佐為王考



佐為王考
はじめに
  佐為王は、敏達天皇系の五世王、父美努王と母橘三千代の第二子で、兄葛城王と共に臣籍降下
し、母方の橘姓を名乗る。そして、聖武天皇と深く関わり、皇太子侍従、中宮大夫などを歴任。
天平九年、藤原四兄弟とともに疫病に倒れる。娘の古那可智は聖武天皇夫人である。
 その辺りまでは国史で分かるが、取り上げられることが少なく歴史に埋もれた人物といえる。
 ここで、橘宿禰佐為を取り上げるのは、藤原仲麻呂と同様に行基と交わらない官人の一人であ
ることに、興味を持つからである。

1 佐為王の史料
表1 佐為王の史料
史料説明内容
続日本紀初叙位和銅七年(714)1/5従五位下叙位
侍従養老五年(721)正月庚午条、退朝の後東宮(後の聖武天皇)に侍す。
橘氏姓賜天平八年(736)11/17葛城王・佐為王とともに橘宿禰姓を賜る。
卒伝天平九年八月壬寅朔(一日) 中宮大夫兼右兵衛率正四位下橘宿禰佐為卒す。
尊卑分脈橘氏系図左兵衛督、中宮大夫正四位上 佐為―綿裳・女子(麻通我)
政事要略24「官曹事類」従五位上佐為王前輿長
類聚國史 (天平)九年八月癸卯(二日)云々。命曰。(記事欠)
新撰姓氏録第二巻左京皇別上橘朝臣 甘南備眞人伝祖 敏達天皇皇子難波皇子男。贈從二位栗隈王男。治部卿從四位下美努王。美努王娶從四位下縣犬養宿禰東人女贈正一位縣犬養橘宿禰三千代大夫人。生左大臣諸兄。中宮大夫佐為宿禰。贈從二位牟漏女王。
家傳下(武智麻呂伝)群書類従巻60風流侍従狭井王
続日本紀俗姓高志氏、和泉国人也行基伝
高志連:高志?登若麻呂らに高志連を賜う姓氏録:右京神別・大和神別
古志連:文宿祢同祖、王仁之後也姓氏録:河内諸蕃・和泉諸蕃
万葉集6−1004歌註に「内匠大属鞍作村主益人聊設飲饌以饗長官佐爲王」
6−1009左註冬十一月九日従三位葛城王、従四位上佐為王等辞皇族之高名賜外家之橘姓已訖…八年十一月九日従三位葛城王等願橘宿祢姓上表 以一七日依表乞賜橘宿祢
6−1013歌註に「(天平)九年丑春正月橘少卿」がある
6−1014歌註に「右一首橘宿祢文成 即少卿之子也」
16−3857歌註に「右歌一首伝云、佐爲王有二近習婢一也」
本朝皇胤紹運録群書類従巻60佐為王、左兵衛督侍従 中宮大夫正四上
尊卑分脈第四編国史大系60橘氏佐為、左兵衛督侍従 中宮大夫正四上
○ 橘宿禰佐為 祖父栗隈王、父美努王、母県犬養宿彌三千代、兄葛城王、妹牟漏女王。 『続日本紀』に「天平九年八月壬寅朔(一日)中宮大夫兼右兵衛率四位下橘宿禰佐為卒す。」 とあるが、『続日本紀』の前後の記載に齟齬がある。すなわち、天平九年2月14日には、橘宿彌 佐為は、従四位上から正四位上に昇叙された。  また、宝字3年(759)7/5橘宿彌佐為の女古那可智の薨伝は、「父佐為正四位上卒」とするから、 橘宿彌佐為の卒伝には誤りがあると考えなければならない。 小学館『万葉集』巻6−1004に 「鞍作村主益人の歌一首 思ほえず 来ましし君を 佐保川の かはづ聞かせず 帰しつるかも  右、内匠大属鞍作村主益人、聊かに飲饌を設けて、長官佐為王に饗す。未だ日斜つにも及ばねば、 王既に還帰りぬ。ここに益人、厭かぬ帰りを怜しび惜しみ、仍てこの歌を作る。」とある。 「天平六〜七年頃、内匠寮頭長官であったことが知られる。」(1) 佐為王は長官とあるから、内匠頭ということになるが、『続日本紀』には見えない。  葛城王(橘諸兄)の弟で、和銅七年(714)従五位下。養老五年(721)以後、山上億良 らとともに、退朝の後東宮(皇太子首親王後の聖武天皇)に侍す。  藤原仲麻呂家僧の延慶が著した『家伝下』(宝字4年(760)〜宝字6年(762)ころ成立)には「風流 侍従狭井王」とある。(2)  天平八年(736)、葛城王とともに臣籍に下り、橘宿禰佐為と名のる。翌年、中宮大夫兼右京 衛率正四位下で没。  天平九年(737)、門部王邸の宴に橘少卿(橘佐為)諸太夫が集まる。(万葉集6-1013) 『続日本紀史料』によると、 「無位より從五位上に叙せられしこと養老五年正月五日 (四−520)、詔により退朝の後、東宮に 侍せしめられしこと同月二十三日(四−526、皇太子の女井上王を斎王とし、北池邊新造宮に移す 時、葛城王と共に前輿長となりしこと同年九月十一日 (四−589)、正五位下に叙されしこと神亀 元年二月二十二日(五−176)、從四位下に叙されしこと同四年正月二十七日(五−438)、從四位上 に叙されしこと天平三年正月二十七日、葛城王と共に橘宿禰姓を賜はらんことを請ひ、許されし こと同八年十一月十一・十七日、正四位下に叙されしこと本年二月十四日條参照。聖武天皇の夫 人橘古那可智が佐為の女であること天平寶字三年七月己巳(五日)條に見ゆ。」(3)とある。 『政事要略24』によれば、佐為王と葛城王が斎王の井上王を北池辺新造営に移すときの前輿長 となることが記される。 (4) 橘宿禰佐為(佐為王)の年齢 688?―737(50歳?)  岸俊夫は、佐為王を持統天皇八年(694)、牟漏女王を持統天皇九年(695)の誕生(5)と推算する が、長子葛城王(684−757)との比較では、葛城王の初叙位(従五位下)が和銅三年(710)二十七歳 に対して、佐為王が和銅七年(714)二十一歳で従五位下になるので、佐為王の誕生が後年に寄り 過ぎていて、両者のバランスを欠くものと思われる。藤原武智麻呂長男豊成が従五位下になるの は二十二歳であるのに対して弟の仲麻呂は二十六歳である。  佐為王が兄と同年齢で出仕したと考えるならば、佐為王の誕生は天武十七年(688)頃に想定 できる。これは、行基の生誕(668)後20年の計算となる。 以下、橘宿禰佐為(佐為王)の年齢を仮に688年の誕生として論を進めていく。 2 家系 表2 分かれる系図

A『新撰姓氏録』 敏達天皇―難波皇子−栗隈王―美努王―葛城王−奈良麻呂
              L 大俣王      L武家王 L佐為王

B『尊卑文脈』  敏達天皇−難波皇子−大俣王−栗隈王−美努王−葛城王−奈良麻呂
    
C『本朝皇胤紹運録』
          敏達天皇―難波皇子−大俣王−栗隈王−美努王−橘諸兄−奈良麻呂
               L大派皇子

『新撰姓氏録』(6)は、大俣王は、『古事記』『日本書紀』と同様に、難波皇子とともに敏達天皇 の子とする。ところが、『尊卑文脈』(7)『本朝皇胤紹運録』(8)は、敏達天皇の孫とする。(9) 同じく『新撰姓氏録』の「未定雑姓」の茨田真人条では、大俣王は敏達天皇の孫とする。  佐伯有清は、「美努王は『新撰姓氏録』によれば敏達天皇皇子の難波皇子の子栗隈王の子で三世 王とされているが、『尊卑分脈』では難波皇子と栗隈王の間に大俣王を置き、美努王を四世孫とし 三千代の子葛城王・佐為王は五世王で王族を外れるため、三千代の橘賜姓の背景には美努王が四世 王であった可能性が考えられている(義江2009)」(10)とするように、義江明子は、「難波王と栗隈 王の間には、一世代を想定した方が良いようだ。(11)」と考えるから、大俣王を入れる説が妥当で あろう。  大俣王の一世代を省くことは、何故なのか。単純に考えると、20年を短縮する効果がある。 つまり、生年を20年早めることと同じ意味を持つことになる。『新撰姓氏録』は葛城王・佐為王の 時代を行基の生まれた時間軸に近づける。 3 尊属 (1)祖父栗隈王(栗前王) 表3 栗隈王の年表
年次内容
天智7年(668)7/栗前王筑紫(太宰)率に拝す、大和から派遣され、軍事・行政を行う。
天智8年(669) 8/蘇我赤兄臣 筑紫率とする。藤原鎌足没8/3
天智10年(671)筑紫率任官(二回目)
天智11年(672)6/26壬申の乱、筑紫太宰栗隈王(P80)大友皇子の動員命令を拒否
天武4年(675)四位兵制長官
天武5年(676)6/ 栗隈王没
宝字元年(757)1/6贈従二位(橘朝臣諸兄薨伝)
 敏達天皇系の王族として、筑紫率に任じられ、壬申の乱時、美努王・武家王と共に、近江方の 誘いに乗らず兵を動かさなかった。(12) 後、兵制長官となる。贈従二位。  日本書紀の仁徳紀、推古紀に、山背国栗隈県に大溝を造る記事がある。栗隈の地名は、京都府 南部、宇治市と城陽市を中心とする地域に一般的に比定される。(13) 栗隈は、栗隈王の母か、王の養育にあたった者の出身地とされる。(14) また、栗隈山や栗前野(くりくまの)がある栗隈は、橘諸兄の本拠地相楽郡井手と近い地である。 (2)母について 県犬養宿彌三千代(665?−709)   表4 三千代の年表
年次内容
天武19年12/2県犬養連 宿彌となる
大宝元年(701)この年安宿媛(光明子)を生む。首皇子同年出生。国を挙げて大嘗に供奉る。
和銅元年 (708) 5/30従四位下美努王卒。
同年11/25三千代(藤原不比等継室)、元明天皇から橘宿彌の姓を賜る。御宴
養老元年(717)1/7 従三位叙位(尚侍)
養老2年(718)法隆寺西円堂、本尊丈六薬師 を本願、行基が造。[法隆寺縁起]
養老4年(720)8/3 不比等薨
養老5年(721)1/5 正三位叙位内命婦
同年5/19元明太上天皇の病を機に入道す。(得度に至らず)
同年8/3 不比等一周忌、興福寺金堂に弥勒浄土像安置(光明皇后ともいう)
同年12/4 元明太上天皇崩御
天平5年(733)1/11内命婦正三位県犬養橘宿彌三千代薨、散位一位に準じて葬儀。
同年12/28贈従一位
