『行基年譜』の暗号性

目次 はじめに 一 年代記 二 天平十三年記 結びに はじめに  行基の国史にみえる記録は、弾圧と活動の公認、大僧正の任命など天皇の帰依に加え、行基の 超人的な伝説は、霊異記、行基菩薩伝その他の多くのものに見られ、行基の事績としては、行基 辞典(1)の資料編に詳しくまとめられている。 『行基年譜』は誤りが多い史料と指摘され、その信憑性は先学が論じるところである。 しかしながら、誤りが多いことをもって暗号性を秘めたものと指摘した先学はないが、『行基年譜』 に誤りが多いのは、暗号性を秘めたものとして暗示するために印をつけられたものとの仮説を提 起し、その暗号を紐解いていきたい。  『行基年譜』は、巻首が欠けているが、「行基師・願勝師・利鏡師等、野田村大歳松樹下至集、語 諸刀祢云、率知識為大神修功徳、以利鏡師為画師造七佛薬師像、在障子也。」のように、行基師、 願勝師、利鏡師で始まる。利鏡は、実在した理鏡(2)からの連想、改変であろうか。意味は、鏡を 利用する。つまり、本体と像の二つの形が生ずること、対があることを意味する。普通、一つの 言葉だけでは、暗号や正誤は解けない。二つの対照するものがあって、比較することにより、差 異がわかり、正誤・内容が判断できる。後段の跋文中に、「故和泉之生所ト相二似迦毘羅城之古 所一」と「相似」の言葉が出てくる。これも、二つを比べることを意味する。  詩経に六義がある。比は、物事に例えて、意のあることを表わす。つまり、比喩である。 興は、草や鳥など自然界の物事から救い起して、それとなく人間世界に例える手法、賦は、比喩に よらず、心に感じたことや物事を直叙したもの。暗号には、比と興が使われることになろう。  年譜には、比の文字が使われているものを検討する。 「『行基年譜』には、行基のおこなった事業の起立年月日がなぜか詳細に記されており、このこと 自体が問題視されてよいが、ほとんど2~3月、9~10月に集中する。(3)」とある。 『行基年譜』の詳細に記された年月日には謎があり、数字が意味を持つものと考える。三の聖数の 多出、三の数字の意味は、「見ミ」に掛かっている。冒頭部が三人の僧から始まることから、「三人 寄れば文殊の知恵」という諺からの暗示もあり、行基の謎解きを試みる。 一 起工年月日  始めに、行基の行った事業の起立年月日が大きく「起」と「始起」に分けられるのは意味があるのだろうか。 表1 事業の起立年月日
年齢年次内容備考
行年38歳慶雲2年大修恵院高蔵十月始起
行年49歳霊亀2年恩光寺在太和国平□郡床室村十月五日起
行年51歳養老5年隆福院登美四月廿三日起養老2年が正しい
行年53歳養老4年石凝院 九月十五日起
行年55歳養老6年喜光寺 菅原寺二月十日起讃日、最後涅槃所也
行年58歳神亀2年久修園院山埼 九月起 大#發願、従同月十二日始、度山埼橋云云、天皇歸依給云云『作者部類』「行基、神亀二年六月十三日始度二山崎橋一」
行年60歳神亀5年大野寺 在和泉国大鳥郡大野村、二月三日起神亀4年が正しい
行年63歳天平2年善源院川堀三月十一日起 舩息院 二月廿五日起 高瀬橋院 九月二日起
行年64歳天平3年狭山池院 二月九日起 嶋陽施院 三月廿日起 法禅院檜尾九月二日起 隆福尼院在大和国添下郡登美村、十月十五日起
行年66歳天平5年救方院 同年十月十五日起
行年67歳天平6年澄池院久米多十一月二日起
行年70歳天平9年鶴田池院 二月九日起 頭陀院菩提九月一日起 尼院 同年始起
行年74歳天平13年或云此記ハ天平十一年云云 天平十三年辛己記云辛己云ハ延暦廿三年三月十九日所司記云云 山崎橋 在乙訓郡山崎郷神亀二―九月十二日始起延暦廿四年
行年77歳天平16年大福院 御津、二月八日起
一 年代記 年譜冒頭部一  冒頭部は、神鳳寺の草創を伝える古縁起に依るものである。「和銅元年歳次戊申正月十一日転大 領十月専掃大鳥連魯磨家成寺院(4)」とあり、『行基年譜』の「後和銅元年戊申十月比、専掃清首麻 呂家、終成寺院、」の文と比較すると、前者に「十月比ころ」の「比」がなく、「清」が加わる。   従って、何らかの意味があって、泉高父宿祢或いは後世の加筆により「比」「清」が挿入されたものと 思われ、「十月」を比べろということと考える。「十月」のある場所は表1のとおり、六箇所ある。三十八 歳条に「大修恵院高蔵十月始起、在和泉国大鳥郡大村里大村山」と「十月始起」がある。「大修恵院」 と「高蔵(寺)」が同じものの異なる呼称であり、「十月・始起」も同様に考えると、「十月」から「ソツキ」を 読み取り、「始起:しき」から「為き・施き」、或いは「死記」を読み取ると、「ソツキ」は、「卒記」である。 つまり、墓誌などの死亡記事を比べろということが考えられる。三十八歳条に「卒記」の存在を読み取る ならば、大村山の「山」は陵・墓の意味(5)でもあり、「威奈大村」(6)の墓誌を想定させる。  次に、六十四歳条に、「隆福尼院 在大和国添下郡登美村、十月十五日起」がある。「隆福尼院」は、 行年七十三歳条にも「隆福尼院 己上山城国相楽郡大伯村」と表われるから、二重に重なっていて、 誤りがあると思われる。因みに、大伯村は大狛村の誤りかと思われる。 「十月十五日」の数字は十が二つで二重であり、五は誤・語を表わすことになろうか。 表2 十月比
箇所文字列内容備考
冒頭部十月比後和銅元年戊申十月比、専掃清首麻呂家、終成寺院大鳥連
三十八歳十月始起大修恵院高蔵十月始起、在和泉国大鳥郡大村里大村山威奈大村墓誌
四十三歳元明天皇三年和銅三年庚戍 正月母逝化「四年」が正しい。
四十九歳十月五日起恩光寺 在太和国平郡床室村十月五日起大鳥床嶋
六十四歳十月十五日起隆福尼院 在大和国添下郡登美村、十月十五日起置染臣鯛女
六十六歳十月十五日起救方院 同年十月十五日起 薦田尼院 己上在河内国茨田郡伊香村大塩平八郎(子起、中斎)
七十六歳十月十五日天皇廿年天平十五年、癸未十月十五日天皇信楽宮、發大願造金銅舎那佛像云云
 これは、月日などの数字が一定の意味を表すことを例示としているものと考える。「十五」は「齟 齬ソゴ」を表わす意味と思われる。また、「卒記」に齟齬があるという意味が含まれているかも知れ ない。  六十六歳条に、バラ門僧菩提の来訪を記す。「救方院 同年十月十五日起、薦田尼院 己上在 河内国茨田郡伊香村」がある。「救方院」は「枚方院」の誤りであろうとされる。(7)  七十六歳条に、「天皇廿年天平十五−癸未十月十五日天皇信楽宮、發大願造金銅舎那佛像 云云、又云天皇 東大寺造給、供養講師行基請奉、#辞給云、従外国大師可来、以彼可奉仕 云云、供養比、摂津国難波迎大師云何給、云家申請百僧、曳将僧次行基弟[第]百也、…」とある のは、六十六歳条と同じく、後段部分の菩提遷那が来朝するのは、天平八年であることから、天 平五年及び天平十五年は正しくなく、「誤」または「齟齬」であることが知れよう。  齟齬とも読める「十五」の表記を表3にまとめる。 表3 十五の表記
箇所文字列内容備考
冒頭部六月十五日文武天皇諱軽、…即位大化三年丁酉、治天下十一年丁未六月十五日天皇崩、…持統 天皇崩同年也。六十の差(誤)があることを示すか。
四十九歳十月五日起恩光寺 在太和国平郡床室村十月五日起「太和」は「大和」
五十三歳九月十五日起石凝院 九月十五日起 在河内国河内郡早村早は日下(くさか)の意
五十五歳行年五十五歳喜光寺・菅原寺二月十日起讃日、最後涅槃所也。二重記、讃(三)いわく
七十一歳十五年聖武天皇十五年天平十年戊寅正月十日正は五画
八十二歳三月十五日大庭院 在和泉国大鳥郡上神郷大庭村 孝謙天皇二年、天平勝宝二年庚寅三月十五日、追為報恩起立云云、如今者号行基院大庭院=行基院
十三年記池十五所『菩薩伝』十二所『昆陽寺鐘銘』十四所とする。
注)六十四歳・六十六歳・七十六歳条は、表1に記載する。 年譜冒頭部  「文武天皇諱軽、…即位大化三年丁酉、治天下十一年丁未六月十五日天皇崩、」について、文武 の即位は、「大化三年」でなく、「文武元年丁酉」であり、「大化三年」は誤りである。 また、「大化三年(647)」は、「丁未」の歳に当たり、文武の崩年は「慶雲四年(707)丁未」であり、その 差は、ちょうど「六十年の差」が生じる形で記載されている。この「六十・差」は「六十・誤」でもあり、 「六月十五日」の数字は、「六十」と「五」の連なりであり、「六十・誤」を示すのは偶然でなく、意図的 と思われる。  四十九歳条に、「恩光寺 在太和国平郡床室村十月五日起」がある。「十月五日起」の「十五起」は 「齟齬記」と読み替える。間違いのある記事である。「大和」は「太和」で大に点が入っている。  同様に、五十三歳条及び八十二歳条にも誤りがあることを示しているものと思われる。  また、年譜冒頭部一「大化三年」は、「持統天皇崩同年」とされているが、持統天皇の崩年は「大 宝二年(702)」であり、誤りである。文武天皇と崩御が同年の天皇はいない。ここで、強調される言 葉は、「即位大化三年」である。どういう意味であろうか。  文武天皇の「天津足」は正しくは「大津足根大夫(7)」を指す。 ここで、「天津足」とするのは、「四十三歳条」にある元明天皇の国風諡号「日本根子天津御代豊国 成姫天皇」の「天津」の下に誘導させようとすると考える。 「卅七歳条」 表4 卅七歳条暗号の鍵
印(誤りなど)
卅七歳見ぞ名サイ37代天皇斉明天皇
 『行基年譜』は、冒頭部を除く年齢条が和泉国に触れ、生家家原寺を仏閣とする「卅七歳」から 始まる。これが意味を持つとすれば、「見ぞ名サイ」である。ちょうど、37代天皇は斉明天皇であ り、斉明天皇の父は茅渟王である。行基と和泉国または和泉監と関係が深いことを示すか。 家原寺金筒文  金筒文と金筒正文の二つの形が見られる。 前段文は、「今」が「為」の誤りという指摘がある。(8) これは暗号を解く鍵の一つとすると、金筒文「今」は「為」を表わす言葉であり、「作為」・「為す」 ことを意味する。「今」は「陰」の元字であり、隠されていることを表わす文字と考える。 つまり、「今」は暗号の標識であり、「今池」は「今へいけ」と誘導する。表5のとおり、「今」の標 識のある部分を列挙する。 表5 「今」の表現
箇所文字列対象
冒頭部今在両佛堂[西佛堂]是也。在ザイ・西サイを両とした。
今大鳥神宮寺神鳳寺是也。大鳥→オオトリ
三十七歳今日根禅興寺本願云云。日根禅興寺→日根渚→日本根子
今池見在云云、今池、池イケ(蔭池、鏡池)
金筒文云、今令衆生、為令衆生、今=為
五十七歳今塩穴郷塩穴郷→シオ・シホ
六十歳今香琳寺歟大野寺尼院、大野村、深井村
六十六歳今将レ返云、使副免送了。将=摂津職を指すか。
