藤三娘考



目  次

1 光明皇后の名称
2 『楽毅論』光明皇后署名の真贋
3 不比等の娘たち
4 光明皇后願経
5 願文の比較
6 五月十一日経を光明皇后発願とする問題点
7 第三女は誰か
(追考) 光明皇后五月一日願経と藤三女五月十一日願経について


はじめに  奈良の正倉院に伝わる『楽毅論』は、光明皇后がみずから筆写したとされる。末尾の署名に「藤 三娘」という奥書がある。(1)  「藤三娘」とは藤原不比等の第三女をいうが、これは既定事実とされており、それを疑うことは ないようである。まして、藤三女が光明皇后であることを取り上げ検証した史料も見当たらない。  しかしながら、不比等第一女は、聖武天皇の母であり、聖武天皇と同年生まれの光明皇后との年の差は少な くても十五年の開きがあるとことを想定すると、ありえないことではないが、それが姉妹の三女とすることは 一般的に成立しないのではないか。光明皇后は、藤原不比等の第三女としない史料も存在する。 これを考察していく。 1 光明皇后の名称   表1 光明皇后の名称
期日称号典拠
大宝元年安宿媛延暦僧録文
養老7年8月3日安宿媛興福寺流記の引く「宝字記」
神亀4年11月21日従三位藤原夫人『続日本紀』
天平元年8月10日正三位藤原夫人立后、為皇后『続日本紀』
天平2年8月光明子(興福寺五重塔建立の際)東大寺要録巻1本願章
天平3年(731)〜9年(737)光明発願写経目録
天平6年皇后藤原氏光明子七大寺年表
天平12年3月8日仏弟子皇后藤原氏光明子奉為大宝積経願文
天平12年4月22日内家私印石山寺如意輪陀羅尼経抜語
天平12年5月1日皇后藤原氏光明子奉為五月一日経
天平15年5月11日仏弟子藤三女五月十一日経
天平16年10月3日藤三娘・紫微中台御書楽毅論
天平21年正月14日皇后受戒名万福扶桑略記
皇太后御書「積善藤家」印杜家立成雑書要略
天平宝字2年8月1日天平応真仁正皇太后『続日本紀』
天平宝字3年12月23日菩薩戒弟子皇太后藤原氏光明子道名即真法華寺御願文
天平宝字4年正月11日坤宮官一切経
天平宝字4年6月7日天平応真仁正皇太后崩『続日本紀』
天平宝字6年5月2日皇帝后東大寺要録、光覚知識経
宝亀元年以後佐保皇太后正倉院・礼服礼冠目録
仁政皇后菩薩、諱安宿媛尊、号天下出家応真
仁天皇(皇后カ)尼名光明子沙弥
延暦僧録文、東大寺要録第一
 光明皇后の父親は藤原不比等、母親は県犬養橘三千代である。  安宿媛という名称は三千代の本願、河内国古市郡の東に隣接する安宿郡に因むものといわれて いる。(2)  延暦僧録文、東大寺要録に「出家尼名光明子沙弥」とあるが、いつから、光明子を名乗ったか は分からない。光明皇后がいつ沙弥戒を授戒し、「出家尼名光明子沙弥」となったのかは究明した い課題であるが、これは「皇后藤原氏光明子」と同様のことであれば「大宝積経巻」の願文から 少なくとも、天平12年(740)三月頃には、皇后、安宿媛が「光明子」と名のり始めることが分かる が、『東大寺要録巻1本願章』に、天平2年8月、興福寺五重塔建立の際、「光明子」とある。 そして、奈良の正倉院に伝わる『楽毅論』は、末尾に「天平十六年十月三日 藤三娘」と署名があ るので、光明皇后は、藤原氏の第三女とされているのである。 しかし、「藤三娘」については、それよりも前の天平15年(743)5月11日経にある「仏弟子藤三女」 とも表記が異なり、署名としての一貫性がないことが指摘できる。 2 『楽毅論』光明皇后署名の真贋  『東大寺献物帳』(国家珍宝帳)に「「頭陀寺碑文并杜家立成一巻、白麻紙、瑪瑙軸、紫紙?、 綺帯」「楽毅論一巻、白麻紙、瑪瑙軸、紫紙□、綺帯」右二巻皇太后御書」と記される。(3)  前者の頭陀寺碑文は紛失し、杜家立成雑書要略は署名がなく「積善藤家」の印が押される。(4)  御臨『楽毅論』は、白麻紙二枚半をつかって書かれている。   これに黄麻紙一枚を継いで「天平一六年十月三日、藤三娘」との署名があり、これが光明皇后 の自筆かどうかを疑う指摘がある。  遠藤昌弘は、「これは御臨『楽毅論』が光明皇后であることには問題がないのですが、署名が 別筆によって加えられたのではないかという指摘なのです。我が国では古来より貴顕(きけん) が署名する例はなく、たとえば聖徳太子『法華義疏』・聖武天皇『雑集』・光明皇后『杜家立成雑 書要略』をはじめ平安期の古筆にも署名のないのが通例です。このことから御臨『楽毅論』に署 名のあること。また「藤三娘」とは藤原不比等の第三子の女つまり光明皇后とのことですが、皇? 后に即位して十五年も経てから「藤三娘」と署名していること。また本紙に別紙を継いでいること、 以上三点が理由です。」(5)  継紙の問題は、署名が別筆によって加えられたのではないかという指摘である。  これに対して、飯島春敬は、  「楽毅論[編集]紫微中台御書『楽毅論』の軸題  王羲之の『楽毅論』を臨書した名品。光明皇后臨。巻首(右)と巻末(左)の自署。正倉院蔵。  