行基と竹林寺



  目次

一 行基廟開掘と行基舎利出現
  1 時代背景 2 遺骨出現記の疑問点 3 遺骨出現記史料の比較 4 舎利の出現 5 主要な登場人物と託宣 6 出現記の信憑性
二 竹林寺と住持職 
  1 草創期の住持職 2 良遍の竹林寺隠遁 3 住持職の系譜
三 『竹林寺略録』
  1 二つの『竹林寺略録』 2 比較検証 3 流布本の検証 4 凝然の著作 5 史料批判のまとめ

はじめに

 唐招提寺保管の『竹林寺舎利瓶記出現注進状』(注1)によると、天福二年(1234)六月二十四日慶
恩に行基の託宣があり、文暦二年(1235)八月二十五日大和国生駒山の行基御廟を開掘し、舎利瓶
記を発見した。そして、『百錬抄』(注2)は、託宣があった二年後の同じ日に、平安京岡崎の中山観音
堂辺りで行基菩薩の遺骨と称する粉の如きものが細瓶に入れられ安置され、参詣人は之れを自由に
取り出すことが出来たと伝える。この日付の一致は、果たして偶然であろうか。
 行基舎利の発掘に関しては、先に拙考で行基菩薩御遺骨出現に伴う注進状に付された『大僧上舎
利瓶記(以下『舎利瓶記』とする。)』及び舎利瓶残片・行基墓の装置について考察した。(注3)
その中では、これまでの定説を覆し、『舎利瓶記』は忍性の舎利瓶記等を手本として作成した偽作
と論じ、舎利瓶残片・行基墓の装置についても時代に相応しくないものと考えた。
 『舎利瓶記』の信憑性の問題を、更に行基廟開掘という史実の問題にまで広げて考えるならば、
次いで、検証すべきことは、行基舎利瓶記の出現状況を詳しく記した『竹林寺舎利瓶記出現注進状
(以下、『注進状』とする)』などの史料批判である。
 そして、『注進状』に見られる行基廟開掘をどのように考えるか。 
 通説は『舎利瓶記』及びその残片の存在を根拠として概ね行基廟の開掘は事実としながらも、行
基廟の所在は論が分かれているという不安定な状況であるから、その事実の確定には課題が残って
いるものと考える。これは、行基遺骨出現から七十年後に凝然が著した『竹林寺略録』に、行基の
墓所を竹林寺とするものと、往生院とするものの二つがあることに起因する。どちらが正しいもの
であろうか。そして、それらの記録に現れる人物で重要な役割を果たす寂滅の存在と竹林寺を取り
巻く人物を史料の中に確認しながら、行基の舎利出現記の信憑性を考察していきたい。



一 行基廟開掘と行基舎利出現
1行基廟開掘と時代背景
 行基廟開掘の過程と異義については、上林直子が研究史をまとめている。
 行基の大和国生駒山御廟(現在の奈良県生駒市有里町竹林寺境内)の開掘は、文暦二年(1235)
八月二十五日に行われた。その経過については、開掘直後の文暦二年九月に寂滅という僧によって
著された『生駒山竹林寺縁起』に最も詳しいとされている。(注4)
 『生駒山竹林寺縁起』は、寂滅の『注進状』がそのまま、行基御廟=竹林寺説の内容で竹林寺の
縁起とされたものと考えられる。そして、行基舎利が発見されてから七十年後に東大寺僧凝然によ
って書かれた『竹林寺略録』の冒頭に、「生馬山大聖竹林寺者。行基菩薩在世精勤之地。没後点墓之
所也」とするのは、行基生存中から没後まで生馬山での活動の継続性が読み取れ、行基御廟=竹林
寺の構造が見られる。しかしながら、「竹林寺」と称する寺が何時から存在したかということは論が
分かれている。(注5) 
 行基廟開掘の過程と以後の状況を年表にまとめる。
 行基舎利出現の時代背景として、堀池春峯は、「恰も奈良時代末期の天平神護二年(766)十月、道
鏡を法王位につけんとして法臣基真が策謀した隅寺毘沙門像の舎利出現のような感をいだかせるの
であるが、竹林寺の奥院にある往生院の石塔は行基の墳墓であるという確証があり、竹林寺再興を
もくろんでうたれた慶恩の神がかりであったのかもしれない。行基の功績は文治・建久・建仁の東
大寺供養によっても回顧されていたし、栄西によって立宗をみた禅宗の祖師崇拝の思想によっても
一段と止揚せられたにちがいなく、かかる時代思潮が竹林寺僧を動かすに至ったものと思われる。
 仏舎利の信仰は既に平安時代初期の延暦二十三年(804)三月に空海・最澄と共に入唐した興福寺
霊仙が留学中入手した仏舎利を、我国に送付し、或は彼の弟子より承和五年(838)七月に入唐し
た真言僧円行が付授されているし、又天台僧円仁の如きは長安に於て再三仏牙会(舎利会)をみた
事をその巡礼記に記し留めている。特に慈覚大師円仁の創始した叡山の舎利会は彼の帰国後十三年
目の貞観二年(860)の四月より創始し、唐招提寺の鑑真将来の仏舎利による舎利会は年々五月に
盛大に行われていた事が「三宝絵詞」によっても窺えるし、鎌倉時代に入ると、大和室生寺の舎利
等が特に崇敬をあつめるに至った。(注6)」とされる如く、舎利遺物信仰や舎利供養の重視がある。
 『阿不幾乃山陵記』によると、文暦2年(1235)3月20日天武・持統天皇合葬陵(檜隈大内陵)
の開掘(盗掘)が行われている。これは行基墓の開掘の5月前に当たり、二つの大事件が同一年に起
こったことを問題視する論がある。(注7) また、その少し前には、安貞元年(1228)春、天福元年(1233)11
月、聖徳太子の記文が発掘出現するが、それは偽作とされている。(注8)
 上林直子は、「土を掘って記文を発見するという行為は、「聖徳太子未来記」の発見と同様のアク
セスを踏んでいる。「聖徳太子未来記」は、石塔を建てる際に地を引いたところ、天喜二年(1054)、
河内国科長叡福寺の太子墓から出土したのが初めで、続いて安貞元年(1228)春、天福元年(1233)
十一月頃に太子の記文がおそらく太子墓の近辺から発掘され出現している。天福元年というと慶恩
への託宣があった前年にあたる。藤原定家が「末代土を掘るごとに御記文出現す」、「新記文毎年の
事か」と評しているように、聖徳太子の記文(「未来記」)の発見は、安貞元年から天福元年の頃に
は稀なことでなかった。また、「聖徳太子未来記」について、赤松俊秀氏は、「未来記」は政情安定
に乗じて勧進を図ろうとする集団によって創作されたものと指摘する。(注9) 
 そして、『舎利瓶記』が発見されたことは「聖徳太子未来記」の発見と同様の経過を示すことを示しな
がら、「未来記」は創作であるとする一方、行基の「大僧正舎利瓶記」は、唐招提寺に現在も保存さ
れているから廟開掘は事実であったと考えられる(注10)。と思料する。
 これはその時代の風潮から考えて、同時代に起こった同様の経過を示す二つの事件の真偽につい
て異なる結論を導くことになり、慎重を期すべきであろう。また、この骨臓器出現の経緯については、
 吉田一彦は、「この骨臓器出現の経緯については、律宗の信如尼が夢告によって、法隆寺の蔵から
天寿国曼荼羅繍帳を発見した経緯ときわめて類似した作為が看取される。」とする。(注11)
 同時に、藤井直正が指摘する「行基と天武・持統の墓が同じ文暦2年に発掘された大問題(注12)」
の大発掘が重なった偶然性はうのみにできないだろうと思われる。つまり、この時代にあつては著名
な人物の崇拝物が偽作されるのが風潮であったことが見受けられる。

2 遺骨出現記の注目点
 『注進状』は、文暦2年(1235)9月に、寂滅が唐招提寺に注進した形を取って作成されたもの
と考えられている。この寂滅が記した『注進状』の信憑性について、明確に史料批判をしたものは
少ないようである。しかしながら、その内容について、疑問と思われること等が多く指摘されてい
る。長谷川嘉和らは、以下のとおり多くの点に注目する。
「開廟に至るまでには、託宣や奇瑞という「奇跡」がかなり頻繁に起きている。」(注13) 
「託宣が生家である家原寺をわざと善光寺と誤ったのはなぜであろうか。」(注14) 
「発掘された舎利がまこと行基の遺骨であったにせよ、開廟するために民衆の関心を高め、かなり
の演出があったと知れる。」(注15) 
「そもそも墳墓を掘りかえすことは尋常な事態でなく、死者に対し非常なる冒涜といわねばならぬ。
そのような行為をあえて犯したのはなぜか。これは重要な問題である。」(注16) 
「託宣とは何であろうか。察するに、死者の霊を感じることのできる人が現代でも確かにいること
を思えば、おそらく慶恩もまたそのような能力をもっていたと思われ、それが託宣の真意であろう。
したがって『縁起』の記述は事実である、と少なくとも私は信じたい。」(注17) 
「我々は行基舎利出現の事実であったこと、この舎利が本物であったことを認めざるを得ないので
あるが、かといって、『生馬山竹林寺縁起』に書かれていることが全て真実とは思われない。」(注18)
「行基の墳墓は生馬山の東陵というが具体的にはどこへ造られたのか。竹林寺かそれとも輿山か。」
(注19)
「往生院に関する記事が(竹林寺略録の筆者注)の原撰本にあったのかなかったのか、よく吟味
しなければならない。」(注20)「行基の舎利瓶発掘地は現在史蹟指定されている竹林寺境内の墓で
あるか否かは定かではない。」(注21) 
 以上のように、行基墓の開掘や託宣についての疑問と実際の行基墓の所在について、論が分かれ
るので、紐解いていきたい。

