大養徳国考



目次
一大養徳国について 
1説話の中の暗示
2大養徳国
3大養徳恭迩京(恭仁京・久迩京)
二中宮職について
1大養徳と中宮職の関連
2 薪の貢進
三 貴人の逝去と供養
1 天平9年8月2日の供養
2 貴人の服喪

はじめに
 智光説話の舞台について、『霊異記』は河内国であり、真福田丸説話の舞台は『今昔物語集』は
和泉国のでき事とし、さらに、智光が講師として出向き、行基に片はかまを揶揄される法会は、
河内国で催されている。これは、行基の出身地と一致するものであるが、真福田丸の主人は、『古
本説話集』『奥義抄』などでは、「大和国の長者」であり、『古来風躰抄』では、「やまとのくになりけ
る長者、国の大領なるもの」、『和歌色葉』では、「大和国猛者」となり、主人の姫君を前身とする
行基を大和国と関連づけるようである。
 『今昔物語』の「和泉国大鳥の郡に住みける人」から、国や身分が変わっているのである。
なぜ場所をかえたのか。そこに理由があるならば、行基は「やまとのくに」に誘導されるものと思わ
れる。
 『行基年譜』の「天平十三年記」に大和国の社会施設がひとつとしてないことが指摘される(1)が、
行基は大和国に8寺を造る。(1-1)寺が布施屋の機能を併せ持つならば、その論は当たらない。
 また、直道一所は「やまとのくに」と関係がありそうである。
どうやら、『行基年譜』には、大和国における行基の活動が隠される状況があると思われる。
それは、なぜなのかをひも解いていきたい。

一大養徳国について 
1説話の中の暗示
(1) 国見の人
表1のとおり、国に関して、『続日本紀』などの史料に、国看、国中に、清国、国吉の名が織り
込まれる。また、『大安寺菩提伝来記』は、菅原寺に臥す老人、婆羅門の昔往の童子として、
「大倭国看」の名を挙げるから、それらを読み解くならば、天平9年12月27日条の「大養徳国」
に至る。「大養徳国」は行基と関係がありそうである。

表1 国見の人
史料人名備考
続日本紀国中村・国中公麻呂(国君) 国中連三成、国見真人真城国中公麻呂の祖父徳卒国骨富は大養徳国と関係があるか。
続日本紀 天平9年12月23日条大倭宿祢清国、太朝臣国吉清国、国吉は、大倭国を大養徳国とする前触れか。
大安寺菩提伝来記大倭国看菅原寺に臥す老人、婆羅門の昔往の童子とされる。
東大寺要録四大倭国大倭国看と同じか。
注)徳卒国骨富について、コツは木津とも係り、木津が富むのは、恭仁京の都に通じる。   徳卒国は、大徳が卒した国となるか。大養徳国とも通じるところがある。 (2)生駒大山登道  千田稔は、「和田萃氏は、淀川右岸の西北の道を東南に向かって延長して、やがて生駒山頂の近 くを通る辻子谷越のルートに連結させるものとみる。…私は直道を、直木孝次郎氏の説にしたがう のも一法ではないかとも思う。直木説は、高瀬大橋を淀川の左岸側にわたり、ほぼ東に向かって、 いわゆる清滝街道に接続する道であるとするものである。この説の難点は、「自高瀬、生馬大山登 道」をどのように理解するかということが不明である点である。しかし古代において、例えば金峯山 という吉野の山の名称は一つの頂の山に対するものではなくて、連峰あるいは山並みを称するの で、「生馬大山」という呼び方も生駒の連峰と解するならば、高瀬から東に向かう清滝街道に結ば れる道として直道を理解してもよいのではないかと考える(3)。」とする。 (3)私見  この「自高瀬、生馬大山登道」の解釈は、現在の道路名が、例えば、「枚方亀岡線」「大阪高槻 京都線」と、道の「起点−終点」或いは、「起点−経由地−終点」を結ぶように、「自高瀬-生馬- 大山登(大養徳)・道」と考えることができる。これには、直木説の清滝街道をさらに東進して、木津 に至り、木津川の左岸(南側)を大養徳恭仁京まで結んだのであろう。 最古の行基地図に、仁和寺蔵の行基図がある。これは、山城国と大和国にかけて四角の枠があり、 「王□」とされている(4)。つまり、この四角は、山背国南部の大養徳恭仁京の「王城」または「王都」 であり、行基の生駒大山登道は、ここに通じていたと思われる。  「大養徳」を「大山登」と簡略化して、当て字で記したものだろう。 2大養徳国 (1) やまと国の名称の変遷 表2 やまと国
続日本紀の記事内容備考
