ポスト・ホロコーストSF再考
―― 東西冷戦は終わったらしいけれど……
はたして“ポスト・ホロコーストSF”などという分類が成立するものかどうか、ふたつの壁にぶつかって、はたと考え込んでしまうのである。
ひとつには、大戦争や大虐殺があろうとなかろうと、SFたりえている作品には、多かれ少なかれ中島梓の言う“種のレベルでの『末期の目』”(『道化師と神』/八四/早川書房)が内包されているのが常であるからだし、いまひとつには、“ポスト”ホロコーストという言葉に、はなはだ不遜な響きを聴いてしまうからである。たとえば、ユダヤ人作家エリ・ヴィーゼルなど、大虐殺からの生還者たちの言葉に耳を傾けるとき、ホロコーストにプレもポストもあったもんではなく、それはただ人間の性にぴたりと寄り添って、無人称・無人格に“いま、そこにある”ものとしか思えないのだ。
SFは、その第三者的な視点を強力な武器とする表現形式である。が、一方、ホロコーストには第三者などというものは存在しない。人間であるかぎり、誰もが、すなわち当事者なのだ。したがって、ホロコーストSFに挑むSF作家たちは、常にこの相容れない二者を結びつけるぎりぎりの綱渡りを強いられることになる。斬新な世界設定を狙うためだけに、大規模な人死にがあったことにしてある作品は、ホロコーストを天変地異に置き換えたとしてもなんの支障もなく、ポスト・ホロコーストSFとは呼びにくい。SF作家にとってのホロコーストとは、文学装置として容易に通用しすぎるがゆえに、自分も無傷ではすまない必殺技なのである。
さて、まずは古典中の古典、ネビル・シュートの『渚にて』(五七/創元SF文庫)から、ポスト・ホロコーストの荒野へと歩を進めよう。第三次世界大戦が米中ソの全面核戦争へと発展し、北半球は瞬く間に壊滅する――という設定は、当時としてはSFでもなんでもなかろう。この作品がSFとして優れているのは、放射能が南下してくるまでの約束された滅びを待つばかりの、オーストラリアはメルボルンを舞台にしたところにある。からくも逃れて来たアメリカの原潜乗組員と地元の素朴な人々との交流や、変わらず営まれる平凡な日常に忍び寄ってくる緩慢な死の影からは、いっそ安堵感にも似た静謐が漂い、声高な警鐘といった浅薄なものを超えた哀しみが迫ってくる。そこでは、顔を持つ一人ひとりの余命と、人類という種の余命とがぴったりと重なり合うのだ。個と種のドラマとしてのSFがここにある。東西冷戦の時代背景を色濃く映した作品ではあるが、世界情勢がいかに変化しようとも、永く読み継がれてゆくにちがいない名作である。
もうひとつ忘れてはならない作品は、先ごろ亡くなったウォルター・M・ミラー・ジュニアの『黙示録三一七四年』(五九/創元SF文庫)であろう。舞台は一気に三千年紀へと跳ぶ。最終戦争後、人類の文明は中世レベルにまで後退、ときおり廃墟で発見される二十世紀の文物は修道院が厳重に保管し、文献の解読にあたっている。やがて、それらの知識から過去の科学技術が再発明されてゆくのだが……。科学技術はそれ自体が自滅を約束するものなのか、それとも、それを利用する人間に災厄の種は宿っているのか――全米ライフル協会員必読の傑作だ。
このように、ホロコースト後の世界を生きる人々が、災厄を招いた科学技術を敵視したり、そのパラダイムを大幅にシフトさせているという作品は多い。たとえば、ノーマン・スピンラッドの『星々からの歌』(八○)では、原子力や化石燃料を使用する“黒い科学”と、太陽と風と筋肉のみをストイックに用いる“白い科学”との確執が描かれる。あるいは、生物兵器によって壊滅した二十四世紀のアメリカを舞台に、精神の潜在力を没倫理的に利用せんとする者たちに追われる共感能力少女の遍歴を描いた、エリザベス・ハンドの『冬長のまつり』(九○)も、このタイプの作品として読むことが可能だろう。
破滅の元凶を科学技術ばかりではなく社会体制に求めると、ポスト・ホロコーストSFは、現代文明のコアに食い込んだ価値観を問い直す社会学的思考実験に絶好の場となる。シェリ・S・テッパーの『女の国の門』(八八)では、核戦争と思しき“大変動”後の男女隔離社会が描かれる。そこでは、女は城壁の中で政治や文化を司り、男は壁の外の社会で戦士集団を形成して、同様の社会を構成する他の集団の侵略から、名目上<女の国>を防衛している。一見、現代社会の性別役割分業を誇張したカリカチュアにすぎないように思えるのだが、じつはこの設定には痛烈なカウンターパンチが用意されているのだ。また、未訳作品だが、オクテイヴィア・バトラーの《異種創生(ルビ:ゼノジェネシス)》三部作:『黎明』 Dawn(1987)、『成年の儀式』 Adulthood Rites (1988)、『イマーゴ』 Imago (1989/いずれも、Warner Books)は、人類の価値観ばかりか、生物種としての欠陥までをも、さらに徹底的に叩く。核戦争を生き残ったわずかな人類が、遺伝子操作を生得能力に持つ宇宙生物に救われ、彼らと交配しながら新たな社会を作り上げてゆくのである。この三部作については、小谷真理による優れた紹介と評論があるので(『女性状無意識』II・Chapter 6/九四/勁草書房)、ぜひご参照いただきたい。
