行基四十九院考



行基四十九院考
1 四十九院の数字
2 『行基年譜』の四十九院
3 四十九院の観念
4 四十九院に関わる問題点
5 四十九院の連想

はじめに
  そもそも、数字の四と九は忌み数字であり、迷信が廃れた現代でも未だ避けられる傾向がある。
そのような忌み数字の組み合わせである四十九はどういう意味を持つのであろうか。忌明けの日
は、四十九日後である。四十九歳は重厄の年である。
 「四十九日」(広辞苑) @人の死後49日のこと。前世までの報いが定まって次の生にうまれかわる
までの期間。俗に、この間死者の魂が迷っているとされる。中有(ちゅうう)。中陰。
  A人の死後49日に当たる日、すなわち中陰の満ちる日。死者追善の最大の法要を営む。
 「四十九院」(広辞苑) 平安時代以降、一寺院の境内に四十九の堂宇が、また、鎌倉時代以後、
墳墓の周囲に四十九基の塔婆が建てられた。

 行基の四十九院を取り上げて、なぜ行基と四十九院が結びつくかを考察していきたい。

1 四十九院の数字
表1 史料にみる四十九院の数字
史料四十九院の数字備考
続日本紀 四十九院(天平勝宝元年二月二日条:行基薨伝)
三代実録山城国泉橋寺の申牒に曰く、故僧正行基五畿の境内に四十九院を建立す。貞観18(876)年3月条
行基年譜蜂田寺并四十九院
菅原寺略縁起菅原寺并四十九院
顕戒論一向大乗寺此間亦有謂如行基僧正四十九院弘仁10(819)
太平記近江の四十九院(唯念寺)
笠置寺縁起四十九院摩尼宝殿、
洛陽誓願寺縁起四十九院の塔頭
観弥勒上生兜率天経弥勒菩薩のいる兜率天の内院にある四十九重の摩尼(宝珠の意)宝殿
四十九院事内院の四方のそれぞれにある十二宮と中央摩尼宝殿(弥勒説法院)を加え四十九院となる
上宮太子拾遺記所安者四十九体金銅弥勒像、以被都率天上四十九院教主
塵蓋添嚢鈔第17天竺ノ祇園精舎四十九院
行基に関わる四十九院とそれ以外の四十九院がある。 次に、『続日本紀』に見える「四十九」を取り上げる。 表2 『続日本紀』にみる四十九
『続日本紀』四十九の数字備考
天平十五年正月十二日条天皇敬ひて四十九座の諸の大徳等に諮ふ
天平勝宝元年二月二日条道場を建つ。其の畿内に凡そ四十九処、諸道にもまた往々にして在り行基薨伝
天平勝宝三年十月二十三日条四十九賢僧を新薬師寺に屈請し、続命の法に依りて斎を設け行道す。新薬師寺斎会
天平勝宝六年十一月八日条四十九僧を屈し、薬師瑠璃光仏に帰依して恭敬供養す、続命の幡を懸け四十九の燈を燃やして…薬師供養
天平勝宝八歳六月二十一日条聖武天皇四十九日の追善供養
天平勝宝八歳十二月二十日条道場の幡四十九首
2 『行基年譜』の四十九院  行基の四十九院は、『行基年譜』の三十九歳条に「蜂田寺并四十九院」の表記があり、四十九院 の名前が列挙される。  菅原寺略縁起では、「菅原寺并四十九院」とする。  そして、『行基年譜』の四十九院は、表3のとおり、先学各氏によって「行基の四十九院」の位 置付けはまちまちである。  これについては、古くは戦前において、足立康が「行基菩薩が所謂「四十九院」を建立したと 云ふ伝説があるが、固よりこれは正しいものではない」以下四十九院の行基創建を否定する。(1)  井上光貞は「天平十三年年記の研究」の中で、「この「年代記」と推せられる史料における院宇 の数は『続々類従』本では 39[泉福院:福を消して傍に、「橘・橋歟」とする]を欠くため、四十八 しかないが、史料本ではみられるように四十九ある。これは奈良末期以来、行基建立の院宇を 四十九とし、行基四十九院の名がおこなわれたのに合致する。…『行基年譜』の著者は第47.48 の二院については「已上両寺冊九院之外也、不記年号」といい、入滅後の第49も当然、四十九 院の外とみているはずである。しかし、史料としての「年代記」が、年号の有無、行基の生前生 後を問うことなく、47以下の三つをも四十九院に数えていたことは この三つの院宇も他と同じ 形態を以て記しており、かつ合計がちょうど四十九という完数になることから明らかである。即 ち、この三宇を四十九院以外としたのは、年譜の筆者の史料解釈のためであって、史料たる「年 代記」とは無関係であるとみるほかはない。  