天平9年11月22日条大倭忌寸小東人、水守に宿禰を賜る。中宮に宴す。
天平9年12月27日条大倭国を改めて大養徳国となす。
天平18年9月29日条恭仁京大極殿を国分寺に施入。天平18年4月23日条大養徳忌寸佐留が前触れか。
天平19年3月16日条大倭国に戻る。
天平宝字2年2月27日以前大和国に改称。大和国守大伴宿禰稲公
 『続日本紀』天平9年12月丙寅(27日)条には、「大倭国を改めて大養徳国となす。」とされる。 そして、理由なく、天平19年3月16日には、大養徳国から大倭国に戻るのである。 (2)改称の理由  「養徳(徳を養う)」で、「やまと」と読ませ、さらに美称の「大」を加えたのである。(5)  天平7年・天平9年の疫病流行や飢饉などを天子の薄徳に対する天の咎めと受け止め、天子は 大いに徳を養い、天の望みに応えるべきであるとの考えに基づく改称。この後、天平19年3月 辛卯(16日)に再び大倭国に戻り、さらに天平宝字2年2月己巳(27日)以前に大和に改称。(6)  「ヤマトに養徳をあてたのは、儒教的徳治思想への志向を示しているのであろうが、二字の好字 をやめて三字にした理由は不詳。 (7)」とする。  天平9年12月壬戌(23日)条「大倭を改めて大養徳国となす。」の直前の記事に、「外従五位 太朝臣国吉を亮となす。」があるから、「大養徳国」は、当然のこと「吉」につながる吉祥の意味 を持つのであろう。  大倭国の用字を大養徳国と改めたことは、「諸兄の政治顧問として、政策上に発言力を持った 中宮亮下道朝臣真備の建言によるものと推測されるからである。(8)」とされる。  行基の支援者としての橘諸兄と、それを支える中宮亮下道(後に吉備)真備の意向が重なるとこ ろである。 (3)私見  「清国・国吉」の表記から鑑みるに、大倭から大養徳の三字に変更されたのは、「賛辞」の意味 が含まれるか。万葉集には、「恭仁京」を讃える歌が数多くあるが、ひいては、天平10年に大徳 とされた行基を賛辞する意味があるかもしれない。  天平十九年正月十六日、国見真人真城に改めて大宅真人の姓を賜ふ。同年三月十六日に大 養徳国を改めて、大倭国に戻したので、大養徳国の持つ意味の役割を終えたとするのだろうか。 3大養徳恭迩京(恭仁京・久迩京) (1) 恭迩京  すこし長くなるが、吉田金彦の「大養徳恭仁大宮」について引用する。 「…聖武は、有言実行家である。仮宮垣で、新京宣言し神宮奉告した年の二月二一日、橘諸兄に 助言されて宮名を「大養徳恭仁大宮」と発表した。 この宮名発表は注目に値する。なぜなら、ヤマトは「大和」とも「倭」とも「日本」とも書かず、 万葉仮名ではっきり示した。風変わりな用字だが、意味ありげな漢字「養徳」と。 …発音的にはかなり無理な文字を使おうとしたのには、わけがあったようである。天平九年に 生じた天災を天の戒めとして「徳を養うべき」、との金言を旨に選んだからだと考えられている。 このような改まった選字は珍しい事で、《特別な奈良地方》というヤマト(大養徳)を意味するも のであって、当初は日本国全体を指したヤマトではない。「大日本国の都」と解する説もあるが、 それは具合がわるいのではないか。天平一二年九月の条にもあるように、伊勢・伊賀・近江・山 背などと並べてこの用字である。だから、それら各国よりぬきんでている意味があるにもせよ、 国々の列記の中にも「大養徳」の字が使われているということは、大日本国という意味ではなく、 《特区大和》という意味である。思うにこれは、具体的に見ると、いわゆる奈良の大和にとどま らない、山背をも含めた広域大和を指していったのではないか。元明天皇の奈良ではない。  南山城も奈良県のエリアとして捉えた言い方である。たとえば丹後も含めて丹波といっていた ように、山背を含めた大和という意味で「大養徳の恭迩」といったらしい、と私は考える。 山また山の奥にある国、そこにある「大宮」ということである。 …もしかしたら、「やまと」の「大養徳」という文字も、恭迩京とに不離関係で使われているだけに、 「養徳」の選字は、あるいは道教から取り、道教でよくいわれる「養生」と「功徳」の語から拾った ものかもしれない。 …儀礼と経典が相伴う道教において、生にも死にも宇宙根源の力を志向した。 