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デッドソルジャーズ・ライヴ
(山田正紀著、早川書房、1996年、1800円、ISBN4-15-208046-9)

 山田正紀ほどの才能と技量の持ち主ともなると、面白くない小説がおそらく書けないのだ。バットを振る体勢に入ると釣り球だろうが悪球だろうが必ず当ててしまうので、「いかにうまく空振りをするかが課題だ」と述懐していたイチローのようなものである。したがって、デビュー当時からあまりに完成されたエンタテイナーであった山田正紀にとっては、ただ面白いだけの小説というのは、書けば必ずできあがってしまうあたりまえのものでしかない。そして、そういう小説は、きっと彼自身、書いていて面白くないにちがいない。
 そのせいだろう、「書きたいものを書いているな」という気魄が伝わってくるときの山田正紀は、神だの進化だの意識だのといった、一筋縄で描き切れるはずがない巨大なテーマをわざと持ってくる。しかも、そのテーマを通俗的とすら言えるエンタテインメントの枠の中であくまで捌き切ろうとするのだ。もう少し軽いテーマにすれば、平均点のただ面白いだけの小説がこぢんまりとできあがるというのに、彼はそこを譲らない。サムライである。
 本書で山田正紀は“死”と真っ向から切り結んだ。帯にもあるように、脳死判定や臓器移植やナノテクや臨死体験などの“現代人の死”にまつわるキーワードが網羅されているのだが、キーワードをうわ面にまぶすくらいのことは誰にでもできる。山田正紀のすごいところは、エンタテインメント流作劇術の必然と哲学的思弁の交差する微妙な接点に、憎いばかりの正確さでこれらのディテールを配置するところだ。あれよあれよと楽しまされてゆくことがおのずと哲学的思弁になり、巨大なテーマに思いを馳せることがすなわちエンタテインメントとなる。一見深刻なテーマに見える臓器移植と三流怪獣映画の本筋とが乖離しているような、どこぞの喋るミトコンドリア小説[註1]とはわけがちがう。
 フィリップ・K・ディックの『宇宙の眼』(『虚空の眼』)や筒井康隆の『夢の木坂分岐点』を連想させる展開だが、もちろん山田正紀はこれら先達の傑作は百も承知だ。オマージュとして手法を踏襲しているのではない。巨大なテーマを内包しながら、とことん現代的なエンタテインメントとしてどこまでやれるか、ディックや筒井に挑戦しているのだ。
 そして、それは互角の勝負になっている。



[註1]この揶揄表現に関して、『パラサイト・イヴ』の著者・瀬名秀明氏から丁重なメールを頂戴し、当該作品には「ミトコンドリアが意識を持った」「ミトコンドリアが喋った」という記述はないにも関わらず、その点について批判を受けることが多いので残念に思っているとのご指摘を受けた。たしかに、そうした直接の記述はないのだが、大部分の読者がそう読み、またそう読めるように書かれていることは事実で、それは瀬名氏も承知しておられる。私がここで真に揶揄している点は、「ミトコンドリアが喋った」ことではなく(小説なのだから、必要があれば喋ったとしてもべつにかまわない)、『パラサイト・イヴ』第三部以降のかなり唐突な“転調”にある。しかし、私の上記の揶揄表現は、既読の方の誤解や未読の方の先入観を助長するおそれもあり、それは私の本意ではない。よって、ここにその点の注意を促したい。
 なお、これを機に瀬名秀明氏との有意義な意見交換があった。そちらについては、間歇日記「世界Aの始末書」(9月7日付)に記したので、併せてご参照いただきたい。


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