行基と難波・摂津職

目次 1 行基の難波での活動(1)『行基年譜』(2)難波と行基の係わり(3)行基の活動 2 婆羅門僧正菩提遷那の来朝(1)菩提遷那の史料(2)混乱した史料(3)見えない人物 3 摂津大夫の空白 (1)歴代の摂津大夫(2)二つの空白の想定(3)摂津大夫の検索(4)摂津職官人の資質 (5)空白の摂津大夫の推定 4 摂津職の考察 (1)摂津職の職務(2)外国使節の接遇・歓迎行事の実際(3)摂津職の代行 (4)文殊の化身の説話 5 行基官人説   はじめに 『行基年譜』には、行基が難波に多くの寺院等や橋、道路を造ることが記される。  『霊異記』や『今昔物語集』を見ても、行基が難波の橋や津、道の整備を行うなど、行基と難 波と関係が深いことが分かる。  天平八年、婆羅門僧正菩提遷那が来朝した。行基が難波の津に菩提遷那を迎える。 その当時、摂津国の行政組織は、他の国とは別の特別な組織である摂津識(1)が置かれ、その 長官は摂津大夫であるが、後に僧正となって、聖武天皇から東大寺の大仏開眼の講師を依頼 される重要な人物である菩提遷都が来朝した時の摂津識大夫が不明である。   しからば、『続日本紀』には見えず、歴史の上からは明らかにされていない菩提遷那来朝時の 摂津大夫は誰であったのか、また、行基と摂津職の関係を考察する。 1 行基の難波での活動 (1)『行基年譜』  行基による難波での寺院建立や社会事業を拾いあげると、表1のとおりとなる。 表1 『行基年譜』
区分行年内容
年代記六十三歳 (天平二年)善源院 口堀三月十一日起 尼院 己上二院、在摂津国西城郡津守村
六十六歳 (天平五年)七月三日婆羅門僧正来朝、善源寺(六十三歳条・善源院と同一か)で迎える。
六十七歳 (天平六年)沙田院 不知在所、摂津国住吉云云     私、住吉ノ社大海神ノ北ニ南向ノ小寺云云 呉坂院 在摂津国住吉郡御津
七十六歳 (天平十五年)七月三日婆羅門僧正来朝、難波津で迎える。
七十七歳 (天平十六年)大福院 御津、二月八日起 尼院 己上、在摂国西城郡御津村 難波度院 枚松院 作蓋部院 己上三寺、摂津国西城郡津守村
天平十三年記七十四歳橋「長柄大橋、中河大橋、堀江大橋」溝「長江池溝」堀「比売嶋堀川、白鷺嶋堀川」布施屋「度布施屋」
 「年代記」は、六十三歳条天平二年に善源院及び尼院の二院、六十七歳条天平六年に沙田院、呉 坂院の二院が造られ、十年後の七十七歳条天平十六年に大福院・同尼院・難波度院・枚松院・作 蓋部院の五院が造られている。(2)  『行基年譜』の四十九院のうち、難波は九院を占め、西城郡は七院、住吉郡は二院であり、僧 院は七院、尼院は二院である。(3)  特に、七十七歳天平十六年の五院建立の事業は、天平十三年以降においても、建設年次が不 明である河内国交野郡楠葉郷の報恩院及び倭国菅原の長岡院を除いても稀に行われた五院建立 の事業が難波の地に集中していることが注目される。  「天平十三年記」による難波の施設は七箇所である。 橋「長柄大橋、中河大橋、堀江大橋」溝「長江池溝」堀「比売嶋堀川、白鷺嶋堀川」布施屋「度 布施屋」の七つの施設である。 図1 『行基年譜』の構造 『行基年譜』の分析  『行基年譜』では、行基の難波における院建立の事業が図1のとおり三つの時期にわかれる。 行基行年六十三歳天平二年、六十七歳天平六年及び七十七歳天平十六年であるが、天平六年から 天平十六年まで十年間の休止期間がある。  婆羅門僧正など三僧の来朝が、実際は天平八年の出来事であるが、天平五年と天平十五年の二つ の記事に分かれ、二重に記載されている。(4)  また、婆羅門僧正などの来朝が、「七月三日」とされている。(5) 「七月三日」は、改変されたものであろう。(6)  天平十三年記は、難波の施設を七箇所とするが、そのうち「長江池溝」は、摂津国河辺郡の「長 江池」に関連する溝が紛れ込んでいる。  『行基年譜』は、時間軸や所在地の位置を操作していることが分かる。 長江池溝は、摂津国川辺郡山本里の長江池と一体のもので、本来、西城郡に所在するものでない が、ここでは七を構成する部分になっており、長江はナガエ(名替え)であり、長の地名に長柄が見え る。また、長へ誘導するなら、摂津職の長である摂津太夫などを指すかとも思われる。  『続日本紀』には、摂津職の長である摂津大夫の一部は確認できる。 施設、名称の重なりは二つあると思われる。 A度布施屋(津守里)→難波度院(津守村) (7) B善源院(津守村)→善源寺の流れか。 「善源寺」は、菩提菩提を迎えた寺(施設)として注目される。 (2)難波と行基の係わり 表2 行基と難波
史料巻番号項目難波の表記
日本霊異記中7智者、変化の聖人を誹り羨みて、閻羅の闕に至り、地獄の苦を受くる縁時に行基菩薩難波に有して椅を渡し江を堀り船津を造らしめたまふ。
