間歇日記

世界Aの始末書


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97年9月上旬

【9月10日(水)】
『ニュースステーション』を途中から漫然と観ていると、今週の企画もの「最後の晩餐」のコーナーにだしぬけに葉月里緒菜が出てきて、テレビの前に飛んでゆく。葉月里緒菜にしてみればだしぬけに出たわけでもなんでもない。昨日の予告も新聞のテレビ欄も見ていなかったおれが知らなかっただけである。「最後の晩餐」って企画は、「明日地球が滅びるとしたら、最後の夜にはなにを食べたいか?」というテーマをダシに、久米宏が有名人と対談するというものだ。
 おれは概して、若い女性にはあまり興味がないのだが、葉月里緒菜はいいなあ。目がいい。いい加減なことを言うと食ってかかられそうな、こちらも刀を峰に反したりせず刃を向けて斬りこんでゆかなくては失礼なような雰囲気が、なんとも言えずゾクゾク来ますなあ。おれの好む女性は、なぜか女性に人気がないことが多い。「お、この人はなかなかいい」と思っていると、決まって女性誌がバッシングをはじめる。その的中率(?)たるや怖ろしいほどだ。伝統的女性誌が叩く女性のタイプは、概ね「男に媚びてる(ように見える)」か「好きに生きてる(ように見える)」タイプに二極分解する。“誰にでも愛想よく、男に媚びすぎないがけっして逆らわず、自分の意見らしい意見は述べず(あるいは、意見がなく)、結婚を唯一絶対の女性の幸福だと考えており、親孝行で苦労人で日本で高すぎない教育を受けた平民出身”というタイプの女性が叩かれているのをあまり見たことはない。読者がそういうのを好むんだろうかと思っていたこともあるが、よくよく考えてみると、叩かれないタイプというのは、男にとって最も都合のよい“便利な”女性像であるからして、これはそういう雑誌を男が作っているか、編集の決定権が男にあるかだと考えるのが自然だ。うん、きっとそうにちがいない。そして、そういう雑誌を喜ぶ読者層というのは、男にとっての“かくあらまほしき女性像”を内面化してしまっている女性たちなのだろう。
 それはともかく、葉月里緒菜はいい――と書くだけで、このページの女性読者がめきめき減ってゆく音が聞こえるようだが、この日記の読者は女性誌の読者層から最も遠いところにありそうな気もして、さほど影響はないのかもしれない。あっ、そう言えば、映画『パラサイト・イヴ』の原作者であり出演者でもある瀬名秀明さんは、一度は生の葉月里緒菜に会っておられるはずだ。別撮りだったとしても、原作者との顔合わせくらいあっただろう。うーむ、ちょっとくやしいぞ。もっと、瀬名さんを攻撃するべきであるな(笑)。
 閑話休題(全部閑話だってば)。「最後の晩餐」である。葉月里緒菜は「なにも食べない。会いたい人に会いにゆく」ということであった。おれはおそらく、いろんなインスタント・ラーメンをかわるがわる作り、ワイルド・ターキーでも飲みながら、ずるずると啜ることだろう。防腐剤も塩分も、なにも気にすることなんてない。おれだって、高級なおいしいものを食ったことがないわけではないよ。でも、おれのいちばん愛した食いものを選べと言われれば、結局ここに帰ってくるような気がする。おれらしい最後の晩餐だと、心から思うな。

【9月9日(火)】
“不徳のいたすところ”って言葉の意味が、おれにはいまだによくわからない。どう聞いても――今日もテレビのニュースで聞いたのだが――“私が悪かった”という意味ではないようなのだ。辞書を引いても釈然としない説明しか出ていないので、ひたすら自分なりの解釈を試みていると、こないだの“ポカリスエット”じゃないが、だんだんコワイ考えになってくる。

