行基と大仏勧進



目次
一 行基と大仏勧進
 1 行基と大仏勧進を結ぶ唯一の記事
 2 大仏勧進創作説
 3 「大仏勧進」の事実性の通説
 4 大仏勧進が見えない行基伝の解決の論考
 5 天平十五年条の大仏勧進の解決論
二 行基と霊異神験
 1『続日本紀』に記される行基
 2『続日本紀』の作為
 3 『続日本紀』の「霊異神験」
 4 死後に蘇生し活躍する行基

はじめに
  『続日本紀』に初めて見える行基は、小僧とされ、僧尼令に反する行為で弾圧を受けるところか
ら始まる。そして、行基集団に対する高齢者の出家容認をされる頃から法師と称され、世の人から
は大徳及び菩薩と崇められると、大仏勧進を経て、終には、官僧の最上位である大僧正にまで上り
詰める。(1)そして。行基が大僧正になった天平17年からあと、目立った行動はしていない。(2) 
この大僧正の就任と大仏勧進は切り離せない関係にあると見られるが、これを人民の立場から見
て、大仏造営に伴う人民の疲弊は行基の裏切り行為とする転向問題が提起された。(3)
 多くの研究者がこの転向問題に係わらざるを得ず様々な論が展開されてきたところである。
 この転向問題は、行基の実像を解明することにより、解消できるものと考える。行基の実像を解明
する方法としては、正史である『続日本紀』とともに数多く書かれている行基の伝承などを比較し読み
解くことが、解決にも繋がるものと思われる。そして、その具体的な事案として、転向問題を生じる原
因となった行基の大仏勧進そのものを取りあげる。この大仏勧進は、多くの研究者が論じているとこ
ろであるが、国史である『続日本紀』に書かれていることは全て正しいものであるのか、という視点を
課題に設定する中で、行基の大仏勧進を論ずることとする。

一 行基と大仏勧進
1 行基と大仏勧進を結ぶ唯一の記事
 『続日本紀』天平十五年十一月乙酉(十九日)条には、「皇帝[聖武天皇]紫香楽宮に御しまして、盧
舎那の仏像を造り奉らむが為に、始めて寺の地を開きたまふ。是に行基法師、弟子等を率ゐて衆庶
を勧め誘く。」とある。これについては、根本誠二は、「天平十五年(七四三)には東大寺大仏造立の
勧進職に任ぜられたというのが大方の見解である…。(4)」とする一方、「『続紀』天平十五年冬十月
乙酉条によると、聖武天皇の紫香楽宮への行幸にあたり、行基が弟子とともに造立事業に「衆庶を
勧誘する」とあるので、多少なりとも造立事業の一翼を担った様子がうかがえる。それでも、行基が
大仏造立事業にどのように協力したかについては、知る手がかりはない。(5)」とする。
 そして、根本は、「『続紀』の行基薨伝には、…大仏造立事業に参加して功績があったという記述
はみえない。また、行基のもつ霊異神験のさまを限りなく説いてやまない、平安初期に編纂された
日本で最初の仏教説話集の『日本霊異記』(以下、『霊異記』とする)においても、彼と大仏造立と
の関係を明確に示唆するものはみあたらない。…景戒は、聖武天皇を大仏造立を推進するなどの、
仏教を熱心に信仰した天皇としているが、行基がそれに積極的に協力したとの記述がない点は、注
意すべきである。ましてや『霊異記』の中で、大仏造立にふれていないことなどを考え合わせてみる
と、景戒の大仏造立への評価の一端を物語るものである。黄金に輝く大仏を間近に見ることができ
た景戒にしては、意外にも冷やかな認識であり評価であったように思う。(6)」と、大僧正の任命は、
大仏勧進の功績の結果と断定する論(7)が多い中で、根本は、行基と大仏造立事業の関わりについ
て慎重に考察する姿勢を保つとともに薬師寺僧景戒の大仏に対する冷やかな認識を明察している。

2 大仏勧進創作説
 行基伝の多くに、大仏建立に関与した記事がみえないことから、行基の大仏建立の関与を否定す
る大仏勧進創作説とでも呼ぶべき説が提起されている。
 福岡猛志は、行基の大仏建立の関与について、「ややまとまった内容をもつ行基「伝」として、も
っとも古いものに属するのは、『続日本紀』の示寂伝、『舎利瓶記』、『日本霊異記』の中巻第七話の
三者が共通して大仏勧進を全く無視していることについては、史料の性格分析からでは、説明がで
きない。(8)」そして、「『続日本紀』の一条[天平十五年十月乙酉条]を除いて、同時代史料になんの
痕跡もなく、原行基伝、第一次行基伝、完成された行基伝のいずれにあっても、全くふれられること
がないということは、逆に『続日本紀』の十月乙酉条こそが疑わるべきではないか、それは史官の
手による「創作」たる可能性もあるのではないか。(9)」として、行基の大仏勧進を認めない立場に