本文は43行、奥の軸付に黄麻紙一帳を添えて「天平十六年十月三日(744年11月11日)藤三 娘」と、年紀と署名があり、光明皇后が44歳の時の書だと分かる。  かつては署名部分に別紙を継いでおり、本文とやや書風が異なると見なされた事などから皇后 の自筆でないという説もあったが、本文や『杜家立成雑書要略』との詳細な比較などから、現在 は皇后の真筆を疑う意見は皆無と言って良い。(6)」とされる。   図1 紫微中台御書『楽毅論』                  図2 杜家立成雑書要略       遠藤昌弘は、「天平一二年(740)願経の願文には「皇后藤原氏光明子」と書かれ、天平一五 年(743)願経の願文には「仏弟子藤三女」と書かれています。このように名前を略すことは、 長屋王(ながやおう)の神亀(じんき)五年(728)願経の願文に「仏弟子長王」と書かれる例が あります。「仏弟子藤三女」は天平一五年にあたり、御臨『楽毅論』の天平一六年署名「藤三娘」 の前年にあたることから、署名についての問題点は解決してよい。(7)」とする。  春名好重は、「本文は臨書であり、奥書は自運であるから、字形、点画が違うのは当然である。  しかし、筆致は同じようである。(8)」とされ、更に、中田勇次郎は、「本文とこの署名はあきらかに 同筆であり、この巻は、皇后が王羲之の楽毅論をみずから臨書したものと見てあやまりはない。 かってこの両者を異筆とした説があったが取るに足りない。(9)」とされる。  しかし、藤三女筆は光明皇后の自筆とすることについて、素人の目でも、異なると思えるところが あるが、「この場合注意されねばならぬのは、字形や起筆の角度だけでなく、どの程度の筆圧が どのように移動しているかということである。それは運筆―起筆・送筆・終筆―と、ともにある呼吸 にかかわる問題であり、また練度の問題でもある。(10)」とされると門外漢にはどうしようもなく、 「天平一六年十月三日 藤三娘」が他人の手による手跡かを判断することは、筆者としては深入り できない領域であるので、別の面から考察を加える。  また、継紙の問題については、署款と本文の用紙が違っている点については、それらが同一の 紙であるべき必然的な理由は無く、楽毅論が光明皇后の御筆であることを否定する根拠にはなら ないとしている(11)が、本文と署名部分が別紙を継いでいること自体が問題であり、同一時期に作 成された証明とならず、根本的に同一性を疑わせるものであろう。 3 不比等の娘たち  継紙の問題として、筆の真贋を問うことは置いて、「藤三娘」を俎上に乗せる。  光明皇后は、角田文衛が「安宿媛が不比等の三女であったことは、天平16年10月書写の『楽 毅論』の末尾に見られる「藤三娘」という署名によって世間周知の事実である。(12)」とするように、 藤原不比等の第三女とすることは、概ね是認されているようだが、藤原不比等の三女であること は、明確に論証された事実であるとは言えないだろう。  角田文衛によると、「不比等の娘たち」は、 「現在、判明している限りでは、不比等には宮子を長女として五人の娘たちがあった。」 「長女 宮子 文武夫人 太皇大后  次女 長娥子 長屋王室  第三女 安宿媛 光明皇后  第四女 吉日 橘諸兄室、多比能と同一人と認められる。  第五女 殿刀自 大伴古慈斐室」(13)とする。  第三女が見える史料は、五月十一日願経、楽毅論であるが、「藤三娘」=「光明皇后」とする史料は、 楽毅論のみである。 表3のとおり、光明皇后は第二女とされている場合が多いが、第六女や第七女とする史料がある ことが注目される。史料に当たる。 表2 光明皇后の姉妹中の序列
序列史料備考
第2女元亨釈書、本朝皇胤紹運録、大鏡、尊卑分脉、招提千歳伝記、帝王編年記、如是院年代記
第3女平15年5月11日願経、楽毅論(天平16年)、
第6女一代要記(但し孝謙天皇項は第二女とする。27頁。)  83頁。
第7女山階(興福)寺流記五重塔条に引用される「宝字記」
注)本朝皇胤紹運録(群書類従巻60)、『尊卑文脈・公卿補任』帝王編年記(国史大系所収)、  『大鏡』は、「不比等大臣の御女は、二人おはしけり。一所は、聖武天皇の御母后光明皇后と申し ける。今一所の御女は、聖武天皇の女御にて、女親王孝謙をぞうみたてまつり給へりける。(14)」と、 それぞれ、宮子皇太后と光明皇后とを誤るが、二人と限定する。 山階(興福)寺流記五重塔条に引用される「宝字記」は、光明皇后を「淡海公の第7御女」とする(15) ことが、独自で興味深い知見である。  源頼国の女子は、「尊卑文脈には唯一人六条斉院宣旨、後拾作者を挙げるだけであるが、〔諸氏〕や筆者の 考証によって、九人の子女を掲げ得る」(16)とされるから、『尊卑文脈』は、男子の系統の流れを重視して、 皇后や斉院などになった特定の女以外の多くの女子は省かれていることが分かる。  一般的に、婚姻は男女が適齢にならば、長じた者から順繰りにされると思われるから、夫婦となる 年齢は相対的に一致する。諸々の史料から、藤原不比等女を夫の年齢順に並び替える。 表3 藤原不比等女の並び替え