[コワイ考え・その1]“不徳”という悪霊だか妖怪だかがいて、よく人間にとり憑くらしい。その人が破廉恥な行いをしても、それは“不徳”の仕業であるから、本人の与り知らぬことである。よって、その人を責めるのは大人げないことなのだ。
[コワイ考え・その2]“不徳”とは徳が足りないことである。少々の悪事を働いても、十分な徳があればそれは相殺されるのだ。不祥事が露呈したりするのは、取りも直さず、それをもみ消したり隠蔽したり、告発しようとしている者に鼻薬をかがせたりするだけの徳がその人に不足していたからである。人間として恥ずかしい行為をしたことはまったく問題ではないのだが、それが露呈するのを防げなかったとは、まことにもって恥ずべき事態である。ああ、もっと修行して徳を積めば、より大規模な悪事が働けるのに残念なことだ。

 おれはいつも[その1]と[その2]がごちゃまぜになったような意味だと思って聞いているのだが、ほんとのところはどうなんだろう? こうやって公の場所に毎日のように文章を垂れ流しているくせに、こんな言葉の意味もろくろくわからないとは、おれの不徳のいたすところにちがいない。

【9月8日(月)】
▼いま関西では、浪速の中華そば『好きやねん』という即席ラーメンのCMが爆裂している。一日最低十回は目にするだろう。屋台のラーメン屋のおやじが生瀬勝久で、女房らしき河合美智子と演歌風のCMソングをデュエットするのだが(もちろん、河合はオーロラ輝子に変身する)、河合美智子のラーメン屋姿がけっこう可愛くて、いい味出している。少なくとも、歌は華原朋美よりずっとうまい(あ、また言ってしまった)。だけど、あまりに当たった役ってのも、役者にとっては負担になるでしょうね。おれはいまだに、ピーター・フォークコロンボ以外の人物だと見ることができない。藤田まことも、子供のころは“当たり前田のクラッカー”のおじさんだったが、いまではやっぱり中村主水に見えてしまう。河合美智子が、次になにをどんなふうにやるのか楽しみだ。だけど、企画ものもここまで当たるとすごいよねえ。おれも、オーロラ・トラウトとかいう名前で小説書いてみようかな(笑)。

【9月7日(日)】
▼先日、瀬名秀明さんからメールをいただいた。ここのブックレヴュー欄「天の光はすべて本」にある『デッドソルジャーズ・ライヴ』(山田正紀、早川書房)評の中で、「一見深刻なテーマに見える臓器移植と三流怪獣映画の本筋とが乖離しているような、どこぞの喋るミトコンドリア小説」と、瀬名さんの『パラサイト・イヴ』(角川書店)を揶揄した箇所がある。その点について、作者の意図はそうではなかったというご説明を頂戴したのだ。あまり品のいい揶揄ではないから「てめー、この野郎」と言われるのは覚悟のうえであるが、瀬名さんはおれより品がよく、おれのような木っ端レヴュアーの意見からですら、なにか得るところがあれば吸収しようという建設的姿勢に溢れた丁重なメールであった。それを機に瀬名さんとメールのやりとりがあり、瀬名秀明という作家とSFについて、おれも理解を深めた。独立した作品としての『パラサイト・イヴ』に対するおれの評価は変わらないのだが、揶揄した以上はきちんとしたおれの意見を述べておくべきであろうと考えるので、瀬名さんの許可をいただいたうえで、意見交換の内容に触れておくことにする。
 まず、瀬名さんは、「ミトコンドリアが意識を持った」「ミトコンドリアが喋った」という記述は『パラサイト・イヴ』にはなく、そういう解釈に基いた批判を受けることが多いのを残念に思っているとのことであった。再読してみたのだが、たしかにそうした直接の記述はない。が、そう受け取れてしまう書きかたがしてあるのも事実で、瀬名さんもその点は否定しておられるのではない。以下、やりとりを対話式にまとめてみる。むろん、実際には下記のとおりの掛け合いがあったわけではなく、まとまったメールによるやりとりを行なったものだ。「」内は、メールそのままの引用、「」のないものは、意を曲げないように要約したものである。

