先に行基舎利瓶記の信憑性については、忍性の舎利瓶記と比べて考察した。行基舎利瓶記の年齢 の表記の「寿」は、行基の卒伝では唯一舎利瓶記のみに見られるもので、「春秋」に代わる「寿」が 用いられるのは鎌倉時代以後であり、「寿八十二」の表現は忍性記の模倣であると考えた。 忍性菩薩の舎利瓶記は、鎌倉極楽寺(嘉元元年十一月)、大和郡山額安寺(嘉元元年八月)、生駒 竹林寺(嘉元元年八月)の三種類がある(注1)が、嘉元元年八月の大和郡山額安寺記は、実際には 同年十一月の鎌倉極楽寺記より、後に作成されていることが窺えた。 しからば、大和郡山額安寺記と生駒竹林寺記の成立の先後はどうなのかを分析する。 そして、行基舎利瓶記の作成年代の新規性を指摘し、舎利瓶残片に対する疑問を改めて挙げ、行基 瓶記は忍性瓶記に拠るとする論を補強する。 更には、「多宝之塔」に対する論評を紹介し、私見を加えることとする。 1 額安寺記と竹林寺記の成立の先後 三つの忍性舎利瓶記の比較を行うと、表1のとおり、極楽寺記の「則専恢興律宗兼弘伝密教」は、 竹林寺記・額安寺記の「秘密之灌頂専律宗之弘通」と変更されている。これは、竹林寺記と額安寺 記が同文であることから、竹林寺記と額安寺記のそれぞれが極楽寺記から写されたものでなく、極 楽寺記から大和国のどちらか一方の寺に写され、更に、残る寺に転写されたものであることが分か る。Bの部分について、竹林寺記は極楽寺記とほとんど一致するが、額安寺記は一致しない箇所が 出てくる。額安寺記は、竹林寺記と比較して、和尚が和上となるなど、六字が異なっている。 転写を繰り返すことによって異なる箇所が増えてくるのは、自明の理である。 表1 忍性舎利瓶記の比較表注1)極楽寺記は、天正七年に書写されたものを使用する。極楽寺記(昭和52年安藤孝一による)は、 Bの部分について「和尚仰上真エ開令使代・ウ」とする。 注2)アはカサ(八)の下に与である。イはハコ構えの中に弓である。ウは癸の略字。エはシンニュウの 中が非である。 このことから考えると、竹林寺記は額安寺記に先行して成立したものと思われる。 ただし、これは、単に舎利瓶記だけの先後の比較であって、忍性墓の築造の先後は別に考える べきものであり、竹林寺の忍性墓が額安寺忍性墓に先行して築造されたと考えるものではない。 そして、行基舎利瓶記は、額安寺記を元にして構文されたか、あるいは、竹林寺記を元にして、 額安寺記とほぼ同時併行的に作成された可能性がある。極楽寺記文中の「和尚」は、竹林寺記文 で同じ「和尚」を使うが、額安寺記文では「和上」に書き換えられている。 この書き換えは、行基舎利瓶記にも「和上」が使われているから、額安寺記文とより似ていること になる。 なお、表1―Cのとおり、極楽寺記は、紀年が「嘉元元年十一月 日」であり、竹林寺記及び額 安寺記は「嘉元元年八月 日」となっている。 忍性が鎌倉で没して後分骨されたこと及び舎利瓶記比較表Dより、極楽寺記が他の二つのもの より古い時期に作成されたことが示されるが、史料の紀年は、そのまま信用できない事例である。 そして、その作為は、額安寺舎利瓶記作成の時でなく、竹林寺舎利瓶記作成の時に行われてい るのである。 何故、竹林寺記及び額安寺記が極楽寺記より日付が先になっているのかは、行基の舎利瓶記と の関係があろう。事実でない行基瓶記を元にして、忍性の舎利瓶記が作られたことを仮装するなら ば、まず行基の舎利瓶記発見されたあと、忍性の舎利瓶記が大和の二寺で作られたとしなければ ならない。 その後、鎌倉の極楽寺で三つ目の舎利瓶記が作られたことを装うために、竹林寺記、額安寺記の 日付を極楽寺記以前に改ざんしたものと思われる。 2 行基舎利瓶記の作成年代の新規性 (1) 行基の卒年 行基の卒年は、表2のとおり、大きく分けて八十歳説、八十二歳説、その他と三つに分けられる。 経年的に年齢区分を見ると、八十歳説、八十二歳説は、概ね『七大寺年表』(1165年)を境にして、 以前は八十、以後は八十二に分かれる。『続日本記』(797)、『三宝絵』(984)、『日本往生極楽 記』(985)、『日本紀略』(1036)、『本朝法華験記上』(1042)、『扶桑略記』(1094)、『東大寺要録』 (1134)が八十歳説である。 表2 行基の卒年
極楽寺記 竹林寺記 額安寺記 A 則専恢興律宗兼弘伝密教 秘密之灌頂専律宗之弘通 秘密之灌頂専律宗之弘通 B 和尚仰土莫匪関今便拭・癸 和尚仰土莫匪関今便拭回癸 和上?土莫匪開ア便拭イウ C 嘉元元年十一月 日 嘉元元年八月 日 嘉元元年八月 日 D 付法住持沙門栄真
