摂河雍州における行基・橘伝承



目次
一 摂河雍州における行基伝承
二 橘に関係する伝承
三 佐為寺の比定

はじめに
 伊賀盆地から流れ出る伊賀川、名張川の下流域は木津川となって淀川に注ぐ。淀川は大阪湾に
至り、瀬戸内海を通じて東アジア世界へと繋がる。(1)
 その一部である木津川流域の山城国相楽郡の大養徳恭仁京遺跡辺りから、流れに沿って、三川
合流の地点まで、つまり、雍州(山城) (2)・河内・摂津三国の国境近辺まで、行基の伝承を追っていく。
 また、恭仁京遺跡や相楽郡井出町などは橘諸兄と関係の深い地域であり、雍州・河内・摂津三国
には橘と関係があるものが多く見られるなど、行基の活動地域と重なるように思われる。
 行基・橘伝承が重なる中で、『類聚国史』に現れる謎の「佐為寺」を考察する。

一 摂河雍州における行基伝承
1 山城国相楽郡

表1 山城国相楽郡(1)の伝承地
名称紀年内容備考
湯屋谷温泉天平年間行基湯場を開く。宇治田原町
湯原寺天平年間行基創建。宇治田原町
金胎寺役行者開創、行基、鑑真、空海が修行。宇治田原町
仏法寺天平16年(744年)安積親王の供養のために行基が建立した寺。行基愛用の御硯竹製函入伝(行化年譜)和束町 幡寺、現正法寺
安積親王陵墓(太鼓山古墳)天平16年(744年)天平16年(744年)に亡くなった聖武天皇の第五子の安積親王陵墓。 和束町 明治11年に安積親王の墓に認定された。
願応寺(願興寺)行基開創、薬師堂山上。 『拾遺都名所図会巻4』加茂町瓶原
西光寺行基開基、三昧所、本尊阿弥陀如来、行基坐像。加茂町美浪南
西明寺大宝元年(701) 行基創建『西明寺縁起』加茂町大野
燈明寺 (東明寺)天平7年(735)聖武天皇勅願、行基開基、行基像を安置。『東明寺縁起』御霊社も行基開基。加茂町兎並
岩船寺天平元年(729)聖武天皇の勅により行基が阿弥陀堂を建立した。『岩船寺縁起』/天平2年『行化年譜』加茂町岩船、南当尾「小田原」
白山神社同上・勝宝元年(749)創祀: 行基菩薩あるいは 柿本人麻呂。加茂町岩船上ノ門
浄瑠璃寺天平11年(738) 聖武天皇勅願、行基が開基『興福寺官務牒疏』/行基菩薩薬師坐像を刻む『雍州府志』加茂町西小 西塔尾、小田原山
鹿山寺 (浄勝寺)鹿山寺(行基大菩薩行状記)、行基が浄勝寺を建て、遍昭が嘉承2年鹿山寺とした。 鹿背山其山麓行基創建寺跡残『雍州府志』現西念寺は元禄6年(1693)
山背国分寺天平18年(745)恭仁京大極殿施入草創也、行基菩薩草創『興福寺官務牒疏』//『山州名跡志』
注)『京都府の地名』平凡社「相楽郡」の項による。  行基伝承地は、恭仁京を中心に、その東北の湯屋谷や安積親王陵墓や加茂町南部の岩船寺や浄 瑠璃寺に残る。湯屋谷温泉は、和銅2年湧出し、天平年中、行基が湯場を開いたとされる。  仏法寺(現正法寺)は天平16年(744年)安積親王(聖武天皇の皇子)の菩提を弔うため、行基により 創建されたと伝える。小正月(15日) 安積親王墓に御薪を献上する。  当初は幡寺または仏法寺と称されてうしろ山の仏法寺山にあったとされ、明暦2年(1656年)に正法 寺と改称された。(3)  安積親王陵墓は、京都府相楽郡和束町大字白栖小字大狭間・大字釜塚小字神上の字堺に位置する。  神上山と呼ばれる丘に築かれ、形状から古墳時代の円墳の可能性が指摘されている。(4)  安積親王は、聖武天皇の後継ぎであった県犬養宿禰廣刀自所生の親王。安積親王陵墓は、京都府 相楽郡和束町に現存する古墳である。俗称:太鼓山古墳。明治11年(1878年)に安積親王の墓に認定 された。  宝亀元年11月10日光仁天皇が御鹿原に行幸する。行幸の直前に、井上内親王が皇后となる。 この行幸は皇后の井上内親王の弟である安積親王の追善供養を目的とした可能性が高いと思われる。  そして、山背守橘綿裳が叙位されるのは、天皇行幸はもとより、祖母橘県犬養宿禰三千代の縁による 安積親王の追善供養に尽力した褒賞によるのかも知れない。(5) 鹿山寺  木津川右岸に鹿背山西念寺がある。西念寺文書(木津町鹿背山)に旧名を鹿山寺といい、薬師堂の 本尊薬師如来坐像は、平安時代後期に作られ、元は奈良の中川成心院にあった。  行基創建の寺は、浄勝寺とし、薬師如来を本尊にしたことが始まりとされ、江戸時代(元禄6年)に 『西念寺』と改名された。(6)  『行基大菩薩行状記』は鹿山寺縁起といえるものであり、行基と鹿の伝説がある。三尾の鹿が蘇生 するのである。(7)  『行基大菩薩行状記』は鹿山寺縁起といえるものであろう。  『雍州府志』に「行基創建の寺の跡残れり、土人、古寺と称す。」(8)とあり、鹿背山に古寺の地名が 残り、古寺池がある。 浄瑠璃寺  『興福寺官務牒疏』に「聖武天皇天平十一己卯行基菩薩開基」とある。  『雍州府志』には「天元年中 多田満仲所創建而安置行基菩薩所刻之薬師五尺坐像」と行基の伝 が伝わるが、元は西小田原寺ともされる。(9) 岩船寺  岩船寺は、鳴川に建立した阿弥陀堂がそのはじまりとされ、弘安2年に至って鳴川山寺の東禅院 潅頂堂を岩船に移し、同8年に供養したといわれる。(『岩船寺縁起』)  岩船寺の隣地に白山神社がある。  白山神社は、縁起に天平元年(729)・天平勝宝元年(749)に、行基菩薩あるいは柿本人麻呂の 創祀とされるが、『京都山城寺院寺社大辞典』には、柿本人麻呂が創建し行基が遷宮したとされる。 橘諸兄と関係の深い大伴家持や田辺福麻呂が恭仁京賛歌を作る。 (11)  加茂町法花寺野には、国分尼寺があったとされる。(12)  恭仁宮大極殿が山背国国分寺に施入されたと同様に、甕原宮が国分尼寺に施入されたのではな いかと考えられている。(13)  瓶原離宮も法花寺野にあったとされる。(14)
その他特記事項:恭仁京、石原宮、法花寺野、瓶原離宮、岡田離宮、大野、東小、西小、
表2 山城国相楽郡(2)の伝承地
名称紀年内容備考
泉大橋天平12-13年(740-741)天平十三年辛己記云辛己云ハ延暦廿三年三月十九日所司記云云 宗橋六所  泉大橋 在相楽郡泉里『行基年譜』
泉橋院天平十二年(740年)行年七十三歳 辰聖武十七年天平十二年  發#院泉橘院、讃云此院ハ天王?行幸シ影像作テ安置シ給所也、 行年七十四歳己或云此記ハ天平十一年云云  聖武十八年天平十三年辛己三月掩留山城国泉橋院、十七日申時、天皇行幸給、奉拝大僧正矣『行基年譜』泉橘院(発菩薩院) 泉寺布施屋と同一か
高麗寺天平年間栄常師(播磨国増位寺僧)『霊異記』
隆福尼院天平十二年(740年)隆福尼院 己上山城国相楽郡大伯村『行基年譜』 所在不明
上狛惣墓宝暦13年(1763年)行基1100年忌供養の石碑がある。栗林地蔵寺僧建立
弁財天女社天女は行基御作/大和国長谷寺観音同木の像『高麗名所』
