行基と道昭



はじめに
  『続日本紀』の道昭と行基の卒伝には、奇異及び霊異があることが共通する。
 道昭の事績及び行基と道昭の子弟関係など二人の接点を考察するなかで、『続日本紀』編
者の隠された意図を探ることを目的とする。

1 道昭について
(1)道昭伝
『続日本紀』文武紀四年三月己未の道照(道昭)伝に
「(700年)3月10日、道照和尚物化す。天皇は甚だしくこれを悼み、使いを遣って供養した。
和尚は河内の国の丹比郡の人なり。 俗姓は船連で、父は恵釈で少錦下だった。
 和尚は戒行を欠ける事が無く、もっとも忍行を尚べり。かって弟子が、その性格を究めようと、
密かに便器を穿ち、漏れて被褥を汚した。和尚は微笑んで「放蕩な少子は人の床を汚す」と言っ
た。その後、又一言も無かった。 
 和尚は、孝徳天皇、白雉4年(西暦653年)の時、使いに随って入唐して、玄奘三蔵に遇って
師として業を受く。… (道照和尚は)元興寺の東南の隅に、禅院を建てて住んだ。この時、
天下行業の徒は和尚に付いて禅を学ぶ。後において(和尚は)天下を周遊して、路傍に井戸を穿
ち、諸の津済(港)に船を設け橋を造る。山背の国の宇治橋は和尚の造る所なり。
 和尚は周遊すること凡そ十年、勅の求めあり、還って禅院に住む。座禅は元の如く。或いは三
日に一度起き、或いは七日に一度起き、忽然として房より香気出づ。諸弟子怪しみてすなわち見
れば、和尚は縄床に端座して気息あることなし。時に、七十二歳。弟子等は遺言の教えを奉って
栗原に火葬す。天下の火葬は之より始まれり、と世伝えて云う。 
 火葬し終わって親族と弟子相争って、和上の骨を取り集めんと欲するに、つむじ風たちまち起
きて灰骨を吹き上げて終にその行くところを知らず。時の人これを見てあやしむ。後に都を平城
に遷すときなり。和尚の弟及び弟子等は奏聞して禅院を新京に建てる。今の平城右京の禅院これ
なり。ここに経論多くあり、書又よく楷書にして錯誤がない。皆和上の持ち来たれるものなり。(1)」
とあり、火葬し終わった後、つむじ風が灰骨を吹き散らした奇異な出来事が記される。
(2)道昭の名前の表記
道昭日本書紀、日本霊異記(高野本)、僧綱補任抄、三国仏法伝通縁起
道照続日本紀、三代実録、類聚国史、日本霊異記(高野本)、今昔物語
 最古の記録である『日本書紀』は、「道昭」とするから、『続日本紀』が「昭」の文字を「照」 と変えたのは、何らかの意図があったのかも知れない。道照は、道を照らし合わせよという意味 となる。行は、「もと、十字路の形にかたどり、人通りの多い道の意を表わした。(角川・新字源)」 とあり、道の辻、巷のことである。 (3)船氏の家系と氏寺
氏寺備考
津氏善正廃寺菅野朝臣真道(『続日本紀』編纂者)
船氏野中寺塔の心礎石に亀の姿…亀が塔を支える
葛井氏葛井寺
 道昭の属する船氏は、百済からの帰化人である王辰爾の末裔である。(2) 行基もまた墓誌の中で、百済王子の後裔とされている。 (4)道昭の事績 唐留学  道昭は、藤原鎌足長子の定恵と共に唐に留学し、斉明天皇7年(661年)に帰朝した。  道昭が居住した禅院には多くの経典を保有したことは正倉院文書で知られる。 平城遷都  道昭の死後であるが、興福寺と並んで、いち早く東南禅寺を平城京に移した。 道昭の教化の足跡  宇治橋、山崎橋、道昭池(住吉区)、敬正寺は道昭が建立した寺の後進と伝える。(3) 道昭は、やがて、天下に周遊して、路傍に井戸を穿ち、諸津に船を造り、橋を架けて、社会事 業に積極的に取り組んだが、十年後に勅命によって元興寺に戻され、境内隅の禅院に留めおか れることになった。(4)  持統天皇6年(692)薬師寺繍佛開眼講師を勤め、その賞をもって6年後に大僧都に任命されて いる。