「(9) 年譜の行年七十三歳条の第P以下について、史料本(上段)と『続々類従』本(下段) を対照すると、       発菩薩院、泉橘院              発菩薩院、泉橘院        隆福尼院                  隆福尼院        已上山城国相楽郡大伯村           已上山城国相楽郡大狛村泉橋院       泉福院(福を消して傍に、「橘・橋歟」とする)       布施院                   布施院       尼院                     尼院         已上同国紀伊郡石井村            已上同国紀伊郡石井村 のちがいがある。即ち上段ではここに五院あるのに、下段では四院である。これは史料本Sが 泉福院について、福字を橘又は橋の誤りかとしているところから、『続々類従』本が泉福院を泉橋 院と改め、かつ「巳上山城国相楽郡大狛村」の下においたためである。このためか、『続々類従』 本によられたらしい井上薫氏の『行基』(一四一頁の表)はこの年に建てられたのは、四院だけと し、二葉氏『古代仏教思想史研究』(四二五頁の表)も同様としている。またここで院がへると、 全体は四十八院となり、さらに九七頁に記すような事情から最後の三院もひくと四十五院となる。 二葉氏(四二五頁)が行基建立寺院を列挙した一連の史料の院宇の数は四十五とされるのはその ためであろう。井上氏はこの他に巻首の神鳳寺、三十七歳条の家原寺、三十九歳条の蜂田寺、四 十歳条の生馬山房の四院をいれて四十九院とされている。しかし、私は、史料本により、「年代記」 の院宇の数は四十九とすること本文に記した通りである。 (2) 」とする。  このように、『行基年譜』だけ取り上げても類従本と史料本に違いがある。  研究者によって四十九院の取り方が異なるのは、和泉高父宿彌が四十九院を明確に指定してい ないことによる。和泉高父宿彌は、『行基年譜』八十二歳条で、年号を記さず云々として、「四十 九院の外」としながらも報恩院、長岡院の二寺院を行基の関係する寺として挙げており、また、 三十九歳条で「蜂田寺并四十九院」と記載しているが、これは、「四十九院」には関心のあるもの の「四十九院」の個別を明確にしていないので、個々の四十九院を明らかにすることには関心を 持っていないように窺える。 表3 四十九院の比定
番号年齢寺院名ABCDEFG現存
S僧院/N尼院33/1636/1336/1337/1336/1331/1335/1310
A田中重久
B井上薫S34
C井上光貞S44
D年譜著者:C考
E吉田靖雄S62
F二葉憲香
G栄原永遠男
注) 上記表は、僧院/尼院の寺院名は省略した。 3 四十九院の観念  延暦十六年(797)に成立した『続日本紀』の宝亀四年(773)十一月勅には、「その修行する院、す べて四十余処」とされ、天平勝宝元年二月二日条には行基の薨伝があり、その中に「道場を建つ。 其の畿内に凡そ四十九処、諸道にもまた往々にして在り」とある。ここでは、後年の道場の数に 「凡そ」が付すが、「四十余処」より「四十九」の数が明確に示される。本来なら、行基の建立し た寺院は、年の経過と共に数が増え、明確になると思われるのに、『続日本紀』の二つの記事はそ うではない。行基の薨伝は、行基の出身を河内国とするから、『続日本紀』の編纂時に挿入された 可能性がある。 そして、四十九院の観念が成立した時期について、上田正昭は「宝亀四年十一月ころには、「四十 余処」とみなされていたが、『続日本紀』の成立した延暦十六年(七九七)のころまでに四十九院と いうよび方が成立したとみなす説が適当であろう。(3)」とする。 表4 『続日本紀』の変遷
天平21年2月2日道場を建つ、其の畿内に凡そ四十九処、諸道にもまた往々にして在り。
宝亀4年11月20日その修行の院、すべて四十余処、うち六院に施入。
延暦16(797)年成立四十九の数字
