橘夫人考
はじめに 橘夫人と呼ばれた者に、県犬養宿禰橘三千代と聖武天皇夫人の橘古那可智と二人がいる。 橘大夫人というのは、光明皇后の母にあたる橘三千代のことである。 そして、東大寺や法隆寺などに橘夫人に係るものが伝承されているが、そのうち、三つの品物 を取り上げて、さて、どちらの橘夫人に関係するものかについて考察を加える。 表1 三つの橘夫人1 橘夫人の称号 橘三千代は、正式には、宝字四年(760)八月七日に「大夫人」とされるが、光明皇后は、大宝積 経跋語や五月一日経奥書に見えるようにそれ以前の天平十二年頃から、橘三千代に対し「太夫人」 を使用していた。 橘三千代は、天平五年(741)正月十一日に薨去する。他方、古那可智は、天平宝字三年(759)七月 五日に薨去。古那可智は、橘三千代の孫である。 表2 橘夫人
項目 橘夫人に係る品物 備考 伝橘夫人 橘夫人厨子・橘夫人念持仏 法隆寺 橘夫人奉 東大寺献物牌(琥珀数珠十三号) 東大寺献物牌 大夫人 観无量寿堂香函箱中禅誦経 石山寺如意輪陀羅尼経抜語 注)『大日本古文書』天平14年、同18年に「正三位橘夫人宅」が見える。勝宝元年は従二位である。 贈位橘氏大夫人の称号の変遷 万葉集には県犬養命婦とある。天平勝宝3年1月頃、久米広縄が伝読した「太政大臣藤原家之 縣犬養命婦、天皇に奉る歌」(19-4235) 天平十三年二月十四日(『続日本紀』では三月二十四日)の国分寺建立詔に、「従一位 橘氏大夫人」との号が見え (『類聚三代格』巻三、国分寺事)、光明皇后の大宝積経(天平 十二年三月八日『寧楽遺文』経典跋語補遺)と一切経(同年五月一日、 『大日本古文書』 2―255頁)夏 の願文にも「贈一位橘氏太夫人」「贈従一位橘氏太夫人」とあり、『続日本紀』 天平五年(741)12/28条に「 贈従一位」とあるが、同じ『続日本紀』の勝宝元年(749) 4月 1日条に「橘夫人従二位叙」とあり、その後も、従二位、正二位が現れるから、一旦位階が 引き下げられた形となる。これは、橘三千代の子の佐為も同じことが見られ(註1)、注目される。 橘氏大夫人は、天平宝字元年(757)八月甲子(七日)、淳仁天皇は「子は祖を以て尊しとす。 祖は子を以て亦貴し」として、「皇家の外戚」である藤原不比等を近江国十二郡を封国とする 「淡海公」に封じ、「継室従二位県狗養橘宿禰三千代」に正一位を贈って「大夫人」としたのが、 正式な「大夫人」である。 「『興福寺縁起』および『興福寺流記』「宝字記」によると、興福寺の西金堂は、光明皇后が 母「橘大夫人」のために造ったものだという。 「先妣贈従一位県因濃養橘氏」の往生菩提を 願って諸像を造り、その忌日である天平六年正月十一日に衆僧四百人を招いて盛大な供養 が行われた。三千代が没したのは天平五年正月十一日だから、まさに一周忌供養のための 造営である。第二章で述べたように、三千代の宮人としての職掌・地位の詳細は不明だが、 同「延暦記」には「贈従一位内侍尚侍県犬養橘大夫人」と記す。(註2)」 おおむね、三千代は橘大夫人(太夫人)、古那可智は橘夫人と区分されているようだ。 2 東大寺献物 天平勝宝四年(752)四月の大仏開眼法会に際して、橘夫人が犀角把刀子・琥碧数珠を献じた 記録がある。(註3) 中野聰は「正倉院には奈良時代の数珠が現存しており、特に南倉には…都合25点の数珠が 伝えられている。 これらの数珠のうち、所有者が判明しているのは琥珀誦数十三号〈南倉五十 五〉(図25)のみで、これには数珠に小型の木牌が付属しており、本牌に墨書で「橘夫人奉」と記 されている点ははなはだ興味深い。…それゆえ石田茂作氏はこの柳箱の墨書から、橘三千代が 大仏開眼会より約二十年前の天平五年(733)にすでに没しているのに対して、天平宝字三年(759) に没した橘古那可智は大仏開眼会の時には健在であった事実に注目し、本牌に記された「橘夫人」 とは光明皇后の母の橘三千代ではなく、橘古那可智の可能性が高いと指摘している。 (註4)」とする。 このように、橘夫人古那可智は、東大寺に数珠などを献物するほか、天平勝宝元年頃、東大寺 大仏建立のために橘夫人家が銭2貫69文を進納する。(『大日本古文書』25-100) 3 法隆寺と橘夫人 法隆寺には、県犬養橘三千代に関して、伝法堂、橘夫人厨子、西円堂の三つのものが伝わるが、 「三千代と法隆寺の関係を裏付ける直接の史料はない(註5)」とされながらも、伝承される史料等から、 改めてその関係を考察する。 (1)伝法堂 伝法堂は、天平宝字五年(761年)の『法隆寺縁起?資財帳(以下『東院資財帳』という。)』には 「瓦葺講堂壱間 長八丈四尺廣三丈六尺奉納橘夫人宅善G師申奉納」(註6)の如く記載されている。 この橘夫人は、寺伝では県犬養橘三千代(藤原不比等夫人、光明皇后母)の住居と伝えられて きたが、解体修理の際の調査で高級貴族の住宅を仏堂風に改造したことが分かり、記述の確かな ことが実証された(註7)と、聖武天皇夫人の橘古那可智の住居が寄進されたとする。 「東院資財帳」には、橘三千代の薨時から、しばらく経過した天平14年 (742)2月16日に綾槻・ 机・高座・褥・高座宝頂・経副香・木絵・韓櫃など多くの調度類を、天平18年 (746)5月16日にも 大般若経一部600巻、大宝積経一部102巻、薬師経49巻もの経典が橘夫人により奉納されたこ とが記されている(註8)が、三千代の寄進は見えないのである。 (2) 橘夫人厨子 法隆寺所蔵の厨子には、国宝で有名な「玉虫厨子」の他にもうひとつ「伝橘夫人厨子」と伝えら れるものが大宝蔵院にあって、そのなかに白鳳時代の代表的な作品である阿弥陀三尊像が収 められている。 この厨子を橘夫人所縁とする伝承は、すでに鎌倉時代の『聖徳太子伝私記(古今目録抄)』に 「次西戸方有厨子(黒漆須弥坐)、光明皇后之母橘大夫人所造也、内在弥陀三尊(古帳弥勒三 尊)」と見える。(註9) また橘夫人厨子の須弥座下框に鎌倉時代かと思われる「光明后母公阿弥陀座」と墨書銘が あって、三千代の厨子であるとの伝承が行なわれていたとされる。(註10) 他方、「天平十九年(747)成立の『法隆寺伽藍縁起?流記資材帳(以下『資材帳』という。)』には 三千代の名が出てこないので、一般的には、三千代のものでないとされている。(註11)」と考える 論者もある。 表3 阿弥陀三尊像厨子の史料
