行基図考
目次 1 行基図の概要 2 主な行基図の変遷 (1)日本最古の地図 行基海道図 (2)行基作の地図 (3)『二中歴』と行基図 (4)行基図の拡散、伝播 3 行基図の特徴 (1)行基図の特徴 (2) 行基図の評価 (3)日本は独鈷の形 (4)個別図 4 行基の日本国図の作成 (1)行基図の地図作成説 (2)奈良時代に作られた行基図 5 行基図の役割 6 行基図の情報 (1)国土の情報 (2)架空の地名 (3)特記された地名 はじめに 行基図という古式の日本地図がある。平安京のあった山城国から七道の国を道線で繋いだ日本 国の形を表しており、行基菩薩作とされているものがある。 今の時代に置き換えても、専門的な測量技術を持たない人がただ単に動きまわっても府県の位 置関係を正しく捉えることは困難があろう。 平安時代以前に日本図が作成され、その日本地図が江戸時代に至るまで約800年間受け継がれ てきたことは日本の歴史地理にとっても最大の功績であろうと思われる。 ところが、「実のところ行基が地図をつくったという証拠は何もない。(1)」とされる。 蘆田伊人(2)や秋岡武次郎(3)は、行基作の行基図を肯定する立場であるが、行基図のほとんど が東海道や北陸道、山陽道などの道路の起点を京の山城国から描いており、平安京遷都後の作で あることは明白であるとされるなど、否定する論(4)がある。 また、行基が生存していた奈良時代の平城京を中心とした地図は実在していないため、行基菩 薩作とされる行基図は、「後世の付会(5)」、「行基伝説の一つ(6)」とする見方もあり、「通俗的な 理解は行基による制作でなく、彼に仮託したもの(7)」とされる。 行基地図は果たして行基が作成したものかどうかを考察していきたい。 1 行基図の概要 基本的な形態として、平安京のある山城国を中心に、諸国を俵あるいは卵状(主として楕円も しくは円)の形に簡略化して、これを連ねる場合が多く、蝦夷(北海道)のない日本列島の大まか な輪郭を形成している。 行基図は、いわば、日本列島の四至(東西南北の境界)を描いた地図とみなすことができる。(8) また、山城国から五畿七道の道線が引かれ全部の国と繋げている。 島は、壱岐、対馬、佐渡、 隠岐、淡路島に道線が引かれるが、瀬戸内海、九州以外の島々の有無は地図によってまちまちで ある。 古い時代の「行基図」には、現在のような北上位の地図はなく、南上位が多くある。 行基図の多くはこれが明確に行基によって作られた旨を記している。 本論では、行基名がないものも行基関連図とみなして考察を加えた。 また、日本国図の外側に、郡数、田数、人口などが記されている。(9) このような国土に関する簡単な数字的記載は行基図にすべて見られるが、唐招提寺図はもっと も詳しく、国別の郡数と郡名が一面に列挙されている。 2 主な行基図の変遷 『行基事典』には、桃山時代までの手書き行基式日本図として9点、江戸時代初期の刊行行基 式日本図として8点の例品を示す。(10) それらを加除して、表1のとおり主なものを掲げる。 (1)日本最古の地図 「海道図」の名前は、蘆田伊人が大正14年に『拾芥抄』大日本図から新写したものを「海道 図」とする。(11) また、行基菩薩説日本国図を「海道図」とする。(12) 最古の紀年がある「行基図」は、延暦24年(805年)に下鴨神社に納められた「延暦24年改 正輿地図」 (13)であるが、原図はなく、現在伝わるものは寛政8年(1796)の藤貞幹『集古図』 所載の写しであり、かつ延暦24年の実情と不一致の加筆(延暦期ではなく嵯峨天皇弘仁14年新 設の加賀国が記される)が見られるから、後世の書き換えがある。(14) 確実に最古のものと言えるのは鎌倉時代の嘉元3年(1305年)の銘がある京都仁和寺所蔵の ものと同年頃に転写されたと推定されている神奈川県の金沢文庫所蔵 (15) のものである。前者 は典型的な行基図の体裁であり、「行基菩薩御作」と墨書されている。 表1 行基図の主な例品注1)行基の名があるものはゴチックとした。 注2)ふ:ふくろうの本『図説日本古地図コレクション』/織田:『地図の歴史』日本編、/海野:『ち ずのしわ』/室賀:『古地図抄:日本の地図の歩み』/黒田:『龍の棲む日本』/秋岡『日本地図 史』/大成:『日本古地図大成』 (2)行基作の地図 「行基が日本図を作ったとの記事は…六国史その他の歴史書にも記していない。歴史、仏教、 一般側には、行基と日本国のことは考えに入っておらぬのである。 (16)」とされるが、表2のと おり、現存する「行基図」には“行基菩薩”作等と記されているものが多い。 秋岡武次郎は、「注目すべきことは行基式日本図の多くに、これが行基によって作られたもので ある旨を記していることである。(17)」とする。 例えば、仁和寺の日本図は「行基菩薩御作」とする。 天理図書館に所蔵されている天文17(1458)年作の『拾芥抄』は現存する最古のものと言われて いるが、その行基図の欄外の但し書き冒頭に「大日本国図は行基菩薩の図する所なり」と記され るほか、江戸時代初期の大日本国図は、「行基菩薩説」と記される。 表2 行基作とする主な例品
行基図 紀年 備考/行基図の掲載書 行基海道図 奈良時代 蘆田図 延暦改正輿地図 805 江戸時代に下鴨神社納地図を転写、ふ75/千田稔166 『二中歴』 1128 三善為康写し、織田22/海野104 『拾芥抄』 1194 寛永19(1642)版、慶長12(1607)・20、別冊太陽/海野108 いせこよみ 1198 江戸時代作成か、延宝8(1680)/黒田217 仁和寺蔵日本図 1305 織田20/海野102/ふ8-9/大成5-8 金沢文庫所蔵日本図 1305 東日本の一部欠損、黒田口絵1 日本扶桑国之図 14C中期 広島県立歴史博物館/朝日新聞2018.6.15朝刊 輝津館所蔵日本図 1370 熊本県坊津町歴史資料センター/『大地の肖像』口絵23 混一疆理歴代国都之図 1402 ふ10/海野12 海東諸国紀 1471 1521刊・ふ12/応地86/織田30 日本考略 1530 織田31 南瞻部洲大日本国正統図 1557 (寛永年間、現唐招提寺所蔵)織田23/ふ11・22/大成18 『日本一鑑』日本行基図 1565 海野『地図にみる日本』大修館、1999年、22頁/神戸輝夫24 大日本国地震之図 1624 ふ21/黒田口絵2/室賀132-133/大成19 行基菩薩説大日本国図 1651以前 ふ86、秋岡折込 日本國之圖 1651- 56 慶安4(1651)・ふ24、明暦2(1656)・ふ25 扶桑国之図 1662 寛文5/6年再刊、ふ26、秋岡折込 本朝図鑑綱目 1687 石川流宣、室賀42.43/大成58・59 唐招提寺系統の行基図は、「行基(菩薩)図書之」とある。 日本一鑑の著者は、行基が聖武天皇の命を受けて、日本の図書を作ったと記した。(18) 「行基菩薩御作」とされる京都仁和寺所蔵の行基図を基にして、その原図が同じものを推定す ると、『拾芥抄』行基図、「延暦改正輿地図」、『南瞻部洲大日本国正統図』、「扶桑国之図」がある。 (3)『二中歴』(古事類苑所載)と行基図 大治3年(1128年)に三善為康が書いたものを原典として鎌倉時代にまとめられたとされる 『二中歴』がある。 藤田元春は、「二中歴図を見てこれに近似したものを今の行基図以前の日本図であると考え、天 平年代は既にこの種の八道図が存在したことと考定するのである。(19) 」とすることは、注目され る。 『二中歴』は行基図の前にあったとされることについては、『二中歴』の壱岐、対馬は逆に記載 され、これを基に作図をするならば壱岐が朝鮮側になったり、「佐渡、伊豆、志摩」の国名からは 島であるかどうかを区別できないことから、行基図から『二中歴』の行程図は作成できても、日 本の形状を把握していなければ、『二中歴』を元に行基図を作成することは困難であり、「既存の 行基図から日本の輪郭や諸国の国境を取り去って国名だけを五畿七道別に並べたと解され(20)」 ことは首肯できる。 (4)行基図の拡散、伝播 ◇国内 江戸時代後期においてすら節用集や大雑書のような百科便覧ないしは日常宝典の中に命脈を保 っていた。 (21) 地図以外に、?風絵(22)や陶器類や印籠その他の大鏡など器物の装飾に用いられている。(23) 文政年製の九谷焼や天保年製の伊万里焼などに素朴な行基式日本図が付いた大型平皿が製作 された。(24) 「延暦輿地図」は、江戸時代に写されるほか、流宣図のように日本の海岸線が正確に示される 図にも、行基菩薩図や雁道・女嶋の表記があるから、行基図の系譜を引き継いでいると言える。 ◇国外 室町時代以後に行基図が朝鮮半島や中国、遠くヨーロッパまでも伝わって、日本地図を描く時 の材料にされたといわれている。 織田武雄は、「混一疆理歴代国都之図/1402」「海東諸国記/1471」「日本考略/1530」「広輿図所 載東南海夷図・籌海図編/嘉靖年間」「日本一鑑/嘉靖45年(1566)ごろ」をあげる。(25) また、朝鮮には6種の日本古図がある。(26) □混一疆理歴代国都之図(27) 日本が南北に挿入される。海外で作られた日本図のうち、志摩国が陸続きとなっている。その他 の地図は離れ島となっている。 □『日本考略』(28) 朝鮮の「日本国図」国が州となる。讃岐がない。安房、志摩など4州が島状。 □『日本一鑑』(29) 明の鄭舜功が嘉靖 44 (1565) 年ごろ日本の国都において得た「行基図」を入手したものである。 仁和図同様に、日本が南北に配置され、唐招提寺所蔵のものとよく似ているとされる。 3 行基図の特徴 表3 行基図の特徴
行基図 内容 備考 行基菩薩御作 京都仁和寺所蔵の行基図/1305、日本扶桑国 之図/14C中期、本朝図鑑綱目流宣図/1687 行基菩薩所図 拾芥抄/1458、日本國之圖/1651- 1656、扶桑国之図 /1662 行基図書之 唐招提寺系統図(南瞻部洲大日本国正統図/1557) 行基菩薩説 大日本国図/1651 行基図書 日本一鑑/1565 注1) 行基の名があるものは太字とした。 注2) 架空は、南北に羅刹国、雁道を書くものに〇を付けた。 注3) 見付は、見付島が日本海にあるものは「日海」、太平洋にあるものを「太洋」と略記した。 (1)行基図の特徴 南を上に向けた行基図がある。(30) 西、東を上に向けた日本図は、掛け軸の縦長の図帳に描かれたもの(31) 「行基図は中世を通じてみられる唯一の日本全図であり、」(33) 「南北軸に想像上の異界、異国を想定したのが、このタイプの行基式〈日本図〉の特徴なのであ る。」(33) 「六十六国二島を五畿七道に分けることが行基式〈日本図〉の基本であり、五畿七道をそれぞれ の道線によってに串刺しに繋いでいるのが普通なのである。」(34) (2) 行基図の評価 弘中芳男は、「全体像のプロポーションは仲々しっかりしていて、全国を何度となく歩き廻った 人の実感のようなものが伝わってくる。その点行基が作ったという言い伝えが何となく頷けると もいえよう。また、地図が中国の初期のような国家権力のツールとしてできたという感じよりも、 神官、僧侶といった特権階級とはいえ、ともかくも民衆の側のものとして自生してきたらしい点 も、興味ある特徴であろう。…日本列島像が行基図という形で、まず日本において形成されたと いう事実である。(35) 」とする。 (3)日本は独鈷の形 日本は独鈷の形とするのは、『拾芥抄1194』から始まるか。 『渓嵐拾葉集1318』、著者は、比叡山天台宗の記家(文書を記録する者)である光宗(1276-1350)か。 『渓嵐拾葉集』に「行基菩薩記に云ふ。日本はそれ独古となり。行基菩薩、遍国し、国境は定め、 田畠を開きたまふ時、十人して田をばつくるべきには十人に変じて雇はれ、乃至百人して田を ばつくるべきには変じて雇はる。かくのごとく変作して、田畠を開きたまへり。その時、日本国 を図したまへり、その形独古形なり。」とある。 (36) 輝津館所蔵日本図/1370(37)は、同書と同様の発想により作られたか。「行基菩薩記」との関係 は不明。 独鈷の形、畿内五国の中央に大和国(宀一山)以外の国名なし、西国9国、東国8国は輪 郭のみ記される。 独鈷の中心は宀一山であるが、地図は「宀一山記」などの記事によるものと思われる。 (4)個別図 □延暦改正輿地図(38) 淡路、佐渡、隠岐、壱岐、対馬、止之島、伊豆嶋、多禰嶋、鬼界嶋があるが、瀬戸内海には淡 路以外の島がないシンプルな図。西方上位。加賀国が記載される。「行基作」ないが、行基図に近 い。朱線、国の形を簡略する。信濃、石見、肥後から書き始めているので、元図を手本に別図を書 き直したことが分かる。四国の書き方を3筆で書く。原図を元に簡略化した。 南海道の道線が和銅年以前の状況を示す。土佐は伊予から山越えであったが、和銅年以後、阿 波から海岸沿いの道も開設された。 □「京都・仁和寺蔵日本図」(39) 「行基菩薩御作」視点は南上位、朝鮮半島から眺めた日本の形である。「金沢文庫蔵日本図」と同 じ嘉元三年(1305)の「仁和寺蔵日本図」は、中国地方の安芸国より西方が欠けているが、日本国内 だけの描写である。国内の関と熊野が書かれる。 山城から朱線で5本の幹線道路が描かれるが、他の「行基作図」が道を二重線と書くことと比べると 古い状態を残していると考える。道線は、唐招提寺図に引き継がれる。 □金沢文庫所蔵(40) 室賀信夫は、「仁和寺とも同じころ[1305] ものといわれるが、あるいはもう少し年代が下がる かもしれない。(41)」 とする。 朝鮮半島から見た日本地図。対馬、隠岐の外に羅刹国、龍及国、唐土、高麗、雁道、新羅とい うような地名が日本列島のまわりに描かれている。竜か蛇が日本を取り巻く。南を上にする。諸 国への道線なし。元寇の影響か。龍蛇が日本を守る形、金沢称名寺の史料。 他国や架空の地名が描かれる。「行基作」なし。竹島(鷹島)は、『拾芥抄』の見海島と同じか。(42) □『拾芥抄』(43) 「大日本国図、行基菩薩所図也」より始まり、道州郡郷数が記される。一本[尊経閣文庫蔵]として、 大唐国の道州県郡等が記される。 