天平6年(734) 1/11光明皇后三千代一周忌に興福寺西金堂を造る[七大寺年表]
天平8年(736)11/11 贈従一位県犬養橘宿彌『続日本紀』
天平12年(740)3/8「贈一位橘氏太夫人」光明皇后大宝積経 (『寧楽遺文』)
同年5/1 「尊妣贈従一位橘氏太夫人」[大宝積経跋語・五月一日経] (『大日本古文書』二―二五五頁)
天平13年(741)2/14国分寺建立詔「従一位橘氏大夫人」(『類聚三代格』巻三、国分寺事)
天平勝宝元年(749)4/1聖武天皇詔「県犬養橘夫人」の称を用い褒める。
天平21年(749) 県犬養橘夫人。万葉集19-4235 太政大臣藤原家之犬養命婦とする。
宝字4年(760)8/7 不比等継室従二位県狛養橘宿彌三千代に正一位を贈、大夫人とす。
先妣従一位橘太夫人「延暦僧録」聖武天皇伝、国分寺創建の功徳
県犬養宿彌三千代は、『本朝皇胤紹運録』に、県犬養宿禰彦刀自、東人の女と見える。 本貫は河内国古市郡 (15)、また、河内国茅渟県(16)とされる。 軽皇子(文武天皇)の乳母か。(17) 美努王と婚姻、葛城王、佐為王、牟漏女王を生む。後、藤原不比等との間に光明子が生まれ、 通説では光明子の他に多比能(諸兄室)を生むとされている。 しかし、同母の兄弟婚には疑問(18) が残り、多比能の母は三千代ではないと考えられる。 元明天皇より橘宿禰の姓を賜わる。葛城王等上表文に文武天皇の時まで、後宮に勤めていた ように記されているが、実際は、その後の元明天皇・元正天皇の頃まで後宮で活動をしてい たようである。 (19)  元明上皇不豫の際、出家入道。天平五年(733)年正月十一日薨ず。続紀は「内命婦正三位」。 天平六年三千代の一周忌に合わせて皇后光明子が興福寺西金堂を建立した。 贈正一位橘氏大夫人の称号・位階の変遷 『類聚三代格』天平十三年二月十四日(『続日本紀』では三月乙巳〈二十四日〉)の国分寺 建立詔に、「従一位橘氏大夫人」との号が見え、光明皇后の天平十二年三月八日大宝積経 (『寧楽遺文』)に「贈[従脱カ]一位橘氏太夫人」とあり、同年五月一日一切経の願文 (『大日本古文書』二―二五五頁)にも「贈従一位橘氏太夫人」とある。 天平勝宝元年四月一日の聖武天皇詔に「県犬養橘夫人」の称を用い褒める。 天平宝字四年(760)八月甲子(七日)、淳仁天皇は「子は祖を以て尊しとす。祖は子を以て 亦貴し」として、「皇家の外戚」である藤原不比等を、近江国十二郡を封国とする「淡海公」 に封じ、「継室従二位県狗養橘宿禰三千代」に正一位を贈って「大夫人」とした。  天平十三年に従一位であったものが、宝字四年には従二位に下がる。 このように、時間軸における位階が統一されていないことが橘一族に多いことを指摘しておく。 (3)父について 美努王(三野王、美濃王、弥努王、美弩王) 表5 栗隈王の年表
年次内容
天智11年(672)6/26壬申の乱時、筑紫(太宰)率栗隈王に従い、弟武家王とともに大友皇子の動員命令を拒否。
栗隈王の二子、三野王、武家王。
天武5年(676)6/父栗隈王を失う。
天武10年(681)3/17三野王等に帝記及び上古諸事を記定しめたまふ。
天武13年(684)葛木王 生誕
天武14年(685)京畿の武器・兵員の検校に派遣される。
持統8年(694)9/22筑紫太宰率に任、このとき浄広肆を帯す。
文武3年(699)12/4大宰府をして、三野・稲積の二城を修らしむ。
大宝元年(701)11/8造大幣司長官任(正五位下)
大宝2年(702)1/17左京太夫任(正五位下)
慶雲2年(705)8/11摂津太夫任(従四位下)
和銅元年(708)3/13治部卿任
同年(708)5/30従四位下美努王卒。
注)贈従二位はいつのことか不明である。  壬申の乱時、父栗隈王に従って九州に下行、筑紫大宰府にあった。『帝紀』及び上古における 事柄の記録・校定に従事。持統天皇八年(694年)筑紫大宰率に任(位階は浄広肆)。 大宝元年(701年)大宝律令の施行により位階制が定められると正五位下となり、同年造大幣司 長官に任ぜられる。その後、左京大夫・摂津大夫・治部卿などを歴任し、卒時位階は従四位下。 万13-3327百小竹(ももしの)の三野王枕詞「みの「美濃」にかかる」 『日本書紀』『続日本紀』に計17件の美濃王の記載が見えるが、二人の美濃王の存在が想定され、 要注意である。(20) (4)叔父 武家王 甘南備真人の祖とある。(21)  4 兄弟について (1)葛城王(橘朝臣諸兄)684-757(74歳) 表6 葛城王の年表
年次内容
和銅3年(710)1/7従五位下叙位(27歳)
和銅4年(711)12/2馬寮監任
養老元年(717)1/4従五位上叙位(34歳)
養老5年(721)1/5 正五位下叙位(38歳)
養老7年(723)1/10 正五位上叙位(40歳)、この年、陸奥へ出張
神亀2年(724)2/22従四位下叙位(41歳)、この年、万葉集撰か。
神亀4年(726) 聖武天皇、諸兄の別業に滞在。
天平元年(729)3/4正四位下叙位(46歳)、この年、班田の時、山背国に京畿内班田使[万4455]長官として滞在す。
天平3年(731)8/11 左大弁、参議任。
同年9/ 椋本天神の創祀(遷座)「興福寺官務牒疏」井手寺内の椋本天神
天平4年(732)1/20従三位任
天平5年(733)1/11内命婦正三位県犬養橘宿彌三千代薨
同年『行基年譜』行基に輿車一両と35人の得度者
天平8年(736)11/17葛城王らに橘宿彌の姓を賜る。 [11/11上表] (53歳)
天平9年(737)7/25藤原武智麻呂邸に派遣され、病床の武智麻呂に正一位左大臣を授ける役を負う。
同年9/13 大納言任[自参議任大納言初例さ、不経中納言](従三位行左代弁兼侍従左右馬匠催造監、54歳)
天平10年(738)1/13右大臣任 (正三位、55歳)
同年5/伊勢神宝使として派遣される。
同年猪名寺孤独園池[縁起図絵詞]
天平11年(739)1/13従二位叙位(56歳)
天平12年(740)5/聖武天皇を相楽別業(京都府綴喜郡井手町)に迎える。
同年9/藤原広嗣の乱が勃発し、関東行幸がなされたのを機に、恭仁京遷都を推進。
同年11/14正二位叙位(57歳)
同年12/6不破仮宮より先発して恭仁郷へ新京整備に向かう。
同年同月13 恭仁遷都を実現。
辰年(天平12年か)河内大知識寺の盧舎那仏礼拝をきっかけとする大仏造立発願の経緯を説明する。
天平15年(743)5/3従一位叙位(60歳)
同年5/5左大臣任 (従一位始例)
同年7/26紫香楽宮行幸の際、留守官として恭仁京に留まる。
天平16年(744)同年閏1.11、難波宮行幸に従駕。 2.24、聖武天皇は難波から再び紫香楽宮行幸に出発し、諸兄は元正上皇と共に難波に留まる。 2.26、難波宮を皇都とする勅を伝える。同年秋か冬、元正上皇と難波宮で宴、上皇は諸兄に讃歌を贈り信頼を表明する(18/4057・4058)。
天平17年(745)同年正月には紫香楽遷都がなされるが、災異が続発し、5月、聖武天皇は平城に還都、結局諸兄の遷都(脱平城京)計画は失敗に帰した。以後、次第に実権を藤原仲麻呂に奪われる。
天平18年(746)1/元正上皇の御在所で雪掃の肆宴、応詔歌を奉る(17/3922)。
同年4/5 兼太宰帥を兼ねる。(63歳)
天平20年(748)3/ 越中守大伴家持のもとへ田辺福麻呂を派遣する。
同年(748)12/27宇佐八幡禰宜尼大神杜女の東大寺参拝に際し、詔を八幡神に伝読
勝宝元年(749)4/14 東大寺行幸に際し正一位叙位(正一位例、66歳)
勝宝2年(750)1/16左大臣正一位橘宿彌諸兄に朝臣の姓を賜る。(67歳) 宿禰から朝臣への改姓の初見。
同年10/1まで太宰帥任[天平感宝元年(749)閏五月廿日の署名あり]
勝宝4年(752)勝宝4年(752)4/9、東大寺大仏開眼供養会において女漢躍歌(おんなあやおどりうた)の鼓の座に加わる。 同年11.8、自邸(井手の別業か)に聖武上皇を招き豊楽。右大弁藤原八束・少納言大伴家持らも参席(19/4269〜4272)。同年11.27、林王宅に但馬按察使橘奈良麻呂を餞する宴に出席。この時の治部卿船王・少納言家持らの歌が残る(19/4279〜4281)。
勝宝5年(754)2 /「左大臣橘卿(諸兄)之東家」で諸卿大夫が宴を催し古歌について論ず(『袖中抄』『人麿勘文』などが伝える「万葉五巻抄」序の記事)。
同年2/19自邸で宴、家持「柳条を見る歌」を詠む(19/4289)。
勝宝6年(754)7/20 太皇太后宮子崩御に際し御装司(71歳)
勝宝7年(755)11/28兵部卿橘奈良麻呂宅で宴を主催、自ら歌を詠む(20/4454)。
同年11月飲酒の席での上皇誹謗の言辞を側近の佐味宮守に密告される。上皇はこれを不問に付す。
勝宝8歳(756)2/2左大臣正一位橘朝臣諸兄上表致仕、詔許之
同歳(756)5/2太上天皇崩御(聖武)
天平宝字元年(757)2/6薨去(74歳)。