年表

「生馬大聖竹林寺者、照公遁世自レ初久住修練之処、由来是重、事義不レ輕、移住二戒壇一之後、
日阿入西両徳来至二戒壇一、勧二令管領一、遂受二寂滅(後号明観)上人之譲一、住二持寺院一…」E
慶雲4年(707)移生馬仙房、弥盡孝 養之禮云々。
和銅3年(710)正月母逝化。自尓以降、迄于和銅五年亥、住生馬仙房
天平21年(749)2/2行基入滅
宝亀4年(773)11/4「大和国生馬院」に田三町を施入。行基入滅後24年にあたる。
安元元年(1175)行基年譜「天平廿一年二月二日入滅、大和国平群郡生駒山之東陵に御葬送」
貞応2年(1223)頃「生駒行基菩薩御廟住僧月性坊、法輪寺に参篭の時…」I
安貞元年(1228) 春聖徳太子の記文が発掘出現する。
元福元年(1233)11月聖徳太子の記文が発掘出現する。 「照公為レ造二竹林寺一、勧二進道俗一、奉二請行基菩薩舎利一、抛二銭百貫一、作二供養事一、自除施物不レ可レ知レ數、門族競施亦不レ知レ数、…」E
貞永元年(1232)壬辰秋八月二十六日良遍僧都嘉二遁生馬山竹林寺一[巻下之二・旧事篇]H
貞永元年(1232)興福寺信願良遍(四十八歳)竹林寺を再興、行基菩薩の霊跡を顕彰した。 「良遍法印道號信願。…法相因明。四十有八。棄捨世榮。居住生馬大聖竹林寺。」『浄土法門源流章一巻』沙門凝然記之。H
天福元年(1233)11月太子の記文が発見される。
天福2年(1234)竹林寺に忍性月参断食五字呪唄「毎月詣二生馬山一。帰二命文殊大子一」律苑僧宝 伝13忍性菩薩伝
天福2年(1234)6/24慶恩に行基の託宣、6/26近世建立の石塔から舎利二粒発見。慶恩に行基の 母の託宣あり。A
文暦2年(1235)3/20天武・持統天皇合葬陵(檜隈大内陵)の開掘(盗掘)『阿不幾乃山陵記』
文暦2年(1235)8/11慶恩に行基の託宣、8/25に行基廟の開掘、舎利瓶記発見、9/寂滅、行基 の舎利瓶記出現事を唐招提寺に注進。A
文暦2年(1235)忍性、19歳より3年間竹林寺に毎月参詣 『略録』
嘉禎2年(1236)6/24「己酉。中山観音堂邊称行基菩薩遺骨。細瓶安置之。参詣之輩自由取出之。 如粉物云々。」G
仁治三年(1242)「壬寅、蓮実北室東端立二柱一本一、于時照公[年二十一]還二竹林寺一…」E
寳治元年(1247)「丁未、照公年二十七、從二竹林寺一、移住二海龍王寺一、俗云角寺、加二護母儀一、令レ務二學業…」E
建長三年(1251)「辛亥、照師年三十一、四月安居己前從二海龍王寺一、移住二東大寺戒壇院一、紹二隆寺院一、興二行僧宝一…」E
建長4年(1252)8/28良遍入滅、墓塔を竹林寺に建てた。H
正嘉3年(1259)3/16東大寺大仏殿にて行基菩薩(骨)舎利供養、願主大勧進円照、尊師宗性法印F 『百錬抄』成立か。
正元元年(1259)往生院墓地宝篋印塔銘「正元元年10月 日勧進□□□□」[法行云又塔]
弘長元年(1261)4/2東大寺大仏殿にて行基菩薩(骨)舎利并六十六部最勝王経供養、願主円照F
弘長3年(1263)3/25東大寺大仏殿にて行基菩薩(骨)舎利供養、最勝会、願主円照F
永仁元年(1263)『大聖竹林寺記』に文殊師利問答が記されるが、「舎利」のことは見えない。H
正安4年(1302) 『東大寺円照上人行状三巻』、凝然、生馬竹林寺に於いて述作。(勝鬘経疎詳玄記巻八奥書による。)
嘉元元年(1303)忍性舎利瓶記(入滅7/12)
嘉元2年(1304)2/18無量寺五輪塔銘「願主慈勝、比丘入西、沙彌願永、尼心阿彌、大工井行氏」
嘉元3年(1305)『竹林寺略録』東大寺凝然
応長元年(1311)『竹林寺略録』唐本奥書に忍性没、『三国仏法伝通縁起』『浄土法門源流章一巻』凝然、忍性没を記さず。
正和五年(1316)『行基菩薩縁起図絵詞』「金棺」の記載あり。
正平7年(1352)閏2/11東寺杲宝『遺骨出現記』竹林寺にて写す。『竹林寺十種大願』杲宝
永享10年(1438)7/8真賢『遺誡状』書写、『瓶記』、『注進状』もほぼ同時期に書写したか。
文明11年(1479)『行基菩薩絵詞』書写。
明応7年(1498)8/6竹林寺炎上「行基菩薩之御骨舎利在之所也」『大乗院寺社雑事記』
永正9年(1512)6/27正秀、『竹林寺略録』唐本書写。
正保4年(1647)伊馬・生馬竹林寺の文殊堂の鬼[瓦]なり。これをつくる。『円福寺蔵竹林寺旧瓦銘』
慶安2年(1649)の頃から竹林寺再興に著手『文殊堂再興勧進帳』(竹林寺智教)
延宝3年(1675)「竹林寺は仏壇下に行基舎利を納める」ことを記す。『南都名所集』巻十。
延宝6年(1678)竹林寺再興、賢照
廷亨4年(1747)4/2南都菅原喜光律寺 住持寂照『竹林寺略録』謹書、『喜光律寺縁起』
7/8寛賀、行基菩薩伝、『遺骨出現記』
延宝3年(1791)有里村竹林寺に関する記述『大和名所図会』
良遍1184(1194)−1252(59歳・69歳)  覚盛1194―1249(56歳) 叡尊1201−1290(90歳)  宗性1202−1278(1292) (77歳・91歳)  忍性1217−1303(87歳)  円照1221−1277(57歳) 凝然1240−1321(82歳) 3 遺骨出現記史料の比較  はじめに記したとおり、実物史料の墓の装置と舎利瓶記については、その信憑性を否定する拙論 を展開した。次いで、遺骨出現記史料の検証をすることになるが、まず、舎利の出現、託宣と登場 人物を考察する。その前に各種の遺骨出現記史料を整理しておく。 表1 遺骨出現の史料
年紀著者史料
文暦2年/1235寂滅竹林寺舎利瓶記出現注進状(唐招提寺保管写本)
?文暦2年/1235寂滅生駒山竹林寺縁記(菅原寺保管・大日本仏教全書寺誌叢書第三)
嘉禎2年/1236不明『百錬抄』六月二十四日行基遺骨開陳
嘉元3年/1305凝然竹林寺略録(唐招提寺保管) 奥書永正九年(1512)
?嘉元3年/1305凝然竹林寺略録(大日本仏教全書) 奥書延亨四年(1747) 4/2寂照
正平7年/1352杲宝大和国生駒山有里村行基菩薩御遺骨出現事(『続群書類従』)
永享10年/1438真賢行基菩薩事蹟記(舎利瓶記・大僧上記・注進状など・唐招提寺保管)
延亨4年/1747賢賀行基菩薩御遺骨出現記(天理大学付属天理図書館蔵)
文明11年/1479不明高野山正智院・御舎利出現記・「行基菩薩縁起図絵詞」の別記
注)Dの表紙上書に「行基菩薩遺骨出現記 行基菩薩に関する奇瑞説話」とある。 Eの『行基菩薩事蹟記』は、大正6年に日下無倫により紹介されたものである。  大日本仏教全書本?は何処の所蔵本を底本としたのか詳かでないが、管見では高野山に室町時代 初期頃と推定される写本Fが一本現存している。(注22)  これは、行基菩薩縁起図絵詞に「滅後四百八十六年御舎利出現之奇特委住(細)見二別記一矣」の別 記に当たるものと思われる。縁起の奥書は文明十一年(1479)である。高野山本Fには、「右生駒山竹 林寺縁起也」という細字の注は見いだせない。(注23)  ?大日本仏教全書の異本は、「大和国生駒山有里村行基菩薩御遺骨出現事D」と題し、『続群書類 従第八下』に収められているが、奥書から正平七年(1352)2月11日、平安京東寺の僧である杲宝 により縁起の要点を取り書写されたことがわかる。実際に記事はより簡略になっている。(注24)   しかし、杲宝は、「行基菩薩に関する奇瑞説話」と表現するから、信じていなかったのであろう。 次いで、F『行基菩薩御遺骨出現記』は、延亨四年(1747)に竹林寺を訪ねた賢賀という人物(伝未 詳)によって記されたもので内容は、『続群書類従』本とほぼ一致する。(注25)  これは、正平七年杲宝により書写されたものが、炎上焼失し再建後の延亨四年(1747)、竹林寺に あり、賢宝が奥書(表13参照)したものを更に賢賀が写したものと思われる。 更に、Gのとおり、高野山には、行基の関係する史料が残されていることが注目される。  以上、竹林寺が炎上焼失する明応七年(1498)以前の正平七年の時点で、竹林寺に寂滅の書Aまた は、?の写元本があったと思われ、これを杲宝が書写し、簡略化した「大和国生駒山有里村行基菩 薩御遺骨出現事」が作られたことである。ところが、寂滅の注進状・縁起は複数の系統に分かれ保 存されてきた。唐招提寺には、A本とは別に永亨十年(1438)頃に真賢の手により書写本Eが保管さ れている。(注26)  ここで、杲宝が竹林寺で書写したD本が、唐招提寺本Aと仏教全書本?のどちらに近いものであ るかを検証する。  A『竹林寺舎利瓶記出現注進状(唐招提寺保管)』と?『生駒山竹林寺縁記(大日本仏教全書寺誌叢 書第三)』の字句比較は、表2に示した。  Aには、誤字が多い(人・安・悲・願・光・必・房・精・被・候・千・筒・己・視・頃・氏憚瓩・泰・至・謂・別・ 後)。脱字8箇所あり。  二つの史料の先後を考えるとき、誤脱字や省略文字が使用されるのは後の史料に多いものと推定 できる。  書換えについては、異体字の使用は、原本史料から活字化されたそのままに表記し、新旧文字の書 換えは考慮しないが、A・?の比較する事例数は少ないので、先後の判断は困難である。  Dは、A・?の同一部分に比べ、書換えが増えているが、書換えが共通するものには、A「者」−D・? 「去」があり、Dは?と同一である。異体字については、A・Dの「廿」が共通するもので、「體・充」はD・ ?が共通している。  Aの「死」は異体字に区分したが、「充」の異体字を見誤ったものであろう。(注27) 誤脱字については、A・D共通は、「筒・後」(?は「箇・復」)の二例があるものの、?・Dが共通す るものは「入・滅度・教災(?)・来・辰刻可開・先・心・清于・亡・現・須・處・請・筒々(筒)」と多くが 正しく記されている。このことから、A・?の先後の比較は、?が寂滅の原本に近いものと思われる。 杲宝本は、?によったものと考えられる。すると、火災にあったことがない唐招提寺に寂滅の注進 状の原本が保存されておらず、竹林寺にあったと思われるものが菅原寺に伝わったことになる。  しかも、本来寂滅が唐招提寺に注進し、唐招提寺に保管されている注進状Aは、原本そのものか、 それに近いものが残るべきものであるにも係わらず、永享十年(1438)真賢が転写したもの(注28)と 推定されるが、菅原寺本より誤脱字が多い後出本と考えられ、菅原寺保管の仏教全書本が史料と して先行するという逆転現象が起こっている。  また、杲宝が竹林寺で書写した時には、凝然が著した『竹林寺略録』が同時期に存在したと思わ れるが、その時には『竹林寺略録』は何故か竹林寺には姿を見せないのである。 『竹林寺略録』は、竹林寺に止住したこともある凝然が記述したものであるから、その後、杲宝や賢 賀がそれぞれ竹林寺にある「行基菩薩御遺骨出現」に関するものしか転写せず、『竹林寺略録』に 触れていないことは注目される。  特に、東寺杲宝が写書した時代とは、約五十年弱しか経過していないので、その時点で杲宝が『竹 林寺略録』を書写しなかったのは略録が竹林寺に存在しなかった可能性がある。  そして、後述の論も取り入れて、想定すると図式のとおりとなる。 表2 遺骨出現記の字句比較(略) 図1 遺骨出現記の流れ 4 舎利の出現 ?関連性  行基に関連する舎利として、表3のとおり、舎利A、舎利B、舎利C、舎利Dの四つの舎利が現 れる。舎利A、舎利Bは、注進状に基づくものである。 表3 行基に関連する舎利  このうち、関連を持つと想定できるものは、舎利Bと舎利C・Dである。 舎利Bは時系列的には発見された翌年の公開であり、細い瓶に入れられていることが似ているの で、両者は同一のもののように思われるが、空間的には離れた場所での出来事である。井上薫は、 「舎利瓶は嘉禎二年六月二十四日に京都まで持ち出されて開帳されたらしく…」(注29)とするが、発 見された舎利Bが、舎利Cと同一のものとして公開されたとすることは、明確に証明を要する事柄 であろうと考える。  遺骨公開は行基の託宣の指示になく、誰でも自由に取り出せる遺骨の取扱いがぞんざいであるこ とは、行基崇拝や舎利信仰の上で行われた遺骨公開の行為とは考えられない。 粉のような遺骨が細い瓶に入っていることは、通常の骨蔵器の形態と異なり真の遺骨でないこと を疑わせる。舎利Bと舎利Cの二つを関連付けて説明した史料はないので、両者が同一である証明 にはならず、むしろ、行基の遺骨が開陳されたとすることは疑問であると考える。『縁起』の記事に 作為が見られると考えるのは、数字の二の多出があり、(注30) 慶恩に行基の託宣のあった日の二年後の同じ日に、中山観音堂で行基菩薩と称される遺骨が公 開されたことは偶然であろうか。ここにも史料のどちらかに作為が想定されるのではないか。また、 東大寺の円照により大仏殿にて行基菩薩(骨)舎利供養がされた舎利Dは、行基舎利発見の二十 四年後であるから、時系列的には舎利B、空間的には舎利Cとの間に直接的な関連性はみえず、 同一のものとは思われない。それでは舎利Dはどこから調達されたのであろうかという疑問が残る。 この舎利Dも、行基の真骨であるか否かは不明であり、本物を用意しなくても、方便として行基菩薩 の舎利供養を行うことは可能であろう。あるいは、行基廟として信じられてきた墓が開掘され取り出 された可能性が考えられる。  遺骨出現記では、舎利Aが新しく造られた墓から見つかり、地元民が不審に思うものの行基の託 宣の正しさを証明するものとされるのであるが、その後、発見された二粒の舎利の取扱いについて、 全く触れられていないのはどうしたことであろうか。この二粒の舎利は、単なる話の繋ぎに使われ ただけとしか考えられない。(注31)  ?『百錬抄』の行基舎利  『百錬抄』(1259以後の成立)は、「嘉禎2年(1236)6月24日己酉。中山観音堂邊称行基菩薩遺 骨。細瓶安置之。参詣之輩自由取出之。如粉物云々。」とする。舎利Cは、嘉禎2年(1236)6月 24日に、平安京岡崎の中山観音堂辺りで行基菩薩の遺骨と称する粉の如きものが細瓶に入れ られ安置された。参詣人は之れを自由に取り出すことが出来たと伝える。舎利BとCとの時系列 の関係では辻褄は合うが、託宣のあった日と行基遺骨の開陳日の一致することが疑わしい。  これは、行基菩薩の遺骨と称するものであるが、生駒山御廟の開掘されたものとの関係は不明 であるが、むしろ、大和国生駒山御廟の開掘されたものが遠く離れた平安京岡崎の中山観音堂 で公開される理由及び必然性がなく不審と考える。  『百錬抄』の記事は、たまたま、天武・持統天皇合葬陵(檜隈大内陵)の開掘(盗掘)に見られるよう な他の陵墓から発掘される事件があったことから、人集めの見世物としての行基の遺骨開陳を演 出したとも考えられるが、それが行基の真骨であることは疑わしい。そして、『百錬抄』の記事を元 にして、行基御廟の開掘と舎利瓶記の発見を画策して、行基を利用した勧進の進展と竹林寺など 寺院の復興・興隆を期したものと考えては如何であろうか。  ?東大寺の行基舎利供養  東大寺における行基の舎利供養は正嘉三年(1259)で、行基墓が開掘された文暦二年(1235)か ら二十四年後であり、舎利発見から舎利供養までの期間が開き過ぎることが指摘できる。それは、 行基舎利の公開を記事にした『百錬抄』が成立した時期(1259以後)と同じくする。  行基御廟開掘が事実であろうとする史実の問題は慎重な判断を要することであるが、もしも、行 基御廟と信じられて守り続けられてきた墓所があり、その行基御廟が開掘され、出てきた舎利を行 基の遺骨と見做したことが本当に起こり得たと考えるならば、それは東大寺で最初の行基舎利供養 が行われた正嘉三年が一つの時機として推定できる。そして、同じ正嘉三年、改元正元元年十月に、 勧進僧(名前不明)によって行基の墓地とされる往生院に宝篋印塔が建てられたのは、東大寺に於け る行基の舎利供養と関係があったものではないかと憶測する。  地元の伝承では、「現在も里人達は往生院の石造五輪塔こそ行基の墓であり、行基の舎利瓶はここ から発見されたと称している。」(注32)から、何時からかは不明であるが、往生院の地が行基御廟と信 じられて守り続けられてきた場所であると思われる。これは、『三輪上人行状(続群書類聚巻218)』の 貞応2年(1223)頃の記事に「生駒行基菩薩御廟住僧月性坊、法輪寺に参篭の時…」があることから も推定できる。  鎌倉時代に石造五輪塔が行基の墓として設置された(注33)ことと、正嘉三年(1259)三月十六日 願主円照により東大寺大仏殿にて行基菩薩(骨)舎利供養が行われたこと、そして、正元元年(1259) 十月に名前が不明であるが勧進僧により往生院墓地宝篋印塔が建造され、塔供養がなされたことが 関連を持つのではないかと考える。つまり、東大寺大仏殿にて行われた行基菩薩(骨)舎利供養に使 われた舎利は、行基の真骨かどうかは別として往生院の地から発掘され、持ち出されたものではない だろうか。  