冬樹:私が『パラサイト・イヴ』をあまり高く評価しないのは、ミトコンドリアが意識を持ったり喋ったりするように読めるといった瑕瑾よりも、むしろ第三部以降の唐突な転調によるところが大きい。転調をしてはいけないなどということはむろんないが、この作品ではそれが成功しているとは思われない。もっとも、この作品はこうでなければホラー小説として評価されなかったかもしれないので、転調がある程度確信犯的であるだろうとは推察している。

瀬名:あの転調に関しては賛否両論があり、そこを瑕瑾と見られ得ることには、ある程度納得している。ご指摘のとおり、あれはホラーにするための確信犯であった。どうも私の作品はSFの人に嫌われているようだが、その理由は那辺にあるのかご意見を伺いたい。

冬樹:『パラサイト・イヴ』はホラーなのだから、「SFでない」といった批判にはもとより耳を貸す必要はないだろう。SFの人が嫌っているわけではないだろうが、ただ、あの作品に苛立つSFファンは少なくないと思う。それはまったくお話にならないという苛立ちではなく、「もったいない」と強く感じさせられることによる苛立ち、「肩透かしを食わされた」という苛立ちだと思う。昨今では、SFのきちんとした登龍門がないために、別分野からデビューする“隠れSF作家”も少なくない。よってSFファンは、SFの匂いのする作品を読みはじめると「お、この人は隠れSFなのではあるまいか」と期待する習性を持っている。ヘンな喩えをすれば、日本料理屋で席についたら端正な細工をした美しい懐石料理が次々と並べられてゆき、わくわくと期待していると最後に鍋を持った人がやってきて、膳の上の料理をみな鍋にぶち込み「私ども自慢の寄せ鍋でございます」――と言われたような感じです。たしかにそれは寄せ鍋として一級品であったのですが、じゃあ、最初の懐石料理風の作法はなんだったんだ、ということになるわけですね。「これがホラーの作法だ」と言われればひとこともありませんが、少なくとも最初でSFファンに「SFだ」という期待を抱かせた点が、『パラサイト・イヴ』が攻撃される理由なのだろうと思います。その点、「Gene」(『絆』カドカワノベルズ所収)に文句を言うSFファンはいないだろう。「なんでこのマックが光るんだよ」などと、非科学的なディテールをあげつらうこともないはずだ。それはやはり、モードが一定していて、ぎこちない転調もないからだ。

瀬名:SFファンが『パラサイト・イヴ』に苛立つというあなたのご指摘には、なるほどと思わされた。確信犯ではあるのだが、読売新聞の小林恭二氏の書評にもあるように、『パラサイト・イヴ』は第二部までが好きという人と第三部からが好きという人にはっきりと分かれる。

冬樹:科学的ディテールの正確さについてだが、私はもとより門外漢ゆえ、小説に於いてそれが最優先事項だとは考えない。正確な描写であっても読者にうまく伝わらねばそれは失敗だし、逆に嘘や誤謬であっても意図するところが読者に伝われば、それはフィクションの文章として成功しているのだと思う。『パラサイト・イヴ』を読んだ人の多くが、「ミトコンドリアが意識を持ち、人間を操って喋った」と解釈してしまうのは、あなたが非科学的であったからではなく、むしろ科学的認識を所与のものとして捉えすぎたからではないだろうか。専門家同士は、“利己的な”遺伝子とか遺伝子の“戦略”といった用語を、遺伝子やオルガネラなどを擬人化した便宜的な表現だと踏まえて使うのだろうが、一般読者のすべてにそれがうまく伝わるとは思えない。また、事実、「ミトコンドリアが意識を持った」という解釈を誘発する書きかたがされている。私自身は、揶揄表現としては端的に「喋るミトコンドリア小説」と『パラサイト・イヴ』を指し示したが、その点が最大の瑕だと非難しているわけではない。