立ち、天平十五年十月乙酉条は史官の手による「創作」たる可能性を指摘している。
 他方、行基と東大寺勧進職の係わりについては、中世の史料に明確に見えている。
 『東大寺円照上人行状(10)』には、「大和尚位重源上人随二行基菩薩之先規一、補二造東大寺
勧進職一、…」とされ、『竹林寺略録(11)』には、「[行基菩薩]聖武天皇御于。殊蒙二明詔一。建二
興真俗一。奉二造東大寺勧進職之宣一、…」とされている。
 しかし、これらに関して、福岡猛志は、東大寺の四聖説(12)と大仏勧進に関わる史料を系列的に
分析し、「 四聖説(あるいは勧進)については、…それがあらわれる系列のものを年代的に整理し
てその存否を求めれば、十二世紀の不記載と、十三世紀の記載とがはっきりとわかれ、十四世紀
ではそれが定着してくるということになるであろう。従って、もし大仏勧進を認めるならば(四聖とい
うのは,その結果の後世の創作であることが明白であるが)、「続日本紀」の一条は別として、後の
時代になるほど史料の信憑性が増すという奇妙な結論に導かれざるをえないのである。(13)」と、
行基と大仏勧進の係わりが時代の推移と共にその記憶が逓減するのでなく、後代における史料の
明確化に信憑性の逆転現象を指摘する。
 そして、「行基の勧進ということは、『続日本紀』に書かれていることであるから(それは『東大寺
要録』にも引用されているところである)、そのかぎりで言えば決して闇に埋もれてしまっていること
ではない。にもかかわらず、それが再発見されねばならなかったのは、東大寺においてであれ、民
間においてであれ(『続日本紀』の記事を除いては)、そのような伝承が存在しなかったからに他な
らないと思われる。(14)」と論じ、行基と東大寺勧進職の係わりが明確化する転換は、治承四年
(1180)の南都焼き討ちからの東大寺再建に重源が中心となって勧進を行う中で、行基の勧進が
再発見されたと卓見している。
 行基の大仏勧進は,『続日本紀』及び同紀を引用する『東大寺要録』に書かれていたことであった
が、平安時代中期まで、一般世間の伝承として、行基の大仏勧進の伝承が存在しなかったが、重源
の東大寺再建活動の中で、行基の「東大寺大仏勧進」が再発見されたという重要な指摘である。
 この「再発見」の意味するところは、行基と道照の同時代人としての関わり(15)や弾圧(『元亨釈書
』行基の投獄) (16)及び国分寺創建関与(17)の所見に似るところがある。

3 「大仏勧進」の事実性の通説
 福岡猛志の大仏勧進創作説に対して、中川修は反論する。
 「これまで、弾圧をうけた事と大仏建立への参加は行基理解の決定的手掛りと見倣されてきた訳
であり、それらの事柄の内実が問題にされたことはあっても、事柄そのものが否定されるようなこと
は遂になかった。(18)」のであるが、ここに、「福岡氏の主張は、言うなれば、大仏勧進創作説とで
も呼ぶべきもので、大仏建立への参加を伝える唯一の史料である『続日本紀』天平十五(七四三)
年十月乙酉条の否定に立った行基理解である。(19)」と『続日本紀』の否定論を注視する。
 続けて「拙稿では「大仏勧進」記事の事実性に関して、 @積極的に正史のこの記事を否定するだ
けの史料が他に見出せないこと。Aこれまでの行基の運動が国家の仏教理解に批判的な仏教理解
に基づいているからといって直ちに大仏建立への参加を否定しえないこと。B天平三年の部分的妥協
のことを考えても国家が行基の運動を追認する可能性こそあれあえて参加を作為せねばならないよ
うな必要性はなかったこと。から、事実と判断したはずである。…現段階では、行基の大仏勧進の事
実性についての通説は否定されておらず、有効である、とせざるをえない。(20)」と結論付けることも
止むを得ないことと思料する。
 ところが、『続日本紀』天平十六年十一月十三日条には、甲賀寺に大仏の体骨の柱を建てる際、聖
武天皇みずからその縄を引くが、行基は登場しないのである。(21) 
 同年十二月八日条、金鐘寺燃灯供養の際も同様である。
 行基が不在であることは、勧進に出ていれば、行事に参加せずとも、さもあろう道理は成り立つ。
 『続日本紀』という正史の記載を信頼できるものとするならば、中川修の反論は当然とされようが、
『続日本紀』が常に正しい事実のみを記載したかといえば、そうとばかりはいえないのである。
 なにしろ、行基は、「霊異神験類に触れて多し」人とされているのである。

4 大仏勧進が見えない行基伝の解決の論考
 天平十七年八月の平城京盧舎那仏の造立に際し、天皇御袖を以って土を入れ、持ち運びて御座に
加えることになるが、二葉憲香は「行基の参加は記録せられず、信頼すべき行基伝には、行基の大