誓願寺木津高瀬の里にある尼寺、高(孝)謙天皇御帰依『行基大菩薩行状記』
西教寺本尊十一面観音菩薩(行基の化立像)、聖武帝の御願『拾遺名所図会巻4』
大智寺泉大橋の柱で仏を作る。別名橋柱寺『拾遺名所図会巻4』
安養寺天平8年(736年)山城木津、山号「州見山」、行基開創。『京都府相楽郡誌』
来迎寺「行基菩薩開基城南第18番札所…」の石碑精華町大字植田
直道 清滝街道『行基年譜』
 木津は、木材や物資の集積地である。泉橋寺南の木津川堤からは生駒山が大きく見える。  木津川北部には白鳳時代の古代寺院「高麗寺」が所在した。『霊異記』には、栄常師(播磨国増位 山隋願寺僧)の記事があり、隋願寺(増位寺)は行基が関係する寺である。(15)  その西側に、上狛惣墓があり、宝暦13年(1763)栗林地蔵寺僧によって建立された行基1100年忌 供養の石碑がある。 (16)  その南側の木津川堤に道祖神と思われる小祠があったとされ、「才ノ神」の地名が残る。(17)
その他特記事項:才ノ神、栗林地蔵寺、北向きの地蔵尊
 『行基大菩薩行状記』に、木津高瀬の里にある尼寺、御尼院として誓願寺があり、御霊神社東方 の遺構かとされるが、史料に混乱がある。(18)  西教寺の本尊十一面観音は行基作と伝えられる。(19) 表3 山城国相楽郡(3)の伝承地
名称紀年内容備考
神童寺推古4年聖徳太子開基、役行者・行基が修行した。神童寺縁起(1522)
蟹満寺蟹の報恩、寺伝に行基開創『霊異記』「八蟹」
玉川寺天平17年(744)行基開基。阿弥陀如来。『綴喜郡誌』
地福寺天平勝宝5年(754)橘諸兄創建、行基開基、諸兄夫妻の墓『京都府地誌』 石垣
西八王子牛頭天王社大宝元年行基創建椋本天神社か
光明山寺大宝3年棚倉山、橘右大臣諸兄本願、菩薩開基『行化年譜』
棚倉瓦屋 (大安寺領)天平元年頃大安寺三面僧房、東室行基菩薩坊 石清水、伝云八幡石清水根本是也『七大寺日記』(続群類巻792)
 『霊異記』に行基と蟹の報恩譚が記される。「八蟹」が暗示するのは蟹を分けることである。  大安寺領棚倉瓦屋は、井出町石垣瓦窯跡に比定され(20)、『南都七大寺巡礼記』には、大安寺に 行基の僧坊があったとされる(21)。  橘諸兄と関係の深い地に、行基の伝承が残る。(雍州府志巻5、154頁)は、神童寺は行基の開基とする。 2 山城国綴喜郡 表4 山城国綴喜郡(1)の伝承地
名称紀年内容備考
飯岡寺・飯岡三昧所和銅7年行基が山城随一の葬場とした。蓮華(峯)寺(のち西方寺か)『雍州府志』仁明朝に円提寺の地
甘南備寺天平年間奈良時代に僧行基によって開創された。本尊薬師瑠璃光如来坐像京田辺市大字薪山垣外 (A)
西光寺天平年間「当寺ハ天平年中之建立也」「開基行基菩薩」本尊阿弥陀如来薪井手 (A)
日光寺神亀元年観世音菩薩、行基菩薩創立三山木村(B)
寿命寺行基菩薩開山、本尊阿弥陀如来興戸御垣内 (A)
普賢寺大御堂、小御堂本尊各行基菩薩作(B)/興福寺三綱記
注) (A)『京田辺大百科』2006年、 (B)『山城綴喜郡誌(全)』  寿命寺は、行基の開山と伝えられる浄土宗の寺で、以前は酒屋神社の背後の山にある古墳群の 中にあった。(22)  飯岡は、井手山の対岸の地であり、仁明天皇の時に円提寺の地とされた(23)ことがあるから、 橘氏と関係があり、山城随一の葬場を作った行基とも関わる。  『雍州府志』に「西方寺 在二飯岡一行基所レ置二山城州一葬場之随一也。」とあり、現在の西方 寺は袋中上人建立の寺とされるが、それ以前は不明である。  また、飯岡墓地の西側に江戸時代の「蓮華寺」跡があるが、行基の三昧寺としては、いずれか 分からない。(24) 神南備山  『山城国神南備記』には、「神武天皇が東遷の際に此の地を通られ、また天神地祇をここでお祭 りになった。」と云う伝承が記載されている。平安京造営の際の中軸線としての朱雀大路の目印に なった山と云われる。 (25) 甘南備寺  甘南備山にあった甘南備寺は、奈良時代に僧行基によって開創されたといわれている。交通不 便で保護も困難であったため、元禄2(1668)年に山上から現在の地に移された。 甘南備真人  敏達天皇裔、橘氏と同族。神前王は天平12年(740)に甘南備真人を賜姓される。栗隈王の子で 美努王と兄弟の武家王の子とする系図がある。 (26) 表5 山城国綴喜郡(2)の伝承地
名称紀年内容備考
石清水寺・山寺 貞観2年以前石清水八幡宮遷宮以前に男山に行基が開いた。後、石清水八幡護国寺ともされる。八幡市
石清水八幡宮貞観2年(860年)行教の神託により清和天皇が橘良基に命じ社殿を造営させた。 八幡市
護国寺貞観4年(862年)行基御建立『報恩寺前空圓法印放記』 薬師堂、十二神将大江匡房寄贈八幡市
善法寺照為開山寺南元有行基菩薩之地号善法寺即取其名八幡市 『本朝高僧伝』円照伝
薬園寺奈良時代「行基菩薩建立。四十九院之随一」本尊薬師如来、薬草園を設けて施薬をなす。八幡森垣内「宮寺見聞私記」
円通寺行基菩薩開基『綴喜郡誌』往昔「念仏寺」伏見区(旧美豆村)
安禅寺行基菩薩開基『綴喜郡誌』伏見区(旧美豆村)際目村
狩尾神社石清水八幡宮以前に遷座。此寺(久修園院)鎮守当山狩尾明神行基菩薩勧請八幡市橋本
橋本寺(廃寺)神亀3年山崎橋の東、阿弥陀如来、渡橋通行旅人休憩所なり。八幡市橋本の西遊寺に行基伝承が残る。
米尾寺(廃寺)開山行基菩薩(『男山考古録』12)八幡市橋本
石清水八幡宮  清和天皇の時代、貞観元年(859)に南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が豊前国宇佐神宮に て受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌貞観2年(860 年)木工寮権允橘良基のもとで六宇の社殿を造立させた(27)。 護国寺  嘉暦元年(1326)「吾神貞観遷座之初、行教和尚暦覧之時、於当山、有堂有塔有社、所謂今護 国寺宝塔院狩尾等是也、不知草創、不弁本願、天作歟、神功歟」(28)と天が作るか、神の功かと 遊ぶが、石清水八幡宮遷宮以前に山寺(石清水寺)があったとされ、聖武天皇の願により行基が 開基したという伝も残る。(29)  貞観4年(862年)に護国寺は、改名されたが、これも行基建立とされる。(30)  また、『本朝高僧伝巻60』円照伝には、「岩清水検校法印清宮建善法寺、照為開山寺南元有行 基菩薩之地号善法寺即取其名」とあるから、行基は石清水八幡宮と関係がありそうである。  伏見区(旧美豆村)にある円通寺、安禅寺は、行基菩薩の開基とされ(31)、明治2年、木津川付け 替え以前は、旧木津川左岸に位置していた。