生没年(西暦)生没年(西暦)出典
片野 ?藤原房前681-737公卿補任・尊卑分脉「摂家相続孫」清河母
宮子684?-754文武天皇683-707『続日本紀』
長娥子685?-長屋王684-729尊卑分脉
多比能703?-橘諸兄684-757公卿補任・尊卑分脉
吉日? -752?橘佐為688?-737『続日本紀』
駿河古? 大伴古慈斐696-778『続日本紀』宝亀8年8/19条、古慈斐薨伝
光明子701-760聖武天皇701-756東大寺要録、『続日本紀』
注1) 長屋王は、676誕生説がある。寺崎保広『長屋王』 2) 『続日本紀』宝亀8年8/19条、古慈斐薨伝に「贈太政大臣藤原不比等女を以てこれに妻」とある。  不比等女の片野の存在は、『尊卑分脉』「摂家相続孫」には「従四位下片野朝臣「女」(17)」と 見えるが、『公卿補任』は、藤原清河を「贈太政大臣房前四男、母異母妹従四位下片野(18)」とす るから房前異母妹片野は、不比等女と考えられる。  角田文衛は、吉日と多比能を同一人とされるが、多比能誤記説(19)には無理があると思われ、 『公卿補任』のとおり、左大臣正一位橘諸兄室は多比能朝臣(20)であり、吉日は橘佐為の室と 考える。(21)  『尊卑分脉』は、多比能を「母光明皇后同」とするが、同母の兄妹婚から否定される。 光明皇后と同母の不比等女には、長屋王室の長娥子に比定できる。(22)  角田文衛は、「大伴古慈斐室は、殿刀自(23)」と比定される。  『続日本紀』によると、殿刀自は、天平十九年正月二十日に無位から正四位上を叙位した時、 大伴古慈斐は、同日正五位下から従正四位下に昇叙するので、妻が夫の位階を超えるという 問題点が指摘できる。  藤原氏の子女を俯瞰する中では、出自が不明な女性には殿刀自以外にも駿河古がいる。 駿河古は、房前女で南家豊成室に比定する説(24)があるが、従えない。その説を否定するな らば、消去法で残る駿河古を大伴古慈斐の室に充てざるを得ず、そうすると妻が夫の位階を 超えるという問題は解決する。(25)  藤原不比等の女たちを探し出し、夫の年齢順に並び替えると上記の如くとなる。  すると、光明子は、姉妹の七番目となり、第三女とすることは難しいと思われる。  興福寺流記「宝字記」の作者が「第七女」とすることが妥当と考えると、藤原不比等の第三 女は、誰かということが問題となる。 4 光明皇后願経  光明皇后が発願、写経させた一切経には、天平十二年(740)五月一日経、天平十五年(743) 五月十一日経、天平宝字四年(760)正月十一日発願の坤宮官一切経の都合三部の一切経が 知られている (26)とされる。それ以外には、天平十二年三月八日発願の大宝積経がある。 表4 光明皇后願経
期日願経署名備考
天平12年3月8日大宝積経巻第46皇后藤原氏光明子
天平12年5月1日光明皇后願経皇后藤原氏光明子
天平15年5月11日雑阿含経巻45など仏弟子藤三女
天平宝字4年正月11日坤宮官一切経実物なし
光明皇后の意向によって、書写された五月一日経などの仏典の末尾には同一の奥書がある。 奥書とは書籍の末尾の由緒書きのことで、書写に込めた願いごとを書きつけた願文がある。 特に天平十二年五月一日の皇后の願文を持つ一切経は、唐から帰朝した玄ムの蔵書を借用して、皇后宮 職の下にあった写経所が天平八年九月二十九日から写経を開始したのが、五月十一日経の始まりとされる 。(27) 5 願文の比較  願文は、「類型的な表現方式に縁取られたものである。(28)」とされるので、一定様式化されれ ば類型を持つので、それを見ていく。 (1)光明皇后願経  光明皇后の五月一日願経には、次の願文がある。(29)  「皇后藤原氏光明子、奉為尊考贈正一位太政太臣府君、尊妣贈従一位橘氏太夫人、敬写一切経論、荘厳既了、伏願憑斯勝因、 奉資冥助、永庇菩提之樹、長遊般若之津、叉願上奉 聖朝、恒延 福寿、下及寮釆、共尽忠節、叉光明子自発誓言、弘済沈倫、勤除煩障、妙窮諸法、早契菩提、乃至 伝燈無窮、流布天下、聞名持巻、獲福消災、一切迷方、会帰覚路、天平十二年五月一日記」  これは、文章が練られ改良されたものと思われる。  光明皇后の願経には、いまひとつ大宝積経巻第46に次の願文がある。(30)  「皇后藤原氏光明子、奉為 尊考贈正一位太政太臣府君、尊妣贈〔従脱カ〕一位橘氏太夫人、敬書 写大宝積経、以奉資冥助、伏願憑斯勝因、永庇菩提之樹、長遊般若之津、天平十二年三月八日記」  これは、五月一日経の前であり、願文が短く、聖朝以下の部分はないが、言葉は共通する。 表5 願意経の比較
発願期日願意現存数備考
天平十二年三月八日尊考尊妣光明皇后大宝積経巻第46御書
天平十二年三月十五日経亡考、見在内親郡主、聖朝、自発誓言、藤原北夫人一切経「元興寺印」
天平十二年五月一日経尊考尊妣、聖朝、自発誓言、一五九部九〇七巻光明皇后正倉院聖語蔵に七五〇巻
『大日本古文書』2-255
天平十五年五月十一日経二親、七世父母六眷属九巻藤三娘一切経