鹿島、香取、夷地、津軽大里、道筋がない島は12となる。寛永版は、西を上にするが、地面は東が 上。地名と説明は天地が逆(二人が両方から読める。)の逆さ地図、大陸唐から見た図。 行基菩薩所図也、此土形如独鈷図、海外なし。604郡13000余郷、2本線。郷里制の郷の数が多い のは、郷を細分化して、里にしたからで、原図は霊亀年から天平十二・十三年以降の土地情報を記し ている。 天正17年(1589) 書写本(尊経閣文庫蔵)は、諸国からの調庸物運搬所要日数や海陸交通関係地 名などの注記がある。(44) 4 行基の日本国図の作成 (1) 行基の地図作成説 日本国図の作成 国郡を定めることは『濫觴抄上』に、成務天皇4年から記録される。 そして、『日本書紀』には、允恭天皇、崇峻天皇、孝徳天皇の代に国境を定めることが見える。 『日本書紀』の天武十年八月二十日の条に「多禰嶋に遣わした使節が、多禰国の地図を(天武天 皇)たてまつる」とあり、使者は一年以上多禰嶋に滞在して南島の調査等を行い報告の為の地図 を作製した。これは信濃国の地図作成に先立つものであった。 『日本書紀』天武十三年閏四月壬辰条には、 「三野王等、進信濃国之図」とある。 『続日本紀』天平十年(738)八月辛卯条には、 「令天下諸国造国郡図進」とあり、天平十年に全国で国郡図が作成される。 次いで、平安遷都後、『日本後紀』延暦十五年(796)八月己卯条で、 「是日。勅。諸国地図。事迹疎略。加以年序已久。文字闕逸。宜更令作之。夫郡国郷 邑。駅道遠近。名山大川。形体広狭。具録無漏焉」 とある。延暦十五年図の作成命令である。 表4 地図に関わる史料
行基図 道線 上位 架空 見付 備考 延暦改正輿地図 朱 北 止之島、伊豆嶋、多禰嶋、鬼界嶋、白川関、イツの大嶋/信濃、石見、肥後から書き始める。 『二中歴』 一線 北 > 中都、門司関/尊経閣文庫蔵は調庸物運搬所要日数記入 『拾芥抄』 一線 二線 北 太洋 止島(火??)、伊豆大島、見付島、見海(長門領)、三嶋、伊都(岐)島、多祢、(嵯峨関、壺石踏) コシマ、ヤシマ、鹿島、香取/此土形如独鈷図 いせこよみ なし 東 龍が取り巻く12月の暦。建久9年版は偽作とする。 仁和寺蔵日本図 朱 南 熊野、シラカワノセキ、アウサカノセキ、サカノセキ、イツの大嶋、 金沢文庫所蔵日本図 なし 南 〇 竹島(鷹島) 日本扶桑国之図 朱 入唐道大宰府夷地 輝津館所蔵日本図 なし 北 〇 大和国、宀一山 混一疆理歴代国都之図 なし 西 〇 津軽大里、夷地、王城/対馬が日本とはなれて巨済島とくっつく。瀬戸内海がなく陸続きになる。 海東諸国記 なし 北 〇 日海 鎌倉殿/志摩国が島状。瀬戸内から国都、朝鮮・琉球の行程 日本考略 なし 南 国が州となる。讃岐がない。安房、志摩など4州が島状。 南瞻部洲大日本国正統図 朱 西 〇 太洋 <会津、秋田城、鎮主(守)府、夷地、宇曽利の地名、 西海に志賀島、呼戸、平戸、天草/※補堕落 二線 南 〇 ※ 『日本一鑑』日本行基図 点線 南 〇 太洋 入唐道、熊野山、会津、宇曽利、富士山、雁道、羅刹鬼国、 大日本国地震之図 二線 東 〇 国土を取り巻くおどろしい龍が中世的特徴、かまくらが一国のように書かれたため、東京湾は無くなる。 行基菩薩説大日本国図 二線 東 〇 かな書き、東上位、島多し、金沢文庫所蔵図から「にち月嶋」の有無両方がある。 日本國之圖 二線 東 〇 「行基菩薩所図也、」江戸 扶桑国之図 二線 北 〇 行基菩薩所図、雁道、ラセツ国 本朝図鑑綱目 一線 二線 北 〇 海には波を陸地には山を描き、国中には城主の名と石高を記入し、諸街道の里程表も掲げる。 行基作とされる地図以外に地図作成に関連する史料には次のものがある。 本朝書籍目録/永仁2/1294は、「藤原實冬の写本であるが、天平の地図が付いていたとすれば、行 基撰となっていて当然であり…(45) 」とあるが、現存しない 国境を定めることは、大化の改新直後の大化2年(646年)に諸国に対して国の境界について の文書あるいは地図を献上するように命令が出され、律令政治下においては民部省に国境把握の 義務があり、また、図書寮には地図保管の義務があったため、当然政府内で地図が作られていた ものと想定される。 国郡図の作成は、『続日本紀』の天平10年(738)8月の項に「令天下諸国造国郡図進」とあり、 律令国家が国郡図を諸国に作成させている。これは、国郡図の二度目の編纂とされ、一覧図が作 られたとする。(46) 『日本後記』延暦15年(796年)8月己卯(21日)条に「諸国地図、事迹疎累、加以年序已久、 文字闕逸、宜更令作之、夫郡国郷邑、驛道遠近、名山大川、形體広狭、具録無漏焉」、諸国地図は 事柄が疎略であり、年序が久しく、文字が欠失しているので、更新せしめるとある。 天平10年から約60年近く経過することになるから、地図の更新もあり得るだろう。 行基は、『国府記』7巻を作る。(47) 仁和寺行基図の地理情報はこれに依ったか。行基菩薩作、大日本国図とも国郡郷数がほぼ一致す るから、大日本国図は、『国府記』と関連したものではないか。『拾芥抄』は、「大日本国図は行基 菩薩の図する所なり」として、道州郡郷数が記されるが、仁和寺行基図より郡郷数が多い。(48) 摂播五泊に関して、「むろ、あかし、すま、ひょうこ」がある。 善光寺縁起第2に「如来御船人偏風吹行程。百済国與日本国浪之上十九万里。行基菩薩定置給乎 (49)」とあるのは、摂播五泊に繋がるものと考える。 (2)奈良時代に作られた行基図 黒田日出夫は、「何度にもわたって作成された国郡図を使って、律令国家が作った分に可能性は あるだろう。しかし、そのような〈日本図〉は見つかっていない。(50)」とし、「先学が想定しているよう に、やはり、平安時代には行基式〈日本図〉の図形が成立していたのではないか。(51)」とするが、 それ以前の奈良時代には、踏み込んだ言及をされない。 ところが、千田稔は、「東海道の道線が相模―武蔵―安房―上総―下総―常陸とされることから、 武蔵は東海道に属していると解釈してよく、武蔵が東山道から東海道に編入するのは宝亀2年 (771)である。…本図の原図は奈良時代の地理的情報を伝えるものであったと想定される。(52)」 とする。 道路の基点は「山城国」であり、大和と山城の境に四角形があり、「○城」と記される。 これについては、千田稔は、平城京の「平城」ではないか(53)とするが、秋岡武次郎は、「王城」 と読み解く。(54) 「王城」は、行基伝がある『三宝絵』に「天智天皇寺ツクラムノ御願アリ、此時ニ王城ハ近江ノ 国大津ノ宮ニアリ(55)」とされるから、宮都のことである。 『南瞻部洲大日本国正統図(唐招提寺蔵)』の解説には、「自王城到陸奥東浜一千九百七十八里矣」 と「王城」の文字が記される。 ここは、「大和国と山城国の境の王城」と考えたい。すると、「京都・仁和寺蔵日本図」の大和と山 城の境にある「王城」は、大養徳恭仁京に当てられる。 ここに、奈良時代における日本図の痕跡とされるものが見つかったものと思料される。 正確に言うと、大養徳恭仁京の所在は、奈良時代の山背国相楽郡に位置するのである。 