仏造立への貢献などということは全くあらわれて来ない。この事実は何を意味するのか。現代史家
の行基の大仏造立参加の過大評価という史料を超えた想像をとりのぞいて考えれば、一たびは参加
した大仏造立事業から離脱した行基を考えざるを得ない。… 国家は、天皇と衆庶と行基とをふくむ
「共同幻想形態」のなかに行基をとらえようとしたのであろうが、それを果すことは出来ず、行基の
大仏造立への献身は、記録もすることが出来ず、行基伝のなかでうたうことも出来なかった。(22)」
と、大仏事業からの離脱を説くが、それに代わるべき事業参加もみえない。
 宮城洋一郎は、二葉とほぼ同様に、「行基は、勧進の受命にかかわらず、政治的事件と民衆の苦痛
の中で、平城京還都以前に勧進を放棄した。従って、行基と天皇とのかかわりを重視してきた行基
伝の各史料の作者たちも、行基の大仏勧進を記すことができなかった。(23)」とする。
これらの論は、『続日本紀』の行基に係る「大仏勧進」と「大僧正の任命」という二つの記事が「大
仏勧進(の功績)」→「行基大僧正の任命」の因果関係を含意した記事と考えるならば、その構図を
無視するような論考である。
 『続日本紀』は、天平十五年の紫香楽大仏造立の勧進の結果、同十七年大僧正に任命されたと繋
がるような構図を前提として記されているものとすれば、大仏勧進の取組がなされ、一定の功績が
あったことが想定されるので、勧進の放棄及び大仏造立事業からの離脱とする論述は支持されにくい
のではなかろうか。ただし、『日本往生極楽記』における大僧正の詔授は、大仏勧進とは関係なく、
行基が魚膾を食べて吐き出すと、小魚となった驚恐の話があって、聖武天皇が甚だ敬重した由による
ものとされているが、これは実際にはあり得ないことで、慶滋保胤の伝えたい意図は別にあろう。
 行基の大仏勧進を否定する論者である福岡猛志は、行基の大僧正の任命について、何故、大僧正
に任命されたのかと疑問を呈する。「行基の任命は,大仏勧進のための方策として、あるいはそのこと
に対する功賞として考えられているのであり、このことは大僧正就任後の行基が、僧綱組織の頂点に
あって(あるいは僧綱組織を超越した新ポストにあって)僧尼令的秩序の維持・強化のために何らかの
手腕をふるったとみられる形跡がほとんど皆無である点からも、追認されそうに思われるのである。(24)
」と、行基の大僧正任命を実質を伴わない名誉職的に考えられ、大仏勧進と大僧正任命の関係を想定
できる理由とするが、この部分は理解しがたく思われる。
 福岡は、同様に大仏勧進を否定する論に立つ二葉の説を推し進めたが、『続日本紀』の行基に関する
記事のうち、行基の大仏勧進という「地の一部分(福岡の説明)」のみを否定することは、中途半端な説
と見られるかも知れない。
 中川修は、「『続紀』行基卒伝で編者が伝えようとしたのは、僧尼を統轄する僧綱制度の頂点に立った
「大僧正行基和尚」の学業・民衆教化・天皇の崇敬であって、菩薩として表現されている民間での行基
像ではなかった。…(それでもなおかつ、善として評価されるべき大仏建立参加がなぜ卒伝に記されな
かったのか、という疑問は依然残る。しかしこの疑問は、編者が僧尼の模範としての行基をなぜ伝えよ
うとしたのかを問うなかで検討すべきであり、この段階では決着をみない)。…『続紀』卒伝に行基が僧
尼の模範として記録されたのは、その編纂の枠組みが僧尼令的秩序の再建という当時の政策に規定
されていたからであった。そうすると、『続紀』行基伝に大仏建立への参加記事が出て来ないのも、「倹
約」のために「仏朝云畢」(『続紀』延暦元年四月祭亥条)と造寺造仏路線に終止符をうった当時の政策
方針に規定されて削除された、と見倣さざるを得ないであろう。(25)」とするが、これも理解しがたいとこ
ろがある。
 『続日本紀』に、「人民苦辛、氏々人等、亦是為レ憂」と評された東大寺建造については、宝字元年、
橘奈良麻呂が変を起こし捕らえられた際、東大寺造営が人民を辛苦に追いこんだことを主張したが、
勅使(藤原永手ら)に「寺を造ることは元汝の父の時より起これり。いま人の憂を?ふ、その言似ず」こと
を指摘され、「辞に屈して服せり」とする記事が記載されている。(26)
 このことから、盧舎那仏の造立を推し進めた聖武天皇及び律令国家の立場と見解を異にする「大仏
造立」に対する批判を封じ込めたり、「大仏造立」の史実に関する記事を削除する要因があったわけで
なく、政策変更による「行基の大仏建立への参加」という史実を削除されたとする論には理解できない
ところがある。
 次に、行基伝に明確な大仏建立の関与が書かれてないことから、行基と大仏の係わりが別の面から
