もしかしたら日本製「薔薇の名前」かもなんて思ってかなりの衝動買いをして
しまったのですが、佐藤賢一著「カルチェラタン」という小説を紹介します。
佐藤氏の作品には「傭兵ピエール」とか「王妃の離婚」というのがあって、
ちょっと読んでみたいなとは思っていたのですが、なかなか手が出ませんでし
た。そこでいま一番新しい小説(「カルチェラタン」は2000年5月が初版です)
を思わず買ってしまいました。「カルチェラタン」というタイトルに妙に興味
がわいてということもあるのですが、その内容が16世紀のフランスと中世の
カトリック教会について資料取材をしているようで、これは読むべしと思った
というわけです。
カルチェラタンというのはいまもそうですが、パリのセーヌ川左岸に広がる学
生街。カルチェラタンとは「ラテン語の街区」ということですから、そこには
ラテン語を使う人たちが多数いたわけです。つまりパリ大学の学生や学者を中
心にした、いまで言えばインテリ層ということでしょうか。パリ大学の最高学
部がソルボンヌの神学部、つまりカトリック神学の最高権威がカルチェラタン
にあり、教会が絶大な宗教裁判の権利を有していた頃がこの小説の舞台です。
ちょうどフランシスコ・ザビエルやロヨラがパリ大学に学んだ時代という設定
で、彼らは「ミニマ・ソキエタス・イエス」(小さなイエスの仲間たち)という
名前のサークル活動で結ばれ、いずれ彼らによってイエズス会が結成されるわ
けですから、この小説の舞台にはとても興味があります。
で、ほんとに紹介しちゃってよいのかなぁなんてやっぱり思いますけれど。ま、
「薔薇の名前」も中世の壮大な修道院のなかで殺人事件が起こりという具合で
すから、カルチェラタンの殺人事件も紹介しちゃってもよいでしょうか。カル
チェラタンで連続殺人事件が起こり、神父が殺された。殺害された神父という
のが、一筋縄ではいかないほどの「悪事」を重ねていたというわけですが、そ
の悪事たるや、「聖職者」がそのようなこことをするか!というような話なわ
けで、ま、普通の感覚で言うなら口あんぐりなのですが。とはいえそこは中世
の権威の上にそびえたつ教会。ソルボンヌの神学者が殺人容疑でとらえられて、
おっそろしい拷問にかけられ、それをめぐって聖職者は神聖不可侵かというよ
うな神学論争を起こすわけです。事件を追うのが、パリの夜警警察官ドニ・ク
ルパン。小説はドニの語りで進みますが、読むほどにドニという人はなかなか
誠実な人で人間味あふれた魅力ある夜警として描かれているのがかなり魅力的
です。これ以上内容は言わないほうがよさそうですが。
しっかりした小説ではあるのですが、最初からすっと小説の世界に入りこめて
しまうほどなまやさしくはないようです。どうも馴染みにくい文章が続いて、
私も全体の4分の1ほど読み進めた頃から、ひぇ〜、これけっこうおもしろい
わ〜と思った。各章のタイトルが「薔薇の名前」風になっているところがちょっ
と憎いです。ま、それほどお勧め!とは言えないのですが、ひさびさに骨のあ
る小説だなという感じはしてます。実はまだ最後まで読み終えてはいないので
すが、ちょっとご紹介まで。
オカリナというのは小さい鵞鳥という意味だそうで、吹孔の部分が鵞鳥のくち
ばしに似ているのでイタリア語でオカリナと言うそうです。1860年頃にイタリ
アのドナティ(G.Donati)という人が最初に作ったのだそうだ。手のなかにすっ
ぽり収まるくらいの大きさで、軟らかな暖かみのある音が出ます。丸みをおび
た素朴な焼物には暖かみがあり、絵が描いてあることが多いですね。
そもそもオカリナというのは陶器製のものを言うのだと思っていたのですが、
木製の小さな笛を見つけました。鳩笛というか、これもオカリナの一種らしい。
小さな絵本の専門店にふらりと寄ったときのこと。そこは絵本と児童書と木の
おもちゃの専門店。なにげなくおもちゃの棚を見ていると、何やら「笛」らし
きものを見つけました。そうですね、長さは5、6センチほどで直径が3セン
チほどの竹筒といった感じのものです。笛のようなものなら欲しいなと思った
のですが、ところがその価格がなんと3000円。何か由緒ある木工品なのかと思
い、レジに座っていた女性に「これは音が出るのでしょうか」と聞いてみまし
た。店員さんは小さなビニール袋をあけて、なかから説明書を取り出してひろ
げてくれました。木製のオカリナということで、ハンガリーだったか(はっき
り覚えていないのですが)どこかヨーロッパ起源の木製の楽器だということで
す。「どんな音がでるのでしょうね」とさらに聞いたのですが、その女性も吹
いたこともないし、聞いたこともないですと言われました。
5センチほどの筒状になった胴の部分には小さい孔から少し大きめの孔までい
くつかの孔があけられていて、指の押え方の説明もついていましたから、ちゃ
んと音階が吹けるようでした。小さいものですから、やや高めの音だろうとは
思うのですが、いったいどんな曲がどんな風に演奏できるのか、ちょっと興味
を持ってしまいました。どうやらヨーロッパ起源の小さな楽器ということです
から、きっと何か民族的な歌を演奏するのに使われていたというような歴史を
持ったものかもしれない、と想像してしまったのですが。
何かちょっと心に残る小さな楽器で、本当は欲しかったのですが、3000円はや
や高めかなと思ってあきらめました。その楽器がいったいどういう素性のもの
が少し気を付けていたら何かわかってくるかも。何かの児童文学系の小説に出
て来るとか、誰かのエッセーに書かれるとか、きっとそんなこともあるかもし
れない。もしも妙に興味を注がれるなら、きっと買っちゃうでしょうね。
「古城の迷路」ドロシー・ギルマン 集英社文庫
ふと目について買った本なのですが、奇妙におもしろい本でした。ただ何やら
尻切れとんぼみたいな感じで終りが来てしまうのがちょっと気になったかな。
もっと先があると思って読んでいたのに、突然「おわり」みたいな感じ。でも、
この小説が何を書こうとしていたかを読んでいくなかで感じているとしたら、
ここから先は書かなくてもよいかみたいな含みはあるかもしれないけれど。そ
うですね。もし、自分が書くとしてもそこで終りにするかもしれないなとも思
うのですが。
この本の著者ドロシー・ギルマンは「おばちゃまは飛び入りスパイ」などのお
ばちゃまシリーズの作者で、私はこのシリーズは手もとに数冊本はあるのです
があまり読んだことはありません。それでもおばちゃまシリーズだけは知って
いたので、「古城の迷路」も探偵小説のたぐいかと思ったのですが、予想に反
して妙に気になる内容の本だった。ファンタジー仕立てがなかなかぴったりす
る作品です。
「迷路」といえばひところ遊園地で「迷路ゲーム」がはやったことがありまし
た。塀のようなもので囲まれた迷路を実際に歩いて出口を探すというゲーム。