山背国は、延暦13年(793)に山城国となる。 また、後述するように、仁和寺図に書かれる国土の情報の郡里の数は、奈良時代前半の史料が 用いられているのである。 5 行基図の役割 蘆田伊人は、「日本地図は行基が何かの便宜のため、畿内を中心として七道の方向や諸国の順位 と隣接を一目で見得るように簡単な日本総図として作ったものであろう。(56)」とする。 なぜ、行基がこのような地図を作製したのか。その目的を探る。 □実用性 古代・中世の人々が日本全域の略図を求めたものは、中央と地方とを結ぶ交通路と諸国の関係、 位置とであったと言えるだろう。(57) 具体的にいうと、地図の最も基本的な用途は案内図である。 菩薩の利他業として、「迷い者には路を示してやり」とある。(58) 行基は社会活動のなかで、布施屋を設けた。行基図をなどに布施屋などに備え付けて、調庸を 都に納めに来た百姓に帰りの道順を教えたのであろう。 地方から出てくる調庸運脚夫が都に向かう場合は国司・郡司に引率されて都へと向かった (59) が、帰りは引率なしや単独で帰郷する場合があったのだろう。 都にいく道は誰もが知っていることだが、逆に地方に帰る道は、自分が住んでいるところ以外 は知らない場合が多く、誰も教えることが出来なかったのであろう。そのため、行基図は地方に 帰る人のために利用された可能性があると考える。 また、奈良時代の官人や国師が七道諸国に派遣された場合や聖武天皇が播磨(神亀二年)や東国 (天平十四年)などへ行幸する際にも、日本図が使われたものと思われる。 その後、時代が移り、行基図の目的も変わっていったものと思われる。行基図はその後、行基 伝説と共に変化し続けるのである。 □護符、説経 嘉元3年(1305)金沢文庫所蔵の竜か蛇が日本を取り巻く地図は、蒙古襲来の後であるから、 竜神が神国日本を守る護符の役割を持ったものと思われる。 龍は、和泉国の水間寺や河内の龍尾寺など行基とも関係の深い伝承がある。(60) 地震からの忌避を目指した護符や説経でもあった。 □追儺の儀式 用途として、追儺の儀式に使われるという説がある。(61) 追儺は、慶雲三年(706)行基の奏上によって始まったと伝えられるからである。(62) その他、鬼やらいとして、「…穢悪しき疫悪の所々村々に蔵り隠ふるをは、千里の外、四方の堺、 東方陸奥、西方遠値嘉、南方土佐、北方佐渡」とあり、この四方の外へ鬼疫を追い払い、来る年 の国土安泰などを祈願する行事であり、その行事に国土が一覧できる地図が用いられたのではな いだろうかと考えられている 。(63) □子弟の教養、遊び、伊勢暦 地図には役割がある。「行基図は、貴族の子弟の教養のためにつくられた国名一覧図ともいうべ きものだったのだと思われる。(64)」教育・芸術分野では行基図が後々までに使われてきた。 『拾芥抄』の慶長活字本は、地名等を簡略化し、島の数が限定され、行き止まりの国、「現実性 のない道線(65)」があるので、実用性に欠けるところがあると思われる。 道が描かれる佐渡、隠岐、対馬、壱岐の四島以外には、次の九島が見え、その他に名前のない 島が三島描かれ、計十二嶋である。
史料 年紀 内容 備考 濫觴抄上 成務天皇4年 国の始は諸国の境界を定め、各郡を分かつ也。 日本書紀 成務天皇5年 山川を隔ひて国県を分ち、阡陌に随ひて、邑里を定む 日本書紀 允恭天皇 允恭天皇、造立国境之標。 「新撰姓氏録」阪合部連が国境の標を建てたので「サカイベ」という姓を得た。藤田36頁。 日本書紀 589 東国三道の国境を定める。 崇峻天皇2年 日本書紀 646 国々の橿界を観て、或は書にしるし或は図をかきて、持ち来りて示せ奉れ、国縣の名は来む時に将に定めむ。 孝徳天皇大化2年8月癸酉条 日本書紀 天武10年(682)8月 多禰国に遣しし使人等、多禰国の図を貢れり。 天武紀 日本書紀 天武12年(684)8月 諸国の境堺を限分うべし。 天武紀 日本書紀 天武13年(685) 閏四月 「三野王等、進信濃国之図」 天武紀 風土記編纂 和銅6年 風土記編纂 元明紀 大日本国記 奈良時代 是即行基菩薩算計勘定之文也 68国578郡3772里 鎌倉新大仏勧進上人浄光申状 海外国記40巻 天平5年 現存はしない 仁和寺図書目録 『続日本紀』 天平10年(738)8月 国郡図を諸国に作成「令天下諸国造国郡図進」 『続日本紀』 日本後記第5 延暦15年(796)8月21日 諸国地図更新「勅、諸国地図、事迹疎累、加以年序已久、文字闕逸、宜更令作之、夫郡国郷邑、驛道遠近、名山大川、形體広狭、具録無漏焉」 日本後記第5 意見封事十二箇条 延喜14/ 914 (摂播五泊)此皆行基菩薩計レ程所二建置一也。 群類474 行基大菩薩行状記 室町以降 三国の差図を作りて、我が朝にひろめ給へり 続群類204 『拾芥抄』 天文17/ 1458 「大日本国図は行基菩薩の図する所なり 天理図書館 本朝書籍目録 永仁2/ 1294 国府記7巻行基菩薩撰 現存しない 仁和寺図書目録、 長谷寺縁起 大寺縁起中巻 1690 三国の絵図を書く行基(開日神社蔵) 行基事典449頁。 善光寺縁起 1394-1428 「如来御船人偏風吹行程。百済国與日本国浪之上十九万里。行基菩薩定置給乎」 続群類814 渓嵐拾葉集 文保2(1318) 行基菩薩記に云ふ、「日本はその形独鈷となり。」「行基菩薩日本を遍歴して国境を定め、田畠を開きたまふ」 「しま」の表記は、島、嶋、シマ、名がないものなど多様である。万葉集には、嶋は山斎と書 く。そして、道が描かれない国に「津軽大里」と「出羽」がある。 行き止まりの国は、「陸奥」「安房」「若狭」「土佐」「日向」「石見」「飛騨」。 これらの地名は見えない糸で結ばれるが、「飛騨」は内陸部で浮いている。「陸奥―対馬」「安房 ―若狭」「土佐―佐渡―止島」「日向イ―出羽」「石見―見海―三嶋、見付島」「伊都(糸)嶋―止島」 「伊豆大島―津軽大里」「コシマーヤシマ」「隠岐―紀伊」、そして「飛騨」は「飛ぶ」から「止島 (飛島)」へ行くか。この実用性のない地図を考えたとき、賽を用いる双六遊びを連想した。 6 行基図の情報 ◇地図に書かれた情報 (1)国土の情報 国土の情報は、 68国578郡3770里となっているが、この里数は、霊亀元年(715)式以前の国 郡里3階制で表記されており、霊亀元年以後の国郡郷里4階制や天平十一年末以後の国郡郷3階 制を採用していないから、奈良時代前半の古い史料を用いているが分かる。 天平十一年以後の郷を里と表記した可能性が残るが、郡数が578郡と延喜式590郡、和名抄 600郡、拾芥抄604郡、郷一萬餘より少なく、郡里が和名抄の4026-4039より少ないのは、古い 時代に属しているものと考えられ、「仁和寺蔵日本図」は、行基菩薩算計勘定之文とされる大日 本国記の数字を用いているのである。(66) 『律書残篇』によると、日本は「国67、郡555、郷4012、里12236」と郷里制で表記され、養老 5年(721)4月〜天平9年12月とみられている(67)ので、里数の比較において年代は整合する。 「仁和寺蔵日本図」の3770里は、延喜式の4012郷より少ないのは3770里、霊亀元年以前の郡 里制の時代の数字を利用していることを示している。 (2)架空の地名など 「金沢文庫蔵日本図」に書かれた地名(68)
