目次 一 聖武天皇の出家受戒 1 聖武天皇の譲位 2 聖武天皇の出家 3 聖武天皇と菩薩戒 (1) 天平年間における菩薩戒 (2) 聖武天皇の出家受戒の期日 (3) 行基による菩薩戒 (4)行基以外の「菩薩戒」 二 行基と鑑真 1 大僧正の任命 (1)鑑真大僧正 (2)行基大僧正 (3)玄ムと菩提遷那 2 大菩薩の賜号と時人の呼称「菩薩」 1 鑑真の大僧正・大和上 (1)鑑真の伝 (2)『続日本紀』と鑑真 4『続日本紀』と『東征伝』における菩薩戒 5鑑真による聖武天皇の戒 6孝謙天皇の受戒 (1) 出家・菩薩戒 (2)行基の菩薩戒の構造 はじめに 行基が聖武天皇らに菩薩戒を授け、即日、大僧正を改め、大菩薩号を賜ったことは多くの行基伝 に見られるところであるが、その内容には異同が多い。 正史である『続日本紀』は、聖武天皇が「沙彌勝満」として出家授戒したらしきことは記すが、多く の行基伝と異なり、行基による菩薩戒を受けたことは記さない。これは何故であろうか。 また、聖武天皇らの出家授戒については行基の菩薩戒と重なるものには鑑真からの受戒がある。 『続日本紀』においては、鑑真による聖武天皇らの受戒は、菩薩戒とはされていないが、鑑真の事 蹟をしるした『唐和上東征伝』は、鑑真から東大寺の大仏殿前において、聖武天皇に菩薩戒を授け、 次に皇后・皇太子が授戒したことを述べる。(1) しかし、他の史料では、菩薩戒のほかに、具足戒、沙彌戒とされるなど混乱が見られる。 これらの違いは何に由来するのだろうか。 そして、行基の菩薩戒と鑑真の菩薩戒の重なり及び『続日本紀』と他の行基伝との違いを考えた とき、多くの行基伝に見られる「行基による聖武天皇らの菩薩戒」が混乱の原因となっていることが 指摘できる。 ここでは、『続日本紀』などの史料に基づき、行基と鑑真との関わりの中で聖武天皇らの受戒の状 況を追っていき、多くの行基伝に見られる「行基による聖武天皇らの菩薩戒」の実態を検証すること を目的とする。 また、『続日本紀』に、聖武天皇らが鑑真から戒を受けるが、菩薩戒とはしないことの意味を探る。 その前提として、「聖武天皇の出家は何時か。また、孝謙天皇に譲位して太上天皇となるのは何時か。 菩薩戒を受けたのは何時か。」三つの時点を考えることを出発点とする。 一 聖武天皇の出家・受戒 1 聖武天皇の譲位 『続日本紀』の記載から見ていく。聖武天皇の譲位については、天平勝宝元年秋七月甲午(二日)条に、 「皇太子[阿倍内親王]、禅を受けて大極殿に即位(くらいつ)きたまふ[孝謙天皇]。」とある。 ところが、その少し前の時点である天平勝宝元年閏五月癸丑(二十日)条の大安寺等の五大寺への 施入願文中には、「太上天皇沙彌勝満」がみえる。 ここに、聖武天皇が譲位する以前に「太上天皇」の表記が見られるという混乱した状況があり、整合 が取れていないことが指摘できる。 これについて、瀧浪貞子は、「聖武天皇の譲位は七月二日であり、「太上天皇沙彌勝満」はあくまで 聖武の自称に過ぎず、聖武の願望、強烈な意思表示であり、実際にはないもの」(2)とされたが、同時 期に皇后は万福、中宮は徳満とされる(3)から「沙彌勝満」は単なる自称でなく受戒後の法名であった 可能性があるのではないか。 古くは、境野黄洋が、「聖武を太上天皇と申すは、後よりの追記であるから斯う書いたもので、正月は まだ太上天皇では在さない。且つ菩薩戒を受けて出家といふことはない。譲位後の出家といふのが真 実であらう。(4)」とするのが、『続日本紀』に沿った一般的な見方と思われる。 表1 聖武天皇に係る『続日本紀』の記載しかしながら、『続日本紀』天平感宝元年閏五月廿日条の大安寺等の施入勅願文の原型と思われる 勅願文が静岡県的之原市の平田寺文書(5)に収められており、そこには「天平感宝元年閏五月廿日」 の日付とともに「太上天皇沙彌勝満」の表記が見える。 太上天皇が追記でないことは、平田寺文書にこの語が記されていることからも明らかであり、実質的 に譲位されたものとされている(6)ので、天平勝宝元年閏五月廿日時点の出家と実質的な譲位は事実 としてもよいものと思われる。 更に、『続日本紀』天平勝宝元年秋七月甲午(二日)条の聖武天皇から孝謙天皇への譲位の記事の前 にある、天平勝宝元年閏五月丙辰(二十三日)条には「天皇、薬師寺宮に遷御して御在所としたまふ。」 とあることから、岸俊男が「出家受戒した身で天皇として政治に関係することはありうべきでないとの聖武 の考えから、太上天皇を称させるに至り、さらに宮中から薬師寺宮に遷らせることになったのであり、結 果として孝謙への譲位を導き出したもの(7)」とされている。 これから考えると、天平勝宝元年閏五月丙辰(二十三日)に薬師寺宮へ遷御されたことは、譲位を前提 とするものであり、実質出家したとする閏五月癸丑(二十日)の記事と整合が取れているものと考える。 川崎晃は、「角田文衛氏は『続日本紀』[天平勝宝元年]七月二日の聖武譲位、阿倍内親王即位記事 に疑間を差し挟み、この記事は即位記事であり、四月一日には「三宝の奴と仕へ奉る天皇」とあることか ら、譲位を四月二日から「太上天皇沙彌勝満」と称した閏五月二十日の間に求められた。また譲位の可 能性としては、『続日本紀』天平感宝元年閏五月癸卯(十日) 条に、譲位の際にみられる自らの政治を失 政と捉える遜辞が見え、また大赦が行われていることから閏五月十日の可能性が高いとされた。(8)」と 紹介するように、実質的には、七月二日以前に譲位されていたようである。 2 聖武天皇の出家(菩薩戒) 譲位と重なる部分もあるが、聖武天皇の出家(菩薩戒)について考える。 出家の意味を「家を出て仏門に入ること、俗世間をすて、仏道修行に入ること、また、その人。僧。」[広辞 苑]とある。 沙弥は、「@出家して未だ正式の僧になっていない男子。A剃髪しても妻子があり、在家の生活をする 者。」[広辞苑]とある。 『続日本紀』は、天平感宝元年五月二十日聖武天皇を「太上天皇沙彌勝満」とする。 校注者は、「本条[天平感宝元年閏五月廿日条]に沙彌勝満とあることは聖武天皇の出家を物語るが、 『扶桑略記』を見ると天平二十一年正月十四日条に「於平城中嶋宮請大僧正行基菩薩為其戒名勝満」と あり([東大寺]要録一は「或日記云」として聖武の出家を天平二十年正月八日のこととし、また、菩薩戒を 受け勝満と名乗ったのを四月八日とする)、その出家はこの年の正月のことと考えられる。」 (9)と断定す るが、『扶桑略記』の天平二十一年正月十四日の出家の時期については、表2のとおり異説があり、簡単 には判断できないと考える。 表2 『扶桑略記』と異なる聖武天皇の出家