七十六歳日本ノ文珠ノ御跡今ソ知リ奴留卜云云、今ソ知リ奴留、直接には「ソ」にかかる。 ソ=十=蘇、ソ知リ→誹り(智光説話)
八十二歳我建立諸院今付属於汝、々能々住持云云付属於汝
今更ニ物ナ念ソ佛トモナレ「更サラ」にかかる。
如今者号行基院大庭院=行基院
跋文従在世利生之願、至于今无止矣、无止矣
『続日本紀』には、「方今」と表される個所があり、行基の出現する記事と一致する。 表6 続日本紀の行基の記事及び「方今」の表現
箇所「方今」文字列「今」文字列備考
養老元年4月23日条方今小僧行基、方今僧尼今以後更然後、村里行基の弾圧
天平2年9月29日条自今以後当今京に近き山原の集会
天平15年10月19日条(行基法師)10月15日大仏造営の詔
天平21年2月2日条(大僧正行基和尚、薬師寺僧)百姓至今、今至住持行基薨伝
「卅八歳条」  安居右京佐紀堂は、『行基菩薩伝』に「結夏安居在古京佐紀堂」とある。 「安居(アンゴ) (9)」は、暗号に似る言葉であるが、「安居右」は、そのままアンゴウとなる。 表7 アンゴ・アンジの表現
箇所文字列対象
冒頭部火葬先皇安古山陵山陵
三十七歳或修行或安居、築レ池掘レ河度レ橋伏二通樋一、掘レ溝伏二通樋一
三十八歳安居右京佐紀堂佐紀堂
五十四歳大安寺得度「大暗示解くと」
七十二歳安居久修園院、得度百八十四人久修園院
 三十七歳条の「…安居、築レ池掘レ河度レ橋伏二通樋一、掘レ溝」暗号の箇所である。 「伏二通樋一」のみ他の施設と構文が異なる。これは、「天平十三年記」の「樋三所」=「秘見(密) 所」に繋がるものだが、「樋門」を言う。「樋」は、@水を導き送る木や竹の長い管Aせきとめた水 の出口に設けた戸。開閉して水を出したりとめたりする。水門[大辞林]とある。@Aいずれにしても 池溝及び堤に当然付属するものであり、三所は、前掲の池溝の数に比べて常識的に疑問を呈す る数である。ここでは、樋の実際数は関係なく、三の数字に意味があると考える。 「卅九歳条」 表8 三十九歳条暗号の鍵
印(誤りなど)
横山郷内以横山蜂田寺大村山、横山木嶋・杣横山は杣を指すか。 「嶋」は、「山斎」
 和泉郡横山郷は、『行基年譜』の三十九歳条に、「 天皇(文武天皇)和泉国和泉郡横山郷内横山 を以て蜂田寺ならびに四十九院修理科の杣山を施入せられる。七月八日、勅使正四位下犬上王、 従七位下津守宿禰得麻呂、正八位上出雲国勝等、四至を点定する。」とある。  千田稔は、「和泉郡横山郷とは、泉北郡旧横山村にその名を留めるが、和泉市の南、槙尾山とそ の北麓一帯にあたる。この郷名は『和名抄』には見えないが、同郡池田郷とほぼ重なるものであろ う。『年譜』はこの横山郷内の横山の杣をもって、蜂田寺と、後に述べる行基創建の四十九院建立 の材木を供給するとしたと記しているが、この時点では、四十九院のほとんどは建てられていない。  従って、ことさら蜂田寺という固有名詞のみがあげられているのは、伝承の通り、この寺が家原寺 とほぼ同時期に、行基によって建立されていたためと想定される。(10)」とする。  しかし、この『和名抄』にはみえない「和泉郡横山郷」とは、表9にみられるとおり、『行基年譜』と 他の史料で異なるものがある。竹林寺略録には、「慶雲三年丙午左大臣橘朝臣諸兄以河内国和泉 郡木嶋郷内田地等。奉施菩薩。以為別院等杣山。如菅原寺竝諸別院等修理料」とされており、また、 『起父遺戒状』には、「而河内国和泉郡木嶋郷杣山。橘朝臣諸兄大臣知行之時。依山近国内建立 寺院之河内国和泉郡木嶋郷山城国内建立寺院之材木乞請。」とあり、二つの史料で木嶋郷の名が 出てくる。従って、『年譜』の横山郷内とするのは、木嶋郷の誤りの可能性がある。  『行基年譜』の「横山郷」は、和名抄になく、他の史料では「木嶋郷」とみえるから、「横山」は、暗号 のように思われる。意味するところは、「横山」=「木嶋」から、「横山」「木・黄(キ)山」は「嶋」のようで ある。一つは山鳥で行基の歌につながる。もう一つは、「嶋」は、「山斎」である。(11)  嶋=山鳥=山斎とすれば「斎」は「トリ」になる。 和泉国大鳥郡も同じような意味、「大」を「トリ」になろうか。 表9 横山郷
史料年次杣山等記事
行基年譜慶雲三年和泉国和泉郡横山郷横山蜂田寺并四十九院修理料
起父遺戒状慶雲三年河内国和泉郡木嶋郷而河内国和泉郡木嶋郷杣山。橘朝臣諸兄大臣知行之時。依山近国内 建立寺院之河内国和泉郡木嶋郷山城国内建立寺院之材木乞請。
竹林寺略録和銅六年大和国平群郡生駒山菅原寺并別院建立杣山
慶雲三年河内国和泉郡木嶋郷左大臣橘朝臣諸兄以河内国和泉郡木嶋郷内田地等。奉施菩薩。 以為別院等杣山。如菅原寺竝諸別院等修理料
歓喜光律寺略縁起天平三年河内国和泉郡木嶋郷聖武天皇以河内国和泉郡木嶋郷杣山
注)木の横に山を作るは、「杣」となる。横山=杣山を意味するか。 「四十歳条」 「文武天皇十一年慶雲四年丁未 移生馬仙房、弥盡孝 養之禮云々。」 「四十三歳条」には「生馬仙房 元明天皇三年和銅三年庚戍 正月母逝化。自尓以降、迄于和銅五 年□亥、住生馬草野仙房、着麁服甞苦食云々」とあり、「生馬仙房」が「生馬草野仙房」となる。  本条は、「竹林寺略録」によると、生馬山が菅原寺建立の際、用材を確保した杣山であり、伐採後 に草地となることを意味するか。 そのように読めば、行基が平城京の造営に積極的に関与していたことになる。  また、斉明紀に「竜に乗る仙人」が現れ、葛城から生馬に移り、更に難波に移動するから、仙人に 行基を重ねるイメージが出来上がる。 「四十三歳条」 元明天皇・行基の母逝去 表10 四十三歳条 暗号の鍵
印(誤りなど)
元明天皇三年和銅五年亥・誤年・辛亥・和銅元年・亥□慶雲四年・亥豕
四十三・・・・四ぞ三・シぞ見・ 死ぞ見三→四・亥 母・元明天皇二月四日崩和銅三年→和銅四年 荷曰(横三)→荷四(縦四) 四日→四比→椎(陵)
五町・五烟・五年城→域・守→陵・ 四日→七日・酉→辛酉椎陵→椎山陵 椎(四比)山なし(七四) 二月四日→二月七日
御代・城・酉ミシロ・シロ・トリ・辛(しるすもの)・43代しろ、取り
 和銅三年は平城遷都の年である。  冒頭部前出の文武天皇の「天津足」つまり「天津」の下は、四十三歳条に見られるとおり、元 明天皇の「御代豊国成姫天皇」であり、後段の「豊国成」は、豊臣家の豊国神社を連想するが、 前段「御代」には「見しろ・三しろ」が掛けてある。見るもの・するものの対象は「三」だとすると、 「和銅三年」は「四年」が正しく、「四」、「三」を言葉に置き換えると「死見」ともなり、「和銅三年 庚戍 正月母逝化。」と通じる。この母の逝去は、『行基大菩薩行状記』では、「和銅三年庚戍 正月十五日。臨終…」とされ、十五(ソゴ)日が記されているから、暗号とするならば、母の逝去 記事は信頼できないことになる。また、「四十三歳条」は「四十見」・「四ぞ見」でもある。  四十三歳条暗号の解は、「慶雲四年・亥豕、和銅三年→和銅四年、荷曰(横三)→荷四(縦四)、 山なし(七四)」などである。一つの解は、亥□であり、亥豕を充てる。「魯魚亥豕」は「文字の写し 誤り」のことであり、全編がそうであることを示すか。もう一つは、山なしで、山=墓であれば、行 基の母の逝去はなかったことを意味するか。  元明天皇の即位は、「慶雲四年七月十七日」であるから、年譜の即位「和銅元年戍申」は誤り である。また、譲位は「和銅八年九月二日」であるから、在位八年となり、年譜の「治天下七年」 は誤りである。和銅元年即位であれば、在位七年で合うから、ここでは、「和銅元年戍申」に誘 導していると考えたい。「和銅元年戊申」に何があったのか。当然、慶雲五年から和銅への改元 で、平城遷都の詔公布があり、『続日本紀』の「和銅元年九月壬申(十四日)条」に菅原行幸が見 える。また、和銅元年十一月乙丑(七日)「菅原の地の民九十余家を遷す」とあるので、行基と関 連して誘導する事項の一つは菅原寺に関するものと考える。  和銅元年にある行基の功績で七・四(なし)から考えられること、『行基年譜』に記されないこと は「天智四女・七年」→(天地四・七なし)がある。  『東大寺要録』に「天地院法蓮寺を造る(12)」とある。 天地院法蓮寺は、行基が大和国に造った寺院大和八寺(13)のうち、慶雲四年の生馬仙房に次 ぐ、第二番目に建立したものであるが、『行基年譜』には表れてこない。曰くは四になっており、 四日→四比→椎と椎山に誘導する。椎山は、元明天皇陵である。 死ぞ見、行基の母と元明天皇の二人の死が書かれている。この二人は何らかの関係があると 思われる。 「四十九歳条」 表11 四十九歳条 恩光寺の暗号
印(誤りなど)
日本根子高瑞足如天皇日本根子高瑞浄足姫天皇瑞浄→水・泉37歳条和泉国日根 和泉・衣通姫
元正又云飲高 諱水高、文武天皇同母婦也。飲水→泉水婦姉・節(和泉国)府址碑文
在太和国平□郡床室村十月五日床室村、群なし床室尊和泉国孝恩寺
養老五年酉□十二月四日大上天皇元明崩正しくは「十二月七日」七四・なし 辛(真)なし恩光寺なし
注)吉川弘文館『行基 鑑真』などにより、作成する。  「四十九歳条」は誤りが多い条である。  元正天皇の「日本根子高瑞浄足姫天皇」は、三十七歳条の和泉国日根を受けるか。 元正天皇の国風諡号については、『行基年譜』の記載は「浄」がなく「姫」が「如」となる。 瑞は水へ誘導するか。元正天皇の即位は、霊亀元年九月二日が正しい(年譜は六月三日とする。 六ロク・見ミに誘導する)。年譜の「如」は誤り。「如(ゴトク)」からは「語解く」が想起され、「姫ヒメ (秘め)」が隠される。また、冒頭部には、「修功徳(句解く・す)」があり、ちょうどこの『行基年譜』 の解読作業を想起させる。因みに、数字の「十九」も「解く」である。  元正天皇の諱は、氷高皇女であるから、年譜の「氷カ」の補筆は、「水ヒ」→「ミズヒ、ミツヒ、 見つヒ」は、「イズミ(和泉)・ヒメ(秘め・姫)」につながる。年譜に表われるもう一つの別称「飯高」 は、郡類本で「飲高」とされている。飲むのは「水」であり、水の湧くのは泉→和泉に繋がる。 元正天皇は、文武天皇同母婦(姉カ)と補筆されている部分は、続けると婦姉(フシ)で、「節(区切 りか)」あるいは「(和泉国)府址」を想起させる。  同歳条に、「大和」は「太和」で大に?が入っている。逆に、元明大[太の点なし]上天皇崩日が、 「十二月四日」となっているが、正しくは「十二月七日」である。「七四・なし」ここでも、恩光寺なし を重ねて掛けるか。  ところで、『行基年譜』四十九院の「恩光寺 太和国平群郡床室村」は、寺名・所在とも見当た らない。 (14)  恩光寺の「十月五日起」は、「十月」の「卒記」と「齟齬記」が連想される。群がないので、四十九 院には入らないのである。三十七歳条の「不知人」に「人不知カ」とある。  而して、恩光寺名を反対にすると、行基造の仏像伝承のある孝恩寺が和泉国にある。(15) この条では、和泉国が隠されていると思われる。  『続日本紀』によると、霊亀二年四月十九日に河内国の大鳥・和泉・日根の三郡を割いて和泉 監が設けられる。ここでも、「四十九院」→「四十九歳条」→「霊亀二年四月十九日和泉監」→ 「四十九(死・詞解く)」のように連想を続けると行き着く先に、隠された「秘め:姫」に衣通姫(衣通 郎姫)が想像される。 (16)  茅渟の宮跡に建つ碑文に「とこしへに君も遇へやもいさなとり海の浜藻のよる時々を(全文万葉 仮名) (17)」の詞がある。その碑文中に「とこしへに」、「いさなとり」、「ときとき」がある。「床室: とこむ(み)ろ」→「とこし(つ)へ」は「とこし=徳師」へ誘導し、「ときとき」は、解き、斎(とき)、鬨(鯨波 →いさなみ)で、「いさなとり」が求める解と思われる。 「三十七歳条」に戻る。 表12 三十七歳条の暗号