石塔願主比丘禅意沙門栄真 沙門栄真 それらの『七大寺年表』(1165)以前の史料の中で、鎌倉時代に発見された『大僧上舍利瓶記』(749) の「八十二」は特異であると指摘できる。 正史である『続日本紀』以降『七大寺年表』までの諸史料ではすべて「八十」であるのに対し、それ以 前に作成された『大僧上舍利瓶記』のみが「八十二」とすることは、普通有り得ないことである。 また、舍利瓶記の発掘は、文暦2,年(1235)とされるから、「八十二」説は舍利瓶記の出現によって修 正されたものでもなく、『七大寺年表』の「八十二歳・八十八歳」併記を、『行基年譜』が「八十二歳」を 採用したものと思われる。 そして、舍利瓶記が『行基年譜』を踏襲し、鎌倉時代に作成されたものと断定しても矛盾しないと考える。 (2) 舎利瓶記における行基伝の特色 @ 詳細化 ・ 父母の系譜等 父母の親、つまり祖父母の三代までを明記する。父方の高志氏は百済王子王爾の後、母方は河内 国大鳥郡の蜂田氏とする。 亡くなった父母の表記を行基の舎利瓶記では父を「厥老」とし、母を「厥母」とする。 一方、忍性の舎利瓶記では、これを「厥老・厥妣」として、亡くなった父母の表記を「考妣」とするのは、 「考妣」がひとつの熟語として存在するので正しい言葉の用法であろう。ところが、行基の舎利瓶記では 父を「厥老」としながらも、母を「厥妣」から分かりやすい表現の「厥母」に書き換えたことは、行基瓶記が 忍性瓶記に拠ったこと、及び時代が新しいことを意味する。 また、表3のとおり、「長子・長女」の表記は、若干時代の新規性が読み取れる。 孝謙天皇以前における子の長幼の表記は「第一子…第六子」などの「第○子」であり、女子の場合は、 光明皇后が「藤三娘」とされた事例はあるが、通常は「誰それの女」として、長幼の表記が示されることは 少ない。 「長子」の表記は、『日本書紀』の応神紀・清寧紀・安閑紀・孝徳紀などに7箇所見え、『元興寺伽藍縁 起并流記資財帳』(天平19年)の「巷哥有明子大臣長子」が比較的古いものであるが、後世の追記である かは不明である。 次いで、天平勝宝3年に淡海三船の著作とされる『懐風藻』に「長子」の表記が見られる。 『続日本紀』の表記では、天平宝字六年七月丙申(十九日)条に「紀飯麻呂、古麻呂長子」とあり、初め て「長子」が見られる。 また、同年九月乙巳(三十日)条には、「石川年足、石足長子」があり、墓誌にも同様の記載がある。 「長女」の表記は、『続日本紀』には見えず、気づいた史料は、鎌倉時代後期の『元亨釈書』(1322)の 「妙法尼者、都督長史高成章長女也」が初見である。 「長女(ヲサメ)」は、古語辞典に「雑用に使われた身分の低い女官。一説に老女。」「下級官女の長を つとめる老女。」とあり、『源氏物語須磨』『枕草紙』に用法が見られるので、おおむね平安時代までは、 「長女」は、女子の長幼を示す意味で使用されなかったと推測する。 そして、平安時代を経て、後の鎌倉時代から女子の長幼を示す「長女」の表記が一般的に使われた ものと思われる。従って、「長女」の表記が使われる行基の舎利瓶記は、鎌倉時代の偽作と考えられる。 表3 長子・長女等の表記
年齢 史料名 80歳 続日本記(797)、三宝絵(984)、日本往生極楽記(985)、日本紀略(1036)、本朝法華験記上(1042)、扶桑略記[1094]、東大寺要録(1134) 82歳 大僧上舍利瓶記(749)、七大寺年表(1165)、 行基年譜(1175)、竹林寺略録(1305)、 行基絵伝(家原寺蔵) (1316)、 元亨釈書(1322)、 帝王編年記(1364〜1380)、 歓喜光律寺略縁起(1612)、 東国高僧伝(1687) その他 三宝絵詞(984)87歳、東寺王代記(1380)69歳、七大寺年表(1165)88歳、僧綱補任抄出上(1165) 88歳、 注)日本書紀の「長子」の表記は、後世の加筆が考えられる。古事記には「長子」の表記はない。 ・ 入滅時の時間帯 行基の入滅は、『三宝絵詞』「天平勝宝元年三月二日」、『東寺王代記』「天平二十年二月寂。或説天 平勝宝元年二月二日」、『一代要記』「二十年戊子三月二日入滅」以外は、総じて、「天平勝宝元年二 月二日」であるが、『大僧上舍利瓶記』は、「廿一年二月二日丁酉之夜」と、干支に加え、亡くなった時 間帯を「夜」とする。亡くなった時間帯を「夜」とするのは、表4のとおり、『行基年譜』(1075)、『行基菩薩 伝』(1106) 、『竹林寺略録』(1305)などのほか、比較的新しい伝記である『歓喜光律寺略縁記』(1612)と 『本朝高僧伝』(1702)である。『行基年譜』以前に「夜または夜半」の表記は見えないから、『大僧上舍利 瓶記』の特異性がある。 ただし、『日本霊異記』中巻第七(822)は「廿一年二月二日丁酉々時(酉時:暮れ六つ、午後六時)」とする。 なお、亡くなった時間帯を記すのは、忍性の舍利瓶記の「七月十二日子剋(真夜十二時)」ともよく似るこ とを指摘しておく。 表4 行基の入滅時間帯を夜とする史料
年号 西暦 内容 史料 慶雲4年 707 威奈大村、鏡公第三子 墓誌 養老4年 720 長子7箇所、応神紀・清寧紀・安閑紀・孝徳紀 日本書紀 天平12年 740 藤原広嗣、馬養第一子 続日本紀 天平15年 743 藤三娘 楽毅論・奥書 天平19年 747 巷哥有明子大臣長子 元興寺伽藍縁起并流記資財帳 天平勝宝3年 751 大友皇子、淡海帝長子也 懐風藻 天平宝字4年 760 藤原乙麻呂、武智麿第四子 続日本紀 天平宝字6年 762 紀飯麻呂、古麻呂長子 続日本紀 天平宝字4−6年 762-764 武智麻呂太政大臣之長子 籐氏家伝 天平宝字6年 762 石川年足、石足長子 墓誌・続日本紀 延暦9年 790 辰孫王長子阿郎王、午定君長子味沙、仲子辰尓、季子麻呂 続日本紀 元亨2年 1322 妙法尼者、都督長史高成章長女也 元亨釈書 ・ 葬地「イコマ」の表記 『大僧上舍利瓶記』には、行基の葬地が「大倭国平群郡生馬山之東陵」と詳しく記載されている。 