中8蟹と蝦との命を贖ひて放生し、現報を得る縁置染臣鯛女は行基大徳に供侍へたてまつりき。 画問邇麻呂(また尽問邇麻呂)難波に往きて偶に此の蟹を得たり。
中30行基大徳、子を携ふる女人に過去の怨を視て、淵に投げしめ、異しき表を示す縁行基大徳難波の江を堀開かしめて船津を造り、法を説き人を化へたまふ。
今昔物語集11-2智光行基其ノ程、摂津国ノ難波ノ江ノ橋ヲ造リ、江ヲ堀テ船津ヲ造リ給フ所ニ至ル。
11-7婆羅門僧正講師迎ヘムガ為ニ、天皇ニ奏シテ、百ノ僧ヲ曳具シテ、行基ハ第百ニ立テ、治部玄番ヲ市シ、音楽ヲ調ヘテ、摂津ノ国ノ難波ノ津ニ行キヌ。
17-37河内国若江郡川派郷の女人行基大徳難波ノ江ヲ堀開カシメテ船津ヲ造リ、法ヲ説キ人ヲ化ヘタマフニ…。
元亨釈書天平十七年為行基大僧正、其時在摂津造難波橋
三宝絵行基菩薩ノ難波ニヲワシマシテ橋ツクリ、江ヲ堀リ、船ヲワタシ、木ヲウヘ給所ニ…
新古今集20難波のみつの寺にて芦の葉のそよぐを聞きて、行基菩薩芦そよぐ塩瀬の浪のいつまでかうき世のなかにうかび渡らむ
(3)行基の活動  『日本霊異記』や『今昔物語集』などによると、行基は、難波と関係が深い。 ここでは、行基は難波江を掘り、橋や船津を造り、植栽など道の整備を行っているのである。 2 婆羅門僧正菩提遷那の来朝 (1)菩提遷那の史料  行基は、菩提遷那の接遇を行う。 表3  婆羅門僧正の来朝
史料内容
行基年譜 行年66歳条同 年(天平五年)七月三日、乗レ船下着二善源寺一。於寺内以二千余造花一庄厳、以二二十余造花一浮二於河水一、迎二送於出居一、俄尓之間、三人僧乗レ船到来。一人バラ門僧中天竺カヒラエ国バラ門菩薩也、一人林邑僧北天竺ノ林邑国ノ佛哲也、一人大唐僧云云
行基年譜 行年76歳条摂津国難波迎大師一云、何給云、家申二請百僧一、曳将僧次行基弟百也、治部玄番雅楽等加天舩乗、音楽調行、難波津至見無レ人、行基閼伽一具備テ迎遣、花盛香焼、湖上浮、無二乱事一遥西海行、漸有二小舩一、乗二ハラ門僧正菩提云人一来、閼伽又此小舩浮、无乱返来、ハラ門信稽二首行基一云、…則二設无数供具一、以盡二主客之礼一、…
明匠略伝天平八年七月三日。乗レ船下云二善源寺一。於二寺内一荘厳余。蓮華ヲ浮二於河水一。迎道出居。有レ待・之気色也。俄爾之間。二僧乗レ船来。一人婆羅門。一人林邑僧。時婆羅門僧稽二首大菩薩一云。…
南天竺婆羅門僧正碑并序「…以二天平八年五月十八日一。得レ到二筑紫大宰府一。…同年八月八日到二於摂津国治下一。前僧正大徳行基。智煥二心燈一。定凝二意水一。扇二英風於忍土一。演二妙化於季運一。聞二僧正来儀一嘆二未曾有一。…行基又率二京畿緇素両衆五十余種一前後合三度。」
今昔物語集 11-7講師迎ヘムガ為ニ、天皇ニ奏シテ、百ノ僧ヲ曳具シテ、行基ハ第百ニ立テ、治部玄番ヲ市シ、音楽ヲ調ヘテ、摂津ノ国ノ難波ノ津ニ行キヌ。
七大寺年表 天平8年南天竺婆羅門僧正菩提。瞻婆國佛哲。大唐傅道?等苦来朝。或記云。天皇造東大寺了。命菩薩曰。欲供養此寺以菩薩偽講師。奏曰。行基不堪爲大會講師。從異國一聖者可來及于會期。 奏曰。異國聖者今日可相迎之。即有勅。菩薩率九十九僧及治部玄蕃雅樂三司等向難波津。調音樂相待之。菩薩以閼伽一具泛於海上。香花自然指西方而去。俄遙望西方。小舟來向近而見之。舟前閼伽之具不乱次第。小舟着岸。有一梵僧上濱。菩薩執手相見微咲。         
続日本紀 天平8年八月庚午(二十三日)、入唐副使従五位上中臣朝臣名代等、率二唐人三人、波斯一人一拝朝。○冬十月戊申(二日)、施二唐僧道?・波羅門僧菩提等時服一。
大安寺菩提伝来記同(天平)八年歳次丙子七月廿日、還帰聖崖、忽乗件船南天竺婆羅門僧正菩提…爰行基菩薩 聞新客廻惣着摂津国、造香印四十口盛花以難波海此香印囲繞彼船自然迎来是時荘厳難波津引率百衆僧以令迎件客矣…
(2)混乱した史料  婆羅門僧正菩提遷那が来朝した時に、行基が僧侶や治部玄番雅楽等を率いて接遇した。  『行基年譜』は、六十六歳条の天平五年の他に、七十六歳条の天平十五年にも菩提遷那の来朝 を記すが、これは明らかに重出であり、明匠略伝は「天平八年七月三日」に婆羅門僧正など三僧 が来朝する記事を「天平八年」と正しく記しているので、『行基年譜』は、改竄されていることが 指摘できる。  『南天竺婆羅門僧正碑并序』も「同年(天平八年)八月八日到於摂津国治下」とするから、「天平 八年」の来日が正しいことになろう。  菩提遷那の来朝を「天平十五年」とするのは、『行基年譜』七十六歳条の記事などでは、菩提遷 那は、行基の代わりとして大仏開眼のために来朝したことにしているが、これも誤りで、行基と東大 寺造立・大仏開眼を関係付ける作為がなされている。  『七大寺年表』も同様であり、「或記云」以下は『日本極楽往生記』を指すと思われる。 (3)見えない人物  行基と難波の係わりは多くの史料・伝承に見える。ところが、行基と関係のある人物について の史料は多くはない。特に、難波に深く係わる人物で不明の人物がいる。婆羅門僧正など三僧 来朝時の摂津職(大夫)である。  『続日本紀』天平六年には、「(聖武天皇)難波行幸、摂津職吉師部楽を奏(つかえまつ)る。」と あるが、摂津職名(摂津大夫)は明らかにされていない。 3 摂津大夫の空白 (1)歴代の摂津大夫  摂津職は、大宝2(702)年から延暦十八年までの歴代の摂津大夫を表4に掲げる。 表4 歴代の摂津大夫