説かれている。
 吉田靖雄は、「行基関係史料に大仏勧進のことがみえないのは、行基自身が「心すすまぬ」状況に
あったことを示すものでなく、行基伝を記した人々にとって、大仏勧進は、「特筆すべき実績」とは考え
られなかったのである。 (27)」とする。
 これは、確かに『霊異記』を著した景戒のように「大仏造立」に触れない者もあるが、一般的には、
奈良時代最大の国家事業である大仏造立を押し進めるために行基が勧進を行った事実があるなら
ば、大仏勧進という貢献がなくなるものでなく、まして行基にとって「特筆すべき実績」に当たらない
と行基伝を記した人々全てが大仏勧進を否定的に考えるとする見方は肯定しがたい。
 行基の大仏建立の関与が書かれてないことは別の理由によるものと思われる。

5 天平十五年条の大仏勧進の解決論
 二葉憲香は、「『舎利瓶記」以下の諸伝に行基の大仏勧進のことを伝えないのは、故意に無視した
とは到底考えられないのであるから、それが特記せられる程のものではなかったからであると考え
なければなるまい。『続紀』に行基の大佛造立に関する衆庶勧進を伝えることは、事実無根であると
する根拠はないので一応信用しなくてはならないが、『舎利瓶記』そして何よりも『続紀』の行基伝が
無視する程の勧進を、天平十五年の所では何故特に記述しているのであろうか。(28)」とするように
、行基の大仏勧進を伝えない「解決された」論は、吉田靖雄とほぼ同意であるが、後段に記される問
題、何故、天平十五年条に大仏勧進が記述されたかの「解決」も求められている。
 これに対して、福岡猛志は、「天下の孤条」と呼ぶ天平十五年十月乙酉条の表現について、「大仏
勧進は、一般情勢を念頭においた、史官の認識あるいは想定にすぎないのではないかと思われる。  
百歩譲っても、官の要請を思わせる叙述がなく、「於是」が論理的連関を示すにすぎないとすれば、
「始めて寺地が開かれた。それによって、木津川畔における行基の行動が、(聖武発願の精神に合
致して、結果として)衆庶を大仏造営にむけて勧誘するものとなった」(即ち、役民等を救済する行為
それ自体が造仏を助けるという意味で)というのが、この一条の内包する意味だったのではあるまい
か。(29)」と、行基は官の要請ではなく役民救済の行為が造仏に繋がるという史官認識により、「解
決」させる。福岡猛志は、天平十五年条について、「史官によるひとつの理解に基づくもの」との解釈
で、史官の手による「創作」たる可能性を後退させているのである。
 堀一郎は、「行基は嘗って養老年間妄に朋党を構えて街衢に零畳し、強乞妖惑するとの件を以て
排斥抑圧せられ、天平三年八月頃漸くその運動に対する圧迫が緩和せられた程であって、こゝに唯
勧進の功のみによって一躍大僧正を拝した事は奇異の感がある。 (30)」とされる。
 紫香楽の像仏は失敗したのである。また、紫香楽宮も未完成に終わった中、行基が大僧正に任じら
れるのである。大きな功があったとは思われないので、大仏勧進の功により、大僧正を拝したという
論理は疑問である。

二 行基と霊異神験
1 『続日本紀』に記される行基
『続日本紀』の行基伝は、巻一七の天平勝宝元(七四九)年二月丁酉(二日)条にある。それ以外
にも表1のとおり、行基関係の記事がある。
表1 続日本紀の行基関係の記事
紀年月日行基の名称記事六斎日備考
A養老元年4月23日小僧行基行基指弾23「村里」あり
B養老2年10月10日不出僧網に対する太政官布告二十=二重
C養老6年7月10日不出僧尼令違反23「村邑」あり
D天平2年9月29日不出妖言惑衆29番外
E天平3年8月7日行基法師高齢の行基信者に出家を許可15
F天平15年10月19日行基法師大仏造営を勧誘29
G天平17年1月21日行基法師大僧正とす31
H天平21年2月2日大僧正行基和尚、薬師寺僧遷化(行基薨伝)23
I宝亀4年11月20日故大僧正行基法師行基開基六院に田地施入31
注)上記表の9項目は、中川修「行基伝の成立と民衆の行基崇拝」『民衆と仏教』永田文昌堂による。 2『続日本紀』の作為  『続日本紀』は、東大寺の前身である金鍾寺を二箇所に記す。  天平十六年十二月八日条に「丙申。一百人を度す。此の夜、金鍾寺および朱雀路に燈一万坏を燃 す。」と、天平十八年十月六日条に「甲寅。天皇・太上天皇・皇后、金鍾寺に行幸す。盧舎那仏に燃 燈供養す。仏の前後の燈一万五千七百余坏。夜一更に至るとき、数千の僧をして脂燭をフげ、讃歎 供養して、仏を繞ること三匝せしむ。三更に至りて宮に還る。」である。 そして、天平十七年正月廿一日条に、「詔して、行基法師を以って大僧正となす。」と記される。  