「イコマ」の表記は、表5のとおり、『日本書紀』・『風土記逸文』に「膽(胆)駒」、『万葉集』に「射 駒・矢駒」、『延喜式』に「往馬」があり、『続日本紀』(797年成立)は、天平元年二月甲戌(十三日) 条の「生馬山」が初見であり、宝亀四年十一月辛卯(二十日)条には「生馬院」が見える。 天平年間に作成された『大倭正税帳(正倉院文書)』には「徃馬神」が見えるので、『続日本紀』 同条の「生馬」の表記は、編者が編纂段階で「膽(胆)駒・徃(往)馬」を「生馬」に書き換えたものと 考えられる。 そうすると、天平勝宝元年(749)の段階で『舎利瓶記』に記されている「生馬」の表記は、当時使 用されていた多くの「イコマ」の表記と異なるので疑わしく思われる。 表5 イコマの表記
史料名 成立年 卒時 大僧上舍利瓶記 749 廿一年二月二日丁酉之夜 行基菩薩伝 1106 同(天平廿一年)二月二日夜入滅了 行基年譜 1175 天平廿一年二月二日夜入滅 竹林寺略録 1305 天平廿一年二月二日夜半奄焉円寂 歓喜光律寺略縁記 1612 天平勝宝改元己丑年二月二日丁酉之夜半 本朝高僧伝 1702 天平廿一年二月二日其日中夜 また、表6のとおり、古い時代の行基伝では、『日本霊異記』(822)に「法儀捨生馬山」とされ、 『三宝絵』(984)等は葬地の記載がない。 「東陵」の表記は、『行基年譜』、『行基菩薩伝』、『竹林寺略録』、『歓喜光律寺略縁起』に見 られるだけであり、特に、『行基年譜』との比較においては「大和国」の国名の表記を除き同一 表現である。 『行基年譜』は、葬地について他の行基の伝記ともすべて異なる独自性を持つ(但し、『行基 年譜』が参考にした『行基菩薩伝』の「大和国平群郡生鳥山東陵」とはよく似る)。 和泉高父宿彌は、天平勝宝元年に行基の舍利瓶が埋設されてから鎌倉時代にそれが発見 されるまでの間、当然のこととして舍利瓶記文を見ることが有り得なかったと考えるならば、両 記が一致することは不審である。 舎利瓶記の表記は、『行基年譜』の国名を天平勝宝元年当時の「大倭国」に替え、「平群郡 生駒山之東陵」をそのまま模倣した可能性が考えられる。 表6 行基の葬地の表記
史料名 表記 日本書紀(斉明天皇5月条)、風土記逸文、住吉神社神代記 膽(胆)駒 万葉集 射駒・伊駒・伊故麻・伊古麻 延喜式 往馬・膽(駒・伊古麻 舍利瓶記・続日本紀・日本霊異記・行基年譜・竹林寺略録・円照上人行状 生馬 後拾遺和歌集(能因法師)・健保御會 伊駒 大倭正税帳[正倉院文書]・北山抄(平安時代) 徃馬 和州旧跡幽考 徃駒 新勅撰歌集・元亨釈書 生駒 ・ 「近江大津之朝」の表記 舎利瓶記の「近江大津之朝」の表記は、『続日本紀』の「淡海朝・近江朝」の表記より詳細になっ ている。 「オウミの国」の「オウミ」は、古くは「水海」「淡海」「近淡海」などと表記され、「近江」の表記は 新しいものと考えられる。(注2) 表7 オウミの表記
史料名 成立年 葬地 備考 大僧上舍利瓶記 749 大倭国平群郡生馬山之東陵 1235年発見 日本霊異記 822 法儀捨生馬山 行基菩薩伝 1106 大和国平群郡生鳥山東陵 東大寺要録 1134 生馬山入滅 入滅 行基年譜 1175 大和国平群郡生馬山之東陵 竹林寺略録 (菅原寺蔵) 1305 生馬山竹林寺之東陵、生駒山之東陵 瓶記とは倭・和の差異 行基菩薩御遺骨出現記 1352 大和国生馬山有里村 行基菩薩縁起図絵詞 1479 荼毘之陵墓、生馬山 歓喜光律寺略縁記 1612 生馬山竹林寺之東陵、 本朝高僧伝 1702 葬於生馬山東嶽 次に、史料別では、舎利瓶記に近い時代の『懐風藻』の表記は、すべて「淡海」である。 その『懐風藻』を撰したとされる淡海三船は、元御船王、僧名元開、天平勝宝3年(751)に還俗 して、淡海真人を賜姓される。 延暦16年(797)に撰進された『続日本紀』の表記をみると、天智天皇の朝廷・治世の表記は、 『続日本紀』に慶雲2年(705)から宝亀5年(774)まで14箇所ある。 「近江朝(廷)」「淡海朝(廷)」と「近江大津(乃)宮(尓)御宇・淡海大津宮御宇・近淡海大津乃 宮御宇」との2パターンがあり、後者の天智天皇治世の表記は、宮の名前から「オウミ大津宮 御宇」とされるが、前者の「朝(廷)」の名称には「大津」の地名が付いたものは一つもない。 なお、『日本書紀』の「近江大津宮」の表記は、720年の成立後、後世の加筆が考えられる。 表8 オウミ・オウミ朝の史料