止島(飛島)、伊豆大島、見付島、伊都(岐)嶋、三嶋、コシマ、ヤシマ、見海(見島)、多祢 「羅刹国(71)」・「雁道(72)」共に架空の地名である。 黒田日出男は、「金沢文庫蔵日本図」の「羅刹国」と「雁道」は、「東西軸に横たわる日本国に 対して、南北軸として設定・表現された。(73)」とされるとおり、「雁道」は、雁が帰る方角の北を 示したものと思われる。(74) 「雁道」が示す注記「城ありといえども人にあらず」の解釈については「異形の者の住むとこ ろと考えられた(75)」とする説があるが、金沢文庫行基図、『日本一鑑』日本行基図の実際の 注記のとおり[所居]を加え「雖有城形非人所居」(城ありといえども人居るところに非ず)と解釈 すると分かりやすいのではないか。(76) 「雁道」は、雁が通る道であり、雁が居る場所(道は国の意)を示すので、やはり、北を指し示す と思われる。また、「羅刹国」は、『大唐西域記』や『今昔物語集』のような南方にある国として、 南を示すと考える。 「雁道」及び「羅刹国」は、南北を示す架空の地名である以外に、別に意味を持つとするなら ば、仏教者である行基に仮託した絵解きのようなものと考える。強いて言えば、行基が多くの 処世訓(77)を残すように「女人が多くたむろするところや珍しいところを物見、寄り道をしないで 真っ直ぐ帰りなさいよ」と行基という名で諫めたということだろうか。 (4)特記された地名 □白河関 延暦輿地図に「白河関」や仁和寺行基図に「しらカワノせき」があり、それ以降の図に「白河 関」が引き継がれる。(78) 白川関の故地に白川関山観音(白河市成就山満願寺)がある。「東奥白河往昔之記」に「奈良 帝聖武皇帝之勅願所也。行基菩薩開基也云々(79) 『続々群書類従』第九巻、地理部s44年、 541頁。」とある。 「奥州白川二所之関成就山縁起」には、「行基が日本の「国分け」を行った際、下野・陸奥の境 に白川(白河)の関を設けたとあり、諸国を遍歴しつつ国境を定めていく行基のイメージが前提に おかれている。(80)」とされるように、行基と白河関は関連付けられる。 □熊野地名 熊野に関しては、連想するものが多くある。 伝承的には、神武天皇の東征の上陸した土地である。(81) 斎国人の徐福伝説は、秦始皇帝の命により不老不死の薬を求めて、日本に来た徐福伝説。(82) 「混一疆理歴代国都之図/1402」には、「避秦人徐福祠」が記される。「日本一鑑」にも徐福の祠 堂に触れている。(83) 少彦名尊が熊野岬から常世の国に帰ったところである。(84) 仁徳天皇の皇后磐之媛が熊野の岬から難波に帰られた話がある。(85) 仏教に関しては、観音を求めて熊野の浜から漕ぎ出す補陀落渡海があげられる。(86) 「南瞻部洲大日本国正統図(唐招提寺蔵)」には、細くなった紀伊半島の先、四国の南に「補陀落」 島が描かれる。 熊野信仰は修験道の熊野三山・熊野権現にみえる。 熊野権現、熊野の位置は、南上位の天にあり、「天地久(天竺)熊野の権現」を連想する。(87) 行基は、天平五年に紀州熊野権現に参詣するとされるが(88)、行基は熊野権現、熊野神社を 各地に勧請した。(89) 偽書で行基作の『大和国葛城宝山記(続群書類従巻65))』にも「熊野権現」を記すから、熊野 と行基を結びつける意図があったものと思われる。 伊丹の天神社の伝承には、行基が和銅6年熊野権現を勧請したことが見られ(90)、『昆陽鑑 (46頁)』は、千僧村の阿弥陀堂境内に熊野権現社がある。(91) 各地の熊野信仰と重ねて行基の造仏が縁起つけられている寺院が8カ寺ある。(92) ところで、熊野は「ゆや」と読める。湯屋は、行基造作の温室であり、有馬・山中・伊香保・ 塩江温泉など各地の温泉は行基伝承があるから、湯治と行基は関連するらしい。 また、熊野には、駆魔(駆儺)が係り、追儺に関係するのは、先に述べたところである。 □小栗判官説話 毒殺された小栗が餓鬼阿弥の姿で地上に蘇り、東国から熊野を目指し、湯の峰温泉に入れば、 元の姿に戻り、照手姫と再会する話がある。(93) 他方、九州から始まる道がある。入唐の道や呼子島、平戸、志賀島、見海島(石見領)が描かれ るから、大宰府、遣唐使と関係があろう。 地図とは、直接結びつかないが、小栗が東国から熊野を目指す一方、西からは、刈萱道心と息 石童丸(石堂丸・石塔丸)が大宰府から高野山を目指し、その後、石童丸は加藤左衛門尉繁氏とし て父の守護職を継ぎ、太宰府の刈萱の関の関守となった。(94) 小栗−刈萱は東西からほぼ一本の線で結ばれる。高野山もまた行基伝承を残す地である。(95) □見付島 見付島、止島、見海、三嶋、伊都島、多祢、嵯峨関などの地名には、何らかの意図が含まれる ように思われる。例えば、「見付島」は、地図によってその位置がまちまちであり、「見つけよ見 付く島」とすれば、「見海」島に導かれる。「見海」島は、福岡から海上六里の「玄海島」を示す ものと思われる。(96) ここは、嵯峨天皇の時代に設定された「百合若大臣」説話と関係する場所であり(97)、ひいて は、行基菩薩の実体を隠している言葉に関連すると思われる。 結びに 「行基菩薩作」「行基菩薩説」とされる日本国図は行基に仮託された伝説なのであろうか。 仁和寺図など日本図は、実在するからには誰かが作ったものがいる。それが、畿内各地に池、 溝、河、橋などを作った行基に仮託されたと考えるなら、なぜ、空海に仮託されなかったのかも 併せて考えてほしいところである。(98) 行基図の特徴である山城国から七道が描かれるから平安時代以降で、奈良時代のものでない から行基が作ったものはないと考えることは正しい歴史認識であろうか。 資料が残っていないことをもって、その事実がなかったとはいえないものと考える。 日本図は奈良時代に作られたものはないから、行基が日本図を作ったことを否定する論拠の一 つとされた「奈良時代のものはない」とする説は、本論文においてを覆せたものと考える。 嘉元三年(1305)以後に作られた「仁和寺蔵日本図」に大養徳国恭仁京を「王城」とする痕跡を見 いだすことができたから、その原図は奈良時代に遡り、行基によって作成された可能性がある。 そして、仁和寺行基図に書かれる王城の大養徳恭仁京は行基と何らかの関係を持つことを推測 させる。 『行基年譜』や『日本霊異記』を根拠に行基が畿内を出ていないとすることは、井上正が指摘 する(99)ように『続日本紀』に「諸道」にあるとされ、また、『行基年譜』や『日本霊異記』より 古い『三宝絵』にも同様に記されるとともに、全国に1400もの行基縁の寺院があり、全国各地 に行基伝承の地が点在することから鑑みるならば否定されるものであろう。 大化の改新直後の大化2年(646年)に諸国に対して国の境界についての文書あるいは地図を 献上するように命令が出され、律令政治下においては民部省に国境把握の義務があり、また、図 書寮には地図保管の義務があったため、当然政府内で地図が作られていたと思われるのである。 