遊園地のゲームはそれほど複雑でもないし、実際なかに入ればけっこうたくさ
んの人がうろうろしているし、子どもは塀の下をくぐり抜けたりもしているし、
なんとなく歩いていれば多少の時間の差はあってもたいていの人はそこそこの
時間で出口にたどりつく。迷路ゲームのなかで本当にまいごになってしまう
人なんてほとんどいないかもしれません。ま、ゲームだと分かっていればこそ
のことでもありますが。
迷路といえばギリシャ神話に出て来るミノス王のミノタウロスを監禁するため
の迷路が有名で「ラビリンス迷路」の歴史は相当古くからあるもののようです
ね。そもそも迷路というのはひどく複雑になってしまったために道を見失って
失うことですから、結果的に複雑怪奇、ひどくややこしい状態に陥ってしまう
状態。そういえばどこぞの教会の床にはラビリンスを描いた図版があると聞い
たことがあります(どこだったか、かなり有名なイタリアあたりの教会だった
と思う。また調べておきましょう)。なぜそんな場所にラビリンスがあるのか、
いろいろいわくもあることでしょうが、人生はしばしば「道」にたとえられま
すが、その道はもしかしたら迷路かもしれないですよね。なぜ?どうして?と
問わざるを得ないことが本当はたくさんあし、どの方向へ歩んだらよいのか選
択に迷うことは本当にたくさんあるし、自分の意志では選択できないこともま
たたくさんりますもの。
「古城の迷路」は、16歳で両親をなくしてしまった少年が修道士を訪ね、修
道士は少年を迷路へと導いてしまう。少年は迷路を抜けて(いや、抜けたつも
り)でさまざまな冒険の旅を続けるのですが、その旅そのものが「生きる」こ
と。この本はやや違った角度からの「天路歴程」なのかもしれません。だから
妙におもしろいし気になる本だったのかもしれません。
このところ天気は雨もよう。先週の土曜日13日(2000年5/13)の午後、西京極
にサンガ・神戸戦を見に行っていたのですが、後半半ば頃から激しい雨が降り
出した。雷はなるわ、稲光はすごいわで、私もそうでしたが雨が降るとは思っ
ていなかったので、ほとんどの人は雨具の用意がなく、ずぶ濡れになっての観
戦になってしまった。その後雨はやむどころかどんどん強く降り出して、帰り
道は雨のなかを自転車でつっぱしってしまった。
ところが途中から何やら妙な!ふと気が付くと「ひょう」が降っているではあ
りませんか。あまりのことにびっくりしてビルのかげでの雨やどりになったの
ですが、目の前にパタパタと大きな音をたてて直径5ミリはあろうかと思うよ
うな氷の塊が降るわ、降るわ。みるみるうちに道路はひょうで埋めつくされて
しまった。でもまた融けるのも早いのですね。どしゃぶりの雨が少々ましになっ
た数分後にはひょうはあとかたもなくなくなっていた。
さて、6月ももうまじか。雨、雨、雨の梅雨の季節がやってきます。雨の日と
いうのは確かにうっとうしいし、なんとも気分も滅入ることも多いのですから、
やっぱり雨の日は好きではないのですが、私は傘が好き。今日もふと入った雑
貨屋さんで薄いブルー地の傘をみかけて衝動買いをしてしまった。日傘かなと
思うような木綿の布の傘だったのですが、やっぱり雨傘。傘のふちが波型にカッ
トされているので、傘をひろげるとなんとなくかわいい感じ。傘は薄いブルー
なのでとても軽快な感じが気に入った。
いままで買った傘のことをいちいち覚えているほうが珍しいでしょうか。でも、
どれもこれも衝動買いのように買っているのですが、それぞれ気に入った理由
までちゃんと覚えているのは、よっぽどのことかもしれない。
茶色地に白い小さな水玉もようの傘は、ふちにフリルの飾りがついていて、な
かなかかわいいと思って買ったもの。でも、この傘を見た人はたいていフリル
飾りのところに雨がたまるのと違うといぶかしそうな顔をした。
傘の骨が倍ある白い傘。普通の傘は骨が8本くらいですよね。それが倍の16
本ある傘です。最初見た時に変わった傘だと思ったのですが、これがなかなか
具合がよいのです。つまり昔の番傘や蛇目傘の骨のようになっているものです
から、閉じた時にビラビラにならず、すきっとまとまるわけです。色も真っ白
だったので、とっても気に入ってました。難点があったとすれば少々重いとい
うことでしたか。この傘はずいぶん長く使ったのですが、白だったので、汚れ
が目立つようになってしまった。
コバルトブルーの傘は星のイメージ。これは大阪の東急ハンズで見つけたもの。
まずは色が素敵で欲しいと思った。ふちの部分がとても深くカットされていて、
白いテープのふち飾りがついているので、ひろげると八角形の星(ひとで?)の
ように見えるのです。まあ、確かにちょっと変わった傘かもしれない。この傘
をさして歩いていたら、小学生が何やらククッと笑ったことがあったのだけれ
ど。でもですねぇ、その後、傘のふちの部分を深くカットしたデザインのもの
が増えてきたのは確かだよ。
クレージュピンクの傘。クレージュのピンク色が好きであまり悩まずに買った
傘。木綿地で少し重いのですが、かなり気に入ってました。ところが、自転車
に乗っている時に傘の先を前車輪にひっかかてしまい、バキッとものすごい音
をたてて折れてしまった。買ってから1週間目くらいのことだったので、新品
の傘をこうやって壊すのかとなさけなくなった。
マリー・クレールの赤のふちどりがついた紺色の傘。オーソドックスな色の傘
だけれど、赤いふちどりがとっても気に入っていた。この傘が壊れてしまった
ので、同じものが欲しいと思って、この傘を買ったデパートの傘売場に行った
のですが、同じものはもうなくなっていた。その売場で、紺地に赤のふちどり
のある二谷ゆりえさんブランドの傘を見つけて、悪くないなぁとは思ったので
すが、ほんの少し高級感を出しすぎの部分を感じたので買うのはやめました。
「アマドールのためのエチカ」、うん?何やら響きのよい言葉の連なり。
これは本の題名です。
フェルナンド・サバテール著「アマドールのためのエチカ」河出書房新社
日本ではヨースタイン・ゴルデルの「ソフィーの世界 哲学者からの不思議な
手紙」が大ベストセラーになったようで、私の手もとにもあり、これはなかな
かおもしろいなぁと思って読みました。「ソフィーの世界」も「アマドールの
ためのエチカ」もともに1991年の刊行とのことですが、日本では「ソフィーの世
界」のほうが早く紹介されたようです。「ソフィーの世界」の著者はノルウェー
の人で、「アマドールのためのエチカ」の著者はスペイン人なので、北のソ
フィー、南のアマドールというのは、アマドールの訳者の方があと書きで書か
れている言葉なのです。
確かに、偶然の一致にしてはできすぎるほど、「北のソフィー、南のアマドー
ル」なのです。根底ではとてもよく似た本だと思います。根底ではというのが
妙にあいまいに響きますが、人はなぜ生きるのか、どうしたらよりよく生きる