紀年 橘三千代(彦刀自) 橘古那可智 典拠 和銅元年(708)11/21 橘宿祢を賜る 『続日本紀』 天平5年(741)1/11 内命婦正三位薨 『続日本紀』 天平5年12/28 贈従一位 『続日本紀』 天平6年1/11 西金堂建立 天平9年2/14 橘夫人橘宿禰古那可智、无位から従三位叙位。聖武天皇夫人 『続日本紀』 天平10年 大夫人贈正一位三千代刀自 公卿補任 天平12年(740)3/8 尊妣贈従一位橘氏太夫人 [大宝積経跋語]『寧楽遺文』P983 天平12年4/22 大夫人観無量寿堂香函箱中禅誦経 石山寺如意輪陀羅尼経抜語 天平12年5/1 尊妣贈従一位橘氏大夫人 五月一日経奥書『大日本古文書』2-255 天平13年2/14 従一位橘氏大夫人 『類聚三代格』巻三、国分寺事(願文) 天平14年2/16 正三位橘夫人宅奉請 法隆寺縁起資材帳 『大日本古文書』4-512〜513 天平18年5/16 正三位橘夫人宅奉請 同上書4-510 天平21年(749) 県犬養橘夫人 天平21年(舅)の詔 勝宝元年(749)4/1 橘夫人従二位叙 『続日本紀』 勝宝元年7/2 橘夫人家 『大日本古文書』25-100 勝宝3年 県犬養命婦 万葉集19-4235 勝宝4年4月 橘夫人奉 東大寺献物牌(琥珀数珠十三号) 勝宝5年1/15 従一位橘氏太夫人 東大寺勅書銅板 勝宝6年1/11 西金堂 橘氏太夫人 勝宝7歳 橘夫人加賀郡幡生荘東大寺施入 東大寺諸荘園文書目録 天平宝字元年(757年)閏8月18日 橘氏を改め広岡朝臣姓を賜る。 『続日本紀』 宝字3年7月 夫人従二位藤原[広岡]朝臣[古脱]那可智薨(勝宝9歳8/18) 『一代要記』 宝字4年6/7 正一位犬養橘宿彌三千代 『続日本紀』皇太后崩御略伝 宝字4年8/7 不比等継室従二位県狗養橘宿彌三千代に正一位を贈りて、「大夫人」とせよ。 『続日本紀』 宝字記 尊妣贈従一位県因濃養橘氏/橘大夫人 山階寺流記 延暦3年 普光寺、古那可智建立 延暦記 尊妣贈従一位内侍尚侍県犬養橘大夫人 山階寺流記 本朝皇胤詔運録 諸兄母正二位県犬養彦刀自、東人女 本朝皇胤詔運録(群書類従5輯巻60、P18 新撰姓氏録 贈正一位懸犬養宿彌三千代大夫人 岩佐光晴は、「天平十九年(747)成立の『法隆寺伽藍縁起?流記資財帳』には、宮殿像二具 〈一具金泥押出千仏像 一具金泥銅像〉という記載が見られ注目される。 この記載の解釈を めぐってはこれまで二つの説が出されている。まず第一の説は、『古今目録抄』の玉虫厨子の 記載に 「内一万三千仏御」、「其内金銅阿弥陀三尊御」とあり、現に同厨子の内部には押出 千仏像が貼られているところから、「宮殿像」はあくまで玉虫厨子に関わるものであり、「一具 金泥押出千仏像」は厨子内に貼られている押出仏、「一具金泥銅像」は厨子内に安置されて いた金銅阿弥陀三尊像を示すとする。第二の説は「宮殿像二具」は全く別のものと見て「一具 金泥押出千仏像」 を玉虫厨子、「一具金泥銅像」を本像に比定する。この記載を見る限り、 両説ともに可能性があり、いずれが妥当かは必ずしも決し難い。」 としながら、「第二の説の 解釈がより自然であるように思われる。」とする。(註12) しかしながら、伝橘夫人厨子は天蓋付きの箱型龕を乗せた形だが、当初は吹放しの四本の 八角柱で天蓋を支えているものと考えられており(註13)、 宮殿型の玉虫厨子とは異なるもので あり、『資材帳』の「宮殿像二具」は、 二つの宮殿を示すものではなく、一つの宮殿に泥押出 千仏像と金泥銅像の二具の仏像がある第一の説が妥当と思われる。 「宮殿像二具」の記載の前後を見れば、始めに「合仏像弐拾一具」とあるように、ここでは、 宮殿の数ではなく、仏像数を数えているのである。(註14) そうすると、天平十九年当時、伝橘夫人厨子は「資材帳に記されてなかったことになり、 当時法隆寺になかったとみなさなければならない。(註15)」とされるから、厨子が天平十九年以 後に寄進されたとみなすならば、橘三千代ではあり得ないことになる。 中野聰は「伝橘夫人厨子は、現状とは異なり、当初はやはり伝法堂の宝殿のごとく天蓋部分 を四本の柱が支える四面吹き放しの形式であったことが村野浩氏による復元案によって確か められている。同じ阿弥陀像を納める宝殿として伝法堂像との共通点が見いだされ、きわめて 興味深い。村野浩「橘夫人念持仏厨子の復元試案」(『仏教芸術』91、昭和48年)。 (註16)」とされ るから、橘三千代の寄進と伝承された「伝法堂」と「伝橘夫人厨子」は当初の造形が共通するの で、同一人の橘夫人古那可智が寄進したものと考える。 『古今目録抄(聖徳太子伝私記)』に橘夫人念持仏は「阿弥陀三尊像(古牒弥勒三尊)」とあり、 橘夫人宅が仏堂に替えられた七間二面の伝法堂にも阿弥陀三尊でなく弥勒三尊が置かれ、 拾二間に改造された伝法堂の本尊は阿弥陀仏である。(註17) この二つの阿弥陀三尊の古い記録が弥勒三尊として一致するのは、伝法堂の弥勒三尊が 西院伽藍に移動したことが想像できる。 現伝法堂には、三組の阿弥陀如来像がある。仏殿として使用される以前は、古那可智の住居 とされるから、元々伝法堂には橘夫人念持仏厨子があった名残ではないだろうかと憶測する。(註18) (3) 西円堂 西院伽藍北西の小高い丘に八角造りの円堂がある。奈良時代に橘三千代の発願によって養老 二年行基菩薩が建立したと伝わる。(註19) また、西円堂の本尊である丈六薬師如来坐像についても法隆寺僧の中院良訓『古今一陽集』は、 「古老伝えて曰く」として、行基菩薩によって、西円堂の本尊が作られたとする。(註20) 表4 西円堂の史料