瀬名:小説の中で科学を描くことの技術についてですが、厳密に科学的である必要はない、小説はいかに騙すかが重要だとのご意見には私も基本的に賛成です。しかし、私が最近考えていることは、本当にそれでいいのか、ということなのです。もしかしたら厳密性を持ちつつ騙す努力を作家は怠ってきたのではないかということです。私は科学の基礎研究に長く携わってきたので、小説を読んでいても、一般読者なら容認するであろう科学的誤謬が、哀しいことに気にかかってしまう。誤謬があると醒めてしまって、小説を十全に楽しむことができない。なるほど、鮫島のような刑事はいないから『新宿鮫』はまちがっているなどという評論がまかり通ったりしては、作家はたまらないだろう。しかし、刑事も小説を読むはずだ。私としては刑事にも研究者にも「一般読者」と同じように小説を楽しんでもらいたいのです。そうした思いがあるゆえ、私は最近、少なくとも自分の書く小説では、ある程度物語の自由度を束縛してでも科学的な厳密性を保持しようと考えているのです。そのため「一般読者」にはわかりにくい文章になってしまうかもしれない。しかしそのような挑戦こそが今の小説に欠けているものではないかと思っています。私がこだわるべきところがあるとすればここであろうと思うのです。

冬樹:それは非常に高い目標で、挑戦に値することだと思う。そして、おそらく瀬名さんのそのこだわりを真に理解するポテンシャルを持った読者は、失礼ながら「みんなが読んでいるから読んだ」「話題作だから読んだ」人々ではなく、ほかならぬ『パラサイト・イヴ』に文句を言った読者(その多くはコアなSF読者)であろうとも思うのです。

瀬名:「Gene」は書き上げたとき失敗作だと思ったが、意外と評判がよかったので嬉しく思った。ひょっとすると、私や編集者が考えているよりもずっと、読者は難解な説明についてこれるのではないか、私のこだわりを理解してくれるのではないか、と自分を鼓舞しております。

冬樹:『パラサイト・イヴ』一作では、瀬名秀明という作家が“隠れSF作家”なのか、SF的道具立てを形だけ取り入れている別種の作家なのか判定しにくいところがあったが、「Gene」やその他の文章・インタヴューなどを読むにつけ、『パラサイト・イヴ』で受ける印象よりもずっとSFに近いところにいる作家ではないかと思いはじめている。とはいえ、独立作品としての『パラサイト・イヴ』に対する私の評価は変わらない。当ホームページの『デッドソルジャーズ・ライヴ』評にある当該作品への揶揄表現の削除や書き換えは行わないが、著者の意図しない誤解を広めることは私の本意ではないので、その旨註釈をつけることにする。また、この経過に日記で言及したいがご許可願えるか?

瀬名:承知した。私は長編第二作の『BRAIN VALLEY』の第一稿を8月に書き上げ、現在直しに入っている。角川書店から発売予定だ。この小説がSFの方にも楽しんでいただけますことを、心より願っています。

 とまあ、もちろん実際にはこんなぶっきらぼうな文章を交わしたのではないが、瀬名さんのご意見を伺うよい機会が持てた。このページの読者の多くには、興味深い内容であるかと思う。
 実作者がレヴュアーに突然メールを出したりするのはルール違反なのではないか気になったと瀬名さんはおっしゃるのだが、とんでもない、こういう機会が持ちたくて、また、持ちうるメディアだと期待してホームページなど開設し、メールアドレスを公開しているのである。逆に、作家が公開しているメールアドレスに、おれが作品についての感想や批判を寄せるのも“あり”だと思う。
 アドレスを公開している人には、誰もがメールを出していいはずだ。ただ、返事がもらえるかどうかは、内容と運と先方の事情次第と割り切るべきである。なんでも、メールを出したからには返事がもらえるのがあたりまえだなどと錯覚し、有名人にメールを出しては「返事がない」と勝手に憤る人がいるらしいのだが、出すほうにとっては一通でも、先方は一日に百通も千通もメールを受け取る人なのかもしれないのだ。そういう常識をわきまえないコドモは、電子メールなど使うべきではない。
 まあ、おれのところにファンレターが溢れ返る心配はまったくないので(抗議や脅迫はあるかもしれないが)、いただいたメールには、非常識なものでないかぎり、どんなに遅くなっても必ず返事を出している。今回の瀬名さんとのやりとりのように有意義な意見交換ができれば、ホームページを構えている甲斐があるというものだ。