往生院説は、東大寺の舎利供養に繋がるものと考えるが、それはどの記録にも明確にされてい ないことである。  行基廟の開掘を正当化するには行基自ら語る託宣は都合がよい。更には、『百錬抄』(1259以後) の記事を利用して、二十四年以上も以前のこととすると、御廟開掘の罪の意識が減ずると考えたの であろうか。  長谷川嘉和が「そもそも墳墓を掘りかえすことは尋常な事態でなく、死者に対し非常なる冒涜と いわねばならぬ。そのような行為をあえて犯したのはなぜか。これは重要な問題である。」(注34) と指摘するように、墳墓の開掘は宗教上や常識的な判断では通常考えられないことであるが、盗掘 を目的とした場合以外では、墳墓の改葬や墓地の移設などの場合には許容されることであり、舎利 供養の実施、五輪塔・宝篋印塔の造立など丁寧な供養が行われることによって、墓地開掘が正当 化されてきたものと考える。 5 主要な登場人物と託宣  橘成季の『古今著聞集(注35)』(建長六年1254年成立)に託宣の多数の事例がある。十訓抄と内容 的に類似し、説話の末尾に教訓を付す。  『縁起』に登場する主要な人物は、行基とその母、託宣を受ける慶恩、そして、開掘の状況を注 進した寂滅である。この『縁起』の特異なことは、行基及び母が託宣を行い、僧慶恩が託宣を受け ることから始まることである。行基自ら慶恩に託宣して、行基の墓上にあった石塔の第二層に舎利 二粒が出現すると語った。そして、信じられない奇瑞が起こる。新墓地に行基の舎利二粒が発見さ れること、慶恩の室内に白煙が充満し、行基の廟までも覆ったこと、行基の母の託宣どおりの光景 (善光寺といいながら、家原寺を指す。) が実現したことである。そして、災いを招くことを示唆して、 墓を開くべきことを強いるかのような行基の言葉が託宣される。  「託宣とは何であろうか。察するに、死者の霊を感じることのできる人が現代でも確かにいるこ とを思えば、おそらく慶恩もまたそのような能力をもっていたと思われ、それが託宣の真意であろ う。したがって『縁起』の記述は事実である、と少なくとも私は信じたい。(注36)」とするのは、作 り話としては分かるが、真実性は乏しいと思われる。  吉田一彦は、「この骨蔵器出現の経緯については、多分に演出めいたところがあり、同じ律宗の 尼の信如夢告によって、法隆寺の蔵から天寿国曼荼羅繍帳を発見した経緯ときわめて類似した 作為が看取される。当時の律宗は、そうした聖遺物を発見して、それを中心の一つとして荒廃した 寺院を復興したり、あるいは新造するという活動を展開していた。(注37)」とするように、この託宣 を行う行基とその母の出来事は、事実とみなすことはできない。理由は、行基及び母が出現して 夢告・託宣することは、真実を反映する現実に起こり得る現象とは認め難いからである。よしんば、 慶恩・寂滅の夢告・託宣が現象として起こり得たとしても、行基及び母が話す内容が事実である 事はありえず、作為されたことに尽きるものである。科学が発達した現代では合理的でないもの は否定されるであろう。託宣の部分は信じることができないのである。  細川諒一は、「堀池春峰氏は、慶恩への託宣は、律僧として律儀によって墓所をあばくことを禁 じられている寂滅らが、発掘を正当化するためのカムフラージュとして行ったものであるとの考えを 示している。私も氏の考えに異論はない…(注38)」として、託宣を口実として行基墓が開かれたと 判断するが、果たして託宣だけが事実と異なるのであろうか。実際に行基の墓が開掘され、舎利 瓶記が発見されたことについても疑問が残る。『縁起』は、何を述べたかったのか。最大の目的は、 行基の墓から舎利瓶記を見つけたとすることであろう。  『縁起』の中に現れる行基の母は、明確に名乗りをしたことが見えず、託宣を行い、疑うなかれと命 ずる強い威厳を感じさせる。この様子から、御母儀と称され、託宣を行う行基の母は下級の帰化人 士族や市井の庶民(注39)を想定しているのではなく、託宣を行うべく素質を備えた人物のように窺 える。行基の母は、多様な説話の中で混乱を極めるが、「薬師古・権智子」の名に見えるように、医 師かあるいは何らかの権威を持った人物(よく知られた人物か)のように窺うことが出来る。  後の史料では、行基の母は「十廻光菩薩(注40)」とされているが、ここでは母の詮索は行わず、そ れは別の機会に譲りたい。  託宣の中身を考える。死者が死後のことを正確に計算できるはずがない。その託宣が計算違いを するのは愛嬌か。『出現記』のなかで、天福2年(1234)に託宣のあった時点は、「我誕生[668年] 以来五百六十七年。入滅[749年]已後四百八十六年也。」であり、誕生後、668+567=1235、入滅 後749+486=1235でいずれも一年早い。誕生から入滅までは749−668=81で数え年八十二歳と なり、年齢計算は合う。暦の計算を誤ったのは、年齢と同様に計算をしたためだろう。  この年のずれを『竹林寺略録』は「入滅之後経二四百八十七年一…文暦三年(1236)…菩薩霊廟 御瓶出現…」と二重に誤った形で修正するのである。(注41)  『行基菩薩絵詞』では、「滅後四百八十六年に当たり、御舎利出現の奇特を呈せり。」と正しく修正さ れ、「我誕生以来五百六十七年」の方は省略されている。杲宝の『大和国生駒山有里村行基菩薩 御遺骨出現事』も『行基菩薩絵詞』と同様であるから、「四百八十六年」が強調されている。この四 百八十六という数字に注目し、何らかの隠された意味があることを憶測すると、「シホハトム」と読め る。四百八十六を素因数分解すると、「三・三・三・三・三・二」となる。この数字は行基と関連づけら れる。『続日本紀』の宝亀四年(773)に衰退した行基の六院に対して田が施入されたことが記される。 その六院のそれぞれに施入される田の面積と一致するのである。(注42)  「四百八十六シホハトム」は、行基の死後、六院に田が施入されたことを「師(或は死)ホ(仏・菩薩・ 保)は富む」とするような意味が隠されているのであろうか。(注43)  つまり、天福二年(1234)という年は、計算誤りであるが、1235年なる文暦二年は、四百八十六とい う数字から導き出された年であり、『注進状(唐招提寺保管)』の年紀の創作性を示すものと思わ れる。従って、文暦二年の行基の舎利瓶出現そのものが創作されたことを疑わせるものと考える。 6 遺骨出現記の信憑性  以上をまとめると、唐招提寺に保管されている『注進状』は、寂滅の原本ではなく、竹林寺の住 持と思われる真賢が写したものであり、しかも菅原寺のものと別系統のものであり、さらには菅原 寺保管の仏教全書本ものより後出性を孕んでいる。『注進状』に記載されている、行基及びその母 の託宣については当然信じられない作り事であるうえに、「四百八十六」などの数字には作為を感 じさせる。また、『注進状(唐招提寺保管)』の舎利と『百錬抄』の嘉禎二年(1236)六月二十四日に 開陳されたとする行基遺骨の関係を考えると、大和国生駒山で発見されたものが遠く離れた平安 京岡崎の中山観音堂で公開される必然性がなく、行基舎利を平安京へ移したなど舎利Bと舎利C の二つを関連付けて明確に説明した史料はないので、両者の舎利が同一のものとすることは慎 重に判断すべきであろう。 (注44)  また、『百錬抄』には、行基菩薩遺骨と称する粉の如きものとするだけで、明確に行基の遺骨と断 定していないので、行基の遺骨開陳は事実とする根拠はないと考える。そして、行基遺骨の開陳 の期日も二年前の行基の託宣日と一致する不審点があり、出現記に作為が感じられる。従って、 『注進状(唐招提寺保管)』の信憑性に疑問があると考える。 二 竹林寺と住持職 1 草創期の住持職 (1) 寂滅(明観とも)  初めに、行基廟の開掘を注進した寂滅のことからはじめてみよう。  寂滅の名前は、表4のとおり、『竹林寺略録』に見え、『円照上人行状上』には「寂滅後号明観」、 『本朝高僧伝(巻第六十「円照伝」)』には、「生馬山大聖竹林寺主明観滅公」とされるが、『招提千 歳伝記』及び凝然の『浄土法門源流章』の中には寂滅の名が見えない。  寂滅は、注進状と舎利瓶記をしたため、また、唐招提寺に保管された文には、別に行基の弟子名 を記した『大僧上記』が添えられている。(注45)  寂滅は、中尾良蔵によると「寂滅 後に明観と称した。文暦二年(1235)の行基廟発掘の様子を報 告した彼は、その後、堂宇仏像の造営を志ざし、往還を奔走する勧進の生活をつづけ、仏像・塔・ 廟を造作した(『竹林寺略録』・『円照上人行状上』)。彼は竹林寺初代の住持であったが、彼に関 する史料はすくなく、その功績を明かにしえないのは残念である。彼の住持職はやがて東大寺の 円照に受けつがれるが、円照が竹林寺第二代住持に就くのは、建長三年(1251)以後であるから、 寂滅が竹林寺草創に尽力した時期は、すくなくみつもっても文暦二年から建長の末年まで二十余 年にわたることになる。(注46)」とする。中尾良蔵の言葉を借りれば、寂滅は、行基舎利発掘から少 なくとも二十余年にわたり、竹林寺草創に尽力するにも係わらず、限られた史料にしか名が見えず 経歴が明らかにされない僧侶とされているのである。  寂滅の名前がある『竹林寺略録』、『円照上人行状上』の二つの史料はどちらも凝然によるもので あるが、史料批判はされたものは見えない。    『略録』に、「後受二寂滅上人之譲一、住二持寺院一…」、『円照上』に、「遂受二寂滅(後号明観) 上人之譲一、住二持寺院一」と同様の表記があることから、作成年からみると、『略録』(1305)は、 『円照上』(1302)の後に作成されていることになるが、「後号明観上人」は記されていない。行基舎 利発見後七十年であるから、凝然は行基墓の開掘時の状況を知らず、実地で見ていないことを記 載しているのである。寂滅の『注進状』(1235)では、行基の舎利瓶記が出現したとき、寂滅は、行 基廟の近くではあるが、託宣を受けた慶恩らとは別の草庵に居住していたとみなされている。(注47)  慶恩は、他の史料には見えないが、堀池春峰が慶恩を竹林寺の僧とする見方がある一方、寂滅は、 「彼の所属寺院は記されていないが、この注進の宛先は唐招提寺のようであるから、唐招提寺また はその末寺に籍のある僧であったことが窺われる。(注48)」とする。 表4 寂滅(明観)上人
史料記事
円照上
1302
生馬大聖竹林寺者、照公遁世自レ初久住修練之処、由来是重、事義不レ輕、移住二戒壇一之後、日阿入西両徳来至二戒壇一、勧二令管領一、遂受二寂滅後号明観上人之譲一、住二持寺院一
略録1305寂滅上人創興有レ功。仏像塔廟由二彼営作一。往還奔馳。創二開荒途一。其後漸々衆錺周備。…(円照上人)後受二寂滅上人之譲一、住二持寺院一…
浄土1311なし。竹林寺に関しては良遍と空寂、円照の三名が見える。「先有空寂」
千歳明観号二禅明一(下之三連名篇)
高僧伝釈智鏡字明観、別号月翁。…鏡以二某年三月二日一順世不記二年臘一矣。本朝高僧伝(巻第五十八「京兆泉涌寺沙門智鏡伝」)
高僧伝生馬山大聖竹林寺主明観滅公、聘請譲レ席、師往授レ戒…某年三月二日順世…本朝高僧伝(巻第六十「和州戒壇院沙門円照伝」)
律苑僧宝伝
巻第十一
「来迎院月翁鏡律師伝」3/2入滅、律師名智鏡字明観月翁其号也。
泉涌寺史智鏡(明観・月翁)泉涌寺の俊?に師事(安貞元年1227)後、定舜と南都へ、暦仁初め入宋、在栄6年、泉涌寺第四世、示寂、文永元年(1264)頃
 また、『略録』には、「寂滅上人創興有レ功。」とあり、「彼は竹林寺の創設者であり、初代の住職 であった。(注49)」とされるが、行基舎利の発見当時の文暦二年(1235)は、良遍の嘉遁の時期と 重なるのである。寂滅が竹林寺草創時から仏像塔廟の営作に往還を奔駆したとされるが、注進状 を書いた寂滅の存在を裏付ける史料は、凝然の『円照上』と『略録』のみであり、二十年に及ぶ期間 の活動記録や他史料の記録がなく、寂滅は存在が疑われる不審な人物と指摘しておきたい。 (2)円照(実相)  中尾良蔵は、円照について「円照(実相房)承久三年(1221)、代々の父祖が東大寺の学侶であ る家に生れた円照は、仁治二年 (1241)出家し、延暦寺園城寺などに遊学した後、 東大寺に住んだ。 のち夢告をえて、興福寺の良遍の門 に入り、法相宗宗旨の伝授をうけた。当時良遍は竹林寺に住 んでいたので、円照も竹林寺に住んだのであるが、宝治元年(1247)二十七歳の時、竹林寺を出て 海竜王寺に移った。建長三年(1251)には東大寺戒壇院に移り、律学の研鑽に励んだ。戒壇院に住 んだ時期、竹林寺一掾i長掾jである日阿・住僧の耆宿である入西の請により、寂滅のあとをうけ て、竹林寺の住持になった。第二代の住職である。住持を継承した年月日について記録を欠いてい る。(注50)」とまとめている。 表5 円照上人の記事
史料記事
円照上(a) 十歳落髪、即預二僧服一…年至二志学一研精有レ功、投二良忠大法師一作二師事之禮一、… (b)(厳寛)三男乃照公也、本諱良寛、房號土佐、年二十一、値二慈父卒一、即厭二世業一、投 二入緇門一房號実相、本諱悲願、後改二円照一、…宝治元年丁未、照公年二十七、從二竹林寺一移住二海龍王寺一、… 仁治三年壬寅、蓮實北室東端立二柱一本一、于時照公還二竹林寺一…即還二生馬一、對二遍上人一語以二此事、遍公報言… 建長三年(1251)辛一亥、照師年三十一、四月安居己前從二海龍王寺一、移住二東大寺戒壇院一、紹二隆寺院一、興二行僧宝一… 照公為レ造二竹林寺一、勧二進道俗一、奉二請行基菩薩舎利一、抛二銭百貫一、作二供養事一、 自餘施物不レ可レ数、門族競施亦不レ知レ數、… (c)生馬大聖竹林寺者、照公遁世自レ初久住修練之処、由来是重、事義不レ軽、移住二戒壇一 之後、日阿入西両徳来至二戒壇一、歓二令管領一、遂受二寂滅後號明観上人之譲一、住二持寺院一、
円照下戒壇院、竹林寺、善法寺、此三箇所、倶是照公門人管領住持、?上人十歳落髪、其後登壇、 以レ此為二僧臘次一、々々極高四十餘廻、二十五受二通門比丘戒一、是三十一臘、三十一受二別門戒一、是二十七臘也、 住二持戒壇院一二十七年、自二建長三年辛亥一至二建治三年丁丑一也、照公一期五十七年、逢二七代世主一、為二両帝 之門師一、順徳天皇季暦、後堀河天皇初運、承久三年、辛巳誕生、…
略録次有二円照上人者一。是東大寺学窓之住侶也。…即遍公奉事依学。習二学法相八年一。…後受二寂滅上人之譲。住二持寺院一。…
浄土東大寺有円照上人。道號實相。聡叡敏利。多聞深悟。大小化制。顕密禅教。解行通練。無不貫括。随良遍上人。習學法相。研精淨教…
千歳中之
二明律篇
中二興生馬山竹林寺一以居レ之、…上首凝然律師為撰二行状三巻一「戒壇院実相照律師伝」
本朝高僧
十歳薙髪、即若二僧服一、十五投二東大寺良忠大徳一、…本朝高僧伝(巻第六十「和州戒壇院 沙門円照伝」)照別構二竹林寺一奉二行基之舎利一…正嘉三年(1259)円照三十九歳