期日 史料 天平9年3月3日 国毎に釈迦三尊を造り大般若経一部を写さしめよ 天平13年3月24日 国分寺建立の詔 天平15年正月13日 菩薩の乗に乗じて、如来の座につけん 天平15年10月15日 大仏発願の詔 天平感宝元年4月1日 三宝の奴と仕へ奉る天皇 天平感宝元年閏5月10日 政治失政の遜辞と大赦の記事 天平感宝元年閏5月20日 諸寺に捨す。…太上天皇沙彌勝満諸仏擁護し、…仏道を成せんことを… 天平感宝元年閏5月23日 天皇、薬師寺宮に遷御して御在所としたまふ。 天平勝宝元年7月2日 皇太子[阿倍内親王]、禅を受けて大極殿に即位(くらいつ)きたまふ[孝謙天皇]。 詔して曰はく「譲位の宣命略」是の日、感宝元年を改めて勝宝元年とす。 天平宝字7年5月6日 [鑑真伝]聖武皇帝これを師として受戒す。 『愚管抄』聖武天皇条は「天平廿一年五十ノ御年七月二日位ヲオリサセ給テ御出家。法諱勝満ト申。 其後八年オハシマス。」とするのは、『続日本紀』の天平勝宝(天平感宝)改元から判断したものだろう。 『愚管抄』は菩薩戒の記述がないが、天皇退位と出家の関係について、それが同時であるので最も 理解しやすいところである。しかしながら、『続日本紀』の記事からは、天皇退位前の出家が読み取れ、 それを根拠づける平田寺文書が存在するので、『愚管抄』はそのまま従えず、棄て去ることになる。 『東大寺要録』、『元亨釈書』、『日本高僧伝要文抄』などの史料は、『続日本紀』より更に遡る出家、 菩薩戒の最も早い時期でもある「天平十三年二月十四日」とする。『日本高僧伝要文抄第三』は、聖武 天皇条に「法名勝満名二薬師寺一。以二天平十三年歳次辛巳二月十四日菩薩戒弟子沙彌勝満」とす る。これらは、いわば同系統の史料に属するが、これらの記事からは薬師寺において菩薩戒を受戒した こととされている。この場合は、何がその菩薩戒受戒の動機になったかを考えると、国分寺の建立の詔 が発布されたことが要因となると思われる。 なお、『続日本紀』には、国分寺建立の詔が発布されたのは天平十三年三月乙巳(二十四日)条に見え るが、天平十九年十一月乙卯(七日)条には、「天平十三年二月十四日」とすることが記され、齟齬を生じ ているが、後者が正しいとすれば、聖武天皇の戒は国分寺建立の詔発布と同時期である。 3 聖武天皇と菩薩戒 (1)天平年間における菩薩戒 表3 菩薩・菩薩戒の例示
史料名 内容 『東大寺要録』、『元亨釈書』、『日本高僧伝要文抄』 法名勝満於二薬師寺一。以二天平十三年歳次辛巳春二月十四日菩薩戒弟子沙彌勝満 『東大寺雑集録』 天平十九年癸亥天皇出家、沙彌聖満ト云、初例也。 『東大寺要録』「或日記云」 天平二十年正月八日御出家、同二十年四月八日受菩薩戒 法華滅罪寺縁起 天平二十年正月八日御出家、同二十年四月八日授戒、皇后光明沙弥尼則真 『続日本紀』 天平感宝元年閏五月廿日太上天皇沙彌勝満 『愚管抄』聖武天皇条 天平廿一年五十ノ御年七月二日位ヲオリサセ給テ御出家。法諱勝満ト申。其後八年オハシマス。 皇代略記 感宝元年己丑七月二日遜位、四十九、同日太上天皇尊号、即御落錺。法諱勝満。 聖武天皇詔書銅板(正倉院御物) 天平感宝元年閏五月廿日、太上天皇沙彌勝満 菩薩戒弟子皇帝沙彌勝満 平田寺文書 天平感宝元年閏五月廿日、太上天皇沙彌勝満 中井真孝によると、「菩薩を名のる人びと」として、「写経の奥書(寧楽遺文・日本写経綜鑑による)に 菩薩の尊号を法名の下に付したものが見受けられるとし、その例に「天平十三年五月中旬、書写法師 報信菩薩(大般若経巻三○六))「天平十七年歳次乙酉四月中旬、願主万瑜菩薩 書写法師信瑜菩薩 (瑜伽師地論巻二一)) (10)」等を挙げている。 西大寺蔵の『妙法蓮華経』巻七の写経の奥書に「天平十二年六月菩薩戒弟子沙彌優曇」の記載が ある。(11) これについて中井真孝は、「沙弥優曇は、法華経を百部も書写するほどであるから、相当の資力ある 階層に属していたであろう。しかし私は、階層のいかんを問わず、民衆の間にも菩薩戒をうけ、菩薩と しての修行をつみ、また菩薩たる自覚を高めようとする気運が醸されていたことと想像する。さらに憶測 を重ねると、前述した万瑜菩薩・信瑜菩薩・化勝菩薩などの、菩薩号を自称するもの―仮りに菩薩僧と 名づけた―は、菩薩戒をうけた在家の熱心な実践者、すなわち「在家菩薩」ではなかったのか。(12)」 として、自称菩薩を名乗る者が在家であっても、菩薩戒を受けていたと考えるので、聖武天皇の菩薩 戒受戒にも通じることになろう。 (2) 聖武天皇の出家・受戒の期日 聖武天皇の出家及び菩薩戒を記すものは、表4のとおり、天平年間は五つ(天平十三年、同十八年、 同十九年、同二十年、同二十一年)に分かれている。天平十八年〜二十一年は行基によるものである。 別に天平勝宝6年4月に鑑真からの菩薩戒がある。 表4 聖武天皇の受戒の期日