印(誤りなど)
魚取□:二水扁に食、 勇人見□:「二水に食」の字人不知カ勇魚取
不知人不知、行基獨知之人不知カサイ
 三十七歳条は、「見ぞ名サイ」を示す。「不レ知レ人」は、「人不知カ」の補記あり。「不知」は 特別な読み方として「イサ」と読む例がある。(18)  今池(今は陰の原字、陰池で影を写す鏡と見做す)の先に「魚取□:二水に食、勇[里カ]人」がある。 これは、「不知人は、人不知か」の示す如く文字を入れ替えると、「勇魚取(?)」と「いさなとり」が表われる。 後は、この文句をどう解釈するかということであるが、「魚」はサカナ(逆名)である。名前を逆さにするという意 味を持つ。すると、「いさなとり」とは、「イサ」の名を逆さにして、「サイ」となり、「サイ」の名が取られたことを意 味する暗号であろうか。  天平十三年記の「神亀二ノ九月十二日始起。」にある「二ノ九」の「ノ」は年の第一画を省略字にしたもので 、□:二水扁に食を二字に分解して、食ニとなり、食は、飲、飯、膾(鱠)に誘導される。 鮒鱠を食べ、口から吐き出すと小鮒が生きて池に入る再生譚の原型は、日本往生極楽記などの「小魚」である。 この小魚再生譚の真の狙いは、「小魚」・「小鮒」は「サイヲ」・「サイヲ・付」を示すように思われる。 「五十一歳条」 表13 五十一歳条の暗号
印(誤りなど)
養老五年戊午大和国添下部登美村二(年)カ行年五十一歳 □□→元正 隆福院登美四月二十三日起在大和国添下部『続日本紀』養老元年四月廿三日 行基尊
 養老五年は、「二(年)カ」と補記されているが、「五年」は誤りで、「二年」が正しい。 五に注目すると、「行年五十一歳」の下の干支(歳次)が抜けており、「行年五十一歳□□元正天皇 四年養老五年戊午 隆福院登美四月廿三日起」と「五十一歳」と「元正」が連続することが注目され る。養老五年は「五(誤)ぞ一」と元正天皇の名から「元が正しい」となるから、誘導される年号は養老 元年であると考える。すると、『続日本紀』の養老元年四月廿三日の記事には、僧尼を統制する詔が ある。小僧行基が指弾される記事に導かれるのである。また、「五十一歳条」には、隆福院の別名が 記される。登美院である。所在地にも大和国添下部[郡]登美村とある。この別名が記される登美には 意味があるとすると、富トミと「とう」見である。鼻高山霊山寺は、二(鼻高・霊=両)と五重の塔がある から、暗号的にはこじつけられる。  根本誠二は、霊山寺は隆福院の由緒を継ぐ寺院とする。(19) この条には、僧尼院のうち、「隆福尼院」がないが、隆福尼院は六十四歳条(大和国添下郡登美村) と七十三歳条(山城国相楽郡大伯村)にみられるから要注意である。 「五十三歳条」 表14 五十三歳条の暗号
印(誤りなど)
在河内国河内郡早村九月十五日起九月一日は日蝕不比等の薨去49日
 「石凝院 九月十五日起 在河内国河内郡早村」とある。  「九月十五日起」は、「句・齟齬記」を示すと考えると、その対象は「石凝院」と思われる。 所在地の「早村」は、「クサカ村(本来は日下村)」と呼ぶのであれば、「草」の字を分解して、 下の部分だけにしてある。つまり、草冠の下、草下(クサカ)であり、石凝院は、日下墓地で あり、行基七墓の一つと伝えられており(20)、藤原氏の神を祀る枚岡神社の近くである。  『続日本紀』の養老四年八月二日には、藤原不比等の病を癒すため、薬師経を読んだ が、効なく八月三日に薨じ、同年九月一日は日蝕とある。「石凝院 九月十五日起」は、 不比等の薨去五十日に当たり、一日欠けさせると四十九日になる。これらのことから、 「五十三歳条」は、藤原不比等の死に関連する条ではないだろうか。 「五十四歳条」 表15 五十四歳条暗号の鍵
印(誤りなど)
辛酉の「辛」脱、2箇所 命交(受カ)朝廷参上養老五年五月三日二人得度校(校合、校勘せよ)『続日本紀』笠朝臣麻呂、県犬養橘三千代
寺史乙丸史・乙丸藤原不比等
五月□日、玄ム→玄妨(五十五歳条)蜂寺奴、和泉国、妨八→分ける→女蜂田寺女→行基母
 年譜は「行年五十四歳□酉 元正七年養老五年□酉五月三日、命交(受カ)朝廷参上京都、二人得 度、寺史乙丸以己居宅、奉施#、即立精舎號菅原寺。五月八日一百箇人依於大安寺得度、之内和 泉国云云、上記蜂寺奴云云、」と盛り沢山である。  菅原寺建立の記事は、養老六年にもある。養老五年、寺史乙麻呂が自家を布施して建てられた菅 原寺は、養老六年に喜光寺となる。寺史乙麻呂とは誰か。『行基菩薩伝』には、「時寺史乙麻呂門」と 綴られている。菅原の地に広大な居宅を構えていた人物とは誰であろう。 しかも、宮城の至近に位置する場所である。寺史の姓は、『続日本紀』に見えないから五位以上の貴 族ではない。そういう身分の者が広大な居宅を行基に布施したとは考えられないから、この人物が暗 号であると考える。弟(オト)・寺史は、字不比等である。乙麻呂は、弟また乙の男であり、乙は甲乙の 二番目である。また、音・史は不比等にもなる。すると、弟である二番目の男になる史は、藤原不比等 である。拙論「菅原寺」参照のこと。  大安寺得度は、『続日本紀』に見えない。「大暗示解くと」の暗号か。ここでも、辛酉の「辛しるしをつ けるもの(辛=真)」が取られている。交(受カ)は、校合、校勘の校の省字か。  同条に見える養老五年五月三日は、『行基年譜』が『続日本紀』の記事にある期日と一致する数少 ない例である。この期日は、『行基菩薩伝』にも「養老五年五月三日。命交朝廷。参上京都。二人得 度」とあり、『行基菩薩行状記』にも「養老五年。五十歳[年譜は五十四歳]にして。朝廷にまじわりて」 とあるから、大事な記事であろう。  『続日本紀』の養老五年五月三日は、「(元明)太上天皇不豫したまふ。天下に大赦す。」とある。 そして、五月六日に元明太上天皇の病平復のため浄行の男女一百人に入道を許したものである。 そのうち、「二人得度」については、『続日本紀』養老五年五月十二日には笠朝臣麻呂、同月十九日 には県犬養橘三千代の入道の記事がある。笠朝臣麻呂は、出家して、満誓と名乗ったとする。    『元亨釈書』に、「満誓ハ誰、笠右丞也」と出てくる。「五月八日一百箇人依於大安寺得度、之内和 泉国云云、」の「五月八日」は、正しくは『続日本紀』の「五月六日」に得度一百箇人が見える。 注目されるのは、誤りの「八」の文字である。「八」は「蜂」につながる。また、「分ける」を意味する。 「五十五歳条」の「妨」は、「女の方」、「蜂寺奴」の「奴」は分解すると「女、又(ユウ)」に分かれる。 「蜂寺女」は、蜂田寺の女であるから、行基の母を指向するものと考える。すると、「二人得度」の 「女の方」は、『続日本紀』の記事から、三千代につながることを隠喩するとは考えられないか。 意味が分かりにくい「之内和泉国云云、上記蜂寺奴云云、」は、三千代に関して述べるならば、 「黛弘道氏は、『和泉志』の泉南郡条に「箕土路〈旧名犬飼〉」「河内川県犬養神祠〈在箕土路村、 今称犬養堂〉」とあるから、県犬養宿祢の本貫は、和泉国であり、遡れば河内国茅渟県であった とする。(21)」から、和泉国は三千代とも関係がある。 そして、養老五・六年の菅原寺になる自家を布施する寺史乙麻呂が藤原不比等であるならば、 県犬養橘三千代とも結びつく。 「行年五十五歳条」 表16 五十五歳条暗号の鍵
印(誤りなど)
二月十日起讃日二月十日起→二重記起讃日→三喜光寺=菅原寺=佐紀堂
行年五十五歳壬戌元正八年、養老六年壬戌、喜光寺 菅原寺二月十日起、讃日、最後涅槃所也。   在右京三條三妨九坪、十坪、十四坪、十五坪、十六坪 二月十日起は二重記となる。「五十四歳条」と重なる。喜光寺・菅原寺が重なるところであるが、 「讃日(三いわく)」とあるから、もう一つ「行年卅八歳条」の安居右京佐紀堂と重なることは考えら れないか。安居は暗号であり、佐紀堂(サキドウ)は「先と同じ」という意味と取り、佐紀堂が菅原 寺と同じものであるということを隠しているのではないかと考える。 「五十七歳条」 表17 五十七歳条暗号の鍵
印(誤りなど)
治天下廿五年二重語五月二日崩(語が二つに崩れる)早(くさ)
葦田里早部分けるサ・韋
 「聖武天皇元年、…文武天皇太子也。治天下廿五年、天平勝寶八年丙申孝謙天皇八年五月二日崩、葬佐保陵云云。   清浄上院高渚 塔十三層云云、   在和泉国大鳥郡葦田里今□(塩)穴郷   尼院 同郡早部郷高石村 」 「廿五年」は「廿六年」が正しい。「廿五年」は「二重語」と読むと、「五月二日崩」は、「語が 二つに崩れる」である。「早部」は日下部と読む。「早」は草の下部であるから、「くさ・か」 である。  特定できない「葦田里」がある。同様に、「葦」の字を分けると「サ・韋」ができる。 これが隠された言葉らしい。また、清浄土院は、塔が高く積んであるので、「清」と「浄土 院」に分けられる。「清」も求める解か。 「五十八歳条」 表18 作者部類等との比較
作者部類行基、神亀二年六月、將二諸弟子一、行至二山崎一、河不レ得レ船、俄掩留、河中見レ有二一大柱一、大菩薩問云、彼柱有二知人一矣、或人申云、往昔尊船大徳所レ橋柱云云爰大菩薩願、従二同月十三日一、始度二山崎橋一
行基年譜神亀二年乙丑  久修園院山埼 九月起   在河内国交野郡一條内、九月一日将彼弟子修杜多行、到山埼川、不得暇掩留、河中見一大柱(天イ)、♯ 問云、彼柱有知人矣、或人申云、往昔老旧尊船大徳所渡柱云云、大#發願、従同月十二日始、度山 埼橋云云、天皇帰依給云云、
扶桑略記(神亀三年) 同年、行基菩薩造山崎橋、故老相伝云、造橋畢後、菩薩於橋上、大設法会、洪水俄至、橋流人死、粗有其数云々
帝王編年記[題目](神亀二年) 同年、行基菩薩造山崎橋、[本文](神亀三年) 同年、行基菩薩造山崎橋、