 『円照上人行状』は、出家の時期を?仁治二年 (1241)とするものと、(a)十歳落髪、即預二僧服一 …とするものがあり、約十一年の差がある。この仁治二年出家は?二十一から逆算されたものであ ろう。 (b)「本諱良寛、房號土佐」は錯入か。父厳寛のことか、円照の本諱悲願のどうか先名か読み取れ ない。    また、表4・5のとおり、『竹林寺略録』、『円照上人行状』に基づくと、円照は、寂滅に次いで、 二代目の竹林寺の住持とされている。  円照は、寂滅から円照に住持職が引き継がれる以前に師である良遍とともに竹林寺に居住してい たのである。そして、年二十七の時、寳治元年(1247)に竹林寺から海龍王寺に移住している。 いつ竹林寺に入ったのかは、定かにされていないが、本朝高僧伝(巻第六十「和州戒壇院沙門円照 伝」に「十歳薙髪、即若二僧服一、十五投二良忠大徳一、…」とあり、『東大寺円照上人行状上』に (C)「生馬大聖竹林寺者、照公遁世自レ初久住修練之処、由来是重、」とある。竹林寺は、円照が遁 世の初めより住み修練した場所であり、しかもこれを重ねながら何度か竹林寺に住んだわけである。 これを素直に読むならば、東大寺に至る遁世の始め「十歳から十五歳まで」の間に竹林寺に居住 したことが考えられないだろうか。ならば、その時の師は、良遍であろう。年代に直すと、寛喜二 年(1230)から文暦元年(1235)に当たり、後半は、良遍の竹林寺嘉遁の貞永元年(1232年)の時期に 一致する。また、十五歳で東大寺の良忠に師事後、良遍から法相宗を学ぶため二十七歳以前に良遍 とともに竹林寺に所在したことから考えると、行基舎利発見後に寂滅が竹林寺を創建した『竹林寺 略録』の記事とそぐわないことになる。 (3)良遍(信願・蓮阿とも)   円照の師である良遍については、表6のとおり、『円照上人行状』、『竹林寺略録』は、詳しい年 紀を記さないが、『招提千歳伝記』下に「同(順徳天皇)貞永元年壬辰秋八月二十八日良遍僧都嘉 二遁生馬山竹林寺一」と記されている。  これに対し、中尾良蔵は、「 良遍(信願・蓮阿とも)京都の藤原氏の出ともいわれるが、その本 貫は詳かでない(『千歳伝記』中)。興福寺出身の英匠であり、法相宗を学んだ賢哲と評されたが、 隠遁の志がつよく竹林寺に隠棲して戒律の研究に励んだ。竹林寺隠遁の時期について、江戸時代 の書は(『招提千歳伝記』中・『律苑僧宝伝』十二)貞永元年(1232)四十八歳のときであるという。  貞永元年といえば、文暦二年(1235)の行基廟発掘以前のことで、竹林寺という名称が成立してい なかった時期である。そのような早い時期に、行基廟しかなかった後の竹林寺の地に隠遁したとは 理解しがたいが、しかし廟を開くべしとの行基の託宣を受けた慶恩のように、廟近くに居住する行 基尊崇者もいたのであるから、ありえないことではないだろう。凝然は良遍の竹林寺入寺の年次を 記さないから、貞永元年入寺説に信をおかない方がよい。(注51)」として、竹林寺という名称が成立 していなかった時期に竹林寺の地に隠遁したとは理解しがたいと指摘する。  他方、良遍の竹林寺隠遁の時期が貞永元年と異なる説について、田中久男は、「良遍が生駒竹林寺 に遁世した年月を仁治三年(1242)六月とすることは、宗性が寛元三年(1245)正月十四日東大寺西 塔院に書写した「因明相承秘密抄」の奥書に、「抑勝願院上綱(良遍)自二去仁治三年六月之比一、御 二籠−居生馬山麓竹林寺一之間、因明御抄出併進二置光明院上綱(覚遍)之御許一畢」と見えるから である。(注52)」とするから、『招提千歳伝記』中・『律苑僧宝伝』十二の貞永元年とは、十年の差があ る。いずれが正しいか、一定の方向付けを示そうと考える。 表6 良遍の史料
史料記事
通受軌則有難通会抄沙門蓮阿〈本名良遍、年五十七〉(1250)建長二年十月下旬於二東大寺知足院一記レ之了。『日蔵戒律宗章疏下』579上
円照上1302(円照)感二霊夢一云、近日白豪寺有二良遍法印一、…遍公、興福寺之名僧、勝願院英匠、…于時良遍上人請二禅慧大徳一、於二竹林寺一談二行事鈔一、照公同在二講席一、…
略録1305草創之比有二空寂上人一。…次有二迎願上人一。…次有二法印權大僧都良遍者一。是興福寺之英匠。法相之賢哲也。
『浄土法門源流章一巻』1311寛喜三年(1231)「良遍法印道號信願。官位居法印権大僧都。法相因明。四十有八。棄捨世榮。居住生馬大聖竹林寺。随唐招提寺覚盛和上受具足戒…建長四年(1252)遷神浄邦。于時春秋六十有九…竹林寺精舎現有遺房…」
『招提千歳伝記』中之二1701明律篇『生馬山大聖竹林寺信願遍大僧都伝』「貞永元年(1232)師四十八歳、嘉二遁于生馬山竹林寺一」「建長四年(1252)八月二八日化享齢五十九歳、建二塔于竹林寺一」
『招提千歳伝記』下之三1701「同(順徳天皇)貞永元年壬辰秋八月二十八日良遍僧都嘉二遁生馬山竹林寺一」「建長四年(1252)八月二十八日安然而化享齢五十又九、建二塔于竹林寺一」
『律苑僧宝伝』十二1687貞永元年(1232)四十八歳。ヒ二謙栄利一嘉二遁于生馬大聖竹林寺一。…師於建長壬子四年一辞世。俗歯六十有九。(『生馬大聖竹林寺信願?律師伝』)
本朝高僧伝第60 1702「貞永初(1232)。四十八歳。就二覚盛律師一。受二具足戒一…遍以建長四年某日化二於竹林寺一春秋六十有九。」(和州竹林寺沙門良遍伝)
「因明相承秘密抄」の奥書抑勝願院上綱(良遍)自二去仁治三年(1242)六月之比一、御二籠一居生馬山麓竹林寺一之間、…[宗性の書写本]
律宗瓊鏡章「良遍上人造一巻抄」「法印権大僧都良遍房號信願」。○○○竹林寺良遍上人意業無表鈔一巻。
奥理抄一巻建長三年(1251)九月 日記之沙門法界生、生作五十八
應理大乗傳通要録(1246) 於興福寺草、寛元四年(1246)12月21日 興福寺勝願院良遍艸
最勝講問答記(宗性書写本)入道前丹波守盛実−(息)良遍興新廿一嘉禄元年(1225) [良遍32歳とする。元久2年(1205)具足戒]
尊卑文脈正三位太皇太后権大夫俊盛の子(藤原) 盛実−良遍 (正三位兵部卿大弐)兄藤原季能、次兄長房(従四位上右馬頭)修行僧
三会定一記「承久三年(1221)…竪義良遍廿六」→1196年生となる。 寛喜二年(1230)「講師良通大徳…卅七」→良通が良遍の誤りとすると、1194年生となり、齟齬を来たすので、別人とした方がよかろう。
大悲菩薩并弟子行状集白豪寺良遍號二信願一住二興福寺勝願院一四十八歳遷二竹林寺一建長四年寂壽六十九
蓮阿菩薩伝1710仁治辛丑或云二貞永元年一非也。師齢四十八移二跡ヲ生馬大聖竹林寺一…明年(建長四年)八月二十八日…報壽五十又八。或云二六十九一非也。
日本高僧伝要文集建長元年(1249)東大寺知足院別所信願上人[宗性奥書]
注)『浄土法門源流章一巻』「建長四年(1252)遷神浄邦。于時春秋六十有九」から、逆算すると、竹林寺嘉遁の「四十 有八歳」は、寛喜三年(1231)に当たる。 2 良遍の竹林寺隠遁  良遍の竹林寺隠遁を貞永元年とする『招提千歳伝記』は、江戸時代中期の元禄十四年(1701)に唐 招提寺僧義澄によって著されたものであり、その奥書から『円照行状』を参照せずに書いたと思わ れ、時代が下るので全面的に信頼できるものではないとされているが(注53)、他の史料によって裏付 けられる部分もある。  中尾良蔵は凝然の記した他の史料を見落としているが、良遍の生馬山竹林寺の隠遁は、凝然が応 長元年(1311)に著した『浄土法門源流章』の中で、「良遍法印道號信願。…法相因明。四十有八。棄 捨世榮。居住生馬大聖竹林寺。…建長四年。遷神淨邦。于時春秋六十有九。」と、良遍の没年を六十 九歳と明記しているので、ここから逆算されるところは、「四十有八歳」は、寛喜三年(1231)に当た るので、貞永元年(1232)とは一年早いが、一年差は許容できる範囲と考える。  また、『招提千歳伝記』中之二は、『生馬山大聖竹林寺信願遍大僧都伝』として、良遍を竹林寺の 僧として表記し、「貞永元年師四十八歳、嘉二遁于生馬山竹林寺一」とする一方、下之三では「建長 四年八月二八日化享齢五十九歳、建二塔于竹林寺一」(『招提千歳伝記』下も同じ)としている。  同一史料の中で二つの時点の年齢を記すが、両者は一致しないのである。貞永元年に48歳なら ば、20年後の建長四年には、68−9歳になろう。同一史料の年齢の違いは、計算をしてみれば、 『招提千歳伝記』の五十九歳遷化説に齟齬があり、『浄土法門源流章』に記される六十九歳が正しい ことが分かる。『招提千歳伝記』下之三は明らかに誤りであり、作為を加えた可能性がある。 これらから、良遍は貞永元年頃から亡くなる建長四年まで約二十年間竹林寺に居を置き活動した ことが推定される。この時期は、中尾が推定した寂滅の住持期間と重なる。  さらに、田中久男が述べる仁治三年竹林寺隠遁説は、宗性の書写本「因明相承秘密抄」の奥書「抑 勝願院上綱(良遍)自二去仁治三年六月之比一、御二籠一居生馬山麓竹林寺一之間、…」から、隠 遁したと考えたのであろうが、ここには、隠遁の文字はなく、「籠居之間、」は、良遍が竹林寺に戻り 籠居して『因明相承秘密抄』を著したと解する。宗性が別に「籠居及両三年(注54)」を用いるも、「籠 居」が一時滞在を意味すると解する。  宗性は、『日本高僧伝要文集』で、「建長元年(1249)東大寺知足院別所信願上人」とするように、 良遍が勝願院から竹林寺、東大寺知足院など転々と居住することを記しており、北畠典生は、「彼 (良遍)は竹林寺の隠棲したとはいうものの、竹林寺と白毫寺あるいは知足院との間を往復していた ものと思われる。(注55)」とするので、良遍は竹林寺嘉遁以後、竹林寺以外に活動寺院を移すことが あったものと思われる。宗性・凝然も同様に寺院を移動しながら活動している。 ・良遍の年齢の異説 良遍の入寂年は、表7良遍の入寂年に掲げるとおり四通り挙げられる。(注56) 表7 良遍の入寂年
年齢史料(成立年)
57歳三会定一記(1566)
58歳蓮阿菩薩伝(1710)、信願上人画像賛(唐招提寺蔵)、積聚性因違法自事
59歳通受軌則有難通会抄(1250)、三会定一記、招提千歳伝記(1701)、「因明相承秘密抄」
69歳浄土法門源流章(1311)、律苑僧宝伝(1687)、本朝高僧伝(1702)、大悲菩薩并弟子行状集
 田中久男は、「良遍の年齢については、二説ある。建長四年八月二十八日に示寂したが、時に五十 八歳であったとするのと、五十九歳であったとするのとである。しばらく、五十九歳による。それ は、良遍が建長二年に著した「通受軌則有難通会抄」の奥書に、「沙門蓮阿〈本名良遍、年五十七〉」 とあるからである(日蔵、戒律集章疏下)。このほか自ら年齢を記したものはないようである。 これ一つでは物足りないが(もう一つ仮名によるものがある)、…(注57)」とし、仮名によるものは、 建長三年九月に書かれた「奥理抄」の奥書に、「沙門法界作名生〈生作(年の誤りか)五十八〉(注58)」 を挙げ、更に、「寛喜二年(1230)三十七歳、興福寺維摩会の講師をつとめた(維摩会講師研学堅義次 第・三会定一記)。「三会定一記」には、「講師良遍[原文:良通]大徳」の右傍に「卅七」と注があり、 五十九歳示寂説と合致する。(注59)」ことを示し、六十九歳説を無視している。  また、北畠典生は、「…この六十九歳説については、既に山崎慶輝教授が誤りであることを指摘し、 五十九歳説が正説である旨を論じておられる。…今日では、右に述べた通り、山崎説すなわち五十 九歳示寂説が学会の定説となっているといってよい。(注60)」とされ、その根拠として、第一『通受 軌則有難通会抄』に「建長二年十月下旬…記レ之…年五十七」とあり、この奥書は良遍自身が記し たところに信憑性がある。第二『奥理抄』一巻の奥書に「建長三年九月 日記之沙門法界生、生作 五十八」とあるとする。第三『三会定一記』に「寛喜二年(1230)…講師良通大徳…卅七興福寺法相 宗」とあり、「良通」は、明らかに「良遍」の誤りとする。以上、三点を挙げる。  五十九歳示寂説に不審と思われるところを二、三点挙げる。  先に、『招提千歳伝記』の五十九歳説の矛盾及び作為を指摘した。次に、『三会定一記』の「59歳 説」は、「良通」を「良遍」の誤りであるととし、同書の中のもう一つの良遍の記事を無視するが、 同書の中には、「承久三年(1221)…竪義良遍廿六」とあるから、良遍の生年は1196年となり、寛喜 二年(1230)「講師良通大徳…卅七」の良通が良遍の誤りとすると、1194年生となり、齟齬を来たす ので(注61)、「良通」は「良遍」の誤りと確定しがたく、良遍・良通はとりあえず別人とみなすのが 妥当と思われ、『三会定一記』からは「57歳説」が計算されるのである。一つは、『通受軌則有難通 会抄』に「沙門蓮阿〈本名良遍、年五十七〉」とあることを自記とすることは間違いのないことだろ うか。残念ながら、実物史料に対峙して真贋を鑑定する環境と能力を持ち合わせないが、文章表記 のみで考えると、自記で「沙門蓮阿」と「本名良遍」を併記し、ことさらに本名が「良遍」である ことを示す必要があるのか疑問である。   自分の名については、どのように名乗ろうと自分が書いたことが分かるから、晩年蓮阿を称した としても一つの名前を明記するだけでいいはずである。また、年齢についても同様である。自分の年 齢は自明のことであり、良遍には宗性のように年齢を記録する習わしがあったとは思われない。  現に、良遍の著作の多くは良遍名が明記されているものの、年齢は書かれていないので、別名 と年齢が記された奥書は本人の自記でなく、他人が書いた可能性がある。  良遍の著作史料で、奥書のあるものを比較すると、表8のとおり、良遍以外の者が転写したと思 われるものが含まれる。そして、良遍が蓮阿と法界生の名前で書いたものがあり、田中久男・北畠 典生らは良遍の自記とするが、表記が「沙門蓮阿〈本名良遍年五十七〉」と「沙門法界生作名〈生作 五十八〉」とまちまちであり統一されていないことは、全て本人が書いたものとは考えられない。 これらも弟子等が写したと見做すことも可能であろう。 表8 良遍史料の奥書
史料署名・奥書備考
法相二巻抄(1242)信願上人良遍、沙門蓮阿…沙彌縁円記ス良遍法印鈔之
應理大乗傳通要録(1246)興福寺勝願院良遍艸行基遺誡を記す
覺夢鈔補闕法門(1248)寶治二年九月一日抄之了沙門良遍仏教全書80
唯識観用意(1249)建長元季十二月 日記レ之 良遍
唯識観作法(1250)建長二年六月 日記之 作信沙門 良遍 書本云六月九日賜之
廃詮観(1250)建長二季六月 日沙門良遍六月二十五日賜之
別受行否鈔(1250)建長二年六月 日沙門良遍
通受軌則有難通会抄 (1250)建長二年十月下旬…記レ之沙門蓮阿〈本名良遍年五十七〉知足院で著す田中は、自記とする。 十月下旬とし、日を欠く。
奥理抄(1251)建長三年九月 日記之沙門法界生作名〈生作五十八〉生作(年の誤か)とする。 考が記される転写本。
知足院縁起(1251)建長三年十一月二十四日良遍
注) 表以外では、仏教全書80の中道事、唯識空観、唯識般若不異事、自行思惟、不思議各一巻には、 「良遍」の名が記される。  『奥理抄』には、[考]が付記されており、転写本であるから、自筆本とはいえない。『通受軌則有 難通会抄』は、建長二年十月下旬知足院で著され、『唯識観作法』・『廃詮観』・『別受行否』が、 同年十一月に『知足院縁起』が著され、いずれも良遍の名を使っているが、本人が記録する場合、 その日は自明であり、「十月下旬」と表記することはないであろう。 五十八歳説の『蓮阿菩薩伝』は、『本朝高僧伝』より後のものであるから、その誤りを正している。 (注62)とされるが、その根拠は不明である。むしろ、『本朝高僧伝』は、『招提千歳伝記』を参照して いるから、59歳説を正していると思われる。  『招提千歳伝記』は、没年・年齢を伏せるものが多いという特徴がある。自記でなければ、五十 九歳説の根拠を薄めることとなろう。また、五十九歳説を採用すると、良遍は宮仕えせず、元久 二年(1205)十二歳で具足戒をうけた(注63)ことになるが、元服の十五歳に達しない十二歳で出 家する事例は数多くはないものと思われる。もう一つの指摘する点は、承久二年(1220)には、 『因明大疏私鈔』九巻を記し、『因明相承秘密鈔』を草していることである。(注64) 五十九歳説でいえば、二十七歳の時に当たり、凝然は、二十八歳で仏教概論『八宗綱要』を著 わすから、可能性の話としては無いとはいえないが、常識的な判断としては『因明大疏私鈔』の ように、後年良遍が講義を行う九巻の大作は若干二十七歳の著作とするより、後年の三十七歳 の著作とするのが妥当と思われる。(注65)  また、良遍の兄弟である尊遍(尊卑文脈には表れない)は、建久五(1194)年生まれで、良遍と同じ 生年になり、辻褄を合わせるには兄弟の母を異にすることは読みすぎであろう。(注66) 良遍の『法相二巻抄』は、仮名書きの法相宗大要であるが、出家した(する)母開蓮坊のために著 したものと考えられる。(注67)  表7のうち、『通受軌則有難通会抄』に次ぐ古い史料は、凝然の『浄土法門源流章』であり、受戒 及び著作の年齢から考えると『浄土法門源流章』の六十九歳説が妥当と思われる。 凝然にとって良遍とは直接の接触はないだろうが、円照を挟んで孫弟子に当たるのできちんと経 歴を把握した上での記載であると推察される。また、『大悲菩薩并弟子行状集(注68)』には、大悲 菩薩(覚盛)の弟子13名と真性・得算と良遍の弟子聖然までを明記している。弟子のうち11名は 年齢を記さないが、良遍は白毫寺の僧として同時代人の招提澄玄とともに寂年が記されるので、 凝然史料とは異なる出所の史料と思われるから、良遍の六十九歳は信頼できるであろう。 それでは、『招提千歳伝記』などの史料で良遍の年齢を短縮したのは何故か、を考えた時、寂滅 と良遍の存在が重なり、遺骨出現時の良遍の存在は差し障りがあるので、良遍の竹林寺入寺を 約10年遅らせ、行基遺骨出現後に見せかけるためであろうと憶測するのである。  良遍の竹林寺居住について、史料からは、天福二年(1234)六月二十四日慶恩に行基の託宣が あった以前にすでに、良遍が竹林寺に居住していたことが窺われる。そして、貞永元年(1232)当 時の竹林寺の存在と、良遍の存在は、文暦二年(1235)の舎利瓶記発見以後、寂滅が竹林寺を 再建した時期とも重なるので、この二つは相容れないものと考える。更に、良遍・寂滅の重なりを より広く竹林寺住持の承継という視点から眺めることとする。 表9 良遍略年表
略年59歳説58歳説69歳説
元久二年(1205)
承久二年(1220)
嘉禄元年(1225)