 さて「四十九」の根拠となる四十九院の発想はどこから生まれたのであろうか。  五来重は、「四十九という数には、仏教的な意味が込められている。ひとつは、兜率天の内院に は中央に弥勒菩薩が説法しておられる摩尼宮殿があり、その四周に各々十二院が置かれ、合計す ると四十九院になるということだ。もう一つは、「薬師如来本願経」に、重病の人が死に面して、 閻魔王の使者が死人の魂を抜いて閻魔王の前に置き、生前の罪福に従って処分されようとする時、 その死者のために昼夜六時に薬師如来を礼拝供養し、「薬師経」を四十九遍読み、四十九燈を燃や し、四十九天の五色の彩幡を造るならば、死人の魂はもとに戻り、命をつなぐことが出来ると説 かれている。(4)」とする。  弥勒四十九院を否定する考えは、田中重久に見られる。「足立博士は、「兜率天の聯想から来た ものであらう」と言はれ、之を「信ずべからざるもの」と言はれる。之と同じ考へ方は夙に享保 の喜光寺縁起にも、「以當寺、為本寺、以四十九院、為末寺、偏表安養兜率二因往生之業」とある が、若し四十九院といふ限定がさういふ教義的なものであれば、橘寺の長老法空が、橘寺の金堂 の佛像について、上宮太子拾遺記に「所安者四十九體金銅弥勒像、以被擬都率天上四十九院教主」 と記してゐるように、行基寺院の本尊は弥勒でなければならない。…(中略)…明匠略伝には、行 基の業績を記して「僧院卅四院尼院十五ケ所」とのみあって、別に四十九院とは記してゐない。 之は行基の四十九院が「兜率天の聯想から来たもので」ないことを明示しているゐよう。(5)」と する。  堀池春峰は「ただこの四十九院が何を根拠に成立したものか明らかではないが、弥勒の兜率天 内院の四十九院に基いたものとする説と、さらに薬師本願経が特に七の数を重要視して読誦四十 九遍、燈を捧ぐること四十九燈と示すように七七の数で規定されている点により、薬師の誓願を 実行にうつしたと思考される行基の行動と、彼が薬師寺僧を称したことなどから、むしろ四十九 院の教理的背景は薬師経にあるとする説がある。 (6)」  「正和五年の『行基菩薩縁起図絵詞』巻中の花林院建立絵篇第十四には「別造立四十九院被表 兜率宮殿」として、弥勒の四十九院説を標傍している。しかしこの両説ともなお俄かに決断を下 すことは困難であり、四十九院の成立は行基本来の計画と見なし得ないとする方が無難であろう。 (7)」とされるなど先学に論が分かれるところである。 4 四十九院に関わる問題点 (1)四十九院は行基が計画をしたのではない。  行基の活動を考えた時の重大な留意点である。 前出のとおり、行基の四十九院は、行基が計画したものでなく、四十九院の観念の発生は、弥勒 の兜率天内院の四十九院とも薬師本願経の四十九のいずれとも関連があるように思われる。弥勒 はミロク[見六]であり、薬師はもちろん薬師寺の僧であることに通じるが、また、母の名前薬 師女にも繋がるとも考える。行基の死後に成立した四十九院の観念は、それぞれ一定の意味を持 つことを示した。これは、行基の真実の姿が隠されていることに繋がるように思われる。  『舎利瓶記』によると、行基は天智天皇八年戊辰年(668)に誕生したとされる。行基の没年齢は 八十二歳であるが、『続日本紀』は八十歳とした。八十歳は、朝廷から鳩杖を賜るなど長寿を褒賞 されるが(8)、『続日本紀』には、行基の八十歳褒賞の記事がない。  これは、八十歳に意味を持たしたものと考える。四十九は七七の数で規定されている。同様に、 行基伝は、四百と百の数字が出てくる。これらの数はある数の階乗である。八十の平方根は、八・ 九四四二七一九〇九九九(ヤクシシニナイ…その時代、何桁まで開平されたか不明であるが…) つまりヤクシ死にないであり、ヤクシは薬師が思いつく。『続日本紀』の編者の遊びで行基を「死の ないヤクシ」つまり、不老不死の仙人に仕立て上げたのであろうか。薬師から寄(く)すしへと変 化すると、不老不死の仙人は、『続日本紀』の役長者を初め、今昔物語などに出てくる仙人の話な ど奈良・平安時代以降においても普遍的な存在である。 (2) 行基伝の異説  『行基年譜』以外でも「行基道場の四十九院の所伝に異説のあったことは、『行基菩薩伝』には、 「尼院十五」とあるが、『行基年譜』は尼院を十三としかあげていないことからも明らかである。 (9)」 とあるように、尼院の数え方もまちまちである。 表5 行基建立四十九院説・異説
