どのようにして救われたのか・・・
キリスト教関係の雑誌や書籍やパンフレットなどで、
どのようにしてクリスチャンになったのかとか、
”どのようにして救われたのか ”というような記事をよく目にします。
たいていの場合は、
人間関係の不和から、病気から、経済的な困難から・・・、
暮らしを維持していくための条件が満たされていない状態から抜け出した経験、
失われていたものを取り戻したり、手に入れた経験などが、
救われた経験としての主だったものとして語られています。
不幸や敗北や災害や、
困難や苦難や災難から救い出されたり、そこから解放されたことを、
”救い ”の意味として、救われたと語っているのです。
たしかに聖書物語にもそのような場面は出てきます。
しかし、聖書は、「救い」というテーマを、
”神との和解 ”として語り伝えていることを忘れないでください。
「救い」とは「神との和解」による救いなのです。
つまり「神の怒り」というものから、神との和解によって、怒りの外に置かれることを意味しているのです。
信仰により、
キリストのみに信頼を置いた瞬間に、
神は私たちを神の前で正しい者として宣言してくださるのです。
キリストに信頼をよせることによって、
神はキリストの正しさを私たちのものとしてくださるのです。
それが”救いの状態”つまり”救われた時 ””和解の時 ”なのです。
問題なのは、
不安や困難の中で、
私たちは”神を見ます””神と出会います”、
そのとき、私たちの心の中で何が起きたかということなのです。
不安や困難を体験したことが大事なのではなく、
それが主体ではなく、
そのとき、私たちの人格に及ぶ変化が起きたということなのです。
そのとき、
自己喪失を経験したかもしれません。
自我が粉々に打ち砕かれたかもしれません。
今までの自分の姿が、生き方や、ものの考え方が、粉々に砕かれたかもしれません。
神を見るとか、神に出会う経験というものは、
自分の人格に大きく影響を与える人格的な神との出会いなのです。
旧約聖書の「ヨブ記」で、
過酷な試練に耐え、人生の苦難を味わったヨブが言っています。
「あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしたは塵(チリ)と灰の上に伏し、悔い改めます。」
(旧約聖書・ヨブ記42章5〜6節・新共同訳)
困難な時であろうが無かろうが、
神がどのような方であるのか、
自分はどのような者なのか・・・・。
神と自分という関係において、このテーマに整理がついたとき、
そのときはじめて神という存在に目が向くのかもしれません。
この世界を造られた神は、
心の打ち砕かれた者の近くにおられます。
たましいの砕かれた者を救われるのです。
罪を深く悔いている者を救われるのです。
北白川 スー
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Wrote up: 04 April 2008.