安貞二年(1228)
寛喜二年(1230)

寛喜三年(1231)
貞永元年(1232)
天福元年(1233)

天福二年(1234)
文暦元年(1234)
文暦二年(1235)
嘉禎元年(1235)
嘉禎三年(1237) 延応元年(1239)

仁治二年(1241)
仁治三年(1242)



寛元四年(1246)


建長元年(1249) 建長二年(1250)
建長三年(1251)

建長四年(1252)

12歳受戒 27歳『因明大疏私鈔』9巻、『因明相承秘密抄』1巻を草す。 32歳5/20最勝講の聴衆を務む。 『最勝講問答記』(宗性書写)に戒掾u廿一」とある。 35歳10/22最勝講聴衆を務む『最勝講問答記・民経記』 37歳10/10維摩会講師を務む『維摩会講師研学堅義次第・三会定一記』「良通大徳卅七」 38歳居住竹林寺 39歳5/10最勝講の講師を務む。 同年竹林寺遁世『最勝講問答記・民経記』 40歳5/19季御読経に請ぜらる『民経記』興福寺光明院良遍己講『弥勒如来感応抄草二』『維摩会問答記九』『禁断悪事勧修善根誓状抄』『維摩会問答記九』 41歳1/  良遍が宗性に書籍を送る。 同年10/10維摩会の聴衆を務む。 42歳8/11良遍が宗性に書状を送る。 同年10/15維摩会聴衆を務む。 44歳1/13少僧都に任ぜらる(『類聚世要抄』) 46歳2/21宗性、勝願院良遍の元に移住。 同年11/25九条道家受戒時、羯磨を務む。(『延応元年記』) 48歳1/法印に叙せらる(『類聚世要抄』) 49歳3/24『法相二巻抄』を草す。 同年6/20生駒竹林寺に入る『因明相承秘密抄』の奥書に「仁治三年御籠居竹林寺」とある。 同年9/23宗性、竹林寺に参篭。 53歳3/11 大和竹林寺良遍、東福寺に来る。『東福寺誌』 4/10白毫寺草庵『菩薩戒通則二受鈔』の奥書記す。 同年 普門寺における円爾の「宗鏡録」の講を聞く。 56歳5/7西大寺四王堂の釈迦像供養の導師を務む。 57歳『通受軌則有難通会抄』奥書に「沙門蓮阿〈本名良遍年五十七〉」 58歳『奥理抄』の奥書に「沙門法界生〈生作五十八〉」 生駒草庵『念仏往生心記』同11/28遺誡 59歳8/28寂す。 11歳
