 敏達天皇の裔、葛城王。天平八年十一月臣籍降下し、母の橘宿禰姓を継ぐ。初代橘氏長者。 参議、右大臣、正一位左大臣、『尊卑分脈・公卿補任』に井手左大臣、西院大臣とある。 天平宝字元年(757)二月乙卯(六日)に七十四歳で没する。聖武太上天皇は諸兄の死に先立つ 前年五月乙卯(二日)、五十六歳で崩御している。  浅香山の歌(22)、山背国班田司の献芹の和歌(23)がある。  藤原四卿没後、大納言に昇進。翌年、阿倍内親王の立太子と同時に右大臣に就任し、以後政界 を主導、唐から帰国した玄ム・下道真備らをブレーンとして、聖武天皇を補佐した。天平12年の 恭仁京遷都の推進役 となる。聖武上皇への不敬との讒言により、勝宝八歳に職を辞した。 『万葉集』の撰者とされる。(24)  諸兄は、井手(井出)の里を本拠地とし、橘氏氏寺の井手(井堤)寺を建立し、井手寺内に氏神の 椋本天神を創祀した。(25)  栗隈の西方御牧の地に諸兄が牧を有していたという伝承が残る。(26)  写真(略) 京都府久御山町玉井神社由来  伝橘諸兄塚は、井手の他に岸和田市にもある。 (27) (2)妹牟漏女王(695?―746)  藤原房前の室。永手・真楯(八束)・御楯(千尋)・北殿(聖武夫人)を産む。 南家豊成、仲麻呂の室も牟漏王所生の女子と考えられている。(28) 真楯の孫冬嗣が摂関家藤原氏につながる。  天平九年(737年)夫・房前が没し、寡婦となる。天平十一年、竹野女王とともに、従四位下 から従三位に叙される。この時の朝廷は兄の橘諸兄が頂点にあった。 法隆寺に光明皇后、円方女王(長屋王の娘)と共に、花形白銅鏡一面を寄進している。(法隆寺 縁起并資材帳) 天平十八年正月二十七日薨去。位階は正三位。 〇異父同母の妹 (3)光明皇后 拙論「藤三女」を参照のこと。 (4)笠子媛(藤原長娥子)  室賀寿男は、県犬養氏家系図において、三千代は、「美努王妻、橘宿禰諸兄、佐為、牟漏女王 母、後藤原不比等妻、生笠子媛(長屋王妻)及光明皇后」(29)とし、中臣氏家系図では、三千代 は、「美努王妻、後、藤原不比等妻、生笠子媛(長屋王妻)及光明皇后」とする。(30)  同系図で、笠子媛は光明皇后より先に書かれるから、光明皇后の姉であろう。そして、笠子媛 は、長屋王室とされるから藤原長娥子と同一人物である。  光明皇后の幼名安宿媛と長娥子の男子安宿王は、共に三千代の出身地河内国古市郡に隣接する 安宿郡の地名によるものと考えてもよいだろう。 5 佐為王(橘佐為)の子  橘氏の家系図を見ると、橘佐為には八人の子がある。(31) 男子は三名、女子は五名であるが、麻都我が四女とされる以外、長幼の順は不明である。 表7 佐為王(橘佐為)の子について
史料・備考
広足(男)橘氏系譜、従五位下
文成(男)万葉集目録に「橘文明」とある。名義抄に「明、ナル」とあり、「文明」も文成と同じ。
古那可智(女)『続日本紀』聖武夫人、広岡朝臣
宮子(女)『続日本紀』、広岡朝臣
麻都我
(四女)
『続日本紀』 [真都賀・麻通我・麻都賀・真束] 従三位乙麻呂の室、後右大臣藤原是公の妾、
広岡朝臣。
綿裳(男)『続日本紀』山背守
真姪(女)『続日本紀』広岡朝臣
三笠(女)『続日本紀』(御笠とも)広岡朝臣。命婦
注)佐為子女の順は、室賀系図により、序列が分かるのは麻都我の四女だけである。 ○古那可智(?―759) 表8 古那可智の年表
年次内容
天平8年(736)11/11父とともに橘宿彌の姓を賜る。
平9年(737)2/14无位から従三位叙位。聖武天皇夫人か。(他に夫人3名あり)
天平14年(742)2/16正三位橘夫人法隆寺に櫃等を施入。(『法隆寺縁起并資材帳』)
天平18年(746)5/16大般若経600巻、大宝積経、薬師経を施入。(『法隆寺縁起并資材帳』)
勝宝元年(749)4/1橘夫人従二位叙。
勝宝5年(753)8/20普光寺(広岡寺)建立、大和国添上郡在、奉二為平城後太政天皇一、(『東大寺要録』)
宝字元年(757)1/6前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨(補任によると享年74歳)
同年7/2奈良麻呂の変
同年閏8/18聖武夫人正二位広岡朝臣賜る。改元8月
宝字3年(759)7/5聖武夫人正二位広岡朝臣古那可智(正四位上橘宿彌佐為女)薨
宝字4年(760)3/普光寺(広岡寺)定額寺となる。
 聖武天皇夫人。聖武天皇との間に皇子女は見えず、橘夫人と呼ばれた。 仏教に篤く帰依し、法隆寺に住宅、調度、経典を寄進、東大寺大仏開眼法会に刀子、琥碧誦数な どを献じた。(32)  橘奈良麻呂の乱後の天平宝字元年(757年)閏8月、妹真都我や綿裳らとともに佐為の子孫は 橘朝臣氏を改めて広岡朝臣姓を賜った。  天平宝字3年(759年)7月5日に薨去したが、このときは「夫人正二位広岡朝臣古那可智」と 記載されている。  大和国添上郡広岡(奈良県奈良市法蓮町)にあった普光寺は、勝宝五年古那可智が聖武天皇の ために建立したといわれている。(33)  天平勝宝元年頃、藤原南家3人兄弟と共に東大寺に銭貨を寄進するのが注目され、後述する。 表9  古那可智の寺院への寄進
寺院時期内容典拠
法隆寺天平9年頃瓦葺講堂壱間(伝法堂)法隆寺縁起并資材帳
天平14年(742)2/16壹合木絵、櫃座、案机、厨子、唐櫃法隆寺縁起并資材帳
天平18年(746)5/16大般若経一部600巻、大宝積経一部120巻、
薬師経49巻
東院資材帳
東大寺天平勝宝元年頃琥珀数珠十三号、刀子正倉院宝物銘文集成
同上銭2貫69文『大日本古文書』(25-100)
天平勝宝7歳越前国加賀郡幡生荘守屋氏所蔵文書/平遺2783
普光寺天平勝宝5年(753)8/20普光寺(広岡寺)建立東大寺要録
 古那可智は、法隆寺東院に、橘夫人として、自宅や大量の経典を寄進していることが注目され る。伝橘夫人厨子や阿弥陀三尊像の寄進も古那可智の寄進と思われる。(34)  東大寺に進納された琥珀数珠十三号(長さ72センチ)や犀角把刀子はこれらに付された木牌に 「橘夫人」とあり、橘古那可智が東大寺大仏開眼会の際に奉納したものである。(35) また、天平勝宝七歳には橘夫人より東大寺に越前国加賀郡幡生荘が施入された。(36) ○宮子(橘佐為女) 奈良麻呂の変後、広岡姓となる。その他は不明。 ○真姪(橘佐為女) 同上。 ○麻都我(橘佐為四女)[ 真都賀・麻通我・麻都賀・真束] 広岡麻都賀 『尊卑文脈・公卿補任』従三位乙麻呂の室、子に許(人)麿、乙麻呂没後 右大臣藤原是公の妾と なり、雄友、真友、弟友を生む。(37) 奈良麻呂の子、清友らを育てる。(38) 表10 麻都我(橘佐為四女)の年表
年次内容
宝字元年(757)閏8月広岡朝臣無位
宝字5年(761)1/2橘宿彌真都我無位から従五位下を叙位。
宝亀2年(771)1/15従五位上橘朝臣麻都我、正五位下叙位。
宝亀3年(772)1/10橘朝臣麻都我、正五位上を叙位。
延暦5年(786)1/14正四位上真都賀に従三位を授ける。このころ尚蔵、尚侍たり。
延暦9年、同13年条大納言雄友、真友の母麻通我
○三笠(佐為女)  女嬬橘宿彌御笠は、宝字八年(764)正月七日に无位から従五位下を叙位され、また、宝亀二年 (771)にも无位から従五位下を授く。この重なって叙位されるのは復位かとある。(39)  三笠は、佐為王四十歳頃の出生と仮定すると、728年生と見込まれる。奈良麻呂の変時(757) には、三十歳で、既婚であれば十歳前後の複数の子らがあったと思われる。  宝字七年(763)、池田親王の子に御表真人の姓を賜るが、凶賊出身の母の名は不明である。 この場合の凶賊は橘奈良麻呂の変に関わる氏族であるから、広岡姓への改名をしていない橘姓の ままの三笠が凶賊の母親に該当するのではないかと思料される。 そして、池田親王の子らが御表真人の姓を賜った後、天平宝字八年(764)に叙位が取り消された のは、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の影響があったのではないかと憶測する。 三笠は、天平宝字八年に池田親王(淳仁天皇の兄)の妻妾として叙位を受けたが、恵美押勝の乱で、 池田親王は土佐に配流され、三笠の叙位が取り消されたが、光仁天皇の時代に復位したものと思 われる。二度の政変と復位からの類推である。  更に憶測するならば、宝亀三年の橘宿彌御笠に対する従五位上の復位は、翌年宝亀四年の行基六 院の施入に繋がるように思われる。 表11 三笠(御笠)の年表
年次内容
宝字元年(757)7/2奈良麻呂の変
同年閏8/18夫人正二位橘朝臣古那可智・无位橘朝臣宮子・橘朝臣麻都賀・正六位上橘朝臣綿裳・
(正六位上)橘朝臣真姪に本姓を改めて広岡朝臣を賜る。
宝字7年(763)8/19池田親王の男女5名、其母凶賊に出でたり、姓御表真人を賜る。
宝字8年(764)1/7女嬬橘宿彌御笠に无位から従五位上を叙位。
宝字8年(764)9/11恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱
宝亀3年(772)1/10橘宿彌御笠に従五位上を叙位。
宝亀4年(773)11/20 行基六院に施入
宝亀9年(778)9/25橘宿彌から朝臣を賜姓
宝亀11年(766)4/27命婦従五位上橘朝臣御笠に正五位上を叙位。
○広足(橘佐為男)従五位下。その他は不明。 ○文成(橘佐為男)  万葉集6-1014に、橘少卿の子橘文成の歌があり、万葉集目録には「橘文明(あやなり)」とある。 「少卿」は兄諸兄に対して言うとされる。(40) ○綿裳(橘佐為三男?) 表12 綿裳(橘佐為三男)の年表
年次内容
宝字3年(759)6/従五位下昇進時以降橘宿彌、左大舎人助
宝字8年(764)8/4上野員外介任