注)注)山崎橋造を「神亀二年」とする誤りは、「帝王編年記」の題目を元にするか。 表19 五十八歳条暗号の鍵
印(誤りなど)
九月起六月でない月読句ツク(ル)
一條内河中見修杜多→図だ、河川天イ→天満川
老旧船彼イ→かれい枯野→こと(言葉)を作る・かれ川王餘魚河
「行年五十八歳条乙丑聖武天皇二年神亀二年乙丑   久修園院山埼 九月起   在河内国交野郡一條内、九月一日将彼弟子修杜多行、到山埼川、不得暇掩留、河中見一大柱、  # 問云、彼柱有知人矣、或人申云、往昔老旧船大徳所渡柱云云、大#發願、従同月十二日始、度  山埼橋云云、天皇帰依給云云、」  『作者部類』の「神亀二年六月」が、『行基年譜』では、「神亀二年九月起」と変えられている。 河内国交野郡一條内は、他の記事では、「天平十三年記」に楠葉布施屋の交野郡楠葉里、「八十二 歳条」に報恩院の交野郡楠葉郷が見られるから、里と郷の地名表記が変えられていることが分かる。 地名の一條は、「条里制」の存在を意味するものとされている(22)が、別の見方が必要となるのかもし れない。例えば、一条は通常道路を示すが、『字統』によれば、「條は攸と木に従う。攸は人の背後に 水をかけて滌い、みそぎして身を清めること。そのとき身を滌う木の枝や葉を條という。(23)」とあるか ら、みそぎをして身を清めることから連想して、一筋の河川を表すのかもしれない。  老旧船は、老朽化した船「枯野」を焼いて、琴を作る話が、記紀に出てくる。→こと(言葉)を作る。 標が付けられた「一大柱(天イ)」は、地図をみると、久修園院の南に、天満川がある。 現在は、鏡伝池から流出する一部分は、緑道になっているが、「枯野」の名から「涸れ川」がイメージ される。つまり、カレイ川のことだろう。「七十二歳条」も「安居久修園院、得度百八十四人」は、暗号 が含まれるとすると、石清水から加礼川が導かれる。(24) 表20 七十二歳条暗号の鍵
印(誤りなど)
得度百八十四人184→イワシ紫式部の和歌「いはし水まいらぬ人」石清水→加礼川
 「七十二歳条」「安居久修園院、得度百八十四人」は、暗号久修園院、得度百八十四人は、「百草 に八十草そへて賜ひてし乳房のむくい今日ぞ我がする」(拾遺)から「クス(音)イン」を解くとヤクシと なる。乙卯は己卯の誤まり、乙(オト=音)クスは薬クス・ヤクから百八十四を約分すると、23・2・2・2 で「二を見る」が重なる。「行年五十八歳乙丑聖武天皇二年神亀二年乙丑  久修園院山埼 九月起 在河内国交野郡一條内、…」と重なることを指すか。 久修園院の縁起に、霊亀二年(年譜は神亀二年)行基開基とし、地の四至の南限は、「王餘魚河」と ある(25)から、一條は、「王餘魚河」を指すものと考える。 五十八歳条に、もう一箇所標が付けられた箇所があり、「彼弟子」の「彼」が「諸イ」とされる。 もとは、「諸弟子」が正しいのであるが、「彼イ」は王餘魚のカレイに通じる。  また、「諸イ」が暗号であり、特定の人物を指すと考えるならば、「七十四歳条」に「左大臣橘朝臣」 がみえる。この「左大臣橘朝臣」が「橘諸兄」であり、県犬養橘三千代の子である。 「五十九歳条」 「行年五十九歳丙寅、聖武天皇三年神亀三年丙□ 檜尾池院 在和泉国大鳥郡和田郷 」 丙□の寅(イン)=院がない。院がないのは、檜尾いけ→法禅院を示すか。 「行年六十四歳 □□聖武天皇八年天平三年辛未  法禅院檜尾九月二日起  在山城国紀伊郡深草郷 」である。  連想するものが二つある。檜尾は、木曽尾(キソ尾)、紀伊はキ、基の後裔という意味か。 九月二日起が、国記ならば、深草は仁明天皇の陵墓があるところである。すると、行基と仁明天皇 を結びつける意図があるのだろうか。 『万葉集』巻7−1257に草深百合の歌がある。 「道の辺の 草深百合の 花笑みに 笑みしがからに 妻と言ふべしや 」  これは、行年七十四歳条の「大#奉禮咲含悦テト云云」と関連するか。 「六十歳条」 「六十歳条」は、「六十(ムソ)」から墓所を見いだせる。 「聖武天皇四年神亀五年丁卯   大野寺 在和泉国大鳥郡大野村、二月三日起   尼院 同所今香琳寺歟、同年」 「神亀五年」は、「神亀四年」が正しいから、四五を読むと、「死後」ができる。 『万葉集』神亀五年の山上憶良の歌(5-799)に「大野山」がある。  神亀五年には、聖武天皇の皇太子「基王」が薨じている。この条にある寺院は、大野寺・尼 院(香琳寺)であるから、「王の墓所」という意味になるか。 「六十三歳条」 「聖武天皇七年、天平二年庚午 善源院川堀三月十一日起   尼院 己上二院、在摂津国西城郡津守村   舩息院 二月廿五日起   尼院 己上二院同国兎原郡宇治郷   高瀬橋院 九月二日起   尼院 己上同国嶋下郡穂積村在   楊津院 在同国河辺郡楊津村」七院である。 「六十四歳条」 表21 六十四歳条暗号の鍵
印(誤りなど)
嶋陽施院池院→施山鳥の碑嶋→山斎⇒斎
 八院のうち、嶋陽施院について、「嶋陽施院 三月廿日起 在摂津国河辺郡山本村」とあり、行 基事典は、「施院は同じく池と関係する檜尾池院、狭山池院の例からすると、「池院」の誤写とみ るべきか(26) 」とする。また、「嶋」の字が注目されるので、嶋陽施院の中に「施」という字が入る ことは、嶋陽施院の「嶋」字の存在と合わせて、暗号ではないか。 奈良から東に国道369号を大柳生町へ向かうとその途中に忍辱山町がある。「忍辱」は、仏教の 言葉で、「どんな侮辱にもたえしのんで心を動かさないこと。」とされ、忍辱山は「忍辱せん=忍辱 をする。[角川国語辞典、昭和44年]」に掛けているのだろう。そして、昔の村の名前に「忍辱施 村」とされた。これは、仏教の教えである忍辱を行う村という意味であろう。  それから、考えて、「施」の字は「せよ」ということ、つまり、「嶋陽施院」という暗号を「解きなさ い」との意味を持つものと考える。  「嶋」については、岸俊男が「嶋」雑考として、論じている。(27) その中に、「嶋」は、「之麻」「志満」とも書くが、万葉集20-4511題、3-452には「嶋」を「山斎シマ 」に当てていることが考えられされる表記であるとされる。「山」は「シ」、「斎」は「マ」。 「嶋」は、分解すると「山と鳥」になる。昆陽寺境内に山鳥の歌碑がある。(28) 「山斎」との比較では、「斎」=「鳥」の関係が導かれる。つまり、「斎」を取る或は隠すという意味 になるか。 「六十四歳条」は、64=8・8から母の条か。昆陽には、行基母の石塔の伝承がある。(29) 崑崙山昆陽寺の崑崙からは、西王母が導かれる。 「六十六歳条」 天平五年条には智光説話が記されている。智光説話 拙論参照のこと。 「朝廷與?車一両・得度卅五人給、爰# 和歌付勅使献天皇云云  止不久留未和禮仁多末部利以加仁東毛諸共尓古曽於久利和多佐女云云。 于時、智光大法師云人有。」 この和歌は、行基菩薩行状記にも記されるので、比較する。 表22 和歌の比較
行基年譜止不久留未和禮仁多末部利以加仁東毛諸 共  尓古曽於久利和多佐女
行基菩薩行状記土不久留末和禮仁多末部里以加耳東毛毛呂土毛仁己曽於久利和多左免
  止(未)利仁諸共尓古佐女 トマリニ・モロトモ・ニ・コ・サメ  読み取れる人名は、古尓ヒメか。あるいは、佐女か。 古尓歌智とすれば、古那可智に連なるか。古那可智は、橘佐為の女(娘)である。 「六十七歳条」 表23 六十七歳条暗号の鍵
印(誤りなど)
澄池院→隆池院 下池田村→上池田村久米多→三字 下池=カイケ澄→三・登→山登(やまと)いけ
吉田院 山城国愛賀郡賀→加見(かみ)吉田神社
『行基年譜』に五院ある。 「澄池院久米多十一月二日起    在和泉国泉南郡下池田村 深井尼院香琳寺在同国大鳥郡深井村   吉田院 在山城国愛賀郡   沙田院 不知在所、摂津国住吉云云       私、住吉ノ社大海神ノ北ニ南向ノ小寺云云   呉坂院 在摂津国住吉郡御津 」  五院は、誤院である。呉坂院も「云云」を意味する言偏をつければ、誤坂院となる。山背(城)国の 吉田院は、愛賀郡とするが、愛宕あるいは當宕の誤りであるから、山城は 山背が正しいから「山」 を「しろ(施よ)」と解すると「サン」に当たるサンズイ篇の院が三院となる。  「澄池院」は、「隆池院」の誤りであるから、これを暗号と考えると、「澄」を分解して、「三(山)登」 →「やまと」ができる。直道の大山登道を誤坂として形を変えると、山城国の「やまと」は、「大養徳」 になる。 「七十歳条」 表24 七十歳条暗号の鍵
印(誤りなど)
凡山田村大島山田村凡→オウシ・オオシ→王死
頭陀院菩提菩提、尼院始起・山・岡死・墓、去ぬ
添下郡矢田岡本村添下(矢田)郷後岡本尊(天皇)
天平九年建立の三院を記すが、七十歳条は謎の条となろう。 「鶴田池院 二月九日起      里ハ名鶴田里卜村ハ山田村也    在和泉国大島郡凡山田村 頭陀院菩提九月一日起   尼院 同年始起    以上、在大和国添下郡矢田岡本村 」  頭陀院(菩提院)は、宝亀四年に、施入された六院の一つである。(30)  『大和志』に葛上郡伏見村にありとされ、御所市大字伏見の菩提寺を当てるが、『行基年譜』の 所在地と異なる。  吉川真司は、菩提院は、大和郡山市字菩提山の「菩提山遺跡」に比定する。(31) この「菩提山遺跡」の位置は、聖徳太子と関係が深い法隆寺の北東約2キロにある。  しかし、ここ天平九年に現れる文字は、「菩提」をはじめとして、「山、凡山、岡」の陵や「始 起=死き」などの語郡が注目される。現れる人物像は、後岡本天皇=斉明天皇である。  「七十一歳条」「得度三十二人」は、『続日本紀』に見えない。ミゾ「得度二人」は、「五十四歳 条」に見える「京都二人得度」に繋がる。「沙孫泰證、年十九、未定寺」は孫の下を指す。 「年十九、未定寺」は、「年(念)解く、未定字」と読む。「大鳥連夜志久尓」の「大」と、「夜志→ 養う」、「久尓」、「十九→徳」を組み合わせると、大養徳恭仁ができる。 「七十三歳条」 発#院・泉橘[橋か]院  『絵詞』七十三歳条に「発菩提院・泉橋院」とある。  八田達夫は、「ここにみえる発菩提院(ママ)と泉橋院がすべて同一のものをさすかどうかという問 題もあるが、それぞれが別のものである確証もない現在は、従来からの考えどおり同一のものとみ るのが自然であろう。「泉寺布施屋」というところの泉寺も同じもので、これに布施屋が付随していた ものと思われる。」とする。(32)  「#」は「菩提」、「橘」は「橋」が正しいとされている。 (33) 七十見であるから、七十歳条と同根であると考えられる。暗号とすれば、「発と泉」は、泉は水が発 する場所であるから、同義である。また、「菩薩」は「橘」と解くことができる。天平十二年は、行基の 菩提を弔うための泉橘院とも解せる。そして、行年五十一歳条と同様に、隆福に院(云ぬ)である。 「七十四歳条」 表25 七十四歳条の暗号