【9月6日(土)】
ダイアナさんの葬儀をテレビで観る。イギリス国教会の葬儀がまるまるテレビ放映される機会などそうざらにはないから録画しておきたかったのだが、生憎ビデオは壊れたままである(そろそろ買えよ)。国葬に準ずるということだけど、正式な国葬と式次第のどこがどうちがうのか、解説を入れながらやってほしかった。日本のテレビなのだし、さほど不謹慎だということはないだろう。
 新聞のテレビ欄も今日はダイアナ、ダイアナの嵐である。新番組『ウルトラマンダイアナ』なんてものまである(ダイナだよ、ダイナ)。

【9月5日(金)】
ダイアナさんの葬儀でエルトン・ジョンが歌うという。それにしても、顔の広い人だな。ついこのあいだ、ジャンニ・ヴェルサーチの葬式でおいおい泣いているのをテレビで観たばかりだ。気さくなおじさんって感じで、憎めないキャラクターだよね。
ウィリアム・ギブスン『あいどる』(浅倉久志訳、角川書店)が出ていたので、一応買う。以前にも書いたように、訳を手元に置いておかないと、あとで言及する必要が生じたときに日本語表記がわからなくて困るおそれがあるのだ。ぱらぱらと見てみると、ヴァーチャル「あいどる」の名 Rei Toei には“投影麗”という字が当てられている。わははは、こういう遊び心は楽しいなあ。“投影蛉”じゃ、サマにならないしね。
 次に“ポカリスエット”の箇所を捜す。最初に読んだとき、電車の中で爆笑しそうになったのだ。アメリカから日本に来たチアという少女があの缶を見て、「ポカリスエットとはなんぞや」と妙な想像をするくだり――「ポカリ汗(ルビ:スエット)? ポカリってなんだろう? チアは一種のイノシシを想像した。いつか<ネイチャー>チャンネルで見た、背中の毛を逆立てて、牙をむきだしているイノシシ。」(浅倉久志訳) ぼのぼの風に言えば、“コワイ考えになってしまった”ってやつですか(笑)。なんでイノシシなのかよくわからないのだが、語感から porcupine(ヤマアラシ)でも連想したのだろうか? コワイ考えになってゆく過程がなんとなく想像できて、無性におかしい。アメリカ人があの缶を見れば、百人百様のコワイ考えが生まれそうだ。ポカリスエットは好きだけど、あのネーミングはどうしたって英語国民の食欲を奪うよ。不潔な語感がある。ホテル・カリフォルニアにでも滞在してるのなら、頭韻もねちっこく sweet summer sweat を浮かべて踊るのもまた濃密な肉感があるけれども、エジソンに99%の sweat をだらだら流されたのでは、なんだか臭ってきそうで inspiration は行き場を失う。でも、POCARI PERSPIRATION じゃあ、缶に書き切れないしなあ。
 で、“ポカリ”って、いったいホントになんなんでしょうね?