氏名時期備考
布勢耳麻呂大宝2(702).2.1.17任(正五上)
美努王慶雲2(705).8.11任(従四下)太宰率
高向朝臣麻呂和銅元(708).3.13任(従三位)同元.B.8没( 〃 )
大神朝臣安麻呂和銅元.9.4任(正五上)
大石王和銅6.8.26任(従四下)
巨勢邑治養老3 (719).9.18任(摂津国摂官)養老5年正月5日従三位 神亀元年6月6日薨
不明
高安王天平2(730)K頃見 万葉集四天平 4.10.17衛門督
長田王天平 4.10.17任(正四下)天平 6年2/1朱雀門前歌垣で頭任 9年6/18散位率
不明天平8.7.
大伴宿彌牛養天平10.F.7.任(従四下)天平9.9.28正五位上
大伴(欠名)天平15.9.1見(従四上)牛養従四上、大日本古文書2-340
橘宿彌奈良麻呂天平17.9.4任(正五上)
平群朝臣広成天平18.9.20任(正五上)
多治比真人占部勝宝2(750).3.12任(正四下)
藤原朝臣八束勝宝 4.415任(従四下)兼治部卿
文室真人珍努勝宝6.4.5任(従三位)、宝字元.4.4見
多治比真人国人宝字元(757).6.16任(従四下)
池田王宝字2.8.19見(従三位)
佐伯宿彌今毛人宝字3.11.5任(従四下)同6.9.30見(従四下)
市原王宝字7.1.9任(正五下)
中臣朝臣清麻呂宝字7.4.14任(従四下)
阿部息道宝字8.10.9任(正五上)
百済王理伯景雲元(767).8.29任(正五上)、 宝亀元.4.3見(正五上)大古3-702摂津亮
小野朝臣小贄宝亀2(771).9.16任(正五下)
掃守王宝亀5.3.5任(正五下)
藤原朝臣楓麻呂宝亀6.11.27任(従三位)
藤原朝臣田麻呂宝亀7.10.23任(従三位)
多治比真人長野宝亀10.9.28任(従四下)
豊野真人奄智天応元(781).5.25任(従四下)
和気朝臣清麻呂延暦2(783).3.12任(従四下)同7.3.12見(従四上) 延暦18.1.20見(従四上)中宮大夫
注1)「国司(守・介)任官表」『続日本紀』第7巻、現代思潮社(200-202頁)を補筆修正する。 注2)藤原朝臣八束(真楯)、文室珍努(浄三)、巨勢邑治は、摂官として見える。 (2)二つの空白の想定  歴代の摂津大夫を眺めると表1の中に摂津大夫の空白が想定される。  ひとつは、養老と天平2年までの間に大きな空白があり、もう一つは、長田王の後任に空白が ある。  長田王は、天平四年十月十七日摂津大夫(正四下)に任じられ、天平九年六月十八日に散位 で卒している。次いで、天平十年閏七月七日に大伴宿彌牛養が就任するまでの期間について 誰が摂津大夫に任じられていたかは『続日本紀』他の文献史料にも残されておらず、不明である。  空白の摂津大夫を探る。 (3)摂津職大夫の検索 官位からの検討  一番基本的な探し方は、摂津大夫の官位相当は、正五位下であるから、「天平八年七月三日」時 点の『続日本紀』に見える正五位上の官人を探す。この探し方には問題がある。まず、対象となる 人物は、『続日本紀』に出てくる人物に限られることである。    次に、「天平八年七月三日」時点で正五位上の叙位が確認できない者は対象から漏れることで ある。  具体的に、「天平八年七月三日」時点の人物名を挙げると、表5の如くとなる。 表5 正五位上以上の官人
氏名官位役職適否
佐伯豊人正五位上(天8.1.21)左京亮任×
中臣広見正五位上(天4.9.5)神祇伯任
石上勝雄正五位上(天8.1.21)式部大輔(時期不詳)
石川夫子正五位上(天8.1.21)備後・安芸守4.9.5任
大野王従四位下(霊2.4.27)弾正尹×
百済王郎虞従四位下(養1.10.12)
石川王従四位下(神3.1.21) 天平9.11.19宮内卿
安倍安麻呂従四位下(神5.5.21)但馬守霊1.5.22任×
大伴祖父麻呂従四位下(天3.1.27)越前按察使兼越前守
桜井王従四位下(天3.1.27)遠江守(天平年間)見、大蔵卿・弾正尹(時期不詳)
大野東人従四位下(天3.1.27)天平9.1.22陸奥按察使兼鎮守将軍×
高安王従四位下(神4..1.27) 衛門督天平4.10.17任、摂津大夫見×
塩焼王従四位下(天5.3.14)叙位×
中臣東人従四位下(天5.3.14)兵部大輔天平4.10.17任、刑部卿(時期不詳)