期日 史料 備考 続日本紀 国中村・国中公麻呂(国君) 国中連三成、国見真人真城 国中公麻呂の祖父徳卒国骨富は大養徳国と関係があるか。 天平8年9月29日 「菩薩念仏三昧経」写経目録 大日本古文書 天平8年11月24日 「文殊師利問菩薩経」写経司解 大日本古文書 天平9年3月12日 「菩薩戒羯磨文」高屋赤麻呂 大日本古文書7巻 天平12年6月 菩薩戒弟子沙弥優曇 西大寺蔵『妙法蓮華経』巻七 天平13年5月 書写法師報信菩薩 大般若経巻三○六 天平17年4月 願主万瑜菩薩 書写法師信瑜菩薩 瑜伽師地論巻二一 注)愚管抄、皇代略記は、受戒の期日でなく出家の日であり、『続日本紀』に沿ったものであろう。 東大寺要録は、天平十三年二月十四日、天平二十年四月八日の併記であり、元亨釈書は、天平 十三年二月十四日、天平二十一年正月の併記である。 一代要記は、「天平十八年丙戌行基大僧正授二戒於天皇一(13)」とあるが、菩薩戒としない特異な 例である。一代要記編者は、この記事を天平十七年の行基大僧正と同二十一年の入滅の間に置いたようである。 また、天平二十一年正月の受戒記事が見えない史料は次のとおりである。 表5 天平二十一年正月の受戒記事が見えない史料(川崎晃による。218-219頁。)
期日 史料 戒師名 天平13年2月14日 東大寺勅書銅板、東大寺要録、日本高僧伝要文抄(聖武天皇)、元亨釈書(聖武天皇) 「菩薩戒弟子」 ― 天平18年 一代要記 行基 天平19年4月8日 七大寺年表(また天平二十年) 行基 天平20年 僧綱補任抄出上 行基 天平20年4月8日 東大寺要録「或日記」(正月八日出家、四月八日受菩薩戒)、七大寺年表 、法華寺滅罪寺縁起 行基 天平21年正月 東国高僧伝、行基大菩薩行状記、元亨釈書、 行基 天平21年正月14日 扶桑略記抄、僧綱補任抄出上(また天平二十年)、行基年譜、竹林寺略録、行基菩薩伝、法中補任、 諸門跡譜[群書類従61、正月○日] 行基 天平21年7月2日 愚管抄(出家)、皇代略記(出家)、 − 天平勝宝6年4月5日 東大寺要録「天皇菩薩請鑑真和上登壇受菩薩戒」 鑑真 以上の中には含まれないが、出家の時期として、聖武天皇が薬師寺宮に入られたときに出家を されたと想定することも可能であろう。三宝の弟子となる時期。天平勝宝元年閏五月丙辰(二十三 日)「天皇、薬師寺宮に遷御して御在所としたまふ。」とあるのは、禅譲を前提としたのではないか。 (3)行基による菩薩戒 『日本霊異記』(822)、『三宝絵詞』(984)、『日本往生極楽記』(985)、『本朝法華験記』(1042) 『沙 石集』(1279-83)、『神明鏡』(1434-64)、など比較的古い時代に属する仏教説話集などで、行基伝 を中心としないものは聖武天皇の菩薩戒受戒を記載しない。 川崎晃は、「聖武が行基から菩薩戒をしたとすると、…菩薩戒を受戒した沙弥優曇の「菩薩戒弟子 」を称している例があることからも菩薩行実践者として自認する聖武が「菩薩戒弟子皇帝」を称さず、 「太上天皇沙弥勝満」としているのはやはり不自然といわねばならない。このようにみると、天平二十 一年の行基による菩薩戒授戒記事については、(ア)この記事自体が後に行基讃仰から作為されたも のである。(イ)行基が授けたのは菩薩戒ではなく沙弥十戒であつた。(ウ)菩薩戒でも「菩薩戒弟子沙 弥優曇」の例からすると沙弥を称せた。優曇は沙弥を称し、併せて菩薩戒を受けて菩薩行に務める意 思を表したのであろうか。(エ)勝浦令子氏が指摘されるように聖武が「沙弥勝満」と、法名を沙弥と自称 したことは、聖武自身の認識としては「沙弥」としての出家であった、といった少なくとも四通りの解釈が 可能である。いずれにしても動かせないのは聖武が「太上天皇沙弥勝満」と称している点であり、これ は出家・ 譲位の意志を固めたことによる自称と考えざるをえない。この記事を肯定的に理解するならば、 聖武が沙弥戒を望んだにもかかわらず、行基は菩薩戒を授けたということになろうか。 聖武が行基より受戒した「菩薩戒」を右のように理解するならば、聖武は天平二十一年正月に行基 より菩薩戒(沙弥十戒)を受戒、四月一日に「三宝の奴と仕へ奉る天皇」と称し、閏五月二十日には出 家・ 譲位の決意を表明するために「太上天皇沙弥勝満」と称したと解することが可能であろう。(14)」 とするが、行基による菩薩戒は、課題を残すと思われる。 行基による菩薩戒の否定論として、上川通夫は、「扶桑略記の記す「大僧正行基」による授戒は、 俄かには真実とみなし難い。(15)」とする。 勝浦令子は、「もし『扶桑略記』の記事のように天平二十一年(七四九)正月に受戒したと仮定する と、約半年の間、勝満という法名をもった、菩薩戒受戒した身として天皇位に在位したことになる。 これをすべて史実と認定するには史料の信憑性という点ではやや問題があるが…(16)」とする。 (4)行基以外の「菩薩戒」 行基伝の多くは、聖武天皇に対する菩薩戒を行基によって授戒されたものとし、その結果、行基 は大菩薩という称号を与えられるとする筋書きを用意する。菩薩戒の授戒の時期は、「天平二十一 年正月」になっているが、異論の菩薩戒授与の可能性はどうであろうか。 『東大寺要録』第二の「金銅銘文」(17)に「菩薩戒弟子」とあり、鑑真の来日以前に聖武天皇が「菩 薩戒」を受戒した記録がある。聖武天皇の出家の時期を天平十三年とする説である。 「天平十三年二月十四日」の薬師寺における授戒については、行基は薬師寺僧とされるが、行基 が授戒したことは見えない。 これをどう考えるか。行基でない場合、菩薩戒を授けた戒師は誰か。聖武は行基以外に「菩薩戒」 を誰から受戒したのか。 先学により名が挙げられているのは道?である。(18) しかしながら、敢えて聖武天皇の菩薩戒師を想像するなら玄ムである。 玄ムは、天平七年に帰朝し、天平十八年に没した。唐皇帝から紫の袈裟を賜り、聖武からも同様に 紫の袈裟を賜っている。光明皇后の五月一日一切経の写経事業にも玄ムが唐から持ち帰った経典 が使われ、帰朝後、内道場に置かれ、これより後「栄寵日盛」とあり、僧正に就く。 玄ムが聖武天皇に菩薩戒を授戒したという功績が正史から漏れている可能性がある。 二 行基と鑑真 1 大僧正の任命 (1)鑑真大僧正 『続日本紀』天平宝字六年五月戊申 (六日)条の鑑真入寂伝に「聖武皇帝、これを師として戒を うけたまふ。