ことができるのだろうかという問題について、大人(親)が息子や娘(子どもた
ち)に手紙や本というような形に託してして分かりやすく語っているという本
なのです。
「アマドールのためのエチカ」の日本訳のタイトルは「エチカの研究 父が子
に語る人間の生き方」となっています。「アマドールのためのエチカ」は原題
です。アマドールは著者の息子の名前。私は日本語訳も「アマドールのための
エチカ」のほうがよかったかもしれないと思うのですが、このタイトルだと本
の背表紙をながめただけでは内容がわかりにくいですから、「父が子に語る」
となっているほうが手に取ってみようかなという本になるかもしれないですね。
ま、いずれにしろ中身は「エチカの研究」、エチカとは「生き方の技術」(う〜
ん、どうもこの日本語だと言葉の持つ深い意味あいが消えてしまうような気が
するけれど)なのだ。
「ソフィーの世界」もベストセラーになっている本ということでよく読まれて
いるようですが、実際のところいわゆる哲学書に分類される本だと思う。はっ
きり言ってやっぱり難しいですよね。でも妙におもしろさを感じてしまうのは
構成がよくできているからかもしれませんが。「アマドールのためのエチカ」
になると語り口が軽快ですから、ついつい読んでしまうという魔法が働くよう
です。
哲学というと何かしら敬遠してしまうところはなきにしもあらず。なぜだろう
か。哲学というものが何やらわかりにくい、そういうイメージもなきにしもあ
らずですね。だけど、「ソフィーの世界」はよく売れているし、「アマドール
のためのエチカ」もたぶん売れる本になるのではないだろうか。
この手の本を読むと何かしら「答え」があるのではないかともふと思ってしま
う。なぜ生きるのか、人間の存在って何なのか、そしてどう生きるのか、など
など、そんなことについて考える手がかりが本のなかに当然ちりばめられ
ているわけだけれど、実際のところ、明解!だというような答えがあるわけでは
ない。ギリシャ時代の昔から、いえ、もっと昔から、人間がこの世に存在する
ようになってから、人間はいつの時代もなぜ生きるのか、どう生きるのかにつ
いて考えてきた、それが哲学なんだと思う。本のなかに答えがあるわけじゃな
い、そのようなことについて考えをめぐらすこと(思惟という言葉があります
が、まさに考える葦というところか)、それが哲学なんだと思う。身構えず、
答えを求めず、ソフィーやアマドールとともに遊ぶことができるなら、それが
「哲学する」ってことかもしれないなと思う。
シカゴ・トリビューンのコラムニストであるボブ・グリーンのコラム集は、日
本では井上一馬訳で「アメリカン・ビート」や「チーズ・バーガーズ」があり
ます。これらの本は、ボブ・グリーンの日常の切り取りが好きで私の愛読書で
もあります。インターネットを使うようになって割合はじめにやったことが世
界の新聞を見に行くことでした。ニューヨークタイムズをはじめ、さまざまの
世界的に有名な新聞を画面上で眺めることができるなんて、これはすごいなぁ
と思ったものです。そうですね、最初にそんなことをしたのは、4、5年くら
い前のことになりますか。
世界の新聞
IPL Reading Room Newspapers
シカゴ・トリビューンのBob Greeneのコラムは次のところで読むことができます。
Bob Greeneのコラム(最新のコラム)
Chicago Tribune | News - Columnists - Bob Greene
さて、 2000年5月9日の記事がちょっとおもしろい。
THE PLACE TO FIND LIFE IS NOT A KEYBOARD
May 9, 2000
この記事の原文は現在はこちらに保存されています。
Chicago Tribune | News - Columnists - Bob Greene
そのまま訳せば「人生を発見する場所はキーボードではない」というタイトル
ですが、アメリカのミズーリー州 Fulton 市にあるWilliam Woods University
でちょっとおもしろい試みが行われているという話です。
Alta Vista で Fulton 市を探してみましたら、 Fulton 市 は
ミズーリー州にある人口約10,500 人ほどの小さな町のようです。
このコラムに出て来る William Woods University は
William Woods University
どんな試みかというと、the LEAD Award というチャレンジプランに参加し、
Get off the Internet. Turn off their computers.( インターネットに入ら
ない。コンピュータを消す。)をちゃんと実行したことを証明できれば、年間
の授業料$13,000(ちょっと高く見積もって円で約1,300,000 になる)のうちの
$5,000(約50万円)を返還しましょうというプランなのです。
$5000 LEAD Program
$5000 LEAD Program
このページに何か詳しい情報があるかと思ったのですが、それほどでもなかっ
たので、学校の宛メールで直接資料を請求しましたら、Your request has
been received by the Office of Admission and we will respond to you
shortly.ということですので、何か送ってくださるかもしれません、期待して
おきましょう。
ただちょっと皮肉かなと思ったのは、このプランの情報のためにこの大学はちゃ
んとページを設置していて、そこでそれなりに情報が得られるというのは、
Get off the Internet. Turn off their computers. というプランを実行する
のもなかなか難しいことかもしれないなぁとも思ってしまいました。インター
ネット上には別に見なくてもよい情報もたくさんあるけれど、(個人にとって)
必要な情報もまたあるわけですから、すべてのインターネット情報をシャット
ダウンしてしまうのはなかなか難しいことですよね。でも、ずっとコンピュー
タを使わないというわけではなくて、一定期間使わないという試みですから、
それほど無理があるわけではありません。
知識を得ることや、高度な技術を身につけるようなことは挑戦しやすいが、そ
の方向が強くなりすぎて、文化的な面や精神的な成長が欠落しているのではな
いかというのが、このプランの根底にあるようです。Get off the
Internet. Turn off their computers. このプランに参加する間はコンピュー
タのスイッチは切り、インターネットは利用しないで、学校の文化的な行事や
学校の学生組織に参加し活動する、プラン通りに行ったことを証明することが
できれば授業料を返還しますというわけです。
