行基の伊丹における活動を巡っての一考察(要約)

一、伊丹における行基の活動について

1 行基の造った施設
・行基の造った池は十五箇所とあり、摂津國川邊郡山本里にある池は五箇所である。
・溝は所在が西城郡としている長江溝を含めて三箇所である。
・四十九院のうち、嶋陽施院が摂津國川邊郡山本村にあり、里と村の違いはあるが、五箇所
 の池、三箇所の溝が同じ山本の地にある。
・九箇所の布施屋のうち、崑陽布施屋が摂津國川辺郡崑陽里に造られたとされている。
・給孤獨園という施設が為奈野に造られたとするが、家原寺蔵の『行基菩薩縁起図』には、
 孤獨園池が猪名寺(尼崎市)に造られたとある。
2 崑陽施院、崑陽布施屋の定論
・崑陽施院の所在地比定説には、主として現昆陽寺説と伊丹廃寺説の二説がある。
・昆陽布施屋は、現在の昆陽寺周辺とし、布施屋が昆陽施院を吸収合併したと考える論があ
 る。
・田原孝平は、上、中、下の三箇所の布施屋を考え、中布施屋を伊丹庁舎の地と推定し、
 また、中布施屋の僧堂の伝承を持つ安楽院の存在する千僧、昆陽の隣接地区の小字堂ノ前
 にあったとする。
・畑井出、千田稔の昆陽施院と布施屋は、同一施設とする論がある。
3 昆陽寺鐘銘からの考察
・昆陽寺鐘銘には四至が記されている。
 「猪名野方五十町 東限伊丹坂、南限笠池堤、西限武庫川、北限後通墓」
  東西の境は、自然の境界で現在も存在することから想定できるが、南北の後通墓、笠池堤
 の名は直接古図にも見い出せず不明である。
・後通墓の比定地は、現昆陽池の西側に、行基像の背をみて通る行基道の側にある市営墓地「昆陽霊園」が有力な候補といえる。
・笠池については、千僧の地にあった籠池を笠池と考える。
・昆陽霊園と籠池を結んだ旧千僧村に当たる地域にある猪名野山願成就寺安楽院は、和銅六
 年(713)の創建であり、郷里制の霊亀元年(715年)以前の設置と考えられる布施屋の設置時
 期と一致するので、安楽院の前身は昆陽布施屋である可能性が考えられる。
4 『昆陽組邑鑑』から見る史実
・宝暦六年(1756年)頃の『昆陽組邑鑑』は、「川辺郡千僧村」「川辺郡寺本村」の両村に行
 基が開基した七堂伽藍の寺坊があり、荒木摂津守の兵乱により、安楽院以外の十五ヶ所が
 焼失したことが記載されている。
・和銅年間頃に昆陽里のはずれの地に昆陽布施屋が設けられ、それが寺院に発展する中で多
 くの寺坊を備える昆陽院(児屋寺)に拡大したが、天正年中の荒木摂津守の兵乱により昆陽
 院が焼失し、安楽院を残して寺本の地に移転・再建され、現在の昆崙山昆陽寺になったと
 考えられる。
5 池及び溝の比定
(1)池の比定論
・『伊丹市史』では、現昆陽池が「崑陽上池」にあたり、「崑陽下池」は、江戸時代初めま
 で、現昆陽池の西側にあった池であろうと推定され、残り三つの池については、現存する
 比較的大きな瑞ヶ池がこれらの池のどれかになろうと推測されている。
・田原孝平は、瑞ヶ池を中布施屋池、長江池を長池とされ、院前池については、伊丹廃寺の
 前にあった主膳池を当てる。
(2)溝の比定論
・坂井秀弥は、現昆陽池の北方にある天神川、天王寺川を人工の河川と考え、天神川を昆陽
 上溝に、天王寺川を昆陽下池溝に当て、池の貯水用水路とする。
・吉田靖雄や田原孝平は池から水田への灌漑用水路と考え、吉田は網目状の水路、田原は幹
 線水路を考える。
(3)従来の比定論に対する批判から
・池及び溝の築造は、灌漑用と洪水対策の機能から高地側に当たる東側の溝を深くして海抜
 からの水位を下げ、低地に当たる西側の溝を浅くして水位を均す設計が必要である。
 浅い昆陽上溝は西側の天王寺川であり、深い同下池溝は東側の天神川であると比定でき
 る。
・溝を深くすることは、対応する池も深く掘られたと考えられ、東西の中央に位置する昆陽
 下池の方が昆陽上池より水需要が旺盛であり、江戸時代初めまで存在した西側の池は、武
 庫川からの引き水という代替措置が取られ、より浅かった結果として埋め立てられたと推
 測する。
・年譜の崑陽上溝 (天王寺川)が流入する崑陽上池は江戸時代に埋め立てられた池と考えら
 れ、同下池溝(天神川)が流入する(昆陽)同下池は現在の昆陽池と比定できる。
・長江溝は、長江池を長池に比定すると、長池から現昆陽池に通じる水路と思われる。
・院前池は、西側の安楽院より東側の寺院に近接する籠池を院前池に比定する。
・中布施尾池は消去法により尼ヶ池に比定する。
・瑞ヶ池は、現昆陽池に次ぐ大きさで、昆陽野に氾濫を繰り返す荒ぶる土地を鎮める池は行
 基築造の第六番目の池ではないか。
6 年譜が有する性格
・伊丹における行基の築造池は全部で六池の可能性がある。天平十三年記に記載されないこ
 とをもって、行基の功績を否定することは誤りであろう。なぜなら、天平十三年記には、
  四十九院の造寺の記載がないことが知れるので、行基の功績を全て反映していないことが
 分かる。
・年譜は、他の菩薩伝、竹林寺略記とも施設の配列を大きく替えており、配列に故意が感じ
 られる。これは、目的を持って年譜作者あるいは改作者が作為したものであろう。
・また、伊丹の築造六池の『並』の文字、「崑陽上溝、同下池溝」に示される「池」の字が
 ない「崑陽上溝」、泉寺布施屋に「橋」の字がない、「布施屋池」が「中布施尾池」とさ
 れている。
 これら誤字・脱字の存在が作者の作為でなければ、年譜が作者の意図を超えて改ざんされ
 ている可能性が高く、行基に関わる事柄を暗示、誘導する暗号書の役割を担っているもの
 と考える。
二、『大僧上舍利瓶記』の信憑性について(省略)

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