皇太后の不?に及びて、進れる医薬、験有り。位大僧正を授く。俄に綱務煩雑なるを 以て、改めて大和上の号を授け、施すに備前国一百町を以てす。」とされている。 これは、境野黄洋が「唐の鑑真が一度大僧正になった様に言ふもののあるのは、これは全く錯 誤である。是れは『続日本紀』の天平宝字七年(ママ)鑑真入寂の條下に、「及二皇太后不余一、 所レ進医薬藥有レ験、授二位大僧正一、俄以二綱務煩雑一、改授二大和上號一」とあるのに誤ら れたもので、此の綱務の繁を厭ふところから、僧綱を止めたのは、大僧正のことではない、是れは 大僧都の誤写である。それは同じ書の天平宝字二年のところに、「其大僧都鑑真和上、戒行転縛 潔白頭不レ変、遠渉二蒼波一歸二我聖朝一、号曰二大和上一恭敬供養、政事躁煩不二敢労一レ 老、宜レ停二僧綱之任一」云々と言って居るので明白で 僧綱停任の時は、大僧都であって、大僧 正ではなかったのである。行基以後、円融天皇の天元元年八月に、叡山の良源慈恵僧正が、大僧 正になるまで二百三十三年の間は、日本の歴史上には、大僧正といふものはないのである。(19) 『僧綱補任』や、『招提千歳傳』などに、鑑真を大僧正としてあるのは、皆『續日本紀』の誤写に欺 かれたのである。 (20)」とするとおり、境野黄洋は、鑑真の大僧正は大僧都の誤写であったとするが、 これは続日本紀編纂者による単純な誤りであろうか。 境野黄洋説に、二つの点で疑問が生ずる。 一つは、鑑真は大僧正でなく大僧都であったということであるが、これについては後述する。 もう一つは、行基の大僧正の任命後、二百三十三年間は、大僧正任がなかったという点である。 この疑問は、僧綱制度の僧正の上に大僧正を設ける制度が、行基大僧正以外は長期間に亘り実 施されなかったという指摘であり、大僧正は必ずしも必要な僧綱の官位ではなかったと見做すこと ができ、行基の大僧正任がまさに特別な扱いとされていることである。ここに、なぜ行基が特別に 大僧正に任命されたかという疑問が残るのである。 (2)行基大僧正 『続日本紀』に、天平十七年行基は大僧正とされる。 そして、『七大寺年表』は、天平勝宝元年条に、「大僧正行基…聖武天皇授菩薩戒日、改大僧正 号大菩薩云々。僧正治五年。」と行基の遷化の記事が記載されており、ここに「大僧正行基」ととも に「僧正治五年」とあるのは、天平十七年から天平二十一年までの五年間であるが、僧職名が「大 僧正行基」でなく「僧正」とされていることに注目したい。(21) 次に、同『年表』では、天平十七年、同十八年に、「大僧正行基」とともに「僧正玄ム」の名を記して おり、「僧正玄ム」の上に「大僧正行基」を配置するが、行基と玄ムの関係において、行基が大僧正 とされていることは明白である。 しかし、「僧綱補任抄出上」では、「行基玄ム相雙」として僧正二人制の初度とされ、第二度は、 貞観七年の真雅僧正に加え、壱演権僧正を任じたもので少し様子が異なる。(22) (3)玄ムと菩提遷都 『続日本紀』の記事では、玄ムは、天平九年八月二六日に「玄ム法師僧正となす。」とあり、天平 十七年十一月乙卯(二日)条に「玄ム法師を遣して筑紫観音寺を造らしむ。」と、筑紫国に左遷され、 彼の地で没している。同年十一月十七日玄ムの持物を収むとあるから、僧正を罷免されるとともに、 待遇が下げられたことが窺える。玄ム僧正の評価転換が甲賀寺の大仏建造及び紫香楽遷都の失 政であるならば、玄ム僧正の上に行基大僧正を置く必要もなかったと考える。 また、神護景雲四年(769)の『南天竺婆羅門僧正碑并序』は、行基について、「前僧正大徳行基」 とするが、「前大僧正」とはしていないのである。これは、二つの見方ができる。一つは「大」を脱字 としたことである。二つ目は必ずしも行基を尊号「大僧正」と記さなくてもよかった、つまり行基はその まま僧正であったことが考えられる。 『続日本紀』など多くの行基伝とは異なることになるが、南天竺婆羅門僧正碑が作られた神護景 雲四年(七六九)の時点で、行基は「大僧正」でなかったのではなかろうか。 つまり追号の問題と同時に『続日本紀』への追記の問題が出てくる。最終的に『続日本紀』が編 集されたのは、延暦十六年(七九七)である。それまでに行基の記事が訂正・追加され、記載された 可能性がある。 これは、『続日本紀』の行基薨伝には、行基の出身地が「和泉国」とされているように編纂時点の 国名が記されていることから想定できる。(23) 『南天竺婆羅門僧正碑并序』は、菩提遷那の弟子修栄が師の功績を記すのを目的としたもので あるから、特別に行基を美化した史料とは思われない。菩提遷那が僧正になったのは、天平勝宝 二年(『続日本紀』は天平勝宝三年四月二十二日とする)のことであり、行基を「前僧正」とすること はどのように理解すればいいのか。 菩提遷那の前僧正は玄ムと共に行基であることは、僧正二人制を前提として、玄ムが天平十八 年に寂して、行基が天平二十一年に薨じたとすれば、辻褄があう。 とりあえず、僧正菩提遷那の前は、玄ムを挟むが行基もそうであったと理解しよう。 この「前僧正」は、菩提遷那が「大僧正」に任じられたことはないので、行基に付与された僧職位が、 実際には当時の僧綱の最高位である「僧正」を指すものと考えられ、『続日本紀』の編者が天平 十七年二月の「行基大僧正」を追記したことが想定される。 これは、『日本霊異記』が、推古天皇三十一年に「僧正」に任ぜられた観勒(『日本書紀』)のことを 「大僧正」とするのに似る。また、唐の国を「大唐国」、ヤマト国を「大倭国、大養徳国、大和国」と表 記し、「大」を読まない例と似るのである。 2 大菩薩の賜号と時人の呼称「菩薩」 前者の行基の伝記は、行基に大菩薩の号が付与されるのは、天皇・中宮・皇后に菩薩戒を授く ことに起因する形となっていた。しかし、『続日本紀』は、「時人号日二行基菩薩一」また、『日本霊 異記』は、「時人欽貴美称二菩薩一」とするように、菩薩の名は、時の人から崇められた呼称として いる。『行基大菩薩行状記』のように、菩薩である行基を大菩薩とした行基伝がある。行基に「大」 を付加することが注目される。 3 鑑真の大僧正・大和上 (1)鑑真の伝 主な鑑真の伝をまとめる。 表6 鑑真の伝記