測量学の立場からは、更に踏み込んで、行基は遣唐使の一員であったとする。(100) 『行基年譜』『七大寺日記』や『大安寺菩提伝来記』(101)など、婆羅門僧正、伏見翁と行基の伝 承・伝記(102)を見ると、和歌の交換や行基が梵語を話せたりすることは、行基が海外に出たこと を暗示させるようであり、海外に出ないまでも、行基かその周辺に土木技術者をはじめ、訳語者 や測量技能を身に着けた者がおり、影響を受けたとも推測される。 更に行基が国内を遊行し、国境を定めた伝説が多いことは、地図作成の有資格者であり、竹越 與三郎が想定するように行基=官人説を考えるからである。(103) 例えば、橘諸兄は、祖父栗隈王と同じく太宰府の長に任じられており、また奥羽まで出かけて いるのである。(104) 橘諸兄の父は美濃王で、信濃国図を作成しているのであるから、諸兄の周辺にいる官人であれ ば、日本国図の作成が可能であると思われる。 行基図は、調庸運脚夫が帰郷のための案内図を行基が作り、布施屋に置かれ、利用されたもの と憶測するが、江戸時代まで「行基作」図が作られるのは、蒙古襲来や鬼やらい、地震からの忌 避を目指した護符や説経に使われたり、「双六図」遊び等に見られるように時代の変遷と共に尾ひ れがついて、特記された地名等は行基に関する情報に繋がる。行基図は「行基が作った」ことよ り、「行基を表現する」ことを主目的としたものと思われる。 行基図は、『行基年譜』や『行基菩薩縁起図絵詞』の如く、行基のことを記した暗号書の役割を 果たしているのである。 註 (1) 室賀信夫『古地図抄:日本の地図の歩み』東海大学出版会、1983、29頁。 (2) 蘆田伊人「本邦地図の発達」『岩波講座日本歴史』7、国史研究会編、1934年、12-13頁。 (3) 秋岡武次郎『日本地図史』河出書房、1955年/〔復刻版〕ミュージアム図書、1997年) (4) 否定説の論拠に「六国史や仏教史書には行基の記事には地図作成の事実にはふれられていない。行基による 日本地図作成の資料が見えない。」として、「行基作」とされる行基図を否定されるが、どんな史料でも書かれたこと は事実の一部であり、書かれていないことの方が多いことは自明の理である。そこに書かれていないことをもって、 書かれた史料を否定することはいかがであろうか。行基に作成を否定するもう一つの理由は、行基の活動範囲を畿 内に限定することである。(喜田貞吉著作集第4巻、歴史地理研究「五泊考」平凡社、1982年、220-221頁。)/ 『行基事典』は、「日本国地図作成の栄誉が行基に付与されたと考えられる。」とする。 (『行基事典』井上薫編、国書刊行会、1997年、444-451頁。) (5) 中村拓監修『日本古地図大成』講談社、1972年、5頁。 「中世にはいって人文的英雄としての行基菩薩の作に付会され」 (6) 海野一隆『ちずのしわ』雄松堂出版、1974年、85頁。/織田武雄『地図の歴史』日本編、講談社現代新書369、 1974年、27頁。 (7) 室賀信夫『古地図抄:日本の地図の歩み』東海大学出版会、1983、29頁。 (8) 久武哲也・長谷川孝治編『地図と文化』改定増補版、地人書房、1993年、65頁。 (9) 中村拓監修『日本古地図大成』講談社、1972年。9頁。 (10) 『行基事典』は、「日本国地図作成の栄誉が行基に付与されたと考えられる。」とする。 ◎桃山時代までの手書き行基式日本図9点 輿地図(原図は延暦二十四〔805〕年) 二中歴中の道線日本図(大治三〔1128〕年) 日本図(嘉元三〔1305〕年 仁和寺蔵) 日本図(嘉元三年描と推定、金沢文庫蔵) 拾芥抄中の大日本国図(拾芥抄は洞院公賢〔1291〜1360〕撰) 南瞻部洲大日本国正親図(原図は弘治三〔1357〕年前後) 豊臣秀古所持の扇面日本近城図(文禄元〔1592〕年〜慶長3〔1598〕年、武藤金太蔵) 加藤清正北野神社へ献納の鏡背日本図(慶長十六〔1611〕年以前) 発心寺蔵日本図屏風(桃山時代) ◎江戸時代初期の刊行行基式日本図8点 慶長本活字本拾芥抄中の大日本国図(慶長年間〔1596〜1614〕印刷、上野図書館や秋岡武次 郎。南波松太郎氏ら蔵) 南瞻部洲大日本国正統図(本版一鋪、寛永〔1624〜44〕頃) 行基菩薩説大日本国図(本版一鋪、慶安四〔1651〕年以前) 日本国之図(本版一鋪、慶安四歳十卯孟秋良日) 日本国之図(承応三〔1654〕午圧月古H) 日本国之図(明暦2〔1656〕年二月占=) 大鏡背面日本図(寛文年間〔1661〜73〕藤原政親作) 寛永以後の本版拾芥抄中の大日本国図(秋同武次郎氏蔵、寛永19〔1642〕年刊、明暦2〔1656〕年刊、無年号の 刊) (11) 「海道図『明治大学図書館古地図蘆田文庫コレクション特別展資料解説』2004年、1頁。 (12) 吉澤孝和『量地指南に見る江戸時代中期の測量術』北原技術事務所編、建設省中部地方建設局天竜川上 流工事事務所発行、1965年(武田清『測量学概論』より抜粋、図-7)14頁。 (13)「好古小録によると、京都下鴨社に日本の古図がある(梨木三位祐之模本で延暦二十四年改定の図と云ひ、 古年代記に所載の図と、大同小異也とある)。蓋し藤貞幹はこの図とこの記事を見たのであるが、不幸今日に於 いては下鴨社にこの図は存在しない。」(藤田元春『日本地理学史』刀江書院、1942年、44頁。) (14) 織田武雄、『地図の歴史』日本編、講談社現代新書369、1974年、19頁。 (15)黒田日出男『龍の棲む日本』岩波新書831、2003年、口絵1。 (16)秋岡武次郎『日本地図史』〔復刻版〕ミュージアム図書、1997年、155頁。(『日本地図史』河出書房、1955年) (17) 同上、155頁。 (18) 藤田元春『日本地理学史』刀江書院、1942年、61頁。 (19) 同上、58頁。 (20) 織田武雄、註(14)、23頁。 (21) 海野一隆「ちずのしわ」雄松堂出版、1974年、127頁。 (22) 室賀信夫『古地図抄:日本の地図の歩み』東海大学出版会、1983、33頁。 (23) 海野一隆、註(21)、127頁。/「大鏡」秋岡武次郎、註(16)、120-122頁。 (24) 秋岡武次郎、註(16)、146-151頁。 (25) 織田武雄、註(14)、29-31頁。 (26) 藤田元春、註(18)、106頁。 (27) ふくろうの本『図説日本古地図コレクション』河出書房新社 2004年、10頁。/弘中芳男『古地図と邪馬台国: 地理像論を考える』大和書房、1988年52-53、65-107頁。 (28) 室賀信夫、註(1)、137頁。 (29) 神戸輝夫「鄭舜功著『日本一鑑』について(正)、「桴梅図録」と「陀島新編」『大倉大学教育福祉学科研究紀 要』第22(1)号、2000年。/海野一隆『地図にみる日本』大修館、1999年、22頁。 (30) 仁和寺蔵、金沢文庫蔵、日本一鑑、日本考略など 南を上にする構図は、朝鮮半島から見た日本図になる。