(32) 狩尾神社  石清水八幡宮遷宮勧請以前から男山にあり、石清水八幡宮の遷移に伴い、現地(八幡市橋本) に移設された。(33)  慶長六年造営時のものと思われる「狩尾社棟札之写」には、「…当山狩尾天王昔在男山、今八 幡宮之立処是也、大菩薩従宇佐、貞観二庚辰後遷座之砌、当山被移之、然間号護国寺奥院…」 とあり、八幡宮の位置する処にあったとされ、護国寺奥院と呼ばれたとされる。(34) 薬園寺  『宮寺見聞私記』に「行基菩薩建立四十九寺院之随一」(35)とされたが、『行基年譜』にはない。  薬草栽培の園地を管理する寺院で森堂(「宮寺見聞私記」「太平記」)、薬園院とも呼ばれた。山 号はない。本尊は薬師如来を安置する。 西遊寺 (普理山 聖善院 西遊寺)  西遊寺の創建は古く、その前身は橋本寺と呼ばれる。行基が淀川に山崎橋をかけた時に、旅人 の休息所として橋のたもとに造られた。(36)  そのずっと後の元亀元年(1570年)、現在の地に移転された。狩尾神社の境内にあった帝釈天 堂の帝釈天が西遊寺に移された。 米尾寺  米尾寺は行基開山とされ、久修園院の四至の北限で、『石清水八幡宮境内図』では、狩尾道の 「かもしか公園」辺りに位置したと思われる。 3 山城国乙訓郡 表6 山城国乙訓郡の伝承地
名称紀年内容備考
山崎橋神亀2年(725年)山城国山崎?橋本間(現在の京都府乙訓郡大山崎町?八幡市橋本間)で淀川に架けた橋。『水鏡』神亀3年
山埼院天平三年乙訓郡山前郷无水河側『行基年譜』
宝積寺神亀4年(727)聖武天皇勅願により行基が建立。もとは山崎寺。伝行基作十一面観音の行基像あり。『山城志』
観音寺山崎橋架橋の祈願、本尊は行基自刻の観音像。『雍州府志』
勝持寺 (花の寺) 行基塔在勝持寺之山上、其寺元行基之開基也、古此辺有四十九、故名行基山。(『雍州府志』)行基作本尊薬師如来。 淳仁天皇陵、散骨された。淳和院の別名西院帝。 行基塔は淳仁天皇陵を指すか。
自玉手祭来酒解神社養老元年(717年)旧名を山埼杜、「山崎天王社」現在の離宮八幡宮の地に祀られていた。延喜式神名帳「山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社 元名山埼杜」)梅宮大社 橘氏の先祖神であると言われている。
離宮八幡宮山崎離宮、のち河陽離宮は、嵯峨天皇の離宮とされる。祭神の一つに酒解神
山崎院  山崎院所用 の文字瓦とともに7世紀後半の飛鳥寺禅院創建瓦が出土している。山崎院は道昭 の創建した寺院(山崎廃寺)を前身として造営されたと考えられており、『行基年譜』に見られるとお り、道昭による山崎橋架橋も歴史的事実である可能性が高い(37) とされる。 勝持寺  『雍州府志』に、勝持寺は「行基塔在二勝持寺之山上一、其寺元行基之開基也、故名二行基 山一。」とされる。 (38)   この行基山は小塩山であると思われるが、行基塔は不明である。  淳仁天皇陵、淳仁天皇の遺骨は薄葬のため、大原野西院に散骨された。後、小塩山の頂上に 淳仁天皇陵が造られた。行基塔は淳仁天皇陵と関わりを持つことになるか。  淳仁天皇は、嵯峨天皇の弟であり、退位御の淳和院の別名は西院帝とされる。京都市西大路 四条に離宮淳仁院が設けられ、「西院」と呼ばれ、この付近の地名となる(39)。  橘諸兄も「西院大臣」(40)とも呼ばれ、行基との親密な関係を諸史料から読み取れる。  天王山の頂上近くに鎮座する自玉手祭来酒解神社は、元々の祭神は山崎神・酒解神で、橘氏 の先祖神であると言われている。  養老元年(717年)建立の棟札があり、「神殿梁の銘に養老2年再興」と記す。(『都名所図会』) 元正天皇時代の再建とみられている。(41)  旧名を山埼杜といい、現在の離宮八幡宮の地に祀られていた。平安時代の延喜式神名帳には 「山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社 元名山埼杜」と記載されたが、平安時代以来一貫して当 地にあったわけでなく、また、鎌倉−江戸時代には社名を失われた。  現在の祭神素盞嗚尊は、旧天神八王子社の祭神・牛頭天王を、神仏分離に伴い改めたもので ある。(42) 離宮八幡宮  離宮八幡宮がある山崎郷は、「大安寺資材帳」に、奈良大安寺の建物群としての所領がみえ(43)、 離宮八幡宮は貞観2年(860年)大安寺僧行教により八幡男山に遷移された。  離宮八幡宮の祭神の一つは酒解神とされる。(44)  酒解神は、橘氏の氏神とされる。(45)  桓武・嵯峨天皇の時代に、摂津国水無瀬や河内国交野に行幸・遊猟し、山崎駅が行宮とされた。 行宮は山崎離宮とも呼ばれ、河陽宮とも称された。(46) 4 河内国交野郡 表7 河内国交野郡の伝承地
名称紀年内容備考
極楽寺天平20年河内樟葉、行基三昧所『行化年譜』枚方市樟葉
釈尊寺天平20年行基菩薩の開基で、元は行基寺と称した。『釈尊寺縁起』行基菩薩之像『行化年譜』枚方市釈尊寺町
獅子窟寺永正4年(1507年)「行基遊行記」から行基伝を引く。行基の閼伽井がある。『獅子窟縁起』続群類801、交野市私市
八葉蓮華寺阿弥陀如来行基作交野市私市傍示の里
楠葉布施屋在交野郡楠葉里『行基年譜』
安養寺天平21年行基開基、石製塔笠あり、本尊阿弥陀仏『行基年譜』報恩院
久修園院神亀2年天王山木津寺、釈迦堂本尊行基作 『行基年譜』/雍州府志
久親恩寺後白河時代「西寺」本尊行基作丈六薬師如来、篠崎の里。本尊丈六薬師如来は、行基作。枚方市樟葉
王仁祠行基は百済から帰化した王仁の子孫
その他行基開基の寺として、円通寺(田口)、金竜寺(茄子作)、東福寺(走谷)がある。 『郷土枚方の歴史』改訂版、枚方市、1976、87頁。
注)『大阪府の地名2』平凡社「河内国」の項768−771頁による。 釈尊寺   『釈尊寺縁起』によると行基菩薩の開基で、元は行基寺と称し、平安中期の一条天皇のとき、 現寺号・山号に改めたとする。(47) 獅子窟寺  永正4年(1507年)の『獅子窟縁起』(続群類801)では、元明天皇の勅宣により行基に依るとさ れるが、黄檗僧・月潭による『獅子窟寺記』(元禄5年・1692年)では、当寺は文武天皇の頃、 役行者が開山し、聖武天皇の勅命により行基が金剛般若窟の寺号で創建したとされる。  久修園院は、「寺所蔵の『久修園院縁起』には、寺は天王山木津寺と称し、霊亀2年行基の 開基で、聖武天皇から賜った地の四至は、東は男山のうち高尾の峯、南は王余魚河、北は 米尾寺、西は大河を限る」とある。 (48)  霊亀2年は、『行基年譜』などと異なる。 『雍州府志』に「本尊 釈迦行基所レ作也。」とある。  久修園院は、縁起に「石清水八幡護国寺久修園院」と、石清水八幡宮・護国寺と久修園院が 一体となっており(49)、「彼寺鎮守者、奉勧請狩尾明神」「此寺鎮守当山狩尾明神、行基菩薩 勧請之云々」 (50)とあるように、行基と石清水八幡護国寺及び狩尾明神との結びつきが深い 様子が窺える。   5 河内国茨田・讃良郡 表8 河内国茨田・讃良郡の伝承地