『続日本紀』、舎利瓶記、霊異記、三宝絵、日本往生極楽記、法華験記、延暦寺僧録文「仁政皇后菩薩伝」 注)吉川弘文館『行基 鑑真』などにより、作成する。 (2)『続日本紀』と鑑真 先の疑問であった鑑真は、大僧正でなく大僧都であったことについて考える。 鑑真の大僧正は、『続日本紀』宝字二年(757)八月庚子(一日)条に、「大僧都鑑真和上…遠く滄波 を渉りて、我が聖の朝に帰す。号して大和上と日して恭敬供養し、…僧網の任を停むべし。」とあり、 ここには「大僧正」は見えない。 次いで、天平宝字七年五月戊申(六日)条の鑑真入寂伝に、「聖武皇帝、これを師として戒をうけ たまふ。皇太后の不?に及びて、進れる医薬、験有り。位大僧正を授く。俄に綱務煩雑なるを以て、 改めて大和尚の号を授け、施すに備前国一百町を以てす。」とあり、光明皇太后の不?(病気)の ために、進める医薬の験(効き目)が有って、大僧正の位を授けたとある。 『鑑真和上三異事』は、「宝字元年(757)年中。更有別勅。加大和上之号。詔。天下僧尼。皆師大 和上。習学戒法也。」(24)とする。大和上と大和尚の違いがある。 『続日本紀』鑑真入寂伝に「位大僧正を授く。大僧正を改め、大和尚と号す。」とされるように、 大僧正と大和尚が併記される。これは、『行基年譜』の「大僧正を改め、大菩薩と号す。」とする ことに似ている。 『続日本紀』には、聖武天皇が鑑真から受けた戒はただ戒としているだけで菩薩戒かどうか不 明である。また、「位大僧正」は、 境野が「大僧都」のことと指摘するが、時系列で追うと、『初例 抄』は、「大僧都」は、『東大寺要録一』に「勝宝七年(754)10/25鑑真大僧都」とある。『続日本紀』 の鑑真の位大僧正は、境野が指摘するように誤りであろうか。 表7 鑑真の僧位
史料 紀年 編者 出典 『続日本紀』鑑真卒伝 天平宝字7 (763) 天平宝字七年五月六日 唐大和上東征伝 宝亀十年(779) 全開(三船淡海) 群類第5輯・巻第69 「延暦僧録」釈鑑真伝 延暦7(788) 思託 大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝(広伝) 思託 鑑真和上三異事 天長18(831) 豊安 続群類第8輯下・巻第204 法務贈大僧正鑑真過海大師東征伝 寧楽遺文下 高僧沙門釈鑑真伝 宗性 延暦僧録1 元亨釈書 虎関師錬 新訂増補国史大系31 南都高僧伝 大日本仏教全書 後拾遺往生伝 三善為康 大日本仏教全書101 大和尚伝 元享2(1322) 賢位 大日本仏教全書/遊方伝叢書1 東征伝絵巻 忍性 僧綱補任抄出上 群類第4輯・巻第54、505-506頁。 鑑真に対する僧位は、伝燈大法師位(勝宝六年(754)4/ 『七大寺年表』)、少僧都(勝宝六年(754)4/5 『東大寺要録一』)、大僧都(勝宝七年(754)10/25 『東大寺要録一』、 勝宝八歳(756)5/24『七大寺年 表』、『初例抄』)、僧正 (宝字四年(757)『東大寺始行授戒作法記』)、大僧正(宝字七年(757) 5/6『続日 本紀』・『東大寺始行授戒作法記』・『初例抄』)、大和尚名号(宝字七年(757) 5/6 『初例抄』・『続日本 紀』)と順記され、「大僧都」以外の「大」が付く僧位は、「大和上、大僧正、大和尚」と三様ある。 ところが、史料的には、『東大寺要録一』に少僧都任が見られるが、『初例抄』では大僧都直任とされ、 少僧都を経由しない。これは、『続日本紀』も同様であり、しかも大僧都任が、勝宝七歳と勝宝八歳の 二説があることなど一貫しない部分も見受けられる。 しかし、位大僧正は、この位階を見るかぎり、勝宝七年、勝宝八歳の大僧都の後にあり、僧正は月日 が不明であるが、『東大寺始行授戒作法記』に宝字四年に僧正任がある。これは、宝字四年(760)2/25 に遷化した僧正位の菩提遷那の後任と位置付けられるものであろう。 従って、大僧都の後に僧正になったものとするなら、境野が指摘する『続日本紀』の編者が「大僧都」を 「大僧正」と誤ったと考えることはできない。 『続日本紀』によると、宝字七年(763)五月六日入滅に際し、大僧正を贈られた。 そして『東大寺始行授戒作法記』は、大僧都から僧正を経て、入滅に際し、大僧正を贈られたこと及び 僧正・大僧正の二段階の僧位を記すが、『初例抄』は、「 任大僧正、自大僧都任大僧正初例也。而綱 務有、煩辞也。故改大僧正職授大和尚名号。同日遷化云々。」と、大僧都から大僧正に任じられた「初 例」とするから、両者に共通するところは、入滅・遷化に伴って、追号として「大僧正」が授与されたという ことである。 『続日本紀』の「鑑真大和上」は、追記であると考えられる。 『続日本紀』は、行基に次いで鑑真を「大僧正」としたことが注目される。 なお、『続日本紀』は、勝宝七歳(755)10/24に和上から大僧都とするので、少僧都を経由しないことが 『東大寺要録一』と異なるところである。 4 『続日本紀』と『東征伝』における菩薩戒 「鑑真の伝記で『続日本紀』より早く成立したものとしては、宝亀十年(779)の奥書を持つ『唐大和上 東征伝』(三船淡海撰…)のほか、東征伝の著作を依頼した思託本人による大唐伝戒師僧名記大和 上鑑真伝(和上行記、広伝とも…)や、同じく思託が延暦七年(788)頃著した延暦僧録に収められた 釈鑑真伝がある。」(25) 「聖武天皇の受戒や備前国水田一百町と唐招提寺との関係についても、続紀は 東征伝を参照した 蓋然性が高い。とくに聖武天皇の受戒は和上行記にはなく、東征伝を直接参照したことの証左となる ものであろう。(26)」とされているように、『続日本紀』は、聖武太上天皇沙彌勝満しか記載がなく、「聖 武皇帝、これ[鑑真」を師として受戒す。