表記 史料名 備考 水海 戸令集解 淡海 古事記・懐風藻・常陸風土記・大安寺碑・万葉集・藤氏家伝鎌足伝 近淡海 古事記・万葉集 近江 日本書紀・舍利瓶記・播磨風土記・和名類聚抄・延喜式諸陵寮[近江大津宮] 遠江に呼応する。 相海 万葉集 天智天皇の宮は、「大津宮」とされるが、その治世を「近江大津(乃)宮(尓)御宇」と「大津」が 加わるのは、聖武天皇「紫香楽宮」や廃帝淳仁天皇「近江国保良宮」と区別する必要があった ものと思われる。 そして、「大津」の地名は、宝亀11年(780)の『西大寺資財流記帳』に「滋賀郡錦織郷古津庄」 とあるように、「大津京が廃されてから大津は古津(こづ)と呼ばれたが、延暦13年(794)平安遷 都にあたって再び大津と改められた。」(国史大辞典) から、「近江大津(乃)宮(尓)御宇」の表記 は延暦13年(794)以後のことである。 そして、「近江大津之朝」は、『袋草紙』の表記に近いのである。 従って、舎利瓶記は、749年当時のものでなく、後世の偽作と考える。 A 簡略化 ・ 大僧正の任命日 舎利瓶記は、行基の大僧正任を天平十七年とするが、任命された月日を省略している。 これは、表9のとおり、後年の行基伝には、複数の大僧正任の記載があり、特に、『行基年譜』 と『続日本紀』の任命日の不一致があるため、どちらも採用せず、月日を省略したものと想像され る。同様に、『東大寺要録』 (1134)、『仁寿鏡』(1308) 、『元亨釈書』(1322)も天平十七年とするが、 任命月日を記さず、『東国高僧伝』(1687)については、大僧正の任命そのものを記載しないように なっている。 行基についての最新の伝である『本朝高僧伝』(1702)は、天平十七年正月とする。 表9 大僧正の任命時期
史料名 成立年 表記 古事記 712 淡海・近淡海 日本書紀 720 近江宮・近江大津宮・近江朝 大安寺伽藍縁起并流記資財帳 748 近江宮御宇・淡海大津宮御宇 舍利瓶記 749 近江大津之朝 懐風藻 751 淡海帝・淡海朝 続日本紀 797 「近江大津(乃)宮(尓)御宇・淡海大津宮御宇・近淡海大津乃宮御宇」「近江朝(廷)・近江之世・淡海朝(廷)」 万葉集 8C-9C 近江大津宮御宇・近江宮御宇・近江天皇・淡海・相海 延喜式諸陵寮 927 近江大津宮御宇天智天皇 袋草紙 1157 大同の朝・近江の大津の朝なり ・ 「飛鳥之朝」の表記 舎利瓶記は、行基の出家を「飛鳥之朝、戊辰之歳」としている。 これは、天武天皇11年(682)のことである。天武天皇の宮は、飛鳥浄御原宮であり、表10の如く、 墓誌には、「飛鳥浄御原(宮・朝・天皇)」とされているから、本来そのように表記すべきだか、舎利 瓶記は「浄御原」を省略している。 飛鳥は、推古天皇以後ほぼ百年に亘り、多数の宮が造営されてきたから、後世に、正確な時代 考証をすることは容易でないが、749年であれば、躊躇なく、「飛鳥浄御原」としたであろう。 これは、複数ある大僧正の任命時期を選択できなかったことに似る。 ついでながら、「戊辰之歳」の「歳」は、「年」に代えて用いられたのは、天平勝宝七歳(755)である。 表10 アスカの表記
紀年 月日 史料名 天平14年 4月5日 行基菩薩伝(1106)、大菩薩遊行事行基年譜 (1175)、 竹林寺略録・唐 (1305) 天平16年 10月 東寺王代記(1380) 天平16年 11月 日本霊異記(822) 天平16年 冬 三宝絵(984) 天平17年 1月 @興福寺略年代記(1331)、仏法伝来次第(1180)、本朝高僧伝(1702)、 天平17年 1月15日 法中補任(1490) 天平17年 1月17日 扶桑略記[1094以後]、行基年譜(1175)、日本紀略(1036) 天平17年 1月21日 続日本記(797)、七大寺年表(1165)、僧綱補任抄出上(1165)、初例抄 (1351)、釈家官班記上(1355) 天平17年 − 大僧上舍利瓶記(749)、東大寺要録巻一(1134)、仁寿鏡(1308) 、元亨釈書(1322)、一代要記[1681]、明匠略記(1372) 天平18年 − A興福寺略年代記(1331) 記載せず − 東国高僧伝(1687)、行基講式(1308) ・ 真成の身分 忍性菩薩の舎利瓶記(鎌倉極楽寺記)は、文末に「(日付)、付法住持沙門栄真、石塔願主比丘禅意」 と記されているが、行基の舎利瓶記については真成の僧職名の表記がない。これは忍性の竹林寺記・ 額安寺記が「(日付)、栄真」としているのに似る。舎利瓶記の作成者である真成は、『大僧正記』(注3)に よれば、「親族弟子大村氏」とあるが、高志氏と大村氏の親族関係は不明であり、真成本人はその存在 も確認されていない人物である。 『行基年譜』によると、行基の入滅後、四十九院の住持を任せられたのは光信であり、『昆陽寺鐘銘』の 記文も法義、光信らが記し、慶瑜が再鋳造した時に「光信初溶鋳」と後継者である光信の名が彫られている。 極楽寺の忍性の後継者は、二代目住職となる栄真であるので、栄真は墓誌を起草するのにふさわしい人 物であるが、行基舎利瓶記を作成する「真成」の名は荒突な出現に見受けられる。 栄真の名前の一字を借りたと想像される「真成」の名は、〈真なり〉の意味を持たせたのであろうかと憶測する。 (3) 「和尚」と「和上」の表記 忍性の墓誌である極楽寺記及び竹林寺記は、忍性を「和尚」とするが、額安寺記には「和上」と 律宗に沿った修正がみられ、行基記がそれを踏襲している。 忍性は律宗系の僧であるから「和上」とすることは正しい修正であると考えられる。 他方、行基は、『行基菩薩伝』に「初住法興寺(=元興寺)次移薬師寺」とあるから法相宗に属すると 見做すならば、行基に対して「和上」を用いるのは正しくない。 また、「和上」の表記は鑑真以後の新しい表記であり、天平勝宝元年の表記としてふさわしくないと 思われる。 『岩波仏教辞典』は、「「和上」は、日本では、天平宝字二年(758)鑑真に、<大和上>の官位が授与 された以後、僧侶の官位の名称となった。 