名称紀年内容備考
堤・溝・堀川天平十三年茨田堤(茨田里) 高瀬堤(高瀬里) 韓室堤(韓室里) 古林溝(古林里)大庭堀川(大庭里)『行基年譜』
救方院・薦田尼院天平5年己上在河内国茨田郡伊香村『行基年譜』
山崎院宝亀4年田2町を官より施入続日本紀
行基道天平十三年大和と北河内を結ぶ街道のもと、清滝街道『行基年譜』直道
管相寺本尊十一面観音行基作河内名所図会
小野山正法寺奈良時代前期聖武天皇の勅願、行基49院の一、元は清滝地区にあった。『大阪府の地名』平凡社923
龍尾寺天平年中行基と龍の伝説の寺、聖武天皇勅願、行基に始まる。龍頭寺・龍腹寺・龍尾寺の三寺を建立。諸国社寺縁起 『大阪府の地名』926
野崎観音慈眼寺 天平年中十一面野崎観音行基作『大阪府の地名』933
光明寺高瀬橋院の法灯を継ぐ。『大阪府の地名』771
注)『大阪府の地名2』平凡社「河内国」の項による。  『行基年譜』に「直道一所 在自高瀬、生馬大山登道、己上河内国茨田郡・摂津国云云」とあ る。清滝道は行基道とも言われる。(51)  この道路は「長柄船瀬」(港津)と大和・南山城(恭仁京)を結ぶものであったろう。(52)  「在自高瀬、生馬大山登道」は、高瀬から生馬を経由する大養徳道で、大養徳恭仁京に続く道 と考える。  『続日本紀』宝亀4年11月20日条に、河内国山崎院に田2町を官より施入とある。 これは、河内名所図会には、山崎院(さんきいん)三矢とあり、 救方院と同一の道場ではないか と思われる。
その他特記事項:木津、内膳司、樟葉平野山瓦窯跡、塩釜跡
6 摂津国島上郡 表9 摂津国島上郡の伝承地
名称紀年内容備考
西観音寺(廃寺・現椎尾神社)天平年中/18年(746)行基が聖武天皇の帰依仏十一面観音を本尊として開創された。慈悲尾山寺と同じか。 島本町山崎
小烏神社(廃社)水無瀬神宮の北方の地に行基が創建。島本町広瀬
若山神社大宝元年(701)行基が勅命にて勧請。二十二社の一つ。 西八王子牛頭天王社島本町西天王山
勝幡寺養老元年/3年、勝宝元年行基により開基。若山神社の神宮寺。 本尊薬師(洞薬師)行基作島本町山崎
釈恩寺(廃寺)天平年間僧行基の創建島本町尺代
注)『大阪府の地名1』平凡社「三島郡島本町」の項104−111頁による。  「西観音寺」は、行基が聖武天皇の念持仏である観音像を本尊として開いたのに始まる。明治元年 の廃仏毀釈で寺は廃寺となり場所を変えて現在の椎尾神社に、本堂は観音寺へ、閻魔堂は大念寺 へ、閻魔大王等の「五尊像」は宝積寺へ移る。  若山神社は、西天王山(若山)の中腹にあり、祭神は素戔嗚尊を祀っている。社伝では、大宝元年 (701年)行基が勅を奉じて勧請した。二十二社の一つ。  延久6年(1074年)官幣社に列せられ、古来勝幡寺が宮寺となっていた。  古くは、西八王子社(38-3)、牛頭天王社などと呼ばれていたが、明治時代の神仏分離令により、 若山神社に改められた。  摂社に小烏神社(祭神:素盞鳴命)がある。  水無瀬神宮の北方の地に行基が創建したとされる。西八王子下ノ宮、小烏大明神とも呼ばれ、 昭和45年(1970)に若山神社境内に移される。  勝幡寺は、「勝幡寺縁起記」(永正16年奥書)」によれば養老元年(717年)僧行基により開基され たといい、別の記録によれば天平勝宝元年(749)とも伝わる。若山神社の宮寺である。  本尊は、薬師如来立像で鎌倉時代の作と言われ、僧行基が山中の空洞より発光する老樹を彫り、 その空洞に安置したことから洞薬師と呼ばれる。 釈恩寺  寺伝によると、天平年間(729〜749)行基の開創と伝えられる。元は大沢字観音にあったと言い、 旧地より古瓦が出土したと伝わる。本尊十一面の観音立像(十世紀中頃から平安時代後期の作) は島本町の最古の仏像。現在は廃寺となる。 「嵯峨・生駒」南北軸
嵯峨大覚寺−檀林寺(嵯峨天龍寺)−天王山酒解神社−宝積寺−離宮八幡宮−山崎橋、−久修園院−田口氏墓−生駒山−葛城山に至る。
 酒解神社と離宮八幡宮の南北線上には、宝積寺が位置し、以北は、橘嘉智子の檀林寺、嵯峨大 覚寺があり、以南は、山崎橋、久親恩寺(久修園寺は近接する)、田口氏(嘉智子母)墓から、生駒山、 葛城山に至る。  この南北軸は、檀林寺(53)−酒解神社−田口氏墓の橘氏の結び付きと宝積寺−山崎橋−久修 園院−生駒山(行基墓)−葛城山(高宮寺)の行基に関連する場所が重なるものであり、少なくとも、 嵯峨−天王山−生駒山はよく知られていたのではないか。  室町時代に来日した鄭舜功が作成した『日本一鑑』に、天王山の位置に「天龍禅寺」がある。(54) 天龍禅寺は、嵯峨の大寺であるが、ちょうど天王山の北の方角にある。また、淀川から桂川を遡った ところにある。  京都人は北に向かうことを上がるというから、「天王山を上ると天龍禅寺がある」というような説明を 通訳等が誤解したものであろう。 二 橘に関係する伝承 以上、摂河雍州の行基伝承を見ると、『行基年譜』の行基49院以外に数多くの伝承がある。  特に、恭仁京から三川合流地にかけての行基伝承が濃密である。  摂河雍州の行基伝承と重なるものを思うと、荒唐であるが、橘紋など橘に係るものがある。  『行基年譜』は、泉橋院は、橘橋院とされた。  泉川の別名である木津川の木津は橘(きつ)とも言われる。  行基伝承のある蟹満寺の所在蟹幡郷は万葉集に「可尓波」とあり、天平元年、葛城王(橘諸兄) が班田使の時薩妙観との贈答歌に見え(55)、その北側の井手は、橘諸兄の別業があった橘氏の 拠点である。  橘に関係する伝承を表10に掲げる。 表10 橘関係の伝承地
名称場所内容備考
高麗寺木津川市敏達天皇勅願により建立橘諸兄の祖
相楽郡蟹幡郷木津川市葛城王山背国班田使万葉集20-4455
相楽別業相楽郡 天平12年5月聖武天皇右大臣橘諸兄の相楽別業に行幸し、奈良麻呂に叙位。場所未定
恭仁京木津川市天平12年12月橘諸兄遷都のため恭仁郷の地を経略する。諸兄の諮問に大養徳恭仁大宮とする。天平18年7月恭仁宮大極殿を山背国分寺に施入する。
泉橋寺木津川市『行基年譜』に「橘橋院」とする。
加勢山墓木津川市橘清友の墓「延喜式諸陵寮」場所不明
八王子神社木津川市意美須神社(鹿背山)橘紋
西念寺木津川市井出里から阿弥陀如来像が施入される。橘氏に関係するか。
岩船寺木津川市仁明誕生後、嘉智子が水田、山地を下賜
円提寺・井提寺井出町橘氏の氏寺、鐘が土佐に行く。
地蔵院井出町本尊地蔵相伝橘諸兄之持仏也、橘諸兄公夫妻之塔『雍州府志』現在の地福寺か。
梅宮社井出町三千代の神。円提寺内酒解神
