一般ローマ暦に基づく聖人カレンダー/2月

2月

  • 2月2日主の奉献(祝)
    主の奉献

     マリアとヨセフはイエス誕生の40日目にエルサレムの神殿に行った。神はモーセを通してイスラエルの人たちに自分たちの一番貴重なものである各家族の男子の初子を神にささげるように命じた。家族は神殿でシメオンに出会う。シメオンは幼子を腕に抱き、「異邦人を照らす啓示の光」という言葉で聖家族を祝福した。シメオンの言葉にちなんで主の奉献の日、ローソクの祝福が行われる。

  • 2月3日 聖ブラジオ司教殉教者聖アンスガリオ司教

    聖ブラジオ司教殉教者
    のどの病気の保護者
     3世紀アルメニアのセバステに生まれ、医学を修めた。309年にセバステの司教に就任。迫害の激しかった時代であり、ブラジオ司教は山に身を隠して司牧を続けたが、316年、野獣狩りにやってきたアグリコラウスによって発見され、逮捕された。多くの信徒が獄中を訪れ、病者がやってくると、祝福し、病気を癒した。ブラジオ司教に祝福されるとたちまち病が癒されたとも言われている。棄教を迫られる拷問を受けたが、首を切られて殉教した。

    聖アンスガリオ司教
    801〜864
     聖アンスガリオは9世紀にデンバーク、スウェーデン、ノルウェーにはじめて福音を伝えた北欧の使徒。少年の頃から、北フランスのコルビィにあるベネディクト修道院に学び、司祭となった。ベネディクト会経営の学校で青少年の教育にあたり、また、ドイツのコルヴィ修道院でも教えた。ドイツの使徒と言われる聖ボニファチウスの働きに感動し、自らも福音を伝える仕事に生涯をかけることを望んだ。北欧宣教に努め、831年ハンブルグの大司教に、847年にブレームの司教、またスカンジナビア諸国の教皇使節にも任命された。「外は使徒、内は修道者」の生活を守り、864年2月3日死去。

  • 2月5日 日本26聖人殉教者(祝)

     1549年聖フランシスコ・ザビエルが日本に上陸して以来、日本カトリック教会は、激しい迫害を受けながらも、戦国時代、信長の時代を経て発展していく。キリスト教が始めて日本に伝来した当初は、秀吉は貿易を盛んにするために、宣教師の保護を行っていた。1593年にはフランシスコ会のベトロ・バプチスタがフィリピン総督の大使として来日し、秀吉と貿易上の条約を結んだ。しかし、日ごとに信者が増大するのを見るにつけ、脅威を感じ、サン・フェリペ号の事件を契機に、全宣教師と全信徒を死刑にする命令を出し、見せしめのために、京都、大阪の信徒26名(大阪、京都近辺のフランシスコ会宣教師、スペイン人4人、メキシコ人1人、インド・ポルトガル系1人、イエズス会3人、信者15人)を捕えて、長崎まで約1カ月1200キロの道を歩かせた後、長崎の西坂で十字架につけた。1597年2月5日のことであった。十字架につけられた信徒の中には12歳のルドビコ茨木、14歳のトマス小崎、13歳のアントニオの3人の子供が含まれていた。西坂の殉教地は、殉教後まもなくキリシタンの巡礼地となり、現在はその地に二十六聖人記念館が建てられている。1962年には列聖百年祭が行われた。

  • 2月6日 聖アガタおとめ殉教者(記)
    3世紀半ばに生まれ、250年頃に殉教
    看護婦・火災予防の保護者

     聖アガタは3世紀頃にイタリア・シシリア島のカタニア市の貴族の家に生まれた。シシリア島の知事クンチアノはアガタの美しさと家柄に心ひかれ、妾にしようとした。アガタは断った。知事は彼女がキリスト教徒であることがわかると、アガタを捕え、拷問にかけた。棄教すれば自由を与えるとせまり、さまざまな拷問で攻めたてた。真っ赤に焼いた鉄棒をアガタに押し付け、乳房を切り落とす苦しみに攻めたという。アガタの伝統的な肖像には切り取られた乳房が盆にのせられたものとなった。251年、拷問の苦しみの果てに殉教した。聖アガタが火災予防の保護の聖人と言われるのは、エトナ山の爆発のさい、聖アガタの墓に行って保護を求めると災難をまぬがれるという言い伝えによることから。

