補論 菅原寺考
補論 菅原寺考 一 菅原寺について 1菅原寺の史料 2菅原寺の造営 3寺史乙麻呂について (1)寺史乙麻呂の身分と存在 (2)暗号名「寺史乙麻呂」 4 平城京における菅原寺 (1)菅原寺の占地 (2)藤原京から移転してくる寺院 二 菅原の地について 1 平城遷都と風水思想 2 菅原伏見の里 (1)山陵・土師氏の里 (2)『大和名所図会』の歌 (3)伏見翁 (4)山陵 三 菅原寺の性格 1 氏寺 2 佐紀堂・布施屋との関わり はじめに 菅原寺は、平城京の右京の一角を占める比較的大きな寺院であったにも拘らず、国史に表われ ないという珍しい寺院である。(1) もうひとつの特徴は、『行基年譜』に表れる行基の大和国における唯一の活動拠点であり、しか も都内に位置することである。 『清涼山歓喜光寺略縁記(以下『略縁記』とする。) 』は、元明、元正、聖武天皇三代の勅願寺、 鎮護国家の寺とされ、『行基年譜(以下『年譜』とする。) (2)』では、聖武天皇から喜光寺の勅額 を賜ったとみえ、聖武天皇の行幸が行われたとされる寺であり、朝廷とも深い関係にある寺院で ある。そして、大仏殿の元となる試みの大仏殿との伝承がある。 何故、国史からは、除外されているのだろうか。 菅原寺は、行基が建立した寺であり、行基が入寂した涅槃所ともされている。 菅原寺の成立と行基の関わりを考えていきたい。 一 菅原寺について 1菅原寺の史料 菅原寺の建立時期は、霊亀元年、養老五年など、史料によって異なる。 表1 菅原寺の史料注) 菅原寺起文遺誡状は、行基作とされる偽書である。 『年譜』には、「五十四歳条」「五十五歳条」に菅原寺建立の記事がある。 「行年五十四歳辛酉 元正七年養老五年辛酉五月三日、命交朝庭参上、京都二人得度、寺史乙丸以 二己居宅一、奉レ施レ菩薩、即立二精舎一號二菅原寺一。五月八日一百箇人依於二大安寺一得度之 内和泉国云云、上記蜂寺奴云云、 行年五十五歳壬戌 元正八年養老六年壬戌、喜光寺 菅原寺二月十日起、讃日、最後涅槃所也、 在二右京三條三妨(ママ)一九坪十坪十四坪十五坪十六坪 」 『年譜』には、養老五年(721)に「寺史乙麻呂がその居宅を行基菩薩に施し奉り、即ち精舎菅原寺を立 つる」とあり、同じく養老六年(722)にも喜光寺すなわち菅原寺を二月十日起立し、その土地は、右京三 条三坊にあり、九坪、十坪、十四坪、十五坪、十六坪と五町を占めているとされる。 これについて、中井真孝は、「建立の年次は『行基年譜』は養老五年とも養老六年ともあり、不確かで ある。…寺伝には霊亀元年の創建といい、(清涼山歓喜光寺略縁起)創立年代に異説がある。(3)」とする。 『略縁記』(4)は、享保元年(1727)の年号があり、江戸時代の中期に作成されたものである。 「菅原伏見里、元明、元正、聖武天皇三帝の勅願、霊亀元年之創建也、先是右京三条三坊寺吏乙麿 第宅、和銅六年元明天皇の勅免を得て、生馬山を以って杣山とす。彼の山の材を採りて菅原寺を建立す。 菩薩の五畿内に精舎四十九院、僧院三十四院、尼院十五院を建て、皆当寺を以って本寺と為し、四十九 院を以って末寺と為す。…当寺は古くより興福寺一乗院に属す。…菩薩常住此寺、…」とあり、『菅原寺起 文遺誡状(以下『遺誡状』とする。)』にも、「霊亀元年」とある。(元明天皇勅請) これは、平城京の都城の完成が霊亀元年正月頃とされるのとほぼ同じ時期である。(5) 『遺誡状』の『年譜』の三十九歳条の文武天皇十年慶雲三年蜂田寺并四十九院修理料の杣山が施入せ られることと、『年譜』の蜂田寺と菅原寺が入れ替わるだけで同様の構造である。『略縁記』と『年譜』の違い は、『年譜』の養老五・六年より早い霊亀元年(715)の創建とする。 そして『略縁記』は菅原寺を元明、元正、聖武天皇三帝の勅願の寺とすること、生馬山の杣山から材を採っ て菅原寺を建立したことを記す。 『略縁記』が記す、和銅六年(713年)に元明天皇の勅免を得て生馬山の杣山材を使って寺を建立すること は、年代的には『年譜』と異なるところがある。 『年譜』には、慶雲四年(707)に生馬仙房、和銅三年(710年)に草野生馬仙房と二つの名前が見えるが、 この二つの仙房は同じものとされている。(6) 和銅三年(710年)は、ちょうど藤原京からの遷都の年であるが、造平城京司の官人の任命は和同元年 九月三十日(7)であり、行基は平城京を造る官人の任命より数年早く生馬山に進出し、仙房名の書き分け は、行基が生馬山の杣山から材を採り出す拠点を生馬仙房とし、切り出した後は、樹木が伐採された後が 草地となり、草野生馬仙房と表わしたのでないかと考える。 『略縁記』のとおり、生馬山は、名前の書き分けから寺院建設或は平城京の建設に必要な材を切り出し たことが想定できるのではないだろうか。平城京の建設は、遷都の年の和銅三年以後も続けられている。 2 菅原寺の造営 大西貴夫は、菅原寺の造営とその背景として、「…菅原寺は行基が養老五(721)年に寺史乙丸の居宅 の寄付を受け、養老六(722)年に起工されている。寺史乙丸は下級官人と推測されるが、どのような人物 かは全く不明である。また、この時期は養老元(717)年から天平三(731)年までの行基集団に対する禁圧 の時期にあたっている。このような時期に京内に寺院が営めるのか疑問である。しかし、瓦の時期からは 平城京以前の転用瓦を含みながらU期までのものが主としてみられることから七二二[養老六]年の起工 という時期は妥当なものと考えられる。…平城宮・京で使用される瓦もみられることから、禁圧を受けなが らもその一方で寺院造営の援助を受けるという複雑な状況が浮かび上がる。行基は霊亀二(716)年には 平群郡に恩光寺を、養老二(718)年には添下郡に隆福院を造営しており、養老六年の菅原寺起工以後 天平三年の隆福尼院造営まで大和における寺院の造営がみられない。その一方で和泉などでは行って おり、禁圧の時期とほぼ重なることから、大和から一時的に撤退したことが考えられている。しかし、U期 の瓦がある程度みられることから菅原寺の造営は引き続き行われていたことは十分考えられる。…菅原 寺はV〜W期にかけても整備が続けられる。行基が官にとりいれられた時期であり、宮や、西大寺、西隆 寺との同箔関係がみられ、大僧正という地位の向上と共に官の援助の強いことがうかがえる。五町という 規模からも鑑真の唐招提寺と並ぶ寺格をもっていたことが考えられる。(8)」とされ、同氏は行基が禁圧を 受ける国家から菅原寺造営の援助を永年に渡り得ていたことを指摘している。 3 寺史乙麻呂について (1)寺史乙麻呂の存在 次に寺史乙麻呂について考える。 先に、行基年譜の「五十四歳条」に示したように、菅原寺は、寺史乙麻呂が自分の居宅を行基菩薩に 施し奉るとする。その土地は右京三條三坊の五町(五坪)とする。 五町(五坪)の広さは、一町(一坪)が109米四方の正方形であるから、約5.9万平方米である。 菅原の地に広大な居宅を構えていて、行基に平城京での活動の拠点を寄進した寺史乙麻呂とは如何 なる人物であろうか。寺史氏については、天平十七年(745)八月の「優婆塞貢進解」で、存在が確認で きるとする。(9) 表2 寺史氏