玉津岡神社井出町八王子社、牛頭天王社。橘神社
光明山寺相楽郡棚倉山大宝3年癸卯 橘右大臣諸兄本願、菩薩開基『行化年譜』による。
梅宮大社、梅宮神社和束町梅宮社は橘氏の氏神である。梅宮神社は和束天満宮の境内にあり。
御栗栖神社宇治田原町天武天皇煮栗焼栗伝承の地/天武天皇社八角に橘紋
栗隈(旦椋)神社宇治市大久保栗隈大溝、栗隈山、栗隈王縁の地栗隈王は、橘諸兄の祖父
離宮八幡宮宇治市離宮八幡宮を勧請、現宇治神社、宇治上神社、宇治川中に「橘の小島・橘橋」橘紋
双栗神社久御山町橘氏を神司とした。『京都の地名』202頁。橘紋、元椏本八幡宮
若宮神社久御山町天保3年(959)草創(佐山村郷土誌)橘紋
玉田神社久御山町橘諸兄と神馬火鎮の伝承橘紋
美豆の牧伏見区橘諸兄が設けた(涼森神社記)
御香宮伏見区行基の「石井院」と関係があるか。橘紋
甘南備京田辺市甘南備山、甘南備寺、甘南備神社甘南備氏は橘氏同祖
百済王神社枚方市百済王末裔の神社橘紋
粟倉神社枚方市石清水八幡宮を勧請橘紋
橘大神枚方市寿弁財天、樟葉天満宮の跡である。大鳥部町
久親恩寺枚方市楠正儀の家臣篠崎の里、行基作薬師如来
安養寺枚方市楠正儀の菊水紋や過去帳がある。
石清水八幡宮八幡市造営奉行橘良基。橘の木がある。「百合と蟷螂」「亀の甲羅を背負う一角の犀」の造形。橘本坊、橘坊、椿坊。社紋は橘紋。 椿氏は橘氏の分氏 橘の実で酒を作る。
猿田彦神社八幡市橋本南岩倉橘紋
酒解神社大山崎町元山崎社、自玉手祭来酒解神社(延喜式)橘氏の氏神
橘生院大山崎町橘名の寺院大山崎町開山
橘園院島本町橘名の寺院、西観音寺の塔頭島本町
水無瀬神宮島本町楠正成伝承地島本町の町章は菊水
檀林寺右京区橘嘉智子が建てた寺。天龍寺から妙心寺までの大寺であった。嵯峨天龍寺の地名の広がりを見れば分かる。橘嘉智子は奈良麻呂の孫
梅宮大社右京区酒解神など4神を祀る。橘紋、橘氏の氏神
南山城三十七所貞享年間綺田村東光寺如範が巡礼地を選定橘講
 宇治田原町の御栗栖神社の社紋は、八角に橘紋である。この八角の意匠は、どこからもたらされた かと考えたとき、石清水八幡宮の八角堂の平面投影図である。この八角円堂は西車塚古墳上に移設 されており、その形状は正八角形でなく、四方を隅切りされた八角形である。(56)  つまり、宇治田原町の御栗栖神社は、天満宮、八幡宮を合祀したとされ、石清水八幡宮と関係がある ものと考える。  橘大神は、枚方市大鳥部町にある。 「大鳥部」は、行基の生地「和泉国大鳥郡」に誘導するか。橘と行基が関係付けられる。 三 佐為寺の比定 嵯峨天皇の交野行幸、  『類聚国史』(菅原道真編纂 892年完成)に表11のとおり、嵯峨天皇の交野行幸に際して、佐為 寺・百済寺・粟倉寺の名が記されている。 例えば、弘仁7年(816年)に嵯峨天皇(786-842年)が交野へ行幸されたときに、 「施捨佐為。百済。粟倉。僧尼三寺各綿一百屯」 とあり、佐為・百済・粟倉の3寺に綿一百屯を施されたという記録がある。 表11 『類聚国史』の記事
暦年内容備考
大同3年(808年)1/28河内国交野雄徳山埋葬を禁ず
弘仁5年(814年)2/27佐為、百済寺各綿一百屯
弘仁7年(816年)2/20施捨佐為、百済、粟倉僧尼三寺各綿一百屯粟倉寺は尼寺カ
弘仁8年(817年)2/20佐為、百済、粟倉三寺各綿一百屯
承和6年(839年)酒解神従五位を賜る
貞観2年(860年)石清水寺に八幡宮を勧請
 佐為寺・粟倉寺・百済寺のうち、粟倉寺・百済寺は粟倉神社、百済王神社が現存するので、そ の付近に比定されるが、佐為寺は所在が不明である。  『枚方市史』は、「粟倉寺については明確な遺構を検出していないが、粟倉神社が鎮座し、遺 物が出土している。この付近に建立されていた可能性が高い。」とする。(58) 粟倉神社(57)  粟倉神社は、旧粟倉郷のちの小倉村の古くからの氏神で、元和2年(1577)に八幡大神を勧請 して社殿を造営したという(旧枚方市史)。 表12 佐為寺の比定
比定場所本尊備考
西寺(廃寺)南区平城京東寺と対の寺院、僧綱所
佐井寺吹田市十一面観音行基山、天平7年2月17日行基開創。
久修園院樟葉釈迦行基建立/石清水八幡宮の別院
久親恩寺樟葉丈六薬師西ノ寺と呼ばれた。本尊薬師如来行基作。
石清水寺八幡薬師護国寺の本尊薬師
安養寺樟葉
その他樟葉報恩寺、布施屋
 佐為寺は、平安京の西寺や吹田市の佐井寺とする説などがある。(59) しかしながら、交野行幸に際して、「綿一百屯」を施捨するのは、行幸の方向から、相応しくない と思われる。嵯峨天皇は、交野行幸前に河陽離宮に滞在したのだから、やはり、河陽離宮から 交野の地までに存在した寺院であったと思われる。  樟葉篠崎の里に「西寺」と呼ばれる寺があり、本尊は行基作丈六薬師如来とされる。  その他の樟葉近辺の寺院は「さい寺」とする伝承は残っていない。 そのようなことから考えると、行基の伝承が残る護国寺の前身寺院である「山寺・石清水寺」 は歴史的に明確ではないが八幡宮勧請以前に確実に存在したのであり、それが佐為寺では ないかと思われるのである。 □石清水八幡宮から出土した播磨瓦  「石清水八幡宮の創建年代(貞観元859)より逆のぼる瓦、複弁八葉蓮華紋軒丸瓦と同范瓦が 播磨国野口廃寺跡で出土した」(60)  「7世紀末から8世紀前葉に西播磨の瓦が石清水の地にもたらされたと理解して間違いない」(61)  「この野口(廃寺)式軒丸瓦や播磨国府系「国分寺式」軒丸瓦は、八幡宮造営に先立つ石清水寺 所用瓦と考えることができる。」(62)  「野口廃寺は、加古川下流東岸、古代山陽道を挟み加古駅家(かこのうまや)と向かい合っている。 塔、講堂は瓦積基壇。野口神社境内」(63)とある。野口廃寺は、行基像が収蔵されている鶴林寺の 東方約2.6kmに位置している。  神亀三年十月、聖武天皇は播磨国印南野に行幸した。『峯相記』には、「神亀三年十月行基僧正 仙跡ヲ尋テ参詣ス」(64)とあり、その頃、行基もまた播磨国の寺社を巡っていたから、その時乃至は 播磨国通行時に播磨の瓦または范を持ち帰るか、技術者を連れ帰ったのではないか。 □石清水八幡宮の建物の造作の謎解き  本殿の欄間彫刻に「百合と蟷螂」がある。(65) そして、百合は、八幡宮秘蔵の花(66)といわれるが、意味は明確でない。  百合若説経は、百合若伝説と八幡信仰との密接な関係を示す。(67)  『古事記』に百合の古名は、「佐韋さゐ」とされる。そして、「ゆり」には「後のち・あと」の意味があ る(『広辞苑』)から万葉集に百合の花が詠まれる。(68)  また、八幡宮本殿の西門に「亀の甲羅を背負う一角の犀」の造形がある。 (69) 亀は基と通じ、亀の甲羅は六角形である。六面体の賽(さいころ)とも通じる。 