『行基年譜』の地名表記について



 はじめに
 
  『行基年譜(以下「年譜」とする)』は、安元元年(1175)に和泉高父宿彌により、編纂されたもの
であるが(1)、他方で改ざんや多くの追記が指摘されている。
 その中で、「天平十三年記」は、公文書の様式に則り作成されているものであり、信頼性が高い
とされている(2)。
  「年代記」についても、一定の信頼を置けるという説がある(3)。
 「天平十三年記」と「年代記」の地名表記は、奈良時代の地方行政制度の変遷に拘らず、国郡
以下の「郷里村」が混在している。年譜の地名表記については、先学の研究があるが、行政制
度に即さない「村」表記が存在すること及び「郷里村」の混在については、考察が不十分と思わ
れる。
 また、年譜には和泉を中心とした地域の表記が改められたり、時代にふさわしくない地名表記
が使用されており、記載に混乱が見られる。
 年譜における地名表記の特徴的なことは、「里」中心の「天平十三年記」と「村」中心の「年代記」
に分かれることである。表記の少ないものを挙げると、「天平十三年記」には「村」が一例、「年代
記」には「里」が五例ある。年譜全体の記載が統一されていないのは何故なのか、年譜の地名表記
を考えたとき、行政制度に即さない「村」表記が何故存在するのか、そして、「郷里村」が混在する
のは何故なのかを『日本霊異記』など他史料の地名表記と併せて考察する。

一 奈良時代の地方行政制度
 奈良時代の地方行政制度の変遷は、大きく三つの区分に分けられる。
  A 里制(郡里制)  国郡里       大宝元年(701)〜霊亀元年(715)  
  B 郷 里 制      国郡郷里    霊亀元年〜天平十二年(740)   
  C 郷   制      国郡郷       天平十二年〜         
 大前提として、A里制(郡里制)とC郷制の三段階表記とB郷里制の四段階表記の二つがみられる。
 大宝律令の戸令第一条は、「凡そ戸は、五十戸を以て里と為せ…」とし、地方行政組織は、国―郡
の下に里を置き、五十戸をもって一里を構成する制度が採用された。これは、大化の改新の詔にみ
られる、「凡そ五十戸を里とす。里毎に長一人を置く」を引き継ぐものである。そして、霊亀元年(715)
になって令制の里制(郡里制)を改めてB郷里制を実施した。これは、『出雲国風土記』総記による霊
亀元年の式により実施時期が判明するものであるが、鎌田元一は、郷里制は霊亀三年から始められ
たことが判明する(4)という。郷里制は、元の里を郷と改め、一郷を新たに二ないし三の里に分割して
郷長と里正を置いたものとされる。つまり、国―郡―郷の下に里が置かれる四階制となった。
 ところが、自然村落と関係を持たない郷里制は、約二十五年後の天平十一年(739)末から翌十二
年始め頃までに廃止され、C郷制となる。郷制の下では、郷を構成する里の名が制度上消失し、少な
くとも公式には用いられなくなり、郷のみが存続することになった。このように奈良時代の地方行政制
度は、郷里制廃止後、令制の里が郷として復活することになり、里制(令制)→郷里制→郷制という、
変遷を辿ることになる。令制の里と郷里制の里は、同じ里の呼称を用いたが、実体は別のものである。
 よって以下、霊亀元年以前の里を「令制の里」、以後の里を「郷里制の里」と呼んで区別する(5)。
 
表1  「天平十三年記」と「年代記」の地名表記
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「天平十三年記」の地名表記「年代記」の 地名 表記
国名郡名里・郷・村名その他国名郡名里・郷・村名その他
山城国相楽郡泉[水泉]里和泉国日根郡
乙訓郡山崎日根郡日根渚
摂津国島下郡高瀬里大鳥郡大村里大村山
西城郡和泉郡横山郷内
河内国茨田郡大和国平□郡床室村
丹北郡狭山添下郡登美村[見()郷]
和泉国大鳥郡土師河内国河内郡早村
深井郷[常陵郷]和泉国大鳥郡葦田里(今塩穴郷)
和田早部郷高石村
蜂田河内国交野郡(一条内)
早部和泉国大鳥郡和田
泉南郡丹比郡里大野村
摂津国河辺郡山本摂津国西城郡津守
豊島郡箕丘里兎原郡宇治郷
河内国茨田郡古林里嶋下郡穂積
摂津国河辺郡山本里河辺郡楊津
西城郡河内国丹北郡狭山
和泉国泉南郡(物部田池尻申候)摂津国河辺郡山本
河内国茨田郡高瀬山城国紀伊郡深草
韓室里葛野郡大屋村
茨田大井村
摂津国兎原郡宇治□乙訓郡山前[山崎]郷
和泉国日根郡日根里(近木郷内申候)河内国茨田郡伊香村
摂津国西城郡津守大和国添下郡 登美村[見()郷]
津守里和泉国泉南郡下池田村
島下郡次田里大鳥郡深井村[常陵郷]
河内国茨田郡大庭里山城国愛賀郡
山城国乙訓郡大江里(布)摂津国住吉□
相楽郡高麗里(布)住吉郡御津□
摂津国河辺郡昆陽里[武庫郡児屋郷]和泉国大鳥郡凡山田村(鶴田里、山田村)
豊島郡垂氷里(布)大和国添下郡矢田□岡本村
西城郡津守里(布)和泉国大鳥郡早部早部
河内国交野郡楠葉[葛葉]里山城国相楽郡大狛
丹北郡在原里(布)摂□国紀伊郡石井
和泉国大鳥郡大鳥里(布)西城郡御津村
土師里(布)津守
河内国交野郡楠葉[葛葉]郷
和泉国大鳥郡上神郷大庭村
注) 太字は和名抄の郷、(布)は布施屋、( )書は泉高父の追記(森明彦1991を修正加筆。) 二 「天平十三年記」の地名表記 (1)「天平十三年記」の公文書としての性格 年譜は、郷里制廃止後の時代に作成された史料であるので、原則、国郡郷の表記になるものと思 われるが、元史料が使用した当時の地名表記をそのまま採用したと考えると、「村」の存在は別とし て、郷里の混在は理解できないものでない。 井上光貞は、「「天平十三年記」は、延暦の「菅原寺牒」に引用されたものとし、施設の配列法や 池溝の規模の表示法、地名表記法が律令時代の方式に適うとする。  そして、地名表記法は、「年代記」の四十九院の地名表記を分類し、(a)国郡村又はこれに準ずる もの三十四例、(b)国郡郷(又は里)とするもの十例、(c)他にその他の記載法によるもの五例あり、 (a)が圧倒的に多いのに対し、「天平十三年記」では誤写とみられる一例(堀四所中の比売嶋堀川 の津守村)の他はすべて、(b)国郡郷(又は里)に統一されており、この表示による「天平十三年記」 は、律令時代の公文書にふさわしく、また、国郡郷里なる四階制の表記が一つもみられないことは、 「天平十三年記」が国郡里制廃棄以後のものであることを示しており、天平十三年の記録であるこ とと上限の条件が合致している(6)」とするが、四段階表記は別として、古い時代の国郡里表記が残 ることは時代の判定において疑問を内包するのではないか。 (2)「天平十三年記」の地名表記 「天平十三年記」の地名表記法は、既に郷制が実施されている時期であるが、国郡郷が六例、国郡 里が二十四例あり、国郡郷に統一されていない。井上光貞は、天平十一・十二年に郷里制を廃止し た時、正式には国郡郷としたのであるが、実際にはこれが徹底せず、郷を里とも呼んだ例のあるこ と及び二種の表記が並存する理由は、他文献の二種表記と同様の理由、つまり先行諸文書の表記が まちまちであったためとし、さらに、「天平十三年記」の地名表記中、国郡郷とある六例中の一つは 山崎橋の「在乙訓郡山崎郷、神亀二ノ九月十二日始起」の箇所と、池十五所中の大鳥郡の池の五箇 所だけである。この六箇所の郷の記載は筆者の手によるもので、「天平十三年記」の原文では本来は すべて国郡里であったものを、泉高父が書き変えたものであるとする(7)。  以上のとおり、井上光貞は、郷里の混在について「郷里制廃止の不徹底、先行諸文書の多様な表 記」と「里から郷への書き換え」という二つの視点から論じるが、両者は関連性がなく結びつかないよ うに思われる。  「天平十三年記」が官に提出する公文書であるならば、元史料の表記がまちまちであったとしても、 公文書としての一定の様式を整えるため、当時の正式の表記である郷制の国郡郷で統一されたと考 えるのが妥当であろう。そして、一旦、天平十三年の記録にふさわしい「国郡郷」の表記とされていた ものを何らかの意図のもとに、年譜では「郷」の表記の大半を「里・村」に書き換えられた可能性が考 えられないだろうか。 三 「年代記」の地名表記   (1)国郡村と国郡郷の二つの区分  井上光貞が行った「年代記」の表記の区分???に対して、森明彦は、「井上氏の論は、「天平十 三年記」の史料価値を確定するために行なわれたものであるため、「年代記」部分の分析としては不 十分である。たとえば、国―郡―郷―村の2例[大鳥郡早部郷高石村、上神郷大庭村]([ ]:筆者加筆、 以下同じ)を国郡村の範疇にいれ、国―郡―郷の範疇としていないが、国―郡―郷の範疇の例として も加えるべきであろう。それよりもさらに問題となるのは、国―郡―里の3例[大鳥郡大村里、葦田里、 鶴田里]を国―郡―郷の範疇に加えている点である。(8)」とする。森明彦は国郡村と国郡郷の二つの 区分を前提として、類型の異なるものの分別に異議を唱えているが、国郡村と国郡郷の二つの区分の 前提を十分説明していない。当時の地方行政制度に存在しない村を一つの範疇に加える考え方が妥 当であろうか。 (2)「年代記」の国郡里表記  森明彦は「基本的には平安初期には郷を里で表記するのは例外的な範疇といえよう。「年代記」は 地名表記は数の上からみれば、国―郡―村と国―郡―郷を基本としたものと思われる。そこに国― 郡―里表記がなぜ含まれているのか、この三例[和泉国大鳥郡大村里、葦田里、河内国丹北郡狭山 里]がもともと国―郡―里と書かれていたのか検討しておかなければならない。まず年代的には慶雲 二年のもの[大鳥郡大村里]が郡里制下に属するから、もと国―郡―里表記であった可能性はまったく ないとはいえない。しかし、他の二例[神亀元年の清浄土院は大鳥郡葦田里、天平三年の狭山池院は 河内国丹北郡狭山里とする。『和名抄』に「狭山郷」があるが、「葦田郷」は見えない。]はいずれも郡の つぎの段階は郷の時期のもの[厳密には郷里制]である。 またこの三例を狭んで国―郡―郷・国―郡 ―村表記がおこなわれており、ここに国―郡―里表記があることは、地名表記法として不審である。  葦田里の里表記は、「年代記」の中で例外的な例というだけでなく、年代的にもふさわしくないのであ る。葦田里も含めた三例はもともと「年代記」には他と同じく郷・村表記であったものを里表記に直したも のとみなすべきであろう(9)。」とする。森明彦は、国郡村と国郡郷を同時並列的に考えていて「里」表記 の存在だけを問題視しているが、何故「郷」と共に「村」の表記が在るのかを論じていないことを指摘して おきたい。  「問題はなぜ泉高父がこれらの地域の三例を里表記に書き換えたかということである。地域的に みれば、和泉国大鳥郡が二例[大村里、葦田里]・河内国狭[丹の誤記]北(比)郡が一例[狭山里]である。 これらはいずれも大鳥郡ないしその隣郡である点が注目される。「天平十三年記」ではこれらの地域 は里から郷に書き換えられた地域であった。  ところが「年代記」では「天平十三年記」とは逆に、この部分に郡里表記が集中しているのである。  これは、見過ごすことができない問題である。泉高父の「関心地域現表記」という方針からすれば、 これらの地域こそ国郡郷ないし国郡村表記でなければならないからである。「天平十三年記」におい て現表記に書き換えた泉高父が元々「年代記」において現表記を旧表記に直すということはありえな いことであり、この書き換えは現表記から別系統の現表記にしたものとみなすべきである(9-1)。」とし て、鶴田池院に付した泉高父の注記に注目して、「鶴田里は条里制の条里名であることは疑いない。  このことは泉高父が里を郷ではなく条里の里としても使用していたことを示す。…「年代記」行年五八 歳条の久修園院の地名表記は「河内国交野郡一条内」となっているが、この一条内とは北から南へ 数える交野郡条里の数詞条名とみるべきであり…葦田里が葦田郷を意味するのではなく、もとの表記 [郷・村表記]を改めてより限定された地域を示す条里名であるとみるほうが妥当である(9-2)。」と、別 系統の現表記は条里名であると結論づけている。 この三箇所の里表記が条里制の里であることについて考える。まず、鶴田池院は凡山田村(里は鶴田 里と名のり、村は山田村也)の表記のとおり鶴田里にあるが、郷名は記載されていない。鶴田池は、大 鳥郡早部郷に造られているので、鶴田池院もその池の近くに作られたものと見做すと、それは早部郷 に所在すると考えられ、鶴田里は郷里制の里に該当する可能性がある。また、「年代記」行年五八歳条 の久修園院「河内国交野郡一条内」の地名表記については、条里の表現は、○○条○○里○○坪と 表現する場合や○○条○○坪と簡略する場合があるが、「一条内」とする表記だけをもって、条里制が 存在したと判断することは危ういのではないか。条里制の存在は、地名表記の表面的な言葉の上から 判断するのではなく、実際に条里が見られるかを検証しなければならない。  『枚方市史』では、樟葉周辺の条里制の存在について、「旧樟葉村は、とくに沼沢地の多い地区で ある。低湿地としての景観が卓越していることから、従来、確かめるまでもなく条里型地割はない ものとみなされてきた。