宝字8年(764)9/18仲麻呂斬らる。
神護景雲元年(767)9/16中務少輔/従五位下兼山背守と為す。
神護景雲3年(769)少納言
宝亀元年(770)11/10光仁天皇御鹿原行幸、山背守従五位下橘宿彌綿裳に従五位上叙位。中務少輔兼山背守
宝亀9年(778)9/25橘宿彌綿裳・三笠に姓朝臣を賜ふ。
延暦3年(784)4/2従五位上大判事
延暦16年(797)正五位上
大同4年(809)6/26没、時に散位従四位上[紀略] この間、宮内大輔、右京大夫
『尊卑文脈』従四位上右京大夫
6 佐為王継室 (1)橘少夫人 国史等の各種史料には佐為王継室は見えない。 ところで、正倉院中倉に所蔵されている献物牌には、「橘夫人」と「橘少夫人」がみえ、「橘夫人」は古那可智とされている。(41) また、「橘少夫人」についても古那可智をさすとする説(42)があるが、橘少夫人=古那可智とする史料は見えない。 表13 正倉院宝物銘文(43)

献物牌五枚並木造(中66)
(1)一枚「藤原朝臣袁比」(背) 「良賣献舎那仏」5.9×2.0×0.3
(2)一枚「橘夫人」               6.8×2.1×0.3
(3)一枚「藤原朝臣百能」            8.0×1.7×0.5
(4)一枚「尼信勝」               5.8×2.0×0.3
(5)一枚「尼善光」               6.7×2.0×0.4
献物牌二枚竝木造(中108)
(1)一枚「従三位〈藤原朝臣吉日〉」組紐二種付属 5.6×2.0×0.4
(2)一枚「橘少夫人」              6.8×2.0×0.4
献物牌木造(中121)
「藤原朝臣久米」(背) 「刀自賣献舎那仏」    5.9×1.9×0.4

注)中108の二枚の札は、幅、厚さが同一で、同時期に作られた可能性がある。 また、「組紐二種付属」が注目され、二枚で一組だった可能性がある。  上表13の(中66)に見える「橘夫人」は古那可智であり、(中108)「橘少夫人」 は古那可智と別人であろう。(44)  万葉集6-1013・1014の歌註から橘佐為が「橘少卿」とされる。 史料的な整合性を取るならば、「橘少夫人」は、橘佐為夫人と考えることができるであろう。 また、献物牌(中108)には、「橘少夫人」と「従三位 藤原朝臣吉日」の二名の名前が 同時に見える。この両者は何らかの関係があると思われるから、「藤原吉日」を追っていく。 (2)藤原吉日  藤原吉日は、天平九年に無位から従五位下となる。天平二十一年史上初の黄金が陸奥で産出し、 聖武天皇が東大寺に行幸し、建造中の大仏前において左大臣橘諸兄に慶祝の詔を宣べさせた日、 従三位にのぼる。(45) この藤原吉日は、藤原不比等の娘であり、橘諸兄の妻である藤原多比能と同一人とする角田文衛 説を検討する。 「まず明瞭なのは、吉日が家居していた高官の妻室ではなく、官女であり、従三位という高位か ら推して、同時に高官の妻であったということである。… 次ぎに注意を惹いているのは、吉日が従四位下に叙されたのと同じ日に、正三位橘宿禰諸兄(時 に右大臣)は従二位、従四位下牟漏女王は従三位に昇叙されていることである。… 更らに注意されるのは、吉日が従三位に叙されたのは、左大臣の橘宿禰諸兄が天皇、皇后臨場の もとに、東大寺の廬舎那仏の前で、「三宝の奴、云々」という有名な宣命を読み上げたのと同じ 日に当たっており、 またその日、 正三位橘夫人(吉日の義兄・佐爲王の娘・橘古那可智)は従二 位に叙され、また武智麻呂兄弟の娘たち五人が昇叙ないし推叙されていることである。… 実際問題として従三位以上に叙されたり、後官四司の長官(尚蔵、尚侍、尚縫、尚膳)に任じられ たのは、太政官の有力な執政の室、または皇后や夫人の生母などに限られていたのである。… このような見地から右の吉日に呼応する人物を大政官に物色すると、忽ち思い当たるのは左大臣 正一位橘宿禰諸兄なのである。 一方、「公卿補任」(天平勝宝元年条)は、橘宿禰奈良麿について、「左大臣正一位諸兄一男。母 淡海公女、従三位多比能朝臣。」と記載しているし、また『尊卑分脈』(第四編、橘氏)は、奈良 麿に関して、「母淡海公女」と註している。そこで同じ『尊卑分脈』(第一編)の摂家相続孫をみ ると、不比等の娘として多比能の名があげられ、   従三位   多比能 左大臣橘宿禰諸兄公室   母同光明皇后 と記されているのである。…  然るに現存の『続日本紀」には、多比能の名は全く現れて来ないのである。ところが『続日本 紀』には、吉日の名は三箇処に見え、必ず「吉日」と記されている。従ってこの方は、誤写とは 認め難い。やはり「多比能」の方が誤写と考えられるのである。つまり『続日本紀』自体の検討 から吉日は不比等の娘、諸兄の室と想定されるのであるが、それは『公卿補任』や『尊卑分脈』 に記された奈良麻呂の生母と合致せねばならない。もし合致しないとすれば、「多比能」の方を 誤写と認めるのが至当なのである。」(46)とする。  角田文衛説を要約するならば、 @吉日は家居した高官の妻室ではなく、官女であり、高官の妻でもあった。同時に光明皇后の側 近に仕えていた。 A吉日の昇叙は、橘宿禰諸兄や牟漏女王と同時に昇叙した。従三位に叙されたのは、橘宿禰諸兄 が天皇の宣命を読み上げた日であり、橘夫人や武智麻呂兄弟の娘たち五人が昇叙ないし推叙され ている。 B「公卿補任」は、橘宿禰奈良麿の母を、「淡海公女、従三位多比能朝臣」とし、『尊卑分脈』 は、「母淡海公女」と註するが、『続日本紀』の三箇処に見える「吉日」の名は、正しく必ず 「吉日」と記されている。従って「吉日」は誤写とは認め難く、「多比能」が誤写と考えられ る。(47) Aは是認できるが、@吉日は官女、B「多比能」は誤写、と断定するのはどうか。  藤原多比能は橘諸兄の妻と想定する説の最大の問題点は、藤原多比能の母を三千代とするな ら、橘諸兄との年齢差(48)もさることながら、同母の兄弟婚となることである。  田中久夫は、明確に「同母の兄弟姉妹は結婚できない」とされている。(49) 次に、吉日の昇叙を追いかける。 表14 藤原吉日の叙位
天平9年=737年藤原吉日橘諸兄橘古那可智その他
天平9年2/14無位→従五位下無位→従三位佐為従四位上→正四位上
天平9年9/28大納言任従三位
天平10年1/13右大臣任正三位
天平11年1/13従五位下→従四位下従二位(正三位叙位脱か)牟漏王従四位下→従三位
天平12年11/21正二位奈良麻呂無位→従五位上
天平14年2/16正三位見
天平15年5/5左大臣任従一位
勝宝元年4/1従四位上→従三位正三位→従二位袁比良女・駿河古正五位下
勝宝元年4/14正一位
宝字元年閏8/18正二位広岡朝臣賜
注) 橘古那可智の正三位の昇叙は、『続日本紀』に記載が漏れており、その昇叙時期は、諸兄が従二位   となり、橘佐為妹の無漏王が従四位下から従三位に昇叙する天平11年(739)1/13の可能性が高いと   考える。なお、吉日の従四位上の叙位も『続日本紀』に記載が漏れている。  藤原吉日は、天平九年(737)二月十四日無位から従五位下となる。 以後も順調に昇叙され、天平二十一年史上初の黄金が陸奥で産出し、聖武天皇が東大寺に行幸、 建造中の大仏前において左大臣橘諸兄に慶祝の詔を宣べさせた日、従三位に至ったが、その後は 見えない。従五位下から、従三位まで十二年間に六階級も昇叙しているにもかかわらず、三回し か記録がない。その間の記録が漏れたことが考えられるが、その全てが漏れることは考えにくく、 大幅な越階があるのだろう。   次に気づくのは、天平九年初めて叙位を受けて二年後の天平十一年に四階級昇叙する速さである。 官人が通常三年乃至六年ごとに一階級昇叙することに比べて異常といえる昇叙である。  諸兄は官人として、従五位下から、従三位まで二十二年間かかっており、その室が諸兄以上の 速さの叙位となることがあるだろうか。昇叙の速さには別の理由があると思われる。 藤原吉日が橘諸兄の妻であるならば、橘諸兄の昇叙に伴い、連動して昇叙されてもよいものと思 われるが、表14のとおり、勝宝元年(749)四月十四日に、諸兄は正一位となるが、吉日はそれ 以前の同年四月一日に昇叙されている。吉日と諸兄の昇叙はその全てが連動していないから、二 人の関わりは薄く、吉日は多比能と同一人ではない可能性が高いと思われる。  吉日の三回の昇叙は、同時に、昇叙を受けた人物と重ね合わせると、古那可智がいる。藤原吉 日の叙位は、橘古那可智と連動することが分かる。  共に、天平九年(737)二月十四日に初めて無位から叙位を受け、しかも吉日は古那可智以上の 位ではないのである。ここから、吉日の人物像を想定するならば、吉日は、古那可智が聖武天皇 夫人となったことより、その親族として叙位されたのではないか。 つまり、吉日が古那可智の母であり、橘佐為の室と考える。 聖武天皇夫人の古那可智の叙位とともに、その母にも一定の叙位を与えたのであろう。  東大寺にある献物牌(中一〇八)には、「従三位 藤原朝臣 吉日」と「橘少夫人」の二枚が同 じ個所で整理されるが、棚別目録は「吉日」を落としている。(50) この理解は、目録作成者が「吉日」と「橘少夫人」を同一人として処理したのではないか。二枚の 札に書かれた二人は同一人と考えることを排除できない。本名と共に亡夫の肩書を併記したとも考 えられるのである。 