(5) (5)宇治橋断碑  宇治橋断碑は、京都府宇治市の橋寺放生院にある宇治橋の由来を記した石碑の断片で、大化二 年(646年)に僧道登が架橋したと記す。日本現存最古の石碑のひとつと考えられる。(6)  これは宇治橋を架けたのは道昭とする『続日本紀』の記述「乃ち山背国の宇治橋は、和尚の創 造せし所の者なり」と異なる。  また、木幡上人真空(1204-1268)が誌した『城州宇治川橋之縁起(大日本仏教全書117)』には、 「推古天皇十二年…其後経二四十一箇年一元興寺道昭和尚之創造也」とある。これを計算してみ ると「大化二年」となる。これは、碑文の架橋時期と同じであるから、建造時期が正しいとすると、 この年、道昭は18歳であるから、道昭の宇治橋建造は無理であろう。(7)  宇治橋は、宇治橋断碑のとおり、大化二年に僧道登が架橋したことでよいだろう。  ちなみに、『行基年譜』を見ると、山崎橋は、行基が架け直す前には、船大徳(道昭)が掛けたと されているから、宇治橋との誤認があったのだろうか。  『続日本紀』に卒伝が記される僧は6人いる。義淵、道照、玄ム、行基、鑑真、道鏡である。  「『続日本紀』全体で、和尚と記すのは、行基と道昭のみであり、両者の伝記には、『続日本紀』 の編者の文飾が加わっていることを留意すべきであろう。 (8)」とされる。 (6)火葬  『続日本紀』に「天下の火葬此れより始まれり」「弟子等遺教を奉じる」とある。  岩城隆利は、「この最初の火葬は、これ以前にすでに火葬があったことが考古学的に証明されて いるといわれるので、これを伝承としておこう。」とされる。(9)  しかし、道昭が火葬を遺言し、道昭が初めて公的に火葬されたならば、その作法を実行した者 がいる。(10)  後に、「三昧聖」と言われる人たちの前身であれば、それは、道昭に縁の人たちであり、道昭が 「三昧聖」の祖であるとも考えられる。  道昭の後、703年には持統天皇、707年には文武天皇の火葬が行われている。  このことから、考えれば、「三昧聖」の祖は、道昭に繋がる可能性がある。  井上薫氏は、「道昭の遺体は、遺言にもとづき、弟子らの手により粟原で火葬に附された。行基は、 その弟子の中にまじっていたであろう。(11)」と推測されているが、この推測の是非は別として、 行基もまた東大寺系の三昧僧から、祖とされ(12)、『行基菩薩草創記』(寛保3年1743、本良著)に 見られるとおり、「三昧聖」の祖は、行基に受け継がれている。 (7)火葬の地  火葬の地が栗原と粟原に分かれることについて、石村喜英の著作を要約する。(13)  道昭を火葬に付した山作地については、古く『続紀』の所伝に粟原(おおばら)説と栗原(くり はら)説があって現在でも確定的な地は未詳のままである。  栗原(くりはら) は、奈良県高市郡坂合村栗原(現在の高市郡明日香村栗原)で、古くは、呉人(く れひと)の居住地域で雄略朝の頃は、桧隈野の中の呉原の地であった。呉原寺(竹林寺)がある。 竹林寺は、坂上駒子が敏達天皇のおんために建立したものであった。  粟原(おおばら)は、奈良県磯城郡多武峰村粟原(現在の桜井市粟原)とされ、旧村社天満神社の東 南の傾斜地に栗原廃寺がある。持統天皇8年(694)、草壁皇子の菩堤のために発願され、和銅8 年(715)完成したとされる。  石村喜英は、栗原の地「ハツカン堂」付近が道昭と関係する遺跡とみなす。  ところで、安井良三は、「(道昭の)死に際しては、火葬に附されることを遺言し、栗原に葬され たのであるが、特に栗原で火葬に附されたのは何か意味があるように思われる。」(14)とする。 