小野老従四位下(天6.1.1)太宰大弐天平7.6.17任、天平9.6.11卒×
門部王1従四位下(天6.2.1)右京大夫天平9.12.12任
栗栖王従四位上(天9.2.14) 雅楽頭天平5.12.27任、大膳大夫天平17
栗田人上従四位下(天7.4.23)造薬師寺大夫4.10.17任、武蔵守天平10.6.1卒
池田王従四位下(天7.4.23) 宝字2.8.19摂津大夫見×
長田王従四位下(天7.4.23) 天平4.10.17摂津大夫任、天平13.刑部卿×
中臣名代従四位下(天8.11.3)天平10.5.神祇伯見
智努王従四位上(神6.3.4)文室智努、任天平9治部卿見、摂津大夫勝宝6.×
三原王従四位上(天1.3.3)弾正尹(天平9.12.12)、治部卿・大蔵卿・中務卿
佐為王従四位上(天3.1.27)中宮大夫兼右兵衛率天平9.8.1卒
春日王従四位上(天3.1.27)天平17散位率、官歴なし×
門部王2従四位上(天3.1.27)天平3.12.21治部卿任
榎井広国従四位上(天4.1.20)天平4.9.5大倭守~天平6
多治比広成正四位上(天7.4.23)天平9.8.19参議×
大伴宿禰道足正四位下(天7.9.28)天7.7.28断罪されたが、赦免×
紀男人正四位下(天8.1.21) 太宰大弐(天平2--天平10卒)×
百済王南典正四位上(天7.4.23)天平9.928従三位×
注1)藤原四兄弟、橘諸兄、鈴鹿王、多治比県守(中納言)を除く。 注2)長田王(栗栖王の子)は、天平四年摂津大夫任の長田王と別人である。 注3)門部王(1/2)は、天平年中出雲守、天平九年以前弾正尹   春日王は、施基親王の子。  上記表では、適否の判断は、摂津大夫の再任は、可能性があり得るだろうが、×とした。 外交官、王族など可能性のあるものを〇とした。対象を絞りきれないので、他の探し方を採る。 (4)摂津職官人の資質  利光三津男は、「摂津職補任の傾向から、大進以上の摂津職官人には、外交官たる資質を持つ人 物が比較的多いことを論拠としている。(8)」とする。  そして、外交官たる資質を持つ人物とは、「遣唐使、遣新羅使等の外交使臣に任ぜられた前歴を 有する者、留学生研学僧として、唐に滞在したことのある者などを外交官たるの資格のある人物と 看倣すことには異論があるまい。蕃客を接待する存問使、領客使、接客使に補せられたことのある 者もまた同然である。また、治部省及びその被管たる玄蕃寮は、 令制において、外交を職掌とする 官司であるから、それらの官を歴任した者も、また外交官たるの資格ある人物であったと推察して よい。有力なる帰化氏族に属して、外国の事情に通ずる地位にあった者も、また外交官たるに適し た資格ある人物の中に加えてよいであろう。(9)」とする。  さらに、「摂津職の上級官人から治部省の官人になる人や、玄蕃寮の官人や遣唐使から摂津職の 上級官人になった人の多いことは、一流の外交的手腕をもった人物が、摂津職の大夫、亮、大進等 に任補せられるという慣習が存在していたのではないかという推定を可能にする。(10)」とする。 ここに、ひとつ付け加えるならば、太宰率の経験者を挙げることができる。  太宰率は、日本の対外窓口として、外交を行うからである。そして、太宰率から摂津大夫に転身 する人物として、美努王の例がある。 (5)空白の摂津大夫の推定  長官・次官の資質として皇親また文学的教養を持ち海外事情に明るい人物から多く任じられて いることから、外交官を輩出する家系、王家の家系など類似なものから摂津大夫を考える。 美努王家の考察  橘宿彌奈良麻呂は、美努王の孫に当たり、美努王と橘宿彌奈良麻呂とは共に、摂津職に係わる 家系であることは注目に値する。美努王の子は、摂津職に任じられなかったのであろうか。  美努王は、太宰率に任命されたことがあり、美努王の父である栗隈王も壬申の乱時に太宰率を 勤め、諸兄を加えると三代にわたり太宰率(帥)を勤めたのである。 表6 美努王家の人々
大宰府摂津職その他の役職
栗隈王天智七年(668)7/ 筑紫(太宰)率、天智十年(671) 筑紫率任官(二回目)兵制長官
美努王持統八年(694)9/22 筑紫太宰率任、文武三年(699)12/4 大宰府をして、三野・稲積の二城を修らしむ。慶雲二年(705)8/11 摂津大夫造大幣司長官、左京大夫、治部卿
橘諸兄天平18年(746)4/ 太宰帥
橘佐為中宮大夫兼右兵衛率、大膳長官
橘奈良麻呂天平十七年(745)9/14摂津大夫民部大輔(正五位上)、東宮侍従、右大弁、参議