藤原吉日の果たした役割  天平宝字元年(757年)諸兄の死後、奈良麻呂の乱があり、処罰や位階の引き下げ等橘一族の衰 退傾向のなかで、乱の2ヵ月後の天平宝字元年(757年)閏8月、橘佐為の子である古那可智は、妹 真都我や同族とともに橘氏を改めて広岡朝臣姓を賜った。 ところが、『一代要記』には、第47代淡路廃帝の後宮項に「夫人従二位藤原[廣岡]朝臣[古脱]那 可智 宝字3年7月薨」(51)と記している。 これは、長屋王の子山背王が長屋王の事件の後、臣籍降下して藤原弟貞を名乗る(52)と同様に、 古那可智が一時的に母方の藤原姓を名乗ったか、そうであることが知られていたかも知れない。 古那可智の母は、藤原朝臣吉日と考えられる。  橘佐為の子孫を守ったのは、佐為の姉妹牟漏女王、光明皇后及び藤原吉日の働きが大きかったと 思われる。 古那可智と南家三兄弟  古那可智と南家三兄弟の関係を示すものに『大日本古文書』(25-100)に「人々進納銭注文」と いう丹裹文書がある。(53) 丹裹文書とは、反故の文書を適当な大きさに割いて、丹を包んだものだが、破れないように2枚で 包んである。その41号文書は、表は近江国からの文書だが、その内包の裏が造東大寺司か東大寺 関係で使われたと思われる。 その丹裹文書には、藤原豊成・仲麻呂・乙麻呂の藤原南家3人兄弟と、「橘夫人」の古那可智4人 の肩書と寄付金額が記載されている。(54)  古那可智が藤原南家3人兄弟と接点を持つことは、古那可智の母が藤原氏であり、武智麻呂と 兄妹の関係であれば、藤原南家3人兄弟と古那可智はいとこ同士となり、容易に理解できるであ ろう。  古那可智の妹麻都賀は、藤原南家三男の乙麻呂、そして乙麻呂の死後、乙麻呂の子藤原是公に 嫁いでいるのである。 7 佐為王(橘佐為) (1)佐為王(橘佐為)略歴  表15 佐為王(橘佐為)の年表
年次内容
持統天皇2年(688)出生か。諸兄天武天皇十三年(684) 出生。従五位下叙位(27歳)同年齢で叙位から推定。
大宝元年(701)11/8父造大幣司長官任、この年三千代光明子を生む。首皇子同年出生。
大宝2年(702)1/17父左京太夫任
慶雲2年(705)8/11父摂津太夫任
慶雲4年(707)1/平城遷都の議
和銅元年(708)2/10行基天地院(法蓮寺)造り始める[東大寺要録]
同年3/13 父治部卿任、このとき 21歳
同年5/30 父美努王卒。
同年11/21三千代(藤原不比等継室)、元明天皇から橘宿彌の姓を賜る。
和銅7年(714)1/5従五位下叙位(27歳)
養老元年(717)4/23小僧行基の弾圧(行基50歳)この年河内国河内郡石凝院起工。
老4年(720)8/3藤原不比等薨[懐風藻63歳]この年または翌年菅原寺起工。
養老5年(721)1/5従五位上叙位(34歳)
同年(721)1/23東宮(首親皇)に侍らしめたまふ。風流侍従狭井王とある。[家伝下]
同年(721)9/11井上王を斎王とし、北池辺新造営に移すときの前輿長となる。[政事要略24]
神亀元年(724)2/4聖武天皇即位。この年和泉国清浄土院・尼院を起工。
同年2/22正五位下叙位(37歳)
神亀4年(727)1/27従四位下叙位(40歳) 二階級の特進。この年大野寺・尼院を起工。
同年3/20長谷寺供養。請六十口。行基菩薩導師。[東大寺要録]
同年閏9/29基王誕生。
神亀5年(728)5/21内匠寮長官新設[職員令集解中務省案](続紀は8月1日とする)
同年9/13皇太子基王薨。
天平3年(731)1/27従四位上叙位(44歳)
天平5年(733)1/11内命婦正三位県犬養橘宿彌三千代薨
天平7年(735)玄ム帰国。開元釈教録、経巻5000余巻を持ち帰る。
天平8年(736)8/菩提遷那来朝、行基接遇、摂津大夫不明
同年(736)11/11葛城王、佐為王橘宿彌の姓を賜る。 (49歳)
同年(736)11/19万1009佐保川の河蝦 万3857佐為王近習婢3856婆羅門3652鯨魚取
天平9年(737)1/橘少卿[万葉集1013題詞]1014文成:橘少卿の子
同年(737)2/14正四位上叙位(50歳)古那可智従三位叙位。
同年(737)3/3国分寺に、丈六の釈迦像を置く。
同年(737)8/1正四位下中宮大夫兼右兵衛率橘佐為卒、50歳。 (〔尊卑分脈〕左兵衛督侍従 中宮大夫正四上とある。)
同年(737)8/2最勝王経を読ましむ、六斎日の殺生を禁ず。
同年(737)8/28玄ム、僧正に任ず『続日本紀』このとき、行基70歳。
同年10/24百官中宮供養院に薪1000荷を進納する。
同年(737)12/27大養徳国と改称す。(天平十九年3/16大倭国に戻す。)
天平10年(740)この頃行基は大徳とされる(古記)。
猪名寺孤独園池設置に諸兄はあるが行基の名はない(行基菩薩縁起図絵詞)。
天平13年(741)恭仁大橋の造営(行基の姿は見えない。)行基の功績(天平13年記)を記録。
天平13年(741)3/24国分寺の建立勅
天平13年(741)11/21恭仁京を大養徳恭仁大宮と号す。
天平14年(742)2/2 中宮職の奴広庭を免じて大養徳忌寸の姓を賜う。(7年後行基の命日と同じ)
天平16年(744)1/13安積親王薨/菩提寺:和束 正法寺(旧名:幡(法)寺、仏法寺、観音寺) (55)
同年11/13紫香楽甲賀寺に大仏の体骨を建つ。(行基の姿は見えない)
天平17年(745)1/21行基大僧正(日本霊異記は天平16年11月とする)
天平18年(745)1/27正三位牟漏女王(藤原房前夫人)薨
天平19年(746)3/16大養徳国を大倭国に戻す。
勝宝元年(749)2/2行基薨82歳(『続日本紀』80歳)
勝宝8歳(756)2/2左大臣正一位橘朝臣諸兄致仕(聖武天皇薨同年5月2日)
宝字元年(757)1/6前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨(橘奈良麻呂の変同年7月2日)
宝字3年(759)7/5聖武夫人正二位広岡朝臣古那可智(正四位上橘宿彌佐為女)薨
宝亀4年(773)11/20行基開基六院に田地施入
(2)橘佐為(佐為王)の昇叙位 表16 続日本紀による昇叙位
葛城王佐為王高安王門部王桜井王長田王
和銅3年(710)1/7従五位下従五位下
和銅6年(713)1/23従五位下
和銅7年(714)1/5従五位下従五位下
養老1年(717)1/4従五位上従五位上従五位上
養老5年(721)1/5正五位下従五位上正五位下正五位下従五位上
養老7年(723)1/10正五位上
神亀1年(724)2/22従四位下正五位下正五位上正五位上正五位下従四位上
神亀4年(727)1/27従四位下特
神亀5年(728)5/21従四位下従四位下
天平1年(729)3/4正四位下特正五位上正四位下
天平3年(731)1/27従四位上従四位下
天平4年(732)1/20従三位(以下略)
天平6年(734)従四位上写経司治部卿
天平8年(736)11/橘宿禰姓賜橘宿禰姓賜
天平9年(737)2/14正四位上特正月弾正尹
天平9年(737)8/1正四位下卒
天平9年(737)9/28従四位上(従四位下)A
天平10年(738)10/ 大原真人大蔵卿(従四位上)B
宝字3年(759)7/5 正四位上
注1) 特は、従四位上から正四位上二級の特進である。(岩波本による) 注2) Aは、天平九年(737)12/23右京太夫。 注3) Bは、天平十六年(744)2/2大蔵卿。  橘佐為(佐為王)の経歴をみると、後年、左大臣となる橘諸兄に準じた昇叙を辿るが、他の王に 比べても遜色のない昇叙というよりも、それ以上の厚遇を受けていることが分かる。 その大きな理由は、神亀元年に首皇太子が聖武天皇となったことであろう。佐為王は、養老元年 二十一歳の首皇太子に、退庁後の教育係の筆頭として仕えていたのである。 次に、天平九年に佐為王女の古那可智が聖武天皇夫人として正三位を叙位されたので、聖武天皇 にとって、佐為王は義理の父に当たる。光明皇后の同母の実兄でもある。  ここに、佐為王は、聖武天皇にとって、通常の臣下以上の関係が保持されていたのである。 ところが、橘佐為の経歴におかしいところが見られる。 表15に示したとおり、橘宿禰佐為本人の卒記と古那可智の薨記の官位が異なる。 また、『公卿補任』延暦十三年条に藤原真友の母麻通我は、「正四位上行中宮大夫侍従兵衛督橘 朝臣佐為四女」とあるから、どうやら、橘佐為は「正四位上」が正しそうである。 佐為の卒伝では、叙位が引き下げられているという奇妙なことになっている。 これは、三千代の名前や位階の変化などから、奈良麻呂の乱の影響があるのかも知れないが、橘 佐為の経歴を誤ることによって、なぜ違うのかと、疑問を持たせることにより読者に何かを伝え ようしている、或いは、橘佐為の何らかの行状を隠す意図を持っているのではないかと憶測する。 橘佐為の位を、正四位上を正四位下とするのは、佐為の父美努王は、「治部卿摂津大夫従四位下」 とあるから、同じ四位下という位階から同じ役職に誘導しようとするのかもしれない。(56)  これは、『行基年譜』が誤りを多くして、注目されることと似る。 先に、記したとおり、橘佐為は、卒後、吉日と同様の位の三位を遺贈された可能性を探る。 橘一族の追贈が数度に亘って見られる。 表17 橘一族の追贈
没年時追贈
栗隈王天武4年(676) 四位@宝字元年(757)1/6 従二位 A従一位 (続日本紀、尊卑分脈、新撰姓氏録)