しかし、航空写真図などを検討してみると、船橋部落の立地する台地の北 端から野田部落までは連続的に認められ、局部的には類似の地割がそれ以北にも追跡できる。 これらを含めるとその分布面積は九六町歩(古代の八○町、約九六ヘクタール)ばかりになる(10)。」 とする一方、「史料[行基年譜]の信憑性や河内国北部の高安・河内・讃良など生駒山地西麓部の諸 郡が条を南より北に進むのと逆であることから問題であるが、一連の河内平野とは枚方丘陵で区切 られている本郡に、国境付近に起点をおく別な進行方向をとる呼称があってもよいのではなかろうか。  しかし、いずれにしても断定するのは尚早で、なお検討を必要とする(11)。」とされるだけで、積極的 に条里制の存在を確認するところまで至っていないのである。 四 『倭名類聚抄』の郷名との比較 (1)「天平十三年記」  令制の里(のちの郷)については、『倭名類聚抄(以下『和名抄』とする)』郷名部の記載が利用しう る基本史料である。この書は、承平年間(931〜37)に源順が撰したものであるが、記載の内容は、 九世紀前半の状態を物語ったものと考えられている(12)。  年譜の地名表記を『和名抄』と比較する。表2のとおり、「天平十三年記」には合計31箇所の地 名表記があり、うち24例が国郡里、6例が国郡郷、残り1例が国郡村の表記を行う。国郡里の里名 表記は、『和名抄』の郷名と一致し、令制の里と認められるものが、24例中の13例を占め、11例 は令制の里ではないものである。これに対して、福留照尚は、『吹田市史』に「『倭名抄』郷名と一 致せず、令制の里と見なしがたいものも一○例[表2下線部十一例、箕丘里を入れる]を数えるの である。 表2 郷里村別の地名表記
「天平十三年記」の地名表記
「年代記」の 地名 表記
郷/td>6山崎、土師、深井、和田、蜂田、早部9横山、早部、和田、宇治、深草、 山前[山崎]、早部、楠葉[葛葉]、上神
24[水泉]、高瀬、狭山、丹比郡、山本、箕丘、古林、山本、高瀬、韓室、茨田、日根、津守、次田、 大庭、大江、高麗、崑陽[武庫郡児屋郷]、垂氷、津守、楠葉[葛葉]里、在原、大鳥、土師5大村、葦田、狭山、鶴田、早部
1津守22床室、登美[鳥見]、早、高石、大野、津守、穂積、楊津、山本、大屋、大井、登美[鳥見]、 伊香、下池田、深井、凡山田(山田)、 岡本、大狛、石井、御津、津守、大庭
注)□は表記が適切でないもの。太字は、『和名抄』の郷名  このうち、摂津国に属するものは、次田里、高瀬里、昆陽里、垂水里の四例[箕丘里を入れると五 例となる]を挙げることができる。令制の里でないとすれば、天平十三年当時としては、郷里制の里 であったと見なすほかないであろう(13)。」とする。  この結論は、「令制の里」を「A」、「郷里制の里」を「B」とすると、選択肢は「A0rB」のみで あり、それ以外の「C」を考えていない。例えば、森明彦のいう新しい現表記(条里制の里)や「村」 表記の存在も含めて、「異なる表記C」が存在することを考慮されていないと指摘しておこう。  また、「前述したように郷里制の里は天平十一年末から同十二年初めのころに、公式には廃止され たけれども、その直後の段階では、なお一般に用いられることもあったのであろう。」とするが、郷 里制は、唐の郷―里の単位をそのままわが国に持ち込み、一郷二〜三里に機械的に編成したが、村 落の実態を顧慮しない擬制的な行政単位であったため、有効な役割を果たすことができず短期間の うちに廃止された(14)ものと考えられるから、郷里制の廃止直後の段階で郷里制の里(コザト)が一 般に用いられていたとしても、あくまで旧制度の残滓であり、里の上位の行政単位である郷を無視 する国郡里(コザト)の形で、つまり、本来四階制の表記を三階制とする形で使用されたとは思えな い。特に官に提出されたとする「天平十三年記」が郷を省略した正式でない形で記載されたとは考 えがたい。一般的には、郷も「サト」と読め、字として書く場合も「里」のほうが簡単なので「郷」の代 用として「里」が使われた可能性があるのではないか。更に、「先に「倭名抄」郷名と一致するという 理由で、令制の里と見なした一四例についても再考をしよう。なぜなら、同一の公文書の中で、令 制の里と郷里制の里とを混用するようなことがあったとは考えがたいからである。既述のとおり郷里 制の里は、従前の里 (令制の里=郷)を二ないし三に分割する形で設置されたが、その際、当該郷の 中核をなした里については、令制の里の名をそのまま郷里制の里の名として継承することもあったで あろう。すなわち『和名抄』郷名と一致するからといって、すべて令制の里と見なすことはできないの である。したがって「天平十三年記」の里名表記は、二種類の里を混用したものと考えるより、郷里制 の里で統一されていたとする方が、より事実に近いであろう。」と結論する。  この中で、令制の里と郷里制の里との混用を考えがたいとするが、井上薫の布施屋の例(15)などの 建造年の違いによって当時の表記をそのまま使用した場合や故意の改ざんがなされた場合は、表記 が混在することが考えられる。 郷里制の実施時には、当該郷の中核をなした里が郷名を継承する可能性も想定されるが、国郡里 の「里」表記が「令制の里」か「郷里制の里」であるかの判断は、年次の検証と三階制か四階制か の形などを吟味しなければならないと考える。また、郷里制が廃止された直後の天平13年頃には、 郷里制の名残りとして、里の表現が一部残る可能性はあろうが、その里の記載のすべてに令制の 里を全く含まず、郷里制の里で統一されていたと見なすことは妥当でないと思われる。また、他史料 のどこにも見えない地名をどう考えるか。年譜だけにしか見えない地名については、消滅した地名、 変更された地名、記載誤りの地名などもあろうが、先に指摘した「異なる表記C」つまり存在しない 架空の地名が含まれる可能性を挙げる。 年譜の四十九歳条の恩光寺の所在は、大和国平□郡床室村となっているが、これについて、千田 稔は、「今日、恩光寺という名の寺もないし、床室村という地名も知られない (16)。」とする。  また、『奈良県史』は、「恩光寺は行基四十九歳のとき平群郡床室村に建てたことが年譜にみえる だけで、他に史料がないのでよく分からない(17)。」とする。年譜の記載は、平群郡の「群」の文字が 脱字である。「群(むら)」には、家群(伊幣牟良・記謡77)、鶴群(たづむら・万9−1791)の用例がある。  年譜の平群郡に「群(むら)」の文字がないことは、「床室村」がないことを掛けて示しているのでは ないか。