印(誤りなど)
六月十六日左大臣右大臣十六→富む四誤→死後
皇花白玉の光イ宗、六皇極天皇
 天平十三年は、泉橋院に天皇行幸があり、為奈野に給弧独園を請い、また、和歌を交わした年 である。そこには、大事なことが記されている。 「天皇和歌云  皇花如久仁未留人ニ吾シ念部波故々仁相ヌル、但所施封戸聖人不受、仍量大蔵 省曰、遷化之後、大小寺誦経了云云、」と行基の遷化のことが書かれてあり、その後九行分空白 で、十三年記に行基の功績が続く。この「七十四歳条」は「或云此記ハ天平十一年云云」ともされる。 『行基菩薩伝』には、「但所施封戸於賢人シテ不受。仍大蔵有納置。遷化之後。大少寺誦経云云。」 とある。問題は、「遷化之後、大小寺誦経了云云」である。『続日本紀』の天平九年八月癸卯(二日) 条に、「四畿内・二監と七道の諸国の僧尼をして清浄沐浴せしむ。一月の内に二三度最勝王経を読 ましむ。また、月の六斎日に、殺生を禁断す。」とする記事がある。この二つの記事が行基に関連す るものではないだろうか。  天平八年及び九年の疫病で多くの人が亡くなったための供養と考えられるが、直接的には、八月 二日以前に亡くなった特定の人物を指した供養と思われる。「皇花」は「白玉ノ光イ」とされている。 「皇」と「玉」からは、皇極天皇(重祚して斉明天皇)に誘導されるか。 また、「白玉」の文字は、法隆寺旧蔵の仙人弾琴鏡に使われている。(34)  『行基年譜』の「同年六月十六日左大臣橘朝臣奉施食封五十戸」は、『行基菩薩伝』では、「六月 十二日左大臣橋(橘カ)朝臣」とされている。日数の差は四で、死後である。そして、六月廿六日の 天皇と大菩薩が終日讌楽し、大臣が弾琴するのは、仙人弾琴鏡の仙界ではなかったか。 「蓮葉ニ湛禮留水ノ玉ノ如比加禮留人尓安布曽古(右カ)禮志佐」の歌は、万葉集16-3837「久堅 之 雨毛落奴可 蓮葉尓 渟在水乃 玉似将看見」に似る。この歌は名前が分からないが、右兵 衛に居た人が作ったとされるが、諸兄の弟である佐為は『尊卑分脈』に右兵衛督とされる。(35) 「七十五歳条」 表26 七十五歳条の暗号
印(誤りなど)
大菩薩遊行事化なし大菩薩遊化行事
任大僧位諱行法大僧正正なし四月五日死後大僧正、諱法行
 「使秦堀河ノ君足、記録大#遊行事一巻、同四月五日、任大僧位諱行法大僧正 」と天平十四年に は、秦堀河君足の「大菩薩遊行事一巻」が記録されている。 「任大僧位」は、「正」が漏れているから、正しくない。「四月五日」は死後となる。 行基の大僧正任は死後であることが隠されていると思われる。  『行基年譜』のおける行基の事績は、天平十四年以降、寺院の建立は見られるが、『続日本紀』 にある大仏勧進はもとより新たな社会的な活動や施設が全く見られないのである。 これらのことから、どういうことが想定できるだろうか。『続日本紀』、舎利瓶記、その他行基の伝、 勿論、『行基年譜』も含め、その記述と異なるが、『行基年譜』の構造は、「天平十三年に行基の 評価がされている」ことは認められるだろう。そして、それは誰も指摘することがないが、行基の 死後の評価ではないだろうか。  『行基年譜』は、行基が天平十三年或いは天平十一年までに遷化し、その功績を天平十三年 にまとめられたが、引き続き、天平勝宝元年まで生存していたように操作してあると考えることは 如何であろうか。『続日本紀』は、天平勝宝元年の行基薨伝に、「和尚、霊異神験、類に触れて 多し」とある。この記事は、行基が「和泉国の人なり」とすることから、『続日本紀』編纂時の記載 とされている。(36)   行基の霊異神験は、霊異記に掲げるものを想定できるが、それ以外の要素として、当時の潮 流として、不老不死或いは、長寿である神仙、仙人の世界に属することが想定できる。つまり、 行基は、一般の人よりも長生きしたのである。当時の人は、六十一歳になれば、耆老として免租 される。行基の八十二歳(『舎利瓶記』『行基年譜』)は超高齢であるが、『続日本紀』は八十歳に とどめている。八十歳を超えると、長寿を祝う慶賀の行事、記事が必要になるから、そうしたのか とも憶測する。 「七十六歳条」 表27 七十六歳条の暗号
印(誤りなど)
行年六十六□歳なし実際にないか。
行基弟百也弟、何、番百→佰摂津職の長官か。
伏見翁の説話元亨釈書橘三千代
 天平十五年の記事であるが、バラ門僧正の来朝は、天平八年のことであるが、同様の記事が 天平五年にもある。いずれも五(誤)、十五(齟齬)である。行基と婆羅門僧正の二度の出会いは 「再会」を意味しよう。  「行基弟百也」の「百」は「佰」と置き換えると、「おさ、かしら」などの意味を表わすとある。(角 川新字源)  行基が治部玄番雅楽百僧等を曳き連れて、外来の客を迎える様は、摂津職の官人の役割を 果たしているように思われる。  「大和国有□(やまいだれに亜の字)人俗菅原臥云々」は、『元亨釈書』の伏見翁の説話である が、「六即ノ位ヲ経リ三覚ノ顕給ヘル…乍レ立チ三世ノ仏ニ花奉マツル。」の部分はない。  『続々郡類』の「立チレ三世」「花奉マツル」から、橘三千代を連想する。 「七十七歳条」  天平十六年、天平十七年、天平廿年(四年後)の記事が寄せ集められており、摂津国五院の 起工記事がある。構成がおかしい。 これについては、吉田靖雄が、「『年譜』によると天平十六年、行基は五院を起工している。 大福(御津)院 摂津国西城郡御津村 同 尼院     〃 御津村 難波度院    〃 津守村 枚松院    〃  津守村 作蓋部院    〃    津守村 ここでは院のみが作られており、院と関係する交通・灌漑・救恤等の施設は作られていない。 こうした関連事業は、天平十二年の泉橋院と泉寺布施屋・泉大橋の造営以後跡を絶っており、 行基の造営エネルギーの衰退を明らかに示している。行基は当時七十七歳であったから、 エネルギーの渇乏は当然のことではあるが、行基の事業は、彼一人のものではなく弟子等知 識のものであったから、彼等のエネルギーは、道場と直結した諸施設の造営にむかわず、たと えば大仏造立のような別の仕事に向けられていたのであろう。  またこれらの地域での活動は、初めて行なわれたものではない。津守村では、天平二年に 善源院と同尼院がつくられ、比売嶋と白鷺嶋の両堀川、それに度布施屋もそのころに営まれ ていた。     御津村は、津守村に近接していたと思われ、西成郡は、かつて行基が盛大な造営工事を行 ない、知識を結成した地域であるから、津守村での三院起工は容易であった筈である。右の 情況を考えれば、この五院は、建立の容易な地を選んで営まれているといえる。こうした点か らも、行基とその集団の造営エネルギーの衰退現象は明らかである。そうした衰退現象は、 律令政府が、天平十二年以後、救恤・交通・灌漑施設の工事にのり出し、行基はこのために 出番を失ったことを示しているのであろうか。(37) 」とされ、天平十二年以後、行基乃至行基 集団の造営エネルギーの衰退を指摘することは重大な視点を提供しているといえる。また、 再出記事がある。  記事中の「天平廿年」の「同廿年十一月廿六日、天皇行二幸菅原寺一、度二一百廿人一」 は、「八十一歳条」の「天平廿年戊子十一月廿六日、天皇行二幸菅原寺一、一百人得度、 菅原政(改カ)花光寺ト云額給フ」と、記事が重なっている。二つの記事の差異は、得度の人 数が、「一百廿人と一百人」と二十(二重)違うことである。「天平廿年」は、菅原改花光寺以外 にも重なったものがあることを示唆し、それは前出の佐紀堂ではないだろうか。 天平十七年の記事は、「行年七十七歳」条中の記事であり、「行年七十八歳条」が脱落して いる。そこでは、「行基大僧正任、玄肪僧正流筑志、天皇菅原寺行幸」の記事がある。行基 が大僧正となるのは、「天平十七―正月十七日」とあるが、『続日本紀』は、「天平十七年正 月二十一日」で、四日後と異なる。これもまた、死後を意味するのではないか。 後段、玄ムが「玄肪」と記され、筑紫は「筑志」とされる。玄ムは唐に留学中皇帝から紫色の 袈裟を賜ったという。『続日本紀』天平十八年十一月乙卯(二十日)条に「玄ム法師を遣して 筑紫観音寺を造らしむ。」と玄ムを九州の筑紫に左遷したことを載せる。これらはどういう意 味であろうか。肪は月の方を指す。月は月読神社の「ツク」でもあり、筑志の「筑ツク」に誘 導する。ここでは、筑志であり、筑紫とは異なり、「シ」の字が異なる。「四」「シ」が違うことは 「死」が違うことを意味するのではないか。 摂津国五院の所在は西城郡とされる。西成、西生郡が変えられているので、これも「土に成 る」つまり「死」を表わすのではないか。 「八十一歳条」                    改乎 「天皇行幸菅原、一百人得度、菅原政花光寺ト云額給フ」 「花光」は、「花見つ」にかかり、「七十四歳条」に「大#奉禮咲含悦テト云云」とある。 「政」を「まつり」と読むと、「政花」は「まつり花」となる。 大神・狭井神社の鎮花祭、率川神社の三枝祭りに用いる花は、百合の花である。笑む花もまた、百合 の花である。(38) 「五十九歳条」に、草深百合の万葉歌を紹介した。 古事記に百合の古名は、「さゐ」とする。(39) 「八十二歳条」 「阿閉天皇 日本第四八代高野天皇  孝謙天皇即位元年、天平二十一年、天平勝宝元年八月十八日改、正月十四日、於平城京中嶋宮奉請 大#、而太上天皇(聖武)、中宮、皇后并三人御出家、受#戒、成#御弟子也、太上天皇御名勝満、中宮 御名徳満、皇后御名萬福是也、即日改大僧正號大#云云、後高野姫天皇受戒為尼、法名法基、惣#戒 弟子緇素満於天下云云、…」とある。  ここに、天平宝字六年における高野姫天皇受戒の記事が見られるのは何故であろうか。 行基の諱が法行であった。(40)孝謙天皇の法名が法基であるから、二つの名前から共通の文字を消去す ると、「行基」が表われる。これは、『続日本紀』に現れる氷上志計志麻呂の名にも暗示されている。(41) 「志計志(シケシ)」、つまり、重なる「志」の文字を「志消シ」する発想を利用する。同様に、二つの類似また は対になる言葉について「重なる字消し」の作業をすると、「長岡院在菅原寺西岡」の「長岡・西岡」から、 「長ナガ」=「西」、「大庭院=行基院」から「大庭オオハ=行基」が導かれる。そうすると、この二つの言葉 の組み合わせから導き出される暗号は「名が西王=行基」と解する。 『続日本紀』の「栗林王」と「栗栖王」が同一人(42)であることも、漢字を分解して考えると、「木」が「西」に 入れ替わる。