 ところで、表5のとおり、天平十二年三月八日記大宝積経から平十二年五月一日一切経の間に、 藤原夫人一切経がある。その願文は、 「維天平十二年歳次庚辰三月十五日、正三位藤原夫人奉為 亡考贈左大臣府君、及見在 内親 郡主、発願敬写一切経律論各一部、荘厳已訖、設齋敬讃、藉此勝縁、伏惟 尊府君道済迷途、 神遊浄國、見在 郡主心神朗慧、福祚無彊、伏願 聖朝萬壽、國土清平、百辟盡忠、兆人安楽、 及檀主藤原夫人常遇善縁、必成勝果、倶出塵労、同登彼岸(31)」とある。  ここで、亡考贈左大臣府君は、藤原房前であり、見在内親郡主は牟漏王と思われる(32)ので、 藤原夫人は、聖武天皇の二人の藤原夫人のうち、北夫人(北殿)と言われる藤原房前女であり、 故房前の冥福と母牟漏王の福善を祈願したものである。  「天平十二年といえば、「亡考贈左大臣府君」即ち房前の薨じた天平九年四月十七日から、 正しく三周忌に当っている。」(33)  そして、天平十二年三月八日発願大宝積経から平十二年五月一日一切経の願文の「聖朝、 自発誓言」の追加は、藤原夫人一切経をみて、改めたものと考えられる。  五月一日経と五月十一日経の比較は、願文の大きな違いが見られる。 (2) 藤三女の五月十一日願経  五月十一日経には、次の願文がある。(34) 「維天平十五年歳次癸未五月十一日、仏弟子藤三女稽首和南十方諸仏諸大菩薩諸賢聖衆 弟子、孝誠多爽、惜時夙傾、四節有返践之期、千載元重承之、望仰託慈悲、庶展哀感、奉為 二親魂路、敬写一切経一部、願以該写経功徳、仰資 二親尊霊、帰依浄域、曳影於観史之官、 遊戯覚林、昇魂於摩尼之殿、次願七世父母六親眷属、契会真如、馳紫輿於極楽、薫修誓日、 沐甘露於徳池、通該有頂、普被无辺、並出塵区、倶登彼岸、」  光明皇后の五月一日経と五月十一日経の二つの願文を比較すると、三月八日経と五月一日 経を比べた場合は多くの共通する言葉が使用されたが、五月一日経と五月十一日経両者の比 較では、共通の言葉がほとんど使用されていないことが分かる。  藤三女五月十一日経の願文は、「維発願日」から始まる形式等、藤原夫人一切経と似通った 部分があり、藤原夫人一切経の願文を参考にしたものと思われる。  また、「通該有頂、普被无辺」は、石川年足願文と同じくし、玄ムの願文と類似する。(35)  しかし、藤三女の五月十一日願経には、皇后の立場を離れ、個人としての写経であったとして も、父母の名や五月一日経に見える「聖朝」が記されず、藤家の皇后としての願意が全く反映さ れていないように窺える。 6 五月十一日経を光明皇后発願とする問題点  五月十一日願経と五月一日願経との願文には共通性が認められないことを述べた。  皆川完一によると、「五月一日経の写経は、天平八年九月二十九日から開始され、天平十四 年十二月十三日一旦終了するが、天平十五年五月一日再開し、天平勝宝末年まで続いたので ある。総巻数は推定するところ、7000巻位になったと思われる。(36)」とする。 同時に、天平十五年四月一日からは、聖武天皇の大官一切経の書写が始まる。(37) このように、五月一日経の写経事業は、天平十五年五月十一日経の写経時期と重なるのである。  皇后として、皇后宮職の組織を使った写経事業が継続している最中、更に皇后個人として新た な一切経書写取り組むのは、不自然で疑問と思われる。  五月十一日経については、『大日本古文書』に書写所文書が存在せず、皇后宮職に関連する 写経所を利用したことも見えず、写経機関も不明である。(37-1)  五月一日経が正倉院に大量に保存されているのに対し、五月十一日経は、現存しているものが九部と少な く、保存保管方式も違ったのであろう。因みに、長屋王経は、和銅経は滋賀県などに三十巻残るが、神亀経 は五巻現存するだけである。  「藤三女」を無視すれば、光明皇后との接点はない。  五月十一日経の奥書を見ると、経典本文と奥書の筆跡が明らかに異なり、また、楽毅論に見え る光明皇后の筆跡とも異なる(38)ので、奥書は光明皇后と別人の藤三女本人のものと思われる。          図3 海龍王寺蔵の自在王菩薩経(『光明皇后御伝』1953)       以上から、五月十一日経は光明皇后の写経としては疑わしいものとなり、不比等の女の考察と 同様に、藤三女は光明皇后であることが否定されることになる。 7 藤三女は誰か  願文には、固有名詞が使われていないが、二親、七世父母六眷属の冥福を祈る。  「仏弟子藤三女」と仏弟子を使う。ここから、同じ仏弟子を名乗り、写経を起こした人物として 長屋王を連想する。  長屋王は、神亀経の跋文に「仏弟子長王」が用いられる。(39)  長屋王は仏教の信仰あつく、神亀三年五月十五日に大般若経一部600巻の書写(「長屋王願 経」)を発願している。  また唐の仏教界に千領の袈裟(けさ)を贈ったが、そこには次の文字が縫いとりされていた。   「山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁」(40)のとおり「仏子」と記される。 表6 長屋王写経と五月十一日経の比較