その後、広く高僧の尊称として転用され、さらに住職以上の僧侶の汎称となった。 なお、日本では、宗派により書き方、読み方が異なり、律宗では<和上わじょう>、法相宗・真言宗 では<和尚わしょう>、華厳宗・天台宗では<和尚かしょう>、禅宗・浄土宗では<和尚おしょう>をそれ ぞれ伝統的に呼称としている(注4)。」とする。 ま た、「道昭・玄ムなどによって日本に伝えられた法相宗は、元興寺(南寺)と興福寺(北寺)を中心 として学ばれ、南都六宗のうち、最も有力な宗派として栄えた(注5)。」「薬師寺は、法相宗の大本山 である(注6)。」とする。 以上のことから考えると、行基は法相宗(元興寺・薬師寺)と関係する僧であり、舎利瓶記の作成者 である真成も元興寺僧とされるから、行基の尊称としては「和尚」を用いる筈である。 舎利瓶記の「和上」は、法相宗の伝統的な呼称から外れる例である。 行基の伝で、「和上」としたものは、『大僧上舍利瓶記』だけである。 因みに、『続日本紀』の道昭卒伝には、「和尚」「和上」を併用している。 忍性の舎利瓶記のうち額安寺記は「和上」とされており、極楽寺記の「和尚」から書き換えられてい ることは、奈良律宗系の僧によって、鎌倉発の表記を伝統的な表記に正したものと思われる。 行基舎利瓶記も同様に「和上」が使用されているから、法相宗の元興寺僧とされる真成の手による ものではないことが分かる。従って、「真成」なる人物の存在そのものが疑わしいものと考えられる。 (4) 「右脇而臥」北首西顔 斉藤忠によると、「天平二十一年(794) 二月二日に入滅した行基については、「大僧上舎利瓶記」 (『寧楽遺文』下にも収録されている)によれば、「右脇而臥、正念如レ常」とあり、右脇で臥した ことは、北首西顔でなかったかとも考えられる。 しかし、北首西顔が広く滲透したのは、西方浄土の思想に関連したものとみなされる。 …平安時代には遺骸になったとき、枕直しの儀が行われた。頭の位置を北の方にかえることである。 文献の上では、貴族間に行われたことが知られるが、恐らく一般の場合にも行われたものであろう。 そして、その風習は現代にもつづいている。頭を北に向けるとともに、顔面を西に面せしめることも同 時に行われている。 …『三代実録』元慶四年(880)十二月四日、清和天皇の崩御に際し、「正向二西方一結珈趺坐、手作 二結定印一崩」とあるが、寝臥の場合は、西方に顔を向けることとなってあらわれた。北首に向けるの 儀を近習のものが行い、西顔にする儀を僧侶の手によって行われるということも、これを示すものであ り、伝統の葬法に、新たに仏教の加えられた一つの在り方をも示すものである(注7)。」としている。 「右脇而臥」は、釈迦が入滅した時の姿であるが、そのことが日本にいつ伝えられたのかが不明で あるが、斉藤忠の説くところから考えると「大僧上舎利瓶記」の「右脇而臥」は平安時代以後のことで ある可能性が高いと思われる。 3 舎利瓶残片に対する疑問 『竹林寺舎利瓶出現注進状(唐招提寺保管)』は、「遂開彼石筒之至又有銅筒二面有鎖其一方別鑰諸 衆重加祈謂即奉開之。後有銅筒之面有銘文別紙注進之其中有銀瓶形如水瓶之無小口其蓋懸瓔珞其頸 付銀札其銘云行基菩薩遺身舎利瓶云々」と、舎利瓶の発掘状態を詳しく述べる。 また、『竹林寺略録』は、舎利瓶(銀瓶)を入れた銅筒について、「銅筒二重荘厳奇麗ニシテ内筒有レ銘、 外筒堅構」と、二重の外筒は堅固なる構造をしていると記している。 そして、その舎利瓶の残片が奈良国立博物館に保存されているので、その記録を掲げる。 「行基骨蔵器断片 一箇 天平二十一年(749)奈良県生駒市有里町出土(奈良国立博物館) (品質形状等)鋳鋼製、鍍金、現状ほぼ三角形を呈し、縦横共にゆるく外Sする容器断片。表面に 細かいロクロ目が横に平行して残る。裏面は鋳放しのままで中型土表面のロクロ目状の条痕が 反転したと思われる横に平行する粗い条痕が残り、断面に径四ミリ以下のスが多数認められる。 鍍金は肉眼ではほとんど認められず全体に古色をおびるが、部分的に銅肌が露われている。 銘文中「年」を中心に浅く凹み、「特」に斜めの傷がある他、小さな傷が表面にいくつかある。 全体に歪み、もとの円弧をとどめない。 (法量)縦10.6、横6.8、厚0,52―0.6、 「備」行幅2.11「一年」行幅2.25、重186グラム (銘文)表面にタガネを用い罫線を縦に刻み、4行12字と残画9字分が残る。罫にめくれはない が文字の輪郭にはめくれが認められる(注8)。」 行基の舎利瓶残片は、写真(本論図6)でしか確認できていないが、保存される時に錆などを落と し磨かれたのであろうか、古色蒼然とされる割には、錆及び腐食が見えず、残片は細い罫線まで はっきり見える。竹林寺の忍性の舎利瓶(本論図9)と比較しても、刻まれた文字が鮮明であり、保 存のために手が加えられたものと考えられ、天平二十一年の年代にそぐわないものと言える。 次に、舎利瓶残片からの復元した姿を考える。墓誌は、大体1行20字詰めで17行要したことに なり、径10センチ、高さ30センチ以上の銅筒の側面に記されていたことになる(注9)。 これの径を修正して11.47センチとして、想定重量を求めると、約6.4キログラム以上となる(注10)。 