天平十六年十二月の金鍾寺の燃燈供養の後の翌年正月に、行基が大僧正に任命されていること は、盧舎那大仏の勧進に衆庶を勧誘した功績を評価された結果のようにも読み取れる。しかし、ここ に、『続日本紀』の編者の作為がある。  天平十六年十二月八日条の「金鍾寺」について、林陸朗は、「 金鐘寺 東大寺の前身で法華堂 (三月堂)がその中心であったろうと見られるが、但し本条ではその次の朱雀路が紫香楽のそれであ ろうから、この金鍾寺は甲賀寺の誤りではないかと考えられる。(31)」とするから、実際には、行基の 大僧正任命が東大寺の前身である金鍾寺の燃燈供養、ひいては東大寺大仏造立の勧進とは結び つかず、行基の大僧正任命は、紫香楽宮・甲賀寺における大仏造立の勧進との係わりでこそ生じる ことになるが、『続日本紀』編者は、故意に行基を東大寺大仏勧進と結びつけるために「甲賀寺」でな く、「金鐘寺」としたのであろうか。「金鐘寺」もまた、良弁との関係が『東大寺要録巻第一』に記される。  それを含め、天平十五年十月乙酉条以外の『続日本紀』からは、行基の東大寺勧進職だけでなく、 東大寺大仏造立の勧進の結果としての大僧正の任命は、結びつかないことを確認しておきたい。  そして、誰もが「解決」を図らなければならない問題は、何故、『続日本紀』を除く行基伝に、行基の 功績としての「大仏勧進」が記されないかということである。  端的に、私見を述べれば、その事実がなかったと考える。  『続日本紀』天平十五(七四三)年十月乙酉条は、福岡が問題提起したとおり、史官の創作、つま り作為と考える。根拠は、行基が天平十三年以前に逝去したと憶測するからである。  『続日本紀』には、行基は天平二十一年に薨ずるとされるが、『続日本紀』を否定し、その事実を証 明することは限りなく困難と思われる。しかし、推論の傍証の一つとして、『続日本紀』天平十三年恭 仁大橋の建造については、その功により得度を許された僧尼集団が見えるが、行基の姿が見えない ことを挙げる。また、それ以後、『続日本紀』には「大仏勧進、大僧正、遷化」を除いて、行基の姿が見 えないのである。  多く残された行基の伝記等から推測して、『行基年譜』の「天平十三年記」を行基の死後の功績と捉 えることで導かれる結論である。(32)  『続日本紀』には、高齢の官人僧侶を嘉して杖を贈る例が記されている。77歳の霊杖や80歳の鳩杖 である。もちろん、全ての者が記されるわけでないと思われるが、大僧正であった行基は、この名誉あ る杖を受けた記録がないのである。  それでは、『行基年譜』の「年代記」の天平十三年以降の記事や天平二十一年の行基逝去を記す 『続日本紀』は何なのかと問われるかも知れない。  それらは、福岡が指摘する史官の手による「創作」であり、『行基年譜』作者等による創作と考える ことができる「霊異神験が多い」行基の姿を示しているものとお答えしておく。 3 『続日本紀』の「霊異神験」  天平十五年十月乙酉条については、他史料に見えない大仏勧進が何故記されたかが、次に解決を 図るべき問題として残っている。  金鐘寺と甲賀寺の誤りの如く『続日本紀』には、史実に相違すると思われることが記されている。  行基の類に触れて多しとする「霊異神験」の内容は霊異記などを元に想像するしかないが、通常 はあり得ないことが起こることが「霊異神験」ならば、事実に即した不思議でない出来事は「霊異神 験」といえないであろう。しかしながら、『続日本紀』は、聖武天皇の最大の国家事業である大仏造 立に関して、甲賀寺の失敗を踏まえての、知識の協力、労働力の確保、陸奥国の金の産出などを 通じて、巨額の資金を投じて成しえた東大寺における十六丈もの巨大な盧舎那仏像の完成という 奈良時代において突出したと思われる出来事に対しては、行基の実際の具体的活動はおろか、 行基の「霊異神験」の出番も用意されなかったようである。  『続日本紀』の天平十五年十月乙酉条を見ると、行基は、天平十五年の時点で、聖武天皇が紫 香楽宮・甲賀寺に盧舎那仏像を造り奉らむ為に、行基法師が弟子等を率ゐて衆庶を勧誘したこと だけを記している。  『続日本紀』から読み取れる行基と接点を持つものは、紫香楽宮・甲賀寺の盧舎那仏像のみで あって、東大寺のそれでない。つまり、同条からは、東大寺の大仏勧進は読み取れないのである。  天平十五年の衆庶勧誘をもって、天平十五年以後も行基入滅の天平二十一年間近まで大仏勧 進が行われたと想像することは出来ようが、史料上は一切見えず、その史実を証明することは困 難である。    『行基年譜』に見るとおり、行基の活動は、天平十三年以後は寺院建立以外には、布教活動の 一環とした社会貢献の事業が見えない。