(27)」とあるが、菩薩戒を受けたことは確認できず、また、孝謙 天皇らが鑑真から菩薩戒を受けたことは記さない。(28) 『東征伝』によると、「天平勝宝六年四月、「初於二盧舎那仏殿前一、立二戒壇一。天皇初レ登壇、 受二菩薩戒一、次皇后、太子亦登レ壇、受レ戒」とあり、孝謙天皇は、太子時代に、聖武天皇、光明子 とともに、鑑真から菩薩戒を受けているとされる。『東征伝』のもととなった『大唐伝戒師僧名記』の「大 和上鑑真伝」にも、孝謙天皇は、聖武天皇、光明皇后とともに鑑真から菩薩戒を受けているとされる。 『東征伝』に従えば、聖武天皇は、行基と併せて二度の菩薩戒の所伝を持つことになる。(29) このような『続日本紀』と『東征伝』における菩薩戒の受戒についてのくい違いはどう考えたらよいのか。 5 鑑真による聖武天皇の戒 『今昔物語集』11-8「(聖武天皇)鑑真和尚ヲ以テ戒師トシテ登壇受戒シ給ツ、次ニ后・皇子、皆沙彌 戒ヲ受給ヒツ」として、菩薩戒ではなく沙彌戒とする。 『仏法伝来次第』は、鑑真からの戒を「天平勝宝六年四月、太上天皇聖武天皇於東大寺大仏殿前 築壇受具足戒。」とする。『七大寺年表』は、「天平勝宝六年四月、伝燈大法師位(68)於大仏前立戒 壇天皇受菩薩戒。」「(天平勝宝六年)其年四月、初盧舎那殿(仏イ) 前立戒壇天皇登壇受菩薩戒、 次皇后、太子。沙彌等受戒、霊福賢憬(mイ)等八十余人。」とする。 表8 鑑真による授戒の種類
時期 僧位 史料(出典) 権少僧都 『東大寺要録一』 勝宝六年(754)4/ 伝燈大法師位 『年表』『唐和上東征伝』 勝宝六年(754)4/5 少僧都 『東大寺要録一』 勝宝六年(754)10/ 大唐和上所 『東大寺要録一』/正倉院文書 勝宝七年(755)10/24 大僧都任 『続日本紀』/『東大寺要録一』は10/25 勝宝八年(756)5/24 大僧都 『初例抄』 宝字元年(757)中 大和上 鑑真和上三異事 宝字2年(758)8/1 大和上 『続日本紀』 宝字四年(760) 僧正 『東大寺始行授戒作法記』 宝字六年(762)5/6 僧正 『初例抄』 宝字七年(763) 5/6 大僧正、大和尚、大和上 『続日本紀』・『東大寺始行授戒作法記』・『初例抄』僧綱補任抄出上 天平神護元年 過海大師 『続日本紀』 鑑真による授戒する戒の名称は史料によって異なり、受戒する相手によっても戒、菩薩戒、沙 彌戒、具足戒と使い分けられている。しかしながら、鑑真は菩薩戒の権威であるとされる。 道端良秀によると、「鑑真は十八歳で菩薩戒を受け、二十一歳で具足戒を受けている。これで見 ると彼は沙弥の時に菩薩戒を受けて出家の菩薩となり、二十一歳となって、直ちに具足戒を受け て大僧となったのである。ここでは具足戒の前に、沙弥の時に菩薩戒を受けているが、多くは具 足戒より後に受けるのが多いようである。いずれにしても鑑真は大乗の出家菩薩であり、律学を 講ずる律の大家であった。揚州を中心とした律学の第一人者であったのである。 「東征伝」の初めに、「前後人を度し、戒を授けたのを数えて見ると、凡そ四万有余人である」と 述べている。この授戒は具足戒だけでもなかろうし、又菩薩戒ばかりでもなかろうが、兎に角、 授戒師として菩薩戒を授け、又具足戒を授けて、社会教化面に活躍したことを示すものである。 (30)」とする。 鑑真は、菩薩戒だけでなく、具足戒を授けたとするが、『続日本紀』には、「戒」としかしないから、 具足戒、沙弥戒が授けられたことは確認できない。しかしながら、鑑真による授戒は、多くの史料 が菩薩戒とするのに対し、正史である『続日本紀』が明確に菩薩戒と示さないことは不審である。 これは、聖武天皇らに対する菩薩戒は、多くの行基伝に見られる聖武天皇らの菩薩戒を行基に よるものとする所伝を前提としているのかもしれない。 別の史料では、招提千歳伝記巻中之三の「聖武皇帝伝」には、「行基大菩薩からは菩薩戒を 受け、鑑真大師からは菩薩大戒を重ねて受ける」 (31) とある。 これらは、まさしく聖武天皇らの菩薩戒は、行基の菩薩戒を前提としているのである。 6 孝謙天皇の受戒 (1)出家・受戒 表9 孝謙天皇の受戒
種類 史料 戒 続日本紀 菩薩戒 東征伝、七大寺年表、紹運録、招提千歳伝記(菩薩大戒・聖武天皇)、鑑真和上三異事(菩薩之浄戒)、 僧綱補任抄出上(天皇本朝受戒始也)、後拾遺往生伝巻上 具足戒 仏法伝来次第 沙彌戒 今昔物語集 『行基大菩薩行状記』に天平勝宝元年二月二日「孝謙天皇、行基大僧正を御召請ありて菩薩戒 を受けさせ給ふ」とある。(32) この史料と似たものに、『薬師寺縁起』がある。「天平勝宝元年二月二日行基化をうつせり」とある。 一般に行基の入寂は、天平二十一年二月二日とされている。天平二十一年を天平勝宝元年とする のは追記であり、遷化の日に授戒することはあり得ないことである。 『扶桑略記抄』には、天平勝宝六年四月、「東大寺建戒壇、天皇初登壇受菩薩戒」とあり、天皇は 孝謙天皇と思われる。 『続日本紀』天平勝宝八年十二月己酉(三十日)条に、「菩薩戒を有つことは梵網経を本とす」とある のは、孝謙天皇が菩薩戒を受けていたことを指すと考えられる。より明確に示すのは、『続日本紀』 天平宝字八年九月甲寅(二十日)条、「然るに朕は髪を剃りて仏の御袈裟を服て在れども国家の政を 行はずあることを得ず。仏も経に勅りたまはく、「国王い王位に座す時は菩薩の浄戒を受けよ」と勅り たまひて在り。此れに依りて念へば家出しても政を行ふに豈障るべき物には在らず。…」とあり、『続 日本紀』天平神護元年十一月庚辰(二十三日)条に「朕は仏の御弟子として菩薩戒を受け賜はりて在 り…」とある。 称徳天皇は、『扶桑略記抄』『紹運録』に「天平宝字六年六月出家」とあり、より詳しく六月三日出家 とする史料もある。 (2)行基の菩薩戒の構造 孝謙天皇も行基から菩薩戒を受けたとする史料がある。 『行基年譜』が「後高野姫天皇受戒為尼、法名法基。」とする。 冒頭に掲げた『行基大菩薩行状記』に「聖武皇帝、孝謙天皇、及び皇后」とある。これも前述したとおり、 鑑真の菩薩戒と同様の構造である。 ここから、行基の菩薩戒を紐解いていく。 表10 鑑真・行基による授戒