そして、内筒は5.2から6ミリもの厚さがある。内筒を保護する外側の銅筒は更に堅固なものであ れば、さらに厚みも増え、それ以上の重さになる。 これは奈良時代の他の墓誌及び墓の装置と比較しても特異な存在であり、大僧正という類稀な 高僧の墓であったとしても果たしてそのように頑丈な構造の外筒を含む墓の装置が必要と考えら れて製作されたのか不審である。 宝塚市米谷で発見された奈良時代後期の火葬墓(本論図9)は、石櫃が凝灰岩製で蓋と身から なる中央を半球型にくりこみ、その中に金銅製の蔵骨器が納められただけの簡単な造作のもの である(注11)。 同じく竹林寺で発掘された鎌倉時代の忍性の墓の装置と比べても格段の差がある。 従って、行基墓の装置の重層性と厚さ六ミリもの内筒の存在及び二重構造の銅筒は奈良時代 の遺物として疑わしく思われる。二重構造の銅筒の意味は別にあるのではないかと考える。 4 「多宝之塔」について 舎利瓶記の「…故蔵此器中以為頂礼之主界彼山上以慕多宝之塔」について、千田稔は、「「故に此 の器中に蔵し、以て頂礼の主となす。彼の山上を界し、以て多宝の塔を慕ふ」のくだりは難解であ る(注12)。」とするが、藤沢一夫は、最後の部分を「彼の山上を界し、以って多宝の塔を慕す(注13)。」 と読み下している。 この「慕」の解釈については、@「慕」は「墓」、A「慕倣」の義、B「慕う」とする三つの考えがある。 藤沢一夫は、「墓塔 墓碑の外に上代墳墓に建てられていたものに墓塔がある。 …この末尾の一節によって僧行基の墳墓には塔婆の供養せられたことが説かれて来た。 しかしながらこれには問題があって早急に左右を決定しがたいように思われる。 すなわち二様の解釈が可能だからである。『釈明』に「墓は慕なり」とあるに従えば、かの山上を区 劃結界し、そこに多宝之塔を墓として建てたということになりそうであるが、慕の義を慕効・慕倣の それとすれば、結界の場所を多宝之塔に擬らえたということなりそうである。従って、僧行基の墓塔 は存否明確でないことになる(注14)。」とする。 これに対して、井上薫は、「慕を慕倣の意に解する前に「慕ふ」と読む方がよいと思う…そこで思う に「瓶記」という多宝塔は寂滅の注進状に記す舎利をおさめた銀瓶(『竹林寺略録』にいう龕器にあ たる)に相当するのではあるまいか。この瓶には瓔珞がつけられていたが、それが失われていたの で、後に模造したものが「舎利瓶塔」とよばれ唐招提寺に伝えられている。 このように解釈すれば「界二彼山上一以慕二多宝之塔一」の句は上の「為二頂礼之主一」の句と スムーズにつながる(注15)。」とする。 以上のとおり見解が分かれるが、舎利瓶記を古い解釈(注16)を元に読むならば、やはり、「多宝 之塔」が墓標として建てられたとすべきであり、「多宝塔」は、実例をみると、時代に適合しない代物 である。 斉藤忠によると、「天平二十一年(749)に記刻した行基の「舎利瓶記」には「以為頂礼之主界彼山 上以慕多宝塔」とあるが、具体的に多宝塔そのものをあらわしたものとはみなされない。 多宝塔の名が古文献に現われ、多宝塔そのものと認められる確実な記録は『百練抄』(第六)天治 元年(1124)十月一日の条の記事で、「 覚法法親王、供二養仁和寺内多宝塔一基一。為二法皇(白 河)息災一」とあり『中右記』長承二年(1133)三月十八日の条には、宇治御塔供養のことを記し、「頃 而関白参給(冠直衣)。於二宇治橋南一町許一本僧居中建二立多宝塔一基一、其中安二置釈迦多 宝仏一(一座)」とある。…多宝塔、宝塔は平安時代に発達し、木造建築物のものもある。しかし、墓塔 的なまたは供養的な性格をもつものには石造のものが多い。…茨城県真壁郡大和村本木祥光寺にあ る建仁二年(1202)在銘のものは、多宝塔である…(注17)」とされている。 そうすると、墓標としての「多宝之塔」の存在は、中世鎌倉時代以後に出現するものであり、奈良時 代のものとしてふさわしくないことが分かる。 次に、墓標としての「多宝之塔」でなく、「舎利瓶塔」を「多宝之塔」と見なすことを考える。 後藤守一によれば、「宝塔 一般には、覆鉢形の塔身の上に蓋と相輪とを作ったのを宝塔、これの 腰に裳階をつけたのを多宝塔と分けてゐるが正しくいへば、両者共に多宝塔である。…宝塔の部分 基礎、台座、塔身、蓋、相輪の五部からなってゐる。…宝塔は既に飛鳥時代から奈良前期にわたる ものが見られる。かの玉虫厨子宮殿背面に描かれた宝塔や大和長谷寺銅板法華経説相図に現れて ゐるが、後世流行のものとは趣を異にしてゐる。平安時代に入って、新らしい様式のものが行はれて 来た(注18)。」とされるが、室町時代に模刻されて、唐招提寺に伝わる「舎利瓶塔」は水瓶型であり、 少し様子が違うものとも思われる。 しかし、井上薫が言うように、「多宝塔は舎利をおさめた銀瓶」とすることは、「多宝之塔」の表記が 鎌倉時代であることから首肯できないが、何故、銀瓶を多宝塔と表現したのかを考えておこう。 ここに、伊丹の伝説を元にして言葉遊びの要素を見い出すならば、多宝の意味は、タが重なる タタ(多田)の宝、つまり多田銀山の銀を意味することになる。それが銀瓶である。 同じ文字のタが重なることは、『竹林寺舎利瓶出現注進状』の銅筒が二重(銅・銅=同と同じ字が 重なる)であるのと似たような構造である。 