 天平十七年橘奈良麻呂が摂津大夫に任じられているが、父の橘宿彌諸兄が摂津大夫に任じられ た可能性はないのだろうか。  諸兄は難波の堀江近くの地に邸宅を持ち、元正天皇が行幸されたり、遊宴する。(11)  また、難波(天王寺村阿倍野郡西)の西教寺が橘家の菩提寺である(12)など、橘宿彌諸兄の先祖 と難波の繋がりが見られる。(13)  諸兄は、養老七年(723)1/10 に正五位上を叙位(40歳)されているので、高安王が、天平二・三年 頃に摂津大夫であったことが万葉集から知れるので、昇叙の差により、諸兄が高安王の前に摂津 大夫であった可能性もあるのではないか。 橘宿彌佐為の場合  次に、菩提遷都来朝時の摂津大夫には、同じ美努王の子で諸兄の弟に当たる橘佐為が有力な 候補として挙げられる。  橘佐為は、『続日本紀』天平九年八月壬寅朔(一日)条に、中宮大夫兼右兵衛率正四位下(14) で卒しているが、『尊卑分脈』には「左兵衛督侍従 中宮大夫正四上」とされており、橘佐為の卒時 の官位が下げられているのは不審であり、記録にはないが、橘佐為の卒後、三位を追贈された 可能性がある。(15) また、橘佐為の摂津大夫が隠されたものと思われる。(16)   4 摂津職の考察 (1)摂津職の職務  摂津職の職務(職掌)は、職員令第二、第六八条に規定される。(17)  摂津職なる官司は、 天武朝に初見し、桓武朝の延暦十二年に廃止せられた官司であって、その 組織は、大宝官員令、養老職員令に明定せられている。 (18)  摂津職に限られる職掌は「津済、上下公使、検校舟具」である。  利光三津夫は、摂津職の特徴について、 「摂津職は、他の地域での国府に相当する官司であるが、国に比べて次のような特徴がある。 まず第一に、摂津職は地方行政をつかさどる官庁でありながら、京官の扱いになっていた。 京官とは、その名のとおり、京(奈良時代ならば原則として平城京)にある官司のことである。 摂津職の持つ第二の特徴は、その所属官大の地位が、他の国司より一段と高いことである。 普通地方官庁としての国は、大・上・中・下の四等に格付けされるが、 その大国の守(長官) でも相当位階は従五位上である。これに対し摂津職の大夫(長官)はそれより二階高い正五 位上相当となっている(養老令官位令)(19)。…摂津職の第三の特徴は、他の地方官庁にみ られない特別な職掌が加わっていることである。…特に国や京職にはない「津済」「上下公使」 「検校舟具」という職掌の存在が注目されてきている。「津済」とは難波津と難波地域にあった 港と渡し場の管理、「上下公使」とは難波津を経て上り下りする公使のチェック、「検校舟具」とは 中央の兵部省主船司のつかさどる公私の船とその付属物を現地難波津にあって管理することを 指す。いずれも難波津の存在と深く関係する職掌であり、他の官庁にこのような職掌がみられな いのは当然であろう。 (20)」とする。 さらに、摂津職の職務には、外国使節の接遇が含まれていないものの「摂津職の職事には、この 外交事務を加えねばならないのである。…摂津職が、特殊行政官司とせられた理由は、この官 司の職掌の特殊性にある。換言すれば、摂津職は、他の地方官司が掌っていた国事のほかに、 職事なる特殊事務を掌っていた。この「職事」の内容として、数えられるものは、陪都難波京の 管理、難波津の関津事務(21)、難波における外交事務(22)の三つである。(23)」として、摂津職 の大きな職務のひとつとして、実際的には外国使節の接遇が為されていた大宰府と同様の外交 事務を加えている。 (2)外国使節の接遇・歓迎行事の実際  外国使節の接遇・歓迎行事については、延喜式、玄蕃寮式に記されているとおり(24)、外国か らの客が来朝したときには、摂津国が歓迎の船を派遣し、客船が難波津に到着した日には国使 が朝服を着て、飾り船に乗り、海上に於いて客船を迎え、通訳を介して挨拶を交わし、摂津国守 がこれを聞き、船の航路を教導するなどの作法を記す。ここに、きちんと摂津国守の位置づけが 明確にされ、外国使節の歓迎行事に携わるのである。  『日本書紀』推古十六年六月丙辰条の「客等泊于難波津、是日、以飾船卅艘、迎客等于江口、 安置新館」という記事がまさにその実例である。  また、『日本書紀』欽明四年十月甲寅条では、「唐国使人高表仁等、泊干難波津、則遣大伴連 馬養、迎於江口、船卅二艘及鼓吹旗幟、皆具整飾、…於是、令難波吉士小槻・大河内直矢伏、 為導者、到于館前、乃遣伊岐史乙等・難波吉士八牛、引客等入於館、即日、給神酒」とあり、唐 使が難波津に迎えられて江口から館までを移動し、神酒を給される様が記されている。 (3)摂津職の代行 摂津職と行基の相似  『七大寺年表』では、「或記云。…奏曰。異國聖者今日可相迎之。即有勅。菩薩率九十九僧及 治部玄蕃雅樂三司等向難波津。調音樂相待之。菩薩以閼伽一具挺於海上。香花自然指西方而 去。俄遙望西方。小舟來向近而見之。舟前閼伽之具不乱次第。小舟着岸。有一梵僧上濱。菩薩 執手相見微咲。」とあり、ここには摂津職の官人の姿が見えず、行基が九十九僧及治部玄蕃雅樂 三司等を率いている。   