行基の晩年において、行基が最も関心を抱くと思われる 事柄は、これまでに行基が行ってきた池溝・水田開発から想定すると、天平十五年に発布された 墾田永世私財法に基づく開発事業であろうと想像できる。ところが、その墾田永世私財法発布以 後の行基の活動は、井上光貞が「少なくとも天平十五年以後の活動は官の立場に立つ東大寺造 営の勧進に集中されたであろう。」(33)と述べるように、摂津国西城郡に於ける五院の建立以外に は全く見えないことである。天平十五年以後の行基の行動は、ちょうど、大仏の勧進と重なる部分 に当たることになろう。『続日本紀』の編者は、行基の晩年の活動について、記すべきものがない、 あるいは、記すことができないので、「大仏の勧進」という逃げ道を用意しているものと憶測する。  『行基年譜』などに、東大寺造立の際の供養講師を行基が辞して外国の大師に奉仕させるべき として婆羅門僧正菩提遷那を摂津国難波津に迎える説話がある。それは、行基が大仏造営の勧 進を始めた天平十五年及び天平五年の話となっているが、実際の婆羅門僧正の来朝は天平八年 (七三六)のことである。それが説話上では東大寺落慶供養の導師として招請されたように作り変 えられている。何故か、それは天平八年の出来事を天平十五年まで引き伸ばしたということであり、 事実を後年に移すという時間の操作を加えている。  時間操作を必要とする理由のひとつは、天平十五年の時点には、行基が存在しなかったからで はないかと考える。そうすると、『続日本紀』の天平十五年条における大仏勧進は当然のこととして 編者の作為になるが、行基の薨伝にも関わらず、行基が早く示寂したならば、死後に姿を現す神 仙・高僧の説話は『霊異記』などに多く出てくるので、死後に蘇り、大仏勧進を行い活躍する行基 は、まさに霊異神験そのものを表わすものである。  『続日本紀』の編者は、行基を死後に再生する霊異神験の人、あるいは神仙として存在させたと 考えられないか。  天平勝宝元年以後に見える行基の姿は、単に紀年を錯誤したものでなく、死後に蘇生し姿を見 せる不老不死の人として描かれていると解し、『行基年譜』などの智光説話に表われる地獄にある 黄金の宮殿に行基が死後に住み給う処とする作り話の存在から、「行基を神仙とすること」は「霊 異神験」の出来事としてもおかしくないのである。 4 死後に蘇生し活躍する行基  行基の出自を漢高祖の末流とする伝承(34)から考えると、『続日本紀』に初めて表れる「小僧行基」 の「小」は、中国語に直すと「蘇」とする場合がある。(35)つまり、中国語と合わせれば、「小僧」の 行基は蘇る僧である。 根本誠二は、「行基は、聖武天皇より大仏造立の供養の講師に任命されるが、(『三宝絵詞』に) 「行基はそのことに堪えずはべり。外国より大師来たまふくし。それなむ任すべき」と言い、文殊 信仰の権化をもとめた婆羅門僧正菩提倦那(?〜七六○)こそ、それにふさわしいと語っている。  もし、この記述を大仏開眼供養に関するものとするならば、行基はすでに天平二十一年 (七四九)に死去しているので、天平勝宝四年(七五二)四月の開眼供養に出席することができる はずもなく、後年にそれにふさわしい大僧の渡来を予言するという目論みを込めて記述されたと 考えるべきであるとしたい。ただ、行基と東大寺大仏の造立事業との関係を、『続紀』や『霊異記』 よりも具体的に叙述しているのは、時代的にこれが最初である。(36)」とするが、実際の菩提遷那 の来日は、天平八年であり、三宝絵詞の説話では再生した行基を出現させたようにうかがえる。  同様に、「『吾妻鏡」の一節をみると、 頼朝が東大寺大仏殿の再建落慶供養に出席した記述の 中に、「(天平勝宝元年)同十二月七日丁亥、供養遂げらる。天皇並びに太上天皇聖武寺院に行 幸す。導師南天竺婆羅門僧正、呪願師行基大僧正なり」とある。ことさら天平勝宝元(七四九)年 十二月の大仏開眼の供養に、行基が呪願師として出席したとある。しかし、行基は、すでに同年 二月二日に死去していたのであるから、出席できるはずもない。頼朝の認識というよりも、「吾妻 鏡」の史官の認識であろう。だが、これは鎌倉時代の東国武士の認識の中には、大仏という東 大寺の”本尊“の造立に行基は深く関わったとの認識が、すでにあった証拠であろう。こうした記 述は、不正確ではあるが、ここに頼朝を中心とする鎌倉での、行基追慕ないしは回想の念のたか まりを知ることができる事例である。これを契機として相模国の寺々に、さらには東国全域の寺々 に、行基開創伝承や行基造立の本尊を安置するなどの、高僧の保持している権威にまつわる伝 承が拡散することとなったのであろう。(37) 」とされることも『霊異記』に通じる「行基再生説話」を 作り上げたものであると考えると、まさに、「霊異神験類に触れて多し」である。それ以後の事例 としては、次の表がある。 表2 死後の行基出現