史料
四十九院説顕戒論・昆陽寺鐘銘・行基菩薩伝・今昔物語・法華験記・字類抄・百因縁集・行基菩薩縁起絵詞・竹林寺略録
三十九院説往生極楽記(続類聚66)や三宝絵
その他霊異記、明匠略伝は院数を記さない。
 堀池春峰は「行基建立四十九院説はこの外に顕戒論・昆陽寺鐘銘・行基菩薩伝・今昔物語・法 華験記・字類抄・百因縁集・行基菩薩縁起絵詞・竹林寺略録等に踏襲されている。これに対し保 胤の往生極楽記や永観二年(九八四)成立の三宝絵は三十九院説をとっているが、けだし四十九院 の誤字と推定される。(10)」とされる。 比較的古い時代に属する往生極楽記や三宝絵は、三十九院説を採るが,これは単なる誤字でな く、数字にそれぞれ作者の意図が隠されているものと思われる。 その意図は「見ぞ九」であるとすれば、「九」の数字を見ろとなる。九年を指すか。 四十九院の限定  表3に示した通り、四十九院を限定し難いところがある。 (3) 『行基年譜』の四十九院以外の寺院  『行基大菩薩行状記』には、「天平十三年辛巳。木津河に大橋をわたし。狛の里に伽藍を立。僧 院として泉橋院と号す。木津郷には尼院を建立して。誓願寺と称す。…泉木津誓願寺尼寺云々。 高(孝カ)謙天皇御帰依の寺なりと。伝記に委注と云り。 (11)」とあるように、明確に、僧院で ある泉橋院と対になる尼院の誓願寺が漏れている。  田中重久は、『行基年譜』の隆福尼院は、誓願寺を誤まったものとし、相楽郡木津町の御霊神 社の東に誓願寺址があることを指摘している。(12) これについて、吉田靖雄は、「『行基大菩薩行状記』は、物語化が著しく、鎌倉〜室町期の編纂物 であると推定されるから、誓願寺が元々の表記であるとはいえない。『行状記』が編纂された頃、 誓願寺なる尼寺が存在したとする伝承が認められるにすぎない。 (13)」とする。しかし、今昔物語 にも孝謙天皇が尼寺を建立したことが見えるので、この寺を誓願寺とすることも可能であろうが、 その場合は、行基との関わりは薄れることになる。 畿内諸寺  畿内にあっては、表6のとおり、『行基年譜』の四十九院以外に次の通り寺院が挙げられる。 表6 畿内における行基建立寺院
史料内容
『東大寺要録』法蓮寺天地院
大阪府史蹟名勝天然記念物堺市 多門寺(久世村)、大平寺(北上神村)、円通寺(西百舌鳥村)、光明院(西百舌鳥村)
和泉市 禅寂寺(御荘村)、明王院(北池田村)
貝塚市 木積観音堂(西葛城村)、水間寺(貝塚市)
泉南市 廃海會寺 (北信達村)
現存する行基建立寺院(田中重久)四十九院外 河内国4、摂津国9、和泉国4、大和国2、山城国3、計22寺
行基開基伝承の寺院(菅谷文則)京都府18、大阪府35、兵庫県39、奈良県26、計118
『行基年譜』以外の伝承四十九院善根寺(鳴川村号大高山東漸院:大和志)
法蓮寺天地院 『東大寺要録』巻第四、諸院章第四によると、「天地院号二法蓮寺一。縁起文云。 是文殊化身行基菩薩建立也。…於二大和国一造二八箇寺一第二。添上郡求二諸山根一於御笠 山阿部氏社之北高山半中一。始造二和銅元年二月十日戊寅。山峯一伽藍一。即天地院。名二 法蓮寺一。…(14)」と、大和国の第二番目に建立の寺院とする。『行基年譜』に大和国七院がある が、法蓮寺天地院を含むと八院となる。法蓮寺天地院は、和銅元年に建立されたので、大和国の 第一番目の寺院は、和銅元年以前の建立である。『行基年譜』から判断すると、慶雲二年の右京 佐紀堂しか、見当たらない。 (4) 経費の問題  田中重久は「四十九院を考える時最も疑問となるのは、慶雲元年(704)から天平十七年(745)ま で僅か42年間に四十九院もの寺を建てたとして、其の経費はどこから出たのであろうか(15)」 と疑問を持つ。これについて、『行基事典』は、「行基諸事業の背後には無数の労働力と財物の 喜捨があったはずである。(16)」とする。  