1931年教皇ピオ11世は、エフェソ公会議1500年祭にあたり、神の母という記念日を設けた。初代教会5世紀頃にネストリオは「聖マリアは人間キリストの母であっても、神性の母ではないから神の母とはいえない」という異説を主張した。431年小アジア(今のトルコ)でのエフェソ公会議で「神の子は人間性を自分のものにしたので、キリストは真の神であり、真の人間である」という教理を確立し、これを記念した。
聖母マリアは神の母として元旦に祝われる。元旦はクリスマスから数えて8日目にあたり、昔からイエスと聖母マリアの関係を祝う日であったが、いつのまにかすたれていた。バチカン公会議後、新しい暦に復活された。
すべての人のためにとりなしてくださる聖母マリアの愛と祈りが、悩み苦しんでい
るすべての人の支えとなりますように。
「主の公現」祭日
アジアのカパドキアの首都カイザリア生まれのバジリオとナジアンズの司教グレゴリオは友人。聖グレゴリオの両親と弟も聖人であり、聖バジリオの祖母、両親、兄弟も聖人という2人の友人とその2人の家族を祝う日。聖バジリオ聖グレゴリオは、ともに説教と神学の本を著し、特に三位一体の教えを守り、教会博士と呼ばれている。
1175年スペインのカタロニア州ペニャフォルに生まれた。1275年没。1601年に列聖。30歳でイタリアのボローニャ大学に留学し、民法と教会法を学び、法学博士となり、大学教授でもあり、また司祭でもあった。のちドミニコ会に修道士となる。
1230年教皇グレゴリオ9世は、ライムンドをローマに招き、教会法令の体系的な集大成を編纂を命じた。約3年の歳月を費やし、ライムンドは今日デクレクトリアとして知られている5冊の法令集の編纂を完成させた。現在の教会法のもとになるものである。
320年頃、フランスのポアチェ市に生まれる。両親は貴族であったが、カトリック信者ではなかった。ヒラリオはラテン語に由来し、「明朗」の意味。335年ポアチェ市の司教となる。ヒラリオはキリストが神であることを否定するアリオ派の異説に反論し、キリストは真の人であり、真の神であることを主張したため国賊とされ、小アジア(トルコ)に追放されたが、自分の信念をまげることはなかった。流刑地となった小アジアはアリオ派に洗脳された土地であったので、ヒラリオはこの地でアリオの異説の不合理を熱心に説いた。再びポアチェの司教に戻ったヒラリオは異説の不合理と戦い、フランス全土に正当な教理を復活させた。また、教会内部の規律、道徳の立て直し、信心の復興にも力を入れた。366年1月31日帰天。
エジプト中部のヘラクレアで生まれる。両親は富裕な大地主でカトリック信者であった。18歳の時に親に死に別れ、莫大な遺産を受け継いだ。この頃、マタイ福音書の19章20節を読んで感動し、遺産の半分を村の貧しい人たちに分け与えた。また、明日のことを思い煩うなという神への絶対の信頼と信仰の極致の言葉によって、財産をすべて捨ててナイル河沿岸のアフロディトポリスという砂漠の中に居を定め、修行生活にはいった。
約20年の歳月を経ると、いつのまにかアントニオを慕って多くの弟子が集まり、集団をつくるようになり、その後、ナイル河のほとりの断崖コルチム山(別名アントニオ山)に修道院をつくった。この修道院は1600年を経た今日も存在し、修道士が住んでいる。聖アントニオは修道院の源流を築いた。
聖アントニオの墓は、561年に発見され、遺骸はアレキサンドリアに運ばれ、635年には、コンスタンチノープルに移葬し、11世紀にはフランスに運ばれ、1491年にアルルのサン・ジュリアン聖堂に安置され今日に至っている。
聖セバスチアノは、ローマ帝国300年にわたるキリスト教迫害の中で最も迫害の激しかったジオクレチアノ皇帝の時代に、フランスのナルボン市に生まれた。迫害の激しい時代であり、同じカトリック信者たちの苦しみを少しでも助けたいとの願いから、わざとローマ軍に入り、ローマ市にも務めた。武勇にすぐれた人であり、功績も多く、皇帝の目にとまり、近衛兵にとりたてられた。皇帝の近衛兵というそのような身分を利用してどこにでも自由に利用できたので、カタコンブの地下聖堂で信者たちを励まし、また牢獄へも出入りしてご聖体を運び、信者たちを励まし続けた。
しかし、フルビウスの裏切りによって、これらの行為がローマ皇帝に知られ、セバスチアノはキリスト教徒だということが発覚した。セバスチアノは自らキリスト教徒であることを示したため、280年、死刑に処せられた。皇帝は信者たちがセバスチアノの死体を探すことができないように、死体に重い石をつけ下水溝に投げ込み動物の餌食にするように命じた。命令は実行されたが、その夜セバスチアノは少年パンクラティウスの母ルチアのもとに現れ、死体のありかを告げた。ルチアはそれを見出して、カタコンブに埋葬した。聖セバスチアノ大聖堂は、その墓の上に建てられた。
アグネスはラテン語で羊の意味、ギリシャ語では純潔を意味する。アグネスはキリスト教徒への迫害の激しかった3世紀の終わり頃、ローマの名家に生まれた。13歳の時に、ローマの執行官の息子から求婚されるが、アグネスは一生童貞を守り、神に身をささげようと決心していたので、申し入れを断った。ローマの執行官は再三にわたって縁談を迫ったが、アグネスの決心は堅かった。このアグネスの固い決意はアグネスがキリスト教徒であったことからのものであるのを知って、アグネスは逮捕され、死刑に処せられた。アグネスの遺体はグラシオ家の地下墓地に葬られ、現在はその上に、聖アグネス聖堂が建てられている。聖アグネスのご絵には羊、しゅろの枝、そして百合が描かれることが多いが、小羊はキリストのシンボル、しゅろの枝は殉教者、白百合は純潔の象徴である。