「木=西」で、「基(行基)」は「西」に通じる。栗の木が行基と親和の関係にあるのは、松尾芭 蕉『奥の細道』に行基の一生杖の詞「栗といふ文字は西の木と書きて、西方浄土に便ありと、行基菩薩の 一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。世の人の見付けぬ花や軒の栗」(43)がある。  行基の一生が栗の木に例えられ、行基の一生が西であり、また基であることを意味しよう。 ちなみに、長岡は不比等の号である。興福寺略年代記に「養老二年、不比等號長岡(44)」とあるから、 長岡院は不比等の号を付けたものであり、西岡と不比等も親和の関係にある。 年代記の分析  「年代記」の国郡村(里村)の例として、年譜七十歳条で、鶴田池院の所在は、郷名は記載されて いないが、和泉国大鳥郡凡山田村(鶴田里、山田村)とされている。「天平十三年記」の鶴田池は 所在が和泉国大鳥郡早部郷とされていることから、鶴田池と鶴田池院の所在がほぼ同じ行政管内 に位置すると想定したならば、「年代記」の鶴田池院の地名表記は和泉国大鳥郡早部郷鶴田里(凡 山田村又は山田村)と復元できるので、基本は郷里制の表記に村名が併記されているのである。 ここでは、あえて「早部郷」を隠していると指摘できるのである。「凡山田」の三文字の地名は、持統 天皇以後の二文字の好字使用の原則と異なるため、「凡」は加筆されたと想定できる。凡(オウシ)か らは、王死が読み取れるか。凡山(オオシヤマ)=鶴→かくす の関係がみられる。  『塵添□(土編に蓋の字)嚢鈔』第八には、郡名の大鳥(オオトリ)は「鳥ハ取ノ義也」とする。 和泉国日根郡に「鳥取」郷がある。同様に、「大鳥」は、「大ハ王ノ義也」「王を取るの義なり」と考え ると簡単な暗号といえる。 寺の字
大鳥神宮寺、神鳳寺、家原寺、日根善興寺、古宗元興寺、恩光寺、菅原寺、大安寺、喜光寺、大野寺、香琳寺、鋤田寺、善源寺、未定寺、東大寺、花光寺、
 行基年譜には寺と院の二つの表記がある。なぜ、二つの表記があるのか。ほとんどの場合は、 院名であるが、中には寺があり、見える寺名は、神宮寺、神鳳寺、禅興寺、恩光寺、菅原寺(喜 光寺)、大野寺、善源寺の名がある、この寺の表記は何を意味するのか。四十九院は、寺号山 号を持つ寺に変わるわけであるが、『続日本紀』宝亀四年(七七三)十一月二十日条に光仁天 皇の勅には、「大和国の菩提・登美・生馬・河内国の石凝、和泉国の高渚の五院に、各々当郡 の田三町を施入せよ。河内国の山崎院には二町。……」とあるので、少なくとも、宝亀四年の時 点では、行基の造った四十九院は、院名であったと考えられる。従って、寺名のものは、後世の 名前であるか、別に理由があって寺字が付されているものと考える。  「未定寺」がある。寺は字を換える意味か。例えば、大野寺は「王の寺」となる。 年譜に記載される寺の表記は行基の時代のものでなく、行基没後以後に、新しく再建ないし 創建された可能性がある。  神鳳寺については、森明彦氏は、「泉高父は『行基年譜』において「大鳥大神宮並神鳳寺縁起帳」 ないし、「大鳥太神宮並神鳳寺縁起帳」にその姿をとどめる原縁起から行基関連部分と西金堂部分 を抜き出し、本来直接的には結びつかない両者を、大鳥連氏の事蹟のほとんどを省略して結びつけ た。そしてその後の大鳥連氏による塔建立と定額寺となるに至るまでの経緯を省略することによって、 あたかも神鳳寺が行基の手によって建立されたかのような記事にしあげたといえよう。」(45)と指摘 している。 二 天平十三年記 「天平十三年記」の分析 「天平十三年辛已記云辛己云ハ延暦廿三年三月十九日所司記云云」とある。 表28 宗橋6所・直道1所の暗号
印(誤りなど)
延暦廿三年。延暦廿四年一(位置)違う
宗橋六所架 度六と一
所司記、始起、辛シキ・摂津摂津職
山背→山城(しろ)西成→西城(しろ)(しろ)→摂津国摂津職
長柄□中河□堀江□橋脱橋がない。
大登山直道一所(直す同一所)(しろ)→国・京大養徳恭仁京
宗橋6所  西成郡の成を城に変えて、西城郡とすることは「西シロ」である。山背国を山城国とするよう な関係を想定すると、いわゆる西城と山城(やまじろ)が一体となるのは、筑紫国鎮西の大野 城が考えられる。大宰府は、「おおきみのつかさ」であり、行基と関係するか。 橋の記載順は、木津の上流から下っていく。航路は瀬戸内海を経由して鎮西に至る。 生駒大山登道  千田稔は直道について、「和田萃氏は、淀川右岸の西北の道を東南に向かって延長して、 やがて生駒山頂の近くを通る辻子谷越のルートに連結させるものとみる。…私は直道を、 直木孝次郎氏の説にしたがうのも一法ではないかとも思う。直木説は、高瀬大橋を淀川の 左岸側にわたり、ほぼ東に向かって、いわゆる清滝街道に接続する道であるとするもので ある。この説の難点は、「自高瀬、生馬大山登道」をどのように理解するかということが不明 である点である。しかし古代において、例えば金峯山という吉野の山の名称は一つの頂の 山に対するものではなくて、連峰あるいは山並みを称するので、「生馬大山」という呼び方も 生駒の連峰と解するならば、高瀬から東に向かう清滝街道に結ばれる道として直道を理解 してもよいのではないかと考える。(46)」とする。    この「自高瀬、生馬大山登道」の解釈は、現在の道路名が、例えば、「枚方亀岡線」「大阪 高槻京都線」と、道の起点−終点或いは、起点−経由地−終点を結ぶように、「自高瀬-生 馬-大山登(大養徳)・道」と考える。これは、直木説の清滝街道をさらに東進して、木津に至 り、木津川の左岸(南側)を大養徳恭仁京まで結んだのであろう。仁和寺蔵の行基図がある。 これは、山城国と大和国にかけて四角の枠があり、「○城」と読解されている。(47)  つまり、「○城」は「王城」と読めば、この四角は、大養徳恭仁京の王城であり、行基の生駒 大山登道は、ここに通じていたのだろう。行基の偉大さがさらに顕著となる。  宗橋6所と直道1所の組み合わせは、別に論じた『行基年譜』の地名表記の6郷1村と同 じである。(48)  各地の墓地入り口近くにある六地蔵一尊仏に比すれば、直道は一尊仏にあたることとなるか。 池15所 表29 池15所の暗号の鍵
印(誤りなど)
狭山池 在河内国北郡狭山里北→丹比
鶴田池 在同郡早部郷鶴部
久米多池 在泉南郡丹比郡里久米多丹比部里
崑陽上池 同下池、院前池、中布施尾池 長江池 己上並五所、河邉郡山本里
有部池 在豊嶋郡箕丘里部=マ、有馬生駒伊丹の「有岡」、 美努岡万墓誌
 鶴田池以外の所在地は、○○里である。「里」一字の二重読みは、「さとり」となる。 「里」は、誤りの印が付けてあるのではないか。  有部池は、「有」へ行けと誘導する。有馬には、行基伝承が多くある。箕丘里は、箕面の誤りで あろうとされている。(49) 一つは、「有おか」で、伊丹の「有岡」が考えられる。有岡の北端には砦が構築されて、猪名野 神社がある。もう一つは、箕丘について関連付けると、美努岡万墓誌がある。(50) 溝七所  「溝七所」は、六所の名前しか記載されないという誰にも分かる誤りの「七」が使われている。 「溝七所」は、見ぞ名・見ぞ謎か。 表30 溝七所の暗号
印(誤りなど)
溝七所見ぞ六所しかない。一の差異、ろくでない。
崑陽上□溝同下池溝上池がない。
長江池溝名替え成→城キにする。キ→紀「狂心の渠」
物部田池溝池尻申候見ぞ
□泉国泉南郡和がない
久米多池溝廣□五尺 在同国深なし和・大養徳がない
 「崑陽上□溝」 は、「同下池溝」と比べて、「池」の字がない。つまり、上池がないことを示して いる。「長江池溝」は、所在地が「摂津国西成郡」となっているが、「長江池」は、「河邉郡山本 里」とあるので、同じ池名の溝の所在地は誤りである。意味は、「名替え」か。  ろくでもない狂心の渠(たぶれこころのみぞ)を造った斉明天皇紀に導かれるか。  「長江池溝」のように場所を替える例があるから、「天平十三年記」といえども、他の施設も 全面的に信頼できないものと思われる。 樋三所  行年卅七歳条では、「…築池掘河、宗橋伏通樋、掘溝云云」とされ、三字の「伏通樋」が目立つ 表記となっている。昆陽寺鐘銘では、「漑樋」とある。  ここでは、河内国茨田郡の三箇所のみが記載される。 「樋三」は、「ひみつ」に通じる。「樋」は、それぞれ、「堤樋」とあるから、堤防に設ける「樋門」で あろう。(51) すると、「門」が隠されているといえる。「三門」→「山門」→「仁王門」と連想する。  『伊丹の伝説』に「行基さんと満仲さんの争い(52)」があり、時代の違う二人が争い、行基が 勝って、満仲さんが負けた。それで多田の門には仁王をたてられないとする。 「仁王」から「二王」を連想すると、二人の争いの意味は「二王並び立たず」か。  「門」には一族の意味がある。『新撰姓氏録』の未定雑姓、左京の項に「茨田真人 渟中倉 太珠敷天皇、謚敏達孫大俣王之後也」とある。大俣王は、橘諸兄の曾祖父にあたる。「樋門」 から、「キが通る門」つまり、行基に連なる家系を示すのではないか。 舩息二所 表31 舩息二所の暗号
印(誤りなど)
大輪田舩息宇治□郷(ゴウ)→五有五箇所あるのにない
神前舩息近木・郷内申候近義、郷内→五内(無い)近義=王(朝鮮語)、五泊でない
注)吉川弘文館『行基 鑑真』などにより、作成する。  郷の有無によって、五泊を決めたが、すこし苦しい解き方である。後述するように、舩息二所 は三善清行の摂播五泊と異なる作為された数と思われる。  神前舩息については、泉高父宿彌が追記するから、不審である。 堀四所  川がない。(三、センがない。) 布施屋九所  布施屋の暗号は、表29に見る通り、元々、「フセ」という言葉を含んでいる。 「天平十三年記」54行目の「己上不記年号、所在摂津国、仍不審多、或遊行時、或寺院之次、随 便云々」について、『門真市史』は、「54行目の注釈がどういう意味を持つかということである。前掲 の全文が「天平十三年記」なのか、54行目より前がそれなのかということである。…「天平十三年 記」は、延暦二三年三月一九日の菅原寺の公文書に引用されたものであることを、しめしていると いう。大勢としては上の見解は支持できる。しかし、上の見解は、いま問題としている54行目の記 載に注意していない。54行目の記載は、全文の末尾、つまり68行目の後にあれば、全文を「天平 十三年記」とみてもよい。そうなっていないことは逆に、「天平十三年記」が53行目までであり、55 行目から68行目まで[布施屋九所以下14行:筆者]は別の史料すなわち延暦二三年の菅原寺の 公文書によったものであることを、推定させる。史料的には布施屋の設置は、「天平十三年記」に はなかったことになる。これは一見どうでもいいような問題にみえるが、行基の社会事業の性格を 考えるさいには、重大な影響がある。(53)」とするように、布施屋の記載が別史料とする指摘がある。 また、布施屋と寺院は時代が違うが同じ機能を果たしたことが指摘されている。(54)  布施屋が寺院に発展したものと考えてもいい。『行基菩薩伝』には、行基の社会施設の例が記 されているが、布施屋に限っては、「処」のところが古い字体の「處」の文字が使われてあり、他の 施設と区別されている。これは、虎と処に分かれる。虎コは古に通じる意味をもたせている。「九 所」は、旧所に通じる。つまり、布施屋は「天平十三年記」より古い時代の史料であることを示す のではないか。布施屋九所の内、「見三所、破損六所」とされているが、分かちがたいところが ある。その区分は、暗号として見ると、九所の内、破損六所は表現が欠けている泉寺、崑陽(欠 けは見えないが、嶋陽施院があり、山が横に崩れているか)、垂水、度、石原、野中の六所であ り、「見三所」の表現の「見(み)」は「三」に通じることを意味し、その見るべき三所は、大江、楠 葉、大鳥の布施屋であろうか。この三所は、大(大江、大鳥)へ導き、キ(行基)の名(木・南)、オ オトリ(王取り)という意味を隠しているのではないか。 表32 布施屋の暗号