そして、「門を歴し仮説して強いて余物を乞うことが行基の使徒によって大々的に実行されてい たことが分かる。(17)」とされるが、寄進の程度が測りがたく、実態が見えにくいところである。  また、行基の建てた院の多くは大寺院でなかったとする指摘がある。  井上薫は、「家原寺が生家を改造したものであったように、彼の建てた四十九院は最初から堂々 とした寺として造られたものでなく、それらが道場とよばれたのも、粗末な施設がかえって多かった ことを物語る。(18)」とするように、小さな院を想定すれば、経費の問題も建造数の問題も一応は解 決できることになるが、社会資本の整備とともに数多く道場の建設は経費、人的な動員が必要とさ れるので、地方豪族の支援があったとされる。(19)  しかしながら、行基の四十九院は、『行基年譜』に「院」でなく、菅原寺など大規模なものがあり、 地方豪族の支援については、米田雄介が「行基が弾圧を受けている期間において、特定の地域 を除いて、豪族らの積極的支援が行われたとは考え難い。」と問題点を指摘する。(20)  また、これを道場だけでなく、行基の行った社会事業まで拡大するとき、畑井出は、「行基の行 なった開発事業が在地豪族の経済力では負担し難い規模のものであった。」とするように、社会 事業には国衙との関係を推定する考えがある。(21)  行基四十九院のうち、現存する寺は、菅原寺喜光寺、昆陽寺、久米多寺、泉橋寺、家原寺、神 鳳寺などがあり、相当な規模の大きい寺院もあるから、経費の問題は依然として残ると思われる。 建立寺院数  吉田靖雄は「行基が天平二・三年に、都合一五院を和泉を除く畿内に建立したことは、あまり に超人的であって信用しがたい。むしろ神亀末年から天平三、四年における活動を、わずか二年 間の仕事のようにまとめて記録したように解されるのであるが、それにしても、この時期は行基の 活動の最盛期であったことは認められ、それには、また官憲の積極的な関与が認められるよう に思う。 (22)」とする。ここには、官の積極的な関与の中には、より具体的には官からの援助を 含めて考えられよう。  経費の確保と天平二・三年に集中した寺院の建立について、この二つを同時に解決する解が求 められ、吉田靖雄が指摘する活動記録のまとめ書きと官からの積極的な援助も一つの考え方とし て成立しうる解と思われる。 (5) 行基の活動範囲  四十九院にかかる行基の活動範囲を考えてみる。 畿内限定論  四十九院は何故か畿内に限定されている。  米田雄介は「今日、知りうる資料からは、彼(行基)の活動範囲が畿外に及ばないことを注意し ておきたい。 (23)」とし、井上薫は、「彼の行動範囲を『年譜』の四十九院や社会事業施設の場 所から推せば、大和・河内・和泉・摂津・山背の五ヵ国で、『霊異記』では 大和・和泉・摂津・ 山城で説法したり、社会事業を営んだ話がのせられている。この点からも彼が全国を歩きまった というのは無理な話で、…(24)」とするほか、畿内限定論は、数多くある(25)。 しかし、それは行基の活動の一部だけをみる狭い見方であり、これは、行基が畿内以外に出て いないことを証明するものではない。  伝記・史料に書かれていないことは、その事実がなかったことを示すものでなく、その事実が 伝記・史料に書かれなかっただけのことであり、書かれなかった史実はいくらでもありえる可能 性を忘れていると思われる。  ある史料に書かれたことは一部であって、全てでない。書かれていないことの方が多いことは 考慮すべき大事な視点である。 伝承肯定論  全国に行基と縁のある寺院は、1,400あり、昭和二十八年の『行基菩薩行化全譜』には、日本 全国における行基開基・草創の建立寺院は「七百七十個寺…他に尚少からず」とある。(26)  井上正は、「『続日本紀』天平二十一年二月二日の行基の卒伝を読むと、「留止する処には皇道場 を建て、其の畿内には凡そ四十九処ハ諸道にも亦往々に在り。弟子相継ぎて皆遺法を守り、今に 至るまで住持す」の中の傍点部分には、余り眼が行かない。軽く読み過してしまうであろう。