史料 年紀 内容 菅原寺起文遺誡状 749 元明天皇勅請、京都参住、以二霊亀元年一建二立菅原寺一為二本寺一。以四十九院等為二末寺一。 行基年譜 1175 養老五年辛酉…寺史乙丸以二己居宅一、奉レ施レ菩薩、即立二精舎一號二菅原寺一 養老六年壬戌、喜光寺 菅原寺二月十日起 竹林寺略録 1305 和銅八年乙卯霊亀改元於二右京三條三坊一建二菅原寺一号喜光寺即以此寺一為二本寺一以四十九院等為二末寺一…#入洛之時寺吏乙丸以二居宅一、奉レ施レ菩薩 清涼山歓喜光寺略縁記 1727 元明、元正、聖武三帝之勅願、開山行基菩薩之遺跡、霊亀元年之創建也、先是右京三条三坊寺吏乙麿第宅 勝浦令子は、「寺史足や戸口の妖麿が同じ三条三坊の住民であることは、『行基年譜』の寺史乙丸の 信憑性の高さを考える上で重要である。…反面、『行基年譜』の計五坪を占める寺域は養老末年当時 からのものとは考えられず、また、天平期でもこれだけの規模にはなっておらず、十五坪を中心とした ものであったと考えられる。(10)」と『行基年譜』の寺史乙丸の信憑性を説く半面、 寺史乙麻呂からの 土地五坪の寄進を否定する。 (2)寺史乙麻呂の身分 「…居宅を奉献した寺史乙丸は五位以上の位階を帯した人ではないようだから、献上した宅地は 一町以下であったことも考えられる。…三条三坊十五坪に居宅をもつ寺史乙丸は、無位の白丁で あったとは思われず、少なくとも下級官人に属する階層にあったことは確かであろう。(11)」とする。 まず、寺史乙麻呂の身分から寄進できる敷地規模の可能性について考える。 平城京に本籍を持つものは京戸と呼ばれる。「平城京」の京戸のなかには、五位以上の特権的な 地位の貴族約百人、六位以下初位以上の官人約六百名、位階を持たない下僚官人約六千人とそ の家族が含まれ、また、中央官庁と直接関係を持たないものも多数いたとされる。京戸とは別に、 僧尼や奴婢が相当数おり、仕丁や雇傭民・調傭運脚夫など全国から京に集まる短期滞在者もいた。 これらを併せて平城京の人口は約十万人と計算されている。(12) 平城京内の皇族・貴族の邸宅は、宮城に近い北半部に集中し、一町(一坪分の敷地で約一万 七千米)もしくは、四町、八町などの広大な地を占めた。また、十万人もしくはそれ以上と推測され る平城京の人口の大部分を占める下級官人及び庶民の多くは、一町の八分の一から三十二分 の一という小区画である。(13) 図1 平城京復元図(国史大辞典) 因みに、平城京の貴族の主な敷地の状況を眺めると、図1のとおり、菅原寺の朱雀大路を挟んだ 東側に長屋王邸四町があった。藤原仲麻呂の「田村第」は六町、右大臣邸の二町、法華寺七町 (元不比等邸)などである。(14) そうすると、宮城に近い地域において、五町もの邸宅を寄進できるものは、皇族か貴族に限定さ れるのではないだろうか。 『続日本紀』は概ね五位以上の貴族等の名を記す(15)が、『続日本紀』に見えない寺史乙麻呂は、 五位以上の位階を持った人物である可能性は少なく、貴族でもない者が五町もの広大な邸宅を 行基に布施することは考えられない。 下級官人の寺史乙麻呂が寄進できる土地はせいぜい一町乃至一町以下であったと想定すること は適切な見方であろうが、寺史乙丸が下級官人に属する階層とすることに拘束されると、寺史乙丸 から寄進された菅原寺の寺地は一町以下と想定され、『年譜』の記載と辻褄が合わないことになる。 そして、残りの広い土地はどうして確保することが出来たのか説明がつかないままである。 この問題を解決するためには全く異なる解釈が必要になる。寺史乙麻呂なる人物が五町もの居宅 を寄進したとする『年譜』の記事に信じられる部分があるとすれば、「寺史乙麻呂」の名を借りた暗号 と見なし、真実の人物名が伏せられていると考える。 ?暗号名「寺史乙麻呂」 「寺史乙麻呂」を探索する。理屈的には、平城京の京戸十万人の中から一人を選び出すわけであ るが、身分が低い官人や一般の民が該当するはずもない。この寺史乙麻呂なる人物に係る表記は、 史料によって微妙に変えられている。 表3 寺史乙麻呂の表記
史料 内容 備考 天平5年右京計帳手実 寺史足 天平5年(733)正倉院文書 優婆塞貢進解 戸口寺史妖麿 天平17年(745)八月 西隆寺址出土木簡 寺浄麻呂 神護慶雲元年(767) 続日本紀 大初位下寺浄麻呂 宝亀11年(780)5月己卯条 「行基年譜 寺史乙丸以己居宅、奉施菩薩、即立精舎號菅原寺。 行基菩薩伝 時寺史乙丸門。己居宅。奉施菩薩。即立精舎。號菅原寺。 竹林寺略録 寺吏乙丸以二居宅一、奉レ施レ菩薩。 清涼山歓喜光寺略縁記 寺吏乙麿第宅、」と若干の差異が見られる。 「吏」は、「史」を避けているのか。或いは、「吏」は官吏を意味するか。 行基菩薩伝には、「時寺史乙麻呂門」と綴られている。「時寺史乙麻呂門」は「解き字史…文」 と文字に同音を掛けて読める。また、この「門」は、乙丸の「一門・家族」を指しているかもしれない。 『略縁記』に「寺吏乙麿第宅」とされているのは、『年譜』の「寺史乙麻呂居宅」、『行基菩薩伝』 の「時寺史乙麻呂門」と比較すると、史に一が加わり、「吏ツカサ」=すなわち司であり、役人、 官吏を表わすか。また、第の字が加わる「第宅」は、藤原仲麻呂の「田村第」と同様の大邸宅を 指すことを匂わせる。そして、乙麻呂は、乙また弟の男であり、乙は甲乙の二番目である。 『家伝上(鎌足伝) (16)』には、藤原鎌足の子に「有二二子貞恵史一」とあるから、「貞恵」は 鎌足の長男の僧「定恵」であり、次男は、奈良時代に「史」とされていた藤原不比等である。 『略縁記』によると、菅原寺が「古くより興福寺一乗院に属す」と、菅原寺と興福寺との関係を 匂わす。興福寺は光明皇后と関係の深い藤原氏の氏寺でもある。更に、平城京の遷都を推進 したのは、和銅元年当時に右大臣であった藤原不比等である。(17) 和銅元年正月十一日、不比等は従二位から正二位大納言となり、その年三月に右大臣とな った。