俳句絵解き草子(3)    
磯 野 香 澄
釈迦堂や素足で減らす節の板  香 澄

京都はお寺だらけでその数はどれだけあるか知りませんが、京都市の観光課で出している観光案内資料によると、観光社寺の数は一二○あります。不信神な私は他府県の人によく知られている処位より行った事が無かったので、一二○全部を回ろうと手当り次第に行きました。とは言っても仏像に手を合わすと言う殊勝なもので無くもっぱらお庭巡りです。四季折々の樹木の美しさはさすがで建物の文化には魅せられる物が沢山あるのを知りました。木造の年月の長さがその木に刻まれていて感心したり、嵯峨の釈迦堂と言われている清涼寺のそんな古さに、懐かしさみたいなものを感じ乍ら、広い庭や廊下をゆっくりと回って入口へ出てきました。履物を出してと踏み段に下りた時です。足の裏に深い凹凸です。石によくあるすべすべの凹凸が一杯あるのです。視力の悪い私は石だったら冷たいしと足をずらしてみるのですが分りません。「此々どうなっているの」と聞きました。「板やんか」と言われて「何でこれが板?}とその凹凸の深さに信じられません。靴を履いて屈んでみました。横からみると、風化して年輪も分からない位ですが木の板です。そしてこの板は厚みが一○センチ以上あるのです。ずっと続く廊下の板の厚みも同じ様に一○センチ以上です。この分厚い板に驚くと同時に、ここ迄踏み減らした歴史に思いを馳せるばかりです。観光で人が押しかける様になってからはせいぜい二三十年、もっと観光客の多いお寺でも板がこんなに減っている処は何処にもありません。まして節だらけの堅い板がすべすべのでこぼこです。ここに至る迄どれだけの人が釈迦に慕い寄って出入りしたのだろう。又建築の時に踏み段は堅い節の部分の板をあえて使われたのだろうと思え、古建築の凄さと先人の文字通りの足跡と、そして今も目には見えない摩耗が続行中である事、そして私も確かに減らした一跡となって歴史の中に経過して行くのだと、人間の凄さをこんな処で思い知らされて凄いと言う他ありませんでした。

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