因みに、「恩光寺」も群にない、49院でないことを暗示していると考える。  あえて、憶測するに、「恩光寺」は、木積「孝恩寺」の暗号と考える。 (2)「年代記」  年譜の「年代記」は、表2のとおり、9郷のうち7郷の名が「和名抄」の郷と一致する。「里」表記 のものは5例ある。明確に郷里制の里である早部里と別の表記である鶴田里を除く3例(葦田里、 大村里、狭山里)のうち、「葦田」郷の名は「和名抄」に見えないが、「大村、狭山」の2里が「和名 抄」の郷名と一致するので、この2例は「郷」から「里」に書き替えられたものと思われる。  また、「村」表記については、「和名抄」の郷に一致するものが21箇所中八箇所ある。  従って、その8箇所は「郷」から「村」に書き換えられたものと思われる。このように「年代記」の 「郷・里・村」のすべての範疇に「和名抄」の「郷」が散らばっているので、「年代記」の地名表記の 多くは、「郷」を基本としているものと思われる。「年代記」に見える大多数の「村」と次に多い「郷」 に加え、少数の「里」が混在していることは、表面上は森明彦が指摘する「数の上からみれば、 国―郡―村と国―郡―郷を基本としたもの(18)」のように見えるが、「村」は奈良時代の行政制度 上は本来存在しないものであるから別の史料を用いて検討を加える。 五 『日本霊異記』の地名表記  『日本霊異記』には、表3のとおり、「村」が25例、「里」は31例、「郷」は7例見られる。  そのうち「和名抄」の郷の名と一致または相似するものは「村」は3例、「里」は4例しかないが、 「郷」は7例のうち5例である。 表3 日本霊異記の地名表記
地名表記
7小河(小川郷)、大野、豊服、吉備、浜中(以上『和名類聚抄』にあり、但し小河は小川郷)、屋穴国、水野
31片?、山村中、漆部、味木、細見、鴨、片輪、山直、?代、御谷、坂田、山村、桃花、片?、川脈、鵜田、 馬甘、遠江、蓼原、御馬河、能応、弥気、跡目(跡部郷)、嬢、大山、屋穴国、貴志、秦、波多、別、埴生、(大安寺之西)、(薬師寺東辺)
25片崗、崗本、茅原、山、遊宜(弓削郷)、椒、撫凹、下痛脚、鵤、越部、元興寺、三上、桜、菴知、熊野、 熊野、荒田、佐岐(佐紀郷)、畝田、殖、仁嗜浜中(浜中郷)、能応、楠見、楠見粟、磯城嶋
注)上記地名は、吉田一彦『民衆の古代史』風媒社、2006年を加筆。   「片?」の「?」は、草冠の下に「絶」の字、「?代」の「?」は、口遍に「敢」の字。  『日本霊異記』の「郷」は「和名抄」の郷と大部分が一致することが確認できる。  また、「和名抄」の郷名と一致または相似する「里・村」の表記は、「郷」の表記が換えられた 可能性がある。  吉田一彦は、「『日本霊異記』の「里」の表記は、上巻第三敏達天皇の時代、上巻第十三孝 徳天皇の時代には存在しない表記であり、天平勝宝六年の中巻第十以降の二十四例は郷里 制が廃止になったのに「里」を多用している。…『日本霊異記』に見える「里」は、ほとんどすべて が「里」という国家公式の行政単位が存在しない時代のものということになる。これをどう理解し たらよいのか。…「郷」の表記は、七例あるが、郷里制が廃止になった郷制(国郡郷)以後の時 代の話であり、七例とも国郡郷の表記であり、行政制度と合致している。うち、五例が『和名類 聚抄』と一致する。…「里」は、『和名類聚抄』と照らし合わせてみて、一致するものがほとんどな い[里の表記三十例のうち、『和名抄』と一致する郷は三例、相似するもの一例である]。…『日本 霊異記』の「郷」は単純明快で、景戒の時代の「郷」がそのまま表記されたものと見て間違いない。 …「里」は、景戒の時代に実際に用いられていた地域呼称が記述されたもので、自然村落を指し ていると考える。…景戒の時代、国家の地方行政単位としての「里」は廃止になってなくなってい た。にもかかわらず、人々の間でなお、「里[サトと表現するべきか]」が用いられており、それを 景戒は地域の表記に用いたのである(19)。」とする。  一方、「「里」は自然村落の「村」とは異なる原理・発想から編成されたものであって、「村」と 「里」とは次元を異にするものであった。行政の組織はあくまで、「国―郡―里―戸」であって、 それとは別に自然村落としての「村」が存在したのである(20)。」とする。  また、「郷里制については、「国―郡―里―戸」というラインこそが行政の組織なのであって、 自然村落はそれとは別に社会の実態として存在するのであった。「国―郡―郷」の下部に自 然村落に基づくコザト(里)を設置するというやり方は、木に竹を接ぐような不整合なものとなら ざるを得なかった。この制度が短命に終わった理由はそこにあったのではないかと推測して いる(21)。」とする。  「里」が自然村落の「村」とは異なる原理・発想から編成されたとしながら、郷里制が「国― 郡―郷」の下部に自然村落に基づくコザト(里)を設置するという論理は矛盾するように思える。  次に、何故、「サト」と呼ぶところが「里」と表記され、「村」と使い分けされているのか説明を 加えていない。「自然村落としての村の存在」については肯定できる部分もあるが、『日本霊 異記』の「村」がすべて自然村落を指すかどうかを確かめることは困難である。  地名表記の問題として考えるならば、「村」の表記は、後述するように「郷」や「里」の代用と しても使われていたものがあると指摘できる。 六 村の表記の問題 (1)行基年譜の村表記  「天平十三年記」は、「○○村」の表記の例として、津守村が1例のみ存在する。  また、「年代記」の 地名 表記に「村」の表記は22例ある。  井上光貞は、「年代記」における「村」の多数の存在を述べる一方、「天平十三年記」につい ては、その中における「堀四所中の比売嶋堀川の津守村」の「村」の表記については「誤写と みられる」と済ましてしまう。比売嶋堀川の津守村の部分は「村」表記であり、続く白鷺嶋堀川 の所在地は津守里[国郡里表記]で「里」表記である。同じ津守の名が付く地名に「村及び里」 の二つの表記が為されている。何故、一箇所だけ「村」が存在するのか。「天平十三年記」に ただ一つの「村」の存在が気に懸かるのである。強いて理由を求めるならば、「比売(秘め)嶋」 との関わりで、「津守」を強調する意図があるのではないか。『行基年譜』に「津守宿祢得麻呂」 がでる。  「年代記」の「村」表記は、「床室、登美[鳥見]、早、高石、大野、津守、穂積、楊津、山本、大 屋、大井、登美[鳥見]、伊香、下池田、深井、凡山田(山田)、 岡本、大狛、石井、御津、津守、 大庭」と22例(重複するものを含む)あるが、それらの文字群の中から多出するものを拾うと、 「大・津・井」が三つ以上見られることである。