区分 願文備考
長屋王神亀経神亀五年歳次戊辰五月十五日、佛弟子長王、至聖発願奉写大般若経一部六 百巻。其経乃行行列華文列、勾勾含深義。讀誦者邪?去悪、閲者福納臻栄。 以此善業、奉資登仙二尊神靈、各随本願、往生上天、頂禮弥勒遊戯浄域、 面奉弥陀、并聽聞正法、倶悟无生忍。又以此善根、仰資現御宇天皇并開闢 以來代代帝皇、三寳覆護、百靈衛。現在者争栄於五岳、保壽於千保、登 仙、生浄國、昇天上、聞法悟道、脩善成覺。三界含識、六趣稟霊、无願遂、 有心必獲、明矣因果、達為罪福、六度因滿、四智果円七、八、九(七難八苦)がない。
天平十五年五月十一日経維天平十五年歳次癸未五月十一日仏弟子藤三女稽首和南十方諸仏諸大菩 薩諸賢聖衆弟子、孝誠多爽、惜時[怙恃]夙傾、四節有返践之期、千載无重承之、 望仰託慈悲、庶展哀感、奉為 二親魂路、敬写一切経一部、願以該写経功徳仰資 二親尊霊、帰依浄域、曳於観史之官、遊戯覚林、昇魂於摩尼之殿、 次願七世父母六親眷属、契会真如、馳紫輿於極楽、薫修誓日、沐甘露於徳 池、通説有頂、普被无辺、並出塵区、倶登彼岸八、九(八苦)がない。
石川朝臣年足願経 1『灌頂随願往生経』(天平九年十二月八日)
維天平九年歳次丁丑十二月庚子朔八日庚子 仏弟子出雲国守従五位下勲十二等石川朝臣年足 稽首和南一切諸仏諸大菩薩賢聖等…塵勞並出盖纒 倶登彼岸
2『観弥勒菩薩上生兜率天経』(天平十年六月二十九日)
…年足稽首和南十方諸仏伏願 契道能仁 昇遊正覚 菩提樹下 聞妙法之円音 兜率天中得 上真之勝業通該有頂普被無辺並泛慈航 同離愛網
3『大般若波羅蜜多経』(天平十一年七月十日)
…仏弟子出雲国守従五位下勲十二等石川朝臣年足 稽首和南 一切諸仏諸大菩薩賢聖等、託想玄津、庶福 於安楽、帰心実際、冀果於菩提 敬写大般若経一部 置浄土寺 永為寺宝 以此功徳 慶善日新 命緒将劫石倶延 寿算与恒沙共遠 又願内外眷属  七代父母
 五月十一日経と長屋王写経の比較では、一部に同じ語句を用いる。  仏弟子と共に、仏教用語を多用し、巧みに、八、九を除いた数字を配置するから、藤三女 は長屋王神亀経を参照したのだろう。  また、石川朝臣年足が天平九年から三度に渡り行なった写経においても、その文言と一致 する部分がある。藤三女が光明皇后であるならば、光明皇后は皇后宮職という組織を持つか ら、低位貴族の願文を真似ることもなかろう。  天平十五年五月十一日経には、人名詞が使われていない。藤三女五月十一日経の願文中に は、伴侶の存在が見えない。長屋王十七回忌は、天平十六年に当たるから、天平十五年は、 その前年である。すると、藤三女は、長屋王十七回忌に間に合うよう、一切経書写に取り組 んだ可能性がある。長屋王は、「私学佐道、欲傾国家」と天皇らを呪詛したとの誣告により、 一族とも自害し、或いは罪に問われたので、藤原長娥子は、「長屋王室」とせず、「藤三女」 として、願意の対象を長屋王だけでなく広く七世父母六親眷属の冥福を祈ることとしたので あろう。  そして、光明皇后発願の天平十二年五月一日経が多く残存するのに対して、「五月十一 日経は現存するもの極めて少く、これを他の文献に照らしてみでも全く不明というほかはな い。(41) 」として、現存九巻が知られるとする。  また、長屋王の「神亀経で現存するのは、断簡を含めて五巻のみ」(42)であるから、政治 的に抹殺された長屋王に関するものは敬遠され、現在に多く伝わらないものと思われる。  このようなことから、「藤三女」は長娥子と考えられる。  長娥子の子に安宿王と教勝がいる。そして、安宿王宅は写経所組織を有しており、安宿 王は天平十年頃以降写経活動を行っていたことが知れる。(43)、  また、教勝については、正倉院文書の天平15(743)年2月24日奉請の文書に、教勝所が 『解深密教』『法華経』『薬師経』『金剛般若経』『弥勒経』などの経典を借りたことが 見える。(44)  教勝一切経は、その存在が具体的に見えないから、これら借り受けた経典の一部は、天 平十五年五月十一日に発願する長娥子の一切経書写に利用されたものと考えられる。  安宿王の安宿は、光明皇后の幼名「安宿媛安宿王」と通じるものがあり、三千代の出身地 でもある。長娥子の長子が三千代の孫であれば、安宿王とされても不思議でなく、長屋王の 子である安宿王や黄文王が橘奈良麻呂の変(『続日本紀』天平宝字元年七月二日条)に与す るのはお互い従兄弟同士であれば理解できよう。  このように考えると、藤三女は、藤原不比等の女で長屋王の室であった藤原長娥子と考える。 結びに  光明皇后は、楽毅論の継ぎ紙に、皇后に即位して十五年も経てから「藤三娘」と署名している。  天平十二年五月一日に「皇后藤原氏光明子」と名乗っているのに、その後の天平十五年五月 十一日に「藤三女」、天平一六年十月三日に「藤三娘」と、せっかく得た「皇后」或いは沙弥名 「光明子」を名乗らないことが不可解であり、「藤三女」、「藤三娘」と異なる表記も疑問である。  