『続日本紀』の「奇異」  『続日本紀』が「遺骨がつむじ風に吹き散る」ところの「奇異」を記すのは、『続日本紀』の編纂 者の思惑があろう。つむじ風に吹き散る遺骨はばらばらになる。栗も粟も文字を分解すると、「西 木」、「西ハ木」で同意義の言葉となり、松尾芭蕉の『奥の細道』の行基と栗の一生杖が想起され る。栗はここでも西と木に分けられるのである。(15) 2 行基と道昭の関係  『続日本紀』の行基伝は、道昭伝を参照して作成した節がある。  法相宗の行基を和尚とすることや道昭の遺骨がつむじ風に飛び散るなど脚色された逸話と行基 の「霊異神験」が似通うからである。  『続日本紀』の編纂者には、行基と道昭を結びつけようとする意図が感じられる。 (1)行基と道昭の接点
生年没年年齢備考
道昭629700 72
行基668749 82続日本紀80歳
 道昭は、唐から帰国したのが、斉明天皇6-7年(660-661年)頃とされ(16) 、 飛鳥に元興寺禅院を建て、行基は15歳の時、元興寺で出家したとされる。  道昭は、山林修行や各地を周遊して路傍に井戸を掘り、津済(渡)に船を設置したり、橋を造った りしたが、行基もまた同様な社会活動を行ったから、歩みを一にしたとみる向きもある。  行基は、24歳、葛城の高原寺で得度を受け、その後、山林修行に入ったとされ、道昭は、後年、 政府に禁じられ、東南禅院に居住した。道昭の没年時、行基は33歳である。二人の接点はあった のだろうか。 (2)子弟の論考  行基は、道昭の弟子とする子弟論は説が分かれる。 子弟肯定説 「行基は道昭の師であった。(17) 」 「若い修行の日々に、彼は道昭の指導を親しくうけていた。行基も老師に随従して熱心に事にあ たったにちがいない。 (18) 」 道昭影響説 「行基は道昭の師であったとまではいえないようであるが、行基は若い頃元興寺に出入りしてい たから、道昭から示教を受け影響を蒙っていたことを否定することはできないのである。(19)」 「道昭を師とすることは断定できない。道昭から最も強い影響をうけたと考えた方が妥当である かも知れない。 (20) 」 子弟否定説 「道昭と行基の子弟関係は、十分可能性のあることを認めたいが、要は確実な徴証史料を存しないというにとどまる。(21)」 「行基が道昭から直接法相教学を学んだことをうらづける史料はないのである。(22)」 など証明されないということである。  吉田靖雄は、「井上薫氏は、行基と道昭は、瑜伽唯識学と社会的事業の相似性から、『伝通縁起』 の説は妥当性をもち、行基は道昭の弟子としてよいという。二葉憲香氏は、『伝通縁起』の記事に 疑いをさしはさみながら、「特に行基が瑜伽唯識論を読んだとせられることに注意すれば、それが 道昭によってもたらされたものである。」とは、ほとんどうたがいをいれない」という。井上氏の 論は、行基が義淵の弟子でもあるとする一方の記事を切り捨てることによって成立しているし、 また『伝通縁起』以前の古い史料には、道昭を師とする説をのせるものはないので、この説には 疑いがある。二葉氏の論はいかがであろうか。(23)」とする。  また、道昭の活動について、「問題になるのは天下を周遊した第二期であるが、これに関する諸 先学の論は、次のようになる。(説明の一部を省略する) 1 二葉憲香説 持統天皇3(689)年頃から文武天皇二(698)年頃。六十一歳から七十歳まで。 2 佐久間竜説 天智天皇五(666~7)年から天武天皇八(679)年。三十八歳から五十二歳まで。 3 長 洋一説 天武天皇十五(668)年頃から文武天皇三(699)年まで。五十九歳から七十一歳まで。 4 梅林久高説 天武天皇九(680)年頃から持統天皇六(692)年まで。五十四歳から六十五歳まで。  