藤忠[1972]の上記3か所に追加した。    盛土を行い、その上面に瓦を葺くという建造物は、土塔と頭塔の国内では二例のみである。 つまり、国内では木造塔が主流で、普遍化しなかった構造の塔ということになる。  段塔という点からみると、岡山県の熊山遺跡(熊山神社境内1号)があるが、盛土を行わず、 石を積上げた塔という点で異なる。アジア各国をみても、段塔は東南アジア・朝鮮半島・中国 にみられる。このうち、やはり大きなポイントとなるのが瓦葺きで、中国の?塔の影響を受け た可能性が高いとされる[奈文研2001]。段塔に瓦を葺くものは、朝鮮・統一新羅時代の塔 にあり、現存する唐代の?塔には瓦葺きのものはないが、存在した可能性は十分推定でき るとされる。また、時期は大きく遡り中国漢代の時期のものであるが、邯鄲故城の王城に盛 土した段塔の平坦面部分に本瓦葺きを行う建造物がある[河北省文物管理所1984]。この 遺跡は、知見の中で構造的には土塔に最も類似する遺構である。  古くは、斉藤忠が、「わが国の頭塔・土塔・熊山仏塔としての形式が、ポロブドールの遺構に 見られ、また、東南アジアの他の国々にも近似のものが考えられるとすると、むしろその系統 は、インドから中央アジア・西域を通じ、中国から朝鮮半島を経由した、いわば大陸・半島をへ た東アジア・東北アジア系統のものと異なって、別に南海を通じた東南アジアの系統のもので あることも考えられるのである。(註45)」としたが、八世紀中頃前後に造立のポロブドールの遺構 は規模・時代的にあわず、方錐形の土盛り、瓦葺き構造と仏塔の様式を一まとめにして土塔の 起源を見いだすのは困難である。  東大寺実忠が関与したとされる頭塔との比較では、神亀四年銘の瓦が出土した土塔が先行 すると考えられているが、果たしてどうだろうか。また、その場合は、土塔の起源となる発想は どこからもたらされたのであろうか。  方錐形の意匠は、古くはエジプトのピラミッドが先駆としてあり、また外見的には方錐形の土 盛りは規模が異なるが、むしろ中国秦始皇帝陵及び前漢皇帝陵と似るのである。(註46)  最近、奈良県明日香村で発見された階段ピラミッド状の「都塚古墳」(註47)は、石詰めで補強し、 土で舗装した構造であり、その石を瓦に置き換えると土塔になる。  エジプトのピラミッドは別としても、秦始皇帝廟及び漢皇帝墓の影響を受けた日本の方錐形 古墳が土塔の起源であったとも考えられるかもしれない。 図4 「ピラミッド」奈良・都塚古墳(H27.3.2産経新聞朝刊)/都塚古墳のイメージ(略) (3)土塔の目的 表7 土塔の目的
論者史料目的
地元伝承行基と知識集団の考古学 「朝鮮半島の人の墓」
森 浩一日本の深層文化日本列島には稀な信仰の対象物(仏塔)
近藤康司史跡土塔−文字瓦聚成−行基集団としてのシンボル・仏塔という礼拝施設
網干善教史跡土塔−文字瓦聚成−仏教信仰の真髄である塔
行基事典317頁土木事業の労働限物資調達所のシンボル
吉川真司史跡土塔整備完成記念講演記録集 歴代天皇の安穏を願う
筆者行基に連なる者及び知識の縁者(故人)の供養塔
@八角堂の意味  土塔頂上には狭小な平坦地がある。  「十三層は、『絵伝』には宝珠と露盤が描かれているが、粘土塊列が直径六mの円形に廻ること から考えて、建立時に宝珠と露盤が乗っていたことは考えにくい。…塔の上層付近で本瓦葺きの サイズより小形の軒瓦が出土することや、炭化木、凝灰岩片が出土することから、その上に木造 の小堂を想定する。この小堂の形状は、方形の塔身の上にさらに方形の堂は考えにくく、多角形、 奈良時代の建物にもみられる八角形と考えた。(註48)」  類似する「頭塔では塔頂で直径四六pの心柱痕跡と、遺構面から2.12m下に心礎が検出されて おり、心柱を持つ八角形の小仏堂が想定されている例から、これらに類似する形状の小塔を想定 することも可能であろう。(註49)」として、八角堂の存在を想定する。 夢殿について、「八角円堂は本来故人を追善するための堂宇…(註50)」とあり、同様に考えるならば、 土塔上に建つ八角の堂宇は故人を供養したといえる。 