史料時期記事
神明鏡勝宝元年12/7東大寺大仏供養、行基菩薩導師
三宝絵詞勝宝4年752東大寺大仏開眼供養
吾妻鏡勝宝元年12/7(天平勝宝元年)同十二月七日丁亥、供養遂げらる。天皇並び に太上天皇聖武寺院に行幸す。導師南天竺婆羅門僧正、呪願師行基大僧正なり
和歌色葉天平勝宝3年菩提僧正来住此国(同行基菩薩)
俊頼髄脳東大寺大仏供養婆羅門僧正にせさせ給へ
古来風躰抄聖武天皇東大寺をつくりたまひて供養あらむの日、行基菩薩 なにはのきしにいでて、東大寺くようにあひに菩提のなぎさにつきたりけるによめる
為兼卿和歌抄東大寺をつくり供養あらむとての日、行基菩薩難波の岸に て、婆羅門僧正を迎え給ふ時
諸山縁起天長10(833)仁明天皇の御使行基菩薩
摂津名所図絵勝宝年中(源光寺)大僧正行基三昧火杭を始むる古蹟なり
行基菩薩縁起図絵詞東大寺供養図絵篇第32呪願行基
東大寺雑集録巻1勝宝元年12/7行基賜菩薩号
白山神社伝承勝宝元年12/7柿本人麻呂が岩船寺の鎮守神とし創建し、行基が遷宮し たと伝える(寺院神社大辞典p172中)
行基菩薩伝婆羅門僧菩提の渡来
丹比連大歳優婆塞貢進解宝亀3年以後[筆者]師主薬師之寺師位僧行基(天平10〜19年と想定されるが、編 冊の位置から宝亀3年以後に記録されたものと思われる)
行基図平安京を基点とする
『家原寺蔵 行基菩薩縁起図絵詞』に「東大寺供養図の篇第三十二  南浮洲 浄刹土の東大寺造営 成りぬ。…導師の婆羅門僧正は、 普賢の三昧に入り、呪願の行基菩薩は文殊八不の勧進を凝らし、 朗弁僧正は慈氏の成道を期し、□□聖武皇帝は観音の瑞相を現じ玉つ。…」とある。  堀池春峰は「まさしく東大寺供養の景観で、絵伝中もっとも大きく取扱われている。絵詞には導師 婆羅門僧正、呪願行基、勧進朗(良)弁としているが、東大寺大仏殿供養には行基既に卒していた し、勧進はむしろ行基によって行なわれたのであって明らかに誤記であるし、…(38)」とし、米山孝 子は「導師婆羅門、呪願師行基菩薩、勧進朗弁(良弁)となっているが、天平勝宝四年(七五四) の大仏開眼供養は行基没後三年のことで潤色も甚だしい。が、東大寺造営の勧進は行基が中心で あったことを思いあわせると、このような伝承が出てくることも行基信仰者の熱い思いが看取される のである。(39)」とするが、これらは、行基の死を誤ったものでなく、一旦は死んだ行基が、また、蘇 生し姿をみせる形として表現されているのではなかろうか。  開眼供養会に関する「呪願行基」が再構成されていることは、『東大寺要録巻第二』(40)に、天平 勝宝四年(七五四)三月二十一日の勅書があり、「大仏開眼師菩提遷那、講師隆尊、呪願師道?、 読師延福、都講景静」とされていることから、「呪願師道?」が「呪願師行基」に書き換えされたこと が分かる。それぞれの編作者が単純に行基の死を誤まって記載したと考えるのではなく、行基の死 を承知しながら、行基を再生させたと考えることは霊異記の世界と同様に、つまり、死者が甦り活躍 することは霊異神験の世界を描いたものとすれば理解できよう。(41) 結びに  行基の大仏勧進については、『霊異記』の世界に見える死者が再生すると同様な霊異神験を描い たものと考える。これを違う形で明確に示したものが、真福田丸に片袴を縫って与えた姫を行基の前 世とする智光説話であろう。(42)  表面的には、『続日本紀』をはじめ、多くの行基伝の全ての記事を否定する論を展開した。「表面 的には」としたことは、多くの行基伝の全ての記載を否定するものでなく、真実らしく見せかけた虚 構の行基伝の背景には、それぞれの書き手によって表現が異なるが、行基の隠された姿を暗示し ようとする意図が読み取れるので、行基の実像を明らかにするためには、隠された文章及び字句に 秘められた部分を丹念に読み解くことが必要と認識するに至った。『霊異記』の史実とは別に、行基 の存在は、『霊異記』の世界に表される「神仙」、または、「蘇生・再生する人物」と置き換えられる。 大江匡房の『本朝神仙伝』には、行基とともに役行者、泰澄、弘法大師などがあげられている。(43) 『元亨釈書』には、伊勢皇太神宮には行基が登場する。(44)  行基に係る研究は、百家繚乱の趣があり、分野によつてはほぼ論議が尽くされたと考えるむきも あるが、さもあらず、果て無き広がりをもつものと考え、問題提起していきたい。 