この多出する文字及び文字の組み合わせは、 特に何かを意味するのであろうか。例えば「大・井」の組み合わせは、「大井」となる。「大井」 は、『昆陽寺鐘銘、行基菩薩行状記』に「大井垣」、『行基菩薩伝』に「大井橋」と行基が造った 施設が挙げられている。年譜には、この「大井垣」、「大井橋」は見えないが、行基に関連して 「大井」を強調するものとして、隠された言葉が存在すると憶測する。『明匠略伝』に大#地(井 堰イ)一所とある。 (2)続日本紀』の「村」の表記  『続日本紀』に「村」の表記を探してみる。「○○村」と表記される固有名詞は、表4にまとめる。  「国郡村」・「国村」・「国郡□□村」の形態があり、使用法がまちまちである。陸奥国、出羽国 が各6件、畿内の国は摂津、大和、山背が各2件、その他の国は備後、肥前、近江、大隈、美 作、下総、常陸、伊賀、讃岐、薩摩の10箇国が各1件である。同じ村の多いものに、出羽国の 雄勝村(男勝村・小勝村)が4件、5箇所に見られる。年月日の組み合わせは最後列の1件を除 き、六斎日の日付と一致する。固有名詞以外の「村」の表記は、天平宝字元年7月戊午(12日) 条に「諸司并せて京・畿内の百姓の村長以上を追し集へて、詔して曰く」とある。 表4 続日本紀の村表記の記事
紀年月日村表記六斎日備考
和銅2年10月8日備後国葦田郡甲努村8
和銅6年9月19日摂津国河辺郡玖左佐村15玖左佐神社
霊亀元年10月29日陸奥国香河村、同閉村29・30所在未詳
天平2年1月26日陸奥国田夷村29所在未詳
天平5年12月26日出羽国高清水の岡雄勝村、同秋田村31和・秋田郡高泉郷
天平9年1月21日出羽国男勝村30三輪神社
天平9年4月14日出羽国雄勝村14・23
天平12年10月29日大倭国山辺郡竹谿村29和・都介郷
天平12年11月3日肥前国松浦郡値嘉嶋長野村14・2310月23日の事
天平14年8月11日近江国甲賀郡紫香楽村8・14紫香楽宮、大仏造営
天平勝宝5年9月5日摂津国御津村14御津寺
天平勝宝7年5月19日大隈国菱刈村31和・菱刈郡菱刈郷(現伊佐郡)
天平宝字元年7月12日出羽国小勝村(雄勝村)8
天平宝字8年12月是月条鹿児島信尓村8
天平神護元年8月1日山背国綴喜郡松井村8月読神社
天平神護2年5月23日美作国勝田郡塩田村23・30
天平慶雲2年8月19日下総国結城郡少塩郷少嶋村、常陸国新治郡河田郷受津村29
神護慶雲3年6月11日陸奥国伊治村14
神護慶雲3年11月25日陸奥国小田郡嶋田村14
宝亀5年10月3日大和国葛下郡国中村8・15所在未詳
宝亀5年10月4日陸奥国遠山村14・15所在未詳
宝亀7年5月2日出羽国志波村14
宝亀8年12月14日出羽国志波村8・14
延暦3年5月16日山背国乙訓郡長岡村8長岡京
延暦3年11月21日伊賀国阿保村14和・阿保郷、阿保皇子陵
延暦8年6月3日陸奥国巣伏村8・14
延暦10年12月10日讃岐国寒川郡岡田村寒川神社、二十=二重か
注1)和は、和名抄の郷名と一致する。 注2)最後の「延暦10年」は、二十=二重が表われるが、何が二重なのかは未解明である。   「表7続日本紀の行基関係の記事」の「養老二年十月十日」の二重と通じるものがある。  この「村長」については、注解にて「郷長のことか、あるいは自然村落の「村の長」の意か。 未詳(22)」とされているが、天皇の詔を通達するのは行政の組織に組み込まれた郷長とする のが妥当な見方であろう。  同じ注解に「村長の例は、他に天平勝宝七歳五月の年紀のある米の付札に「村長語部広 麻呂」(『平城京木簡』212715号)、宝亀7年の陸田売買券に、「村長寺広床」(古61592頁)と 見える。このうち、後者は宝亀五年の畠売買券には、「郷長寺広床」(古61577頁)とあるので、 明らかに郷長の意」とし、「村長」は「郷長」と同じ意味の使い方であることを指摘している。  また、養老元年(717)4月23日条の詔に「村里に布れ告げて、勤めて禁止を加へよ」がある。  郷里制は、霊亀元年(715)また 鎌田元一説によると霊亀3年(23)に行われ、郷長、里正を 任じた。そして、天平11・12年に廃止されたので、養老元年は郷里制が実施されていた最中 であるので、この「村里」は「郷里」に該当することになり、つまり、「村」は「郷」の意味で使わ れている。以上のことを合わせ、普遍化して考えると、一般に「村」は「郷」に替えて、使われ る場合が少なからずあったものと思われる。  更に、養老六年(721)7月10日条に「村邑」がある。僧尼令違反を禁止する太政官奏の中に 「寄二落於村邑之中一」がある。この「村邑」については、注解があり、「上文には「在京」「都 裏」「街衢」とあって、いずれも平城京を横行している様子であるのにここだけに「村邑」とある のは不審。三代格所収の格でこれに相当する語句は「坊邑」である。平城京周辺の村々と解 せないこともないが、或は続紀の編集に際して語句を不用意に換えたものか(24)」との指摘が ある。 ここで、注目されることは、養老元年(717)4月23日条の記事には「小僧行基」とあり、偶然かも 知れないが、いわゆる「行基」に関わる二つの記事の中で、『続日本紀』では数少ない固有名 詞以外の「村」の文字が使用されていることが見い出される。もし、『続日本紀』の編者に「行 基」と「村」を結び付けようとする意図があるならば、年譜などの行基の伝もまた、「村」と「行 基」、或は「大」「オオイ」の言葉を「行基」に関連付けて考えよと示唆しているのではないか。 (3)『日本書紀』の「村」の表記  『日本書紀』では、邑(むら或は、さと)が多用されている。その中に村が混在する。  表5のとおり、神代の有馬村、吾湯市村から天武9年の摂津国活田村まで、見落としがなけ れば、15件の「村」表記に係る記事があり、村数は25村を数える。そのうち国外は、神功摂 政49年3月条に「百済国意流村」、欽明15年12月条に「新羅国佐知村」、継体23年4月条の 南加羅国金官・背伐・安多・和陀の4村がある。国内は、紀伊1、尾張1、丹波1、火国1、摂津 2、山背3、大和2、河内4、近江1と散在する。   この村の存在及び配置の状況は、今のところ意味することを明確に読めないが、何らかの意 図を含んでいるものと想像する。佐知村の村はスキと訓まれている。村スキは、村落の意味 の韓語とされている(25)。また、これらの『日本書紀』の村の記事は、実は六斎日と関わりが ある。記事に見られる年月日の組み合わせが六斎日に当たるのである。神功摂政49年と敏 達12年は、数字の組み合わせで、六斎日は成立しないが、文字の表記で、済・歳の文字に 三一(サイ)を当てることができる。これは、後述するように、『日本霊異記』や『続日本紀』の 行基記事にも共通することである。 表5 日本書紀の村表記の記事