位田は六十町、職田は大納言二十町から右大臣三十町と増える。これらの位田、職田 と屋敷地の関係は知見がなく、所在もすべて平城京内にあったかは不明であるが、後に法華 寺となる地七町及び右大臣邸の二町を除いても、菅原寺の五町の寄進は可能であろう。 右京に所在する右大臣邸の二町は菅原寺の東北の至近にある。不比等は、菅原の地から 宮城にかけての広大な土地を所有していたことが想定できる。不比等は、養老四年八月三日 に没しているから、『年譜』の養老五年または養老六年の時点で不比等の財産の一部が寄進 されたのであろうか。 『年譜』には、天平八年の菩提遷那来朝を天平十五年まで繰り下げた記事があり、天平五年 にも記す。この二つは、『明匠略伝(群類68)』の行基伝にも使われた「天平八年七月三日」の 記事を書き換えたものであり、『竹林寺略録』『略縁記』は、霊亀元年の創建とするから、『年譜』 の菅原寺の建立時期は不比等の死後にずらした可能性がある。 表4 菩提遷那の来朝
史料 内容 備考 菅原寺起文遺誡状 なし 橘朝臣諸兄大臣知行之時… 行基年譜 寺史乙丸以二己居宅一、奉レ施レ菩薩。 行基菩薩伝 時寺史乙丸門。己居宅。奉施菩薩。 門が付く。 竹林寺略録 寺吏乙丸以二居宅一、奉レ施レ菩薩。 「史」を「吏」とする。 清涼山歓喜光寺略縁記 寺吏乙麿第宅 「史」を「吏」に、「第宅」とする。 4 平城京における菅原寺 (1)菅原寺の占地 菅原寺の位置は、宮城の至近に位置する場所である。そして、『略縁起』による菅原寺の創建は、 霊亀元年とすることが信頼できるならば、藤原氏の氏寺である興福寺の和銅三年建立に次いで、 平城遷都後、二番目に造られた寺院となる。 表5 菅原寺の敷地
明匠略伝 天平八年七月三日、乗船下云[去イ]善源寺。於寺内庄厳余。蓮華ヲ浮於河水。迎道出居。有待[人イ]・之氣色也。俄爾之間、二僧乗舩来。… 行基年譜 @同[天平五]年七月三日、乗船下着善源寺、於寺内以二千余造花庄厳、以二十余造花浮於河水、迎送於出居、俄尓之間、三人僧乗舩到来、… A[天平十五年]行基閼伽一具備テ迎遣、花盛香焼、湖上浮、無乱事遥西海行、漸有小舩、乗ハラ門僧正菩提云人来 菅原寺の敷地は、『行基年譜』に、「右京三條三坊九坪十坪十四坪十五坪十六坪」とあり、五 町の占地があるが、大和国南寺敷地図帳案では具体的な箇所を示さず、「四町六反」とされて いる。 図2 『行基年譜』による菅原寺の敷地 また、東京大学史学教室所蔵の『西大寺所伝京城坪割図』によると、菅原寺の敷地は『年譜』 の五町以外に、同坊の七坪、三条四坊の一坪、二坪、七坪の合計九町についての表記が、右 京三条三坊十五坪を菅原寺地、その他を寺領と書き込まれているから、西大寺が建立された 時点の史料では更に広大な敷地を占めたことが窺えるとする。(18) 当初の規模 図3 菅原寺の敷地(九坪説) 図4 菅原寺の敷地(一坪説) 次に『西大寺所伝京城坪割図』の菅原寺の敷地の合計坪数九町をどう考えるのか。 池田源太が「もともと九坪[九町]あったが、次第に減じた(19)」と考えるように、『年譜』編集の 段階で四町が失われた、或いは、寺史乙麻呂から寄進された菅原寺の敷地は五町以上あった が、『行基年譜』では、一部の土地しか記載しなかったことが考えられる。 吉田靖雄は、当初の菅原寺の規模と寺史乙丸の寄進について「喜田貞吉氏は、当初一町の 宅地が寺地であり、後に寺域が拡大されたと考え、足立康氏は、「僅か方一町の地におさまる 程の小伽藍でなかった」としている。昭和四十四年の調査では、「現金堂と重複して、現金堂より 一まわり大きな基壇部」が発見されており、十五坪の地が創建当初の寺地であったことは確かで ある。しかし、『年譜』が、創建を養老五年および六年にかけ混乱を示していることは、当初は寺史 乙丸の居宅をそのまま寺院に転用し、その後に金堂や堂舎を建立した経過を示すものと解される から、当初は方一町の地とみて矛盾はない。…三条三坊十五坪は、「宮から離れた下町」とはいい 難いが、居宅を奉献した寺史乙丸は五位以上の位階を帯した人ではないようだから、献上した宅地 は一町以下であったことも考えられる。(20)」とする当初十五坪だけの一町説(21)であるが、これ はその後に五〜九町に増える説明が困難と思われる。 もう一つは、五町から九町に増える場合が想定できる。 『続日本紀』の和銅元年十一月乙丑(七日)条には「菅原の地の民九十余家を遷す」とある。 これは、平城京の造営に先立ち、必要な土地を確保したもので、「翌年の春に地鎮祭を行っている ことからして、この記事は宮の予定地にはいるところの民家を遷したものと思われる(22)」とされる。 そうであれば、菅原の地は、右京三條三坊から、かなり東まで広がりを持つことになる。併せて、 平城宮造営に伴う必要な土地は広大な面積となり、90戸の民家の移転としては、少なすぎるから 否定的に思われる。別の考え方としては、平城宮造営の労働力・資材を集合させる基地を確保する ため、菅原の地の民九十余家を遷したのではないだろうか。その基地が後に菅原寺になったと考え るのである。仮に庶民の宅地を最も小さい三十二分の一町の区画とすると、九十余家で最低でも 三町が生み出せる計算になる。そうすると、『西大寺所伝京城坪割図』に九町ある菅原寺の敷地は、 寺史乙麻呂の敷地五町以上を核にして、菅原の地の民九十余家民家を移転させたことに伴い、より 広い敷地が確保されたことになる。よしんば、民家の移転がなくとも、元々、菅原の地に九町もの 土地が確保されていたならば、このことは、菅原寺の建立が平城京造営計画の当初から予定され ていたことを示すのではないか。 (2)藤原京から移転してくる寺院 『略縁記』による菅原寺の創建は霊亀元年(715)とすることが信頼できるならば、藤原氏の氏寺 である興福寺や禅院寺の建立(20)に次いで、平城遷都後の早い時期に造られた寺院となる。 平城京遷都に伴う寺院の移転の状況は、藤原氏の氏寺である興福寺が官営寺や他の氏族の 氏寺よりもいち早く、平城遷都とほぼ同時の和銅三年(710)に藤原京の西の厩坂から外京三条 七坊に移ったとされるが、実は、霊亀・養老の交に創建されたから、完成までに相当の年数を費 やしたことになる。(21)。 そして、大安寺は、霊亀二年(716) (22)、元興寺及び薬師寺は、養老二年(718)に新京に移転 した。(23) 大宝二年当時に四大寺といわれた官営寺は、元興寺、大安寺、薬師寺、弘福寺(川原寺)の 四寺である。本来ならば、この官営の四大寺が全て平城京内に移転してきてもいいはずである が、弘福寺(川原寺)は移転しなかった。(24) 表6 平城京遷都(710)に伴う寺院の移転の状況