このような試みにはもちろん反対意見もあるわけだし、このようなプランが良
い結果をもたらすかどうかはやっぱりわからないと思う。学生が学校のクラブ
や文化的な催しに参加したからといって、なぜ授業料を返還しないといけない
のか、変な話といえば変なわけですよね。
ボブ・グリーンがコラム記事でこのちょっと風変わりなプランを取り上げた理
由は、当然ながらこのプランの是非について議論をしようとするためではなく、
このような企画が生まれてきた社会的な背景や理由を考えることにこそ意味が
あるということだろうと私は思う。
インターネットについては、ボブ・グリーンも引用していますが、"You can
go anywhere in the world"あなたは世界のどこにでも行けるというようなこ
とはインターネットの利点としてよく言われることです。いつでも好きな時に
どこにでもいけるし、世界中のだれとでも話すことができる、買物もできれば、
仕事もできる。確かに「できる」のだけれど、そのものに触れているわけではなく
て、実際は自分の部屋で画面に向かいマウスを使い、キーボードを入力してい
るというのが本当のところであるというのが現実ですよね。ボブ・グリーンは
言います、それじゃあ、どこにも行っていないし、だれと話しているわけじゃ
ない、やっぱりあなたはひとりぼっちで部屋にいるだけじゃないかと。
実際のところ、いまは「ホームページ」という言葉のほうが通りがよくなって
しまいましたが Web 上には本当に役立つ情報があるのかというと、クリフォー
ド・ストールが「インターネットは空っぽの洞窟」(草思社)のなかで、そこに
は何もない、あるのは実に偉大なごみばかりであるというようなことすら書い
ています。クリフォード・ストールといえば「カッコーはコンピュータに卵を
産む」という本の著者で、初期の時代のインターネットの整備に直接かかわっ
たような人で、このような人たちがが最近ではそこは空っぽというような発言
せざるを得なくなっている。
そしてアメリカでも日本でも、いままでは想像もできなかったようなとんでも
ない犯罪が日々起こり、驚きすら麻痺していくような状況がある。
William Woods University の$5000 LEAD Program はこのような社会の動きか
ら生まれてきたプログラムなのでしょう。現実の生活のなかでさまざまなこと
を実際に体験していくことはやっぱり大事なことだと思う。テレビやパソコン
の画面だけに満足することなく、実際その場に足を運び、風を感じ、人の存在
を実感すること、などなど。そういうことは本当は当り前のことであったはず
だけれど、どうやら最近ではやったつもり、見たつもりになってしまうことは
やっぱり多いかもしれない。
たとえば球場にサッカーの試合を見に行く。昼のゲームと夜のゲームではまっ
たく雰囲気は違うし、座席が正面スタンドかサイドかでも見えるものが違うの
は当然のこと。テレビの画面ではテレビカメラが映し出すものしか見えないけ
れど、実際現場に居合わせれば、個々人見るものはやっぱり違うわけで、思わ
ぬ発見があるのは絶対確かだ。たとえばサッカーの試合とちょっと特別な例を
あげてしまったけれど、何もお金を払ってチケットがなければいけない場所ば
かりで何かを体験する必要はなくて、ごく普通に道を歩いているとき、買物に
行ったとき、日々体験や観察をする場所は限りなくあるわけだ。
人間としての感性を磨け、そういう企画でもあるのでしょうね。
あえてそういう風にプランにしなければいけないところに少々の悲しさを
感じないわけでもないですが。
サーチエンジンを使ってもどう生きるかを教えてくれるわけじゃない、そう、
確かにそうですよね。もう5年以上も日々インターネットを使いながら、私も
同じようなことを考えつつ、そう考えつついま、パソコンの画面に向かってキー
ボードを打っているのはちょっと皮肉っぽいけれど。
昨日(2000年4月27日)前から欲しかった CD を3枚買いました。ラヴェルの
「マ・メール・ロア」が入ったものと「ボレロ」が入ったもの、バッハの「コー
ヒーカンタータ」が収録されている CD です。CD は3枚買って、それぞれ目
的の曲以外に他の曲もいくつか入っているCD でした。
「マ・メール・ロア」は訳せば「マザーグース」。1910年にラヴェルが友人の
画家の子どものために書いた5つの曲からなるピアノ連弾組曲。このなかに
「妖精の国」という曲があり、これが聞いてみたい曲のひとつでした。「ボレ
ロ」は本当は佐渡裕指揮のものが欲しかったのですが、この CD に「ジャンヌ
の扇」という曲が収録されており、これを聞いてみたくて買ったもの。バッハ
の「コーヒーカンタータ」は、世俗カンタータと言われるものですが、これが
バッハなの?と思うほどコミカルで楽しい話につけられた曲ですから、前から
CD で欲しいと思っていたものです。というわけでたまたま欲しかった曲が入っ
た CD を3枚まとめて買ってしまったものでから、何やら妙にそわそわとうれ
しかったわけです。
家に戻ってさっそく CD のパッケージをあけて、まずは「マ・メール・ロア」
を聞こうと思いました。ラジカセの CD を入れるところに入れて、スイッチ・
オン。その CD には全部で12曲入っていました。一番はじめの曲はラヴェル
ではなくて、ドビッシーの「イベリア」組曲のなかの「町の道と田舎の道」と
いう曲でした。「マ・メール・ロア」は8番から12番にありました。とりあ
えず最初からと思い1番の曲から演奏させてみたのですが。
???。
何やら妙にざわざわとした始まりで曲が流れます。「へぇ〜、町の道に田舎の
道か、なるほどねぇ」そのざわざわした雰囲気がなんとも良い雰囲気なので
す。。CD の解説を見ると1番はドビッシーの「町の道と田舎の道」という曲。
私ははじめて聞く曲でしたから、どんな曲なのかまるで知らなかったものです
から、なんとも「生」な雰囲気が良いなぁと思うのですが、え〜!何か変だよ
とも当然思いました。それでもしばらく聞いていると、突然ドラムの音が入り、
なんとも現代的な曲に展開していくではありませんか。へぇ〜、ドビッシーっ
てこんな曲書いたん??さらにしばらくすると、なんと「日本語」で歌が流れ
てくるではありませんか。そこまで来るとさすがの私も今流れている曲ががド
ビッシーの「イベリア」であるはずがないと気がつきました。
私はいま買ってきた CD を入れたはずなのに、なんでこんな曲がかかるのだろ
うとあわててCD を取り出すボタンを押して、いま入れたCD をはずしてみると、
ああ、その下にはもう1枚黒いCD があるではありませんか。CD の表に文字が
入ってなくて、しかも黒だったものですから、すでにCD が置いてあることに
私はとっさに気がつかなかったというわけです。びっくりしたのなんの!