史料 紀年 内容 法隆寺伽藍縁起?流記資材帳 天平十九年 (747) 宮殿像弐具 壱具金泥押出千仏像 壱具金泥銅像 金堂日記(金堂仏像等目録) 承暦二年(1078) 後東厨子堂内金銅小仏三尊、西厨子同阿弥陀三尊、 古今目録抄(聖徳太子伝私記) 嘉禎年間(1235-38)頃 (金堂) 橘夫人厨子阿弥陀三尊 次西戸方有厨子(黒漆須弥坐)、光明皇后之母橘大夫人所造也、内在弥陀三尊(古帳弥勒三尊云)、以金脚秘地、作波文中生蓮花三本、其上令坐三尊、太子已後者也、高八尺、 注)『七大寺年表』に「天平六年(734) 法隆寺西金堂、懸因濃養橘氏忌日所造也」とあるのは、興福寺西金堂と混同したものと思われる。 西円堂と薬師の造形 法隆寺中門前にある「西円堂み祢の薬師如来」碑の「祢」は、父のみたまや、親のみたまや とあって、「御霊や」は「祢廟」のことである。[角川新字源] 西円堂を建立することは、円堂つまり八角堂の造形思想を見るならば、西円堂とは、故人の供 養堂の意味を持った建物であるといわれている。(註21) 津田由紀子は、「西円堂の創立は、太子復興につながる美努王の菩提のための八角円堂である かもしれないし、その子葛城王、佐為王のためにも三千代が発願建立したものであったかもしれな い。」(註22)とするが、「み祢」は、「美努」に通じるところがある。 一方、薬師仏像の安置は、病気回復を祈願するものであることから考えるならば、養老二年五月 元明太上天皇の不予(註23)のために安置された可能性もある。 なお、法隆寺が焼けたのは守屋の怨のため、守屋を祀ったという伝承がある。(註24) 西円堂は、民間伝承として鬼やらい行事が残り、何ものかの怨霊を除く役目があると同時に、 民間信仰の場として、鏡や太刀、櫛、錐などの道具が奉納されてきたことは、橘三千代と行基を 結びつけるだけでなく、西円堂、薬師と行基を結びつける意図が隠されているものと思われる。 表5 西円堂に関わる故人
史料 紀年 内容 典拠 金堂日記 承暦2年(1078) 寺家西北円堂 法隆寺史料集成2 金堂仏像等目録 南都七大寺巡礼記 保延6年(1140)後 安薬師丈六座像、斯像者西国(円)堂仏也。口伝云、為除播(橘カ) 大夫人御悩、所造願也。 続々群類11宗教部 七大寺年表 永万元年(1165) 天平六年法隆寺西金堂[西円堂か]、懸因濃養橘氏忌日所造也 続群類27釈家部 聖徳太子伝私記(古今目録抄) 建長5年(1253) 此御堂、聖武天皇之后光明皇后母公、橘夫人之御願也/此堂者橘大夫人之所造也 法隆寺史料集成4続々群類17雑部 大日本仏教全書史伝部10 白拍子記 貞治3年(1364) 西北(山)上有八角円堂、…光明皇后母公橘大夫人之御願也、本仏薬師霊像也、円堂荒廃 法隆寺史料集成8 菅谷文則242P 和州法隆寺堂塔社霊験?仏堂菩薩数量事 元禄11年(1698) (西円堂)薬師如来丈六坐像依光明皇后母之橘大夫人之勅、行基菩薩抹香外之… 菅谷文則242P 「行基開基伝承の寺院」『探訪古代の道』 古今一陽集 延享3(1746) 西円堂六角作瓦葺又號西北円堂、橘大夫人之御願、養老年中御草創也、…草創ノ年養老二年ニ相当ル。 法隆寺史料集成13 4 石山寺の「如意輪陀羅尼経」 (1)跋文の考察 石山寺蔵校倉聖教第一七函第七號の『如意輪陀羅尼経』には「大夫人観无量壽堂」と「内家印」 「西家経」「大家」「西宅」等の文言がある跋語がある。これについては加藤優が考察する。 「まず本経の書誌を記すと、體裁は巻子本で、縦二五・二センチ、 一紙の長さ四七・〇センチで、 全二五紙ある。料紙は斐交じり楮紙、表紙と軸は後補、外題はない。墨界線があり、一行一七字 で、訓点はない。巻首に「石山寺経蔵」の朱長方印がある。尾題に続いて次の跋語がある。 大夫人観无量壽堂香函中禅誦経 天平十二年歳次康[庚]辰四月二十二日戊寅、以内家印踏西家経三字之上、謬与大家踏印書 不可雑乱、亦即以印踏此記上者、見印下西家之字、應擬西宅之書、故作別験永為亀鏡、(註25) 天平十二年の日付があるが、この経巻は書風・体裁・紙質等からみて奈良時代のものとは考え られず、おそらく平安時代院政期頃に奈良時代写経を跋語まで含めて写したものと考えられる。 …記載のあり方からみて、原経巻は「大夫人観无量壽堂香函中禅誦経」という一行が先に書かれ てあったものに、天平十二年に内家印押捺に関する文が加えられたものであろう。 …この跋語は内容からすると、「西家経」という三字の上に「内家印」を押したことに開するもの であるから、跋語の書かれる以前に「西家経」という記載があったことになり、この経巻の所有か 写経主体を示していたのであろう。 同じような例としては藤原氏南家の経巻の意味の「藤南家経」「藤南家知識経」という墨書があ る奈良写経がある。したがって「内家印」が押されるまでこの経巻は西家の所蔵経であったこと になる。残念ながら「西家経」という文字が経巻のどの部分に書かれていたかは不明であるが、 南家の経巻墨書が尾題の直下または左下であることからすると、いずれ似たような場所であった ろう。(註26)」とする。 加藤優が指摘するとおり、尾題の直下または左下に「西家経」という記載があったとするなら、 その位置は、「大夫人観无量壽堂香函中禅誦経」の文字が占めるから、原経巻(光明皇后内家私印本) とは異なる改変があったと思われる。 その改変は、先に「大夫人観无量壽堂香函中禅誦経」があって 「天平十二年歳次康辰四月 十二日戊寅…」を付記したとするより、奈良時代院政期頃に、光明皇后内家私印本転写以後に「西家 経」から「大夫人観无量壽堂…」へ改変したとする方が妥当と考える。 (2)「大夫人」の考察 加藤優は、「大夫人」が誰かについては、 「奈良時代に大夫人と称されたことのあるのは聖武天皇の母藤原宮子と橘三千代である。