  • 2月8日 聖ヒエロニモ・エミリアニ
      1481〜1537?
    ソマスコ会の創立者/孤児の保護者

     聖ヒエロニモ・エミリアニは、1481年、北イタリアのヴェニスの貴族の家に生まれた。15歳で父と死別し、その後軍隊に入った。1528年にイタリアは大飢饉と伝染病に襲われ、ヴェニスにも病気の人や浮浪者が集まり、ヒエロニモはこの人々を救済するために、働きはじめた。やがて、彼のうわさが全国に広まり、ヒエロニモを援助する人々が現れた。彼は事業を発展させ、修道会を創立し、ソマスコ会と名づけた。1537年、ベルガモ市にペストが蔓延した時も献身的に働き、自らもペストに感染して亡くなった。

  • 2月10日 聖スコラスチカおとめ(記)
    480頃〜543

     聖スコラスチカは480年頃ローマで生まれた。生後すぐ母をなくした。聖ベネディクトの妹。兄ベネディクトが厳格な修道生活をはじめたので、父と2人の生活が続いた。美しかったベネディクトにはたくさんの結婚の申し込みがあったが、彼女はこれらをことごとくことわり、兄の創立したモンテ・カッシノの修道院の近くに小さな家を建てて、祈りと労働の生活に入った。スコラスチカのもとには信仰厚い女性が集まるようになり、数も増え、やがて修道院となった。スコラスチカは院長として姉妹たちを導いた。スコラスチカは年に一度、2つの修道院の中間にある農家で、兄ベネディクトと面会し、助言を求めたり、話しを聞いたりした。543年2月7日、スコラスチカは自分の死期を悟り、、兄に面会した時に、面会時間をこえてもっと天国の話しをしてくれるように頼んだ。ベネディクトはその願いを退けた時、突然の大嵐となり、農家から出ることができなくなり、心ゆくまで語りあう時間が出来た。それから3日後の2月10日、ベネディクトはスコラスチカの修道院から鳩が舞い上がるのを見た。まもなくスコラスチカの死の知らせが入った。その40日後、兄ベネディクトも死去した。

  • 2月11日 ルルドの聖母
    聖ベルナデッタ・スビルーの記念日(任意)は4月16日
    聖ベルナデッタ 1844〜1866

     1858年2月11日、南フランスのピレネー山脈の麓にあるルルドという小さな町に住むベルナデッタに聖母が現れ、この町を祝福のしるしとした。  ベルナデッタは1844年、フランス・ルルド市のラパカ町の水車小屋に生まれた。小さい時から病弱であり、貧しい暮らしのなかで読み書きも満足でできなかったが、信心深い生活をしていた。1858年、ベルナデッタが14歳の時、カーヴ川のほとりにたきぎを拾いに行き、川を渡ろうとした時、一陣の風の音に振り返ると、目の前の小さな洞窟に優しい光とともに、腕にロザリオをかけた一人の娘がいるのを見た。ベルナデッタは共にロザリオを唱えたが、唱え終った時、その姿は消えていた。ベルナデッタが洞窟での不思議な体験を妹に問い詰められて話すと、その話しはすぐに知れわたったが、近所の人々からは嘘つき、気違いよばわりをされた。しかし、ご出現の回数が増えるにつけ、奇跡の場面を見るために、大勢の人が洞窟に集まるようになった。聖母はベルナデッタにいくつかのメッセージを伝えていた。聖母のお言葉によってベルナデッタが掘り当てた泉の水には超自然的な効力があるといわれ、今も、世界各地に送られ、病人を力づけ直し、癒している。ご出現の場所には、1876年聖堂が建てられ、聖地とされ、現在も巡礼者が訪れる。 ベルナデッタは1866年22歳でヌヴェール愛徳会に入会し、13年の修道生活を終え、1879年35歳で亡くなった。

  • 2月14日 聖チリロ隠世修道者聖メトジオ司教(記)
    スラブ族の使徒 ヨーロッパの保護者
    聖チリロ 827〜869
    聖メトジオ 815〜885

     スラブ族の使徒と言われる兄弟の聖人。ギリシャのテサロニケで貴族の子どもとして生まれた。聖チリロ(弟)は、コンスタンチノープルの大学で哲学教師となり、聖メトジオ(兄)はアルバニアの総督となった。当時、テサロニケは東ローマ帝国の重要な貿易港として栄え、さまざまな民族が住んでいたために、2人はスラブ人と交わる機会をもち、後に、スラブ族の宣教師となる素養を身に付けた。  862年にモラヴィア(チェコスロバキア)の領主スラティスラオはローマ皇帝ミカエル3世に宣教師を派遣するように請願し、チリロとメトジオがモラヴィアに派遣された。2人はスラブ語での宣教を行い、チリロはバルカン地方の方言をもとにしてスラブ語の文字をつくり、聖書や信心書のスラブ語に翻訳し、布教に役立てた。スラブ宣教ののち2人はローマに帰ったが、チリロは869年ローマの修道院で亡くなった。チリロの死後、メトジオはモラヴィアに戻ったが、ドイツとの戦争が始まり、パノニアで許可なく布教をしたという理由でドイツ王に捕えられ、投獄された。ローマ皇帝は使節を派遣し、メトジオを弁護し、メトジオは釈放された。その後モラヴィアの司教に叙階され司牧につくし885年に亡くなった。ヨハネ・パウロ2世は、ヨーロッパは西ヨーロッパだけでなく、東ヨーロッパも含むということを思い出させるために、聖チリロと聖メトジオをヨーロッパの保護者とした。
    参考:ヨハネ・パウロ2世教皇書簡「スラボールム・アポストリ(スラブ人の使徒)」中央出版社