史料 紀年 内容 西大寺所伝京城坪割図 『年譜』の五町以外に、同坊の七坪、三条四坊の一坪、二坪、七坪の合計九町 大和国南寺敷地図帳案 長承3(1134) 菅原寺四町六反敷地 行基年譜 1175 右京三條三坊九坪十坪十四坪十五坪十六坪 菅原寺もまた、遷都に当たり平城京に配置すべき寺院又は施設の一つとして構想されたもの と考える。 そして、藤原氏の氏寺である興福寺と、元興寺・大安寺・薬師寺の官営三寺に菅原寺を合わ せた五寺が平城京内に大きな位置を占めて計画され、平城宮城に近い北側から移転または 築造が行なわれたような結果となっている。 生馬山の杣山は、新都城の造営に利用され、距離的に近い菅原寺の地が都造営の基地と して活用されたのであろう。 寺院の配置状況は、先に示した図1のとおり、東西の市が朱雀大路を挟んで、左京・右京の 対称の地に配置されているように、寺院も概ね朱雀大路を挟んで対称の位置に配置されたの ではないか。 興福寺は、左京にあっては、平城京の外京になるが、宮城に最も近い位置で十六町という 広大な面積を占めていた。 次に宮城に近い位置にあるのは、興福寺の南に位置する元興寺である。左京の東市の北 側には大安寺があり、右京の西市の北側に薬師寺がある。そして、朱雀大路を挟んで東西を 見たとき、概ね、大安寺と薬師寺が対になり、元興寺と対になるのは、後年、天平宝字三年 (七五九)に建立される唐招提寺である。唐招提寺の寺地は、故新田部親王の邸宅四町で あった。 (28) 東大寺は外京の更に外に位置する。東大寺は聖武天皇により造られ、西大寺は孝謙天皇 によって、天平神護元年(七六五)に法華寺を挟んで東大寺と対称の地に造られる。 禅院寺のほか、貴族の氏寺である紀寺、穂積寺、服寺、葛木寺、佐伯院(香積寺)、伴寺 (永隆寺)などが飛鳥から移り、一町から四町くらいの広さを占めて建てられた(29)。図1参照。 菅原寺は、西大寺が建立された以後見劣りがするが、それまでは平城京右京にあって 宮城に近く、興福寺と対になる位置を占めた。また、薬師寺や後年の唐招提寺より西に隔 たる平城京の右京の外縁部になるが、平城京の北部にあること、薬師寺や大安寺よりも 宮城に近いだけでなく、東大寺の西門から平城宮の南を通る二条大路に面し、更には、 暗峠を経て難波へ通じるという交通の便等から考えれば菅原寺の立地の良さが際立つ。 敷地規模と立地からみれば、他の官営大寺に匹敵する主要な位置を占めているといえる。 二 菅原の地について 1 平城遷都と風水思想 『続日本紀』和銅元年二月戌寅(十五日)条に、元明天皇の詔がある。 「方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮を作し、亀筮並に従ふ。都邑となるべし」 と平城遷都に当たって、亀筮を行い、風水吉地を選定したことを述べている。 『続日本紀』によると、和銅元年九月十四日、元明天皇が菅原に行幸する。 九月二十日には平城に巡行して、その地形を観たまふとされ、九月二十二日は山背国 相楽郡岡田離宮に行幸、九月二十七日に春日離宮に至り、九月二十八日に還宮され ている。 これらの元明天皇の巡行は平城京造営のための一連の行動と考えられる。 平城京造営に当たっては、まず必要な土地を確保しなければならない。菅原の土地も その一つであったのであろうが、先に示したとおり、和銅元年十一月乙丑(七日)条には、 何故か菅原の土地収公だけが記される。そして、十二月五日には平城宮地の地鎮祭が 行われている。 これら『続日本紀』の一連の記事から、菅原の地は、元明天皇の視察と関連すること が想定できる。まず、菅原の行幸の地には、元明天皇がしばらく滞在できる離宮と同様 な建物(離宮の記事はない)が存在したと考えられる。この天皇が滞在できるような第宅 を寺史乙麻呂の居宅、つまり藤原不比等の第宅と考えることは如何であろうか。 不比等の土地は左京法華寺だけでなく、右京西大寺の南にも存在した。 天平十二年五月に聖武天皇が恭仁京遷都前に山背国相楽郡の橘諸兄の相楽別業 (邸宅)に行幸していることと同様のことである。繰り返すが、平城遷都の主唱者は藤原 不比等その人であり、藤原不比等は、元明天皇の平城京視察を先導したことだろう。 平城京を築造する前提に土地の風水を見たことは先に示した。宮城を造営する時に その宮城を鎮守するための勝地として、菅原寺を宮城の南西方向に置いた(30)。 つまり裏鬼門を平城京外辺に置いたと考える。 この裏鬼門の位置が菅原寺の位置に相当し、菅原寺が宮城を守護する役割を果たす ことになる。ここに菅原寺が元明天皇を含めた三代の勅願寺とされた理由があるのか も知れない。 そして、宮城の鬼門(東北)に当たる地に元明天皇の崩御後の奥津城、つまり、元明 天皇陵を予定したのである。都を造るとき、すべきことの一つに、廟予定地を定めること が想定されていたと考える。九月二十二日に岡田離宮へ行幸したのは、平城京予定地 の視察後、宮城の鬼門である東北の方向である加茂、久仁方面まで、元明天皇陵の 候補地を視察するために巡行したのではないか。元明天皇が崩御された後、宮城の 鎮守となって、鬼門を護るというわけである。 『続日本紀』養老五年十月丁亥(十三日)条に、太上天皇(元明)詔して日く「朕崩る後 は、大和国添上郡蔵宝山の雍良岑に於て、竈を造りて火葬すべし。他しき処に改むる こと莫れ」とされることは、元明天皇が生前から、自分の死後の埋葬場所を決めていた ことを示している。この蔵宝山・雍良岑は「[蔵宝山]佐保山、棹山にもつくる。平城京の 北東。奈良山の一部。[雍良岑]佐保山の北嶺をいう。…(31)」とある。 『続日本紀』養老五年十二月乙酉(十三日)条に「太上天皇を大和国添上郡椎山陵に 葬る。…遺詔に由りてなり。(32)」とあり、元明天皇陵は、諸陵寮式に「奈保山東陵 <平城京御宇元明天皇、在二大和国添上郡一、兆域東西三町、南北五町、守戸五 烟>」、陵墓要覧に奈良市奈良坂町とある。新撰字鏡に「椎<奈良乃木>とあり、 椎山陵は奈良山陵と訓む」とされる。 両鬼門に寺院と陵を配置する風水の考え方は、他にも見られる。平安時代に大和 国高市郡白橿村に益田の大池を築造した際に碑文をしたためたことが『遍照発揮性 霊集』に見える。そこには「池の状たる、龍寺[龍蓋寺、今の岡寺]左にす、鳥の陵 [綏靖天皇陵桃花鳥田丘上陵。また白鳥の陵]を右にす。大墓[大野の墓。平郡に ありという。]