その CD は Mr.Children のライブ CD でなかなか素敵な曲が入っていて、そ
の CD の解説をよく見ると、なんとそのなかには「ボレロ」という曲が収録さ
れていたので、またもやびっくりしてしまいました。私はラヴェルの「マ・メー
ル・ロア」と「ボレロ」を聞くつもりだったのですが、そこにはすでにミスチ
ルの「ボレロ」が入っていたのですから、なるほど、これも「ボレロ」、あれ
も「ボレロ」という具合でひとり密かに笑ってしまいました。
さて、ドビッシーの「イベリア」には4曲目に「牧神の午後への前奏曲」が入っ
ています。実はこの曲も入っていたのでラヴェルとトビッシーが一緒に入って
いる CD を選んだのでした。この作品のもとになったのはフランスの詩人マラ
ルメの「牧神の午後」という作品で、1892年にドビッシーがマラルメに捧げた
曲です。そして1912 年にニジンスキーによってバレエ作品になったもの。
「ボレロ」もモーリス・ベジャールの振付けでマイヤ・プリセツカヤが踊り、
最近では熊川哲也が踊って話題になっています。
2000年4月23日は復活祭でした。その日は西京極にJFL 京都教育研究社と横河
電気の試合を見に行きました。聖週間の水曜日はナビスコカップ、土曜日は
J1 の試合を見に行っていますから、私の聖週間はサッカー週間になってしま
いました。ただたまたまこの週の試合が全部西京極で行われ、どれも気になる
試合だったので見に行ってしまったというわけですが。頭の片隅に今日は聖木
曜日だ、金曜日だなぁというのはあったのですが、足は自然に球技場に向かっ
ていました。
自転車で出かける時は春らしい暖かな天気だとは思っていたのですが、スタン
ドはやはりまだ少し風が冷たいが吹いていました。入場者が少ないことがわかっ
ているためか、スタンドはメインを使っていたのはラッキーでした。いつもは
ゴール裏のサポータ席からの観戦ですから、反対側のゴールの遠いこと!おま
けに距離感がないものですからオフサイドなどのエラーがよくわからなかった
りします。メインスタンドからの観戦というのは実ははじめてで、こんなにも
見やすいものかと感動してしまいました。
もちろん、どんな状況があろうがやっぱり教会で復活祭を迎えるのが一番よい
かもしれないなぁとは思います。けれど、この数年「どんな状況」にあろ
うともかなりの無理をしてでも教会で聖週間を過ごし、教会でご復活を迎えたこ
とがかえって重荷になってしまったような気もしていました。
心の片隅に、ああ、今日はご復活の主日なんだと思いつつ、緑の芝生の上にま
うボールを追う、これもまた悪くないとも思った。信仰などという言葉をこと
さら口にすることのほうにむしろ抵抗を感てしまう。この2、3年の間の我が
家の激動に本当に一段落がついた(らしい)いま、ごくごく平凡な当り前の生活
をごく普通に過ごせることがどれだけ幸せなことなのかとも思うのです。
Mother Goose のなかにこのような唄があります。
Dickory, dickory, dare,
The pig flew up in the air;
The man in brown soon brought him down,
Dickory, dickory, dare.
おやおや、まあ、なんてこと!
ぶたがお空に飛んでった。
男が銃でしとめたよ。
おやおや、まあ、なんてこと!
THE FLYING PIGなので、豚が空を!というところかな。
唄の私的解釈については、こちらをどうぞ。
この唄を日本語でも意味が通るように訳してみようとあれこれやっていた時に、
豚が空を飛ぶといえば、「紅の豚」というアニメ映画があったことを思いだし
ました。このアニメに出てくる豚さんは戦闘機のパイロットですから、空飛ぶ
豚にしたらちょっと恰好がよいです。そして、このなかで加藤登紀子さんが歌っ
た「さくらんぼの実るころ」はとても
素敵な歌ですね。この曲は以前にmid ファイルを入力したことがあったのです
が、どうやらファイルを紛失してしまったようで、再度入力して作成しました。
sakuranbo.mid はオンラインでお聞きになれるとは思いますが、できればロー
ドしてSC88 音源を使って再生して頂くほうが良いです。音源が違うとかなり
音は違うかもしれませんので、オンラインで再生されるならその分割引して聞
いてくださいね。
さて、空飛ぶ豚からさくらんぼへと連想がつながりました。
そしてそろそろさくらんぼ実る頃ですね。
最近「孫」という演歌がヒットしていますが、孫を歌っている大泉逸郎さん
は山形で「さとうにしき」というさくらんぼを作っておられるそうだ。
よく出来たさくらんぼというのはルビーの価値と本当にそう言うかどうかは
知らないですが、ほんのひとつの味が忘れられないという感じがあっておいし
いものですね。最近では、みかんやりんご、そしていちごのようなものまで、
いろんな品種があるようですから一年中買うことができます。でも、さくらん
ぼだけは5月の末から6月頃の1月ほどしか出回らないですね。そして、日本
のさくらんぼは外来のものに比べてやや値段も高いですから、食べたいだけ食
べるなんてなかなかできることじゃありませんけれど。
小さい頃、さくらんぼは桜の木になるのだと思っていました。庭の桜が終り、
はらはらと花びら散る頃、さくらんぼの小さい実ができていないかと、私は
いつも桜の木を見上げていましたっけ。
小さい頃を過ごした家には裏庭があって、ごちゃごちゃといろんな木があり
ました。花よりも実のなる木が多くあってグミの木、梨の木、小梅、いちぢ
く、ぶどうや栗や桃が乱雑に植えられていました。育てていたというのでは
なくて、そこに「あった」わけです。食べたあとの種が勝手に育ったものも
あり、どこかでもらったものありと実に乱雑な庭でしたが、小さい頃はよい
遊び場でした。
いくつかの実がなる木のなかで私は梨の木が一番好きでした。ちゃんとした
肥料を与えていたわけでもないですから、背丈ばかりが伸びてひょろひょろ
とした細い木でしたが、毎年たくさんの実をつけました。せっかく出来た実
がもったいないからと、小さい実を間引きするというような世話もしないも
のですからせっかくできた実もそれほど大きくは育ちません。けれど、枝が
しなるほどたくさんの梨の実が出来たこともありました。小粒の梨の味はま
あまあおいしくて、姫りんごほどの大きさの梨というのはちょっと珍しいも
のですから、枝ごと折ってプレゼントにしたこともありましたっけ。
そんなごちゃごちゃした庭の片隅に桜の木が1本あり、毎年、それなりにき
れいな花を咲かせていました。その桜の木にいつになったらさくらんぼがな
るのだろうと私は思っていたわけです。ですから、花が咲くといつも木を見
上げ、花が落ちるとまた見上げ、その頃には若葉の芽が見えるわけですから、