体内神をいかに活性化させるか、という「養生」、これは陰陽思想の帝王治政の『太平経』 によっている。また、死者はその魂を地獄から救い、天国に送る追善供養するという「功 徳」は、『抱朴子』の教えでもある。この「養生功徳」の文字にあやかるところがあったと 見るのも、あながち不自然ではないであろう。 (9)」とする。 「追善供養」「養生功徳」というのは、国名変更の私見に近いものがある。 (2)山背国の大養徳恭迩京  大養徳国恭迩京は山背国にあるので、ヤマト国という意味はない。  万葉集17-3907「山背乃久迩能美夜古波」左注に「右、[天平]十三年二月右馬頭境部宿祢 老麿作也」とある。 表3 続日本紀に見える恭仁宮
続日本紀の記事内容備考
天平12年12月6日条山背国相楽郡恭迩郷諸兄を派遣、遷都の下準備
天平12年12月15日条恭仁宮、始作京都矣
天平13年11月11日条号為大養徳恭仁宮也
天平18年8月29日条恭仁宮の大仏殿を国分寺に施入す国分寺金堂となる
 宮号の改称については、橘諸兄が朝廷の名号を聖武天皇に奏したところ、「大養徳恭仁大宮」と 為さんことを勅して述べられただけであり、改称の謂れは『続日本紀』記されていない。 (10)  なぜ、大養徳としたのか。 「恭仁宮が実際には、山背国相楽郡にありながら、これを大養徳恭仁京としたには、大和への郷 愁があったのかもしれない。」との説がある。(11)  持統八年藤原京遷都がなされた。「文武天皇二年八月詔は、不比等一家に時の宮号を負う藤原 姓を独占させることを意味しよう。それは、天皇正宮が藤原宮であればこそ与えられた、不比等一 家に対する顕彰であった。」とする。 (12)  山背国に造られた「ヤマト」を冠する宮の名前は、やはり、藤原姓と同様に何者かを顕彰する 意味があるのではないだろうか。 (3)大徳供養  これらの「大養徳恭仁」・「考」・「養生功徳」の文字を自由な発想の元に考えると、「功徳(くと く=句解く)」・「考」から、京都方広寺の梵鐘に刻まれた「国家安康」を思い浮かべる。  「国家安康」は、僧侶である天海和尚によって、家康を切り離す呪詛をしたと豊臣が攻められ るきっかけにされたものだが、この発想がもたらされた原点に、大養徳国があるのではないだろ うか。『名目抄』(群書類従468)に「盂蘭?供ウラボン。不レ読二供ノ字一ヲ例也」とあり、「供」 の字を読まない例とされている。この読まない字を補充して、大養徳に加えると、「大徳供養」が できる。大養徳恭仁とするほうが一層分かりやすいのであるが、アナグラム「大養徳恭仁」を並 び換えると、「大徳供養に(仁)」となる。つまり、大養徳恭仁京は、大徳の供養を冠した都になっ ていると思われる。  しかるに、この天平9年に供養された大徳は誰であろうか。 天平10年、行基を大徳とするから、この時代の大徳の一人として、行基が挙げられる。  行基は、『続日本紀』では、天平二十一年二月二日に「薨(考:なぜか、行基の寂滅に際して、 三位以上の貴族・高官に用いられる薨の文字が使用されている。)」したことが記されるから、『続 日本紀』の行基に関する記事が信じられるならば、ありえないことであるが、『続日本紀』が「霊 異神験類に触れて多し」とする表現から、「大徳供養」と言う暗号は、行基がなくなったことを示 したものではないかと憶測する。  行基の真実の姿が隠されているならば、『続日本紀』の記事が否定されるというとんでもない ことになる。 二中宮職について 1大養徳と中宮職の関連 大養徳と中宮職の親和性 表4 続日本紀に見える中宮職
続日本紀の記事内容備考
天平9年8月1日条中宮職大夫兼右兵衛率正四位下橘 宿禰佐為卒
天平9年10月24日条百官人等をして薪一千荷を買はしむ。従三位鈴鹿王已下、文官の番上已上、 躬ら担ひて、中宮の供養院に進る。
天平9年12月23日条大倭を改めて大養徳国となす。…また、中宮職の官人六人に位を賜ふこと格差あり。
天平14年2月3日条中宮職の奴広庭を免して大養徳忌寸の姓を賜ふ。