南に聳け、畝傍[山]北に峙てり。来眼の精舎[久米寺]其の艮[東北 方]に鎮めたり、無遮の荒壟[宣化天皇陵身狭桃花鳥坂上陵]其の坤[西南方]を 押せり(33)。」とある。 益田池の鬼門の東北方向に久米寺が位置し、裏鬼門の西南方向に宣化天皇陵 が位置することは、元明天皇陵と菅原寺の場合と方向が逆であるが、二つの鬼門 の方向に寺院と陵を置くという考え方は共通する。また、菅原の地には、垂仁天皇 陵が位置するので、平城宮は元明天皇陵と垂仁天皇陵の二つの御陵に守護され る位置にある。 聖武天皇は、藤原広嗣の乱後、山背国加茂への恭仁京遷都を実行した。そして、 恭仁京の鬼門に当たる信楽に甲賀寺・大仏を造ることを計画した。恭仁京を中心に すると、甲賀寺−元明天皇陵を配置する構図は、益田大池の風水図と相似である(34)。 このような風水思想による寺院・陵の配置が、平城京造営の一貫した計画の下に 構想されていたと考えると、菅原寺が元明天皇以下三代の勅願寺とされ、特別な位 置に立地することが分かるだろう。因みに、平安京は、表鬼門に比叡山延暦寺を置 き、裏鬼門に石清水八幡宮を置いたとされる。 (35) 2 菅原伏見の里 (1)『大和名所図会』の歌 『大和名所図会(36)』に掲載される「菅原伏見の里」の歌を考える。 『古今』 いざここに我が世を経なん菅原や伏見の里の荒れまくもなし読人しらず『題しらず』 『後撰』 菅原や伏見の里の荒れしより通ひし人の跡もたえにき 同 『千載』 何となく物ぞ悲しき菅原や伏見の里の秋の夕ぐれ 源俊頼 『続千載』 子規しばしやすらへ 菅原やふしみの里のむら雨の空 定家 以上の四首に共通する「菅原や伏見の里」は、掛詞を考えると、「荒れ・荒れ・秋・雨」に懸かっ ている。より厳密にいうと「あ」=「安・阿」に懸かっているのである。(37) 「阿」は、「おか『新字源』角川書店」の意味がある。「菅原や伏見の里」の言葉は、「おか」に 注目せよ、「おか見=オカミ」の意味が隠されている。「拝み」にもつながる。 (2)山陵 「阿」は、陵墓でもある。菅原の地には、櫛見山陵、伏見山陵と二つの天皇陵がある。 『続日本紀』には、霊亀元年夏四月庚申(9日)の条に、 「櫛見山陵 生目入日子伊佐知天皇之陵也 充二守戸三戸一。伏見山陵安康天皇之陵也 四戸。」とあって、垂仁天皇の御陵を、「櫛見山陵」、安康天皇の御陵を、「伏見山陵」とあらわ している。 千田稔は、「垂仁天皇陵。『日本書紀』には菅原伏見陵というが、今日治定されている墳墓は、 全長一三七メートルの前方後円墳で、周濠をめぐらす。『日本書紀』によれば、垂仁天皇は 田道間守に命じて、常世の国にある非時の菓果[ときじくのかぐのみ]つまり橘の実をとりにやら せるが、常世の国ははるかに遠く、一○年の歳月を要して帰った時には、天皇は亡くなっていた という。この田道間守の墓が周濠の中にある島であると伝わるが、これは後世、貯水のために 濠を拡張した際に、外堤にあった陪塚が中島となったものらしい。それはともかく、この常世とは、 垂仁紀に「神仙の秘区」であるという説明をくわえている。神仙―それは古代中国に源を発する 道教の神、仙人のこと。この垂仁陵古墳は、いつのころからか宝来山ともよばれるが、この宝来 も中国の東方海上にあるとされた神仙の島、蓬莱のことである。神仙の郷は不老長生の地であ るが、垂仁天皇にまつわる神仙思想が『日本書紀』に記されていることからみれば、この山陵が 宝来山とよばれたのも、さほどのちのことではないのかもしれない。あるいはこの陵は、土師氏ら によって天皇の死後の、永遠の生をかなえるためにつくられたのかもしれない。(38)」とするよう に、山陵は、埋葬者の再生を期したものかも知れない。特に、前方後円墳は、ハカマを着用した 女性に形取られている。 (3)伏見翁・菩提 『元亨釈書』に伏見翁なる人物が記される。 「伏見翁は何ところの人か不知。ある人の曰く。天竺より来る。菅原寺の側の崗に臥す。 三年起きず、物言わず、時々首を挙げて東方を見る。天平八年、行基法師菩提を迎えて、菅原 寺に帰りて供を設ける。二人甚だ歓しむ。箸をとりて板を拍つ。二比丘互いに舞ふ。この時翁俄 かに起きて寺に入る。舞ながら歌曰く、時かな、時かな、縁熟するかな(39)。三人相共に舞ふ。 故旧の如し。蓋し年頃口が利けない真似を為すのはこの言を発せんがためなり。時々頭をもた げて、東を望むは、東大寺の営構を見るところなり。翁の居より臥見崗[フシミノオカ]と名付く。 翁の名に因るなり(40)。」ここに崗オカが登場する。この説話の意味するところは何か。板拍子 を打つのは、伏見翁は催馬楽を演じているのである。また、伏見翁の居付く場所は斎(いつ)く 場所であり、相対的に西の位置を示す臥見崗[フシミオカ]は、オカを入れ替えると、フシオカミ となる。伏拝みは地に臥して拝むことであり、伏見里は聖なる遙拝の場所であると読み解くこと ができる。 (41) 『大安寺菩提伝来記』(42)には、「四大倭国[大倭国看]者婆羅門之往昔童子也」とあり、行基 と婆羅門僧正が和歌を交えて、大倭国看と共に再開を喜びあう様子が描かれる。 三 菅原寺の性格 1 氏寺 菅原の地は、土師氏の本貫の地である(43) から、菅原寺は、土師氏の氏寺とする論がある。(44) 『大和志料』は、「伏見村大字菅原喜光寺薮ニアリ。延喜式内ニシテ、今郷社タリ。天穂日命、 野見宿禰ヲ祭ル」として、土師氏の事をのべる『菅家伝記』なるものを掲げているが、その末に、 当社は菅原ノ氏人ガ、 其ノ祖神ヲ祭ルモノナルベキ毛事歴詳ナラズと結んでいる。 延暦四年十月光仁天皇の子である早良親王が菅原寺に至る。早良親王が菅原寺と関係を持 つのは、早良親王の外祖母が土師真妹にゆかりのある寺院とする(45) 菅原寺境内の弁天堂には、秘仏「宇賀神像」が弁天様と共に祀られている。 「宇賀神像」は人頭蛇身、とぐろを巻いた蛇で、顔は長い白髭をたくわえた老人の姿であるが、 この「宇賀神」は「弁財天」と同一体であると言われている。神仏習合以前は「倉稲魂神(うかの みたまのかみ)」と呼ばれ、神仏習合後は『弁財天』の水神信仰と龍と蛇が結び付いた龍蛇神が 合わさった。土師氏はこの龍蛇神を信仰していたらしく、土師氏の拠点・大阪府松原市の「土師 弁財天」では氏神様の白姫龍神が祀られている。また土師氏の祖・野見宿禰の出身地「出雲」 では旧暦10月に神々の先導役を龍蛇神とする「神迎祭」が行われる。 2 藤原氏との関わり 「宇賀神」は土師氏だけでなく、藤原鎌足とも関係がある。 