改変世界SFにも通じるこうした“価値観塗り直し型”ポスト・ホロコーストがあるかと思えば、破滅以前の社会の理想や理念を再び取り戻そうとする作品も存在する。デイヴィッド・ブリンの『ポストマン』(八五)は、その代表格だ。小集落に分断され人心が荒廃した核戦争後のアメリカで、主人公は行き倒れた郵便配達車を発見、公僕の制服を拝借して郵便配達員になりすますと、国家が再び機能しつつあるという幻想を各地の集落に“配達”してまわるのである。日本人には肌で理解しがたい面もあるが、人造国家アメリカのメンタリティーの一端を垣間見るようで興味深い作品だ。キム・スタンリー・ロビンスンの『荒れた岸辺』(八四)では、数千発の中性子爆弾による奇襲でアメリカだけが壊滅してしまっており、他の先進諸国はアメリカが強国として復興しないよう分担して国境や海岸線を封鎖、人工衛星から監視やレーザー攻撃を行なって妨害工作を働くのである。ここでも長老格の老人が、壊滅前の合衆国の偉大さを、意図的な虚構を交じえて繰り返し主人公の少年に語り、幻想配達人の役割を果たす。このような作品は、ともすると、牧歌的な過去への回帰願望が破滅後の世界に投影されてしまう危険を孕んでもいるが、現実にアメリカの最良の部分を支えているのも、こうした“ポストマン”たちの嘘から出たまことである面は否定できない。よくも悪くも、アメリカらしい作品たちと言えよう。
一方、ホロコーストの本質を冷たく見つめる中から、ポスト・ホロコーストを現在のわれわれに逆照射してくる作家もいる。カート・ヴォネガット(・ジュニア)は、その点では他者の追随を許さない。彼自身が、戦時中に捕虜としてドレスデン大空襲をその場で目撃するという象徴的な体験を持つこともあってか、明示的に戦争が言及されようがされまいが、その作品はほとんどすべてが本質的にポスト・ホロコースト小説である。その切り裂かれるような人類への絶望と、己がその生物種の一個体であることの哀しい愛着を表現するには、いくらSF作家と呼ばれることを嫌おうとも、彼はSFの方法論を使わざるをえないのだ。ビリー・ピルグリムという男の奇妙な体験談としてドレスデン大空襲を描いた『スローターハウス5』(六九)は必読だが、ポスト・ホロコーストSFとして評価した場合、ひとつの頂点を極めている作品は、むしろ『ガラパゴスの箱舟』(八五)であろう。旧人類滅亡から百万年を経てアシカのような生物に進化(ルビ:イヴォルヴ)している新人類と、その遥かな先祖たる“巨大脳”を持つ人物たちの物語を、旧人類の幽霊というとんでもない語り手を用いて描いた傑作である。
さて、これらのほかにぜひチェックしておきたい作品を挙げておこう。核戦争勃発後地下に逃れた大多数の人類が、地上では少数エリートが依然戦争を続行していると信じて戦闘用ロボットを作らされている悪夢の社会を描く、フィリップ・K・ディックの『最後から二番目の真実』(六四/サンリオSF文庫)は、現実と虚構の交錯するディック節が満喫できる。生まれもつかぬ怪物が跋扈する核戦争後の北米大陸を、暴走族の悪党青年がペスト血清運搬の使命を帯びて特殊車輌で横断する、ロジャー・ゼラズニイの『地獄のハイウェイ』(六九)も、手に汗握るエンタテインメントだ。核戦争は終結したというのに、、下手に刺激すれば全面核攻撃をしかけてくるというタチの悪い究極の自動戦闘要塞を機能解除するため、戦争の後始末に悩まされる人類を描いたデイヴィッド・メイスの『海魔の深淵』(八四/創元SF文庫)は、ちょっと変わった“兵どもが夢の跡”である。
時間を超えるSFのお家芸で“ポスト”と“プレ”とを重ね合わせ、搦手からホロコーストにアプローチするのは、グレッグ・ベアの『永劫』(八五)や、ケヴィン・J・アンダースン&ダグ・ビースンの『臨界のパラドックス』(九一)だ。前者では、突如地球上空に出現した小惑星の内部に、これから起こる熱核戦争の詳細な記録が保存されている。後者では、現代の女性反核活動家がマンハッタン計画進行中の五十年前にタイムスリップ、原爆開発を阻止せんとする彼女の工作が皮肉きわまりない結果を招く。
短篇となると、これはもう枚挙に暇がない。私選を三つ挙げれば、言葉を喋る犬と少年の奇妙な友情をショッキングな文体で描いたハーラン・エリスンの「少年と犬」(六九/『世界の中心で愛を叫んだけもの』所収)、難解な形式ながらテーマの本質を深く抉るジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「煙は永遠にたちのぼって」(七四/『老いたる霊長類の星への賛歌』所収)、テレビ報道への風刺が痛烈なJ・G・バラードの「第三次世界大戦秘史」(八八/福武文庫同題短篇集所収)あたりが、ポスト・ホロコーストを多面的に考えさせてくれる作品である。
やれやれ、この原稿でいったい人類を何回滅ぼしたことだろう――なあに、「われわれがいなくても、世界はけっこうやっていきますよ」(『渚にて』)。
(文中敬称略。版元表記のない作品は、すべてハヤカワ文庫SF) |
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