48歳『仏事説経』施主段










58歳
22歳





48歳 居住竹林寺




















69歳
注)(a)59歳説1194生、通受軌則有難通会抄(1250)、奥理抄、民経記、三会定一記、招提千歳伝記(1701)、 (b)58歳説1195生、蓮阿菩薩伝(1710)、信願上人画像賛 (c)69歳説1184生、浄土法門源流章(1311)、律苑僧宝伝(1687)、本朝高僧伝(1702) 3 住持職の系譜 (C)『竹林寺略録』は寂滅について「寂滅上人創興有レ功。仏像塔廟由二彼営作一。往還奔馳。創二 開荒途一。其後漸々衆錺周備。…(円照上人)後受二寂滅上人之譲一、住二持寺院一…」とあり、竹林寺 は寂滅上人が創興し、その後、円照上人に竹林寺の住持を譲ったとする。そして、第三代の承継者 は、時期は不明であるが、「円照上人之後。忍空上人住二持寺院一。」とされ、寂滅→円照→忍空の流 れで竹林寺の住持が承継される。ところが、表10のとおり、『招提千歳伝記』中にも、竹林寺の住持職 が記されている。 表10 竹林寺歴代住持職
略録招提千歳伝記住持職期間の推定(中尾)円照上人行状備考
一代寂滅一代良遍1235-1256寂滅寂滅生馬大聖竹林寺信願?律師
伝『律苑僧寳伝』
二代円照二代円照1257〜1259-円照の死後円照
三代教願1270年代末-1280年代
四代 ―
三代忍空五代忍空1280 -1290年代
表11 竹林寺歴代住持職
慈行/覺照/性尊/淨林/實尊延徳三年二十五日住二持竹林寺一 淨空/淨珠/道恩/性譽號二永俊一 /蓮密/聖明/教願/了一/圓如/教覺/教悟/實恩/專恩/観律/春源/清然/淨林/實相/本性/圓戒/空智/真賢/照恵實相以下伝有レ之阿一號二如縁一興正菩薩之徒也傳見二僧寳傳一明観號二禅明一爲二竹一
慈行巳下雀林中興本願一也巳上諸公皆為二竹林第一座一也
注1)『招提千歳伝記』下之三「連名篇」 注2) 雀は、草冠がついた字であり、「竹」の意を表すか。 注3)/は筆者挿入。  ここには、二代目円照と第三代の教願、第五代の忍空が明記される。第四代は不明である。また、 寂滅の竹林寺住持の記載がなく、第三代の「生馬山竹林寺教願律師伝」、第五代の「室生寺中興忍空 律師伝」と併せて、「生馬山大聖竹林寺信願遍大僧都伝」・「戒壇院実相照律師伝」の記事がある。 竹林寺の良遍に法相を学んだのが円照であり、円照は、生馬山竹林寺を中興し、居住したとされている ので、『招提千歳伝記』からは、(初代)良遍→二代円照→三代教願→四代(不明)→五代忍空の流れが 推定される。竹林寺の草創或は中興の寂滅と良遍の位置が入れ替わるのである。  表11のとおり、『招提千歳伝記』下之三連名篇に「竹林寺歴代住持職」の歴代が記名されている が、残念なことに時代と系列が分からない。その中に「明観号二禅明一」とあり、竹林寺の系統に明観 (禅明)がいるが、この明観あるいは禅明が寂滅のことを指すかは不明である。  また、明観の名は、『本朝高僧伝』巻第五十八「京兆泉涌寺沙門智鏡伝」に智鏡の字名ともされ、同巻 第六十「和州戒壇院沙門円照伝」には、「生馬山大聖竹林寺主明観滅公」とされ、両高僧伝の入滅の 月日が一致するので、両高僧伝は、寂滅と智鏡が同一人であるとする意味を含んでいるものと思われ る。しかし、智鏡は、暦仁頃(1238-39)から六年間宋国に留学し、帰国時26歳とすると、文暦当時10代 半ばであるので、行基廟開掘に指導的な役割を果たす寂滅像とは一致しないから、二つの高僧伝の 智鏡と寂滅は、明観の名と示寂の月日が一致しても結びつかないこととなる。  なお、空智(真空)の後に記される真賢は、『竹林寺略録』を永享十年に書写した眞賢と同一人かも知れ ない。また、空智(真空)の前の實相は、円照か。  以上のことから、『竹林寺略録』及び『東大寺円照上人行状』に記載される竹林寺住持職三代より、『浄 土法門源流章』に裏付けられる部分がある『招提千歳伝記』の細かい住持職五代が正統と推定すると、 竹林寺の再建に奔走したとされる寂滅の時間的位置は、良遍及び円照に代替されることになり、寂滅の 存在そのものが疑わしいことになる。  以上、『竹林寺舎利瓶記出現注進状(唐招提寺保管)』の信憑性を否定する論理を展開する過程におい て、寂滅の実在が疑わしいものであることを確認した。そして、『竹林寺舎利瓶記出現注進状(唐招提寺 保管)』と関連して、寂滅の存在と合わせて行基舎利信仰の拡大の役割を果たす『竹林寺略録』にも作 為混入の可能性を見いだすので『竹林寺略録』の史料批判が必要である。 三 『竹林寺略録』史料批判 1 二つの『竹林寺略録』  凝然の『竹林寺略録』には唐招提寺保管のものと菅原寺保管の流布本(大日本仏教全書)がある。 表12 二つの『竹林寺略録』の比較
行基墓所奥書保管返り点振り仮名その他
竹林寺永正九年
(1512)
唐招提寺少ないピリオドなし
(C)往生院延享四年
(1747)
菅原寺有りトコナツ
ハジメテ
ピリオド有り
[傍朱・傍・考]有り
 二つの『竹林寺略録』は、どちらも凝然が嘉元3年(1305)に著したものだが記載内容に大きな 差異があり、それは行基の墓所を竹林寺と往生院に分けることである。 表12を見る限り、奥書きの年代及び返り点、振り仮名、ピリオドの有無、追記の形態からは唐 招提寺本が旧いものと考えられる。  千田稔によると「行基の墓所 生駒市有里にある竹林寺は文殊山と号し、律宗。今は無住である。 中国の五台山にある文殊の霊場、大聖竹林寺にその名を負うという。…竹林寺とともに その東南に ある輿山の往生院についてもふれておかねばならない。墓所が掘られて七○年ほどのち、嘉元三年 (1305)に、東大寺の僧凝然によって書かれた『竹林寺略録』によれば、行基の遺言によって、遺 体は菅原寺から輿山の往生院に運ばれたという。さらにこの『略録』は次のように記す。遺骨も同 院に納められ、四月には行基自作の影像もここに安置された。往生院は竹林寺の奥院とも号し、金 棺をおさめたことによって輿山という。毎年二月二日の命日に大法会が絶えることなく営まれ、遺 骨を瓶に納め、多宝塔を建てて安置する。しかしながら、行基の墓所は、文暦二年にそこが掘られ た時に書かれた「縁起」にしたがって、竹林寺にあったとみるのが自然であろう。 この問題につい て前園実知雄氏は、「略録」には流布本(『大日本仏教全書』寺誌叢書第三)より二三○年前に書写 されたものが唐招提寺にあり、それには往生院に関する部分が全く欠けていることから、流布する 底本が書写された際に加筆されたとみなし、行基墓と往生院との関連性はなく、現在の行基墓の地 で矛盾がないという結論を導いている。(注69)」とするが、第一章のまとめ(6 遺骨出現記の信憑性) のとおり、寂滅の竹林寺草創に疑問を呈して「縁起」の信憑性は否定した場合、「縁起」を根拠史料と して行基の墓所が竹林寺にあったとは主張できなくなる。 ・『竹林寺略録』流布本の矛盾点  前園実知雄は、「『略録』のあげる遺誠では、遺体は菅原寺→往生院→生馬山竹林寺之東陵を経た のであるから、往生院の地興山こそ火葬の場所であり、生馬山の東陵、即ち竹林寺は遺骨を納めた 基所である。ところが『略録』は、他方では「生馬山之東陵」で火葬し、遺骨は往生院に納めたこ と、往生院は「竹林寺之奥之院」と号されたことを記している。遺骨は竹林寺墓所から発見された のだから凝然の記すところは矛盾している(注70)」と吉田靖雄の論を引用するが、吉田靖雄が「往 生院の地輿山こそ火葬の場所であり、生馬山の東陵、即ち竹林寺は遺骨を納めた墓所である。(注 71)」とすることは行基の遺誡から読み取ることはできないであろう。吉田靖雄、前園実知雄が指摘 する『略録』の中にある矛盾点は、史料の読み取り方の問題であり、なんら矛盾するものではないと 考える。ただ、行基廟の発掘前後に竹林寺が成立したと想定するならば、遺誡の中に「生馬山竹林 寺の東陵」の表現を用いることは行基の言葉として不適切であり、作者の創作が含まれているものと 思われる。その結果として、齟齬を来たしているのである。また、年代の古い唐招提寺本に記載のな い往生院が流布本に加筆されたと想定されていることについて、往生院は架空の存在ではなく、現在 も地元の惣墓の中に堂が存在しているから、実在の往生院と行基の関係を整理する必要があり、ま た、流布本と唐招提寺本の内容の比較検証を行う必要があろう。  他方、細川諒一は、『竹林寺略録(菅原寺保管・大日本仏教全書寺誌叢書第三)』を前提にして「寂 滅らによって開掘された行基の墳墓があったのは輿山往生院の地であり、行基の託宣のあった慶恩 もここに庵をかまえていた。そして開掘後、出現した舎利器は、開掘運動指導者である寂滅の草庵に 移され、ここがその後行基信仰運動の中心となって竹林寺が成立し、従前の行基廟の輿山は竹林寺 奥の院とされた、と。この長谷川氏の考えは、竹林寺と輿山往生院の関係を矛盾なく説明しうるもので あり、私もこれを支持したい。 (注72)」と、長谷川嘉和の論を引用して、往生院を行基の墓の所在とす ることに賛意を示しているが、こちらも流布本と唐招提寺本の内容の比較検証をなされた上での論とは 思えない。行基の墓所は竹林寺と往生院のどちらが正しいのであろうか。そして、Cと(C)のどちらの『竹 林寺略録』が凝然の著した『竹林寺略録』に近いものであろうか。  この結論を求める前に、二つの『竹林寺略録』の成立過程を考察していく。 2 二つの『竹林寺略録』の比較検証 (1)奥書の考察と先後の検証   表13のとおり、流布本は、菅原喜光律寺の寂照が招提寺教学院に蔵されていた寛保二年(1742) の奥書がある律宗戒学図書『生馬山竹林寺縁記』の抜書きを、延享四年(1747)に書写したものとさ れる。唐本には永正九年(1512)に「当寺楽○坊」に於いて正秀覚命の奥書がある。年紀から見ると、 唐本は流布本より二百三十年前に写された文政八年(1825)の年紀が見えるので、底本としては明ら かに唐招提寺本が優れているとされる(注73)が、年紀が事実であり、そのままの実態を示しているか の実証は難しいところがある。  二つの史料は、記載される内容及び奥書がそのまま当時を反映したものであり、それぞれの奥書 が信頼できるものならば、当然のこととして時代的には唐本が古いものになるが、往生院の有無 など内容に大きな差があるので、どちらが原本に近いものかを検証しなければならない。ここでは、 一旦奥書の部分を保留して、本文の先後を検証する。 表13 『竹林寺略録』等の奥書
略録唐本C嘉元三年乙巳同[閏]十二月二十四日沙門凝然記之 永正九年壬申六月廿七日 於当寺楽○坊書写  正秀覚命四十六 亥廿五 忍性#応長元年七月十二日御死去応永九年壬午七月十二日 御百年忌当招提戒壇両寺皆請於本堂ニ梵納講讃有リ 招提寺ヨリ僧衆四十三人戒壇ヨリ廿人日記在別  永正七年午庚七月十二日二百年忌ニ当ハ也  嘉元三年与文政八迄五百十三年  永正七年与文政八年迄三百十六年 (後略)
行基菩薩事蹟記E奥書なし。ただし、唐招提寺に保管されている「同(行基菩薩) 御廟子細注進状」には、ほぼ同時期に作られた「行基菩薩起文遺戒状」合三巻 同 舎利瓶記   この第一巻にのみ奥書がみえる。永享十年七月八日写之了 眞賢とあり、永享十年(1438)書写されたものであることが知られるが、現在の所、真賢に関しては明らかではない。しかし、第二・三巻の筆致が同じであり、いずれも真賢の手に よって書写されたものであろう。(安倍嘉一「大僧正記について」『文化史学』38号、111頁。)
略録流布本(C)嘉元三年乙巳閏十二月二十四日沙門凝然記レ之 [傍朱](国師諱凝然。以下省略) 右竹林寺縁記一巻。先年拝見之処。今爾借二得于招提寺教學院一。以二老眼一写レ之。聊令法久住之志而已。又此中喜光寺縁由。自然顯焉。以爲二規模一。 ? 延亨四年丁卯四月二日辰刻 南都菅原喜光律寺 住持寂照謹書 此時於二東大寺一行基菩薩一千年忌〔[傍朱]実ハ来辰年也〕法事。自二三月廿四日一至二四月八日一修行 考律宗戒学図書本生馬山竹林寺縁記抜書奥書云。告寛保二壬戌年二月十三日書写終。令法久住。且知寺院之故実。 開山祖師建立之素意之源在于斯而巳。 菅原喜光寺會下覚円
円照行状于時正安四年壬寅三月六日於東大寺戒壇院記之遺弟沙門凝然春秋六十有三也予年三十八値先師之寂経二十六年今至此齢生涯不幾奄化在近願生安養早見先師耳 右円照上人行状三巻然公親蹟在東大寺戒壇院不許他人見之吾師連年懇求今歳幸猟借覧命余写之以備僧史之藁也貞享元歳次甲子孟夏十四日 師點謹識
遺骨出現事D正平七?潤二月十一日於生馬山大聖竹林寺、彼寺縁起取要抄書之、数日之間、居住当寺、是併宿縁之令然之故歟、仰信尤深、値遇不浅、菩薩加被、速成微願矣  権少僧都杲宝   (後筆)延享四丁卯歳七月初八修復了、予先年大和国巡行之砌、詣竹林寺、拝古寺、切想像古師之消息了賢賀住 世六十四
(2)本文の先後の検証  唐本C『竹林寺略録(唐招提寺保管)』と流布本(C)『竹林寺略録(大日本仏教全書)』との比較では、 表14のとおり、後者の方が誤字等は少ない。一般的に転写を繰り返されることによって誤字等が 増えることを道理とすれば、誤字等が少ない史料はより古い時代に属するものと思われる。  また、明確に誤りが確認できて誤りを正しく訂正するより、多くの誤りはそのまま転写する場合の 方が多いと思われる。流布本が唐招提寺保管本に拠るものであれば、同様の誤りが繰り返され るはずであるが、流布本は正しく記載されている部分も多いことからすれば、流布本が直接に唐 招提寺保管本に拠るものと考えることはできない。しかし、流布本(C)は、唐招提寺教學院本を転 写したから、唐招提寺には往生院の記載のある『竹林寺略録』が存在した可能性がある。しかし ながら、凝然の記したとされる『竹林寺略録』の元は一つであるから、少なくとも一つは内容が改 ざんされているものと見做すことが出来る。 表14 『竹林寺略録』の比較      誤異字、空白、脱字(略) 表15 書き換え及び誤記等
書き換え誤記等
唐本C
1512
文殊菩薩、 真知守サダトモ、菩薩先考、和泉大村、芳年、 御瓶記十七年、云々、八年、当高多和尾、重々遮場担中々門、弘通、
流布本(C)
1747
文殊之化現、貞知者、菩薩之父也、後分為国、菩薩年、考以下55字(往生院に関する部分を含む)、書之、戊辰、高多尾和、重重庭場坦々中門、引弘、
注1)「四聖同心の一」四聖信仰は東大寺の再建の勧進を行うときに、四聖から始まる。 注2) 唐本が文暦2年とするところを仏全本は文暦3年とする。文暦3年はないが、この誤りは、宗性の著作にも    見られる。 (3)往生院部分の記載  表15のとおり、唐本には、往生院に関する部分が全く欠け、これによって、往生院を行基の埋 葬地とすることは後の付記とされる見解があることは前出のとおりである。  『竹林寺略録』原本に往生院の記載があったのか、或は、原本に記載が無く、後日にその部分 が追記されたのか。この検証は、行基の墓の所在を考える上で大事な事柄である。 唐招提寺本Cは、「作一巻書遺戒弟子。春秋八十有二。同月八日火葬生馬山東陵。是依遺命也。 遺骨納瓶。建二多宝塔一而安二置之一。…」とするが、流布本(C)は、「作一巻書遺戒弟子。」の 後に、「吾為死時者遺体入往生院従彼院可葬生馬山竹林寺之東陵…而即」「春秋八十有二。… 是依遺命也。」「哀哉痛哉。…復」「遺骨納瓶。…」と続く。 表16『竹林寺略録』の比較 >>
唐本C(前略)同年二月二日夜半 於二菅原寺東南院右脇而臥 奄焉(日□)圓寂。作一巻書遺戒弟子 春秋八十有二 同月八日火二葬生馬山東陵一 是依遺命也 遺骨納瓶 建多宝塔而安置之…
流布本(C)(前略)同年二月二日夜半。於二菅原寺東南院一。右脇而臥。奄焉圓寂。作二一巻書一遺誡弟子一。 《吾為レ死時者遺體入二於往生院一。従彼院火葬生馬山竹林寺之東陵一。任二遺誡一。御死骸自二菅原寺一奉入二輿山往生院一。翼従之弟子有二千有餘人一。悲嘆落涙。而或有二血涙流人一。而或有二血汗流人一。或有二地臥血吐人一。宛不レ異釋尊入滅一。各々押二悲涙一。而即》 春秋八十二。同月八日火二葬生馬山之東陵一。是依二遺命一也。 《哀哉痛哉煙昇二東岱一成レ雲。満二紫雲虚空一。奪二日輪輝一。三日之間薫二異香一如二沈麝焼一。諸人哀憐之聲響二六趣一。吼二孤狼野干輩谷底一。鳴二鶯鴉飛鳥類梢上一。道俗男女捧レ花来。貴賤老若濕レ襟集。山木變レ色似二鶴林一。傍沙羅雙樹青嵐吹而増二悲聲一。終綴二於遺骨一。而是納二往生院一。七々日之勤行為二巍々歴々一。而如二霊山會上説法一。然會同年四月御作之影像。於二往生院一安二置之一。号二竹林寺之奥院一。又依奉納二金棺而名二輿山一。日々之勤行無退轉。是為二例年之作法一。而毎年二月二日修二行大法會一。于レ今不絶。御輿之役者。齋戒一搏搦揀券V。委細如二別記之一。復》 遺骨納レ瓶。建二多宝塔一而安二置之一。…
注)唐本にない部分は、《 》で示した。  唐本Cは、「弟子に遺誡する書を作る」と「遺命により火葬する」の二つの文章に挟まれた「春秋 八十有二」の存在が不自然である。流布本?のように、「春秋」の前に「…而即」、「遺骨納レ瓶」 の前に「…復」を置く方が繋がりは良いし、二つの部分を挿入する方が流暢である。また、流布本 ?は、唐本の「弟子に書一巻を残す」という遺誡の内容部分であり、その記載については自然で あろう。但し、遺誡の内容は、「同月八日火葬二生馬山之東陵一、是依二遺命也一」とするのは、 行基の舎利瓶記とほぼ同文であり、「生馬山之東陵」の表記は、『行基年譜』とも同一であるから、 それらに拠ったものと思われる。  流布本?は、文飾はあるものの、火葬とその後の供養を具体的に述べているので、文章の流れ について、特に不自然さは感じられない。また、加筆とされる部分は、往生院に関する部分だけで なく生駒山の景観・自然描写に係るものが含まれており、前部の表記と相通じるものがあり、流布 本が明確に加筆したことを示すより、むしろ唐本が往生院部分や生駒山の景観・自然描写を削除し たことが窺えそうである。唐本は、永正九年(1512)の奥書があるが、本文と同一の書体であるとさ れている。(注74)唐本→○→流布本の流れであれば、唐本Cの多くの誤字等や永正九年の奥書 がそのまま流布本(C)に転写される可能性が高いものと思われるが、流布本にはその奥書がない ことや誤字でなく正しい表記が多いことから、唐本とは別の史料を転写したものと考えられる。 ・唐本にない部分  米山孝子は、行基講式は、『竹林寺略録』と似たところがあり、凝然が候補者の一人と考えている。 (注75)  行基菩薩縁起図絵詞とも似る表記がある。「金棺」は、行基菩薩縁起図絵詞の「菩薩御廟第三十七  二月八日欲レ定荼毘之陵墓一依レ受二遺命於獲麟床一奉三遷二二起龕於生馬山一薪檀為二紫 煙一金棺化二素灰一貴賎雲集 緇素星羅得二其益一者踊レ虚而撃レ煙惑其別一者伏レ地而拾二灰 一此地是山嶽之神秀也 滅後當四百八十六年呈御舎利出現之奇特一委住(細カ)見二別記一矣」と ある。  行基菩薩縁起図絵詞は、序に「正和歴執叙歳右筆以敬序」とあるから、正和五年(1316)成立のもの と見做されている(注76)から、其の時点で、「金棺」に入れられたまま火葬されたことが記され、その御 舎利出現之奇特の状況を記した「出現記」が別にあることが知れる。これは、唐本が転写される永正九 年(1512)以前のことであり、「金棺」のことを記した舎利出現記の存在を裏付けるものであり、流布本が その内容を踏襲していると考えられる。従って、流布本が往生院を墓地としたことは、唐本以後に追記さ れたものでないことが分かる。 (4)書き換えの問題と作為性 『竹林寺略録』の書き換え  次に、書き換えの部分はそんなに多くはないが、特に目立つのは、行基の出生に関する部分であ る。流布本は、「人王第三十九代天智天皇御宇七年戊辰菩薩誕生」とするが、唐本は、「人王第三十 九代天智天皇御宇七年八月菩薩誕生、年号白鳳八年也」とされている。「戊辰」と「八月」が入れ替 わっているのは、何故か。ひとつには、単純に「戊辰」を「八月」と誤写したことが考えられるが、 画数が違いすぎるから単純な転写誤りとは考えにくいところがある。