俳句絵解き草子(11)    
磯 野 香 澄
如月や無一物にて石の庭 香 澄

この作品は私の作風が大きく変化した時の精神性に関わったもので、絵解きするのをためらう気持もあるのですが、どんな作品でも理論であれ内容であれきちっと解明出来ると云うのが、芭蕉の作風踏襲と云う裏付でもあるので書く事にしました。二十七才から約三十年間現代俳句を書いて来た私の行き着いた処が「事を物で書く」と云う芭蕉の作風の世界でした。そして理論的には俳句とは全て理に叶った芭蕉と一茶の晩年に到達された、アニミングの領域を云うのだと分りました。作者の思いを物に託して、作品自体を一つの生物として独立させる。こう分った私に取ってそれは精神的エクスタシーと云った至上の世界でした。理論も分った。書き方も分った。しかし長年十七字の中で如何に多くを表現するかに全力を注いで来た習性と、世間のその風潮の中。現代俳句のもろ自分の思いを書く濃いのをよしとした世界から、一挙に移行するのは大変です。現実が全てと云う簡潔な表現に移るのに、一旦自分の心を「無」にしない事には移れないと云う事に気付き、その為には今迄身につけた物を全て捨てなければならない。今迄を捨てる事は大変な事だと浚巡の日々が続きました。ある日新幹線の下の散歩で空気の入った紙袋が風に吹かれて空中を浮遊している様な気がして心が無になり、体重ゼロを感じると云う現象を体験して、過去を捨てても良いと思える様になりました。それを期に心が澄み切った様で作品もできました。何故か龍安寺へ行きたくなって石の配置だけの庭を見に行きました。以前はお寺の建物の中だけが拝観のエリアだったのが、入口から拝観と云う事で境内の方々で遊べて、二月と云う飾り気のない広い寺領がこの上なく美しく見えました。そして石だけの庭と思っていたのが『これは建物の中に置かれた庭と云う作品だ』とその縁側に座っていました。数学の様に計算の上の究極の石の配置、砂の色、屏の形、宇宙的バランスで成っていて私語のない空間、ここに何も云わずに捧げる世界の安らぎがあると。時間が過ぎて行きました。

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