1・3・4は重なる部分があるが、2は他説と全く重ならない点で特異である。…天下周遊は、 天武天皇九・十年[680-681]の頃から持統天皇七・八年[693-694]頃までの十三・四年間、五十三・ 四歳から六十五・六歳の頃であったと考えたい。…(24)」とする。  吉田靖雄は、さらに、行基と道昭の天下周遊について、  「行基は持統天皇五(六九一)年に高官寺徳光を戒和上として受戒し、その後数年間、徳光の もとで律学研修に励み、瑜伽唯識学を修めるため元興寺に入ったのは、持統天皇七・八年[行基 26-27歳]の頃と推定される。行基の元興寺入寺と道昭の還住とは、時期が一致するから、行基 は道昭の天下周遊に同伴できなかったことになる。…行基が瑜伽唯識学や禅定を学ぶについて、 道昭を師主とするような関係を結びえたかどうか疑わしい。…従って、二人を子弟の関係とする 『伝通縁起』の記事は否定されるべきであると考えるのである。(25)」とする。 (3)行基と道昭のつながり  『行基年譜』には、「行年五十八歳乙丑聖武天皇二年神亀二年乙丑   久修園院、山埼 九月起 在河内国交野郡一條内、九月一日将彼弟子修杜多行、到山埼川、 不得暇掩留、河中見一大柱、#問云、彼柱有知人矣、或人申云、往昔老旧船大徳所渡柱云云、 大#發願、従同月十二日始、度山埼橋云云、天皇帰依給云云、」とある。  『行基年譜』に見える「船大徳」は、道昭のことと理解されている。行基と道昭の接点がここに 見える。道昭が土木技術に長けており、諸国を周遊した時に道や橋を造ったので、行基の事業 も同様であり、道昭に師事したものとされる論があるが、「行基58歳のとき、山崎橋を道昭が渡し たことを知らなかった。(26)」のである。  『行基年譜』は、行基は、少年の頃より三十七歳まで山林での修行のほか、築池、掘河、渡橋 などの事業を行ったことを記すが、行基五十八歳条では、山崎河中にある橋柱を見て、それを道 昭が造った橋の残滓とは知らず、或人に聞き知ってから山崎橋の建造を始めたとする。 師弟関係があれば、道昭の功績は随行していなくてもある程度は承知していただろうと思われる。  それを知らなかったのは行基と道昭の直接の接点がなかったものと思われ、引いては、道昭と の師弟関係はなかったように窺える。 結びに  行基と道昭の接点は、二人が同時代人であると見れば、二人が会した可能性があるが、古い史 料には二人の関係を示すものはなく、鎌倉時代の凝然『三国仏法伝通縁起』に初めて見られる。  しかし、凝然は、『三国仏法伝通縁起』以前の著作では、行基が道昭に学んだことは言及してお らず、述作を続ける中で二人が同時代人であることを発見したのであろう。  『行基年譜』では、朽ちた山崎橋を船大徳(道昭)が造ったことを行基が知らなかったので、行基 と道昭の二人の接点はなかったと想定できる。  『続日本紀』は、道昭と行基の二人の卒伝に和尚と表記する。また、道昭の卒伝には、道昭の 遺骨がつむじ風に吹き散る奇異を記す。  道昭と行基は比較される対象であり、道昭の葬地となる栗原(粟原)は、行基と関連する言葉で はなかろうか。  栗(粟)は、分解すると「西」と「木」に分かれるのである。それは、松尾芭蕉『奥の細道』の行基の 一生杖を想起させ、行基の一生を表すものと考える。