し かしながら、全国に分布する千を超える膨大な数の行基創建・御作伝承、そしてそのなかのごく 一部の寺院に遣る八世紀前半、すなわち行基が活躍した時期とも推定される仏像または神像に注 目すると、「諸道にも亦往常に在り」という短かい文章が、千釣の重味をもって呼応するように思 える。」「行基はほとんど畿内を出ることはなかったとする説は、伝承と実物史料を完全に棄て去 った、きわめて不充分な説といわざるを得ない。 (27)」と指摘するように、『続日本紀』には、 「諸道にもまた往々にして在り」とされており、『三宝絵』にも同様の記載がある。 (28)  行基縁の寺院は全国に及び、そこまで広げると四十九院を遥かに超えることになるから、泉高 父が畿内に限定したのは、四十九院に都合のよい数字が得られる畿内に限定したものであろう。  実際には、『行基年譜』の四十九院に該当しない畿内の行基建立寺院は多くある。 5 四十九院の連想  井上光貞は、「史料としての年代記が年号の有無、行基の生前生後を問うことなく、報恩院以下 の三つをも四十九院に数えていたことは、この三つの院宇[報恩院、長岡院、大庭院]も他と同じ 形態を以て記しており、かつ合計がちょうど四十九という完数になることから明らかである。即 ち、この三宇を四十九院以外としたのは、年譜の筆者の史料解釈のためであって、史料たる「年 代記」とは無関係であるとみるほかない。…筆者の考える四十九院は、報恩院、長岡院、大庭院 の代わりに、神鳳寺、家原寺、蜂田寺を加えたもの(29)」とする。このように、研究者によって 四十九院の取り方が異なるのは、和泉高父宿彌が四十九院を明確に指定していないことによる。 和泉高父宿彌は、『行基年譜』八十二歳条で、年号を記さず云々として、「四十九院の外」としな がらも報恩院、長岡院の二寺院を行基の関係する寺として挙げており、また、三十九歳条で「蜂 田寺并四十九院」と記載しているが、これは、「四十九院」には関心のあるものの「四十九院」の 個別を明確にしていないので、個々の四十九院を明らかにすることには関心を持っていないよう に窺える。  中井真孝は、「どれを四十九院とするかは意味がない。(30)」と喝破する。 行基に関連する四十九院は、その内容に意味があるのでなく、ただ四十九という数字を挙げる ことだけに意味を持つと考える。『行基年譜』四十九歳条は、誤りが多いことから注目すべき数字 であると考えると、和泉高父宿彌が関心を持ち、示唆する言葉は、「四十九院」または「四十九」 という数字そのものであろうか。『続日本紀』の天平勝宝三年十月二十三日条に「四十九賢僧」と ある。同じく、『続日本紀』天平勝宝六年十一月八日条には、「四十九僧を屈し、薬師瑠璃光仏に 帰依して恭敬供養す、続命の幡を懸け四十九の燈を燃やして…」とあるから四十九院の観念とは 別に「四十九」の数字が注目されていたことが分かる。それでは、「四十九」は何を意味するか。  言葉に置き換えると、「四」は、「詞・氏・師・死」、「十九」は「解く・説く・徳」などが考えられる。 「詞解く」「氏解く」「師徳」「死説く」の言葉ができるが、謎解きは「詞解く」「氏解く」「死解く」或は 「死ぞ苦」であろう。「四十九院」は、「四十九」で去(い)ぬという意味を持つか。 四十九院の発展  広辞苑「四十九院」 平安時代以降、一寺院の境内に四十九の堂宇が、また、鎌倉時代以後、 墳墓の周囲に四十九基の塔婆が建てられた。  奈良県のある地方では、一般者の囲みは「イガキ」というが、長老の墓などは、墓を護る囲い を四十九院といい、埋葬地点を四十九本の板塔婆で囲む。 (31)。  また、五輪塔内に四十九のノギを納める例がある(32)。  地域的な広がりは、近江国犬上郡豊郷四十九院など狭い範囲に四十九院が再生される。  伊賀国に四十九院が作られる。(33)  徳道は、播磨に四十九院を造る。その他、西国薬師四十九薬師巡礼や淡路島の四十九薬師巡礼 が行われることになる。行基に関連する四十九院は、その内容に意味があるのでなく、ただ四十九 という数字を挙げることだけに意味を持つと考える。 聖徳太子との関係  行基は各伝記で、聖徳太子と並び記されることが多い。(34) 何故であろうか。 表7 聖徳太子との関係