遣唐使の道が描かれるとおり、九州が、日本の入り 口に当たるのである。 (31) 川村博忠『方位と風土』古今書院、1994年、80-81頁。 (32) 織田武雄、註(14)、25頁。 (33) 黒田日出男「行基式〈日本図〉とはなにか」『地図と絵図の政治文化史』東京大学出版会、2001年、42頁。 (34) 同上43頁。 (35) 弘中芳男『古地図と邪馬台国:地理像論を考える』大和書房、1988年、225頁。 (36)黒田日出男、註(15)、20-24頁。 (37)「輝津館所蔵日本図/1370」熊本県坊津町歴史資料センター (38) ふくろうの本、註(27)、75頁。/千田稔『風景の考古学』地人書房、1996年、166頁。 (39) ふくろうの本、註(27)、8-9頁。/千田稔『古代日本の王朝空間』吉川弘文館、2004年、260-265頁。 (40) ふくろうの本、註(27)、9頁。/黒田日出男、註(15)、口絵1。 (41) 室賀信夫、註(1)、31頁。/千田稔「行基図再考」『地図と歴史空間』大明堂、2000.年、189頁。 (42) 黒田日出男、註(15)、77頁。 (43) 織田武雄、註(14)、21頁。 (44) 海野一隆85頁。図33(86-87頁。) (45) 藤田元春、註(18)、48頁。 (46) 織田武雄、註(14)、17-18頁。 (47) 行基菩薩撰『国府記』7巻、「本朝書籍目録」『群書類従』雑部所収、第475、171頁。/ 「長谷寺縁起文」にも、「行基菩薩国府記7巻、」が見える。(『大日本仏教全書118』寺誌叢書第2、326頁。) (48) 黒田日出夫、註(33)、36-37頁。 (49) 善光寺縁起第2『群書類従巻814』 (50) 黒田日出夫、註(33)、13頁。 (51) 同上、29頁。 (52) 千田稔「行基図再考」『地図と歴史空間』大明堂、2000年、188頁。 (53) 同上、189頁。 (54) 秋岡武次郎、註(16)、26頁。 (55) 『三宝絵』下、岩波書店、164頁。 (56) 蘆田伊人「本邦地図の発達」(旧『岩波講座日本歴史』5、1934年) (57) 海野一隆、註(21)、88頁。 (58) 道端良秀「大乗菩薩戒と社会福祉」『行基 鑑真』吉川弘文館、1973年、337頁。 (59) 「調庸は本来それを負担した人自身が都まで運ぶことになっていた。しかし実際にはすべての人が上京した わけではなく、各村から代表が税を運ぶ役の運脚となり、その他の人びとは運脚の費用(脚直料)を負担した。 彼らは陸路を自ら税を担いで運ぶのを原則とした。馬や車は貴重品であったし、当時の道路事情からすれば、 よく整備されていた畿内以外の道で車を走らせることは困難であったのである。」(『福井県史』通史編1 原始・ 古代) (60) 龍尾寺、水間寺 行基が龍神から観音像を授かる。 (61) 追儺の使われるという説「行基の名がこの種の簡略な日本全図に結び付いたのは追儺の儀式によるもの と思われる。」(海野一隆、註(21)、88頁。) (62) 海野一隆、註(21)、89頁。 (63) 応地利明『絵地図の世界像』岩波書店、1966年、62-63頁。/海野一隆、註(21)、88-89頁。 (64) 室賀信夫、註(1)、30頁。 (65) 黒田日出男、註(33)、161頁。(壱岐−対馬−肥後)(駿河―伊豆―上総・安房) (66) 中ノ堂一信『中世勧進の研究』158−159頁。/河内将芳『「天正四年の洛中勧進」再考:救済、勧進、経済』 260頁。 (67) 坂本太郎「律書残篇の一考察」『律令制度・坂本太郎著作集7』吉川弘文館、1989年、172頁。 (68) 黒田日出男、註(15)、62頁。 (69)「身人頭鳥」南の天竺の迦楼羅を想定したか。広辞苑には、「インドに住む巨鳥で竜を常食するという。仏教に 入って天竜八部衆の一として、仏法の守護神とされる。翼は金色、頭には如違珠があり常に口から火焔を吐くとい う。日本でいう天狗はこの変形を伝えたものという。」とあり、身人頭鳥は、興福寺西金堂の迦楼羅像が当たるか。 龍に守られた国であっても、道を外れると竜を食べる迦楼羅がいるからご用心と言ったところか。 作者は、龍及→龍食う→迦楼羅→身人頭鳥と連想したか。 (70) 黒田日出男、註(15)、86頁。 金沢文庫本「高麗ヨリ蒙古国之自白平トヨ国云唐土ヨリハ多々国々 一称八百国」 妙本寺本「高麗ヨリハ蒙古国ト云、日本ヨリハ刀伊国ト云、唐土ヨリハ多湛国ト云、一千八百ケ国ナリ」 (71) 「羅刹国」については、唐代の玄奘の『大唐西域記』(646年成立)をはじめ、十二、三世紀成立の『今昔物語集』 や『宇治拾遺物語』などに収録されている「僧迦羅(僧伽羅)国」の説話などを背景に構想・設定されたことは間違いな い。(黒田日出男、註(15)、64頁。) (72) 「雁道」については、応地利明『絵地図の世界像』岩波文庫、青山宏夫「雁道考」『人文地理』第44巻第5号の考 察がある。 (73) 黒田日出男、註(15)、64頁。 (74) 「補説―「雁道」と「雁門」について」(『今昔物語集』第2、岩波書店、解説1999年、409頁)等の考察がある。「北 方にあったという認識を示すのであろう。」 (75) 織田武雄、註(14)、26頁。 (76) 仏教に関して考えるならば、「雖有城形非人所居」(城ありといえども人居るところに非ず)は、 経典を収蔵する大慈恩寺大雁塔を掛けた「雁道」ではないだろうか。 (77)「行基菩薩遺誡」「沙石集」「和論語」「仮名法話集」 (78)「海東諸国記/1471」や「混一疆理歴代国都之図」には、白河関がある。本妙寺所載の「大明国図」では白丁関、 「地震之図」四河とある。(室賀註(1)、137頁。) (79) 『続々群書類従』第九巻、地理部、1969年、541頁。 (80) 小嶋博已「国を分ける行基:『日本回国六十六部縁起』の一節に関する覚書」『清心語文』第18号、2016年11月、 ノートルダム清心女子大学日本語日本文学会、35頁、42頁注22。 (81) 加藤隆久『 熊野大神:蘇りの聖地と神々のちから』戒光出版、2008年、140-141頁。 (82) 加藤隆久、註(81)、129頁。 (83) 神戸輝夫「鄭舜功著『日本一鑑』について(正)、「桴梅図録」と「陀島新編」『大倉大学教育福祉学科研究紀要』第 22(1)号、2000年、20頁。 (84) 加藤隆久、註(81)、129頁。 (85) 古事記下巻仁徳天皇条、日本書紀仁徳天皇30年条。 (86) 加藤隆久、註(81)、132-133頁。/ 補陀落渡海に使う船(こつ船)は、四門と四十九院という忌垣という墓の装置を備えている。(根井浄『観音浄土に船出し た人びと:熊野と補陀落渡海』吉川弘文館、2008年、206-218頁。) 「四十九院」は行基と切り離せない語彙である。 (87)この図中、熊野はどこにあるのかというと、実に平安京から真南の頂点、つまり、日本最南端に熊野が認識されて いるのである。(加藤隆久、註(81)、124頁。) (88) 牧野至誠『行基菩薩行化年譜 全』佛子会、昭和28年、72頁。