舎利瓶記には「八月」の記載 はなく、その他の行基の伝にも行基の出生の伝に月まで細かく書いたものは一つとしてなく本書の みである。逆に「戊辰」とされるものは、行基菩薩伝をはじめ多くある。従って、流布本と唐本を 比較するならば、流布本が原型を保つ奥書年紀の記載と先後が異なって、後出性は唐本にみられる。 しかも唐本は、行基誕生年の「戊辰」を「八月」に変えたのであり、それが単なる誤写と考えるよ りは作為の可能性が高い。(注77)  唐本の作為は、奥書で忍性の没年を応長元年(1311)とする。実際の忍性の没年は嘉元元年(1303) で、その2年後の嘉元三年(1305)に『竹林寺略録』を著した時点では、忍性は生存していたこと を装うことになる。これは何故なのか。 忍性の舎利瓶を納める石筒を八角形にした墓の装置は、開掘された行基墓を模倣したものと指摘 される(注78)が、実際は逆に出現記が忍性墓から行基墓の装置を創作したものと考える。忍性の 八角形墓の意匠は、叡尊が西大寺に建てた八角形塔の例があり、それから発想したものと想定 する。(注79)ならば、行基墓の開掘を記す『略録』が書かれた時点で忍性が入滅しており、八角形 石筒の墓が既に存在したことは隠さなければならないことである。その理屈であれば、寂滅名の 行基遺骨出現記は、文暦二年(1235)の年紀があるにしても、実際は忍性の没後の嘉元三年 (1303)以後に創作されたと判断しなければならない。 (5)比較検証結果 表記の分析から、唐本における往生院部分の脱落など流布本と唐本には表記に大きな違いがある。  流布本は、より新しい年紀であるが、唐招提寺本を直接写したものではないと考えられる。そして、 流布本が寛保二年(1742)書写本の内容を引き継いだことを首肯すると、唐本とは別系統の『竹林寺 略録』が存在したと考えられる。そうであれば、流布本転写時の延享四年(1747)には流布本の底本 となる寛保二年書写本と永正九年(1512)書写の唐本の二つが唐招提寺に存在したことになるが、 果たして、唐招提寺に往生院の存在について内容が異なる二つの『竹林寺略録』が同時に存在した のであろうか。また、誤字等が少ない史料は一般的に古い時代に属するものと思われるから、流布 本は唐招提寺保管本より時代が古いと考えることができる。 これらを論理的に考えると、唐招提寺に内容が異なる二つの『竹林寺略録』が同時並行的に存在し たと考えるより、唐本は、流布本転写後に作成されたが、奥書の年代を遡らせた、或いは奥書き以 後に往生院の部分を割愛した別物が作成された可能性が考えられるのではないか。そして、「往生 院」に繋がる「金棺」のことが書かれた行基菩薩縁起図絵詞が正和五年(1316)に成立したことが知 れるので、往生院を墓所とする流布本の元本の方が唐本より時代が古く原型を保っていることが想 定できよう。 図2 竹林寺略録の流れ(略) 3 流布本の検証  翻って考えたときに、流布本の内容及び奥書に作為はないのだろうか。  表13のとおり、『竹林寺略録(流布本)』の奥書に「右竹林寺縁記一巻。先年拝見之処。今爾借 二得于招提寺教學院H以二老眼一写レ之。聊令法久住之志而已。又此中喜光寺縁由。自然顯焉。 以爲二規模H ? 延亨四年丁卯四月二日辰刻 南都菅原喜光律寺 住持寂照謹書」とある。 この奥書に不審なところがある。奥書によると、『竹林寺略録』は、菅原喜光律寺の寂照が書写す る前には、『竹林寺縁記』とされていたと読み取れる。 堀池春峯は「この略録は蓋し凝然自筆本では「竹林寺縁起」と称せられていたもの…」(注80)とす るが、凝然の著作一覧に「竹林寺縁起」と同名の書はない。(注81) 『竹林寺縁記』を冠する書は、竹林寺舎利瓶記出現を注進したことを記した寂滅の『生駒山竹林寺 縁記(大日本仏教全書)』があるが、『竹林寺略録』とは内容に大幅な相異がある。 考えなければならないことは、何故書名が違うのかということである。これは、凝然の著作一覧に ある『大聖竹林寺記』が広い意味で「竹林寺縁記」といえるかも知れないが、単に『大聖竹林寺 記』を「右竹林寺縁記」と誤表記し、『竹林寺略録』と改題したのであろうか。或は、南都菅原喜光 律寺の住持である寂照が、寂滅の『竹林寺縁記』を凝然の『竹林寺略録』として書名と内容を替 えたのであろうか。前者については、『大聖竹林寺記』を『竹林寺略録』と表記するのは余りにも 拡張しすぎと思われるので、後者を追及する。通常、転写者が書名及び内容を変えることはない ものと思われるが、寂照が書名を替えた可能性を考える。  『竹林寺縁記』或は「竹林寺縁記」である『大聖竹林寺記』を『竹林寺略録』としたことは略文 したこと、つまり内容が異なることを示唆し、本文にも「備録難レ尽粗二記梗概一而已」にも梗概 (大略)を粗記したとみえることと通じ、寂滅を名乗る者の手により改ざん作為が為されたとは考え られないか。これは、全面的な改ざんを想定すれば、凝然が『竹林寺略録』の名前の著作をしな かったことを意味するものである。 二つの『竹林寺略録』の内容には、菅原寺を行基四十九院の本寺とすることが含まれており、 これは行基の遺誡について菅原寺の立場を代弁するものであり、東大寺、唐招提寺に立脚した 凝然の立場とは少し違うものが見受けられる。延亨四年(1747)の時点では、南都菅原喜光律寺 の住持寂照が唐招提寺教学院から借り受けて竹林寺縁記を謹書したことは、竹林寺の焼失 (1498)後であり、菅原、秋篠の一乗院派が、大乗院派の竹林寺を焼いた約二百五十年後のこと である。(注82) 同時に同年の延享四年には、菅原寺喜光律寺縁起が作成されている。実際に、行基の墓が往 生院に存在したかどうかの是非は不明である。そして、唐本・流布本に菅原寺の立場に沿った 主張が見られることは、菅原寺本(流布本)を基にして、唐招提寺で年紀を遡り、往生院を削除し た唐本が作られた可能性が考えられないだろうか。そのように考えると、『竹林寺略録』全部が 凝然の名を借りて創作されたかもしれない。以下、流布本を凝然の著作かどうかを検証していく。 4 凝然の著作 (1)『竹林寺略録』  東大寺の僧凝然が何故『竹林寺略録』を書いたのか。中尾良蔵は、「竹林寺の草創と寺観、行基 と忍性の顕彰、この寺に関わる僧侶たちの仏教研究と尽力などを述べている。この書を記したのは、 師円照と竹林寺の関係を明らかにするという目的があったのは勿論であるが、彼自身も竹林寺で 講経や述作をしたからである。」とするが、実際には、『竹林寺略録』は、師円照の功績より実在が 疑わしい寂滅による草創の功績の方が大きな比重を占めると思われる。しかも、円照が願主となっ て行われた三回に渡る東大寺の行基舎利供養を書かないのは、何故であろうか。略録の中では、 遺骨の出現は、行基廟の開掘につながり、円照が行基供養を公にするのが憚れるようである。行 基の墓所として往生院の存在に重きを置いていることは、東大寺・唐招提寺系の凝然が著したと することに不審が残る。また、東大寺戒壇院を継いだ凝然ならば、師である円照上人の功績として、 数度に渡る東大寺に於ける盛大な行基舎利供養を強調したであろうが、そのことを記述しないこと に疑問が残る。竹林寺そのものより輿山の竹林寺奥院の往生院を行基の墓地及び行基供養の正 統を継ぐ場としていることは不審である。  凝然の撰述した書籍は、『戒壇院凝然所述目録』応安三年(1369)、『伝律図源解集下(貞享元年 1684成立)』(注83)及び『招提千歳伝記』巻下之三(1701)、撰述篇に記載されているが、その中に 竹林寺を冠する書物は『大聖竹林寺記』なるものはあるが、明和六年(1766)の時点で『竹林寺略 録』の記載は見えない。この『大聖竹林寺記』と『竹林寺略録』は同じものを指すのであろうか。 拙考としては否定的に考える。  果たして『竹林寺略録』は、凝然の著作であろうか。『竹林寺略録』は、嘉元三年(1305)に作成さ れたことになっているが、実際は時代が下って嘉暦(1326-1329)以後に作られた可能性がある。 表17 嘉暦の表記
史料表記備考
竹林寺略録(流布本)「勝宝嘉暦」『行基事典』嘉暦は文暦が正しいとする。
竹林寺略録(唐本)「勝宝ノ嘉暦」
東大寺円照上人行状上「弘長嘉暦」弘長・嘉暦間は65年。並ぶ意味は不明である。
東大寺円照上人行状中「弘長季暦」嘉暦を季暦とする。末の年弘長四年のことになる。
東大寺円照上人行状下「順徳天皇季暦」天皇在位の末の年号「承久」を指す。
注)勝宝(749-757)、文暦(1234-35)、弘長(1261-1264)、嘉暦(1326-1329)、天平勝宝元年は行基の没年。  表17のとおり、本文中に、「勝宝嘉暦」と「嘉暦」の文字が使用されている。この「嘉暦」の表記 について、『行基事典』は「勝宝より嘉暦(文暦が正しい)まで(注84)」とする。(文暦が正しい)では なくて、何故、「文暦(1234-35)」を「嘉暦」と誤ったのかを考えなければならない。二つの略録が 「嘉暦」を使用しているから、単なる転写誤りとは見做せない。「文暦」を「嘉暦」と書き誤まること は、「勝宝嘉暦」の前後に「文暦」の表記がある(注85)ことや「文・嘉」の字体が違いすぎることか ら、単なる不注意による書き誤りではない。『竹林寺略録(唐招提寺保管)』は、「勝宝ノ嘉暦」と 「勝宝」「嘉暦」の間に「ノ」の字を挟み込んで繕っている。これは、「勝宝」年間を「嘉暦(よき暦)」 とする意図であろうか。「今上御宇…暦レ年弥昌。然則勝宝嘉暦唯建二塔廟一安二置舎利一 …」とあるので、文脈からしても、「勝宝」年間だけを指すものでなく、行基没年の「勝宝」から「嘉 暦」までは、塔廟に舎利を安置するだけという意味であろうから、『行基事典』が「嘉暦」を「文暦 が正しい」とするように、「嘉暦」は年号とみて、「勝宝(行基の没年)から嘉暦(現在)までの間」と 理解するほうが妥当かも知れない。 「嘉暦」を転写誤りでないとするならば、嘉元三年の時点において、「嘉暦」の年号は未来の年号 に当たり、未知の使われたことのない年号が記されていることになる。二つの『竹林寺略録』とも に記載されているから追記とは考えられず、実際に『竹林寺略録』が書かれたときの年代が「嘉 暦」ではないか。『竹林寺略録』には「忍性菩薩」の表記が見られる。「忍性菩薩」の尊号は、忍 性の死後に弟子たちが使っていたとされるが、忍性の墓誌にはその表現はなく、延慶三年(1310) に極楽寺僧澄明が著した忍性伝『性公大徳譜』にも菩薩号は使われていない。 菩薩号は、忍性の死後二十五年後の嘉暦三年(1328)に後醍醐天皇よりを賜ったものである。 (注86) 菩薩号の私号は禁止されていた。(注87) 従って、「忍性菩薩」の尊号が一般に使われる時期 は「嘉暦三年」以後である。他方、凝然は、元亨元年(1321)に入滅しているから、嘉暦には世 にいないのである。このことから、『略録』は凝然が著したものでなく、その記述内容の信頼性 を担保するため、国師の称号を持つ凝然の名に仮託されて、嘉暦三年以後に作成された偽書 の可能性が高いと考えられる。寂滅の存在を肯定する略録は、「竹林寺縁起(出現記)」を補完 するものであり、『略録』を偽書とするならば、これに拠るところの出現記の信憑性が疑われるこ とになる。 (2)『東大寺円照上人行状』  次に、凝然の著作を比較検証する。行状の奥書(注88)から1701年まで行状記は世に出なか ったとされる。唐招千歳伝記巻中之二明律篇「戒壇院実相照律師伝」に「不レ行二于世一」と ある。 凝然の著作である『東大寺円照上人行状三巻』と『竹林寺略録』の二つの記を比較してみる。 先に述べたように、『竹林寺略録』は、「後受二寂滅上人之譲。住二持寺院一。」とし、『東大 寺円照上人行状』は、「復受二寂滅(明観)上人之譲。住二持寺院一。」と同じ表記をする。 もとより、両記は凝然の手によるものとされるので、『竹林寺略録』は、『東大寺円照上人行 状』の内容と同一であっても不思議でないといえる。『東大寺円照上人行状三巻』は、表18 のとおり、上巻に「門人凝然集」とあり、下巻に正安四年(1302)の年号が記されているから、 凝然が六十三歳の時に成立している。一方、中巻・下巻には多様な凝然名の表記が見られ、 凝然が客観視されているので、他者の手が加えられているものと思われる。『竹林寺略録』 の年紀は、嘉元三年(1305)であるから、その三年後である。『東大寺円照上人行状三巻』は、 凝然集となっていることは凝然が編集したという意味であろうか。特徴的なことは、凝然が編 集したにも拘らず、『行状中・下』の本文中の記載に第一人称でない凝然自身の名が随所に 見られることである。 表18 凝然の表記
出名数表記
行状上門人凝然集
行状中11@C〜EGJ凝然A門人小僧凝然B沙門凝然F門人凝然H維那凝然I示観房凝然
行状下@凝然A凝然之上足門人B凝然年十有九C今存在者…禅智、凝然,正願…等十餘輩也
 「門人小僧凝然」の表記は、続日本紀の「小僧行基」を想起させる。それを例外として凝然 に尊称を付すること、凝然の名が記される位置は他僧の中に混在し、本人の名を最後に置く 謙譲の表現を採用していないので、実質は凝然でなく弟子が書いたものを含むものかもしれ ない。また、円照上人の伝記としては、没年(1277)より時が経ち過ぎている。因みに、叡尊は、 正応三年(1290)八月二十五日に示寂したが、その叡尊の略伝を凝然はその年の九月十八 日に撰したのである。(注89) 叡尊は、示寂の十年後、正安二年(1300)に菩薩号を賜る(注90)から、凝然が叡尊を興正菩 薩とせず、上人とする『東大寺円照上人行状』を著した元の部分は、正安二年以前に著してい たのであり、奥書の正安四年(1302)と時間差があることは『東大寺円照上人行状』に弟子等 が追記した可能性を見出せる。特に、正安四年には、「先人門人逝者極多、今存在者…凝然 …等十餘輩也」と、凝然本人であれば書かない生存者に凝然の名を書くことが証左である。 (3)『浄土法門源流章一巻』その他 応長元年(1311)辛亥十二月二十九日の凝然著作の『浄土法門源流章一巻』(続群書類従 第202巻)を検証する。  『円照行状』『竹林寺略録』より年代的に後の史料である『浄土法門源流章一巻』には寂滅の姿 が見えない。また、『竹林寺略録』には「忍性」が取り上げられるが、忍性入寂八年後に書かれた 『浄土法門源流章一巻』に「忍性」が見えないことは両記の認識に差があると指摘できる。また、 良遍の竹林寺隠遁については先に示したように『浄土法門源流章一巻』と『竹林寺略録』の記載 内容が矛盾することになるので、『竹林寺略録』は凝然によって書かれたものでないことを補強で きる。  『浄土法門源流章一巻』には、「の」を意味する助字である「之」がほとんど使用されず「これ」と して使用され、構文としては四文字の語彙を基本としている。『竹林寺略録』は「之」が「の」として 多用されるので、二つの著書の書き手が同一人とは思われない節がある。 以上のことから、凝然は、応長元年(1311)に『浄土法門源流章一巻』を著したが、それ以前の著 作とされる『竹林寺略録』は凝然以外の他人の手によるもので年紀を遡り作成したものと考える。 因みに、凝然によって『円照上人行状略伝』が著されているから、それを加筆した『東大寺円照上 人行状三巻』が作られたとしても、その一部については凝然以外の弟子等の手により加筆して著 された部分が存在すると思われる。このことから冒頭の「凝然集」というのは弟子たちが書いたも のを含め凝然の名で編集としたことが考えられる。特に、『東大寺円照上人行状三巻』と『竹林寺 略録』の両記に共通する「寂滅」の存在が弟子等の追記の最たるものと思われる。 (4)『三国仏法伝通縁起』(大日本仏教全書)  行基の師承を二系統記す。行基の師を道照とする最も古い史料である。(注91) (5)『律宗瓊鑑章』(大日本仏教全書105)  「行基菩薩二随徳光禅師一、受二具足戒一者、即此事也」『竹林寺略録』に近い。 天平八年、菩提遷那でなく、唐道?の来朝を記す。大安寺に住む。 (6)『大聖竹林寺記』  『招提千歳伝記』の凝然の著作の一覧には、竹林寺に関したものは、『大聖竹林寺記』があるが、 『竹林寺略録』はなく、両者の関係が同一のものを指すのかどうかは明らかでないが、一般的に考 えると、異なる書名は別物であり、凝然が著作したのは、『竹林寺略録』はなく『大聖竹林寺記』で あったものと思われる。 (7)『興正菩薩略行状』奥書正応三年(1290)とあるが、興正菩薩の称号は正安二年(1300)に賜るの で、同書が作成されたのは、正安二年以後であり、正応三年は遡って書かれたことが想定できる。 (8)『太一卉木章』正応四年(1291) 『竹林寺略録』に似た風景描写がある。 ・行基の師承の記述  凝然は、『内典塵露章』などで、義淵の高弟として「行基菩薩」など七人の名をあげる。(注92)  応長三年(1311)の『三国仏法伝通縁起』以前の著作では、(行基が道昭に学んだことは)言及してい ない(注93)ことから推定すると、その後、凝然によって行基と道昭の関係について二人が同時代人で あることが再発見されたと思われる。  そして、凝然の『三国仏法伝通縁起巻中』には、「義淵僧正有二七人上足一…行基菩薩…」と「道 昭和尚授二法於行基菩薩一也」と二系統を記すようになるから、行基・道照の関係の再発見は凝然 の書とすれば新しいものと考えられる。『南都高僧伝(1326-29以前の成立)』は、「義淵、道昭、道場、 道慈、道鏡等一室弟子也」とされ、同じく玄ムも義淵の弟子とされるが、義淵の弟子には、行基の名 は見えないから、行基の師承は時代に応じて変化していく様子が見られる。 表19 凝然の著作の比較
道昭定照義淵徳光光信寂滅良遍忍性叡尊
××××明観法印×上人
×禅師僧正大法師
禅師
大法師上人法師
権大僧都
菩薩
××法師×法印権大僧都上人興正菩薩
和上
和尚×僧正
×法印官位居
法印権大僧都
上人 六十九
×上人・
興正菩薩