同様に、『行基年譜』、『今昔物語集』などに見られる行基が婆羅門僧正を迎える光景は、摂津 国司の使者が船で迎えに出ていた歓迎行事と似ている。 飾り船を出すこと、信頼できる史料として『南天竺婆羅門僧正碑并序』があるが、そこには、「… 同年(天平八年)八月八日到二於摂津国治下一。前僧正大徳行基。智煥二心燈一。定凝二意水一。 扇二英風於忍土一。演二妙化於季運一。聞二僧正来儀一嘆二未曾有一。…行基又率二京畿緇素 両衆五十余種一前後合三度。(25)」とある。 どちらかと言うと、行基が菩提遷那を迎える説話は、神秘的な雰囲気に包まれているが、『南天竺 婆羅門僧正碑并序』は、誇張がないと思われる。そこに共通するのは、菩提遷那を迎えたのは行 基であって、行基が多くの僧、治部玄蕃雅樂三司等の官人を率いて出迎えたのである。 国・郡司の機能の代行  行基が多くの官僧や治部玄蕃雅樂三司等の官人を率いて難波に菩提遷那を迎えることは、摂津 大夫の職務に似るところがあると指摘する。行基はまさに摂津職官人の職務を代行している如くの 感がある。  吉田靖雄は、摂津国における行基の活発な活動について「行基は、西成郡津守村に善源院と布 施屋、比売嶋・白鷺嶋両堀川を作り、兎原郡宇治郷に船息院と大輪田船息を、嶋下郡穂積村に高 瀬橋院と高瀬大橋。直道などを造営している。…この時期の行基の活動は摂津職官人の職務を代 行したような大規模な形を呈していた…(26)」とする。 比売嶋堀川は長さ六百丈、広さ八十丈、白鷺嶋両堀川は長さ百丈、広さ六十丈、次田堀川は長さ 七百丈、広さ二十丈の規模を持ち、桓武天皇時代の摂津国司和気清麻呂の上町台地運河開削 事業(27)に劣らない大規模事業を展開していた。  石母田正は、「行基が国・郡司の機能を代行し、補充していることを示すものであろう」としている。(28) なにより、難波において、橋を架けたり、港を築造する「道橋」「津済」などは摂津大夫の職務であり、 多くの説話にある行基の活動は、まさに行基が摂津大夫の職務を代行したことになる。 (4)文殊の化身の説話  行基と菩提遷那の間の関係で気になるのは、行基を日本の文殊とすることである。  行基には、大僧正、菩薩などのほかに、様々な称号が付されている。中でも、『行基大菩薩行状記』 は、「自然顕菩薩、行基菩薩、文殊再生の大士、日域無双の和尚、大聖の権化、大僧正、大菩薩、基 師、二朝受戒の国師、文殊の化身」と数多く並びたてている。また、『日本霊異記』は、「沙彌行基、行 基大徳、菩薩」の他に、「文殊師利菩薩の反化、化身の聖、隠身の聖、変化の聖人」と霊異神験に類 する称号を用いる。『行基大菩薩行状記』に、二度繰り返される「文殊」は、『日本霊異記』の「文殊師 利菩薩の反化」、『行基菩薩伝』の「清涼山文殊化身」、『東大寺要録』の「文殊八不の勧進」などが 見える。この「文殊」には、行基の謎が隠されていると思われる。  『行基年譜』に津守宿彌得麻呂の名が見える。津守、つまり津を管理する摂津守ないしは摂津大夫 を解くという意味であろうか。  行基は文殊の化身とする。その意味は、文殊は、モンジュ門守と書ける。(29)  また、門守は、関守とも通ずる。つまり、行基を日本の文殊とするのは、行基を摂津大夫とする意図 が隠されていると思われる。  ちなみに、『続日本紀』は、天平十七年正月二十一日行基を大僧正とする。これは、聖武天皇の都 が難波に遷された時期のことであり、難波と行基を結びつける意図があるのだろうか。 5 行基官人説  行基は、「上下公使」「検校舟具」「津済」など摂津大夫の職務を代行したことになる。  三善清行の「意見十二箇条」にある摂播五泊の行程を定め置くことは、単に一人の僧の仕業でなく、 摂津職官人の権限に関連するものと考える。  摂播五泊の行程は、行基の別人格が律令国家の官人であることを想定すると、矛盾なく解決できる 問題である。同様に、天平八年に、行基が婆羅門僧正菩提遷那を難波津に迎えるが、この外国からの 招来僧の歓迎が国家的な事業の一環であるならば、行基が果たした役割は、まさに、摂津職官人の 職務に匹敵するものと考えられる。  この二つの事例から、行基は神亀三(七二六)年頃から摂津職官人の職務の一端を担っていたこと が想定できる。  そして、婆羅門僧正菩提遷那来朝時の摂津大夫を橘佐為と考えることができる。  図2のとおり『行基年譜』の記載の表に橘佐為の卒年を加えると見えるものがある。  『行基年譜』に行基が現われるのは慶雲元年であるが、それは、橘佐為の父美努王が太宰帥から 摂津大夫に任じられた慶雲二年の直前である。  難波の院建立が、天平六年から天平十六年まで十年間離れることは、婆羅門僧正の来朝を操作 したことと似ていることである。  吉田靖雄は「院と関係する交通・灌漑・救恤等の…関連事業は、天平十二年の泉橋院と泉寺布施 屋・泉大橋の造営以後跡を絶っており、行基の造営エネルギーの衰退を明らかに示している。」