/ 小嶋博巳「国を分ける行基―『日本回国六十六部縁起』の一節に関する覚書―」『清心語文』第18号、2016年。 (89) 三河国渥美郡吉田の熊野権現社、大宝二年九月建立。「棟札に曰く、行基作之」(『行基行化年譜』註(88)、37頁。) /羽前西村山平場熊野権現社創建「養老五年四月三日紀伊より勧請す。」(『行基行化年譜』註(88) 、57頁。) その他行基が関係するところに、神奈川県伊勢原市白髪神社/基山大興禅寺鎮守熊野三所権現/山形県寒河江市平塩、 熊野神社、養老5年行基勧請/山口県山陽小野田市、熊野神社などがある。 (90) 天保七年の『新改正攝津名所旧跡細見大絵図 (244頁) 』は、熊野権現祠「千僧村にあり、和銅六年行基熊野山に 詣でて神体を拝す。其の尊容を刻みてここに祭る」とある。 (91)『昆陽鑑』伊丹市立博物館資料集1、伊丹市立博物館、1997年、16頁注(43)。 (92) 『行基ゆかりの寺院』に、清浄院(山形県村山市楯岡馬場)/ 西光寺(埼玉県南埼玉郡宮代町東)/ 東観音寺(愛知県 豊橋市小松原町坪尻)/ 甲山寺(京都府熊野郡久美浜町甲山)/ 金蔵寺(兵庫県多可郡加美町的場)/ 鳳生寺(和歌山県 御坊市湯川町富安)/ 西福寺(東京都北区)/性翁寺(東京都足立区)の8カ寺が記される。 (米山孝子「豊島氏と行基伝承」 『大正大学研究紀要』第96輯、2011年、10頁。) (93) 加藤隆久、註(81)、146-147頁。/説経節「小栗判官」小栗と熊野を結ぶと栗隈ができる。また、栗隈王は大宰府とも 結びつく。 (94) 荒木繁・山本吉左右編注「小栗判官」『 説経節 山椒太夫・小栗判官他』、東洋文庫 243 (平凡社)、1973年 (95) 行基墓/「行基菩薩縁講式」高野山金剛三昧院本(米山孝子『行基説話の生成と展開176-196頁。)/『行基菩薩縁起 図絵詞』高野山正智院蔵(米山孝子『行基説話の生成と展開197頁。)、 (96) 「紅海風帆草」『続々群書類従』第九巻、地理部、666-667頁。 (97) 荒木繁; 池田廣司; 山本吉左右編 「百合若大臣」、『幸若舞1』、東洋文庫 355 (平凡社)、1979年。 (98) 日本地図作成の栄誉が何故空海に仮託されないか。 空海も行基と同じく、満濃池、益田池など数多くの池や四国八十八箇所巡りの寺院や道、橋を整備した僧侶であり、遣唐使 として唐の技術や知識を学んでいる。平安時代に作成された地図があるなら、むしろ行基より空海の栄誉として空海に仮託 されてもいいように思われる。空海に仮託される事実がないのは、それ以前に日本地図が作られていたと考えるのが妥当 である。 (99) 『続日本紀』行基伝には、「諸道にも多し」とあり、「三宝絵」や「東大寺要録」にも同様な表記をする。「行基はほとんど 畿内を出ることはなかったとする説は、伝承と実物史料とを完全に棄て去った、きわめて不充分な説といわざるを得ない。」 (井上正『大法輪』第六十五巻第十一号、平成十年、115-116頁。) (100) 織田の行基入唐説は「入唐して、玄奘に教えを受け…」のくだりは、道昭のことを行基と誤るのではないか。(織田武 雄27頁。) その他の行基入唐説は、 「土浦正樹他共著『最新測量学』第三版、森北出版、2015年、2-3頁。/『農土誌』67-4、農林水産省農業研修センター、1999 年、95-98頁。」がある。地図の作成には測量技術や知識が必要とされることは妥当とは思われるが、行基が唐で学んだこと は不明である。行基の遣唐使説の根拠が示されないので、或いは、織田武雄説を踏まえての引用とも想定されるところである。 (101)『東大寺要録』巻第2、供養章第3(『続々群書類従』第11、44-46頁。) (102) 婆羅門僧正、伏見翁と行基の伝承・伝記は、『元亨釈書』にもあり、三人が再会したことを思わせる光景である。 (103) 竹越與三郎『日本経済史』第一巻、平凡社、1946年、146頁。「(行基は)国を救わんとする一大政治家が、僧服を着けた るに他ならざるを見るべきなり。」 (104)「安積山影さえ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなく」 右、歌伝云、葛城王遣于陸奥国之時、国司祇承緩怠異甚(万葉集16-3807) 参考文献 三好唯義・小野田一幸 『図説日本古地図コレクション』ふくろうの本、河出書房新社 2004年。 中村拓監修『日本古地図大成』講談社、1972年。 千田稔「行基図再考」『地図と歴史空間』大明堂、2000年。 蘆田伊人『本邦地図の発達』(旧『岩波講座日本歴史』7、1934年) 秋岡武次郎『日本地図史』河出書房、1955年/〔復刻版〕ミュージアム図書、1997年) 室賀信夫『古地図抄:日本の地図の歩み』東海大学出版会、1983年。 海野一隆『ちずのしわ』雄松堂出版、1974年。 織田武雄「行基図雑考」『古地図の博物誌』古今書院、1999年所収。 織田武雄『地図の歴史』日本編、講談社現代新書369、1974年。 角田清美(1 998) 日本における地理的視野の拡大・私考.専修人文論集. (62).21〜78. 黒田日出男「行基式<日本図>とはなにか」『地図と絵図の政治文化史』東京大学出版会、2001年。 黒田日出男『龍の棲む日本』岩波新書831、2003年。 小嶋博巳「国を分ける行基―『日本回国六十六部縁起』の一節に関する覚書―」『清心語文』第18号、2016年。 神戸輝夫「鄭舜功著『日本一鑑』について(正)、「桴梅図録」と「陀島新編」『大倉大学教育福祉学科研究紀要』第22(1)号、2000年。 藤田元春『日本地理学史』刀江書院、1942年。 弘中芳男『古地図と邪馬台国:地理像論を考える』大和書房、1988年。 長久保光明『地図史通論 談義と論評』(暁印書館、1992年) 樋口亘 (2005)坊津歴史資料センタ一輝津館所蔵「日本図」.地図中心. (392). 15〜17. (本報文に掲載した日本図は、本論文から写筆した) 家永三郎編「日本の歴史」 (2). 211ページ、ほるぷ出版、1977年。 日本史広辞典編集委員会「日本史広辞典」山川出版社、1997年。 中村拓監修『日本古地図大成』講談社、1972年。 織田武雄「行基図の成立とその影響.中村拓監修」『日本古地図大成=解説』講談社、1972年。 角田清美「日本における地理的視野の拡大・私考」『専修人文論集』 (62).21〜78. 1998年。 秋岡武次郎 『日本地図史』 河出書房 1955年。 神戸市立博物館 『古地図セレクション』 1994年。 相模原市立博物館 『絵図から地形図へ:近代地形図の誕生と発展』 1997年。
羅刹国 女人萃来人不還(女人萃まり、来る人還らず) 雁道 雖有城形非人[所居](城ありといえども人[居るところ]にあらず) 龍及国及宇嶋 身人頭鳥(69)、雨見嶋 私領部、 唐土 三百六十六ケ国 高麗ヨリ蒙古国之自日平トヨ国云、唐土ヨリハ多々国々 一称八百国(70) 新羅国 五百六十六ケ国
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]