『続 日本紀』によれば藤原宮子は聖武天皇が即位した神亀元年二月に勅により夫人から大夫人と なった。しかし同年二月に長屋王の異議により、文には皇太夫人、語には大御祖と称することに 変更されたので、大夫人と称されたとしてもごく短期間である。 天平五年正月に没している橘三千代は、天平寳字四年八月甲子に藤原不比等が淡海公と称さ れたのと同時に正一位を贈られ、大夫人と称せよ、とされている。しかし公式に大夫人とされたの はこの時であるとしても、既に光明皇后発願経の著名な天平十二年五月一日の願文では「尊妣 贈従一位橘氏太夫人」、天平十三年二月十四日の國分寺建立詔では「皇后先妣従一位橘氏大 夫人」とあり、早くから「大夫人」と称されていたとみられる。従ってこの跋文の「大夫人」は橘三千 代の可能性が高いと思われる。私的佛堂とみられる観无量壽堂を有しているらしいことも佛教信 仰に厚かった橘三千代であればこそと思われる。以上のように考えられるとすれば、 この『如意 輪陀羅尼経』は橘三千代の所持経であったことになる。(註27)」とされる。 「大夫人」が橘三千代である見解は、妥当と認識され、賛同者は多い。(註28) また、加藤優が「「大夫人……」と書いてあることからすると橘三千代が自ら書いたとは考えられず、 第三者が三千代身邊常備の経ということを銘記するため書いたのであろう。あるいは三千代没後 に書かれた可能性もある。(註29)」と指摘するとおり、後世に第三者が記した「大夫人観无量壽堂香 函中禅誦経」の「大夫人」は橘三千代の可能性が高いとして、その結果、三千代が観无量壽堂を 有しており、『如意輪陀羅尼経』は橘三千代の所持経であったとすることは根拠のない可能性から 導く憶測でしかなく、何ら証明されたものでない。「大夫人観无量壽堂香函中禅誦経」と書き加えた 第三者も明確でなく、第三者が真実を記したかの確証もない。 聖武天皇の母藤原宮子は、「大夫人」から「皇太夫人」と変更され、大夫人と称されたのはごく短 期間とするが、『類聚三代格』巻三、『政事要略』巻第五十五に記される國分寺建立詔に、「大夫人 藤原宮子」とある。この「大夫人」が「皇太夫人」の誤りである(註30)としても、藤原宮子に対して、正式 の「皇太夫人」でなく「大夫人」が使用された実例があることを示し、同様の表記が繰り返された可能 性があるから、「大夫人」は橘三千代を指すとは、決めつけられないものと考える。 表6 大夫人
対象 時期 備考 物部守屋 用明天皇2年(587)7月没 2/22.23「将軍会」守屋鎮魂祭 美努王 和銅元年5月30日卒 藤原不比等 養老4年8月3日薨 元明太上天皇 養老2年不予、 養老5年12月4日崩御 養老2年元明太上天皇不予、津田説 養老4年三千代出家 元正天皇大赦、平癒祈願 三千代 天平6年(733)1/11薨 天平6年興福寺西円堂建立 「大夫人」を光明皇后が内家私印を押した天平十二年以後に広げると、「大夫人」は聖武天皇の母 藤原宮子と橘三千代にとどまらないのは、上表のとおりである。 淳仁天皇母は、大夫人山背上総守当麻年老女である。(『続日本紀』宝字3年6月庚戌条) 大刀自は、西宅大刀自、石川大刀自のほか、万葉集に、大原大刀自(8-1465) 、安倍大刀自 (8-1613)、氷上大刀自(20-4479)が見える。 長屋王邸出土木簡には、石川夫人と石川大刀自が同一人とされ、大刀自と夫人は、同じ意味 で使用されている。 石山寺に関していえば、『石山寺縁起絵巻』に「それ石山寺は、聖武天皇の勅願、良弁僧正の草 創なり、本尊は二臂の如意輪、六寸の金銅の像、聖徳太子二生の本尊なりと云々」とあり、『東大寺 要録』には、天平十九年、石山寺に如意輪観音が安置された(註31)とする。 近江国は、藤原仲麻呂と関係が深い土地である。 天平宝字五年(761) 近江国保良京に遷都、 淳仁天皇と孝謙上皇が保良宮に行幸する。同時に、造石山寺所により石山寺の伽藍整備が行わ れた。 石山寺の本尊は、如意輪観音であるから、『如意輪陀羅尼経』はまさしく本尊の根本となる経典 である。その経典に重みを付けるのが、「大夫人観无量壽堂香函中禅誦経」の文言であろう。 そういう意味から言えば、道鏡は、宝亀五年、保良京で不予となる孝謙上皇に修法を授け、大臣 禅師に任じられた。禅誦経とは見慣れない語であるが、(註32)、『僧綱補任抄』に、道鏡は「葛木山ニ 籠リ、如意輪法ヲ修ス(註33)」とあるから、道鏡の時代のことになるか。 石山寺に関わる「大夫人」は、淳仁天皇の母である可能性もある。 従って、「大夫人」のみでは、三千代と断定することはできないと思われる。 (3)「内家」「大家」「西家」の考察 「内家」印は、光明子が使用した「内家私印」とすることは各氏一致するようだ。 「西家経」の上に「内家」印を押し、この跋語を書いたのは、光明皇后である。(註34) 表7 内家・大家・西家
称号 名 大夫人 藤原宮子、橘三千代、淳仁天皇母、藤原吉子(桓武夫人) 夫人 橘夫人、橘少夫人、藤原夫人、石川夫人(長屋王邸出土木簡) 大刀自 西宅大刀自、安倍大刀自、大原大刀自、氷上大刀自、石川大刀自(上記木簡) 大家オホトジ 北大家(藤原房前夫人、牟漏女王)、石川内命婦(万3-360.361左注) 加藤優は、「内家の意味については、岸俊男氏の、藤原鎌足の「内臣」との開連説に注目したい。」 とする。(註35) 「岸俊男氏は、藤原氏は鎌足以来内臣の家柄で、それを反映したものが「内家私印」であり、内臣と 内家は同じ意味と考えておられるようである。(岸俊男「藤原仲麻呂」)岸氏は、この印を光明皇后の 私印と傳えるとするが、明確に述べられていないが、内臣家である藤原氏の家印と考えられていた ようにみられる。(註36)」 この内臣と内家は同じと考えることは賛同でき、藤原家に伝えられた「内家私印」は、不比等の死 後、光明皇后が使用したものと思われる。 