紀年月日村表記六斎日備考
神代四神出生(上5段)紀伊国熊野有馬村伊弉冉葬地
宝剱出現(上8段)尾張国吾湯市村(8)草薙剣・熱田神宮
垂仁87年2月5日丹波国桑田村8・14・15葬・僧
景行18年5月1日火国八代県豊村23
神功摂政前紀3月1日荷持田村(肥前国高来郡 or 筑前国夜須郡)31
神功摂政49年3月百済国意流村31済:サイ
雄略10年10月7日倭国軽村、磐余村8神社
雄略17年3月2日摂津国来狭狭村、山背国内村、俯見村、伊勢国藤形村、8神社
継体23年4月南加羅国金官・背伐・安多・和陀の四村23
継体23年6月倭国添上郡山村23
欽明15年12月新羅国佐知村15
欽明26年5月山背国山村31
敏達12年是歳河内国桑市村、石川百済村、石川大伴村、下百済河田村31歳・済:サイ葬・僧
天武元年6月24日大和国甘羅村30・31神楽岡神社
天武9年正月20日摂津国活田村29・30桃李:もも
注1)紀では、邑が多用されている。その中に村が混在する。紀の村の存在も六斎日と関係がある。神功摂政49年 と欽明26年は、数字の組み合わせで、六斎日は成立しないが、文字の表記で、済・歳の文字にサイ=31を 当てることができる。 注2)天武元年六月二四日条の大和国甘羅村は奈良県宇陀郡大宇陀町神楽岡の地か。 注3)『続日本紀』、日本書紀の「村」表記は六斎日と関係することを指摘する。 七 郷里村の混在 (1)書き換えの問題  郷里村の混在は、郷里の混在と共に行政制度にない村が含まれている。これは、年譜だけでなく、 『日本霊異記』についてもほぼ同様に郷里村の混在が見られ、『続日本紀』や『日本書紀』にも村が 使われている。これらの「村」が、自然村落としての「村」に当たるかどうか史実の確認は困難であ ると思われるので、「村」の性格についての議論は留保しておく。 「年代記」と「天平十三年記」における「村」の分布は、統一が取れておらず、「年代記」及び「天平 十三年記」は、異なる元史料に基づいたことに起因する表記の差があるようにも窺えるが、それぞ れを元史料に基づき復元することは極めて困難と思われる。分かることは、任意に「和名抄の郷」 から「里」・「村」に書き換えされ、また、大和国添下郡矢田□[郷か]岡本村(天平9年)のように郷里 制の「里」から「村」に書き換えたと思われる事例が存在することである。この場合は、「村」は、郷 里制の「郷」・「里」の両方から任意に書き換えされていることになる。ここで、年譜の原文表記と書 き換え後の各論者の考えを表6にまとめる。 表6 年譜の原文表記と書き換え
論者天平十三年記年代記
原文表記書き換え後原文表記書き換え後
井上光貞国郡里国郡郷(和泉他)
国郡村は誤写とする。
福留照尚里名は郷里の里で統一
(四階制表記)
郷里の里
郷里の里(郷名と同じ)
(三階制表記)
井上 薫 国郡里(布施屋)
国郡郷
森 明彦国郡里国郡郷(和泉他)国郡郷
国郡村
国郡里(条里)
筆者国郡郷国郡里
国郡村
国郡里
国郡郷里
国郡郷

国郡郷村
国郡里
国郡村
 井上光貞は「天平十三年記」において、原文では、国―郡―里の表記となっていたものを国―郡 ―郷の表記の六例を改ざんしたとする。本来はすべて国郡里であったものを、渡橋六箇所の中の山 崎橋と池一五箇所のうちの和泉国大鳥郡の池の五箇所を泉高父が[里から郷に]書き変えたもので あるとする。「天平十三年記」の原文の表記が「国郡里」であるという論に対しては、福留のように「郷 里」の「里」で統一されていたという考え方が示されているが、それとも別の見方ができる。天平十一・ 十二年に国郡郷里を廃止したこと及び「天平十三年記」が公文書としての性格を有するならば、本来 の表記は「国郡郷」でなければならないと思われる。この場合は、一旦、天平十三年の記録にふさわ しい「国郡郷」の表記とされていたものを年譜では、「郷」の表記の大半、つまり「六郷」以外を「里・村」 表記に書き換えた可能性がある。そのように考える根拠は、「六郷」の郡名及び郷名は、旧名である 「常陵郷」を除き『和名抄』と一致するが、「里・村」の表記のものは一部が『和名抄』に見えないこと、 「山城国、和泉国、泉南郡」などは時代に適切でないことから書き換えされていることは明白であり、 その際に、固有名詞とともに「郷」から「里・村」に書き換えされた可能性が考えられる。 もうひとつの考え方は、井上薫が指摘するように、布施屋の所在地が「国郡里」で統一されていること から、施設が造られた時代により、その時代区分に応じた異なる表記が使われ、「国郡里」と「国郡郷 (里)」が混在していたものを、「六郷」以外の「郷」を「里・村」に書き換えた可能性も残る。現時点では それらのいずれとも判断しがたいが、ここでは、「六郷」の形が意味を持つものと考えておきたい。  次に、森明彦が疑問を呈していた「天平十三年記」と「年代記」の書き換えの方向が一致しないこと、 つまり、「「天平十三年記」において現表記に書き換えた泉高父が元々「年代記」において現表記を旧 表記に直すということはありえないこと(26)」とする問題は、「「天平十三年記」ではこれらの地域は里 から郷に書き換えられた地域であった。」と考えず、「郷」から「里(村)」に書き換えたと見なすと、「天平 十三年記」と「年代記」の書き換えの方向が一致するのである。 (2)「天平十三年記」の「六郷一村」  井上光貞は「天平十三年記」において、原文の里表記から郷表記に改ざんしたものを六例とする。  次に、井上が誤写とする津守村の「一村」を見て、これらの書き分けが何らかの意図を持っているもの と仮定すると、「六郷一村」の形は、大阪府美原町大保の浄土寺墓地の六地蔵堂(27)や各地の墓地に 見られる六地蔵の真ん中に行基像あるいは一尊佛(28)などを置く「六地蔵一尊佛」の形を想像させる。  併せて七仏である。これは、年譜の冒頭に見られる利鏡師が描いた七仏薬師に繋がるのである。  また、「六郷一村」を何かの言葉に関連づけるとすれば、一つに「六斎日」がある。六斎日は、「八日、 十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日」を言う (29)。そして、「一村」に当たるものを探すと、 「三十一日」がある。「三一」がサイ[三弦・三味サミの用例がある。]に通じ、番外の六斎日であり、併 せて「七サイ日」である。数字の構造は、「斉人網して六魚と一小亀とを獲たり」及び「六魚を示す亀」の 言葉に似る(30)。「亀は六を隠す」という仏教の教えもある(31)。      表7 続日本紀の行基関係の記事