京都市上京区の上善寺蔵の「宇賀弁財天十五童子像(14世紀)」には、藤原鎌足像が描かれ ている。(46) 菅原寺と藤原氏との関わりは、『類聚国史』、巻百八十二、仏道九、寺田池の項で、 延暦十 一年(七九二)、四月丙戌(二)の条に、「在二摂津国嶋上郡一菅原寺野五町、梶原僧寺野六 町、尼寺野二町、…」とある。摂津国嶋上郡は、鎌足の墓地があり、藤原氏の関われる土地柄 である。 『行基年譜』に「長岡院」がある。『興福寺略年代記』に「養老二年不比等號長岡」とあるから、 「長岡院」は不比等の號をつけたもので、菅原寺と不比等は関係があるらしい。「長岡大臣」は、 藤原北家、参議・藤原房前の次男藤原永手も名乗る。官位は正一位・左大臣、贈太政大臣。 長岡大臣と称する。 天平宝字二年(758)恵美朝臣押勝(藤原仲麻呂)の宣により御願経のうち五十巻を菅原寺 に奉請した。(47) 『家伝(武智麻呂伝)』によると、菅原の地には藤原武智麻呂の別業があった。(48) 「長岡院」は不比等の號をつけたもので、菅原寺と不比等は関係があるらしい。 「長岡大臣」は、藤原北家、参議・藤原房前の次男藤原永手も名乗る。官位は正一位・左大 臣、贈太政大臣。長岡大臣と称する。 菅原寺は、中世には興福寺一乗院の末となり、同院関係者の墓所が設けられた。(49) 2 佐紀堂・布施屋との関わり 『行基年譜』の佐紀堂について考える。 「行年卅八歳乙己 文武天皇九年慶雲二年乙己 引二導生母一、安二居右京佐紀堂一、 盡レ力孝養。」とある。 佐紀堂は、慶雲二年から生馬仙坊に移る慶雲四年までの数年間、母親の孝養を尽くした 場所であるが、「なぜ母親をわざわざ故郷から遠く離れた大和の北部に呼んだのかは不明 である。(50)」とされる。 後に、慶雲四年(707)生馬仙房に移るが、「そもそも、修業地に母親を呼び寄せるということ 自体が不自然であり、慶雲元年以後の一連の孝行談には、母親の「逝化」から遡らせた作為 があるように感じられる。(51)」とされる。 池田源太は、「『日本霊異記』の下巻には、犬養ノ宿禰真老者。居二諾楽ノ京、活目ノ陵ノ 北之佐岐村一と記されている。これは、活目陵、すなわち、垂仁天皇陵の北側に、「佐岐村」 という村のあったことを言うのである。垂仁陵は、『日本書紀』では、「菅原伏見陵」と言い、 『古事記』では、「菅原ノ御立野の中にあり」とも言われているので、古くから、今の三条通り の南にある、あの陵が当てられていたと考えられるので、この「佐岐村」は、現在の菅原町 のあるあたりを指している可能性がある。『日本霊異記』、正しくは、『日本國現報善悪霊異 記』は、弘仁の頃、諾楽、西の京、薬師寺の僧、景戒の撰する所であるから、このあたりの 地名を取り違えたとは考えられない。従って、平安朝の初期には、垂仁天皇陵の北の菅原 あたりは、佐岐村と呼ばれていた可能性があることになる。(52)」とする。ここでは、土師氏 ではなく、皇居の警護などに当たる犬養宿禰氏が見られる。 田村円澄は、「佐紀の所在地について、『日本霊異記』には、「諾楽京活目陵北之佐紀村」 とあり、すなわち垂仁天皇陵の北に、佐紀があったことが知られる。旧伏見村・都跡村が佐 紀にあたるが、旧伏見村の菅原は、行基が終焉を迎えた菅原寺の所在地である。 行基の母が移ってきた佐紀堂は、菅原にあったと考えられる。(53)」とするが、同じ菅原の 土地に所在する菅原寺と佐紀堂の関係について触れない。 田中重久は、佐紀堂を行基建立の四十九院のひとつと考えた。(54) 「佐紀堂、慶雲二年、平城京右京西大寺付近」として、尼院の位置づけをしている。佐紀堂を 入れなくとも四十九院の数を満たすので、一般的には蔑ろにされている論であるが、菅原の 地に佐紀堂があったことは異論がないものと思われる。 次に考えることは、佐紀堂が行基建立の他の寺院と重なる可能性である。つまり佐紀堂と 菅原寺の関係を同一のものと想定する。 そして、大和国には、行基の社会活動の一環として、布施屋が作られたことが見えない。 しかしながら、菅原の地は、難波・河内と大和とを結ぶ要路にも当たる平城京の西にあって 行基の活動には最適の場所である。 勝浦令子が、「養老末年における平城京での布教地点であった(55)」とする。 佐紀堂は母の居住した場所であると共に、納税や造都のために苦しんだ人々を救済する 布施屋としての活動をしていた場所とも考えられる。 3 平城京建造の基地 『略縁記』によると、和銅六年元明天皇の勅免を得て生馬山の杣の材を採り、霊亀元年に 寄進された宅地に菅原寺前身となる佐紀堂を創建する。 国史に表れない菅原寺の性格を考えた場合、京城に近い位置を早くから占めたことは、 平城京の建設に欠くことの出来ない存在でなかったか。 滋賀県の石山寺について、杉山二郎は、「物資輸送の仲継地石山院 北陸路、裏日本 の物資、労働力は、 琵琶湖をわたり、瀬田川入回の石山寺に集結されたと考えられる。 いやそればかりではい。東国、東海道、美濃の物資も不破の関を越え、琶湖沿岸から 瀬田の石山寺に集められた。…石山院が、すでに天平十八年の時点で存在し、木材、 労働力の輸送仲継地、また連絡所、ターミナル的な性格をもっていたと考えられる。(56)」 とするように、甲賀寺の大仏造営に石山寺が果たした役割を菅原寺が同じくしていて、 平城京建造時においては、菅原寺が平城京の起工の基地となったと考える。布施屋の 性格を有していたとしても齟齬をきたさないと思われる。 平城京造営の労働力が集められた痕跡が天平五年の「右京計帳手実」に見える 於伊美吉子首が右京三条三坊の菅原寺の傍に住むことである。当時於伊美吉子首は 69歳であり、下野国薬師寺造司工とされ、平城京遷都時56歳であったから、その技能 が要請されたことだろう。 結びに 菅原寺について、論じたことは、次のように要約できる。 国史に表われないという珍しい寺院であるから、ほかの南都の大寺院とは、出発点が 異なるのかもしれない。一つは、平城京における行基の活動拠点であったと言えるが、 その実、平城京建造の労働力・資材を集合させる基地の役割を果たしていたものでは ないだろうか。 平城京遷都は、藤原不比等が中心となり進めようとしたものであり、菅原寺の拠点は 不比等の土地が中心となるものと考える。 もう一つは、菅原寺の前身は佐紀堂であり、不比等が残したものと推考する。 そして、平城京の造営とともに、都の設計に組み込まれていて、平城宮の裏鬼門に当 たる位置に造られた。寺の造営は、行基が弾圧されたとされる養老六(722)年ころから 長期に亘って整備されてきたと考える。 