次に「大家」について、加藤優は、「栗原柳庵は聖武天皇のこととしており、服部氏も中國では大家 が天子の別称であることから聖武天皇と考えておられる。しかし日本で天皇を大家と称した例は管見 に入らない。(註37)」とし、「大家」は、右大臣の藤原不比等と考える。(註38) また、義江明子は、「大家」について、「故太政大臣家の意味で不比等の家政機関をさすとする説と、 貴婦人の寡婦に対する一般名称としての「オホトジ」の用法とみて、正倉院文書中にみえる「北大家」 =北家(藤原房前)夫人牟漏女王をさす、とみる説があるが、光明にも、「内家」の通称があったとみて 不思議はない(註39)」とする。 各論噴出する中、藤原内臣家の「内家」と対応する「大家」を考えたならば、聖武天皇が妥当ではな いか。 天皇家は、時代を遡ると大王家であり、 「大王(おおきみ)」(3-304・6-929) 「於保伎美」 (15-3668)(註40)が使われる。 柿本人丸の歌に、「しきしまややまとしまねの大君を誰うみそめて人となすらむ」がある。 「大君とは、聖武天皇の御事なり。(『王伝深秘抄』)」とある。(註41) つまり、「大家」は「大王家・大君家」の略として、光明皇后が聖武天皇に対して使用したものと思わ れる。 光明皇后が一切経写経に取り組む天年九年以前、聖武天皇は、天平六年一切経写経(註42)を勅願 し、また、天平十一年には玄ムの病回復のため書写を命じるなど(註43)、内裏・宮中に多量の経典が あったことが窺え、聖武天皇が「西家経」を利用した可能性があり、聖武天皇の経典と光明皇后所有 の経典が混在する状況であったのであろう。 (4)「西家・西宅」 義江明子は、「『如意輪陀羅尼経』の跋語の中で、「西家、西宅」が見え、「西家」は「西宅」ともい われている。「大夫人」は三千代のことで、「西家経」とは三千代所蔵の経典をさすとする。 正倉院文書の天平三年〜九年の光明発願写経目録中に「西宅」「西宅大刀自」の語がみえ、 「西宅大刀自」=三千代と推定されている。三千代は天平五年に没したが、「西宅」あるいは「西家」 とよばれたその家政機関は没後も存続し、大量の経典を所蔵して写経活動を継続していたのであ る。(註44)」 とするが、「西家」を三千代の家政機関である根拠を明らかにするまでに至っていない。 大日本古文書には、表8のとおり、「西宅」に関する記録が残り、唐から帰国した玄ムから大量の 経典を借り受けていたが、三千代の死後のことである。 なぜ、西宅写経所が天平三年から天平二十年までの長期に渡り活動し、また光明皇后の一切経 よりいち早く借り受けすることができたのかは説明されない。 「西宅大刀自」=三千代との推定は、三千代が元明天皇から賜った橘氏の殊名「橘宿禰」「橘大夫 人」等を使用せず、三千代を「西宅大刀自」と言い換えるのは理由がないものと思われる。 玄ムは、天平八年(736年)唐から帰国し、多くの経典を持ち帰った。三千代の死後、三千代の家 政機関が天平二十年まで玄ムの経典を借り受けたとすることは根拠が乏しいと思われる。 つまり、玄ムと特別な縁故を通じることがなければ、唐からの将来した玄ムの経典を借り出すことは 不可能と思われる。 「西宅・西家」は、大量の蔵経から見て、須田春子は、「大徳・学匠宅であったのではないか(註45)」 とするが、更に広く三綱を管理する玄蕃寮、治部省の官人や出家した僧侶等が考えられるのでは ないか。 表8 大日本古文書等に見える「西宅」等
論者 内家 大家 西家 典拠 岸 俊男 藤原氏 『藤原仲麻呂』 加藤 優 藤原氏 藤原不比等 三千代 『石山寺の研究―深密蔵聖教篇下』 森 公章 光明皇后 牟漏女王 三千代 『奈良貴族の時代史』2009 義江明子 光明皇后 藤原不比等 三千代 『県犬養橘宿禰三千代』2009 栗原柳庵 光明皇后 聖武天皇 先進繍像玉石雑誌第六冊(加藤優416-417頁。) 注)2・3の表記から、西宅は、西宅写経所の省略したものと思われる。 天平十一年、聖武天皇は、玄ムの病気平癒のために、「仏頂尊勝陀羅経」一千巻書写することを 命じている(註46)から、天平三年八月十日の記述を「仏頂経□巻、右為西宅大刀自施写」とするなら ば、西宅大刀自の病気平癒のために「仏頂経」を施写されたのではないだろうか。 すると、天平五年正月に薨じた三千代は、西宅大刀自の可能性もあるが、天平九年以降に西宅写経 所が活躍することの説明がつかない。三千代の家政機関とするのは便宜的すぎる。 (5)「故作別験永為亀鏡」の解釈 内家私印を捺したのは、光明皇后と思われるが、 内家私印を捺した経緯を考える。 光明皇后は、三千代の経典を伝領したものに、「西家経」の文字に重ねて、「内家私印」を捺した とされるが、跋文の最後の個所に「故作別験永為亀鏡」とある。 この部分はあまり重視されず、ここの「別験」が跋文と理解されているようである。 「別験」とは何か。 「験げん」とは、広辞苑に「@仏道修行を積んだしるし。加持祈祷のききめ。Aききめ。しるし。 功能。効験。B縁起。前兆」などとある。 跋文の意味としては、「@仏道修行を積んだしるし。」が適切と考え、「別験」とは、「西家経」 を転写した別の経本と考える。 そして、「故作別験……」の前にある「應擬西宅之書」はどういう意味か。 「西宅の蔵書であることを示すためである。(註47)」とされるが、「西宅之書に擬する」ことは、 つまり西宅の書である「西家経」を写した写本を「西宅之書」に擬えるのである。 以上を考えると、仏道修行を積んだしるし・証として、「西家経」を写経し、その転写本を西 宅之書に擬えて、永く「西宅之書」を拠所、模範とすると解釈できる。 光明皇后の心象には、「西宅之書」を通じて「西宅」に係る人物に対する深い心酔、信頼が 読み取れるのである。 (6)審本 大谷大学蔵『判比量論』断簡は、新羅で作成され、大安寺の審祥が将来させたと考えられ ている。 (註48) そして、この『判比量論』の巻末に「西家経」の墨書が摺消されてその上から「内家私印」が 押印されていた(註49)のであるから、光明皇后の所有以前は、「西家経」であったものである。 新羅学生の審祥がいつ『判比量論』をもたらせたのかが問われるが、華厳の先駆者道せん が天平八年に来日し、審祥もまた、道?に随って来日したと推定される(註50)ので、審祥と 三千代との接点はなさそうである。 5 三千代の信仰 最後に、三千代の信仰を考察する。 (1)阿弥陀信仰 岩佐光晴が三千代と道昭の関係について論じているが、それを要約すると、 「道昭の禅院収蔵経論の中に、『阿弥陀経』『観無量寿経』があり、道昭が唐から阿弥陀経典 を将来していた。…文武二年(698)薬師寺繍仏(阿弥陀仏?脇士菩薩天人等惣百余体)開眼の 講師を勤め、阿弥陀仏に対する理解があった。 道昭の帰国後、斉明天皇4年に観心寺に阿弥陀像が造立され、西琳寺の阿弥陀三尊像は 道昭の帰国が大きく関連している可能性が推定できる。道昭が河内国古市周辺地域で阿弥 陀信仰に関わっていたことを示すとはいえないか。 三千代の本貫地河内国古市郡と道昭の本貫地は隣接し、文化的基盤が共通するから道昭 の影響のもとに、三千代が阿弥陀仏を信仰していた可能性は十分ある。その理由は、阿弥陀 経典に女人往生が説かれているためである。…」(註51) しかし、三千代と道昭を直接結びつける史料はなく、道昭が禅院に籠ったまま西暦700年に 亡くなり、三千代が養老五年(721)に出家するから、二人が接触するには年代の開きがある ように思われる。 三千代と結びつく僧侶を探すならば、前出のとおり行基はその一人であろう。 また、三千代は、不比等が亡くなったとき、興福寺金堂に弥勒浄土変像を安置した(註52)が、 三千代の出家前にもっていた信仰については不明である。阿弥陀信仰とする根拠は見えない。 (2) 如意輪観音信仰 如意輪観音は、早くは義淵の竜蓋寺(岡寺)に安置され、東大寺大仏殿の毘盧舎那佛の脇侍 像と造像されたほか、『南天竺婆羅門僧正碑并序』に菩提遷都が造像したとされる。 奈良時代の如意輪観音信仰は、井上一稔によると 「1 優婆塞貢進解より天平14.15年に如意輪陀羅尼が注目されはじめている。 「2 天平17年以前では如意輪陀羅尼はそう普及していなかったことが分かる。 「3 天平勝宝4〜5年の慈訓・安寛といった内道場の僧に関連して史料[如意輪陀羅尼関係の 経典:筆者]が登場した事は、この頃に天皇周辺を中として如意輪陀羅尼が受け入れられてき た…(註53)」 と要約されるから、三千代の信仰とは言えないだろう。 (3)『観無量寿経』『如意輪陀羅尼経』 阿弥陀三尊像の姿は、『観無量寿経』を典拠とする。(註54) 道昭以前には、「舒明天皇十一年(639) 九月に唐から帰朝した恵隠が、翌年宮中で『無量寿 経』を講じた(55)」とあるが、三千代との接点は見えない。 奈良時代の一切経の書写は、養老七年の元正天皇や天平六年の聖武天皇の一切経などが 見えるが(56)、三千代の写経活動は史料に見えず、大安寺禅院が三千代に『観無量寿経』 『如意輪陀羅尼経』を貸し出したことも見えない。 『如意輪陀羅尼経』については、天平十七年十月十日に、『如意輪陀羅尼経』一巻をム玄 [玄ム]師物検使所が奉請している(『大日本古文書』24-173)ことが見える。 一般に、多様な経典が広まるのは、玄ムが帰国してからである。 そして、天平八年九月 二十九日から一切経の写経が始まるのである。(註57) 「観无量寿堂禅誦経」とされる『如意輪陀羅尼経』を大夫人が持つのは、玄ムの帰国後と すれば、少なくとも三千代では無くなる。 (4)観无量寿堂 義江明子は、「観無量寿堂は、西宅の一部に設けられた仏堂だったのであろう。(註58)」と する。 小野健吉は、「観無量寿堂という名称は、阿弥陀経・無量寿経とともに浄土三部経の一角 をなし、十六観(阿弥陀仏の極楽浄土に往生するための16の観法)を内容とする観無量寿 経によることは言うまでもない。(註59)」とする。 渡辺晃弘は「三千代は私的な仏堂として、邸内に「観無量寿堂」をもっていた確実な史料 はない。三千代の阿弥陀信仰は、法華寺の西南隅(平城京二条二坊十坪)に設けられた阿 弥陀浄土院とその前身施設として写経施設の存在が推定されてきた。三千代の観無量寿 堂とのつながりが想定される。(註60)」とされる。 西宅の一部の観無量寿堂や阿弥陀浄土院の前身として、三千代の「観無量寿堂」に伴う ものと考える論が多いが、三千代と「観無量寿堂」を結びつける根拠はなく、憶測の範囲を 出ないものと思われる。 淳仁天皇母当麻山背は、淳仁天皇即位前紀に「禅を受ける日正三位を授け賜ひた後導いて 大夫人と曰す」とあるから、禅誦堂を持つ大夫人は当麻山背である可能性が高いと考える。 (5)橘三千代の法事 三千代の忌日斎会に法華経を転読した(註61)ことが見える。 天平六年光明皇后が母橘大夫人のために建立した西金堂の本尊は丈六釈迦三尊像で ある。(註62) また、藤原不比等の一周忌に、長屋王が北円堂を建立した際には、本尊は弥勒であり、 橘三千代は金堂に弥勒浄土を造っている。(註63) 以上からは、三千代が阿弥陀信仰を持つこととは結びつかないのである。 三千代は、元明天皇不予の際、出家したから、その信仰対象は薬師仏であろうし、法 隆寺西円堂の本尊は薬師仏である。 そして、元明天皇の追善には、「橘夫人」に係る写経経典は見えないのであるから、 西家経が三千代の経典であることは否定されるべきであると思われる。 6 結びに 以上、伝橘夫人厨子阿弥陀三尊像をはじめ、『如意輪陀羅尼経』、「観無量寿堂」「西 宅」など、三千代と関わる阿弥陀信仰や事物をすべて否定する論を展開した。 