【9月4日(木)】
▼パパラッチの話はしぶとく続く。こうなると、もはや日記だかなんだかわからないが、おれが今日考えたことはおれに今日起こったことであるから、それを書くのは日記だということになろう。おお、この論理なら日記にはなにを書いてもいいことになるぞ(いまごろ気づいたのか)。
 さて、昨日は比較的現実的な話(?)をしたので、今日はSF関連サイトらしく(一応、そのつもりなんですけど)近未来のことを考える。
 カメラという道具のいやらしい点は、撮影者の顔の大部分を覆い隠すことである。相手に顔が見えないと、心理的に厚顔無恥なことがやりやすい。そこで、もう少し技術が進んだら、パパラッチはカメラを手に持ってはならないことにすればいい。目に埋め込む。写真を撮るには、被写体に正々堂々と顔を見せなくてはならないようにするのだ。目を剥けば望遠になり、舌を出せばシャッターが切れるようにしよう。露出やらなにやらの調整は舌の微妙な動きで行う。フラッシュは額が光るのだ。よって、パパラッチはみな前髪を剃ったり、オールバックにしたりしている。
 勝手にそういうことにしておいて、パパラッチが有名人を取り囲みフラッシュを浴びせているという、ありふれた近未来の光景を想像してみよう。さあ、若い女性に大人気の映画スター、レイ・フユキが恋人とホテルから出てきた。いっせいに群がるパパラッチたちは、先を争って顔を突き出し、目をこぼれ落ちそうに剥き出しては、ちろちろと舌を出す。舌を出しっぱなしのやつもいるが、たぶん体内にビデオを埋め込んでいるのだろう。仕事中、ふと我に返って、隣の同業者を見てしまったパパラッチは、「人生とはなんだろう……」などと悩みはじめずにはいられない。雑誌や新聞を買うほうも、パパラッチの撮影風景を頭に思い描いてしまったが最後、自分がその一員になったような気がして落ち着かず、なんとなく買いづらくなってしまう……。
 カメラを構えている姿は、ともするとかっこいい。こいつが曲者だ。そういう夾雑物を剥ぎ取って、本質をこれでもかこれでもかと形而下レベルで(つまり、絵になる形で)拡大して見せるのが、SFの大きな武器のひとつである。