注1) A東大寺円照上人行状(1302)    B竹林寺略録(1305) 忍性菩薩号は、忍性没後、嘉暦3年(1328)に賜与された。    C律宗瓊鑑章(1306)    D三国仏法伝通縁起(1311)    E浄土法門源流章(1311) 注2)B竹林寺略録(唐本)は、寂滅・良遍の存在について、その他の凝然の著述と異なる。  ところが、ここで注目すべきことは、行基の師承として『三国仏法伝通縁起』においては、義淵 とともに道昭和尚とするが(注94)、 『竹林寺略録』は、徳光大法師、恵基法師、定照禅師、 義淵 僧正を挙げており、「道昭」と思われる人物を「定照」としていることである。 唐本は、「定一」とする。(注94)  『竹林寺略録』と『三国仏法伝通縁起』の同一人物の表記が異なることは、両記を書いた著者 が異なることを意味し、『竹林寺略録』が凝然の記述ではなく、別人が著したこととなる。これは、 他の証左と同一の様相を示している。  忍性菩薩についても『瓊鑑章』は、忍性上人として、菩薩号を使っていない。忍性菩薩号が嘉 暦三年(1328)以後に使われることは先に論じた。 「定照禅師・徳光禅師」は、『行基菩薩縁起図絵詞』(1316年成立)にも同じ表現が見られるから、 『竹林寺略録』と『行基菩薩縁起図絵詞』との関連性があることが窺われ、『竹林寺略録』の成立 は、嘉元四年(1305)でなく、1316年以後に下る可能性がある。 なお、「定照は、道照(道昭)の誤りかも知れない」とされる。(注95) また、『竹林寺略録』は、良遍について、他の凝然の著作にある法印を用いていない。 以上のことから、『竹林寺略録』は、凝然によって著されたとすることは否定される結論となる。 従って、『竹林寺略録』の記載内容全般についての信頼性には疑問が残るものと指摘しなけれ ばならない。 5 史料批判のまとめ  『竹林寺略録』流布本の特徴としては、往生院の立場が反映されており、行基の墓所を竹林寺と する唐本より、原本に近いものと考察した。 凝然の著作を比較分析するなかで、『竹林寺略録』の史料批判をしたところ、『竹林寺略録』は、 嘉元三年(1305)に作成されたことになっているが、実際は時代が下って嘉暦三年(1328)以後に 作られた可能性があり、その時点で亡くなっている凝然の記述とすることは否定される。 『竹林寺略録』が信頼できる著述であれば、行基の墓が往生院にあることは至極最もな理解とな ろうが、凝然は遺骨出現時には出生せず、『竹林寺略録』は実見におよんで記録したものでない。  それが凝然の名を借りた偽書であれば、『竹林寺略録』の信憑性が損なわれ、往生院を行基の 墓とすることもその信憑性が疑問視されるだろう。しかし、行基廟として存在した行基の墓は、往生 院にあったと信じられてきた伝承が存在したことまで否定できないであろう。(注96)  二つの『竹林寺略録』が作られた背景には、行基信仰を自派に取り込もうとするそれぞれの立場 に沿った思惑があろう。往生院・菅原寺の立場に立てば墓は往生院であるし、竹林寺・唐招提寺の 立場では竹林寺となる。この両方とも否定した場合、行基の墓の存在をどう考えるのか。  行基の墓・供養塔は全国に散在するから(注97)、竹林寺も往生院もそれらと同じ行基崇拝の伝承 を引き継ぐ寺院の一つと考えることが出来る。(注97)  結論として、略録に記載される寂滅は架空の人物と思われ、当然のこととして寂滅が記した注進 状も事実が疑わしい偽書と考えられる。そうすると、文暦二年の行基墓の開掘及び行基舎利瓶記の 発見も否定されることとなる。 結びに  遺骨出現記の信憑性を考察してきたが、文暦二年の行基の舎利瓶出現そのものが創作されたこと を疑わせるものと結論付けられる。  唐招提寺に保管されている『注進状』は、寂滅の原本ではなく、真賢が写したものであり、しか も菅原寺のものと別系統のものであり、さらには菅原寺保管の仏教全書本ものより後出性を孕ん でいる。『注進状』に記載されている、行基及びその母の託宣については当然信じられない作り事 であるうえに、「四百八十六」などの数字には作為を感じさせる。 また、『注進状(唐招提寺保管)』の舎利と『百錬抄』の嘉禎二年(1236)六月二十四日に開陳され たとされる行基遺骨の関係を考えると、大和国生駒山で発見されたものが遠く離れた平安京岡崎 の中山観音堂で公開される必然性がなく、行基舎利を北京へ移したなど舎利Bと舎利Cの二つを 関連付けて明確に説明した史料はないので、両者の舎利が同一のものとすることは慎重に判断 すべきであろう。  また、『百錬抄』には、行基菩薩遺骨と称する粉の如きものとするだけで、明確に行基の遺骨と断 定していないので、行基の遺骨開陳は事実とする根拠はないと考える。そして、行基遺骨の開陳の 期日も二年前の行基の託宣日と一致する不審点があり、出現記に作為が感じられる。  従って、『注進状(唐招提寺保管)』の信憑性に疑問がもたれると考える。 『竹林寺略録』には、忍性死後25年後の嘉暦3年(1328)に賜る忍性菩薩号が明記されている。  これは、『竹林寺略録』が成立した1305年以後のことである。嘉暦三年の時点では、凝然 (1240 −1321)は既に亡くなっており、『竹林寺略録』を凝然の記述とすることは否定される。  『竹林寺略録』は、その記述内容の信頼性を担保するため、国師の称号を持つ凝然の名に仮託さ れて、嘉暦三年以後に作成された偽書の可能性が高いと考えられる。  寂滅の存在を肯定する略録は、「竹林寺縁起(出現記)」を補完するものであり、この点からも出現 記の信憑性が疑われることになる。  そして、文暦二年の行基墓の開掘及び行基舎利瓶記の発見も否定され、事実では有り得ないこと となる。  最後に、竹林寺再興の功績を寂滅にすり替えられたことになる良遍の復権を期したい。 註 (1)大日本仏教全書寺誌叢書3所収(流布本)、表題に「生馬山竹林寺縁記」とある。 (2) 「(嘉禎2年(1236)6月)廿四日己酉。中山観音堂邊称行基菩薩遺骨。細瓶安置之。参詣之輩自   由取出之。如粉物云々。」国史大系本第十一巻『日本紀略/百錬抄』、吉川弘文館、昭和40年、181頁。 (3) 本多隆久「伊丹に於ける行基の社会活動を巡っての一考察」2009年。(奈良大学提出論文) (4) 上林直子「叡尊の行基信仰」『仏教土着』法蔵館、2003年、94−103頁。 (5) 長谷川嘉和は、「竹林寺の成立は行基の遺骨出現以後である。」とする。長谷川嘉和注(13)書215頁。   /「堀池春峯氏は、…竹林寺は舎利出現前からあり衰微していたのを寂滅が再興したごとく考えておられる…」同223-224頁。 (6) 堀池春峯、『南都仏教史の研究遺芳篇』法蔵館、2004年、720-721頁。 (7) 「阿不幾乃山陵記あふきのさんりょうき」『国史大辞典』第1巻、昭和54年、41頁。 (8) 上林直子注(4)論文105頁/赤松俊秀「南北朝内乱と未来記について」『鎌倉仏教の研究』平楽寺書店、1957。 (9) 上林直子(4)論文105頁。 (10) 上林直子(4)論文106頁。 (11) 「この骨臓器出現の経緯については、律宗の信如尼が夢告によって、法隆寺の蔵から天寿国曼荼羅繍帳   を発見した経緯と似る。(『民衆の導者行基』吉川弘文館、2004年、139頁。) (12) 藤井直正「行基の活動と足跡」『伊丹歴史探訪』第三章、FujiyamaNET。 (13) 細川諒一『中世の律宗寺院と民衆』吉川弘文館、昭和62年、45頁。 (14) 長谷川嘉和『日本宗教の歴史と民俗・竹田聴州博士還暦記念会編』隆文館、昭和51年、225頁。 (15) 長谷川嘉和、注(13)書212頁。 (16) 長谷川嘉和、注(13)書219頁。 (17) 千田稔『天平の僧行基』中公新書、1994年、6頁。 (18) 木下資一「行基菩薩遺誡考」『国語と国文学』57年12月、東京大学国語国文学学会、121頁。 (19) 長谷川嘉和、注(13)書217頁。 (20) 中尾良蔵『竹林寺の歴史・行基、忍性、円照たち』改訂・増補版、竹林寺発行、1998年、86頁。 (21)水野正好「叡尊・忍性の考古学」『叡尊・忍性と律宗集団』大和古中近研究会、2000年、4頁。 (22) 堀池春峰『南都仏教史の研究遺芳篇』法蔵館、2004年、718頁 (23) 堀池春峰 注(22)書、720頁 (24) 行基事典352-353頁。ここでは、A?の対照文が掲載されている。350-352頁。 (25) 行基事典353頁。頭注。 (26) 安部嘉一「唐招提寺『大僧正記』について」『文化史学』38号。1982年 (27) 『日本書紀』岩波文庫。異体字表六画「充」 (28) 唐招提寺には、奥書のない同名の「同(行基菩薩) 御廟子細注進状」が保管されている。そこには、ほぼ同時期   に作られた「行基菩薩起文遺戒状」「同大僧上記」「同 舎利瓶記」 合三巻 とあり、この第一巻にのみ奥書がみえる。   「永享十年七月八日写之了 眞賢」とあり、永享十年(1438)書写されたものであることが知られるが、現在の所、真賢   に関しては明らかではない。しかし、第二・三巻の筆致が同じであり、いずれも真賢の手によって書写されたものであろう。   (安部嘉一唐招提寺藏「大僧正記」について111頁。) (29) 井上薫『行基』吉川弘文館、昭和34年、11頁。 (30) 「天福二年、石塔第二繪級、舎利二粒、舎利二粒、東南二面、西北二方、第二柱、文暦二年、銅筒二面、文暦二年」   と「二」が十個と多出する。他の数字の頻度と比べると、「二」の多出は、何か意味がありそうである。   例えば、二重の意味を表すか。別に、「十二口僧、十二月」が二個ある。 (31) 前注参照あるいは、二粒は「ニリュウ」→「ニル」→「似る」から「似る舎利」が (32) 長谷川嘉和、注(13)書226頁。「現在も里人達は往生院の石造五輪塔こそ行基の墓であり、行基の舎利瓶はここから   発見されたと称している。」 (33) 木下密運「中世の念仏講衆」『元興寺仏教民族資料研究所年報』第三冊収所。また、行基舎利瓶の残片発見者の高瀬氏   も輿山から残りが見つかる可能性があると説く。 (34) 長谷川嘉和、注(13)書219頁。 (35) 日本古典文学大系84、永種安明・島田勇雄校注、岩波書店、1966年。 (36) 千田稔 注(16)書、6頁。 (37) 吉田一彦「行基と霊異神験」139頁。 (38) 細川諒一、注(12)書、45頁。 (39) 「行基の母は下級の帰化人」井上薫『行基』吉川弘文館、昭和34年、11頁。 (40) 『和州旧跡幽考』、『大和名所記』、『寛文大和寺社記』 (41) 舎利瓶の出現は、託宣の翌年であるから、正しくは入滅後486年である。また、菅原寺・大日本仏教全書『竹林寺略録』   は、舎利の出現を文暦三年とするが、1236年に該当するが、文暦三年は存在しないという大きな誤りを犯している。唐本は   この部分を修正する。 (42)『続日本紀』宝亀4年11月20日条。天皇が「年穀豊稔」を祈願した。 (43) 「出現記」には「四百八十六年也…繁昌の時至る。」とされるから、富と繁昌が結びつく。   「師保」は、『左伝(襄公30年)』に「師保其君」と使われ、君主を教え助けること。また、その人とあり、「師保」は聖武天皇を   助ける行基の姿を髣髴させる。   また、行基墓が開掘された「文暦2年8月25日」には、2×8=16(十六・富む)×25=400(四百・シホ師保)が秘められている。   『行基年譜』に「同年(天平十三年)六月十六日右大臣橘朝臣奉レ施二食封五十戸」とある。   ここでも十六日は食封を施される日、つまり、富む日になっている。   因みに、行基の大僧正補任は『続日本紀』では天平十七年であるが、『霊異記』では、「天平十六年秋十一月」となっており、   「十六(富む)」大僧正である。『和州旧跡幽考』巻第三「智光伝説」には、「金殿あり…あれはとよな行基菩薩の生れぬべき所   なり…」とあり、金殿・豊な・行基がセットとなる。 (44) 時代は異なるが、遠く離れた地から、分割された石器の発見が捏造された。 「袖原3遺跡(山形県尾花沢市)は、1997年、出土石器が約30Km離れた中島山遺跡(宮城県色麻町)の石器と接合し、…   話題を呼んだ。」(毎日新聞社旧石器遺跡取材班『古代史捏造』新潮文庫、平成15年、73頁。) (45) 『生馬市史』資料編T、昭和46年、84-85頁。 (46) 中尾良蔵『竹林寺の歴史』私家版、1990、14頁。 (46) 行基事典355頁。「託宣受けた慶恩との関係は不詳であるが、慶恩と同じく熱烈な行基の信奉者であった。   彼の文章からすると、彼の草庵は菩薩廟つまり今の竹林寺からやや離れた所にあったことが窺われる。」とする。 (47) 堀池春峰「行基菩薩遺骨出現記について」『天理図書館報ビブリア』19所収、720頁。 (48)『行基事典』355頁。/上林直子も「寂滅」は竹林寺僧でなく、唐招提寺僧であったのではないかと推測する。(上林直子、註(4)書、101頁。) (49) 『行基事典』355頁。 (50) 中尾良蔵『竹林寺の歴史』私家版、1990年、14-15頁。 (51) 中尾良蔵 注(50)書、17-18頁。 (52) 田中久男『鎌倉旧仏教』日本思想体系15、岩波書店、1971年、482-483頁。続けて史料を示す。「宗性中165頁。…宗性157頁。」とある。 (53) 「戒壇院実相照律師伝」394頁。「三巻行状今有戒壇院嗟乎惜哉不行于世」とある。 (54) 平岡定海『東大寺宗性上人之研究並資料』日本学術振興会、昭和35年、上423頁。貞永元年 (1232)9月17日条/中422/中681「宗性自去十四日俄立出尊勝院籠居当山畢」など。 (55) 北畠典生『信願上人小章集の研究』永田文昌堂、1987年、18頁。 (56) 山崎慶輝は、「逝去年齢について、五十七才、五十九才、六十八才、六十九才の四説が生ずるが、…」とするが、六十八才説は、   建長四年六十九才逝去とある史料をわざわざ竹林寺隠棲貞永元年四十八歳から計算して、六十八才とするから採用しない。   (『大乗伝通要録講読』永田文昌堂、1964年、11-12頁。) (57) 田中久男、注(52)書、480頁。 (58) 田中久男、注(52)書、487頁。 (59) 田中久男、注(52)書、481頁。 (60) 北畠典生、注(55)書、22-23頁。   元史料(山崎慶輝『大乗伝通要録講読』永田文昌堂、1964年、13頁。)では、「(良遍の逝去年齢は、)『通受軌則有難通会抄』   『奥理抄』の奥書を良遍の自筆とし、『三会定一記』の良通を良遍の誤りとすれば、五十九才説が正しいこととなり、…」と論を展   開するが、前段の仮定を前提として結論を導き出しているといえる。   そして、「…六十九才説は、はじめに『浄土法門源流章』が誤って六十九才としたのを、他の諸本がそのまま踏襲したことになる。」   とするのは、他の諸本が六十九才説をそのまま踏襲したならば、良遍の竹林寺隠遁を貞永元年ではなく、寛喜三年にしたであろう   から、他の諸本が「貞永元年隠遁」を明記するのは、別史料に拠ったものと思われる。   また、この論文の中では、凝然の『浄土法門源流章』を応長三年(1311)のものを慶長三年(1596)と、三百年近く時代を錯誤された   上での指摘であり、良遍没の五十九年後に書かれた『浄土法門源流章』の「六十九才」を誤りとする根拠はないと思われる。 (61) 『維摩會講師研学竪義次第』暦仁元年(1238)10月10日条に「細殿吹業宗性、定宗両人云々、細殿吹業事後菩提山大僧正御房   之時、良通良成(僧都:筆者加筆)両人御吹業云々」と、経歴等は不明であるが、宗性と同時代人に良通が見える。   平岡定海注(54)書、中5(538) (62) 田中久男注(52)書、487頁。蓮阿菩薩伝(1710)は、本朝高僧伝(1702)、招提伝記(1701)だけでなく、それ以前のものを無視して   いるので、誤りを正している根拠とは認められない。単に後年に著されたものが正しいものと考えることは、先後の事実を証明した   ことにはならないであろう。 (63) 田中久男注(52)書、481頁「良遍十二歳具足戒を受ける」これは、「嘉禎元年(1225)戒臈廿一」から逆算したと思われる。 (64)北畠典生『信願上人小章集』の研究』永田文昌堂、1987年、14頁。 (65) 島田大等、『日本仏教教学史』明治書院、昭和8年、231頁。「『因明大疏私鈔』9巻を著したことは、殆んど唯一の註釈書と云ふ   可きものである。」   「因明大疎私鈔」について、山崎慶輝は、「『因明大疎私鈔』九巻の如き難解な大部なものがある…」と表記する。(前出『大乗伝通   要録講読』永田文昌堂、1964年、17頁。)   また、「貞慶にも『因明明本鈔』十五巻、『因明明要抄』五巻があり、建暦二年(1212)から三年にかけて著されている。…」(前出   『信願上人小章集の研究』永田文昌堂、1987年、15頁。)として、貞慶との関連性が指摘されるが、貞慶がそれらを著した年齢は   五十八歳以後であるから、「難解な大部な書」を著したのは二十七歳の著作とするより、三十七歳の著作とするのが妥当と思われる。 (66) 良遍五十九歳説では、「『維摩会講師研学堅義次第』貞応元年(1222)には、「尊遍〈廿九、丹波入道〉」とあり、尊遍も同じ建久五年   の誕生となる。とすると、良遍の母親は開蓮坊では無い可能性が高い。」(野村卓美「中世仏教説話論考」和泉書院・研究叢書323、   369頁。補注?)としなければならないことになり、仮に異腹であっても兄弟が同年齢であるより、年齢差があるほうが実際であろう。   同書は、『名月記』の記事から、良遍の父を1159生とするので、父36歳の子が続くことは普通でない。   なお、『法勝寺御八講問答記』貞応三年には、「良遍、尊遍」の順で名が記されるので、長幼の順と考えると、良遍は、尊遍より   年長と考えられる。(『東大寺宗性上人之研究並資料』上212頁。) (67) 島田大等、『日本仏教教学史』明治書院、昭和8年、241頁。 (68) 日本大蔵経第35巻551~553頁。 (69) 千田稔13頁。/ 前園の説。「生馬山竹林寺と行基の墓」『考古学と生活文化』1992、684頁 (70) 前園実知雄『考古学と生活文化』森浩一編、同志社大学考古学シリーズX、1992年、682−687頁。 (71) 吉田靖雄『行基と律令国家』吉川弘文館、昭和61年、251-252頁。 (72) 細川諒一、注(12)書、 48−49頁。 (73) 中尾良蔵『竹林寺の歴史・行基、忍性、円照たち』改訂・増補版、竹林寺発行、1998年、17-18頁。 (74) 中尾良蔵、注(73)書、85頁。「本文の書体と…認められる。」 (75) 米山孝子『行基説話の生成と展開』勉誠社、平成8年。 (76) 家原寺蔵「行基菩薩縁起図」599頁。 (77)表記の似たものに、『行基菩薩縁起図絵詞』があり、「天智天皇御宇白鳳八年生戊辰託生」があり、「戊辰」を「八月」とするのは、   後出性が読み取れる。   招提伝記の中之二から下之三に四十八歳を八月二十八日とする書き換えがある。    ここに僧行基の真の姿を解く鍵が隠されているのではないか。「出現記」はなぜ行基の墓を忍性墓と同様な八角形にしたのか。   「八月」「八角形」「白鳳八年」とも「八」が一致するが、「八」は母方の「蜂田」姓にも通じ、「行基」と「八」を関連づけようとするよう   に思われる。 (78)前園実知雄、注(70)論文、684頁。「忍性骨蔵器の墓誌銘文は、行基骨蔵器のそれを下敷きにしていることはその内容から明ら   かで、文殊菩薩信仰を主とした忍性が文殊菩薩の化身とあがめられて行基を強く意識していた…」とあるが、私論は順序が逆で   行基瓶記は忍性瓶記を下敷きにして作成されたことを論じてきた。 (79)忍性八角形墓の意匠が行基由来のものでなければ、忍性の師である叡尊由来のものと考える。   「嘉禎4年(1238)9月、叡尊は、[西大寺に]八角五重石塔を建立している」水野正好、注(20) 論文、2頁。 (80)堀池春峰、注(49)書、719頁。 (81) 『招提伝記』巻下之三撰述篇[1701]435-437頁。、『伝律図解』下[1687]108-109頁。(大日本仏教全書105、54巻) (82)『大乗院寺社雑事記』明応7年(1498)8/6竹林寺炎上 (83)『伝律図源解集下(廷亨元年1684年成立)』大日本仏教全書105、昭和54年、108-109頁。 (84) 『行基事典』355頁。 (85)勝宝嘉暦の表記の前後に文暦の年号として、「文暦三年、三恐二年乙未…」がある。 (86)本朝高僧伝巻「和州極楽寺沙門忍性伝」「嘉暦三年夏後醍醐帝追二崇行徳一賜二菩薩号一焉」18頁。 (87) 神護景雲二年(768)仏・菩薩を人名となすことを禁止される。(永井義憲『日本仏教説話研究』和泉書院、2004年、46頁。) (88)『続々群書類従』第三巻史伝部、「円照行状」下 (89) 『日本大蔵経』「興正菩薩行状」 (90) 興正菩薩伝『群書類従』69『本朝高僧伝』『律苑僧宝伝』『僧官補任』 (91) 和田萃「行基の道とその周辺」『探訪古代の道』法蔵館,1988年、144頁。 (92) 速水侑『民衆の導者行基』吉川弘文館、2004年、20頁。 (93) 速水侑、注(92)書、2頁。 (94) 『生駒市史』資料編1、昭和46年、104頁。 (95) 『行基事典』305頁。 (96) 殿水清円『行基菩薩』西村護法館、1916年。/ (97) 根本誠二『行基伝承を歩く』岩田書院、2005年。 (参考文献) 『泉涌寺史 本文編』赤松俊秀監修、総本山御寺泉涌寺遍、法蔵館、昭和59年。 野村卓美「春日権現験記絵と詞書成立の背景」『中世仏教説話論考』和泉書院、昭和59年。 瀬尾満「奈良県生駒市有里の行基墓伝説」『二本松学舎大学論集』34-35、1991-92年。
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]

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