「西、犀、賽」これらは、同じ音の「さい」に収れんするのである。 □酒解神の謎解き  大山崎の酒解神は橘氏の氏神である。  また、宇治市に勧請された離宮八幡宮は、現在の宇治神社および宇治上神社である。 (70)  宇治川の中の島に橘地名がある。この宇治神社、宇治上神社は、氏、氏神と通じ、離宮八幡宮 が酒解神を祀ることから、橘氏を隠しているのではなかろうか。酒解神の意味を考える。  梅宮大社は、 日本最古の酒造の神と言われ、松尾大社も酒造の神である。石清水八幡宮では、 橘の実を使い酒を醸す。松尾大社の霊水「亀の井」は、「酒の元水」と言われる。  「酒解の神」は、「酒」を分解すると、「三水」と「酉」になる。さらに分解すると、「三」「一」「西」となる。  二つの「サイ」が出来る。一つは、道祖神「さいの神」であろうし、もう一つは、「さい寺」を連想する ことが出来る。  『都名所図会』「松尾大社」の遠景、「東山」方面に三か所の地名がある。建物の屋根が少し見え、 南から「さいの野の森」「西院住吉社」「西院春日社」がある。(71)  淳和天皇の離宮の淳和院が西院と呼ばれた。西院の読みは「さいん」であるが、『拾遺都名所図 会巻3』には「さゐ」のふり仮名が付く。淳和院の跡に高山寺(右京区西院高山寺町)がある。
その他特記事項:西院、冴野沼、佐江、佐比通、佐比大路、賽の河原
「生駒・嵯峨」南北軸を更に延長すると、葛城山に到達した。葛城もまた、行基と関係が深い地である。(72) そして、橘と結び付くことが分かる。葛城(葛木)は、橘諸兄の元名である。
その他特記事項:高宮廃寺、船宿寺(五百家)、菩提寺(伏見)、九品寺、置恩寺(新庄)、一言主神社、西佐味
結びに  摂河雍州と行基の関係を眺めてきた。全国に1400箇所もある行基伝承地は、摂河雍州におい ても畿内49院どころか、驚くほど数多い伝承地がある。この行基伝承の伝播、拡散は、別に論じ たいが、本論では、その糸口を見つける端緒と位置付ける。  まず、拙論『行基地図』でも論じたように、行基は、大養徳国恭仁京と深く関わることが指摘で きる。  恭仁京の地は橘氏の本拠井出に近いだけでなく、行基と橘諸兄の親密な関係は、和泉国の 杣や久米田寺の伝承、『行基年譜』などで顕著であるように行基の活動が色濃い摂河雍州でも 同様に橘紋に見られるように橘氏と関わる地でもある。  山崎天王山には、橘氏の氏神の酒解神がある。井出町の氏神を移したものと考えられる。(73)  八幡市の男山には、石清水八幡宮があり、平安京の裏鬼門で、源氏の守り神でもある。  そして、男山への石清水八幡宮勧請以前の石清水寺(護国寺)は、行基が建立したとの伝承も 残っている。  山背守橘宿禰綿裳は、光仁天皇が恭仁京行幸時に叙位を受ける。この行幸は、光仁天皇皇 后の井上内親王の意向によるものと考えられる。(74)  楠木正成は、橘朝臣正成とする。摂津・河内の二国を後醍醐天皇から賜り、河内守ともされる。 島本町や樟葉に楠木正成・正行や正儀の伝承が残る。  「生駒・嵯峨」南北軸を更に延長すると、葛城山に到達した。葛城もまた、行基と関係が深い地 である。そして、橘と結び付くことが分かる。  そして、行基の摂河雍州における地理的な面からの活動を見ると、行基と橘氏の繋がりが強い。 「橘」と「さい」に収れんするのである。  『三代実録』に見える「佐為寺」は、石清水八幡宮以前にあった護国寺の前身の山寺(石清水寺) ではないだろうか。  行教が石清水八幡宮を勧請する以前に、当地には堂塔社があったとされ、石清水八幡宮の地 にあった社は、狩尾山に移設された狩尾神社であり、八幡宮勧請以前には佐為寺への奉納は 狩猟の成功を祈願したのではなかろうか。 そして、「佐為寺」は行基が造ったものではないかと憶測する。  護国寺は、「石清水八幡護国寺久修恩院縁起」などから考えると、行基との関わりが想定され、 行基が「鎮護国家の御ために衆生を利益す。」(『昆陽寺鐘銘』『行基大菩薩行状記』)、行基建立 の家原寺は「鎮護国家の祈願所」(家原寺縁起)とされるのは、護国寺の前身寺院と関係するの ではないか。  『護国寺濫觴事』の「男山根本精舎不知草創」(当寺濫觴事663頁。)など、石清水八幡宮史料 には、「不知草創」が多出する。「不知草」は「サイ(百合)」を隠しているのではないか。  八幡秘蔵の花、百合については、万葉集8-1503に 「吾妹児が家の垣内のさ百合花 ゆりと言えるは否と言ふに似る」とある。 「ゆり」=「後でね」というのは「否ですよ」の含意であるが、  否に似る言葉は百合の古語「さい」から発想される「不知」ではないだろうか。(75)  岩清水の湧く小さな井を「さ井」とするなら、石清水八幡宮に係る寺名の変化は、(さ井=小井・ 狭井)→佐為→石清水の変化が考えられる。  石清水八幡宮近くに湧く五井は寺社だけでなく、参拝者、町衆、旅行者などの飲料水として欠 かせないものであったろう。吹田市の佐井寺(76)には佐井の清水がある。元来「さ」が井の美称 であり(77)、「さ」は小・狭・左・佐とも表記される。  石清水とされたのは、元明天皇以来の好字2字を用いない特殊な例である。百合の三枝は、 三字に通じ、「石清水」「大菩薩」、大倭の変化「大養徳」に通じるところがある。  また、橘諸兄は、井手左大臣または西院大臣とされるうちの「西院大臣」はその由来は示され ることはないが、「さい(さゐ)」に誘導するものではないかと思われる。  憶測にすぎた結びですが、ご批評を願います。 註 (1) 『石清水八幡宮境内の遺跡』八幡市教育委員会、2010年。 (2)山城国を雍州という。黒川道祐『雍州府志』貞享元年(1684)。 (3) 『京都府の地名』日本歴史地名体系第26巻、平凡社、1981年、64 頁。/『京都府相楽郡誌』大正9年、304-305頁。 (4) 上田純一・向井祐介編集『京都府立大学文化遺産叢書』第9集 和束地域の歴史と文化遺産京都府立大学文学部 歴史学科 2015年(別刷)37頁。 (5) 『続日本紀』宝亀元年11月10日条。安積親王、井上内親王は、三千代の縁者県犬養宿禰廣刀自と聖武天皇の子である。 (6)田辺英夫「鹿背山通信4」『やましろ』23号、2009年、70頁。 (7)食された三鹿の蘇生は、あり得ないことであるが、意味するところは、鹿が三尾で「?(そ)=蘇、つまり、蘇るである。 行基伝承には、智光が十日(そ=蘇)して地獄から蘇る話や行基が膾として食した魚を吐き出すと泳いだ話が見えるのと同様 の不思議譚である。(「行基大菩薩行状記」『続群書類従』巻204) (8)鹿背山のどこかに鹿背山墓(橘奈良麻呂の子、清友の墓)があったとされる。「墳墓一隅抄云、鹿背山廃寺側池有、壊墳、 是也」(吉田東洋『大日本地名辞書』第2巻、冨山房、1900年) 『行基大菩薩行状記』(続群書類従巻204)は、鹿山寺の縁起と思われる。 (9)八田達夫『霊験寺院と神仏習合』吉川弘文館、2003年、148頁。 (9) 『興福寺官務牒疏』(『大日本仏教全書』119巻・寺誌叢書第3、仏書刊行会、昭和55年)は、椿井文書とされ、偽書とされる。 (太田文代「地域史研究と偽文書」『やましろ』25号) (10) 「雍州府志巻5」『続々群書類従』第8、154頁。/『訓読雍州府志』立川美彦編、臨川書店、1997年、359頁。 (11)大伴家持「久迩京を讃えて作る歌」万葉集6-1037-1039 田辺福麻呂「久迩新京を讃ふる歌」万葉集6-1050-1058 (12)安永7年の「山城州大絵図」では、「法花寺」とされている。 (13) 鎌田元一『律令国家の研究』塙書房、2008年、392頁。 (14) 同上382頁、392頁。 (15) 「峯相記」『大日本仏教全書117』・仏書刊行会) (16) 行基供養碑「宝暦13年(1763)/行基大菩薩一千年恩忌/末二月二日/栗林地蔵寺聖敬白」 (17)『高麗名所』に「高麗大寺縄手才ノ神の小社へ拝して…」とある。 (中津川敬朗「高麗寺の発見と調査・上」城南郷土史 研究会『やましろ』22号、2008年、12頁。) (18)江戸時代の誓願寺は木津町木津宮ノ堀65-1(「南山城巡礼」)とされ、『拾遺都名所図会』巻4(『新修京都叢書』第7巻、 臨川書店、1967年、563頁)には、「大智寺の南三町計にあり」とされるから、現在の西教寺辺りである。(泉森皎「考古学的に みた四十九院」『探訪古代の道』180頁。)『山州名跡志』には、「聖武天皇御願…」(『京都府の地名』平凡社、88頁。)とあるな ど、誓願寺の史料は混乱している。 (19)西教寺の本尊十一面観音は行基作とある。(『拾遺都名所図会』巻4、563頁。) (20)上原真人「初期瓦生産と屯倉制」『京都大学文学部研究紀要』42号、2003年、46・49頁。/大安寺棚倉瓦屋は「奈良大安 寺創建瓦を焼いた石橋瓦窯跡がある。」(井出町パンフレット『自然・歴史・文化が色づくまち』) (21)『南都七大寺巡礼記』(続々群書類従第11宗教部、561頁。) (22)『京田辺大百科』2006年、68頁。 (23)『続日本後紀』天長10年(833)10月条「勅以山城国綴喜郡区毘岳一処、為円提寺地」 「区毘岳」は、咋岡(飯岡)である。万葉集2-159「神岳かむおか」、蜂岳寺(蜂岡)=広隆寺 (法隆寺縁起資材帳) (24)殿水清円『行基菩薩』西村法蔵館、1916年、88頁。 (25) 伊藤太「神尾寺と木津天神山をめぐるトポス」『やましろ』23号、2009年、24頁。   藤岡謙二郎『景観変遷の歴史地理学的研究』の説。 (26) 諸系譜第一冊。『続日本後紀』『新撰姓氏録』 (27) 「石清水遷座略縁起」『石清水八幡宮史』史料第一輯、続群書類従完成会、1932年、4-5頁。 (28) 「石清水八幡宮文書」『石清水八幡宮史』史料第一輯、続群書類従完成会、1932年、646-647頁。 (29)同上643頁。「 石清水八幡宮遷宮以前に山寺(石清水寺)があったとされる。 『宮寺縁事抄』「護国寺 宮寺縁起云、石清水、素山寺名也。」/ 『石清水遷座略縁起』「抑石清水、素山寺之名也」 『石清水八幡宮末社記』「石清水者、素山寺名也」 (30)「 石清水寺者、聖武天皇の御願、行基菩薩之開基也、本尊行基作云々。」「石清水八幡宮末社記」(『石清水八幡宮史』史料 第一輯、続群書類従完成会、1932年、643-644頁。)/ 『報恩寺前空圓法印放記』「護国寺、行基御建立」(『石清水八幡宮史』史料第一輯、続群書類従完成会、1932年、643頁。)/ 『宮寺旧記』「或記云、東寳塔院本尊婆、行基菩薩建立云々。恐くば護国寺に属したる寳塔ならんか。」「東寳塔院本尊塔婆、 行基菩薩建立云々。」(『石清水八幡宮史』史料第一輯、続群書類従完成会、昭和7年、815頁。) (31)『山城綴喜郡史』京都府教育会綴喜郡部会古代叢書、高木謙二郎、1908年、227頁。 (32) 「八幡宮境内図」の美豆村に「円通寺」、際目村に「安禅寺」が見える。 (33)『石清水八幡宮護国寺言上』646-647頁。 『八幡宮護国寺條々』658頁。(『石清水八幡宮史』史料第一輯、続群書類従完成会、昭和7年、646-647頁。同658頁。) (34) 史料棟札写(史料纂集・古文書編30、『石清水八幡宮文書外』筑波大学所蔵文書(下)某社棟札写(端裏書)「狩尾社棟札之写」 (『石清水八幡宮諸建造物群調査報告書(本文編)』八幡市教育委員会・石清水八幡宮、2007年、40頁。) (35) 『京都府の地名』平凡社、1998年、176頁。 (36)  橋のたもとに造られたから、橋本寺である。石清水八幡宮境内図を見ると、元の橋本寺の位置は現西遊寺の北東700mにあ り、30年撤去された楠の大木の東側に位置した。(『石清水八幡宮史』史料第一輯、続群書類従完成会、1932年。) (37) 近藤康司『行基と知識集団の考古学』清文堂出版、2014年、194頁。 (38)『古事談(続古事談)』日本古典文学全集、岩波書店、245頁、注3. (39) 『男山考古録』巻第7、『石清水八幡宮史』史料第一輯、続群書類従完成会、昭和7年、264頁。 (38)行基山『雍州府志』巻5(『続々群書類従』第8、「勝持寺」の項138頁。) (39)『京都の地名 検証3』勉誠出版、2010年、171頁。「西院」   平安京の佐比大路(道祖大路) に沿った佐比川の河原に「賽の河原」があり、「賽の河原地蔵和讃」が通夜などに唱えられたと いう。日照山高山寺が淳和院の跡である。 (40) 『公卿補任』天平勝宝9年条、『尊卑分脈』橘氏系図。 (41) 五十嵐正樹『京都西山瓦社寺国宝解説』京都宮崎書店、1939年、96頁。 (42)『京都・山城寺院神社大事典』293頁。 (43) 『大阪府の地名1』平凡社、「三島郡島本町」の項、99頁。 (44) 『京都・山城寺院神社大事典』294頁。離宮八幡宮の前身は山崎の神か。そして、それは酒解神と考える。 (45)橘氏の氏神は梅宮大社である。(櫛木謙周「橘諸兄と井手」『京都と京街道:街道の日本史32』吉川弘文館、2002) 梅宮大社は酒解神など4座を祀る。『雍州府志巻3』 (46) 『大山崎町史』107頁。 (47) 同縁起には987年(永延元年)東大寺僧「然(938-1016)が宋より将来した赤栴檀の釈迦像を安置、御一条天皇(在位:1016 年〜36年)より「霊鷲山」の勅額を賜ったことを記す。 この釈迦像は80年後京都千本釈迦堂大報恩寺に、さらに若狭国小浜に移され、3年後、京都嵯峨清凉寺の本尊として安置された。 世に「三国伝来の釈迦」として著名なる像である。 (48)南限の王餘魚川は、天満川であろう。篠崎の郷、天部の郷は、「天マ郷」と書くと「テンマ」となる。天部の郷(長谷寺霊験記・下) (『枚方市史』第2巻、1972年、213頁。) (49) 『石清水八幡宮史』史料第一輯、続群書類従完成会、1932年、847頁。題目「縁起」 (50) 「宮寺見聞私記」845・847頁。(同上) (51)『大阪府の地名2』平凡社、1986年、885頁。 (52)『大阪府の地名2』平凡社、1986年、898頁。 (53)山城国葛野郡班田図(『国史大辞典』第14巻、160頁。)/「葛野郡条里比定図」(『国史大辞典』第14巻、161頁。) (54) 神戸輝夫「鄭舜功著『日本一鑑』について(正)、「桴梅図録」と「陀島新編」『大倉大学教育福祉学科研究紀要』第22(1)号、2000 年、25頁、「図5 夷都城闕図」。 (55)万葉集20巻4455-4456 (56)『石清水八幡宮境内の遺跡』八幡市教育委員会、2010年、9頁。 (57) 粟倉神社 旧粟倉郷は、後の小倉村で、現在小倉町にあるから、「粟」の字は、「粟粒は小さい」ものだから、「小」に変置された のであろう。(『京都の地名 検証3』勉誠出版、2010年、172頁。) (58) 『枚方市史』第12巻、1986年、127-129頁。 (59) 佐為寺は、平安京の西寺(『枚方市史』第12巻、1986年、129頁。)や吹田市の佐井寺(堀池俊春峰『南都仏教史の研究』下、法蔵 館、1986年、129頁。)とする説などがある。 (60)上原真人「国境(くにざかい)の山寺:石清水八幡宮前身寺院に関する憶測」『京都府埋蔵文化財論集』第七巻、175頁。 (61) 同上、177頁。 (62)同上、184頁。 (63)「播磨の古代寺院と造寺・知識集団34」『むくげ通信』267号、むくげの会発行、2014年。 (64)『峯相記』には、「神亀三年十月行基僧正仙跡ヲ尋テ参詣ス」(『峯相記』大日本仏教全書117、285頁。)とあり、「聖武天皇の御時、 僧行基がこの地に行脚し、勅命によって諸尊を刻して大講堂を安置した…」(魚澄惣五郎「播磨清水寺文書に就いて」『古社寺の研究』 星野書店、1931年、451頁。)清水寺など播磨国の寺社を巡っていた。 (65)『石清水八幡宮本社調査報告書』石清水八幡宮、2014年、125頁。   「瑞籬南面欄間1 百合・蟷螂」「蟷螂が斧・百合若」の組み合わせは、百合若説話に見られる。 (66) 百合若説話では、「百合の花と申せば八幡宮ひそふの花にて候へば、八幡宮を方どり百合の花をかたどり…」とある。なぜ百合は 八幡宮秘蔵の花であるのか、前田淑氏の論文(「百合若説話の成立に関する一試論:主人公の出生命名譚をめぐって」『福岡女学院 短期大学紀要』第7号)の大要が紹介されている。 「三輪信仰における疫癘鎮遏の霊花霊草である山百合が、いつか八幡宮秘蔵の花と語られるようになったのではないか」(『幽明録、 遊仙窟』東洋文庫、365-367頁。)とされるが、拙考は、八幡と行基の関係を示すものと考えている。 (67)荒木繁「幸若舞:百合若大臣」『東洋文庫355』平凡社、1979年、365頁。 (68)万葉集8-1503、11-2467、18-4087-4088、18-4113、18-4115 (69) 「西門 犀(背に亀甲羅)」の像あり。 (『石清水八幡宮本社調査報告書』石清水八幡宮、2014年、128頁。) (70)「千種日記」天和3年(1683)『史料京都見聞記』第一巻、法蔵館、平成3年、143頁。 (71) 『都名所図会を読む』宗政五十編、東京堂出版、1997年、200-201頁。 (72) 高原寺『行基年譜』、九品寺の行基像、船宿寺『寺縁起』 (73)山崎天王山には、橘氏の氏神の酒解神がある。井出町の氏神を移したものと考えられる。 (74)「恭仁京は安積親王[聖武天皇の子、井上内親王の弟]のための都だった」(小林唯『遷都に込められた古代天皇家の秘法』 徳間書店、2011年、240頁。) 光仁天皇行幸時、恭仁京は廃止されていたから、その行幸目的は、安積親王供養と考える。 (75)「否」と「不知」が似るのは、「否」字を分解すると、一小口ができる。「いさし(らず)」で数字に置き換えると、一三四である。 「不知」は同様に、一小口と矢ができる。一三四→八となり、八は八幡宮と八角堂の八と通ずる。 (76)佐井寺にも行基伝説が残る。佐井清水は行基菩薩が祈り湧出した。本尊十一面観音は行基感得、行基山、行基松などで ある。(『摂津名所図絵』上・巻5、大日本名所図会刊行会、1919年) (77) 「佐井は元来「さ」が井の美称であり、霊泉や井より地名化したものであろう。」(堀池俊春峰『南都仏教史の研究』下、法蔵館、 1986年、622頁。) 参考 『山州名跡志』正徳元年(1711) 『山州名勝志』1715 『山城名勝志』1715 『山城名跡巡行志』浄慧、宝暦4年(1754) 『都名所図会』秋里離島、寛永9年(1780) 『増補京都叢書』 『京都府相楽郡誌』大正9年(1919) 『京都府相楽郡加茂町史』1928年 『山城町史』史料編、山城町、1990年 『京田辺大百科 歴史風俗編』京田辺市観光協会、2006年。 『山城綴喜郡誌(全)』京都府教育会綴喜郡部会古代叢書、高木謙二郎、1908年 『石清水八幡宮史』史料第一輯、続群書類従完成会、1932年、 『男山考古録』全、『石清水八幡宮』史料叢書第一、石清水八幡宮社務所、1960年 「拾遺都名所図会」『新編京都叢書』第七巻、臨川書店、1967年 『石清水八幡宮諸建物群調査報告書(本文編)』八幡市教育委員会、石清水八幡宮、2007年 『訓読雍州府志』立川美彦編、臨川書店、1997年 『京都古社寺事典』吉川弘文館編集部編、吉川弘文館、2010年 『淀川両岸一覧』柳原書店、1978年。 『京都の地名 検証』京都地名研究会、勉誠出版、2005年 『行基と山崎院』第26回企画展パンフレット、大山崎町歴史資料館、2018年 石母田正「国家と行基と人民」(『日本古代国家論』第一部、岩波書店)1973年 井上光貞「行基年譜、特に天平十三年記の研究」(『律令国家と貴族社会』吉川弘文館) 1969年 近藤康司『行基と知識集団の考古学』清文堂出版、2014年、200-201頁 近藤康司「畿内における民衆と仏教」『在地社会と仏教』奈良文化財研究所、2006年、7頁 寺島良安『和漢三才図会』13、東洋文庫505、平凡社、1989年 田中淳一郎「井手と円提寺」『やましろ』21号2006年、22号2008年 三浦祐之「佐韋考:山由理草之本名をめぐって」『大美和』96号、大神神社、1999年

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