註 (1)水野柳太郎「道昭伝考」『奈良史学』第 1号、奈良大学史学会、1983-12、 1-30頁。 (2) 石村喜英『日本古代仏教文化史論考』山喜房佛書林、昭和62年、274-275頁。 (3) 『大阪府誌』 (4) 長尾三郎『大法輪』 (5)岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館、平成11年()、39頁。 (6) 宇治橋断碑は、宇治橋架橋の由来を刻す石碑の首部三分の一で、1791年(寛政3年)の春 に橋寺放生院の境内(一説では宇治河畔)で発見された。残りの碑身は見つからなかったが、『帝 王編年記』(14世紀後半成立)に碑の全文が収録されており、それに基づいて尾張の学者小林亮 適らが、古法帖の文字をつらねてこれを補刻し欠損部を復元、1793年(寛政5年)に完成した。 その経緯については、碑陰(碑の裏面)に刻されている。 碑文に記された「大化二年」は宇治橋架橋の年代で、その記述を信じたとしても建碑が同時で あると考える必要はない。この件につき書家で書道史家の魚住和晃は、書法が北魏様であること、 刻法が素朴であることなどから平安時代まで下げることはできない。また碑文の内容は宇治橋縁 起ではなく道登の供養であり、生前供養の可能性を含め大化2年からそれ程離れない時代だろう と言っている。(魚住和晃『「書」と漢字』講談社学術文庫、2010年。) 『帝王編年記』所載の碑文は次のとおり。『編年記』「?々」は断碑の「??」に修正。 ??横流 其疾如箭 修々征人 停騎成市 欲赴重深 人馬亡命 従古至今 莫知航竿 世有釈子 名曰道登 出自山尻 慧満之家 大化二年 丙午之歳 搆立此橋 済度人畜 即因微善 爰発大願 結因此橋 成果彼岸 法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其昔縁 (7) 吉田一彦は、「宇治橋造立を彼によるとする『続日本紀』の記述は疑問。道登によるか。」 とする。(吉田一彦『朝日日本歴史人物事典』「道昭」) (8) 上田正昭編『古代の道』法蔵館、1988年、130-131頁。 (9)註(5)岩城隆利、39頁。 (10) 註(2) 石村喜英、391頁。 (11) 井上薫『行基』吉川弘文館、昭和34年、34頁。 (12)堀一郎「三昧聖と勧進聖」『我が国民間仏教史の研究』2、東京創元社、昭和28年。 (13)註(2) 石村喜英、274-275頁。 (14)安井良三「道昭について」『古代文化』第9巻第6号(通巻第61号)、古代学協会京都事務所、 昭和37年、155頁。/安井の解は、「船氏らの本拠地が河内国丹比郡野中寺一帯で、野中寺を 氏寺とし、墓地もその近くにもっているにもかかわらず、道昭が栗原で火葬に附されたのは、この 地が道昭(若しくは船氏)と関係があるように思われる。」とする。 (15)「栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基の一生杖にも柱にも此木を用給 ふとかや  世の人の見付けぬ花や軒の栗」『芭蕉おくのほそ道』岩波文庫、1979年、24頁。 (16) 吉田一彦『朝日日本歴史人物事典』「道昭」 (17) 井上薫『行基』吉川弘文館、1959年、30−31頁。 (18) 北山茂夫『行基 鑑真』吉川弘文館、昭和58年、48頁。 (19) 森田悌「徳一とその仏教」『日本古代の人と文化』下出積興編、高科書房、1993年、258頁。 (20) 二葉憲香『古代仏教思想史研究』永田文昌堂、1984年、453-455頁。 (21) 註(2) 石村喜英、293頁。 (22) 速見侑編、『民衆の導者 行基』吉川弘文館、2004年、22頁。 (23) 吉田靖雄「法相宗の伝来と道昭・行基の関係」『古代史論集』上、塙書房、1988年、316頁。 (24) 同上、317-320頁。 (25) 同上、318−322頁。 (26) 根本誠二『行基伝承を歩く』岩田書院、2005年、27頁。
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]

[戻る]