美努(三野)王和銅元年(708)5/30 従四位下従二位(続群類第108、尊卑分脈脱漏)
県犬養橘宿彌三千代天平5年(733)1/11 内命婦正三位@同年(733)12/28 従一位
A天平12年3/18橘氏太夫人従二位
B宝字4年(760)8/7 正一位大夫人
諸兄宝字元年(757)左大臣正一位
奈良麻呂宝字元年(757)7/ 正四位下@三位承和10年(847年)8/15
A正一位 承和14年(851年) 10/5 太政大臣正一位贈
古那可智宝字3年(759)7/5正二位
牟漏女王天平18年正三位@従二位 A正二位
佐為中宮大夫・天平9年(737)8/2正四下卒とされる。天平21年(739)2/2 行基薨とされる。
 佐為の一族である祖父、父母、妹、甥が最終的に二位以上の叙位となる追贈を受けている。  逆党となった奈良麻呂は、佐為より下位の正四位下で没したが、追贈により従三位となり、更 なる追贈で正一位を得ている。佐為以外で追贈がないものでも諸兄は正一位、佐為女の古那可智 は正二位であり、橘古那可智の母吉日が従三位を昇叙されたならば、父の橘佐為も記録に見えな いものの佐為も吉日と同等の従三位以上に追贈された可能性があると考える。  県犬養橘宿彌三千代の場合、天平五年(733)1/11 内命婦正三位で薨死した後、@同年(733)12/28 従一位に追贈されたが、奈良麻呂の乱後、一旦、従二位に格下げされた可能性がある。次に、A 天平12年3/18橘氏太夫人従二位とされ、B宝字4年(760)8/7 正一位大夫人とされた。  橘佐為の場合も、奈良麻呂の乱の影響により、追贈三位を隠されたのかも知れない。   一般的に、官人が現職で没した場合、いわゆる殉職であるが、級一等の格上げがある慣習はいつ から始まったのであろうか。佐為は、その例であれば、従三位で「薨」じたことになろう。  佐為の卒伝で、正四位下中宮大夫兼右兵衛率橘佐為卒 (『尊卑分脈』左兵衛督侍従 中宮大 夫正四上とある。)とあるのは、橘宿彌佐為の職が「右兵衛率」とされるが、『尊卑分脈』では、 「左兵衛督侍従」とあるから、『尊卑分脈』が正しいとすると、左の位が右が替えられている。(57)  橘佐為が三位を受けていた可能性が考えられる。  天平九年(737)正月、門部王家に橘佐為・橘文成らが集まったことが万葉集に見えるが、そこ では橘佐為は橘少卿とされている。  亀田隆之は、「『万葉集』を見るとき、「卿」「大夫」の使い方には一定の原則が存在している ことに注意される。三位以上の官人を「卿」、四位、五位の官人を「大夫」と記することである。 …その例外が、橘佐為は、橘少卿と記す。彼は、正四位下で卒しているから、…「大夫」と記すべ きであろう。(58)」とする。これは、佐為王が例外的に卿と呼ばれたのではなく、もともと従三 位を授位されていたかも知れない。  国史大辞典は、「卿は、三位以上をいうのである。…太政大臣、摂政、関白以下、左右大臣、内 大臣を公、大中納言、参議、および三位以上を卿といい、総称して公卿といった。…参議は四位で あっても、なお卿の列に入れたとするが、七省の長官も卿と呼ばれる。(59)」とするが、必ずし も一律的に運用されたものでなく、その時々により、四位以上で卿に就く事例が見受けられる。  天平六年門部王(従四位上)が治部卿、天平九年石川王(従四位下)が宮内卿の例がある。 橘佐為は、諸兄に準ずる存在として尊称を付した可能性や、四位のまま卿と呼ばれた可能性、参議 や七省の長官に任じられた可能性がある。  それ以外には、卒後、贈三位があり、万葉集は、編纂時に「少卿」を追記したことが考えられる。 (3)橘宿禰佐為卒伝 橘佐為が卒後の記事を『続日本紀』に見る。 表18 橘佐為卒後の『続日本紀』の記事
期日内容
天平9年8月1日中宮大夫兼右兵衛率正四位下橘宿禰佐為卒す。
天平9年8月2日四畿内・二監、七道諸国の僧尼をして清浄沐浴せしむ。一月の内に二三度、最勝王経を読ましむ。
天平9年8月5日参議式部卿兼大宰帥藤原宇合薨しぬ。
天平9年10月24日甲子、百官人等をして薪一千荷を買はしむ。従三位鈴鹿王已下、文官の番上已上、躬ら担ひて、中宮の供養院に進る。
 天平九年(737)八月一日に、正四位下中宮大夫兼右兵衛率橘佐為卒とあり、翌八月二日に、「四 畿内・二監、七道諸国の僧尼をして清浄沐浴せしむ。一月の内に二三度、最勝王経を読ましむ。」 とされる。この八月二日の出来事は、橘佐為の卒と関連付ける論者は見当たらないようであるが、 これは橘佐為の卒に関してなされたものではないだろうか。  因みに、「丙午(5日)参議式部卿兼大宰帥藤原宇合薨しぬ」が、佐為より高位の参議であるにも かかわらず、甲寅(13日)の詔まで記事が掲載されていない。そして、天平九年(737)八月甲寅(13 日)詔、異変により租賦・出挙未納を免除し、九年(737)八月十五日に宮中に大般若経・最勝王経 を転読するが、この一連の行事は、藤原四兄弟をはじめ、多くの官人・人民の災難に対処するた めに行われたものであるが、八月二日の出来事は、橘佐為の卒に伴う対応がなされているように 窺える。  そして、橘佐為の卒に伴う対応は、『行基年譜』行年七十四歳条にある「(行基)遷化之後、大小 寺誦経了云々」とあることに似る。 表19 貴人の逝去と翌日の措置
天平9年8月1日
橘宿禰佐為卒
天平九年八月二日 癸卯、四畿内・二監と七道の諸國との僧尼をして清淨沐浴せしむ。一月の内に二三度、最勝王經を読ましむ。また、月の六齋曰に、殺生を禁断す。
天平20年4月21日
元正太上天皇崩御
○辛酉(22日)、左右京と四畿内と七道との諸国をして挙哀せしむること三日とす。
○壬戌(23日)、大安寺に誦経せしむ。
○甲子(25日)、山科寺に誦経せしむ。
○丙寅(27日)、初七に当りて、飛鳥寺に誦経せしむ。是より後、七日に至る毎に京下の寺に誦経せしむ。
天平20年6月4日
正三位藤原南夫人薨
翌5日に百官及び諸国をして服を釈かしめている。
天平宝字4年6月7日
光明皇太后崩御
同日天下諸国、哀を挙ぐること、三日服期三月。 同日宣、東大寺写経所に称讃浄土経1800巻の写経が命じられた。
 元正太上天皇崩御や藤原南夫人薨去の際は、翌日に諸国等をして服を釈かしめている。 光明皇太后崩御の際には、同日天下諸国、哀を挙ぐること、三日服期三月とされ、同日宣、東 大寺写経所に称讃浄土経1800巻の写経が命じられた。 また、七々斎供養に諸国の寺で阿弥陀浄土の画像を造り奉ることが当日か翌日には命じられた ことだろう。すると、天平九年八月二日条に、「四畿内・二監、七道諸国の僧尼をして清浄沐 浴せしむ。一月の内に二三度、最勝王経を読ましむ。」とされる出来事は、橘佐為の卒に関し てなされたものと考えられるのではないだろうか。  天平九年を中心に全国の寺院で、行基の活動が活発化し、また、国分寺に於いても行基像の 設置や仏像に関する伝承が残されている。(60) (4)佐為王の官位、官職 佐為王の官位、官職について考える。 表20 佐為王の官位、官職
時期官位、官職備考
和銅7年(714)1/5従五位下(佐為王27歳と想定)諸兄27歳従五位下
養老5年(721)1/5従五位上、東宮侍従『藤氏家伝』「風流侍従」とある。
養老5年(721)1/23葛城王と共に前輿長斎王(井上親王)北池邊新造宮に移す。
神亀1年(724)2/22正五位下聖武天皇即位2月4日
神亀5年以降内匠寮長官(内匠頭)神亀5年7月21日勅、従五位下相当
天平3年(731)1/27従四位上
天平8年(736)2正四位下室賀系図78頁。
天平9年(737)2/14正四位上
天平9年(737)8/1正四位下中宮大夫兼右兵衛率
 佐為王の官位におかしいところがある。佐為王は、養老5年(721)に、東宮侍従、前輿長に就き、 神亀五年七月以降の時期に、内匠寮長官(内匠頭)であった。  聖武天皇との関係において、東宮侍従であったことは、『藤氏家伝』武智麻呂伝に「風流侍従」 とされている。「風流侍従、有六人部王・長田王・門部王・狭井王・桜井王・石川朝臣君子・阿倍 朝臣安麻呂・置始工等十余人。」この風流侍従とは明確ではないが、特別な意味があったことだろ う。  万葉集には、浅香山の歌を詠んだ采女が風流とされるが、万葉集には佐為の和歌はない。また、 『霊異記』に漆部氏の妻が身を慎んで空を飛ぶことを風流な女人と呼ぶが、空を飛ぶような術を 心得たり、風の赴くまま航海し、鎮西や陸奥など遠方まで旅することまでが風流と想定できる。  また、摂津職や太宰府官人のように外国の文化(文字・言葉・仏教)などに精通し、文芸や管弦 を嗜み、外国使節を接遇できることが想定できる。そのように、佐為はいずれか風流な行動がで きたものと思われる。 『続日本紀』卒伝に「中宮大夫兼右兵衛率」長官とある以外、ほとんどの官職が不明である。  中宮職の設置時期は、神亀元年三月頃(「中宮舎人」の初見は神亀四年(61)とされるから、 佐為王は、神亀年代から大夫であった可能性がある。   表21 天平年間の官位相当表
官位相当職
従五位下少納言、中務侍従、七省少輔、摂津・左右京職亮、大炊・内匠(令外)寮頭、太宰少弐
従五位上中務少輔、玄番寮頭、左右兵衛督
正五位下左右少弁、七省大輔、弾正弼、刑部大判事
正五位上左右中弁、中務大輔、摂津・大膳・左右京大夫、衛門督・左右衛士督・中衛少将、太宰大弐