期日 内容 史料 天平21年正月14日 後高野姫天皇受戒為尼、法名法基。 『扶桑略記抄』『行基年譜』 天平勝宝元年2月2日 孝謙天皇、行基大僧正を御召請ありて菩薩戒を受けさせ給ふ 『行基大菩薩行状記』 天平勝宝6年4月 東大寺大仏前戒壇で鑑真から菩薩戒 『唐大和上東征伝』 「延暦僧録」『扶桑略記抄』 天平勝宝8年12月30日 菩薩戒を有つことは梵網経を本とす 『続日本紀』 天平宝字2年8月1日 禅位、四十、同日太上天皇尊号。 皇代略記 天平宝字6年6月 日 出家。四十五。落花簪入仏道称法基尼。 『扶桑略記抄』 天平宝字6年6月3日 またひとつには朕の菩提の心を発すべき縁に在らしをなも念ほす、是を以て出家して 仏の弟子に成りぬ。 『続日本紀』/『皇代略記』 『本朝皇胤紹運録』も同日 天平宝字8年9月20日 然るに朕は髪を剃りて仏の御袈裟を服て在れども国家の政を行はずあることを得ず。 仏も経に勅りたまはく、「国王い王位に座す時は菩薩の浄戒を受けよ」と勅りて在り。 『続日本紀』 天平神護元年11月23日 朕は仏の御弟子として菩薩戒を受け賜はりて在り… 『続日本紀』 行基伝は、寂滅の直前に菩薩戒を行う。そして、それが、菩薩号の根拠となることから、行基 による菩薩戒は実際にあったものか、疑問が生じる。 上記の表10から見えること。 鑑真は、皇太子(阿部内親王)に菩薩戒を行う。 行基伝の「天平二十一年正月十四日」は、譲位前であるから、太上天皇の表記はふさわしくない。 後高野姫天皇の行基による菩薩戒受戒は否定される。行基が高野姫天皇に授戒するならば、皇太子 の時代であろう。 鑑真による菩薩戒を受戒時の表記が行基関係伝記にそのまま用いられる。 聖武天皇らの菩薩戒は、鑑真の菩薩戒を行基のそれに置き換え、擬えたものと思われる。 結びに 聖武天皇の譲位については、『続日本紀』天平勝宝元年秋七月甲午(二日)条に、「皇太子[阿倍 内親王]、禅を受けて大極殿に即位きたまふ[孝謙天皇]。」とあり、『東征伝』の記事からは、聖武を 天皇とするから、天平勝宝六年四月に鑑真が菩薩戒を授けたときは、聖武天皇は[阿倍]皇太子に 譲位をしていなかったことが窺えるが、これは、『続日本紀』及び平田寺文書と異なる部分であり、 一般的には、『続日本紀』及び平田寺文書の方に軍配を挙げるべきであろう。 しかし、正史である『続日本紀』が何時も正しいとは限らず、どちらに信憑性があるのかは、判断 が難しいと考える。 鑑真の事蹟をしるした『東征伝』は、鑑真が来朝してから東大寺の大仏殿前に戒壇を設け、天皇・ 皇后・皇太子に菩薩戒を授けたことを述べるが、『続日本紀』は、聖武天皇が鑑真から受ける戒を 菩薩戒とはしないことの意味を考えてきた。鑑真は、菩薩戒の権威である。(33) 『東征伝』が記すように、鑑真が東大寺の戒壇において、天皇・皇后・皇太子に与えた戒は菩薩戒 であったとしてもおかしくはない。それを『続日本紀』が記さないのは、菩薩戒は行基によるものとす る暗黙の脚本があったのだろうか。 江戸時代の招提千歳伝記巻中之三の「聖武皇帝伝」には、「行基大菩薩からは菩薩戒を受け、 鑑真大師からは菩薩大戒を重ねて受けるとある。」のは、「行基大菩薩からの菩薩戒」を前提とした、 二つの菩薩戒を整合させる新しい解釈である。 「行基大菩薩からの菩薩戒」を前提とすると、多くの行基伝に見られるところであるが、否定される べきであろう。 多くの行基伝は、大僧正行基が聖武天皇らに菩薩戒を行い、即日大菩薩と改めたことが記される が、これは、鑑真が聖武天皇らに菩薩戒を授けたことを行基が行ったように見せかけたものであり、 菩薩戒と大菩薩号の賜号を一体化させた「行基菩薩説話」を作り出したものと思われる。 『行基大菩薩行状記』は、孝謙天皇が行基の菩薩戒を受戒したことを記すが、この『行基大菩薩行 状記』の菩薩戒は、天平勝宝六年四月に鑑真から菩薩戒を授かった組み合わせと合致している。 『行基菩薩伝』『行基年譜』は、時点修正を行い、孝謙天皇の代わりに中宮を加えるという操作を 行ったようにも見える。 このように、行基と鑑真の授けた戒には、一定の脚本に従った整理がされているものと考えられ、 聖武天皇らの菩薩戒は、「天平二十一年以前に行基から」という筋書きが想定されるのである。 『七大寺年表』は、それに従うように見えるが、その実、行基の菩薩戒の内容は、鑑真の菩薩戒 (勝宝六年其年四月)そのままである。鑑真の授戒時の「太上天皇」の表記が行基関係伝記にその まま用いられる。これは、鑑真授戒を行基の授戒に置き直したものである。 行基が天平二十一年正月十四日、聖武天皇らに菩薩戒を授けて、大僧正を改め、大菩薩とする ことは、『続日本紀』の鑑真の「大僧正を改め、大和尚と号す。」とすることに似ており、『続日本紀』 の「鑑真大僧正」の後に「行基大僧正」が創作されたと考えられる。 『日本霊異記』、『続日本紀』と異なり、「行基菩薩説話」として作為されたものが、その後の行基伝 に踏襲されたものと思われる。 鑑真は、入滅に伴って、追号(諡号:おくり名)として「大僧正」が授与されたことが複数の史料で確 認できるが、この「大僧正」を諡号とすることは、行基の場合にも該当するかもしれない。 鑑真に用いられる「大僧正」は、本来「僧正」であり、「大」が付けられたのは、後世の付記ではなか ろうか。『続日本紀』の編者たちが「大」を飾りに付けた「大僧正」の表記にしたか、或は読まない「大」 の字をつけて「大僧正」としたことなどが想定される。これは、『日本霊異記』が、推古天皇三十一年 に「僧正」に任ぜられた観勒(『日本書紀』)のことを「大僧正」とするのを真似たかも知れない。 