かっては、伝法堂を寄進した『法隆寺東院資材帳』の「橘夫人」(『古今目録抄(聖徳太 子伝私記』の「橘大夫宅」)が三千代と考えられたが、福山敏男の研究(註64) では、「古那可智」とされた如く、伝橘夫人厨子年持仏もまた、伝法堂と一体的に、聖 武天皇の夫人である橘古那可智が寄進したものと考える。 そして、「西家経」を橘三千代のものでなく、西宅大刀自を橘三千代としないなら、「西 家経」を所有した西宅大刀自は誰であるか、を考えたときに、西宅大刀自なる人物は、 高級官僚である佐為王(橘佐為)の妻を推測する。 橘佐為は、天平九年八月一日に薨ずるから、西宅大刀自は、橘佐為の死後も、その 追善供養のため、写経活動を続けたのであろう。 天平十二年四月二十二日に、光明皇后が「西家経」を書写させ、「内家私印」を押印 したのは、橘佐為の三回忌の供養と関連したものかもしれない。 註 (1) 拙論「佐為論」参照 (2) 義江明子『県犬養橘宿禰三千代』吉川弘文館、2009年、144頁。 (3) 松島順正編『正倉院宝物銘文集成』吉川弘文館、1978年、232頁。 古那可智が、何故「刀子(とうす)」を奉納したのか。「刀」は、「サヒ」とも言われ、案外「サイ」の子を 掛けているのかも知れない。 古那可智が法隆寺に寄進した二度の日にちは、天平十四年二月 十六日と天平十八年五月十六日である。一つの数字だけでは分からないが、二つの数字の妙を 見ると、年と日の合計はそれぞれ32である。意味があれば、31の次である。 (4) 中野聰『奈良時代の阿弥陀如来像と浄土信仰』勉誠出版、2013年、103-104頁、106-107頁。 (5) 東野治之「橘夫人厨子と橘三千代の浄土信仰」『日本古代史料学』岩波書店、2005年、218頁。 (6) 「東院資材帳」『法隆寺史料集成』1、ワコー美術出版、1985年、131頁。 ただし、「橘夫人」の文字は、略字の「槁」に「橘大(小文字)」が書き加えている。 (7) 『国宝大辞典(五)建造物』講談社、1985年、49頁(細見啓三)。 (8) 「法隆寺縁起?資財帳」註(6)書/註(14)書。 (9) 「古今目録抄(聖徳太子伝私記)」『法隆寺史料集成』13、ワコー美術出版、1985年、129頁。 (10)『奈良六大寺大観 補訂版(法隆寺4)」、岩波書店、2001年、解説46頁。 なお、厨子の台座落書きに「越前」とある。古那可智は越前に領地を持っており、天平勝宝七歳、 越前国加賀郡幡生荘を東大寺に寄進した。(『図説日本文化史大系』3、小学館、1956年、図版 解説参照) (11) 御子柴大介『尼と尼寺』平凡社、1989年、90頁。/ 「この仏像(橘夫人念持仏)を橘夫人[三千代か:筆者]と関係づける説の起こりは、顕真の「聖徳 太子伝私記」にある。奈良時代にも橘夫人説は全く存在しなかった。橘夫人との関係は認めが たい。」『坂本太郎著作集』第九巻、吉川弘文館、1989年、268頁。 (12) 岩佐光晴「伝橘夫人念持仏の造像背景」『MUSEUM(東京国立博物館研究誌)』第565号 、 2000年 4月、 52頁。 (13) 註(10)、解説46-51頁。 (14) 厨子・仏殿を数える数詞(単位)は、「具」でなく、「基・口・宇」である。 (15) 註(9)、解説46頁。 (16) 中野聰、註(4) 177頁。 (17)「古今目録抄曰次有伝法堂七間二面也、弥勒三尊也」『法隆寺史料集成』13、ワコー美術 出版、1985年、56頁。 (18) 女人を思わせるような童子形の念持仏の目的は、三千代の場合、女人往生と阿弥陀信仰 の西方浄土に童子として再生を祈ったとされるが、(岩佐光晴「伝橘夫人念持仏の造像背景」 /金子啓明「生命思想としての白鳳彫刻」)、橘古那可智に置き換えた場合、「今まさに蓮池 から湧出しつつあるかのよう(岩佐、同)」な童子形の念持仏は子宝を祈願したことが考えられ る。伝法堂には、小安地蔵の伝統行事が行われている。 また、天平十二年の藤原北夫人の写経願文に、「檀主藤原夫人常遇善縁、必成勝果、」と あることは、古那可智と同様に、聖武天皇との縁により子宝に恵まれることを祈願したものと 思われる。 (19) 法隆寺の伝承/『古今一陽集』には「西円堂六角作瓦葺又號西北円堂、橘大夫人之御願、 養老年中御草創也、…草創ノ年養老二年ニ相当ル。」(『法隆寺史料集成』13、ワコー美術出 版、1985年、56頁・129頁。) とある。 (20) 古今一陽集『法隆寺史料集成』13、ワコー美術出版、1985年、172頁。 (21) 高田良信『法隆寺の秘話』小学館、1985年、63頁。 (22) 津田由紀子『橘三千代』学生社、1975年、144頁。 (23) 「大恩ある元明上皇のおんために御平癒を祈って薬師如来を発願したものであろう。」 (津田由紀子註(22)、143頁。) (24)「ここに守屋を祀ったという伝承がある。八角円堂はその屋根の頂に宝珠(骨壺)が掲げら れていることからわかる通り、霊廟として墓のかわりに建てられる。」(宮元健次『聖徳太子 の暗号』光文社新書、2009年、130頁。) (25) 禅誦経跋文の訳は、「天平十二年歳次庚辰四月二十二日戊寅、内家印を以て西家経三字 の上に?す。 謬りて大家?印書と雑乱すべからず。亦、即ち印を以て此記の上に踏(原字は旧字) すは、印の下に西家の字を見て、まさに西宅の書に擬すべきなり。故に別験を作り、永く亀鏡と なす。〔大意〕四月二十二日に、「西家経」という三文字の上に「内家」印を押した。 間違って 「大家踏印の書」と混同してはならない。「西家経」の文字の上に押印したのは、印の下にみえ る「西家」の字によって、西宅の書であることがわかるようにするためである。」(義江明子前掲 書註(22)、138-139頁。) もう一つの現代語訳は、「天平十二年(740)四月二十二日に、内家の印を経に記されている 『西家経』の三字の上に捺した。間違って『大家』の印を捺した書と混同させてはいけない。 また、三字の上に印を捺したのは、印の下に『西家』の字が見えることによって、西宅の蔵書 であることを示すためである。