興福寺流記にひく「宝字記」に光明皇后は、藤原不比等の第7女とされるから、夫の年齢の 順から考えると、妥当と思われ、藤三女は光明皇后と考えがたい。  そして、藤三女は、名前が出せない長屋王十七回忌供養に合わせて、長屋王と共に「七世 父母六親眷属」の冥福を祈るため、一切経写経を発願したものであり、藤三女は藤原長娥子 と考える。  そして、その母は、県犬養橘三千代である。  光明皇后、藤原北夫人に引き続き、一切経書写に取り組んだものと思われる。 註 (1)国史大辞典第三巻、吉川弘文館、1982年、382頁。「楽毅論」(内藤乾吉) (2) 中川収「県犬養橘宿禰三千代」『日本古代の社会と政治』吉川弘文館、1995年、440頁。 (3) 渡辺晃弘『平城京と木簡の世紀 日本の歴史04』講談社、2001年、口絵写真。 (4)丸山裕美子『正倉院文書の世界』中公新書、中央公論社、 2010年、34頁。 (5)遠藤昌弘 『玄筆』10号、1997年1月/Web版2006年4月再編・加筆。  楽毅論の疑いの3点は、瀧浪貞子も同様に紹介している。(『光明皇后』中公新書2457、2017年、217-219頁。) (6) 飯島春敬「光明皇后御書楽毅論の疑いについて」『日本書道大系1 飛鳥・奈良』所収、講談社、1974年。 (7) 遠藤昌弘 『玄筆』10号、1997年1月/Web版2006年4月再編・加筆。 (8)春名好重『書の文化史』新人物往来社、1987年 、100頁。 (9)中田勇次郎『書道芸術 聖徳太子・聖武天皇・光明皇后』第11巻、中央公論社、1972年、211頁。 (10) 野津栄「天平時代における「王羲之」」『島根大学教育学部紀要』第3三巻、1970年、18頁。 (11)湯沢聡「正倉院所蔵楽毅論について」『書学書道史研究』巻10、2000年、87頁。 (12) 角田文衛「不比等の娘たち」『律令国家の展開』塙書房、1965年、60頁。初出1964 (13) 同上書、57-69頁。 (14) 『大鏡』古典文学大系21、岩波書店、1960年、229頁。 (15) 小林裕子『興福寺創建期の研究』中央公論美術出版、2011年、110頁。 (16)『狭衣物語』古典文学大系21、岩波書店、1965年、「狭衣物語解説」5頁。 (17)『新訂増補国史大系 尊卑分脉』第一編、吉川弘文館、1983年、33頁。 (18)『新訂増補国史大系 公卿補任』第一編、吉川弘文館、1982年、31頁。 (19) 角田文衛「不比等の娘たち」『律令国家の展開』塙書房、1965年、65-66頁。 (20) 橘奈良麿「左大臣正一位諸兄一男。母淡海公女、従三位多比能朝臣」とする。  (『新訂増補国史大系 公卿補任』第一編、吉川弘文館、1982年、31頁。) (21) 拙論「橘佐為考」 (22) 角田文衛「不比等の娘たち」のなかで、藤原長娥子を長屋王室と比定するが、筆者は、さらに、長娥子の母を県犬養三千代と比定する。 (23) 角田文衛「不比等の娘たち」『律令国家の展開』塙書房、1965年、67-69頁。 (24) 林睦郎『続日本紀』第三分冊、現代思潮社、1986年、11頁。注巻17(40頁。注5)   私見、豊成室には、「藤原殿刀自」を充てる。駿河古を豊成室に充てないのは、天平勝宝元年4月の時   点で、駿河古と袁比良売は、共に「正五位下」で同位であるが、天平19年正月に殿刀自は、「正四位   上」である。従二位豊成と正三位仲麻呂の位階の比較から、豊成室(嫡妻)は、仲麻呂室袁比良売より   上位と考えられるのである。そして、殿刀自を藤原房前の娘とすると、豊成の政治的立場と一致するよ   うに思われる。 (25) 天平19年正月20日、大伴古慈備(696-778)は正五位上から従四位下に昇叙し、この日、藤原殿   刀自は無位から正4位上に叙位され、藤原殿刀自が大伴古慈備より上位となるが、駿河古は、勝宝   元年4月1日、従五位上から正五位下となるから、古慈備との釣り合いが取れる。 (26) 皆川完一「光明皇后願経五月十一日経の書写について」『日本古代史論集』上巻、坂本太郎博士   還暦記念会編、吉川弘文館、1962年、503頁。 (27) 同上論文534-535頁。 (28) 渡辺秀夫「願文」『仏教文学講座』第8巻 唱導の文学、伊藤博之他編、勉誠社、1995年、147頁。 (29) 皆川完一、前掲(26)論文、503頁。 (30) 同上論文、557頁。 (31) 京都国立博物館図録『古写経―聖なる文字の世界―』所載『仏説阿難四事経』の写、川崎晃『古  代学論究 古代日本の漢字文化と仏教』慶応義塾大学出版、2012年、283頁。 (32) 川崎晃『古代学論究 古代日本の漢字文化と仏教』慶応義塾大学出版、2012年、285頁。 (33) 堅田 修「古代貴族と仏教−特に奈良時代の藤原氏について−」『大谷大学研究年報』第18号、  1965年、280頁。 (34) 五月十一日経願文/皆川完一、前掲(26)論文、557頁。(説→概の誤りあり。) /大屋徳城註(35)論文 377頁。 (35) 大屋徳城『寧楽仏教史論』国書刊行会、1987年、377頁。 (36) 皆川完一前掲(26)論文、534-543頁。 (37) 丸山裕美子『正倉院文書の世界』中公新書2054、2010年、169頁。 (37-1) 栄原永遠男『奈良時代写経史研究』塙書房、2003年、21頁。 (38) 中田勇次郎『書道芸術 聖徳太子・聖武天皇・光明皇后』第11巻、中央公論社、1972年、186頁。  「五月十一日経は御筆でない。」 (39) 寺崎保広『長屋王』吉川弘文館、1992年、230頁。 (40) 同上書、240頁。/『唐和上東征伝』 (41) 皆川完一、前掲(26)論文、503頁。 なお、現存のものは、放光般若波羅蜜経巻第九(竜光院)。自在王普薩経巻上。巻下(海竜王寺)・   不空羂索神変真言経巻第九(古経題跋随見録谷森氏蔵)・超日明三昧経巻上(知恩院)・雑阿含  経巻第卅九(金剛峯寺)。巻第四十五(小倉コレクション保存会)。別訳雑阿含経一巻(宝厳寺)。  正法念処経巻第十八(大徳寺)の九巻が知られるのみである。(皆川完一、前掲(24)論文、557頁。) (42) 寺崎保広『長屋王』吉川弘文館、1992年、230頁。 (43) 西洋子「岡本宅小考」『国史談話会雑誌』38号、吉川弘文館、1997年、 44頁。 (44)『大日本古文書』東京大学、7巻-217〜220頁。 [参考文献] 光明皇后会編 『光明皇后御伝』光明皇后会、光明会、1953年。 小倉慈司「五月十一日経願文作成の背景」『日本律令制の展開』笹山晴生編、吉川弘文館、2003年。 吉川真司『日本律令官僚制の研究』塙書房、1998年。 栄原永遠男「北大家写経所と藤原北夫人発願一切経」『律令国家の政務と儀式』虎尾俊哉編、吉川弘文館、1995年。 栄原永遠男「藤原光明子と大般若経書写」『古代の日本と東アジア』上田正昭編、小学館、1991年。 川崎晃『古代学論究 古代日本の漢字文化と仏教』慶応義塾大学出版、2012年、283頁。 皆川完一「光明皇后願経五月十一日経の書写について」『日本古代史論集』上巻、坂本太郎博士還暦記念会編、吉川弘文館、1962年。 飯島春敬「光明皇后御書楽毅論の疑いについて」『日本書道大系1 飛鳥・奈良』所収、講談社、1974年 石川九楊 「意志の化成 光明皇后「楽毅論」」、『日本書史』所収 名古屋大学出版会、2001年 林陸朗 『光明皇后』(吉川弘文館<人物叢書>、1961年)新装版、1986年 木村卜堂 『日本と中国の書史』(日本書作家協会、1971年)) 『奈良平安の書1 楽毅論・杜家立成雑書要略 光明皇后』 (天来書院、2002年) 木本好信 『藤原仲麻呂』(ミネルヴァ書房<ミネルヴァ日本評伝選>、2011年) 横田健一「安積親王の死とその前後」(『白鳳天平の世界』、創元社、1973年)。 木本好信「藤原仲麻呂による安積親王暗殺説の検討」(『政治経済史学』452号、2004年)。 山口 博「安積皇子の死」(『史聚』39・40合併号、2007年)。 湯沢聡「正倉院所蔵楽毅論について」『書学書道史研究』巻10、2000年、81-91頁。 野津栄「天平時代における「王義之」」『島根大学教育学部紀要』第三巻、1970年2月、頁。 角田文衛「不比等の娘たち」『律令国家の展開』塙書房、1965年、60頁。 朝枝善照『日本仏教源流章』自照社出版社、2004年、63頁。 丸山裕美子『正倉院文書の世界』中公新書2054、2010年、23頁。 堀池春峯「光明皇后御願喩伽地論の書写について」『南都仏教史の研究』上、東大寺編、法蔵館、1980年、285−286頁。 高島正人『藤原不比等』(吉川弘文館<人物叢書>、1997年)新装版、1986年 坂上康俊『平城京の時代シリーズ日本道古代史C』岩波新書1274、2011年 瀧浪貞子『光明皇后』中公新書2457、2017年
(追考) 光明皇后五月一日願経と藤三女五月十一日願経について(2022/05/02)
1 光明皇后発願経と藤三女発願経の違い (1)願文の日附 光明皇后発願経の天平十二年五月一日と藤三女発願経の天平十五年五月十一日は、約三年の期間が 空いた一切経の発願になる。  光明皇后発願経の「天平十二年五月一日」の意義は、「(光明皇后が)釈迦の半生に当たる四十歳に なった時、長斎の場で功徳荘厳が終わった後、儀式の場に自ら誓って四弘誓願を発した。天平十二年 五月一日に光明子が菩薩として仏道を求める決意を正式に表明したという意味になるのであろう。(1)」 とされる意義を是認するならば、天皇妃として最高位の皇后に上り詰めた光明子が天平勝宝末年まで 続いた写経継続中に、新たに「藤三女」としての一切経の写経を行う意義はないように思われる。 (2)写経機関  光明皇后発願経は、皇后宮職の組織を使った写経事業であり、東大寺正倉院文書に写経事業の子細 が残されているが、藤三女発願経の痕跡は東大寺正倉院文書に残らず、皇后宮職など写経機関の組織 を利用したことが見えないことは、先に指摘したところである。 (3)願文の比較  光明皇后発願経と藤三女発願経の願文について、使われる語句や言葉及び筆跡に共通性が認められ ないことは先に述べたが、その願文がある位置について、藤三女発願経は写経の冒頭部分とされてい るのに対して、光明皇后発願経は写経の奥書き部分に位置するので、構成においても共通性・一貫性 が認められないのである。 (4)藤三女発願経「怙恃夙傾」  藤三女発願経に一つに、滋賀県宝厳寺所在の『別訳雑阿含経巻第十』があり、願文中に「弟子孝誠 多爽、怙恃夙傾…奉為 二親魂路、敬写一切経一部」と言う言葉がある。「弟子孝誠多爽、怙恃夙傾」 は「弟子の孝誠多く爽(たが)ひて、怙恃(ごじ)夙に傾けり」と訓読されている。(2)  「怙恃は父母のこと。怙、恃はいずれもタノムの意、夙傾は両親が早く亡くなったということ。 「弟子孝誠多爽」と表現するように、自分の至らなさによって、両親の早世をまねいたという謙辞と みられる。」とされる。(3) ところが、父藤原不比等は満六一歳、母三千代は満六八歳の逝去と想定されるならば、六一歳は課役 が免除される年齢なので、父母の逝去は決して早世ではなく、文言が適切でないことと判断できる。  「怙恃」は、奈良朝写経の東京・根津美術館所在『大般若経巻第五十七(善意願経)』に「念愍育之 言、即更何恃怙」と「恃怙」が使われ、「(玄ム)の愍育之言を念へば、即ち更た何にか恃怙せむや」 と訓読されている。(4)  「怙恃・恃怙」は、頼るものと解すれば、藤三女発願経の「怙恃」は夫のことであり、つまり、満 四十四歳(懐風藻)の時に冤罪で亡くなった長屋王を指すと考えられ、「孝誠多爽」の表現も信仰の至 らなさ(実際はそうではなかろうが)によって、長屋王らの早世を招いた自責の念とすれば理解できよ う。 2 派生する事項 (1)『楽毅論』  『楽毅論』は、軸の表紙に「楽毅論 紫微中台御書」とあり、末尾に別紙で「天平十六年十月三日  藤三娘」が付されるので、軸額名と楽毅論署名が一致しない。天平十六年に作られた『楽毅論』は、 天平勝宝元年(749)に成る紫微中台(皇后宮職の後身)名の御書は、『東大寺献物帳』(国家珍宝帳) の「楽毅論一巻、白麻紙、瑪瑙軸、紫紙?、綺帯、右皇太后御書」と記載とも異なる。  先に『楽毅論』末尾「天平十六年十月三日 藤三娘」の「藤三娘」については、約一年前の天平十 五年五月十一日経にある「仏弟子藤三女」とも表記が異なり、署名としての一貫性がないことを指摘 した。 「藤三女」は、藤原(不比等)家の三番目のムスメという自称であろう。  しかし、『楽毅論』の「藤三娘」の記載は自称としては違和感がある。 「娘」は、「女と、良い意と音を示す良リャウ→ヂヤウとから成り、もと、美しい女子の意を表わし、 特に男が女を呼ぶ愛称に用いたが、嬢と混用されている。日本では、娘を「むすめ」の意、嬢をその 敬称に用いる。」(角川新字源)とある。  ここから考えると、光明皇后を「藤三娘」と記することは、自称とするより、自称を装った他者に よる無意識のうちに用いられた他称(敬称)ではないか。  「天平十六年十月三日」の日附について、「十」は「六」を書き始めた途中で直したので、太い字 の「十」になったようである。先学は誰も指摘しないが、「十月三日」は、藤三に通じる。 「十六」は「四四十六」で、「藤原四子は富む」という寓意を込めた作為があるのではないか。 (2)「積善藤家」の印  『楽毅論』光明皇后署名の真贋を考える時に、同じく光明皇后筆の「杜家立成雑書要略」が引き合い に出される。『東大寺献物帳』には「頭陀寺碑文并杜家立成一巻、白麻紙、瑪瑙軸、紫紙□(衣篇に票 の字)、綺帯」との記載があるが、前者の頭陀寺碑文は紛失し、現存する「杜家立成雑書要略」は署名 がないが、そこには「積善藤家」の印が押されている。  光明皇后の印には、「内家私印」があるが、ほぼ同サイズの「積善藤家」印も光明皇后の印とされる。 しかし、天平元年二十九歳で皇后になった安宿媛が「内家私印」に加えて、「積善藤家」印を使用した とは考えられない。  藤原仲麻呂は、天平宝字二年八月甲子(25日)「恵美押勝」の名を賜るとともに、その家を「恵美家」 と称し、私印として「恵美家印」使用を許されたが、この「恵美家印」及び印影は確認されていない。 他方、藤原仲麻呂が僧延慶に書かせた『藤氏家伝』「武智麻呂伝」には「積善余慶」という字句がある。 すると、「積善藤家」印は、藤原仲麻呂が単独で使用できた「恵美家印」でなかったかと憶測するもの である。 「積善藤家」印は、藤原仲麻呂の印とするならば、光明皇后筆「杜家立成雑書要略」が否定されること に繋がるかもしれない。 註 (1) ブライアン・ロゥ「仏教信仰面からみた五月一日願文の再考」『上代写経識語注釈』上代文献を読   む会編、勉誠出版、2016年、572頁。 (2) 『上代写経識語注釈』上代文献を読む会編、勉誠出版、2016年、232頁。 (3) 同上235頁。 (4) 同上263-264頁。

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