隠されたもの 『元亨釈書』の伏見翁の説話については、菩提遷那が来朝した天平八年に東大寺の 営構は存在しない。東の方向、宮城の角には後に隅寺(海竜王寺)ができている。これも 不比等の残した土地であった。そこは宮城の鬼門に当たる。 菅原寺から東北の方角に宮城及び元明天皇陵があり、まさに菅原寺の地は伏し拝み する場所である。現在の菅原寺の本堂(重要文化財)は1544年の再建で「試みの大仏殿」 と呼ばれ、東大寺大仏殿(江戸時代の再建)と、寄棟造の屋根と、その下に裳階(もこし)と 呼ばれる庇(ひさし)を付けた一見二階建てのような建物の形は同じで双方とも重厚で荘 厳な雰囲気が漂う。 (57) 菅原や伏見の里は、このように伏せられた地である。菅原寺の建立も年譜に記される とおり、『略縁記』より後れた養老五年または六年とされることは、藤原不比等が薨去し、 また一周忌に当たる。更には、『略縁記』により行基が常住した寺とされ、涅槃どころとな る菅原寺は、行基の活動がもう一つ明確にされない。想像を逞しくするならば、『略縁記』 から鑑みた行基は、元明天皇の勅願により生馬山の杣山から材を採り菅原寺を建立する ことが役目であり、その材を切り出すために生馬山に滞在する拠点を設けたとも想像される。 菅原の地は、平城京造営に伴う木材、労働力の集積する基地であり、同時に役民の困難 を救済する機能を併せ持ったものであると考える。(58) 『年譜』の「天平十三年記」には、布施屋が九箇所あるが、大和国には存在しない。 これは、不自然なことである。「菅原や伏見の里」に挿入される「や」は、「屋」に置き換えると、 「菅原伏屋」が抽出できる。いわゆる菅原寺が大和国における布施屋の役割を果たしたこと が伏せられているものと憶測する。 『東大寺要録』巻第四、諸院章第四によると、「天地院号二法蓮寺一。縁起文云。是文殊 化身行基菩薩建立也。…於二大和国一造二八箇寺一第二。添上郡求二諸山根一於御笠 山阿部氏社之北高山半中一。始造二和銅元年二月十日戊寅一。山峯二伽藍一。即天地 院。名二法蓮寺一。…」と、大和国の第二番目に建立の寺院とする。『年譜』に大和国七寺 院がある(59)が、法蓮寺天地院を含むと八寺院となる。法蓮寺天地院は、和銅元年に建立 されたので、大和国の第一番目の寺院は、和銅元年以前の建立である。 『行基年譜』から判断すると、菅原寺の前身と考えられる慶雲二年の右京佐紀堂しか見当 たらない。 和銅元年、行基が三笠山安倍氏の領地に天地院法蓮寺を建立した(60)ことは『行基年譜』 に記載されていない。これも大和国における行基の活動が隠されている一つといえる。 隠された理由は何か。大和国と行基の関係を結びつけないため、逆説的にいうと、大和国と 行基の関係を結びつけるため、大和国における行基の一部の活動を隠しているといえる。 また、「菅原や伏見の里」からは、「あ」に掛かることは述べたが、『日本霊異記』下15の説話 は阿陪天皇(元明天皇か)の時代であるものの「犬養宿禰真老者居住諾楽京活目陵北之佐 岐村也」の記事からは、「あがた」を漏らした県犬養宿禰氏の存在が窺える。 行基は、橘諸兄のほか、藤原氏や県犬養宿禰氏と結びつくものと考える。 註 (1) 池田源太『大和の古代史叢攷下巻』人間生態学談話会、1989年、239頁。 ただし、『類聚国史』、巻182、仏道9、寺田池の項で、 延暦11年(792)、四月丙戌(2日)の条に、 「在二摂津国嶋上郡一菅原寺野五町、梶原僧寺野六町、尼寺野二町、…」とあるように、菅原寺 がある。この嶋上郡は、藤原氏と関係があるか。 (2)『続々群書類従』第3史伝部、 『行基事典』井上薫編、国書刊行会、1997年、334―335頁 (3)中井真孝『日本古代の仏教と民衆』評論社、1973年、123頁。 (4)『大日本仏教全書』寺誌叢書第四、名著普及会、1980年、503-504頁。 (5) 『奈良市史』通史第1巻、1990年、151頁。 (6) 吉田靖雄『行基と律令国家』吉川弘文館、1986年、93頁。 (7) 前掲書註 (5)150頁。 (8) 大西貴夫「菅原寺及び周辺出土の瓦からみたその造営背景」『橿原考古学研究所論集』 第14巻、八木書店、2003年。558−560頁。 (9)「菅原寺」『国史大辞典』第8巻、吉川弘文館、62頁。 (10) 勝浦令子『日本古代の僧尼と社会』吉川弘文館、2000年、295−296頁。 (11) 吉田靖雄、前掲書註(5)166頁。注5。 (12)『国史大辞典』第12巻、吉川弘文館、467頁。「平城京」 (13) 同上467頁。 (14) 同上467頁。 (15)「『続紀』叙位記事は、五位以上の叙位を記す事を原則としたものであると思われる。」 (西本英夫「続日本紀における叙位の欠落について」『奈良史学』19巻、奈良大学史学会、 2001年、23頁。) (16) 『群書類従』第5輯、系譜・伝・官職部、巻64、347頁。 (17) 田村円澄「行基と民衆仏教」『日本仏教史2』法蔵館、1983年、173頁。 平城遷都の主唱者は藤原不比等その人であった。 (18) 千田稔『天平の僧行基』中公新書、1994年、14頁。/井上光貞『行基 鑑真』1983年、176頁、註1。 (19) 池田源太、前掲書註(1) 244頁。 『行基年譜』の五坪は、行基が亡くなったとされる東南院が欠けているとも思われる。 (20) 吉田靖雄、前掲書註(6)165-166頁。 (21) 森郁夫「土塔の出土瓦と行基関連寺院の瓦」『史跡、土塔文字瓦集成』堺市教育委員会、2004年、94頁。 (22) 前掲書註(5)146頁。 (23) 禅院寺の建立「和銅4(711)年に東南禅院は右京四条一坊に移された。最も早い寺院の移転である。」 (前掲書註(8)556頁。) (24)『国史大辞典』第5巻、吉川弘文館、492頁「興福寺」。 (25) 『続日本紀』霊亀2年5月辛卯(16日)条には「始めて元興寺を左京六錠四坊に移して建つ」とある。 本条の左京六錠四坊は実は大安寺の寺地であって、続紀編者が大安寺を誤って元興寺と記したの ではないかとする説が有力。(『完訳注釈続日本紀』第一分冊、林睦郎注訓釈、現代思潮社、注巻7(136頁)、53頁。) (26) 岩城隆利『日本仏教民俗基礎資料集成7』元興寺極楽坊Y、中央公論美術出版、1974年、48頁。 (27) 岩城隆利は、「同寺が天智天皇系の寺院であったからと考えられている。」とする。 (岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館、1999年、46頁。) 