大江布施屋在乙訓郡大江里江→ヘ大→王
泉□寺布施屋□→橋泉橘寺橋=橘
崑陽布施屋山鳥の碑魚子
垂氷布施屋志貴皇子の御歌垂水の上のさ蕨さ=小
度布施屋西城□津守里郡なし西しろ
楠葉布施屋在交野郡楠葉里一条内王餘魚河
石原布施屋丹北郡在原里いさ
大鳥布施屋在大鳥郡大鳥里鳥→トリ
野中布施□□→屋屋→ヤ→八(ない)捌けてない、八がない
 天平十三年記の垂氷布施屋の水が氷になっているのは、水の上に点が乗っているのである。 点とは何か。  『万葉集』巻八、「春の雑歌」の冒頭に収められた志貴皇子の「懽びの御歌」に、 「石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出つる春になりにけるかも(一四一八番)」がある。 別に「石ばしる垂水の岡のさ蕨の」の歌がある。上と丘が異なることに注目する。ここに、「垂水 の上のさ蕨」があり、「水の上の蕨」には「さ」の字が乗っている。つまり、点とは「さ」の字を伏せ ていると思われるのである。この「さ」の字は「小」に通じる。『続日本紀』天平神護元年正月己 亥条等に、「小垂水女王」の名が見えることも以上のことを裏付けると思われる。 垂水神社の上(北東2.4キロ)には、佐井寺がある。ここも行基伝承のある寺院である。 「野中布施□」は、□→屋がないのは、大野寺土塔に関するものだろうか。  「天平十三年記」は、延暦廿三年三月十九日所司記は、跋文には、延暦廿四年三月十九日とある。 一(年)違うのである。位置が違うことを指す暗号ではないか。これは、「天平十三年記」の施設の配置 が、他の行基伝と異なることを示すのではないか。数字の配列が意味をもつのである。三月十九日は、 三(差) 十九(解く)と解すると差一(サイ)なのである。D[土編に果の字]二十所はDを二重読みにする と、ハカとなる。池十五所は十五(ソゴ→齟齬)へイケ(行け)という意味になる。 表33 施設の数と順序
鐘銘行状記年譜菩薩伝竹林寺略録名匠略伝昆陽寺縁起
(所) 僧尼院 イ 49 布施屋 ロ  9 船 息 ハ 2 橋 梁 ニ    6 堀 河 ホ   4 漑 樋 ヘ   3 池   ト 14 ■   チ 20 溝 流 リ  7 大井垣 ヌ  1 (直所) ル イ  49 (僧)34 (尼)15 ロ   9 ホ   2 ハ   6 チ   4 ニ   3 ヘ 15 (12)  堤  (20) ト  7 (7) ヌ 大井垣(1) リ  直道 1 チ  9 ヘ  2 イ  6 ネ  4 ホ  3 ハ 15   ニ  7 ロ  1 イ  49  (僧)34 (尼)15 ニ   9 ホ   2 ロ   6 チ   4 ハ   3 ヘ  15 ト   7 ヌ 大井橋 1 リ   1 イ  49  (僧)24 (尼)15 ニ   9 ホ   2 ロ   6 チ   4 ハ   3 ヘ  15   ト   7 ヌ 大井堰 1 リ   1 イ  49 ニ   9 ホ   2 ロ   6 チ   4 ハ   3 ヘ  15   ト   7 ヌ   1 リ   1 ロ    4 ハ    3 イ   12 ホ 堤塘 20 ニ    7
礼拝石  1礼拝石 (1)
注)イロハは順序を示し、( )内は行状記の別所の記載を示す。数字は頭書の箇所数を示す。   平野博之「昆陽寺鐘銘について」『日本歴史』126号、昭和33年に加筆した。  『昆陽寺鐘銘』を基準にすると、『行基菩薩行状記』『行基菩薩伝』『竹林寺略録』などが順序は 少し違うが全体的に似通っている。『昆陽寺鐘銘』の池14箇所については、拙論(55)で1箇所 少ない理由は述べた。そして、この表32を見る限り、『行基年譜』が単純化されていることが分 かる。 「天平十三年記」の施設を再度順序通り並べると、 宗 橋  6所 直 道  1所 池   15所 溝    7所 樋    3所 舩 息  2所 堀    4所 布施屋  9所 となる。表32でも分かることだが、ここには、1から10までの数字が並んでいるが、「8」の 数字だけが見えない。これは偶然とは考えられず、施設数は作為されたことがわかる。 溝7所は、実際には六か所しかないのに、7所としている。 船息は、三善清行の『意見封事十二箇条』摂播5泊があるに拘わらず、「2」であれば、 足りるのである。それでは「8」の数字だけが見えないことをどう考えるか。 表34 行基に関する「8」の数字
史料内容備考
続日本紀八十歳行基墓誌八十二歳
東大寺要録文殊八不の勧進
舎利瓶記蜂田(八田)氏、八十二歳、二月八日火葬
遺骨出現記八角形の墓
行基年譜池「己上八所在和泉国」
菩薩伝淡路朝廷八年戊辰歳托生
行基菩薩縁起図絵詞白鳳八年生
神皇正統録上851八代之御代ヲ経タリ云々
 「八所」がないことは、「八十」がないことになり、行基の関連で考えるならば、『続日本紀』の 行基の没年齢が「八十でない」、或は、「八十以上でない」ことを示すか。『続日本紀』には、行 基の「八十歳」の長寿を祝う栄典授与の記事がない。『行基年譜』には「八十歳条」がない。  その他、八角形の墓がない、「蜂(八)」なら「蜂田(八田)氏」でないことが意味されるか。 また、「八所」は、「八洲」に結びつけるならば、「大八洲国所知」ところの「ヤマト国」がないこと に繋がり、「天平十三年記」に「ヤマト国」の社会施設がないこと(56)、つまり、隠されていること を示している。『昆陽寺鐘銘』には、「…(ヌ)大井垣一所(ル)直所欲令蒼生…(57)」と「直道一所」 が「直所」とされ、「道一」が省かれている。この隠された「直道一所」の「大山登道」は「大養徳 恭仁京への道」であることが、行基に繋がる謎の言葉らしいと考える。  「八」は「捌」とも書く。「八」がないことは、捌けない=続けることを意味するのではないか。 しかし、よく見ると、「八所」は、土室池から物部田池まで、「己上八所在和泉国」と出てくるから、 行基と和泉国の結び付きが強く意識させられる。 このうち、久米多池と物部田池は、溝にも同じ名前が出てくるが、配列が異なる。再度、池十五 所は十五(ソゴ→齟齬)へイケ(行け)という意味と考える。 表35 和泉国の池の暗号
印(誤りなど)
長江池 己上並五所五→語並ぶ語
鶴田池 在同郡早部郷早→上へ鶴・部連(つる)べ
「並ぶ語」と「連べ」の語句から、『行基年譜』の池十五所の頭文字を拾うと、表32 のとおりとなる。 表35 頭文字の暗号
アリ
 「鯨は名[勇魚は]古碑、斎く(傅く)も古名有り」と読めば、「四十九歳条」の「衣通姫」の碑と、 「斎く古名」は斎王・斉明天皇に、傅くとすれば東宮傅などにも誘導される。 或いは、「斎く物(喪)粉(舎利) 有り」となるか。  現在、一般的には使われないが、「斎く母古名」とすれば、「西王母」が導かれるか。斉明 天皇にも該当する。  もう一つ、「天平十三年記」の施設数を並べると「六一十五七三二四九」になる。  言葉に置き換えると、「ムイソゴナミニシク」 「無為祖語並みに死苦」を充てる。 祖師の語では、何もしないのは、普通に死に苦しむだけだ。 結びに  『行基年譜』が暗号性を持つとの仮説は、『行基年譜』に単なる誤りでない、明確な意図が感じ取 られる誤りが多いことから論じたものである。誤りを目立たさせることによって、隠されたことを暗示さ せる遊びの要素があると思われる。  『行基年譜』の暗号を解読するといっても、全ての項目にわたって、探索することは出来ないうえ、 それに分からない部分が圧倒的に多いのである。  本当に暗号となっているのかがそもそも難しい課題の設定である。偶然にできた文の中に暗号 があると思っているだけのことかもしれない。 これまでの作業を続けるなかで、「これは暗号であろう」と、明確な誤りの中に暗号らしき部分が 垣間見られたが、個人の主観をもとに解をこじつけた部分が多いから、解いたと結論付けても、 それが正しい答えだとは言えない性質のものである。言葉遊びに尽きる。 その中で、「四十九歳条」「五十一歳条」「五十八歳条」「天平十三年記」は、比較的わかりやすく 解読できた例があるので、『行基年譜』に暗号性があることは説明できたと考える。 ただ、言えることは、行基に関しては、『日本霊異記』の「隠身の聖」、『続日本紀』に「霊異神験類 に触れて多し」とされるように尋常ではない隠されたものが存在すると考える。  行基の出自、本貫だけでなく、それ以上に、和泉は、行基と切り離せない関係にあるようだ。 行基の出生地が時代的には本来河内国であるにもかかわらず、和泉大鳥郡とされること、「四十 九歳条」から「和泉監・衣通姫」の詞に導かれ、田辺福麻呂の歌が万葉集6-1062にあるように 「いさなとり」に行き着く。それは難波にも関係するのである。  「天平十三年記」の直道、生駒大山登道は、清滝街道に結ばれる道で大養徳恭仁京に通じる道と 解いた。そして、大養徳恭仁京は泉大橋、泉橋院に近く、行基と結びつく関係があるらしい。  行基に最も近しい人物は、橘諸兄であろう。そして、二重の記が多いことがことから、佐紀堂と 菅原寺が重なり、行基が寂した菅原寺の宇賀神と不比等が親和の関係にあり(58)、寺史乙麿 なる人物は不比等と重なるとしたことは、安易な暗号の解き方とも思われるが、現時点での結 論である。行基は、『菩薩伝』によれば高志史羊の子である。「史羊」は詳しく言えば「不比等」 ともなる暗号か。  