もしかしたらあれがさくらんぼの実だろうかと思ったこともありました。で
も、桜の木はいつしか緑の葉っぱにおおわれて、さくらんぼの実などどこに
も見つけることはできませんでした。梨は梨の木に、梅は梅の木に、桃は桃
の木になるわけですから、さくらんぼ、つまり桜の坊やは桜の木になるのだ
と思いこんでも不思議はないわけですけれどね。
さくらんぼという実をつけるものは植物学的に言うとバラ科サクラ属の桜桃
(おうとう)セイヨウミザクラまたはユスラウメと言われる種類なのだそうです。
ソメイヨシノの木の下でいくら待っていてもさくらんぼは落ちてはこない。
それがわかってからは桜の木を見上げることもなくなりました。さくらんぼ
は高級な果物というイメージが抜けきれないのですが、私には妙に思いいれが
あるようです。福音館発行の雑誌に一番はじめに掲載して頂いた私の短篇のタ
イトルが「さくらんぼと赤い帽子」でした。それからさくらんぼと言えば太宰
治を思い出します。桜桃忌は私の誕生日でもありますから。
2000年4月16日(日)NHKの教育テレビ「芸術劇場」という情報番組で、アンナ・
パブロアの「瀕死の白鳥」の振付け記録が公開されているという話がありまし
た。ミハイル・フォーキンの振付けをこま写真にしたものを公開しているとい
うことです。
バレエに限らずダンス(踊り)の振付けを記録するというのはとても難しいこと
です。どんな風に踊っていたかというのは、いまならビデオで記録するという
方法がありますが、それでもまだ十分とは言えないでしょうね。けれど、そう
いう手段がなかった時代、振付けを記録するためにやはりさまざまな工夫がさ
れたようですが、これという完璧な方法はやっぱりないとしかいいようがない
かもしれないですね。
パブロアの「瀕死の白鳥」はこま取りの写真に番号をつけて、楽譜にその写真
の番号を記して記録したものだそうですから、番組では楽譜のメモ通りに写真
を連続させるという方法で踊りの再現をしていました。ビデオに残す一歩手前
の記録方法という感じでした。
ずっと以前バレエのいろんなサイトを回っているときにジゼルの楽譜を見つけ
たことがありました。これはジゼルの楽譜に踊りのメモが入れられているもの
でした。それがどこかに引っ越したか、なくなったか、残念ながらいまはそれ
がどこにあるかはわかりません。その楽譜は ps ファイルになっていたので、
私の手もとにはあるのですが、公開するわけにはいかないので、ちょっと残念
です。その楽譜をはじめて見たとき、振付けを記録するということにとても
興味がわきました。そういう楽譜をDance Notation と呼び、日本語では踊踏
譜と言うようです。いずれ機会があれば調べてみたいと頭のすみっこにはおい
ていました。
最近、ニジンスキーの伝記「神の道化」鈴木晶(新書館)という本を読みました。
はからずもその本のなかにニジンスキーが「春の祭典」をかなり工夫して踊踏
譜を残しているということが書かれていました。このあたりのことはもう少し
時間をかけて調べてからまたまとめてみたいとは思っています。
Nijinskyの踊踏譜について興味深い記事があります。
イースター(復活祭)の食べもの(2)
四旬節の始まり灰の水曜日の前の日に食べるという「パンケーキ」に続いて、
イースターにまつわる食べものに「クロスパン」というのがあるそうです。
Mother Goose の唄のなかに「焼きたてクロスパン」という唄がありました。
「Mother Goose」は、日本ではマザーグースと呼ぶのが一般的になってきま
したが、 イギリスではナーサリー・ライム(ズ) Nursery Rhymesというほうが
ごく普通のようです。日本でいうなら「伝承わらべ唄」に似たものですが、韻
をふんでいることにとても特徴があります。伝統的な生活習慣や遊びが唄に読
まれていることが多くとても興味深いものがたくさんあります。
HOT-CROSS BUNS
Hot-cross Buns!
Hot cross Buns!
One a penny, two a penny,
Hot-cross Buns!
Hot-cross Buns!
Hot-cross Buns!
If ye have no daughters,
Give them to your sons.
焼きたてほかほかの十字架パンはいかが
十字架パンはいかが
ひとつ1ペニーだよ、いや、2つで1ペニーにするよ。
焼きたてほかほかの十字架パンはいかが
焼きたてほかほかの十字架パンはいかが
十字架パンはいかが
おじょうちゃんがいないなら、
ぼっちゃんたちにどうぞ。
「焼きたてのクロスパン」でもよいと思ったのですが、あえて「十字架パン」
にしてみました。どんなパンなのかと写真を探してみましたら、丸パン(日本
でもこのような丸パンをバンスという名前で売ってますね)の表面に白いアイ
シング(砂糖衣)で十字を描いたものでした。切り目をいれて十字の模様をつけ
たパンもあるようです。パンそのものはプレーンなバンズが普通でしょうが、
レーズン入りなどもあるようです。
クロスパンは、復活祭前の金曜日(キリストの受難記念日)Good Fridayの朝食
に食べる習慣があったそうです。金曜日の朝にはこの唄のように町のパン屋さ
んではクロスパンを売ったのでしょうね。
ところで受難の金曜日のことを、Good Friday と言うのですが、God Friday
ではなく、なぜ Good Friday というのかについては、いろんな説明もあるよ
うです。単にもともとは Good ではなくてGod だったけれど、キリストの十字
架こそ救いであるから人間にとっては Good なのだと言われると、納得してし
てしまいそうですね。でも、「不幸の日」だと書いてある辞書もありますし、
キリストが十字架にかけられた日なのでキリスト教国では不幸の日とされる
(→Good Friday)、なぜ Good Friday なのかについては諸説ありそうです。
ところで受難劇は the Passion なのですが、私は passion というと、受難の
意味よりは情熱的なとか、とても激しい感情という意味のほうが先にきて、
「受難」と「情熱」がなぜか自分のなかで結び付かないもののように思えたこ
とがありました。でも、考えてみれば、ゲッセマネでの祈り(マタイ26:36 あ
たり)は、イエスの激しい祈りpassion ですね。
イースター(復活祭)の食べもの(1)
私のマザーグースのページはこちらです。
マザーグースの英語版を見ていましたら、次のような唄がありました。
PANCAKE DAY
Great A, little a,
This is pancake day;
Toss the ball high,
Throw the ball low,
Those that come after
May sing heigh-ho!