そのように「大僧正」を諡号と考えるならば、天平十四年大菩薩遊化行事一巻記録に「同年四月五日 大僧正に任ぜられる」(34)とすることは、行基が少なくとも天平十四年には入寂していた可能性がある。 そして、『行基年譜』の「天平十三年記」は行基の死後の事蹟を挙げたものと考えられる。 ここから導かれる結論として、『続日本紀』が、聖武天皇らの行基による菩薩戒を受けたことは記さな いのは行基が入寂していたことによるものと思われる。 そうだとすると、天平十五年十月廿日に大仏を造るため、行基が弟子を率いて勧進することはあり得 ないことであり、続日本紀編者の作為が見られる。 行基大僧正の追号と大仏勧進の不思議を霊異神験としたのである。 鑑真が後に「過海大師」とされたように、「行基大菩薩」の尊号も死後における諡号(おくり名)では なかろうか。 註 (1) 淡海真人元開『唐和上東征伝』『群書類従』第5輯系譜・伝・官職部、巻第69巻、続群書類従完成会、1932年、527-543頁。 (2) 瀧浪貞子『帝王聖武』、講談社、2000年、240-247頁。 (3) 『行基菩薩伝』『行基年譜』『竹林寺略録』は、光明皇后の法名を「満福」とする。『扶桑略記』は宮子を「徳太」とする。 (4) 境野黄洋『日本仏教史講話』、1931年、森江書店、403頁。 (5) 「 平田寺文書」『大日本古文書』3、240-241頁。/『寧楽遺文』中巻、459頁。/『続日本紀』三巻、補注17-61。 (6) 『続日本紀』三巻、新古典文学大系14、岩波書店、1992年、補注17-61、17-65。 (7) 岸俊男「天皇と出家」『日本の古代』7中央公論社、1986年、420頁。 (8) 川崎晃『古代学論究 古代日本の漢字文化と仏教』慶応義塾大学出版会、2012年、233頁。 (9) 註(6)『続日本紀』三巻、481頁、補注17-65。 (10) 中井真孝『日本古代の仏教と民衆』評論社、昭和48年、179頁。 (11) 同上185頁。 (12) 同上186頁 (13) 『続神道体系 朝儀祭祀編 一代要記』神道体系編纂会、2005年、83頁。 (14) 川崎晃、243頁。 (15) 上川通夫『日本中世仏教形成史論』校倉書房、2007年、149頁。 事実とみなし難いとする根拠は示されないが、勝浦令子は、「氏の説は、筒井英俊「聖武天皇の御受戒について」(『東大寺論叢』 論考篇、国書刊行会、1973年、初出は1934年)・石田瑞麻呂『鑑真−その戒律思想』大蔵出版、1974年」を受けている。」とする。 (16) 勝浦令子「聖武天皇出家攷考」『仏法の文化史』大隅和雄編、吉川弘文館、2003年、160頁注(24)。 (17)『東大寺要録』第二『続々群類第11・宗教部』1969年、「金銅銘文」36-37頁。/ 勅書銅板『正倉院宝物銘文集成庫』松嶋順正編、吉川弘文館、1978年、73頁。 (18)根本誠二「扶桑略記と受戒」『論集奈良仏教』第3奈良時代の僧侶と社会、雄山閣出版、1994年、171頁。 (19) 『諸門跡譜』群類巻第61、135頁。 (20) 境野黄洋(4) 404頁。 (21)『法中補任』には、「行基菩薩天平17年正月15日直任僧正」とある。 (22) 「僧綱補任抄出上」512頁。 (23)和泉国「天平十二年八月甲戌に和泉監が河内国に併合されて以後、天平宝字元年五月に和泉国として分立するまで存在しない。 続紀編纂時の記載」とある。『続日本紀』第二巻、61頁。注14。 (24) 『鑑真和上三異事』続群類第8輯下・巻第204、453-456頁。 (25) 註(6)『続日本紀』三巻、578頁、補注24-38。 (26) 註(6)『続日本紀』第三巻、578頁。補注24-38。 (27) 註(6)『続日本紀』三巻、433頁、 (28) 『続日本紀』第三巻、岩波書店、1992年、504頁。巻19、補注19-8。139頁。巻19、注22では、菩薩戒と註釈する。 (29) 川崎晃、前掲註(8)、241頁。 (30) 道端良秀「大乗菩薩戒と社会福祉」『行基 鑑真』吉川弘文館、1983年、331頁。 (31) 『続々群類第11・宗教部』1969年 (32) 『行基大菩薩行状記』続群類第8輯下・巻第204、451頁。 (33) 道端良秀「大乗菩薩戒と社会福祉」『行基 鑑真』吉川弘文館、1983年、331頁。 (34)『行基年譜』四月五日の数字の並びは「死後」と読み取れる。 参考文献 東野治之『鑑真』岩波書店、2009年 小松茂美編『東征伝絵巻』日本絵巻大成16、中央公論社、1983年。 根本誠二「扶桑略記と受戒」『論集奈良仏教』第3奈良時代の僧侶と社会、雄山閣出版、1994年。 筒井英俊・筒井寛秀「聖武天皇の御受戒について」『東大寺論叢・論考篇』、国書刊行会、1973年。 勝浦令子「聖武天皇出家攷甲」『仏法の文化史』大隅和雄編、吉川弘文館、2003年。 平岡定海・中井真孝編『行基 鑑真』吉川弘文館、1983年。 田村円澄『古代日本の国家と仏教』吉川弘文館、1999年。 『新訂増補・国史大系12』「扶桑略記、帝王編年記」吉川弘文館、1932年、1999年。
授戒僧 史料 内容 鑑真 唐大和上東征伝 天皇・皇后・皇太子 続日本紀 聖武皇帝これを師として受戒す。 行基 行基年譜 天平二十一年(八十二歳)正月十四日、太上天皇・中宮・皇后?三人御出家入道、受菩薩戒。後高野姫天皇受戒為尼、法名法基。 行基菩薩伝 天平二十一年(八十二歳)正月十四日、太政天皇・中宮・皇后宮出家入道、受菩薩戒。 行基大菩薩行状記 天平二十一年正月、聖武皇帝并孝謙天皇、及び皇后菩薩戒をさずかり…則大菩薩の尊号を給ふ。孝謙天皇行基大僧正を御召請ありて菩薩戒をうけさせ給ふ。 本朝皇胤紹運録 太上天皇・中宮・皇后御出家、受菩薩戒。後高野姫天皇 扶桑略記抄 天平二十一年(八十二歳)正月十四日条「於平城中嶋宮請大僧正行基菩薩為菩薩名沙彌勝満。…後高野姫天皇受戒為尼、名法基。
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]