迷子から二番目の真実[1]

   〜 自己紹介 〜   [94年 1月27日]



 自己紹介というものが、はなはだ苦手である。
 仕事で人に会うのであれば、「私、○○株式会社の△△でございます」で済んでしまうわけで、たいへん気が楽なのだが、私生活で初対面の人の前に出ると、とたんにウロが来てしまう。
「わー、自己紹介をせねば……ということは、おれがどういう人間であるかというのを、三十秒くらいで話せるように簡潔にまとめなければならんのだな。いや、三十秒もやったら、自己顕示欲の強い厭味なやつだと思われるかもしれん。十秒では短すぎるしな……中を取って、二十秒くらいがよかろう。そうなると、名前と、えーと年齢は言うべきであろうか? 相手が年上だったら、“おーおー、そらおまえは若いだろうよ”を取られても困るし、かといって、相手より年上だったら、“お、この野郎、年上だということをことさら示して優位に立とうとしているな”などと思われてもつらい。よし、年齢はやめておこう。出身地はどうしようか、言うべきか? 趣味、おお、趣味がいい。“SF”というのは妙な反感を持っている人もかなりいるからやめておこうか。“読書”くらいがよかろうか。“パソコン通信”ってのは微妙であるな。“暗いやつだ”と思われることが多いしなあ……かといって、相手も同じ趣味だと、ここでこういうこと書き散らしてるのがバレるかもしれないしなあ。独身[*1]だというのは言っといたほうがいいよなあ。この歳だと、たいてい既婚だと思われちゃうしなあ。でも、この人女性なんだよな、変に誤解されても心外だしなあ……。えーと、えーと……」
 などと考えているうちに何秒かが過ぎてしまい、結局、「あー、うー、はじめまして。○○と申します。よろしく」で済ませてしまうということになる。まるで、子供である。
 たしかに、世間には自己紹介がむちゃくちゃにうまい人がいる。結婚式なんかに出ると、新郎新婦のことはほとんど記憶にないのに、新婦のおじさんについてだけは妙に詳しくなって帰ってきて、愕然としたりする。まあ、このおじさんみたいな人は、じつは少数派のはずなのだが、俄然、どこでも目立ってしまうから、自己紹介の苦手な人にしてみれば、世間の人がみんな自己紹介の名人みたいに思えてきてしまうのだ。
 考えてみれば、自己紹介が苦手だというのは、そんなに気に病むほどのことでもない。選挙運動じゃあるまいし、そうそう毎日自分の宣伝ばっかりしていられるものか。だいたい、「おまえのなんたるかを手短かに要約せよ」という哲学的難題を前にして、パソコンショップの店員が新製品のスペックの説明でもするように、すらすらと自己紹介ができてしまう人のほうが、どこかおかしいのである。自己紹介など、つまらん技能なのだ。そうだ、そうにちがいない。
 が、そのつまらんことがうまくできないと思うと、なんだか二重に不幸な気分になってくるから始末が悪い。
 そこで私は考えた。その都度考えるからあわててしまうのだ。あらかじめ、自分専用の自己紹介の名文句をかっちりと作っておいて、いざというときには、それをただ暗唱すればよいのではないか。何事も基本が大切である。型を崩すなどという高度なことは、まず型どおりのことができて、はじめて可能になるものだ。
「やーやー、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、われこそは……」というのは、いささか仰々しい。やってみてもいいが、二度と同じ相手には会わずに済むような気もする。「手前、生国と発しまするは……」上州新田郡三日月村ならかっこいいが、葛飾柴又だった場合には、相手にはなはだ誤った第一印象を与えることにもなりかねない。「ひとぉつ、人の世、生き血をすすり……」相手の親戚に代議士がいたりすると、気まずい空気が流れることもあるから要注意である。いっそ、無言のまま、抜く手も見せず剣をひらめかせ、相手の胸に“Z”の文字を刻む……なんてのも、すこしく礼を失するような気もする。うーむ。思えば、むかしははっきりと型があっただけ便利だったのだなあ。
 と、ここまで考察してきて(なにを考察したんだ、なにを)、はたと気がついた。「タンバだー」「ムラタだー」「タブラバサガズです」「ぼく、ドラえもん」「ワタクシ、サザエでございます」「ぼくはジェッター、一千年の未来から時の流れを超えてやってきた」「んちゃ!」「愛と正義のセーラー服美少女戦士、セーラームーン! 月に代わってお仕置きよっ!」――とまあ、なんでもいいが、要するに、自己紹介のうまい人というのは、往々にして自己紹介の必要のない人が多いのである。そう思いませんか?
 だから、さして有名でもなんでもないわれわれ小市民は、自己紹介が下手で当然なのである。論理がめちゃくちゃだって? かまうものか、論理的に喋れるくらいなら、自己紹介で悩んだりしないわい。
 やれやれ、めでたしめでたし。自己紹介ならぬ自己正当化を終えたところで、おしまいに究極の自己紹介というやつを考えてみよう。
 おなじみポパイが、よく“I am what I am.”てなことを言う。たいへん訳しにくいけど、「おれは逃げも隠れもせずおれである」みたいな感じで、「ムラタだー」というのとニュアンスは似てるかもしれない。「おれがポパイだー」とでも訳そうかな。つまり、自分の全存在に責任をもって相手にナマの自分を叩きつけているわけで、小物が言っても「ほー、さよか」と思うだけだが、ある程度の大物が言うと妙に納得してしまう。究極の自己紹介と言えますな、これは。
 それが証拠に、神様だってポパイの真似をしている。旧約聖書の「出エジプト記」で、神の名を問うモーゼに答えて、その“存在”が言うことにゃ、“I AM THAT I AM.” King James Version ) 日本語訳聖書が行方不明だけど、たしか「われはありてあるものなり」とかいう訳が一般的である。英語だとポパイと同列みたいで重みに欠けるが、なんでもこの部分は、原典のヘブライ語だともっと適切かつ簡潔な神様の定義になっているんだそうだ。
 ただ存在することが、すなわち自己紹介になってしまうというんだから、神様というのはやっぱりとんでもないやつにちがいない。こういう境地に、一歩でもいいから近づいてみたい……などと思いつつ、今日も私は、ぎこちない自己紹介を繰り返すのである。



[*1]いまもあいかわらず独身である。

[ホームへ][目次へ][次へ]