紀年月日行基の名称記事六斎日備考
1養老元年4月23日小僧行基行基指弾 23「村里」あり
養老2年10月10日不明僧網に対する太政官布告二十=二重
養老6年7月10日不明僧尼令違反 23「村邑」あり
天平2年9月29日不明妖言惑衆(野天の大集会)29番外
2天平3年8月7日行基法師高齢の行基信者に出家を許可15
3天平15年10月19日行基法師大仏造営を勧誘29
4天平17年1月21日行基法師大僧正とす29
5天平21年2月2日大僧正行基和尚、薬師寺僧遷化(行基薨伝)232・2=4
6宝亀4年11月20日故大僧正行基法師行基開基六院に田地施入31
注1) 上記表の9項目は、中川修「行基伝の成立と民衆の行基崇拝」『民衆と仏教』永田文昌堂による。 注2)「六斎日」は、「八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日」を言う。 8月7日及び10月19日は、月日の数を合わせると、それぞれ十五、二十九となる。 1月21日、2月2日は年月日の組み合わせで六斎日となる。11月20日は、月日の数を組み合わせると、三十一となる。 三十一日は、「三一」は「サイ」とも通じるので「斎の日」である。 注3) 養老2年の僧網に対する太政官布告は、養老元年と同じもので重なっている。  これらの言葉の関連付けで、「郷」=「魚」、「村」=「亀」が導きだせるとすると、「郷」=「魚」 から年譜三十七歳条の「旧里」と「魚」の説話にも通じ(32)、「村=尊」と「亀=基」の相関から 「村」は行基に結びつくのである。更に、直接眼に見えないもので相似のものがある。『日本 霊異記』、『続日本紀』である。「六郷一村」・「六魚一小亀」は、『続日本紀』及び『日本霊異 記』の行基に関係する記事が、表7、表8のとおり、「六」と「一」に分かれて存在することと結 びつく。  各記事に見られる数の組み合わせは「六斎日」の日の数とも一致し、「村」が「六斎日」と関 連を持つことが分かる。つまり、行基が「六斎日」と結びつくのである。ただ、『続日本紀』の最 後の記事は、「六斎日」の数の村でないものが尾に設けてある(33)。  最後に、「六郷一村」・「六斎日」のように数字が隠れた意味を持つことを述べておく。 表8 日本霊異記の行基の話
巻番号項目場所人物
上5三宝を信敬しまつりて現報を得る縁和泉国、難波大部屋栖野古、敏達天皇
中2烏の邪淫を見て世を厭い、善を修する縁和泉国泉郡血沼信厳、
中7智者、変化の聖人を誹り羨みて、閻羅の闕に至り、地獄の苦を受くる縁冥土、難波釈智光、
中8蟹と蝦との命を贖ひて放生し、現報を得る縁難波置染の臣鯛女、不知老人
中12蟹と蝦との命を贖ひて放生し、現報に蟹に助けらるる縁山背国紀伊郡深草寺ひとりの女人、
中29行基大徳、天眼を放ち、女人の頭に猪の油を塗れるを視て、呵責する縁故き京の元興寺の村ひとりの女人、
中30行基大徳、子を携ふる女人に過去の怨を視て、淵に投げしめ、異しき表を示す縁難波の江河内国若江郡川派里のひとりの女人、
注1)「『霊異記』に行基が登場するのは、上−五、中二・七・八・十二・二十九・三十で ある。」根本誠二「行基と善殊」『奈良仏教と在地社会』岩田書店、2004年。  注2) 巻番号の数字は、単独で、または組み合わせると「六斎日」の数に一致する。 「中2・中7」は、掛け合わせると、十四になる。「中7・中8」は15。 「中12」は、「中2」から「中12」までを加えると、二十九になる。 また、「上5」は題目の「三宝の三」と組み合わせると、「八・十五」となり、「六斎日」 の数に一致し、「上5、中7、中8」を加えると、二十三になる。 注3) 注2の説明は、行基説話の分類で補足する。(朝枝善照『日本古代仏教受容の構造研究』2009)
1行基中心の物語中巻29、4中巻30
2行基と他の僧との比較中巻7
3行基に対する帰依者を中心とする中巻2、中巻8、中巻12
4行基の名が記載されている上巻5
(3)年譜の暗号標識「里表記」  先に、表9のとおり、「年代記」の「里表記」を一覧で示す。  「年代記」の四十九院の表記基本形は、寺院名、月日、所在の三点であり、五十三歳条は、「石凝 院 九月十五日起、在二河内国河内郡早村一」だけであるが、「里」表記のものは、追記や誤記・脱 字が見られることが指摘できる。例えば、追記は、大修恵院、清浄土院、鶴田池院に見られ、誤記・ 脱字は、大修恵院、狭山池院に見られる。狭山池院は河内国丹北郡狭山里とするが、郡名は正しく は丹比郡である。また、注目すべき点は、狭山池院、鶴田池院ともに記載される月日は、二月九日起 で共通であり、「二九日」は「六斎日」に当たる。このことから考えられることは、「里」表記のものは、 記載に誤り等があることによって何かを伝えようとする「里」の標をつけているものと想像するのである。 表9 年代記の里表記の事例
行年寺院名期日所在追記備考
38歳大□忠院十月始起和泉国大鳥郡大村里高蔵、大村山大修恵院
57歳清浄土院和泉国大鳥郡葦田里高渚、塔十三層云々、今、□(=塩)穴郷
64歳狭山池院二月九日起河内国丹□(=北)郡狭山里別尼院有
70歳鶴田池院二月九日起和泉国大鳥郡凡山田村里ハ名鶴田里ト村ハ山田村也
71歳(中宮)正月十日和泉国大鳥郡早部郷早部里私云、此年家原寺金筒銘文被築造カ得度三十二人
(4)日本書紀の「里」表記  ただ一つの「里」表記、「紀伊郡深草里」がある。年譜は「法禅院 山城国紀伊郡深草郷 九月二 日起」、霊異記は紀伊郡深長寺とあり、行基と関係する。今昔は深草、深草山がでる。深草里は由利 (百合)に誘導されるか。深草里はシンソウ→真相であれば、行基の真相をサトリとなろう。 結びに  「村」表記が何故存在するのか、また、「郷里村」が混在するのは何故なのかを考察してきた。  今までの学問的な手法では、解明できない言葉と数字の積層による論法を駆使した。  それは、何様とも解釈できる言葉遊び・暗号の世界に踏み込んだことになり、多分に独りよがりにも 見えるであろう想像で構築された世界に迷い込んだことでもある。  「郷里村」の混在は何を意味するのか。奇想天外な解を示す。結論として、「郷里村」がそれぞれ意 味を持つ「もの」に宛てられている(掛け言葉)と考える。「郷」は「号=名」である。「里」の付された地 名は、「サトリ(里一字の二重読み)」という意味があるのかもしれない。「里」に置き換えられている箇 所は、決まって、追記がある場所や誤字・脱字のある場所、いわゆる標式が付いた場所が多い。 