よって、特に記して永く拠所とする。」(森 公章『奈良貴族の時 代史』講談社、2009年、132頁。) (26) 加藤優「『如意輪陀羅尼経』の政語について」(石山寺文化財綜合調査団編『石山寺の研究: 深密蔵聖教篇下』法蔵館、1992年)。413-419頁。 (27) 同上論文418頁。 (28) 東野治之 註(5)、225頁。 (29) 加藤優 註(26)、418頁。 (30) 『類聚三代格』巻三、『政事要略』巻第五十五。 この詔の中では藤原宮子も「大夫人藤原氏」 となっているが、 これは「皇」字を脱したものであろう。それは『続日本紀』天平九年十二月丙 寅條で「皇太夫人藤原氏」となっていることからも證される。(加藤 優『石山寺の研究』431頁註3) (31) 『続々群書類従』第11巻、宗教部1、8頁。 (32) 加藤優 註(26)、418頁。 (33) 『八尾市史』八尾市史編纂所編、1958年、78頁。 (34) 義江明子前掲書註(2)、138-139頁。 (35) 加藤優 註(26) 415頁。 (36) 同上429頁。 (37) 同上427頁。 (38) 同上428頁。 (39) 義江明子 註(2)、140-141頁。 (40) 鎌田元一『律令国家史の研究』塙書房、2008年、12頁。 (41) 大谷節子「合身する人丸:和歌秘説と王権」『王権と神祇』思文閣出版、2002年、251頁。 (42) 田中塊堂「写経」『新版 仏教考古学講座』第6巻、雄山閣、1977年、21頁。 (43) 川崎晃「僧伝覚二題」『高岡万葉歴史館紀要』第16号、2006年、82頁。 (44) 赤尾栄慶「聖語蔵経巻管見」『正倉院紀要』第32号、2010年、99頁。 (45) 義江明子 註(2)、 13頁。 (46) 川崎晃「僧伝覚書二題」『高岡市万葉歴史館紀要』16号、2006年3月、82頁。 (47) 森 公章『奈良貴族の時代史』2009年、132 頁。 (48) 宮崎健司「『判比量論』断簡について」『大谷学報』第4巻第7号、1995年3月。 なお、『判比量論』断簡に捺された「内家私印」は、いままでの2種類のものと異なる第3番目のものとされる。 (49) 小林芳規「日本の経典訓読の一源流について」『汲古』第49号、2006年6月、5頁。 (50) 結城令聞「華厳章疏の日本伝来の諸説を評し、審祥に関する日本伝承の根拠と、審祥来日についての 私見」(『南都仏教』40号所収)、1978年。/『日本仏教宗史論集2南都六宗』吉川弘文館、1985年、195頁。 (51) 岩佐光晴 註(5) 52頁。 (52) 御子柴大介前掲書註(11)、89頁。 (53)井上一稔「奈良時代の如意輪観音信仰とその造像‐石山寺像を中心に-」『美術研究』第353号、1992年、 140-141頁。 (54) 金子啓明前掲論文註(4)35頁。 (55) 岩佐前掲論文註(5)56頁。 (56) 丸山裕美子『正倉院文書の世界』中央公論社、2010年、169頁。 (57) 皆川完一『日本古代史論集』上巻、吉川弘文館、1962年、534頁。 (58) 義江明子 註(2)、130頁。 (59) 小野健吉「奈良時代の浄土庭園」『東アジアにおける理想郷と庭園に関する国際研究会報告書』奈良 文化財研究所文化遺産部遺跡整備研究室、2009年96頁。 (60) 渡辺晃宏「阿弥陀浄土院と光明子追善事業」128頁。 (61)『大日本古文書』7-251 (62)『大和・紀伊寺院神社大事典』平凡社、1997年、274・281頁。 (63) 同上、274頁。 (64) 福山敏男「平城法華寺・東大寺大仏殿・法隆寺伝法堂について」『東洋美術:特輯日本美術史五、 寧楽時代下』飛鳥園、1934年。(未読) 参考文献 小倉慈司「五月一日経願文作成の背景」『日本律令制の展開』笹山晴生編吉川弘文館、2003年 義江明子『県犬養橘宿禰三千代』吉川弘文館、2009年 中野聡『奈良時代の阿弥陀如来像と浄土信仰』勉誠出版、2013年 西洋子「岡本宅小考」『国史談話会雑誌』38号、吉川弘文館、1997年 小林裕子「法隆寺西円堂薬師如来像について」(『奈良美術研究』15)2014年3月 『法隆寺と奈良の寺院』(『日本美術全集』2)長岡龍作・編、小学館、2012年 『奈良六大寺大観 補訂版1(法隆寺1)」岩波書店、1972年 『奈良六大寺大観 補訂版3(法隆寺3)」岩波書店、2000年 松島順正編『正倉院宝物銘文集成』吉川弘文館、1978年 東野治之『日本古代史料学』岩波書店、2005年 東野治之「橘夫人厨子と橘三千代の浄土信仰」『MUSEUM(東京国立博物館研究誌)』第565号 (2000年 4月) 金子啓明「生命思想としての白鳳彫刻―法隆寺伝橘夫人念持仏阿弥陀三尊像について―」 『MUSEUM(東京国立博物館研究誌)』第565号 (2000年 4月) 岩佐光晴「伝橘夫人念持仏の造像背景」『MUSEUM(東京国立博物館研究誌)』第565号 (2000年 4月) 田村円澄『古代日本の国家と仏教』吉川弘文館、1999年 岸俊男「藤原仲麻呂」吉川弘文館、1969年
紀年 字句 内容 大日本古文書巻-頁 天平3年8/10 西宅大刀自 仏頂経□巻、右為西宅大刀自□ 7-5 天平9年3/30 西宅写経所 合十七巻自西宅写経所請 和上所 7-76 天平9年4/2 西宅 右三経自西宅請 和上所 7-76 天平9年12/4 西宅 合40巻、以前自西宅請来 和上所経本 7-80 天平12年4/22 西家・西宅 西家経を西宅の書に擬す。 天平12年7/8 西宅本 注勝鬘経二巻など百二十九巻以上西宅本 7-489 天平20年2/21 西宅 今送 西宅、 已上院七巻自西宅請 3-148 天平20年4/26 西宅 自西宅請中写請和上所経合一百二十四巻 3-149
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]