 天平9年12月丙寅(23日)条「大倭を改めて大養徳国となす。…また、中宮職の官人六人に位 を賜ふこと格差あり。」とある格差は、何かが「隠さ」れている意味を持つかもしれない。  中宮職の官人六人への位賜与は、同年8月1日、中宮職大夫橘 宿禰佐為卒した対応等に伴う ものであろう。  『続日本紀』天平14年2月戊寅(3日)条には「戊寅、中宮職の奴広庭を免して大養徳忌寸の姓 を賜ふ。」(13)二巻、403頁。とある。これらの記事から、中宮職と大養徳が関係づけられる。 すると、天平9年8月に橘佐為の卒が、同年12月に「大倭国」から「大養徳国」へ国名が変え られた直接の原因ではないかと考える。  中宮宮子は、菩薩戒受戒後、徳満を名乗る。「徳見つ」である。 2 薪の貢進  中宮大夫である橘佐為が卒後、天平9年(737)10月24日の記事に、「甲子、百官人等をして薪 一千荷を買[貢の誤り(14)]はしむ。従三位鈴鹿王已下、文官の番上已上、躬ら担ひて、中宮の 供養院に進る。」とされる。臨時に設けられた中宮供養院に百官が薪を貢進するのである。 薪の貢進は、新年正月十五日に百官が年中の用料にあてるため宮内省に進献する儀式であり、 宮中の年中の行事であるが、時季外れに中宮供養院に百官が薪を貢進するのは、疫病の沈静を 目的としたもの(15)とされるが、より絞り込むならば、中宮大夫で卒した橘佐為の供養のための所 作であろう。  通常、七七の周忌供養は、49日後に行われるが、10月24日は、佐為が卒後、82日に当たる。 この数字が意味を持つとすれば、日を年に置き換えると、推定49歳卒が82歳に延ばされること になる。82歳は、行基の寂年でもある。  薪の貢進は、以後、宮中や貴族の邸で「薪の行道」として現れる。 薪の行道は、「法華八講の第三日目に「法華経を我が得しことは薪こり菜摘み水汲み仕へてぞ得 し」の歌を歌い薪を負い、水桶を担う者を列に加えて行進すること」とある。[広辞苑]  「薪の行道」は、薪は、みかまき・みかまぎという。アナグラムとすると、「みまかるき」と再構築 できる。意味は、き(基)が薨るのであり、法華経の歌は、行基あるいは光明皇后作とされている から、中宮の供養院と行基が関連するのである。  中宮院の薪奉納は、橘 宿禰佐為の供養のために用いただけでなく、佐為の卒去を正月と同様 の吉事として、再生を願った行事かもしれない。薪は、サ(菩薩)が新しいと読める。 三 貴人の逝去と供養 1 天平9年8月2日の供養  『続日本紀』天平9年(737) 8月2日条に、「四畿内・二監、七道諸国の僧尼をして清浄沐浴せ しむ。一月の内に二三度、最勝王経を読ましむ。」とされる。この8月2日の出来事は、何を目的 としてなされたのであろうか。 表5 続日本紀に見える供養
続日本紀の記事内容
天平9年8月1日橘宿禰佐為卒〇天平9年8月2日癸卯、四畿内・二監と七道の諸國との僧尼をして清淨沐浴せしむ。一月の内に二三度、最勝王經を読ましむ。また、月の六齋曰に、殺生を禁断す。 〇天平9年10月24日、中宮供養院での薪貢進 〇天平9年11月3日、畿内七道で諸神社を造らしむ。
天平20年4月21日元正太上天皇没○辛酉(22日)、左右京と四畿内と七道との諸国をして挙哀せしむること三日とす。 ○壬戌(23日)、大安寺に誦経せしむ。 ○甲子(25日)、山科寺に誦経せしむ。 ○丙寅(27日)、初七に当りて、飛鳥寺に誦経せしむ。是より後、七日に至る毎に京下の寺に誦経せしむ。
天平20年6月4日、正三位藤原夫人薨翌5日に百官及び諸国をして服を釈かしめている。
注) 六齋曰と殺生禁断は、行基に関係する。  表5に見られるとおり、橘佐為の卒に関してなされたものではないだろうか。  『続日本紀』天平9年(737) 8月1日条に、正四位下中宮大夫兼右兵衛率橘佐為卒とあり、翌 8月2日に、「四畿内・二監、七道諸国の僧尼をして清浄沐浴せしむ。一月の内に二三度、最勝 王経を読ましむ。」とある。 因みに、「丙午(5日)参議式部卿兼大宰帥藤原宇合薨しぬ」が、佐為より高位の参議であるにも かかわらず、甲寅(13日)の詔まで記事が掲載されていない。そして、天平9年(737)8月甲寅(13 日)詔、異変により租賦・出挙未納を免除し、天平9年(737)8月15日宮中に大般若経・最勝王経 を転読するが、この一連の行事は、藤原4兄弟をはじめ、多くの官人・人民の災難に対処するた めに行われたものであるが、特に、橘佐為の卒に伴う対応がなされているように窺える。 そして、橘佐為の卒に伴う対応は、『行基年譜』七十四歳条或云此記ハ天平十一年云云 聖武十八年天平十三年辛己「遷化之後、大小寺誦経了云云」と行基の遷化に似るのである。 