A願文を記した須恵器の出土  当資料の底部径は、37.2cm厚さは1.3cmである。底部下端は二条の凸帯が廻る。文字は、 @「□□/瀧洞天/□□」A「□□/添嚴清/七?咸登萬/天皇尊霊□/□」B「□歩而/□」 C「/□製儀/曦相映採々/□?天中龍/□」であり、Cが底部の破片である。また、現存しな いが、かつて前田長三郎氏が、「彼岸の道に遊ぶ」と記された、これと類似した資料を所蔵してい たということを、森浩一氏が記憶されている[堺市教委2004]。文字は、人名瓦の字とやや異なり 細い線で非常に優美な字で書かれており、書いた人物は、瓦に記名した集団とは隔絶した高貴 な人物である印象をうける。 文意は全体が把握できないが、願文と考えられている[東野2004]。  内容は、「洞天」や「天皇」は、道教的な表現とみることもでき、道教の思想に精通していた人物 の可能性もある。一方、「天皇」といった用語から、前の字の残画を「先帝」と読み、「先帝天皇」つ まり歴代天皇の安穏を願ったものであるという想定もなされている[吉川2010]。また、「寺門玄奘 上表記」中に「七□(雁垂に昔)咸登萬」の節が含まれるとし、玄奘の上表文の意と同様に、国家や 天皇への作善を祈願したものとする考えもある[溝口2013]。  このような点から考えると、人名瓦とは一線を画した内容、字体であり、瓦に人名を記した人物 とは異なり、天皇家と直結するような貴族クラスのかなり高貴な人物像が想定できる。さらに踏み 込んで、「七廟」の文字から、『論語』や『孝経』などの最新の流布本に日々接しているような立場 の人物も想定されている[新川2004]。  ただし、この資料は土塔に献納されていることから、行基とは繋がりをもち、かつ行基の知識集 団の一員であったことは想定しておいてもよいであろう。逆にいえば、行基の知識集団には、 行 基と通常活動をともにする者とは一線を画した人物も含まれており、国家の中枢にいた人物も行 基に帰依していた可能性が高いということがいえる。 (註51) B建造時期と行基の関与  小堂の瓦は、長岡京時代のものと考えられている。  塔の上層付近で発見された凝灰岩片は、火葬した骨臓器が存在したことを示唆するのではない か。そして、出土した炭化木2点について、C14測定法の推定年代は、740年と779年の測定値が 出ているので、創建年代より、やや遅れる結果となっている。(註52)  八角形の小仏堂が土塔とは遅れて造られたことは、それまで土塔が完成しなかったことを意味 しないだろうか。土塔は構造的に、数年で完成したとされる見方があるが、土塔及び小堂の完成 までに相当の時間がかかり、たびたびの土塔の補修が続けられ、永年に亘り建造が続けられた とする見方が妥当であろう。  そして、八角円堂が完成した時期から考えて、土塔の建造に行基は関与せず、土塔の目的は、 民衆の指導者行基の供養とともに寄進者の縁者(故人)の追善供養も願ったものではないか。  『行基年譜』は、行基の功績をのせるが、行基の供養塔は行基の功績ではないから、大野寺に は、土塔は記さないが、行基の舎利瓶記が発見後は『絵伝』に「大野寺 御年六十歳神亀四年  十三重土塔在之」と行基が造ったようにされている。『絵詞』には、「十三重御塔」とある。「御年 六十歳」「行基菩薩御廟」があるように、行基の尊称に「御」がつくから、「十三重御塔」は行基 菩薩を追善供養するために造られたと考えられる。  一方、和泉国大鳥郡葦田里(今塩穴郷)の清浄土院の十三重の塔が大野寺に先立つものであ るが、『行基年譜』だけに記される清浄土院及び十三重の塔の実在性は不明であるから、これも 意図して、土塔を清浄土院のところに十三重の塔として記したものかもしれない。行基が亡くなっ て浄土に向かうことを意味するからである。 C行基と大野寺・土塔の関係  大野寺と土塔のどちらも行基が作ったものか。大野寺は『行基年譜』に記されるが、土塔は見 えないので、行基が関与したかどうかについては識者の意見が分かれる。  