『続日本紀』において霊異・不思議を見せる斉明天皇は越(高志)天皇とされる(59)。 笑みする行基の謎、行基伝承から抽出される、サイと王に関わる様々な言葉がある。  最大の疑問は、『続日本紀』にあるとおり「霊異神験類に触れて多し」である。 行基は和泉に関わる。『続日本紀』行基薨伝に「器に随ひて誘導し咸善に趣(おもぶ)かしむ」 とある。器に随うものは「水」である。「水」は「見ず」に通ず。 行基は本当に存在したのであろうかと考えるのである。 註 (1)『行基年譜』のテキストは、『続々群書類従』及び『行基事典』(井上薫編、国書刊行会、1997年、252-275頁。)に依った。 (2) 理鏡は、遣唐留学僧であり、『南天竺波羅門僧正碑並序』に見られる実在の人物であるが、利鏡師の存在は不明である。 (3)新川登亀男HP『行基集団にみる東アジアの宗教展開』 (4)大鳥神宮寺並神鳳寺縁起帳による。森明彦「年譜に関する二つの問題」『有坂隆道先生古稀記念日本文化史論集』1991年、  同朋舎出版、138頁。 (5)喪葬令義解に「帝王墳、如山、如陵、故謂山陵」とあり、山陵が山とされる。 (6)慶雲4年(707)威奈真人大村の骨臓器は明和年間(1764-1770)に発掘された。(『特別展 発掘された古代の在銘遺宝』  奈良国立博物館、1989年、82頁。) (7) 枚方院が正しいとされている。『行基事典』263頁注53。  「枚」が「救」に改ざんされたと想像し、その時期が後世の江戸時代にまで繰り下がるものとするならば、「枚方」と「救」が  結びつくのは、「救民の企」である。天保八年(1837)に貧民救済のため、幕臣である大坂町奉行所の与力大塩平八郎が  乱を起こした関係の事件である。ここに、「救」の一字から大塩平八郎(中斎)が関係すると考えるのは読みすぎであろうか。 (8) 井上薫編『行基事典』国書刊行会、1997年、171頁。/217頁注19。 (9) 「安居」僧が一定期間外出しないで、一室にこもって修行すること。[広辞苑]   「諸国夏安居」は、天武の時代に始まるとされるが、「毎年4月15日から7月15日まで寺院にとどまって勉学・修行に励む   行事である」が、天平20年8月に、聖武天皇により発願された。(吉川真司『聖武天皇と仏都平城京』講談社、2011年、198頁。) (10) 千田稔『天平の僧行基』中公新書、1994年、31頁。 (11)『万葉集一』3-452、岩波書店、古典文学大系1、1999年、452頁。 (12)『東大寺要録』第二、天地院法蓮寺『続々群書類従』第11、宗教部1、39頁。 (13)泉森皎「考古学的に見た四十九院」『探訪古代の道3』法蔵館、1988年、183頁。 (14)吉田靖男は、恩光寺を生駒院に比定する。(『行基』ミネルヴァ書房、2013年、48頁) (15)孝恩寺「行基ゆかりの寺々を訪ねて」『大法輪』第65巻第11号、平成10年。 (16)衣通姫の碑は、岸和田藩士某の建立『摂津市史P42』とされているが、元歌は『日本書紀』にある。允恭天皇11年3月4日  条「茅渟宮に幸す。衣通郎姫、歌して曰はく   とこしへに 君も会へやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時々を  時に天皇、衣通郎姫に謂りて曰はく、「この歌、他人にな聆かせそ。皇后、聞きたまはば必ず大きに恨みたまはむ」とのたまふ。  故、時人、浜藻を号けて、奈能利曾毛ナノリソモと謂へり。」(『日本書紀』岩波文庫、1994年、326頁。)  「ナノリソの意味は、勿(ナ)告(ノリ)ソで、人に告げるなの意。」(同年327頁。)とあり、この歌は人に聞かせてはいけないのである。 (17)「いさなとり」は「海」「浜」「灘(名だ)」にかかる枕詞。[広辞苑] (18) 『万葉集二』6-1062、岩波書店、古典文学大系2、2000年、95頁。 (19)根本誠二『行基伝承を歩く』岩田書店、2005年、54頁。 (20)吉田靖男『行基と律令国家』吉川弘文館、1986年、269頁。 (21) 黛弘道『律令国家成立史の研究』吉川弘文館、1982年、234頁。 (22) 「…「年代記」行年五八歳条の久修園院の地名表記は「河内国交野郡一条内」となっているが、この一条内とは北から南へ   数える交野郡条里の数詞条名とみるべきであり…」森明彦「年譜に関する二つの問題」『有坂隆道先生古稀記念日本文化史   論集』1991年、同朋舎出版、144-146頁。 (23) 白川静『新訂字統普及版』平凡社、2007年、473頁。 (24) 山上加礼川/西加礼川(石清水文書之六「善法寺尚清処分状写」『枚方市史』第六巻、1968年、167頁。) (25)『枚方市史』第二巻、1972年、213頁。 「王餘魚河」は、久修園院の南、最も近い旧天満川に比定する。 久修園院のある「天部ノ郷」(「長谷寺霊験記・下」『続群書類従』巻799、228頁)は、「天マ郷」→「天満郷」の変化が考えられる。 (26) 井上薫編『行基事典』国書刊行会、1997年、171頁。 (27) 岸俊男「嶋雑考」『橿原考古学研究所論集』第5号、253-296頁。(『日本古代文明の研究』塙書房、1979年、初出) (28) 昆陽寺境内の山鳥の歌碑は「ほろほろと鳴く山鳥の聲聞けば父かとぞ思う母かとぞ思う」。 『行基菩薩縁起図絵詞』に「ほろほろと鳴くきしを父かとぞ思う母かとぞ思う」の歌があるから、山鳥の歌に変えられている。 (29)『昆陽組邑鑑』伊丹市立博物館、1997年、46頁。 (30)『続日本紀4』巻第32、岩波書店、1995年、415頁。 (31)吉川真司「行基寺院菩提院とその寺田」『日本古代社会の史的展開』薗田香融編、塙書房、1999年。 (32)八田達夫『霊験寺院と神仏習合』岩田書店、2003年、101頁。 (33) 井上薫編『行基事典』国書刊行会、平成9年、264頁、注58。 (34)森本六爾『日本の古墳墓』木耳社、1987年、562頁。 (35)『続日本紀』の橘佐為の卒時は「右兵衛督」(続日本紀)となっているが、「本朝皇胤紹運録:群書類従巻60・尊卑分脈第四編:   国史大系60」では、「左兵衛督侍従 中宮大夫正四上」とあり、「右兵衛督」は古い時代の表記と思われる。 (36)『続日本紀』第三巻、岩波書店、1992年、61頁、注14。 (37) 吉田靖男『行基と律令国家』吉川弘文館、1986年、247-248頁。 (38)上野誠「百合の花」『やまとびと』41号、2009年、18頁。 (39)『古事記 』岩波文庫、1963年、89頁。   「山由理草の本の名は左韋と云ひき」(中巻、神武天皇 2皇后選定) (40)『行基年譜』に「行法」とあるが、太政官符には「法行」(『国史大系類聚三代格巻三』吉川弘文館、1983年、123頁。)とする。 (41) 氷上志計志麻呂は天武天皇の曾孫で、塩焼王の子であり、皇位を巡る政争の中で、死罪を免れたから、「死けし麻呂」と   されたのであろうか。母の不破内親王は「厨真人厨女」とされた。 (42)栗栖王、長親王の子、栗林王とも。『続日本紀』第2巻、岩波書店、1990年、127頁注19。  木津市上狛町栗林地蔵寺に行基供養塔がある。(根本誠二『行基伝承を歩く』岩田書店、142頁。) (43)松尾芭蕉『奥の細道』(岩波文庫) (44)「興福寺略年代記」『続群書類従』29下雑部、巻857、116頁。 (45)森明彦「年譜に関する二つの問題」『有坂隆道先生古稀記念日本文化史論集』1991年、同朋舎出版、141頁。 (46)千田稔『天平の僧 行基』中公新書1178,中央公論社,1994年、121-122頁。 井上薫編『行基事典』国書刊行会、平成9年、171頁。行基事典264頁、注58。 (47)千田稔「「行基図」再考」『地図と歴史空間』大明堂,平成12年、180頁。 (48)「天平十三年記」の地名表記が、郷里制のもとであるが、「天平十三年記」には合計31箇所の地名表記があり、うち24例が   国郡里、6例が国郡郷、残り1例が国郡村の表記を行う。24の里以外に、山崎、土師、深井、和田、蜂田、早部の6郷と津守   村が1村ある。 (筆者『行基年譜』の地名表記について、) (49)『行基事典』267頁、注69。 (50) 『特別展 発掘された古代の在銘遺宝』奈良国立博物館、1989年、91頁。 (51) 「茨田の堤は…淀川のコミ(?)を防ぐ、つまり、微量の海水の混じった河川水が逆流してきて農耕地へ混入するを防ぐための   役割を考えたことがある。」(森浩一『古代探求』中央公論社、1998年、423頁)、また、「茨田堤推定地に近い守口市大庭北   遺跡では…淀川に向かう排水用の大溝が見つかっている…茨田の堤を河川増水に伴う溢水対策の築堤」(小山田宏一   「亀井遺跡の堤と古代の治水対策」『古代探求』)との役割が指摘されている。堤樋は、このような排水と防潮のための樋門と   いえよう。 (52)『伊丹の伝説』伊丹市民俗資料第4集、伊丹市教育委員会、昭和52年、22頁。 (53)門真市史419−420頁。  (54)「布施屋の所在地と昆陽施院の場所とが異なるのであるが、おそらく同一の施設と思われ、…」とする(千田稔『天平の僧   行基』中公新書125頁)。 (55) 「行基の伊丹における活動を巡っての一考察」『ひょうご考古』第12号、兵庫考古研究会、2015年、29-52頁。 (56)「天平十三年記」に掲げる社会施設が和泉・河内・山城・摂津の平野部に分布して、大和にはひとつとしてないことに留意   したい。(中井真孝『日本古代の仏教と民衆』1973年、138頁。) (57)木崎愛吉「摂津昆陽寺鐘銘」『大日本金石史』第1巻、歴史図書社、1972年、134頁。/ 平野博之「昆陽寺鐘銘について」『日本歴史』126号、1958年、90頁。 (58)京都市上京区の上善寺所蔵の「宇賀弁才天十五童子像」に不比等父の鎌足の肖像がある。(黒田智『藤原鎌足時空を   かける』吉川弘文館、2011年、27頁。) (59)「延暦二十二年(803)の四天王寺資材帳の逸文とされる「大同縁起」によれば、 大四天王四口、右奉為越天皇敬造請座     というように、「越天皇」すなわち斉明天皇のために四天王像が請座された旨が確認される。」(藤井由紀子「救世観音の    成立について」『日本古代の祭祀と仏教』佐伯有清先生古稀記念会編(代表:丸妻健治)吉川弘文館、1995年、447頁。)
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]

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