聖フランシスコ・サレジオは、1567年、フランス南東のサヴォア県のサール城の領主の長男として生まれた。パリとパドアの大学で学び、1951年24歳で法律博士となり、弁護士にも選ばれたが、1593年27歳で司祭となった。任地となったシャブレー州(ジュネーブ湖岸)はカルヴィン派反カトリックの地であったが、熱心な布教に努め、やがてシャブレー州のほとんど約7万人がカトリックに戻った。1602年35歳で司教となり、ジュネーブ教区長に就任した。ディジョン市での四旬節黙想会で、聖シャンタルと出会い、1610年シャンタルとともに聖母訪問修道女会を創立した。また聖カロロ・ボロメオ、聖ビンセンシオ・ア・パウロとも親交があった。死後40年に列聖され、1877年に教会博士とされ、1922年にカトリック出版事業、および文筆家の保護の聖人とされた。
シリシア州(今のトルコ領)タルソの出身のユダヤ人でローマの市民権を持っていた。本当の名前はサウロ。若い頃にエルサレムに行き、ファリサイ派のガマリエルという律法学者の弟子であった。キリストの死後、エルサレムに行き、ユダヤ教の異端であったはずのキリスト教の発展に憤り、迫害する側に加わっていた。聖ステファノの殉教に加担した後、キリスト教徒たちを追ってダマスコに行く道の途上で、「サウロ、サウロ、どうして私を迫害するのか」というイエスの声を聞き、回心の恵みを得た。主の言葉に従い、パウロはアナニアと出会い、洗礼を受け、以後は伝道旅行にかけめぐり、各地の教会へ書簡を送り、キリストの愛を伝えた。67年にローマで殉教。
テモテはリカオニア州(今のトルコ)のリストラ市の生まれ。父はギリシャ人でローマの役人。母オイニケはユダヤ人。47年頃パウロの第1回伝道旅行でパウロがリストラに布教した折り、テモテの家に泊まった。テモテはパウロから洗礼を受け、リストラ一帯を案内した。49年のパウロ第2回の伝道旅行でもテモテに会い、テモテは司祭に叙階され、その後はパウロの協力者として働いた。96年頃、テモテはエフェソで殉教。
テトスはシリア生まれでアンチオキアの異邦人であったと言われている。52年頃のエルサレム公会議に行き、この時からパウロの宣教の協力者であった。
テモテもテトスもパウロから個人的な暖かい手紙を受け取っており、異邦人の使徒といわれるパウロの弟子であり、よき協力者であった。
アンジェラ・メリチは北イタリアの信仰あつい農家の娘として生まれた。10歳頃に両親をなくし、母方の家にひきとられたが、叔母とも死別し、22歳で叔父を失った。その後、北イタリアのブレシア市で修道女会の創立準備に入った。ブレシア市の人々はアンジェラを「苦しむ人の母、悲しむ者の慰め手」と呼び、教えをこうようになった。1535年観想生活を営みながら、聖ウルスラ会を創立した。現在ウルスラ会は世界に約2万人の会員がいる。日本の聖ウルスラ会は約千人の会員がおり、カナダの修族に所属している。
13世紀頃、北イタリアの貴族の家に生まれる。19歳の時に、ドミニコ会に入会しようとしたが、家族によって幽閉されてしまうほどの大反対にあったが、決心はゆるがず、意志を貫いた。
パリのドミニコ会で学び、のちドイツのケルン大学の聖アルベルトのもとで哲学と神学を学んだ。ケルンで司祭に叙階された後、パリ大学教授として招かれた。1261年、時の教皇ウルバノ4世はトマスをローマに招き、聖体の祝日用のミサ典礼文、聖歌詞、聖務日課を編集させた。学問的活動とともに、「神学大全」「対異教徒大全」を始めとするキリスト教の哲学と神学の書を著し多くの業績を残した。1274年、トマスはリヨン公会議へ向かう道の途上で病に倒れた。
教会法学者の保護者
教会法の権威を確立した聖人、教会法の父とも呼ばれる。
刷毛製造人の保護者
251(252)〜356(357)
聖セバスチアノ殉教者 〜280年 運動家、弓術家の保護者
290〜304?
少女の保護者
?〜304
聖ビンセンチオは4世紀末、スペインのサラゴサで貴族院議員の家庭に生まれた。ビンセンチオという名前はラテン語に由来し、勝利者という意味。ローマ帝国最後の迫害の時期の殉教者であり、スペイン最大の聖人のひとりと言われる。
ビンセンチオがワレリオ司教から助祭に任命された頃は、ジオクレアノ皇帝によるキリスト教迫害の激しい時期であり、当時グシアノという総督はサラゴサで18人の信者を拷問によって殺害していた。やがてサラゴサの司教ワレリオと助祭であったビンセンチオにも迫害の手がおよんだが、殺すことよりも信仰を捨てることを強いられた。しかし2人はかえって強い信仰を証ししたので、司教は流罪、ビンセンチオはあらゆる拷問にかけられ、304年1月22に殉教した。遺体は辱めのために海に投げ込まれたが、遺体を浜辺で発見した信者が手厚く埋葬したという。
1567〜1622
著述家、ジャーナリスト、書記、聾者の保護者
(参考)
6月29日聖ペトロ聖パウロ使徒
11月18日聖ペトロ教会と聖パウロ教会の献堂
1484(74?)〜1540
聖ウルスラ修道女会の創立者
1125頃〜1274
学生・学校の保護者