「パンケーキデー」とはいったい何の日だろうと妙に気になってしまいまし
た。マザーグースの日本語訳本はいろいろありますが、マザーグースとい
うのはそもそもが伝承遊び歌(唄)ですから、オリジナルの本にもさまざまな編集の
ものがあり、日本語に訳されていないものもいまだにたくさんあるようです。
このPancake Day の唄も日本語訳はもしかしたらないかもしれません。
マザーグースのおもしろさは、まずは韻をふんでいる「音」にあって、「韻」
を踏む言葉をつないでいくことで、結果的に「おもしろいお話」を作り上げて
いるものが多いですから、日本語にしようとするとその肝心要の「音」が消え
てしまい、お話が意味をなさなくなってしまうので、いったい何がおもしろい
のだろうということになってしまうのです。そして、日本でいうならいわゆる
「わらべ歌」に似たようなものでもあり、生活習慣や伝統、伝承が歌われてい
ることもありますから、せっかくのマザーグースも何が何やらわからないとい
う悲惨なことになることもあります。このPancake Dayも日本人にとったら
「わからない」唄の部類なのかもしれないですね。
それでもあえて日本語にしてみました。
-------------------------
さあ、みんな集まれ!
今日はパンケーキの日。
パンケーキを焼こう。
ぽ〜んと高くほうりあげ、
くるっと見事に宙返り。
パチパチ拍手
------------------------
訳文の良い悪いはちょっと横においておいて、内容的にいかがでしょうか。
何をやっているところかはこの訳だとわかりますか。恐らくこの解釈で間違い
はないだろうと思ってはいるのですが。
「パンケーキ」とは日本では「ホットケーキ」というほうがどういうものか
はよくわかります。「パンケーキの素」も「ホットケーキ素」も売られていま
すが、出来上がりにそれほど違いがあるものではないですね。
研究社のでっかい英和辞書で pancake を調べてみましたら、「灰の水曜日
の前日で、告解をするための日のこと」となっていました。英和中辞典やリー
ダース、ジーニアスのような小さい辞書にはこのような意味はないようです。
灰の水曜日とは復活祭前の四旬節最終の水曜日で、その前の日の火曜日にパン
ケーキを食べるという習慣があったので、この日がパンケーキデーと呼ばれる
ようになったということです。ですから、次のような言葉があるのですね。
Pancake Tuesday
Shrove Tuesday(懺悔の火曜日)
さらに「はじまりコレクション」(いわゆる起源について)という本で調べてみ
ましたら、さすが!「パンケーキの日」のことが載っていて、ちょっと感激し
てしまいました。パンケーキあるいはホットケーキでもよいのですが、そもそ
もの起源は古代エジプト。小麦粉の生地を平らな熱い石の上で焼いたものをパ
ンケーキと呼んでいたらしい。窯やオーブンで焼いたものはパンなのですが、
平たい石の上で焼いたものはパンケーキだったようです。
461年頃に四旬節の告解の儀式ができて、日曜日、月曜日、そして告解火曜
日を四旬節三が日と呼び、火曜日には「四旬節ケーキ」(パンケーキ)を食べる
習慣があったのだそうです。これはあとで意味づけられたことかもしれないで
すが、粉が命の糧、ミルクは無垢、卵は蘇り(よみがえり)を象徴したというこ
とです。長い四旬節に入る前にはご馳走を食べたという話を何かの本で読んだ
こともあるのですが、それが灰の水曜日の前の日の「告解火曜日」に行われた
のでしょうね。「パンケーキ」はその日の特別なたべものだったようです。
という背景を少し調べてみると、PANCAKE DAY の歌の意味あいはよくわかり
ます。四旬節を迎え断食を伴った静かな生活に入る前に、火曜日の PANCAKE
DAYに、ちょっとおいしいものを食べておこうというようなお祭の日でもあっ
たのでしょうね。
お正月の「おせち料理」をはじめ、雛祭の白酒やひなあられに菱もち、五月
の節句のちまきなど、私たちにはごく普通のものであっても文化や伝統が違え
ば、なぜこの日にこれを食べるの?と首をかしげることは本当にたくさんあり
ますよね。
パンケーキやホットケーキなんてそれほど珍しいものでもないですから、こ
のマザーグースの Pancake の歌も、ただ「Pancake」とだけ書いてあったなら、
ただただパンケーキを作るときの歌かしらくらいに思ってしまったかもしれま
せん。Pancake Day となっていたのでちょっと調べてみましたら、Shrove
Tuesday(懺悔の火曜日)などという言葉にぶつかって、とても興味深かったで
す。
さあ、そろそろ春ですね。
「文学界」1999年2月号に石川九楊氏の「文学は書学の運動である」が掲載
され、それがかなりの反響をよんだということを新聞で読みました。同じ雑誌
の4月号には、「ワープロ・パソコン VS.原稿用紙」という作家140人への
アンケート結果記事が掲載されています。原稿を書くときに手書きか、ワープ
ロまたはパソコンを使うか、というアンケートの結果を掲載したものです。こ
の記事を目にしてずいぶん久しく買わなかった「文学界」を買ってしまいまし
た。
作品(この場合の作品は文学作品に限ってのこと)書くときに手書きするか、
ワープロもしくはパソコンを使うかという論議はもう10年以上も前から繰り
返されてきたことですが、私もこのことに少なからず関心を持ってきました。
一般的にもワープロを使って書かれた手紙などには、心がこもっていないよ
うな気がするとかいう話もありますが、心がこもるとかこもらないとかいう観
点はちょっと別の問題だろうとは思っています。いま「書く」という対象はあ
くまで「作品」の話であって、私信のような手紙をワープロで書くか書かない
かは別の関心事としておいておきましょう。ちなみに私は葉書をよく書くので
すが、これは手書きです。手紙として封書で送るときはパソコンで書いてしま
うことが多いです。
パソコンで「書く」ということに、私はけっこう抵抗した時期もあり、ワー
プロやパソコンを使うことがごく普通のことになってしまってからも、あえて
「手書き」作業をやるという時期もありました。でも、結局はパソコンを使っ
て書くというのがいまではごく普通の状態になっています。しかしながら、こ
だわりは「文学作品を書く」にあるのであって、その他の原稿(たとえば最初
から横書きで良い原稿)に関してはほとんどこだわりがないというのも不思議
といえば不思議かもしれないですが。
「手で文字を書く」ことと、ワープロやパソコンを使って書くということに
本当のところどのような違いがあるのか、正直言ってよくわからない。手書き
した文章とワープロを使って書いた文章の「文体」に本当に違いがあるのどう
か、作品の質にどのように関係するのか、さてどうなのだろうとずっと思い続
けてきたというのが正直なところです。
「文学は書学の運動である」であると同時に「文学は文の学である」とも言