福山敏男は、弘福寺が移転しない理由を川原寺は、斉明天皇の川原宮の地に建てた天智天皇の勅願寺として、 重視されたとするような由緒の特質によるとし、藤原宮時代の弘福寺の平城京では興福寺が占めることとなった とする。(福山敏男『奈良朝寺院の研究』綜芸社、1978年(1948年原本発行)、「川原寺」の項) (28) 小野勝年「鑑真とその周辺」『行基 鑑真』吉川弘文館、1983年、307頁。 (29) 岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館、1999年、48頁。 (30) 『今昔物語集』3-12-13「其ノ島ノ西南ノ方ニ一ノ勝地アリ」 (31)『続日本紀』第二巻、103頁。注解14・15、岩波書店、1990年、古典文学大系 (32)『続日本紀』第二巻、105頁。注解25 (33)『三教指帰 性霊集』日本古典文学体系71、岩波書店、1965年、191−193頁。 (34) 吉野裕子によると、藤原京時代には子午軸(南北)が重視されたが、平城京移転後、巽乾軸(東南・西北)を重視 する考えが出来たとする。この巽乾軸は、鬼門軸と直交する対の線である。(『日本古代呪術』大和書房、1985年、 66-71頁。) (35) 上原真人「国境(くにざかい)の山寺:石清水八幡宮前身寺院に関する憶測」『京都府埋蔵文化財論集』第7集、 2016年、177頁。 (36)『大和名所図会』巻之三、59頁。 (37)『寧楽遺文(上)』の「法隆寺資材帳(363頁)」の菅原郷に「習宜池」がある。続日本紀(神護景雲3年9月25日条)に 「習宜阿曽麻呂」が居り、菅原が「あ」に掛かることが分かる。 (38) 千田稔『天平の僧行基』中公新書1994年、22頁。 (39)「時かな、時かな、縁熟するかな」の謎解きは、「解きかな、斎かな、フチ(=不知)字句するかな」と置き換える。 「斎トキ」は、 (僧家で)食事のこと=「斎(サイ)」(新明解古語辞典、三省堂)とあり、「不知」は特殊な読み方でイサ と読める。「サイ」と「イサ」が現われる。 (40) 原漢文。筆者読み下し文。『大和名所図会』の最終行訳。「翁、時々ひがしを見けるは、東大寺をさしけるにや」。 巻之三、59頁。 (41) 松本清張は、「遥拝する陵 眺望するところは、遥拝の場所である。遥拝は山陵にむかって「伏し拝む」ことに なる。大和生駒郡の伏見町大字平松には垂仁天皇陵があるが、これを菅原伏見東陵という。同町大字宝来には 安康天皇陵があり、菅原伏見西陵という。両陵とも方形部が南面している。菅原の地に立つとき、まさに両陵とも、 方形部と円墳部とが連なった全容、いわゆる側面を真正面に眺望するのである。伏見の地名は、伏し拝む場所と いうことから来たと考えられる。稲荷社のある山城の伏見は比叡山を伏し拝んだかとも思われる。 日本書紀には 「俯見」につくる(雄略紀十七年。「土師連の祖吾笥(おやあけ)、仍りて摂津国来狭狭村、山背国の内村・俯見村、 伊勢国の藤形村、及び丹波・但馬・因幡の私の民部を進る」)が、俯見は、俯し拝みがつづまったものであろう。 地名の伝播したらしい奥州には「伏拝」の原名がかえって残っている。岩代国信夫郡にあって、信夫山の神を遥 拝する土地だったという。」とする。(松本清張、『遊古疑考』新潮社。1973年、63頁。) (42)『続々群書類従』「東大寺要録」第2、45頁。 (43) 田村円澄「行基と民衆仏教」『日本仏教史二』法蔵館、1983年、173頁。 (44) 吉川真司『天皇の歴史02 聖武天皇と仏都平城京』講談社、2011年、193頁。 (45) 大江篤「川原寺と怨念 伊予親王の霊を巡って」『怪異学の技法』臨川2003年、110頁。 (46) 黒田智『藤原鎌足、時空をかける』吉川弘文館、2011年、27−29頁。 (47) 山本幸男『写経所文書の基礎的研究』吉川弘文館、2002年、75頁。 (48) 大日本仏教全書119、寺誌叢書第3、11頁。 (49) 『国史大辞典』第8巻、吉川弘文館、62頁。(「菅原寺」の項) (50) 千田稔『天平の僧行基』中公新書、1994年、78頁。 (51) 南出真助『アジア、老いの文化史一青春との比較において一』新泉社、 1997 、57頁。 (52) 池田源太『大和の古代史叢攷下巻』人間生態学談話会、1989年、223頁。 (53) 田村円澄「行基と民衆仏教」『日本仏教史二』法蔵館、1983年、170頁。 (54) 田中重久「行基建立の四十九院」『史跡と美術』118号。 (55) 勝浦令子『日本古代の僧尼と社会』吉川弘文館、2000年、293頁。 (56) 杉山二郎『大仏建立』学生社、1968年、207-208頁。 (57)「行基、東大寺の参考に?喜光寺『試みの大仏殿』」時の回廊、日本経済新聞社2018年7月25日。 (58) 前掲書註(56)、293頁。「菅原の地 行基の前期の活動が平城京造営と密接な関係にあったことは確かであり、 この時期の活動の拠点は「行基年譜」によれば、生馬仙房・恩光寺。隆福院・菅原寺があげられる。 これらの諸院は平城京と河内を結ぶ暗峠ルートに沿っており、そして菅原寺のある右京三条三坊はこのルートの 終点である三条大路に接するところであった。この菅原寺は…養老末年における平城京での布教拠点であった とする点は信憑性があると考える。」 (59) 「七寺院」菅原寺・平群郡恩光寺・同郡生馬仙坊・添下郡隆福院・同郡隆福尼院・同郡頭陀院・同郡頭陀尼院 (60) 前掲書註(56)、134頁。/『東大寺要録』 参考文献 『国史大辞典』第8巻、吉川弘文館、62頁。(「菅原寺」の項) 『行基年譜』続々群書類従 『菅原寺起文遺誡状』『大日本仏教全書』119、寺誌叢書第四、名著普及会、1980年、11-12頁。 『清涼山歓喜光寺略縁記』『大日本仏教全書』119、寺誌叢書第四、名著普及会、1980年、22-24頁。 高島正人『藤原不比等』吉川弘文館、人物叢書、平成9年、253頁。
寺院 平城京移転 備考 佐紀堂 慶雲二年(705) 菅原寺の前身か。 興福寺 和銅三年(710) 実際は、霊亀・養老の交に創建された。 禅院寺 和銅4年(711) 東南禅院(道昭建立) 菅原寺 霊亀元年(715)『略縁記』 養老六年(722) 喜光寺『行基年譜』 大安寺 霊亀二年(716) 元興寺 養老二年(718)九月甲寅(23日) 新訂増補国史大系「類聚国史」巻180、254頁。 薬師寺 養老二年(718)
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]