2 貴人の服喪  『続日本紀』によると、天平20年4月21日に元正太上天皇が崩御される。 「夏四月庚申(21日)、太上天皇、寝殿に崩りましぬ。春秋六十有九。 ○辛酉(22日)、…勅して、左右京と四畿内と七道との諸国をして挙哀せしむること三日とす。 ○壬戌(23日)、大安寺に誦経せしむ。 ○甲子(25日)、山科寺に誦経せしむ。 ○丙寅(27日)、初七に当りて、飛鳥寺に誦経せしむ。是より後、七日に至る毎に京下の寺に誦 経せしむ。」とある。  天平20年6月4日に、正三位藤原夫人が薨じた時、翌5日に百官及び諸国をして服を釈かしめ ている。  天平9年8月2日に、「四畿内・二監、七道諸国の僧尼をして清浄沐浴せしむ。一月の内に二三 度、最勝王経を読ましむ。」とされる出来事は、橘佐為の卒に関してなされたものと考えると、天 平九年を中心に全国の寺院で、行基の活動が活発化し、また、国分寺に於いても行基像の設置 や仏像に関する伝承が残されている(16)ことは、関連がありそうである。 結びに  大養徳国の改称の謂れは記されていない。 「国家安康」京都大広寺の鐘銘に「国家安康」が刻まれ、豊臣が家康を切りはなして、呪詛した と攻められるきっかけになった。この発想がもたらされた原点に、大養徳国があるのではないだ ろうか。  大養徳恭仁とするほうが一層分かりやすいのであるが、 『名目抄』(群書類従468)に『盂蘭?供ウラボン。不レ読二供ノ字一ヲ例也』とあり、供を読まない 例とされている。この読まない字を補充して、大養徳に加えると、「大徳供養」ができる。 「大養徳恭」を入れ替えても、「大徳供養」となる。  つまり、大養徳恭仁京は、大徳(行基)の供養を冠した都になっていると思われる。  最古の行基地図は、山背国南部の大養徳恭仁京を王城とする。(17)  『続日本紀』には、行基は天平二十一年に薨したことが記されるから、『続日本紀』の行基に関 する記事が信じられるならば、ありえないことであるが、『続日本紀』が「霊異神験類に触れて多 し」とする表現から、行基の真実の姿が隠されていると考えるならば、『続日本紀』の行基記事の 信憑性を問い直すことが必要となる。
註 (1) 井上光貞「天平十三年年記の研究」『行基 鑑真』吉川弘文館、昭和58年、171頁。 (2) 続々群書類聚第11、宗教部、東大寺要録第2、44頁。 (3) 千田稔『天平の僧 行基』中公新書1178,中央公論社,1994年、121-122頁。/ 井上薫編『行基事典』国書刊行会、平成9年、264頁、注58。 (4) 千田稔「「行基図」再考」『地図と歴史空間』大明堂,平成12年、180頁。 (5) 渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』講談社、2001年、206頁。 (6) 『続日本紀』2巻、岩波書店、1990年、585頁。補注12-79 (7) 現代思潮社、『続日本紀』第二分冊、1986年、123頁。注2 (8) 野村忠夫『奈良朝の政治と藤原氏』吉川弘文館、平成7年、89頁。 (9) 吉田金彦『京都の地名検証3』293-302頁。   「ミカノハラ(甕原)」は、「御河原」である。(300頁)   「考(かんがえ)」と言う地名がある。(301頁) (10) 『続日本紀』二巻、岩波書店、325頁。「天平十三年十一月戊辰(21日)条」 (11) 『京都の歴史』京都市、第1巻、161頁。 (12) 渡里恒信『日本古代の伝承と歴史』思文閣出版、2008年、269頁。 (13) 『続日本紀』二巻、岩波書店、1990年、403頁。 (14) 『続日本紀』二巻、岩波書店、331頁。注33。 「買」を考証は、「狩谷氏曰、買疑当レ作レ貢」と記し、「貢」とすべきであろう。 (15)『続日本紀』二巻、331頁。注33。 (16) 菅谷文則「行基開基伝承の寺院」『探訪古代の道』第3巻、法蔵館、1988年、238頁。 (17) 拙考「行基地図考」
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]

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