二重の銅筒の意味は、「一字の二重読み」を示唆するとも考える。 多田の開発は、清和天皇の曾孫である源満仲の時代から始まる。 伊丹には、何故か、「行基さんと満仲さんの争い」の伝説が残されている(注19)。 二人の生きた時代は異なるが、二人が何らかの意味で関係することが窺われる。 その伝説の中に、山の上の「大水」と見えたものが「白米」であったというくだりがある。 「白米」は「銀シャリ」のことである。 伊丹の伝説と行基舎利瓶記は結びつけて考えられるのである。 5 行基舎利瓶記の信憑性の根拠 舎利瓶記を信頼できるものとすることは、主に梅原末治の説と、それを引用する井上薫の説が端 初であると考える。 二葉憲香が、舎利瓶記は「行基没後、一ヶ月あまり後の成立で、信用し得るものであることは梅 原博士の考証によって指摘されている(注20)」とされることに代表されている。 梅原末治は、「[行基舎利瓶残片は]銅質備中国小田郡東三成村国勝寺に蔵する和銅元年の銘記 ある下道国勝等母夫人の骨臓器と全然軌を一にし、古色蒼然たり。刻字又頗る遒頸、当時行はれし 墓誌銅版に類せるあり、一見奈良朝のものたるを知り得べく、加ふるに之を今奈良西京の唐招提寺 に伝ふる、文暦の発掘の際に注進状に添へて同寺に致せる「舎利瓶記」の文に校合するに全く一致 して一字の差異あるを見ず、その行基が遷化の際造り埋めたるものの一部たることを疑ふべからず。 …文中圏点を附せる文字が破片に存するものに係る。記する所頗る精密にして、行基の墓誌とも称 せらるべきものたり。…此の記銘が果たして文暦注進とうじの儘のものなるべきか、将た後世の伝写 を経たるものなるか、更に遡りては文暦発掘の当時舎利瓶記の文を写して少しも誤なきものなりしや 否やは、不幸余未だ其の注進状を見ず、又其の瓶の全形の存するなければ之を明にすべからざるも、 今此の文を熟読するに文体頗る雅麗にして、当時の文章たるを信ぜしむるが上に、前掲の破片の銘 文と一字の相違なき事、其の文中に見ゆる大鳥郡の河内に属せるを記する点等より見れば、假令少 許の誤脱の無之とは保すべからずとするも大体に於て其の銘の真を伝へたるものと見るを得べきが 如し(注21)。」とする。 梅原末治は、舎利瓶残片は、奈良時代のものと軌を一にし、古色蒼然たりとし、当時行はれし墓誌 銅版に類して、一見奈良朝のものたるを知り得るとするだけである。そして、行基の墓誌である舎利 瓶記は、奈良時代の文章であることを信ぜしむる上に、残片と一致して一字の差異もないから、残片 が舎利瓶の一部であることを疑うべきでないと主張されたが、残片を含む舎利瓶の存在と残片が行 基に係るものであることを証明されたわけではない。残片と舎利瓶記の不一致は先に論証したとおり であるが、肝要なことは、残片と舎利瓶記との辻褄を合わせることでなく、ありのままを見て判断する ことである。 次に、井上薫は、破片の前後の文を捏造することは、モナンザグラムの名人でも恐らくできるもので ないとされたが、残片から上手に全体を復元することも、全体の文から残片を復元することも不可能 ではないと指摘しておこう。更に、井上薫は、瓶記が捏造されたものでないという証拠を述べる。 「(B)[唐招提寺保管の舎利瓶記]が捏造されたものでないという証拠を一―二あげておこう。捏造な らば行基の生誕地の大鳥郡(天智七年にはまだ河内の国に含まれていた)を和泉の国としたり、没年 を天平感宝元年(天平二十一年四月十四日改元)とか、天平勝宝元年(感宝元年七月二日改元)とか 書いてしまいそうであるのに、正しく河内の国大鳥郡、天平廿一年と記していて偽作のしっぽを出して いない。(B)に行基が封戸四百戸[舎利瓶記-施百戸之封:作者]を与えられたという文が『続紀』行基 伝にみえないからといって、これを偽作とすることはできない。それは、たとえば僧正の玄ムも封戸百 戸をもらっていたから(『続紀』天平八年二月七日条)、大僧正の行基が四百戸を与えられても不思議 でないし、また玄ムが実際に封戸をもらっていても、『続紀』玄ム伝に封戸授与が記されていないとい う例もあるわけだから。つぎに(B)の第一行目と九行目の大僧上は大僧正の誤りではないかと疑わ れよう。それは奈良時代に僧正が僧上と書かれる場合があったのか(その例はほかにあげることは できないが)、あるいは僧上は僧正の誤りかも知れない(注22)。」とされる。 井上薫が挙げる「捏造されたものでないという証拠」は、「舎利瓶記の表記が当時の表記に合わせ て正確に記されて偽作の尻尾を出していないこと」とするが、それは単に「偽作の尻尾を出していない こと」を主張されただけであり、舎利瓶記が偽作ではないと証明をされたものではない。「偽作の尻尾 を出していないから本物」と類推するのは論理の飛躍であり、舎利瓶記が行基墓所を『行基年譜』の 「大和国平群郡生馬山之東陵」を「大倭国平群郡生馬山之東陵」と表記するなど、時代考証のうえ巧 みに偽造された可能性も有り得ることを指摘する。 過去には、東大寺奴婢帳に同じものが2通あり、漢委奴国王の印が複数存在するなど模作される例 がある。(注23) 瓶記発見の経緯から、誰も問題視しない点がある。 高瀬家が行基弟子の家系とするのは証明が困難である。 