【9月3日(水)】
▼さて、めでたく“パパラッチ”と表記することに決めたところで本題である(昨日のは前振りだったのだ!)。
 やはり予想されたとおり、あちこちでパパラッチ批判が花盛りだ。「人間として恥ずかしくないのか」とか「プロとしての矜持はないのか」とか、みなが同じようなことを言いはじめると、待ってましたとばかりにおれの天邪鬼の血が騒ぐ。厭だね。パパラッチみたいだ。
 それはともかく、市場があるからパパラッチだって商売になってるのだし、彼らにだって生活があろう。家に帰れば幼い弟妹が腹を空かせて待っていて、「星クンっ、今日こそはスクープをものにしてみせるたいっ!」とか目玉を燃やしているのかもしれないわけだ。「ここまでやったら人間として終わりだな」という基準は人によってちがううえ、往々にして経済状態によっても変わってくるので、「恥ずかしくないのか」などと言ってみたところで、「恥ずかしくない。これこそプロ根性だ」とでも言い返されれば、それまでである。
 精神論が有効なのは、己ひとりの内面世界で話が完結している場合に限られる。二人以上の人間が関与する場では、精神論など屁の突っ張りにもならない。今回のダイアナさん事件で、皮肉にもタブロイド紙がいつもより売れたという事実がすべてを物語っているだろう。待てよ、“屁の突っ張り”とやらがどういうものなのかおれは知らないが、少なくともそれは“屁の突っ張り”なる役目を果たしているらしく、精神論などと比べてやっては“屁の突っ張り”がかわいそうかもしれないな。精神論がうまく機能しているように見えているときは、たいていそれをぶち上げている人間にとってうまく行っているだけであって、なにしろ無から有を作りだそうとしているのだから、必ずどこかで誰かが泣いているのである。それがエネルギー保存則というものだ。このことを日本人は先の大戦で学んでいるはずだけど、やはり戦争体験はかなり風化していると言わざるを得ない。
 誰もが持っている欲望を「いけないことだから我慢しましょうね」と抑え込んでうまくいった話は聞いたことがない。自由な社会で大事なことは、欲望を抑えることではなく、社会に益するように欲望の流れを制御してやること、加熱して火を噴くことのない“欲望の回路図”をうまく引いてやることであろう。
 そこで突然、提案したい。『週刊パパラッチ』を創刊してはどうか。なんの雑誌かというと、有名人を追いかけるパパラッチの赤裸々な生態を激写する写真週刊誌なのである。なにしろ、人間が欲望を剥き出しにしている姿ほど面白いものはない。「今月のパパラッチ」というコーナーを作り、毎月適当なパパラッチを見繕ってはスターに祭り上げ、徹底的に追いかけまわして写真を撮りまくる。私生活のあらゆる情報を根掘り葉掘り調べ上げては、あることないこと、ないことないこと書きまくる。パパラッチであれば、生贅(笑)はぺつに誰だっていいのである。また、パパラッチの情報や写真を広く募集し、いいものは高額で買い取る。パパラッチがよりえげつないことをしている瞬間の写真ほど、高値で売れよう。すると当然、パパラッチ専門のパパラッチが現われることであろう。これは面白いぞ。え? 写真や情報を買い取る金は誰が出すのかって? 決まってるじゃないか、パパラッチに追いかけられそうな有名人たちが出すのだ。共済組合みたいなもんである。追いかけられそうにない有名人(?)も、みんなが出せば見栄で出すから、資金は潤沢だ。『週刊パパラッチ』に月に何口払っているかが有名人のステータスになるように持ってゆく。そのうち、パパラッチを追いかけたほうが有名人を追いかけるより儲かるようになってしまうかもしれないのだが、そうなるころにはすでに最初のパパラッチは有名人になっているので、それを追いかけるパパラッチを新人賞で募集して育ててゆけばよい。
 どうだろう、この案で誰か困るだろうか? そう新しい考えでもなく、報道カメラマンが迫ってきたときは「あなたもカメラも持てばいい」という筒井康隆氏の秀逸な指摘(「報道カメラマンからわが身を守る方法」、『笑犬楼よりの眺望』新潮社・所収)を敷衍しただけのものだ。面白いから小説にしようかとも思ったけど、いまさらこんなネタでこういう話を書いたところで、筒井康隆は超えられない。もとより、おれに超えられるわけはないが……。
 というわけで、おれはべつにアイディア料など請求しないので、どなたかやる気と資金と体力のある方、創刊しませんか? できれば初心者向けのSF紹介欄も作っていただいて、創刊号にはぜひ書かせてほしいな。最初に紹介するのは――そう、『おれに関する噂』がいい。