註 (1)「小僧」『続日本紀』養老元年4月23日条/「法師」『続日本紀』天平3年8月7日条/「大徳」『古記』大宝令註釈書   (天平10年頃)/「大僧正」『続日本紀』天平17年1月21日条/「菩薩」『続日本紀』天平17年1月21日条。 (2) 亀田隆之『伊丹史学』創刊号、1974年、17頁。 (3)「転向問題」中川修「古代における思想主体形成の問題」『仏教史学研究』第18巻第1号、1976年、60-61頁。 (4)根本誠二『行基伝承を歩く』岩田書院、2005年、22頁。 (5)同上、33頁。 (6)同上、37-40頁。 (7)『行基 鑑真』日本名僧論集第1巻、吉川弘文館、1983年。 (8)福岡猛志「律令国家と行基」『歴史学研究』第五百号、1982年、105-106頁。 (9)同上、福岡猛志105-106頁。 (10)『東大寺円照上人行状』大日本仏教全書第105巻。 (11)『大日本仏教全書』第119巻、寺誌叢書第3。 (12)「四聖説」「東大寺四聖垂応建立所也、聖武観音、良弁僧正弥勒、婆羅門僧正普賢、行基菩薩文殊」(凝然『三   国仏法伝通縁起』巻中) (13)福岡猛志『歴史学研究』第五百号。22頁。 (14)同上、22頁。 (15)凝然『三国仏法伝通縁起』応長3年(1311)。「行基の師を道昭とする」最古の例である。   「この説は比較的新しい史料とせねばならない。」和田萃「行基の道とその周辺」『古代の道』法蔵館、144頁。 (16)虎関『元亨釈書』元亨2年(1322)。「…信頼すべき行基の伝記は、彼の罪科について、何等語るところがない。   わずかに『元亨釈書』(巻14)の行基伝のみが行基の罪科について記している。   「(行)基、私度二沙弥一、勅禁圄、身在二獄中、而出遊二里?一、獄吏以聞、詔赦之……。」   行基は、私入道の罪で禁固されたが、分身は、里邑に出遊するという不思議を示したが故に、詔により赦免された   という。ここでの行基は、超人間的霊能者に表現されているので、禁固と赦のことが果して事実であったのかどうか   疑われる。」吉田靖雄、註(27)、128-129頁。 (17)慈円『愚管抄』承久2年(1220年頃)「行基菩薩諸国ノ国分寺ヲツクル」とある。 (18)中川修「行基伝の成立と民衆の行基崇拝」『民衆と仏教』日本仏教史研究第五巻、永田文昌堂、1984年、97頁。 (19)同上、97-98頁 (20)同上、104頁、108頁。 (21)宮城洋一郎『日本古代の仏教運動史研究』永田文昌堂、1985年、292-293頁。 (22)二葉憲香『日本古代仏教史の研究』永田文昌堂、1984年、250頁。 (23)宮城洋一郎「行基の仏教運動」『二葉博士還暦記念会編・仏教史学論集』永田文昌堂、1977年、 (24)福岡猛志、註(13)、17頁。 (25)中川修、註(18)、118-119頁。 (26)『続日本紀』天平宝字元年7月4日条。/井上光貞『行基鑑真』120頁。 (27)吉田靖雄『行基と律令国家』吉川弘文館、1986年、277頁。 (28)二葉憲香、註(22)、509-510頁。 (29) 福岡猛志、註(13)、22頁。 (30) 堀一郎「玄ム法師の死」『論集奈良仏教第二巻奈良時代の僧侶と社会』雄山閣出版、1994年、212頁。 (31)林陸朗校注『訓訳 続日本紀』現代思潮社、注釈47頁下10。 (32)拙論『行基伝の研究』 (33)井上光貞『行基 鑑真』吉川弘文館、昭和58年、185頁。 (34)『竹林寺略録』『行基菩薩縁起図絵詞』。他の史料では、百済王の後とするものがある。 (35)小野妹子は、隋では蘇因高と称した。 (36) 根本誠二、註(4)、53-54頁。 (37) 同上、60-61頁。 (38)堀池春峰「家原寺蔵 行基菩薩縁起図」『南都仏教史の研究』上、法蔵館、1969年。622-623頁。 (39)米山孝子『行基説話の生成と展開』勉誠社、1996年、207-208頁。 (40) 大日本仏教全書『元亨釈書』第18・願雑三 神仙5、267頁。 (41)拙論「行基伝の研究」では、「行基」名は、死後に追号された「菩薩号」と論じた。 (42)智光説話『今昔物語集』/『古本説話集』新日本古典文学大系42、岩波書店、1990年、485頁。   「60 真福田丸ノ事」 (43)『続群書類従』傳部5、第193号、93頁。 (44) 大日本仏教全書『元亨釈書』第18・願雑三 神仙5、267頁。 参考文献 「日本往生極楽記」『群書類従』傳部3、巻第66号、397-398頁。 「本朝法華験記」『続群書類従』傳部2、巻第194号、115-116頁。
[行基論文集]
[忍海野烏那羅論文集]

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