高瀬家は、瓶記の破片を発見しただけでなく、唐招提寺の瓶記の写しを保有していたのである。(注24) そのような中で、完全でない瓶記の破片が発見されたことは慎重に判断すべきであろう。 註 (1)忍性墓誌の出所、極楽寺記:安藤康一「極楽寺忍性塔納置の骨臓器」(『月刊文化財』昭和52年 9月号・第168号、第一法規出版、19頁)。『鎌倉市史』(資料編第3、鎌倉市、吉川弘文 館、昭和33年、400―401頁)。額安寺記:安藤康一「額安寺五輪塔納置の骨臓器」『月 間文化財』第255号、昭和59年12月号、第一法規出版。竹林寺記:『竹林寺の歴史』中尾良蔵、1990年 (2)櫻井信也「大津京は存在したのか」『新・史跡でつづる古代の近江』ミネルヴァ書房、2005年、 165頁。 (3)『大僧正記』:『生駒市史』資料編T、昭和46年、84頁。吉田靖男『行基と律令国家』 吉川弘文館、昭和61年、307頁。 (4)岩波仏教辞典「和上」108一182頁。 (5)岩波仏教辞典「法相宗」934頁。 (6)岩波仏教辞典「薬師寺」1012頁。 (7)斉藤忠『日本史小百科・墳墓』「枕直しの風習」近藤出版、昭和53年、64―65頁。 (8)『生駒市史』通史・地誌編、61頁。 (9)(星山)『日本古代の墓誌』飛鳥資料館図録第三冊、昭和52年、91頁。 (10)罫線幅7分約2.12センチ、厚さ0.52―0.6センチから平均厚さ0.56センチ、銅 比重8.92とすると、円筒面積は、約1,081平方センチ、上蓋・底部分各103平方 センチ、計1,387平方センチであるから想定重量は、約6.4キログラムとなり、更に、 堅固な外筒があるとすれば、過大すぎるものとなる。 参考ながら、下道母夫人の骨臓器は、蓋2,655グラム、身4,940グラムである。 (11)『宝塚市史』第1巻308頁、同第4巻178頁。 (12)『天平の僧行基』中公文庫、1994年、7頁。 (13)藤沢一夫「墳墓と墓誌」『日本考古学講座』第6巻、昭和31年、243頁。 (14)藤沢一夫?論文、243−244頁。 (15)『釈明』以外に、『令義解第9・喪葬令』に「墓之言慕也」がある。 (16)井上薫『行基』吉川弘文館、昭和34年、217頁。 (17)斉藤忠『日本史小百科・墳墓』「宝塔・多宝塔」208―209頁。 (18)後藤守一『日本歴史考古学』四海書房、昭和12年、631―634頁。 (19)「行基さんと満仲さんの争い 満仲さんと行基さんがもめたんやろな。その時満仲の側の山の上から大水が落ち よってよりつけん。ところが行基さんが向うを見よったら癩病の人がこっちに来たん で、あの水の中をどうしてこっちに来れたんやと行基さんがたずねはったら、あれは 水とちがいます。段々になった畦も田んぼも白米が降りまいてあるいうもんやから、 そんなら攻めてやるといって攻めたら、満仲さんの方から向う(多田)の門で降伏し はった。それで向うの門には仁王をたてられんことになった。仁王門はあるけど仁 王さんが入っとらんわけや。行基さんは百姓の神さんやさかい、正月の二日の朝は 百姓家は行基さんにおまいりしてから野まわりに行った。鍬もって三鍬半土をあげて 田んぼにお札まいりに行ったもんや。(堀池 石橋団次氏)」 『伊丹の伝説』伊丹市民俗資料第4集、伊丹市教育委員会、昭和52年、22頁。 (20)二葉憲香『日本古代仏教思想史研究』永田文昌堂、1962年、388頁。 (21)梅原末治「行基舎利瓶記に見えたる某姓氏と享年に就て」『考古学雑誌』第5巻 第20号、大正5年、907―909頁。 (22)井上薫『行基』215―216頁。 『舎利瓶記』の「封戸百戸」は、奈良時代の書の中では、通常「封戸一百戸」と記さ れるもので、数字の「一」を略すのは鎌倉時代に多く見られる新しい表記と考える。 安元元年(1175)の『行基年譜』には、「一百廿人、一百人得度」が使われる。 『続日本紀』の玄ム伝には、「封戸一百戸、田一十町」と表記される。 『日本書紀』「持統天皇紀」は、「一百六十四人、一百部、一千束、一十人」など 「十百千」の前に、一などの数詞を付ける場合が多く見られる。 (23)山本信吉「東大寺奴婢帳の擬古文書」『正倉院文書研究』7、吉川弘文館、2001年。 (24)殿水清円『行基菩薩』西村法蔵館、大正5年、253頁。 (参考文献) 『国史大辞典』 『日本の古代遺跡 7 奈良飛鳥』菅谷之則・竹田正則著、保育社、平成6年。 西川幸治「京と近江」『近江から望みを開く』サンライズ出版、2005年。 櫻井信也「『大津京』の宮号とアフミの表記」『近江地方史研究』第33号、近江地方史研 究会、1996年。
史料名 成立年 表記 船氏王後墓誌 668 阿須迦宮 小野朝臣毛人墓誌 677 飛鳥浄御原宮 法華説相図 686 飛鳥浄御原大宮 采女氏塋域碑 689 飛鳥浄御原大朝廷 古事記 712 飛鳥清原大宮、近飛鳥、遠飛鳥(宮)、飛鳥河 日本書紀 720 飛鳥 美努岡連萬墓誌 730 飛鳥浄御原天皇 舍利瓶記 749 飛鳥之朝 国家珍宝帳 756 飛鳥浄原宮 続日本紀 797 明日香・安宿・飛鳥 万葉集 8C-9C 明日香・飛鳥・阿須可・安須可・飛鳥岡本宮・明日香川原宮・明日香浄御原宮
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]