と指 摘する。(30)  行基の社会事業が天平十二年以後に記されないことは、行基の活動は、天平十二年以前で終了 しているものと考えることができる。或いは、活動の終了は天平九年かもしれない。 図2 『行基年譜』と橘佐為の卒年   結びに  菩提遷那来朝時の摂津大夫は、橘佐為が有力な候補として挙げられる。  他方、行基が摂津職官人の業務を代行することは、或いは行基は摂津職官人が出家した姿かも知 れない。そして、橘佐為が摂津大夫であったならば、摂津職官人の業務を代行する行基と橘佐為が 相似である。明確にいうならば、同一人である可能性を示している。  しかし、行基を摂津職官人として考える可能性はあり得るが、具体的に行基=橘佐為と考えること は、『続日本紀』をはじめ、多くの行基伝を否定することになる。  『続日本紀』の行基薨伝に隠された意図を読み解くことが今後に残された最大の課題である。
註 (1) 『国史大辞典』第8巻、吉川弘文館、昭和62年、356頁。 「摂津職 律令制下における官司の一つで摂津国の行政にもあたった。…摂津国には大化前代から難波津が置かれ、 軍事・交通の要地であり、また副都的な性格を持つ難波宮や外国使臣応接のための鴻臚館が設けられ、政治・外交的 にも重要な地であった。このため特別な行政機構として摂津職が設置されたが、ただ、その政庁は、『令集解』公式令 京官条穴記から京に置かれていたことが知られる。…摂津職の官人に任命された者を見ると、長官・次官には皇親また 文学的教養を持ち海外事情に明るい人物が多く任じられていることが注意される。…」 (利光三津夫) (2) 行基の寺院建立を摂津国に広げると十五院となる。(河上邦彦「摂津における行基の足跡」『探訪古代の道』第三巻 河内みち行基みち、法蔵館、1988年、187頁。) (3) 行基四十九院は「摂津に最も多く建立されていながら、現在その寺跡が判明しているのはすでに述べたように皆無 に等しいという状況である。」(河上邦彦、同上199頁。)  大福院は、大阪市南区三津寺町の三津寺がその後身という説があるが、元の大福院が現在の三津寺の位置にあった かについては疑問がある。(河上邦彦、同上192頁。) (4) 万葉集6-946山部赤人の歌の題目「敏馬浦」が本文で「三犬女乃浦」と変えられ、歌の末尾は「生友奈重二(いけりとも なし)」と「重二」を「し」と訓んでいる。「二二」が「四」ゆえ、「二重」の意味は、「し(四・施・死など)」が隠され ていると考える。行基の命日は二月二日である。 (5) 『行基年譜』は、難波にかけて数字で、七、七二、七三、七二八の数字をちりばめる。 神武天皇紀に浪が速かったので、浪速国といい、訛って難波になったという地名の由来が記される。 「七月三日」は、難=七、波=三と「難波」を示すとともに、速いことを示すか。 (6) 『大安寺菩提伝来記』は「七月廿日」、『南天竺婆羅門僧正碑并序』は「八月八日」とする。 (7) 度布施屋と難波度院が「おそらく同じ場所に建てられたもので、あるいは同一のものに対する時代による別称であった 可能性がある。」(吉田晶『古代の難波』教育社歴史新書 、1982年、211頁。) (8) 利光三津夫「摂津職の研究」『律令及び令制の研究』221頁。 (9) 利光三津夫「摂津職の研究」『律令及び令制の研究』221頁。 (10) 利光三津夫「摂津職の研究」『律令及び令制の研究』224-225頁。 (11) 『万葉集』巻18-4056〜4062 (12) 『天王寺村誌』196頁。 (13) 橘宿彌諸兄の祖である敏達天皇を祭る「五條宮」が四天王寺の東北にある。また、敏達天皇の子は難波王である。 西成郡に美努郷があったが、諸兄の父の美努王との関係は分かっていないが、美努王は、摂津大夫を務めていたから 当然難波と関係を有していたと思われる。 (14) 橘宿彌佐為は、天平九年 (737)2/14 正四位上を叙位されているのに、卒時の記載は格下げとなっている。また、 佐為の娘である聖武夫人正二位広岡朝臣古那可智が宝字三年(759)7月5日 薨したときの記載は(正四位上橘宿彌 佐為女)とされている。また、(〔尊卑分脈〕左兵衛督侍従 中宮大夫正四上とある。) ことから考えると、天平九年の記載 は故意に変更された可能性がある。 (15) 橘佐為一族の追贈は、橘佐為の祖父栗隈王、母八千代、妹牟漏女王にみえ る。従って、橘佐為にも追贈された可能性があると考えると、天平六年には、正四位上に叙位されていたので、従三位 以上に叙されたことが想定される。 正式な葬儀令によると、三位以上の場合は、薨と表記されるので、『続日本紀』の行基の「薨」の表記と一致することに なる。すると、行基は橘佐為と同一人物とすることが認められる。 (16) 橘諸兄と関係のある田辺福麻呂の歌『万葉集』巻6-1062に、「名庭乃宮は不知魚取」とある。 「不知魚」は、「勇魚(いさな)」で、「不知」は、「魚(さかな)」から、逆から読むと、「さい」ができる。名庭乃宮から 「さい」が取られているのである。 また、新古今に行基の「芦の葉のそよぐ」歌がある(表2)。難波と芦(葦)は関係が深く、芦(葦)は、「難波堀江の葦分(閑吟 集306)」「芦分船」「葦分小舟」「葦邊にさわく白(あし)鶴の妻(万6-1064)」のように使われる。 葦を分けると、「さい」ができる。 (17) 養老職員令に規定される摂津職の職掌を見ると、「摂津職帯津国、大夫一人、掌祠社、戸口簿帳、字養百姓、勧課 農桑 糺察所部、貢拳、孝義、田宅、良賎、訴訟、市塵、度量軽重、倉廩、租調、雑徭、兵士、器仗、道橋、津済、過所、 上下公使、郵駅伝馬、闌遺雑物、検校舟具、及寺、僧尼名籍事」とある。 (18) 利光三津夫「摂津職の研究」『律令及び令制の研究』復刻版、名著普及会、s64年、196頁。 (19) 「養老令官位令」による摂津大夫の官位相当は、正五位上であるが、従前の 従四位下から改正されたものである。 延暦十二年三月に職を廃止し、摂津国にしてから、摂津守の位は更に下ることになる。- 官位令第一第九条 従四位中宮大夫、第十条正五位摂津大夫、左右衛士督 (20) 大阪市史第二巻、750-752頁。 (21) 『大阪市史』は、「…養老衛禁律の私度関条・同不応度関条では、摂津・長門の関が、三関とその他の関の間に、 第二位の序列で格づけられている(「律』)。これら律令の規定によると、摂津には関が置かれていたこと、律令国家は、 長門の関とともに摂津の関を重視し、その通行に過所の提示を義務づけることにより、摂津の関の交通をチェックさせよ うとしていたことなどが判明する。摂津の関は、いつも長門の関と並んで挙げられている。両関が瀬戸内海の東西両端 に位置する点からみて、海上交通にかかわる関であったと考えられる。…摂津関は、摂津職 (のち摂津国司)の管轄下 にあって、瀬戸内海の交通を東端でチェックする職務を担っていたのであった。」とする。(大阪市史第二巻、850-851頁。) (22) 大阪市史は、「外国使節が海路難波津に到着した場合、種々の歓迎行事が難波で行われたが、その際使節に供 せられる酒は、「宮内省管下の造酒司が酒戸に命じて醸造させたものであった。『令集解』職員令造酒司の条に引く「別 記」(大宝令の施行規則を定めた付属文書 には、「津国」に一○戸の酒戸が置かれ、「客饗の時、役するなり」と記されて いる。そもそも外国使節受け入れの窓口でもあった難波の地にあって、摂津職がその関係事務を職掌としていないのは、 不思議といえばいえよう。類似の立場にあった大宰府については、「蕃客」「帰化」「饗議」のことが職掌に含まれているが、 現実には新羅使節が難波津に到着したとき、使節の船を先導するため、摂津国司の使者が一船で迎えに出ていた(『延 喜式』玄蕃寮)。この式の条文は、摂津職停廃後のものではあるが、摂津職時代にも同様なことが当然行われたとみて よかろう。摂津職は、実際には外国使節の迎接事務にも関与していたわけである。」とする。(大阪市史第二巻、752-753頁。) (23) 利光三津夫『律令及び令制の研究』200頁。 (24) 延喜式玄蕃寮式「蕃客従海路来朝、摂津国遣迎船、(王子来朝遣一国司、余使郡司、但大唐使者迎船有数)客舶 将到難波津之日、国使著朝服乗一装船、候於海上、 客舶来至、迎船?進、 客舶迎船比及相近、客主停船、国使立船上、 客等朝服出立船上、 時国使喚通事、通事称唯、国使宣云、日本爾明神登御字天皇庭登、某蕃王能申上隋爾参上来留 客等参近奴登、摂津国守等聞著?、水脈母教導賜幣登宣随爾、迎賜波久登宣、(下略)」(利光三津夫『律令及び令制の 研究』195-196頁。) (25) 「南天竺婆羅門僧正碑并序」『群書類従』第五輯、系譜部・伝部・官職部、巻69。 行基は京畿の僧俗五十余衆を率いて菩提遷那に前後3回面会した。 (26) 吉田靖雄『行基と律令国家』吉川弘文館、1987年、218頁。 (27) 『続日本紀』延暦七年三月甲子(十六日)条   荒墓の南から河内川を西海に通ず。従事者二十三万余人とする。 (28) 石母田正 「日本の古代国家」『石母田正著作集』第三巻、429頁。 (29) 日本三文殊の一つに宮津の「切戸・久世戸の文殊」がある。「戸」は入り口で、門である。 (30) 吉田靖雄『行基と律令国家』吉川弘文館、1987年、247頁。
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]

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