  • 2月17日 聖母のしもべ会7聖人
     聖母のしもべ会の創立者7聖人
    ボンフィリオ・ディ・モナルディ
    ヨハネ・ディボナジュンク
    ベネディクト・デル・アンテラ
    バルトロメオ・デル・アミディ
    リコヴェロ・ディ・ウグチネオ
    ジェラディノ・ディ・ソステニョ
    アルキシオ・ファルコニエリ

     いずれも13世紀頃、北イタリアのフィレンツェ市の貴族であった。当時イタリアは、ドイツの軍隊に侵入され、国民はグエルフ派とギベリン派に分かれ、対立していた。1233年の被昇天の祝日に聖母マリアが7聖人に現れ、修道生活への勧めを告げられた。その年の9月8日、7人はフィレンツェ郊外のカルマチアで修道生活を始めた。質素な身なりで働く彼らを見て、町の子供たちが「マリア様のしもべ」とはやしたてたことから、修道会は「マリアのしもべ」と名づけられた。そのような子供たちの中の一人フィリポ・ベニチオはのちに「マリアのしもべ会」に入り、後に総長となり、聖者となった。7聖人はみな同じ墓に葬られ、教皇レオ13世から列聖された。

  • 2月21日 聖ペトロ・ダミアノ司教教会博士
      1006〜1072

    聖ダミアノは1006年、イタリアのラヴェンナの貧しい日雇労働者の家の7番目の子供として生まれた。信心深い家庭ではあったが、貧しさと子だくさんのために末っ子の誕生は歓迎されないものだった。ダミアノの母は子供をうとましく思う日々であったが、近所の人から「子供は神様からのいただきもの」との言葉に、自分の無情さを恥じて、以後は愛情深く子供を育てた。10歳で父母がなくなり、ダミアノは長兄からじゃまもの扱いを受け、失意の暮らしをしていたが、司祭職にあった次兄がダミアノを引き取り、大学まで進学させ、卒業後は教職についた。29歳の時、聖ロムアルドの創立したカマルドール会に入会した。8年後には修道院長となり、修道生活の向上のために働いた。1057年、枢機卿に任命され、豊かな学識と経験を持って教会の発展につくした。1072年旅行中に病を得て亡くなった。

  • 2月22日 聖ペトロの使徒座(祝)

     初代教皇であり、教会のなかの聖ペトロとその後継者の役割を思い起こし、記念する日。「あなたはいわお、この岩の上に私の教会をたてよう。地獄の門も、これに勝つことはできない」(マタイ16:18)このイエスの言葉によって、聖パウロは使徒たちの頭となり、初代教会の基礎を築いた。4世紀頃には、さまざまな宗派が生まれ、それらの宗派がみなキリストの教会であると名のっていたが、聖アンブロジオは「ペトロがいるところに教会がある。教会があるところ、そこにキリストがいる」と宣言し、この祝日の意味を表明した。
    (関連)
    6月29日聖ペトロ聖パウロ使徒
    11月18日聖ペトロ教会と聖パウロ教会の献堂

  • 2月23日 聖ポリカルポ司教(記)
    ?〜155

     12使徒の直接の弟子は「使徒的教父」と呼ばれているが、ポリカルポもその一人で、聖ヨハネの弟子であった。今のトルコのスミルナの司教であったが、当時のトルコはローマ帝国の植民地であり、キリスト教への弾圧は厳しく、多くの殉教者が出たが、ポリカルポもそのような殉教者の一人である。156年2月末、スミルナでは12人の信者が捕えられ、ひとりは棄教し、他の信者はライオンの餌食にされた。この時に血に飢えた観衆はポリカルポも殺せと叫び、ヘロデはポリカルポを逮捕し、火刑に処した。聖ポリカルポはカトリック東方教会のお手本のような人とたたえられている。聖イレネオは聖ポリカルポの弟子。


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