史料内容備考
霊異記聖徳太子と行基のみ表題に掲げる
日本往生極楽記聖徳太子に次ぎ行基菩薩を記す
本朝法華験記上第一聖徳太子、第二行基菩薩
沙石集巻第五行基をはじめ、東大寺四聖に触れたあと、聖徳太子を記す
私聚百因縁集第七聖徳太子、行基菩薩、智光 
西芳(苔)寺縁起聖徳太子ご創業、行基開山とする。
 日本往生極楽記と本朝法華験記は、ほぼ同内容であり、一旦出来上がった後で、聖徳太子と行 基の伝を追加したとされている。(35)  この二人には何らかの繋がりが含意されるものと思われる。  共通するものの一つとして、法隆寺伽藍縁起に「聖徳太子は、天皇の要請に応じて法華経、勝 曼経を講じた。その時、太子は僧の如くであり…」(36)とされるから、同様に僧形の行基は官人 であったやも知れない。  行基四十九院の観念は、行基の死後に成立したものであり、四十九院の観念とは別に『続日本 紀』では、天平勝宝三年十月二十三日条に「四十九賢僧」、天平勝宝六年十一月八日条には、「四 十九僧を屈し、薬師瑠璃光仏に帰依して恭敬供養す、続命の幡を懸け四十九の燈を燃やして…」 などと、行基の死後に「四十九」の数字が注目されるようになったと思われる。  「四十九日」は忌明けの日を意味する。また、「四十九歳」は重厄の歳とされる。  聖徳太子との関係において、四十九の数字に、何らかの意味を見出すならば、聖徳太子の没年 は四十九歳であるから、行基も同様に「四十九歳没」とすることである。  当然、国史である『続日本紀』の行基の伝記を無視することになるが、行基は、「霊異神験類に 触れて多し」人物とされるから、普通に解き明かせない、何か秘められたものがある。  近年の歴史学会の見解では、『続日本紀』は何ものかを語り上げるために述作されたものである との見解がある。(37)  その一つとして、行基の存在が虚構として挙げられているのではないか。  行基四十九院は、「四十九」という数字が普遍化されるから、「四十九云ん(ぬ)」とすれば行基 が四十九歳でなくなったことを暗示しているのではないだろうか。   結びに  『行基年譜』に四十九院が掲げられるが、その内容について、中井真孝は「どれを四十九院と するかは意味がない。」と喝破したことを述べた。 そして、行基建立寺院は畿内のみならず、近江、伊賀や全国諸道に及ぶのである。  『行基年譜』が四十九院を掲げるのは、それが畿内に限定された四十九院であり、四十九院 の数字を挙げること自体に意図が隠されていると考える。  『行基年譜』の誤りが多い四十九歳条も同様に注目される数字である。  このことから『行基年譜』を著した和泉高父宿彌の関心は、「四十九院」または「四十九」という 数字そのものと考える。    四十九院の観念とは別に『続日本紀』の天平勝宝三年十月二十三日条に「四十九賢僧」、同 天平勝宝六年十一月八日条には、「四十九僧を屈し、薬師瑠璃光仏に帰依して恭敬供養す、 続命の幡を懸け四十九の燈を燃やして…」と、行基の死後の「四十九」の数字が注目される。 それでは、「四十九」は何を意味するか。  「行基建立の四十九院すべてに火葬場が付属する。(38)」から四十九院は人の死と関係する。  行基は各伝記で、聖徳太子と並び記されることが多い。聖徳太子の没年は、四十九歳である。 そこから、行基もまた、聖徳太子に相似する共通点を見出すならば、『続日本紀』の行基薨伝を 無視しなければならないが、行基も四十九歳で没したことが類推できる。  畿内四十九院の畿内は、基(行基)がなくなったことを隠喩し、四十九院は、「四十九云ん(ぬ)」 とすることから、行基が四十九歳でなくなったことを暗示しているものと憶測する。  或いは、四十九歳は、死ぞ九歳(年)の暗喩かもしれない。 註 (1) 足立康「行基菩薩と所謂四十九院」『史迹と美術』11巻10号、昭和16年、407頁。 (2) 井上光貞「天平十三年年記の研究」『行基 鑑真』吉川弘文館、昭和58年、141頁。 (3) 上田正昭「行基の道の探求」『探訪古代の道』第三巻、法蔵館、1988年、124頁。 (4) 『薬師信仰』五来重編、民衆宗教史叢書第十二巻、雄山閣、昭和六一年。 (5) 田中重久「現存する行基建立寺院(下)」『史迹と美術』12巻6号。昭和16年、292-294頁 (6) 堀池春峰『南都仏教史の研究上』東大寺編、宝蔵館、昭和55年、595頁。 (7) 同上595頁。 (8) 『続日本紀』養老5年6月23日沙門道蔵が80歳に達したので物を施した。 (9) 中井真孝『日本古代の仏教と民衆』評論社、昭和48年、136頁。 (10) 堀池春峰、註(5)、 591-593頁。 (11) 『行基大菩薩行状記』続群書類従第二百四、昭和2年、449頁。 (12) 田中重久「行基建立の四十九院」『史迹と美術』11巻9号。昭和15年、292-294頁 (13) 吉田靖雄『行基と律令国家』吉川弘文館、昭和61年、275頁、注172。 (14) 『東大寺要録』巻第四、諸院章第四 (15) 田中重久「現存する行基建立寺院(上)」『史迹と美術』12巻6号。昭和16年、231頁。 (16) 井上薫編『行基事典』国書刊行会、平成9年、171頁。 (17) 同上、171頁。 (18) 井上薫『行基』吉川弘文館、昭和34年、36頁。 (19)「行基と豪族の関係が深かった点から推せば、布施屋の設置や維持に豪族の協力を得られ   ないことはなかったと考えられる。」 同上、註(16)、52頁。更に、豪族の援助について、詳しく   述べるのは、長山泰孝「行基の布教と豪族」(『大阪大学教養部研究収録〈人文・社会科学〉』   19号、昭和46年。)を参照のこと。 (20) 米田雄介「行基と古代仏教政策」『行基 鑑真』吉川弘文館、昭和58年、208-209頁。 (21) 畑井出「行基集団の開発と律令国家」『横田健一先生古稀記念文化史論叢』上、創元社、   昭和62年、970-971頁。 (22) 吉田靖雄『行基と律令国家』吉川弘文館、昭和61年、191頁。 (23) 米田雄介「行基年譜、特に天平十三年記の研究」『行基 鑑真』吉川弘文館、昭和58年、208-209頁。 (24) 井上薫、註(16)、96頁。 (25)「行基の活動が一貫して畿内という特殊な領域を舞台としておこなわれた事実を想起する必要があろ   う。」(石母田正「国家と行基と人民」(『日本古代国家論』岩波書店、1973年、110頁。)   「行基は畿内やその周辺で活躍しただけで、諸国で活動したことはない…」(鶴岡静夫『古代寺院の   成立と展開』吉川弘文館、昭和50年、284頁。) (26)牧野至誠『行基菩薩行化年譜 全』佛子会、昭和28年、18頁。 (27) 井上正「新しい行基像」『大法輪』第65巻(平成十年)第十一号。115-116頁。 (28) 「よき所をみ給ては堂をたて、寺をつくり給。畿内には三十九所 他国にも甚たおほし。」 『三宝絵 注好選』新日本古典文学大系第31巻、岩波書店、1997年、93頁。 (29) 井上光貞「行基年譜、特に天平十三年記の研究」『行基 鑑真』139、141頁。 (30) 中井真孝、註(8)、136頁。 (31)『奈良市史』民俗編、吉川弘文館、1968年、141頁。「四十九院の板トウバ」 (32) 川勝政太郎「大阪濱口町発掘石造五輪塔」『史迹と美術118』11巻9号。昭和15年、372頁 (33) 菊岡如幻『伊水温故』伊賀史談会、昭和8年、52頁 (34) 「日本往生極楽記」菩薩2所とする。聖徳太子と行基のこと。補注393頁。 (35) 「日本往生極楽記」『群書類従』第5輯・巻第66、398頁。本朝法華験記『続群書類従』第8輯上・巻   第194、116頁。 (36)高田良信解説『法隆寺史料全集』法隆寺昭和資材帳編纂所編、ワコー美術出版株、昭和58年、   164頁 (37) 根本誠二『行基伝承を歩く』岩田書院、2005年、35頁。 (38)五来重「行基信仰」『遊部考』昭和38年、407頁。
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]

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