えます。「文」の「学」とは、つきつめれば「文体」の追求と完成ということ
にもなるのでしょうか。文体とは、文を書くことでしか得られないものでもあ
るわけです。文学とはやはり「文章を書く」ことで「表現する」ことであるわ
けで、その目的が達成されるなら、ほんとうはどんな道具を使って書いたかと
いうのは、問題になることではないかもしれないと思いつつ、いや、やっぱり
文房具にもこだわりがあるからこそじゃないかとの思いもふつふつとわいてき
ます。文豪と言われた作家たちの「万年筆」や「原稿用紙」が記念館などに展
示されることもあるからと、私の頭のなかではちょっとどうどうめぐりがはじ
まるのです。
さて、レイ・ブラッドベリの「バビロン行きの夜行列車」という本の「訳者
あとがき」にちょっとおもしろいことが書いてありました。
最近のブラッドベリのインタビューからというところで、
「コンピュータを使うか」という質問に、ブラッドベリが「コンピュータは大
嫌いだ」と答えています。あんなものだれが使うんだろうと。ブラッドベリが
ある集まりに出かけたときに、来客名簿に自分の名前を書こうとしてひとつ前
のサインを見ると、なんと「ビル・ゲイツ」という署名があったそうな。そこ
でブラッドベリはゲイツの名前の下に「わたしは WINDOWS を使わない」と書
いたそうな。
さらに、インターネットはどうかと聞かれたブラッドベリは、「キーを打た
なくちゃいけないから、古いよ」と答えたのだそうです。インターネットメー
ルでインタビューを受けたときに相手が打つ、自分が答えを打つ、そういうや
りとりをしたことがあったのだそうです。そんなかったることをやっているな
ら電話でインタビューすればよいではないかと。確かに。
ブラッドベリのような SF 作家でもコンピュータが嫌いだということもある
わけですね。では、ブラッドベリは何で小説を書くのか。タイプライターを使っ
ているそうです。つまりブラッドベリはコンピュータは使わないけれど、手書
きで作品を書いているわけではなくて、筆記用具としてはタイプライターを使っ
ているわけです。
なぜ日本人は「手書き」にこだわるのでしょう。
ワープロやパソコンは単なる筆記道具、単なる文房具にすぎないのではない
かと自信を持って言い切れるかというと、意外にそうでもありません。今後は
「手書き」という作業は恐らくすることはないだろうとは思いつつ、なにがし
かのこだわりはやっぱり持ちつづけたいなと自分では思っているのです。
聖書とミステリー
「クムラン」 エリエット・アベカシス 角川文庫
「クムラン」という本を読んでいます。著者はとても若い女性の哲学者です
が、死海文書についての解説本ではなくて、あくまでもミステリー小説です。
しかしながらこの手の本の多くは、資料はとても豊富で死海文書に関するこ
とやユダヤ教にかかわること、その他さまざまなことについてもとても興味
深い内容があると思います。
死海文書というのは、1947年に死海のほとりにあるクムラン洞窟で発見され
た巻物の文書です。クムランで発見された文書はエルサレムに持ち込まれま
した。しかし、その後中東戦争がはじまり文書に関する研究は進んでいるわ
けでもないようです。現在までに死海文書に関する研究・解説書はたくさん
出版されてはいますが、研究結果がすべて公開されているわけでもなく、謎
が謎を生む関心事になっているのも確かなようです。私も「死海文書」とい
うとやっぱり関心があり、いままでにも数冊解説本なども購入していますが
(ちゃんと読んだかどうかは別として)。
なぜ死海文書がそんなに関心のまとになるか?死海文書といっても日本では
一般的にはそれほど関心を寄せられるものでもないかもしれませんが、その
解釈の如何によってはキリスト教の起源にかかわる問題を提起するだろうし、
「イエス」という存在そのものについても学問的、宗教的関心がきわめて高
い文書です。
「クムラン」はこのような関心事を背景に書かれたミステリー。少々硬いか
もしれませんが、かなりおもしろい本だと私は思います。文庫本とはいえ
「1048円」という価格は単行本並みか。文庫本を持って重いと感じるのはやっ
ぱりごっつい厚みがあるということになりますけれど。
「聖書」やキリストにまつわるミステリー作品というのはけっこうあって、か
なりおもしろいものがあります。いままでにこんなミステリーを読んでいます
が、どれもなかなかすごい作品だと思います。
「新聖書」発行作戦 ウォーレス 文春文庫
奇蹟への八日間 ウォーレス 文春文庫
聖ヴェロニカの陰謀(上、下) ルイス・バーデュー
ポール・ギャリコ(あるいはガリコになっていることもありますが)の「幽霊
が多すぎる」を読んでおりましたら、なんと懐かしい「ハリスおばさん」が登
場してきた。ハリスおばさんは主人公の心霊探偵アレグサンダー・ヒーローの
家で元気に働いていた。あらら、うれしい再会と思っていたのですが、ハリス
おばさんは、その後は全然登場する場面はなく小説は完了してしまいましたけ
れど。
ポール・ギャリコ 幽霊が多すぎる 創元推理文庫
「ハリスおばさん」と言えば、
ハリスおばさんパリへ行く
ハリスおばさんニューヨークへ行く
ハリスおばさん国会へ行く
ハリスおばさんモスクワへ行く
このハリスおばさんシリーズはとても楽しくおもしろい。
私はシリーズでポール・ギャリコのファンになり、ハリスおばさんのファンに
なったようなものです。
ギャリコの作品では、猫シリーズで言えば、「さすらいのジェニー」「まぼろ
しのトマシーナ」「雪のひとひら」はかなり好きだったりはしますが、「ほん
ものの魔法使い」は一時かなり凝っていました。ポール・ギャリコは「ポセイ
ドン・アドベンチャー」の原作者であるのですが、私はこの作品よりはハリス
おばさんのほうになじみがあるし、猫シリーズの作品が好きですね。
ある時期やっぱりギャリコに凝ってずっと読み続けていて、その他「スノーグー
ス」や「七つの人形の恋物語」「猫語の教科書」はいまでも本棚にあるし、そ
うそう「きよしこの夜が生まれた日」という小さな本もとても気に入っていま
す。
さて、ひさびさのギャリコだったのですが、「幽霊が多すぎる」これはギャリ
コの作品だからという理由で本を買い、さっそく読みました。サスペンス仕立
てなのですが、いままで読んだギャリコの作品とはちょっとイメージが違う作
品です。推理小説でもあるのですが、推理小説としてはいまいち物足りないと
いうほうが正解かもしれない。読みつつこれは「金田一少年の事件簿」じゃな
いのという印象を受けてしまったのですが。古めかしい館が舞台になり、その
館がちょっとした孤島的な閉ざされた場所という設定あたりがマンガ金田一少
年の舞台設定を思いださせてしまって、ギャリコの作品だという期待で読み始
めたものですから、何やらリアリティに欠けてしまうというのが難点だったか
も。
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