【9月2日(火)】
“ツェツェ蠅”とか“レッド・ツェッペリン”とか“カンツォーネ”とか“シュワルツェネッガー”とかいった表記が通っているからには、paparazzi “パパラッツィ”もしくは“パパラーツィ”と表記すべきであろうかとは思うのだが、これだけ一気に“パパラッチ”が広まっちまったら、もう遅いな。まあ、ケーシー高峰「グラッチェ」と言っていることであるし(笑)、おれもマスコミ表記に倣って“パパラッチ”とすることにしよう。
 “レッド・ツェッペリン”も考えてみればちょっと妙で、イギリスのバンドなのだから“ゼッペリン”“ズェッペリン”と表記されてもよかったはずだが、飛行船のほうが先にドイツから入ってきているため、そちらの表記に統一されている。また、おれがよく悩むのは、“アルベルト・アインシュタイン”だ。ドイツ生まれであるからには、たしかに“アルベルト”と表記するのが慣用的だろう。サイボーグ004だって“アルベルト・ハインリッヒ”である(だけど、なんで姓がハインリッヒなんだろう?)。しかし、現代ドイツ語に於いては母音直後のr音が母音化するのが日常では一般的であって、原音主義に徹するのであれば、“アルベアト”や、いっそ“アルバート”という表記もありではあるまいかと考えたりもする。さらに、アインシュタインはアメリカ人だと解釈すれば、“アルバート・アインスタイン”というのも無茶ではない。結局、日本語のことは日本の慣用に従いましょう、としか言いようがない。“アルベルト・アインスタイン”だけは容認しかねるけれども。で、おれはと言えば“アルベルト・アインシュタイン”と表記する。“アインスタイン”じゃ、なんか頭悪そうで、宇宙の真理に想いを馳せそうにない気がするぞ。
 慣用に従うしかないということは、外国語がカタカナで一般的にはどう表記されるかを知っているかどうかで、その分野の“日本語による”基礎教養を問われてしまう側面が出てくる。例えば、“ジミー・ペイジ”“ジミー・ページ”と表記したりすると、「あ、こいつは(少なくとも日本では)モグリだな」と思われるであろう。だからと言って、“ホームペイジ”などと表記すると「あ、こいつは偏屈だな」と必要以上に警戒されることとなる。どないせぇちゅうんやの世界であるが、とにかく文字遣いに気をつけながら乱読するしかないよな。もっとも、いくら日本語を読んでいても妙な文字遣いをする、“文字遣い音痴”とでも言うべき人はたしかに存在する。“ジミー・ペイジ”のほうが“ジミー・ページ”よりギターがうまそうだなという、いわく言い難いセンスが欠落している人である。そういうセンスは、読むことよりも書くことによって身につくような気もするが、ほんとのところはよくわからない。人によって多少センスの揺れはあるし、法則化して他人に伝えることは不可能だ。
 つまるところ、外国語のカタカナ表記には法則もなにもない。だが、完全なケイオス、じゃない、カオスだというわけでもなく、緩やかな多数決原理がなんとなく働いている。小説のような、一言一句が世界の部品であるべき藝術作品は別として、多くの人に読んでもらうことを前提とする“道具としての文章”では、それぞれの業界の慣用に従うのが次善策でありましょう。最善作なんてないのだ。とくにホームペイジ、じゃない、ホームページの場合、より一般的な表記を用いることは利用者の検索の便を図ることにもなる。“パパラッツィ”と書くよりは、“パパラッチ”と書いておいたほうが、検索エンジンのヒット率は上がるにちがいない。
 この日記の読者には文筆業の方も少なくないから、今日のネタなどは「なにを言わずもがなのことを……」と言われそうだ。まあ、なにがなんだかわからないと悩んでいる人もいるかもしれないので、おれの思うところを書いてみた。

【9月1日(月)】
“ダイアナさん”と呼ぶと、なんとなく居心地が悪い。というのは、語感を優先した例外はあるにしても、おれはこの日記では面識・電識のある人に触れるときには“さん”を、それ以外の人には主に“氏”を用いるようにしているからだ。その人が職業上ひとつの客体として扱われるべき文脈では、むろん呼び捨てにしていることもある。“夏目漱石氏”とは言いませんわな。だから、同じ人でも“さん”がついたりつかなかったりしているはずだ。
 ちなみに、「リンクワールド」では、どんなに偉い人でも“さん”で統一している。例外は、巨匠という冠をつけた Arthur C. Clarke と、ホームページ名に肩書きが入っている Professor Stephen Hawking だけのはずだ。WWWでは、誰もが同一平面上に並んでいるという思想の表明である。シドニー・ルメット監督の『十二人の怒れる男』12 Angry Men で、エンド・クレジットの名前がすべて平板な小文字のアルファベットで書かれていたのをご記憶だろうか? 映画のテーマをクレジットにまで徹底しているわけだ。ま、余談だが、アレに通ずるつもりで、リンク集の人名は平等に“さん”付けにしているのである。もし気に障っていた方がいらしたら、そういう意図ですのでご理解を賜りたい。
 さて、ダイアナさんだが、“妃”が取れちゃってから、はなはだ呼びにくいんだよね。もっとも、“ダイアナさん”と呼ばれることが、彼女には Princess of Wales を凌ぐ最高の称号でしょう。


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冬樹 蛉にメールを出す