大野寺・土塔から出土した「公」姓が使用された「秦公色夫智」の丸瓦T-1類、「□公富尓古」 「林忌寸□」銘の平瓦T-1−B類とする創建瓦は、天平宝字三年(759)十月以後と考え、その 後も継続して土塔の建造が続けられていたから、土塔は行基の死後に造られたものと考える。  土塔の建造目的は、民衆の指導者行基に関係する者の供養のためと憶測するが、併せて寄 進者縁者の故人の追善供養も願ったものと考える。 結びに  常識で考えてありえないことを奇跡とする旧石器の発見に「神の手」と表現したことは専門 分野に立ち入って判断できない報道機関にあって、事実のみを報道することは正統であろう。  しかし、数十キロ離れた場所から見つかった石片が接合するのは、「ありえない」と疑問を 呈する論評が必要だろう。  「神亀四年丁卯年二月三日起」と復元されている。これは、時代観から判断して、余りにも、 突飛な紀年が入る文字瓦の出現である。紀年が入る文字瓦の技術の伝播がその後の行基 49院をはじめ奈良時代において見られないという技術の断絶があるのも不審である。  同様な文字瓦は鎌倉時代に至らないと出現しないだけでなく、その文字は『行基年譜』大 野寺の建立時期と一致しすぎて不自然である。『行基年譜』と一致することは、必然的に、 『行基年譜』を元にした神亀四年銘を刻んだことになり、鎌倉時代に、行基の事蹟を再顕彰 するために作られたと考える。石碑等を後世に建立する事例は、多賀城や壺碑に見られる。 (註53)  神亀五年記名の瓦が大野寺跡から見つかる。奈良時代には、大野寺の遺構は発見され ないから、「神亀五年記名の瓦」は土塔のものとされるが、後年大野寺建立された跡へ移 動し、発見されたことは、「神亀四年瓦」と同様に作為的で疑わしい。  君・公・伊美吉・忌寸の混在について、東野治之は、両様の表記があるのは、統一される までは併用があつたとするが、「百済君」は、本人が刻んだという自筆の証明がなければ 必ずしも天平宝字三年以前とは判断できず、氏名の文字だけで時代を決定づけるのは難 しいところがあろう。  「伊美吉」と「忌寸」の混在は、年代の判断が「伊美吉」が天平宝字三年以後も使われる 例があり、天平宝字三年以前に両者が併用されていたことをもって、文字瓦の「忌寸」の 全てが天平宝字三年以前であるとする考え方は当たらないだろう。  天平宝字三年に「君」が「公」に改められるから、「公」姓が使用された「秦公色夫智」の 丸瓦T-1類、「□公富尓古」「林忌寸□」銘の平瓦T-1−B類とする創建瓦は、天平宝 字三年(759)十月以後と考えられ、その後も継続して土塔の建造が続けられていたから、 土塔は行基の死後に築造されて以後、何度も補修が繰り返されたものと考える。  土塔の目的と文字瓦の存在を考えたとき、最も妥当性が高いのは、行基のもとに協力 した知識が寄進のため、自分で書いた場合もあるだろうが、同名異筆や異名同筆がある ことや「某の為め」と物故した縁者の供養のため入れられた銘が含まれるから、土塔の建 造目的は、行基に関わる人物の供養であり、併せて寄進者の縁者故人の追善供養も願っ たものと考える。  そして、土塔から願文を記した須恵器の出土したことは、天皇や貴族に関する追善供養 の願いがこの土塔に込められたのではないだろうか。  まさに、行基を含めた広範な人々が亡くなった故人のために築造した供養塔の性格を見 ることができると考える。 註 (1) 森郁夫『ものと人間の文化史 瓦』法政大学出版会、2001年、205頁。 (2) 近藤康司『行基と知識集団の考古学』清文堂出版、2014年、114-115頁。 (3) 同上114-115頁。 (4) 同上152-153頁 (5) 古尾谷知浩『文献資料・物質資料と古代史研究』塙書房、220頁。 (6) 高橋健自「古瓦に現れたる文字」『考古学雑誌』第五巻第十二号、1915年、816頁。 (7) 同上17-818頁。 (8) 同上822頁、848頁。 (9) 森郁夫註(1)、207頁。 (10) 同上、205頁。 (11) 斉藤忠『墳墓』近藤出版社、1978年、71頁。 『特別展 発掘された古代の在銘遺宝』奈良国立博物館、1989年、78頁。 (12) 井上薫「和泉大野寺土塔原形考」『魚澄先生古稀記念国文学論叢』昭和34年、82-84頁。 (13)  註(2)前掲書87頁。 (14) 斉藤忠『日本古代遺跡の研究』論考編、吉川弘文館、1976年、144頁。 (15) 註 (2)前掲書113-114頁。 (16) 官位令第一で、太宰帥は、大納言、八省卿と共に、親王四品を官位相当とする。(令義解第一)   『新訂増補 国史大系令義解』吉川弘文館、1985年、5頁。 (17)  註 (2)前掲書91-92頁。 (18) 井上薫『行基』吉川弘文館、1959年、195頁。 (19) 註 (2)前掲書112-113頁。 (20)  同上89-90頁。 (21) 同上112-113頁。 (22) 同上171頁。 (23) 同上95-96頁。 (24) 同上95-96頁。 (25) 天平七年に淡海石足が見える。大日本古文書第七巻。天智天皇の時代に淡海大津宮があった   ので、「淡海氏」はその時代からあったのではないか。 (26) 高橋健自註(6)、846-847頁。 (27) 『大日本古文書』から探すと、安子児公[安子子君]、山マ播磨麻呂[山部針間麻呂]の他にも、   上馬養[上馬甘]、古頼小僧[古来小僧・古頼少僧]、山部花[山部花麻呂]、倭御勝[倭三勝・養徳   御勝]など様々に表記されている。『続日本紀』にも地名を出羽国雄勝[男勝・小勝]村と自由に書   いている。 (28) 註 (2)前掲書152-153頁 (29) 東野治之「備後宮の前廃寺出土の文字瓦」『日本古代木簡の研究』塙書房、1983年、368-371頁。 (30) 猪名真人大村の父「威奈鏡公」と同一人であれば、『日本書紀』の中の「猪名公高見」に該当する   ともいわれるから、姓は「真人」である。(『特別展 発掘された古代の在銘遺宝』奈良国立博物館、   1989年、43頁。) (31) 註 (18)井上薫、179頁。 (32) 註 (2)前掲書143-144頁。 (33) 西崎 亨「土塔出土の文字瓦に見る文字生活 一知識集団と文字習熟一」『武庫川女子大紀要   (人文・社会科学)』52号、2004年 (34) 註 (2)前掲書143-144頁。 (35) 同上143-144頁。 (36) 東野治之註(29)、118頁。 (37) 古尾谷知浩註(5)、220頁。 (38) 『大阪府史』第2巻、1990年、736頁。 (39) 註 (2)前掲書86-89頁。 (40) 『国史大辞典』10巻、187頁。 (41) 註 (2)前掲書86-89頁。 (42) 同上88頁。 (43) 秋里籬島『住吉名所図会』臨川書店、1998年、「土塔会、土塔塚、土塔社」 (44) 註 (2)前掲書80頁。 (45) 斉藤忠「わが国における頭塔・土塔等の遺跡の源流」『大正大学研究紀要』第57号、1972年、161頁。 (46) 土生田純之『事典 墓の考古学』吉川弘文館、2013年、348頁。 (47) 平成27年3月2日産経新聞朝刊 (48) 註 (2)前掲書94-95頁。 (49) 同上104頁。 (50) 大岡実『奈良の寺』平凡社、1965年、166頁。 (51) 註 (2)前掲書155-157頁 (52) 同上103頁。 (53) 斉藤忠『日本古代遺跡の研究』文献編下、吉川弘文館、1971年、144頁。 参考文献 東野治之「備後宮の前廃寺出土の文字瓦」『日本古代木簡の研究』塙書房、1983年。 近藤康司『行基と知識集団の考古学』清水堂出版、2014年。 近藤康司「畿内における民衆と仏教」『在地社会と仏教』奈良文化財研究所、2006年。 堺市立埋蔵文化財センター「神亀四年最古の紀年銘軒丸瓦出土-大野寺」『堺市立埋蔵文化財センター   調査報告書』1999年。 堺市教育委員会『史跡 土塔−文字瓦聚成−』2004年刊  堺市教育委員会『シンポジウム土塔-甦る古代のモニュメント』2000年。 吉川真司『天皇の歴史02巻聖武天皇と仏都平城京』講談社、2011年、163-165頁。
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]

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