従四位下神祇伯、中宮大夫、春宮太夫
従四位上左右大弁、弾正尹、中衛大将
正四位下参議(天平三年新設)、七省卿
正四位上中務卿、皇太子傳
注)官位相当制は、官人の官職と位階の関係を規定したもので、時代や組織改廃によって変動する  が、天平年間の官位相当表(62)を元に作成した。  岩波『続日本紀』天平九年八月壬寅条(壬寅は一日朔日であるが、朔の文字がない。)は「中宮大 夫兼右兵衛率正四位下橘佐為卒」とあり、中宮大夫・右兵衛率のいずれも官位が官職を上回ってい る。正式な位署ならば、官位不相当の場合は位を先に書き、官>位の場合は「守」、官<位の場合 は「行」の字を入れる。この考えからすると、橘佐為の官位は、簡単に「行」であることが分かる ようになっている。  官位相当職からみると、天平三年以後は「正五位上」相当の摂津太夫の有資格者である。 空位の摂津太夫がある。また、天平九年(737)二月十四日以後は、「正四位上」であり、七省卿に 就任する資格があり、また、七省卿に就任した可能性があると考えられる。  天平九年の七省卿等の就任状況をまとめる。 表22 天平九年の七省卿等の就任状況  
官職名官人備考
知太政官事鈴鹿王大蔵卿、准大臣
左大臣藤原武智麻呂
大納言橘諸兄参議、左大弁
中務卿藤原房前参議
式部卿藤原宇合参議、太宰帥
治部卿空白天平6年当時の治部卿は従三位下門部王(天平9年正月弾正尹)
民部卿藤原房前参議
兵部卿藤原麻呂参議、左右京職太夫
刑部卿空白
大蔵卿鈴鹿王
宮内卿石川王従四位下、天平9年11月19日任
摂津太夫空白
 治部卿、刑部卿、宮内卿、摂津太夫に空白がある。 表23 治部卿の空白
治部卿就任備考
従四位上門部王天平3年12月21日見〜天平6年見(63)高市皇子の子
従四位上茅渟王天平11年3月21日見長皇子の子、智努王、文室浄三
従四位上三原王天平12年9月11日見続日本紀、伊勢大神宮に派遣
従四位上安宿王天平18年4月11日任
 治部卿は、天平六年頃から天平十一年まで約五年間の空白がある。 菩提遷那が来朝したとき、行基は治部卿以下百僧・官人を率いて迎える。(『行基年譜』) 僧侶に関する職務は治部省の管轄である。佐為の父美努王は、従四位下で、治部卿兼摂津大夫であった。  門部王は、従五位下が佐為王より五年早く、天平九年弾正尹に昇格した時、従四位上と同位で あった橘佐為が治部卿に就任したと考えることは可能であろう。また、治部卿は、摂津太夫は兼 職する場合があるので、検証を加える。 摂津職  もう一つの記録に表れないものに、摂津職がある。菩提遷那が到着した時の摂津職が不明で ある。 表24 摂津太夫の空白
摂津太夫 就任備考
正四位下長田王天平4年10月17日任官天平9年(737年)6月18日卒去。最終官位は散位正四位下。
従四位下大伴牛養天平10年閏7月7日任官
 摂津太夫は、天平五・六年以後、少なくとも天平九年六月十八日以前から天平十年閏七月七 日までの空白がある。  橘の系譜をみると、父美努王、甥奈良麻呂が摂津職に任じられている。諸兄も難波と関係が 深い。諸兄の先祖である敏達天皇を祀る五条宮は天王寺の北東に現存する。また、橘家の菩提 寺が難波の天王寺村阿倍野西にあった西教寺である。(64) 万葉集18にも難波堀江近くに橘諸兄の邸宅があり、元正天皇が行幸している。(65)  佐為の経歴が全て記されていないが、橘家は、歴代大宰府・摂津職など外交に携わってきた 家系であり、正四位上の佐為が正四位下相当職の摂津職大夫を務めたとしても不思議ではない。  平安時代、和気清麻呂は、佐為と同じく、中宮大夫を務めているが、同時に、摂津国司を兼務 していたのである。 表25 治部卿と摂津太夫は兼職
人物内容出典備考
美努王治部卿兼摂津太夫は兼従四位下美努王『公卿補任』天平九年橘諸兄橘佐為の父
慶雲2(705)摂津太夫 和銅元年(708)治部卿
藤原八束参議従四位下藤原朝臣八束 治部卿。四月兼摂津太夫『公卿補任』天平勝宝三年美努王女、牟漏王の子
 摂津太夫、治部卿に橘佐為の父や後年甥の奈良麻呂が任じられているので、橘佐為が当該職に 任じられていた可能性がある。 結びに  ここでは、行基と結びつかない官人の一人の橘佐為とその一族の人物像の把握に努めた。  橘氏一族の家系(66)や叙位には混乱が多い。橘氏の叙位は、奈良麻呂の変後、橘一族の位階 が一旦引き下げられたが、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱後、復元された形跡が見られる。これには、 橘氏と結合した藤原氏の子女や橘氏の後裔の働きが想定されるが、その中で、特に橘佐為の動向 については、あまり明確にはされず、疑問が残る記事のままである。  橘佐為は、天平九年(737)二月十四日 に正四位上に昇叙されているが、卒時は「正四位下中宮 大夫兼右兵衛率」と引き下げられている。これは、古那可智の薨じた記事の「正四位上」からも 引き下げが明らかである。逆に言えば注目される記事になっている。  橘佐為が、万葉集に「橘少卿」と呼ばれたのは、諸兄が「橘卿」であり、橘佐為は、「橘少卿」 として、生前に参議又は七省の長官に任じられた可能性がある。或いは、一族の追贈を見れば、 卒後に、従三位を叙位追贈された可能性がある。主だった一族でただ一人三位ではないからである。  国史に記されないことや混乱は何か秘めるものがあるのかも知れないが、これは奈良時代を代表 する僧である行基の存在と一体的に考えると理解が進むかも知れない。  続日本紀天平9年(737)8月2日条に、「四畿内・二監、七道諸国の僧尼をして清浄沐浴せしむ。 一月の内に二三度、最勝王経を読ましむ。」(67)とされるのは、佐為の死後の翌日であり、この 出来事及び同年10月24日中宮供養院における薪の貢進は、橘佐為の卒に関してなされたものではな いだろうか。そして、法華経八講の「薪の行道」は、行基和讃を唄いながら行うものになったので ある。あるいは、佐為の死後に、諸国の国分寺に行基像が作られた契機になったのではないだろう かと憶測する。  天平九年を中心に全国の寺院で、行基の活動が活発化し、また、国分寺に於いても行基像の 設置や仏像に関する伝承が残されているから、まさに、佐為の卒去と関連するものと考える。 そして、菩提僧正来朝時の摂津太夫及び治部省太夫には、橘佐為が任じられていた可能性がある。  これには、鎌足から始まる藤原氏と、敏達天皇の後裔橘氏が複雑に絡んで天皇家と共に日本の 古代社会を構築してきた構図がみえる。美努王家と藤原氏の結合、つまり美努王家の三人の子全 てと、藤原不比等の子を結び付けた三千代の功績は大きいものがあろう。
註 (1) 「佐為王」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年、704頁。(館野和己) (2) 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉訳『現代語訳藤原家伝』ちくま学芸文庫2019年/「群書類従 第5輯 系譜部・伝部・  官職部」「家伝下(武智麻呂傳)」 (3)『続日本紀史料』第六巻、皇学館大学研究開発推進センター史料編纂所編、2004年、765頁。  『続日本紀』天平九年八月癸卯(一日) 条 (4)『政事要略』24「官曹事類」養老五年九月乙卯(11日)条 (5) 岸俊男「県犬養橘三千代をめぐる憶説」『末永先生古稀記念古代学論叢』末永先生古稀記念会、1967年、297頁(注17)。 (6) 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』本文篇、吉川弘文館、1962年、158頁。 (7)『国史大系』60下、「尊卑分脈」第四篇、吉川弘文館、 (8) 『群書類従』第五輯、系譜・伝・官職部、巻第60、続群書類従完成会、18頁。 (9)『新撰姓氏録』未定雑姓「茨田真人条」頁。 (10) 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』本文篇、吉川弘文館、1962年、332頁。 (11) 義江明子『県犬養橘三千代』吉川弘文館、2009年、14頁。 (12) 天武天皇元年六月条(『日本書紀』五、岩波文庫、1995年、82頁。) (13) 『京都の地名 検証2』勉誠出版、2007年、106-109頁。 (14) 森郁夫『瓦』、法政大学、2001年、246頁。 (15) 岸俊男「県犬養橘三千代をめぐる憶説」『末永先生古稀記念古代学論叢』末永先生古稀記念会、1967年、264頁。 (16) 黛弘道『律令国家成立史研究』吉川弘文館、1982年、234頁。 (17) 胡口靖男「軽皇子の命名と県犬養橘三千代」『続日本紀研究』第185号、1976年、1-15頁。 (18) 田中久夫『皇后・女帝と神仏』歴史民俗学論集1、岩田書店、2012年、25頁。 (19) 御子柴大介「橘夫人考」『尼と尼寺』平凡社、1989年、88頁。 (20) 寺西貞弘「小紫美濃王について」『横田健一先生古稀記念文化史論叢』上、創元社、1987年、791-792頁。 (21) 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』上巻、1986年、78頁。 (22) 浅香山の歌 万葉集巻16- 3807 安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに    陸奥国前采女    右の歌は、傳へて云はく、葛城王陸奥國に遣さえし時に、國司の祗承の緩怠なること異に甚し。時に、王の意に 不悦びず、怒の色面に顕る。飲饌を設くと雖も、肯へて宴樂せず。 ここに前の采女あり。風流の娘子なり。左の手に觴を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠みき。 すなはち王の意解け悦びて、樂飲すること終日なりきといへり。 (23) 万20-4455天平元年班田之時班田使葛城王山背国より女官の薩命観に芹をそえて贈った歌。 「茜さす昼は田賜びて ねばたまの夜の暇につめる芹これ」 (24)『栄花物語』月の宴の巻に、「むかし高野の女帝の御代、天平勝宝5年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて万葉 集をえらび給」との記述があり、元暦校本の裏書に、またある種の古写本の奥書にも入っており、一定の信憑性をも つものとされる。 (25) 胡口靖男「橘氏の氏神梅宮神社の創祀者と遷座地」『國學院雑誌』1978年8月号、30頁。 (26) 京都府久御山町玉井神社由来 「玉田大明神 火難除け 御霊験名馬火鎮由来 聖武天皇の御代(七二四〜七四九)、天皇から橘諸兄公に詔勅があって、御牧の馬を召しださせ給うた。橘諸兄公は勅 を奉じて、この御牧の地より一頭の名馬を求めて、天皇に献上した。天皇は馬を叡覧されて「誠に稀代の名馬である。」 と感激され、橘諸兄公の忠誠を讃えて、左大臣橘諸兄として最高の貴族に列せられた。ある時、この馬が三日間いななき 続けた人々は不審に思い、何か不吉なことが起こるのではないかと心配した。案の定、三日後に御所の内裏の外で火災が あった。馬は炎の上がるのを見て、猛ること甚だしかったが、やがて火は鎮まり馬もおとなしくなった。しかるに幾日も 経たない内に、全く前と同じように、馬が三日間いななき続けた。そして三日後再び内裏の外で火災が起きた。すると馬 は、くつわを強く繋いであったにも関わらず、くつわを抜いて御厩舎を飛び出してしまった。人々はあわてて止めようと したが、手の付けられない勢いで紅蓮の炎の中に飛び込んでいった。すると不思議なことに、火はことごとく鎮まってい った。人々は何としたことかと感心して騒いでいると、しばらくして、馬は煙の中より現れると、静かに御厩舎の中に入 っていった。このことが、聖武天皇に奏上されると、天皇は「誠に稀代の名馬である。」として、詔勅により『火鎮ひし ずめ』と名付けられた そして、この馬は、天皇が深く信仰されている玉田大明神が召させ給うた神馬であろうとして、橘諸兄公に勅されて、元 の御牧の地に返された。御牧郷の人々は、この話を伝え聞き、奇特な名馬であると讃えて、火難除けの神馬として大切に 扱った。そして、やがて年を経て名馬『火鎮』は死んでしまった。御牧郷の人々は、名馬にふさわしい立派な塚を造り、 馬見塚と名付けて、『火鎮』の亡骸を丁重に葬ったと伝えられている。(当社現存の版木「御霊験名馬火鎮由来」より)」 (27)『和泉名所図会』巻之三、473頁。(『日本名所図会』11、近畿之巻1、角川書店、1981年)/  「貝吹山古墳」三善卓司『大阪伝承地誌集成』清文堂出版、1998年、588頁。No1483。 (28)瀧浪貞子『藤原良房・基経』ミネルヴァ書房、2017年、25頁。 (29)宝賀寿男『古代氏族系譜集成』中巻、1986年、938頁。 (30)宝賀寿男『古代氏族系譜集成』中巻、1986年、713頁。 (31)宝賀寿男『古代氏族系譜集成』上巻、1986年、78-79頁。 (32)「橘古那可智」『国史大辞典』第九巻、吉川弘文館、1988年、194頁。 (33)福山敏男「普光寺(広岡寺)の位置」『日本建築史研究』続編、墨水書房、1970年、 (34)拙考『橘夫人考』 (35)「正倉院」別刷58・88『国史大辞典』第七巻、吉川弘文館、1986年。 (36)『福井県史』通史篇1、1993年。 (37)坂本太郎・平野邦雄監修、『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、1990年、420頁。 (38)上田正昭『天平びとの華と祈り』柳原出版社、2010年、293頁。 (39)「本条[宝字8正7]は重複でなく本位に復すという意味ではないか」(現代思潮社『続日本紀』第五分冊、巻31 〈52頁。〉註12下(2)) (40)『万葉集』第二巻、小学館、1972年、172頁。 (41)『正倉院御物棚別目録』帝室博物館、1925年、74頁。 (42)「橘古那可智」『国史大辞典』第九巻、吉川弘文館、1988年、194頁。 (43)正倉院宝物銘文集成、松嶋順正編、吉川弘文館、1978年、191-192頁。 (44)石田茂作、『仏教考古学論攷』6、雑集編、1977年、248頁。/『正倉院御物棚別目録』帝室博物館、大正14年、   74頁。 (45)石田茂作、『仏教考古学論攷』6、雑集編、1977年、251頁。 (46)角田文衛「不比等の娘たち」『律令国家の展開』塙書房、1965年、63−65頁。 (47)「多比能という誤写は、吉日=吉日娘=支比娘→多比娘→多比能という過程をとって由来したと認められる   のである。」(角田文衛同上、66頁。)とするのは、無理があると思われる。 (48)多比能(吉日)と諸兄の年齢差を20歳とする。(中川収『県犬養三千代』440頁。) (49)田中久夫『皇后・女帝と神仏』歴史民俗学論集1、岩田書店、2012年、25頁。 (50)石田茂作『仏教考古学論攷』第六巻、思文閣出版、s52年、251頁。 (51)『続神道体系朝儀祭祀編 一代要記(1)』神道体系編纂会編、石田実洋ほか3名校注、2005年、99頁。 (52)『本朝皇胤紹運録』に「藤原弟貞」とある。25頁。 (53)丹裹文書とは、反故の文書を適当な大きさに割いて、丹を包んだものだが、破れないように2枚で包んである。   その41号文書は、表は近江国からの文書だが、その内包の裏が造東大寺司か東大寺関係で使われたと思われる。  (木本好信「正倉院文書『人々進納銭注文』と橘夫人について」、『藤原仲麻呂政権の基礎的考察』所収、高科書店、   1993年、296頁) (54)『大日本古文書』(25-100)第41号   「  右大臣家(藤原豊成)三貫九百十八文      大納言藤原家(藤原仲麿) 三貫 橘夫人家(橘古那可智)二貫六十九文      造宮輔家(藤原朝臣乙麻呂)一貫并九千九百八十七文      自余五十貫二百五十二文无七千六十四文          」 (55)正法寺は行基により創建されたとする伝承がある。(雍州府志、相楽郡史) (56)『公卿補任』「橘諸兄の項」美努王は、「治部卿摂津太夫従四位下」であり、橘佐為は「正四位上」が正しいが、   卒伝には、「正四位下」と引き下げられていることから憶測する。 (57)行基の死亡時の表記が薨とされるのは、橘佐為と関係があると思われる。「三位」がないことは、「三位(サイ)   取り」である。サイ取りで気づくのは、人名で東人は多いが、西人は見えない。わずかに、西麻呂(かわちまろ)が   見える。万葉集6-1062には、難波の宮にイサナ取り(田辺福麻呂)が使われる。「左(サ)位取り」になっているのは   「サトリなさい」という意味か。三位を取るのもサイ取り。「佐」はイ・左に分解できる。 (58)亀田隆之『奈良時代の政治と制度』吉川弘文館、2001年、132-133頁。 (59)「卿は三位以上をいうのである。」国史大辞典4巻、727頁。「公卿」(笹山春生) (60)「行基伝承の第四の最大のピークは天平九年とされている。」(菅谷文則「行基開基伝承の寺院」『探訪古代の道』   第三巻河内みち行基みち、上田正昭編、法蔵館、1988年、239頁。) /   横浜市弘明寺蔵十一面観音像伝は天平9年行基作。 (61)「中宮舎人」の初見は神亀四年。「中宮職」は宮子のために設置された。井上薫『長屋王』 (62)『万葉集』第二巻、小学館、1972年、524頁。「天平年間の官位相当表」 (63)天平六年聖武天皇発願一切経の抜語に「写経司治部卿従四位上門部王」とある。(川崎晃245頁。) (64)『天王寺村史』橘氏公同会、1925年、196頁。 (65)直木孝次郎『難波宮と難波津の研究』吉川弘文館、1994年、170頁。 (66)『群書類従解題』第一系譜部(系6、系307-312)群書類従完成会、1962年、10頁、263-269頁。 (67)昆陽寺縁起に「年に七十二度の祭事」とある。つまり月に六度の六斎日と同様である。 参考文献 『続日本紀史料』第六巻、皇学館大学研究開発推進センター史料編纂所編、2004年、765頁。 義江明子『県犬養橘三千代』吉川弘文館、2009年 伊集院葉子『古代の女性官僚』吉川弘文館、歴史文化ライブラリー390、2014年 伊集院葉子『日本古代女官の研究』吉川弘文館、2016年 竹内理三「法隆寺縁起資材帳」『寧楽遺文』八木書店、1943-1944年。
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]

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