その点をサトリなさいという意味と採る。  「村」は「尊」の字に通じ、また、『続日本紀』に表記される「村」が「郷」の意味で使われているのは 「尊号」にも繋がる。ひいてはそれらの文字群は「行基」その人に関連する何かを比喩するのではな いかと想像する(34)。  堺市の家原寺墓地に「行基菩薩如法経塚」と刻んだ石塔が丸彫りの亀の台座に据えられている(35) ことは、「亀=基」が「亀」と行基を結びつけるものと考える。 『続日本紀』や『日本書紀』についても、「村」は、行基に関連することを暗喩しているものと考える。  『日本書紀』では、村=フレと訓むほか、新羅国の村をスキと訓んでいる。多くの行基伝に見られる智 光説話の鋤田寺のスキ、年譜に見られる次田里のスキ(36)と重なる。そして、行基と「六斎日」がと深 く関連を持つことを述べた。  『日本書紀』に行基に関連する事項が挿入されることは、常識的に考えて有り得ないことであるが、 前述の「村」表記に関することから考えると、行基に関する暗号を盛り込んだのではないかと想像させ られるところがある。  先に、拙論(37)中で、『大僧上舎利瓶記』の偽作を論じ、『年譜』は、行基に関する事柄を暗示・誘導 する暗号書の役割を果たすものと考察した。そして、四十九院を初め、数多くの池や橋などを造り、奈 良時代に名を馳せた「行基」は、偉大な存在として歴史上に浮かび上がるが、同時に、伝記に現れる 行基は様々な様相を示している。    『続日本紀』の行基卒伝に「薨」が使われていることから、行基は親王及び三位以上の官位に相当 する地位の高い人物の一号と考える。  依然として「行基」の姿は見えてこないが、解読できた暗号の一部は「行基」の実体に一歩近づいた ものと考える。 註 (1)『続々群書類従』(第三、史伝部)、『行基事典』井上薫編、国書刊行会、平成9年、334-335 頁 (2) 井上光貞「行基年譜、特に天平十三年記の研究」『行基 鑑真』所収、吉川弘文館、   昭和58年、170頁。 (3) 米田雄介「行基と古代仏教政策」『行基 鑑真』所収、205頁。 (4) 鎌田元一「郷里制の施行と霊亀元年式」『古代の日本と東アジア』小学館、1991年、128頁。 (5) 郷里制の説明は、 福留照尚「古代の吹田」(『吹田市史』第一巻、平成2年、250―251頁。)等を参照した。   区分も一部援用して使用する。 (6) 井上光貞、註(2) 論文148―149頁を要約した。 (7) 井上光貞、註(2) 論文 149―153頁。 (8) 森明彦「年譜に関する二つの問題」『有坂隆道先生古稀記念日本文化史論集』同朋舎出版、1991年、144頁。 (9) 森明彦、註(8) 論文144―146頁。以下の引用(9-1) (9-2)も同じ。 (10) 枚方市史第一巻、昭和47年、100頁。 (11) 同上書108頁。 (12) 『吹田市史』第一巻、平成2年、247頁から引用する。 (13)福留照尚「古代の吹田」『吹田市史』第一巻、250―251頁。以下の引用についても同じ。 (14) 註(12) 書、247頁から引用する。 (15)布施屋の建立年代は、平城京造営の頃とされるので、当時の表記は国郡里である。    (井上薫『行基』吉川弘文館、昭和34年、44−50頁) (16) 千田稔『天平の僧行基』中公新書、1994年、152頁。 (17)『奈良県史』第六巻寺院編、奈良県史編集委員会編、名著出版、平成3年、54頁。 (18) 森明彦、註(8) 論文144頁。 (19) 吉田一彦『民衆の古代史』風媒社、2006年、125−128頁を要約した。 (20) 同上書117頁。 (21) 同上書132頁。 (22)『続日本紀』3、新日本古典文学大系14、1992年、岩波書店、214頁、注解5。 (23) 註(19) 書、121頁。(鎌田元一『律令公民制の研究』塙書房、2001年) (24)『続日本紀』2、新日本古典文学大系13、1990年、岩波書店、122頁、注解7。   『昆陽寺鐘銘』に大井垣、『竹林寺略録』に土井堰はもと「大井堰一所」とあった。『行基菩薩伝』に大井橋とある。 (25)『日本書紀下』日本古典文学大系68、1965年、岩波書店による。 (26) 森明彦、註(8) 論文145頁。次の「 」書きも同頁。 (27)「行基信仰」『行基事典』井上薫編、国書刊行会、平成9年、403頁。 (28)「一尊仏」「一尊円頂像」「無銘の一尊地蔵」から表記を借用した。 (29) 岩波仏教辞典「斎日」、「六斉日」。 (30)「斉人網隻六魚一小亀」『山東省済南市竜山鎮城子崖遺跡出土碑文』による。 (31) 他の表現もある。「六を蔵すこと亀のごとし」「亀六つを隠す」「亀六の術を忘るべからず」「六をよく   蔵してみつの難波津に楽しく渡れ亀甲の橋(『天保山名所図会』)」 (32) 『行基年譜』三十七歳条の「旧里」=「郷」でもあり、『行基年譜』の「小鮒」の原型は、『日本往生   極楽記』『今昔物語集』などに見られる「小魚」である。 (33) 『続日本紀』の「村」の最後が「六斎日」の数でないものは、十が重なり、二重を意味するかとも   思われるが、何が二重かは未解明である。 (34) 『続日本紀』和銅六年の「玖左佐村」は、『猪名川町史』において「能勢郡として分立する以前は、   その地域は「河辺郡玖左佐村」と呼ばれていた…律令制下の地方行政単位は国―郡―里であり、   …ここで、「郡―里」でなく、「郡―村」となっているのはなぜか」とされている。この解は、「クササ」   を「クサ・サ」の二つに分けると、草(冠)はサであり、サ・サを上下に重ねると、#が出来る。   #は、菩薩である。つまり、村は、菩薩と呼ばれた行基と関連づけることができる。 (35) 「行基信仰」『行基事典』井上薫編、国書刊行会、平成9年、404頁。 (36) スキタ韓語説。これは『大日本地名辞書』の編者吉田東吾の説で、同書政治沿革篇に「次をスキ   と借訓する由は、和字正濫抄の説にも合ヘど、スキの原義は必しもツギとは定め得ず」と述べて契   沖のスキタ説を斥け、スキタ漢語説を唱えている。(『吹田市史』第一巻、185頁) (37)「行基の伊丹における活動を巡っての一考察」2009年。 (参考文献) 宮瀧交二「『日本書紀』の「村」と「邑」に関する一試論」『律令制国家と古代社会』吉村武彦編 塙書房、2005年。
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]

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