クリスチャンって特別な人・・十字架
 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
 あなたがたを休ませてあげよう。
 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。
 そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 (新約聖書・マタイによる福音書・11章28〜30節・口語訳聖書)
 あまりにも有名なイエス・キリストの言葉です。
 しかし、どうでしょう。
 日本のクリスチャンたちは、この言葉がごく限られた人にたいして語られた言葉として受けとめてはいないでしょうか。
 疲れているのは私・・・。
 重荷を負っているのは私・・・・。
 このイエスの言葉を日本のクリスチャンたちは独り占めしてはいないでしょうか。
 イエス・キリストは、ごく限られた特別な人たちだけのことを考えてこの言葉を語られたのでしょうか。
 イエス・キリストは、すべての人にたいしてこの言葉をもって語られたのではないでしょうか。
 私は疲れている。私は貧しい。私は不足している。
 私は病んでいる。私は自信をもてない。
 私は孤独、私は不幸なのだ・・・・・。
 なにか当然のように、なにか特権のように考えてはいませんか。
 イエス・キリストは独占されるべき方なのでしょうか。
 ひとりの人が、十字架の上で血を流し、苦しみ、死なれたのは誰のためなのでしょうか。
 イエス・キリストは、すべての人たちを理解し、
 すべての人たちに耳をかたむけ、
 すべての人たちのすべてに耐え忍び、
 すべての人のために十字架を背負われたのではないでしょうか。
 ひとりの人、イエス・キリストの十字架の下に、
 すべての人たちのすべての苦しみが、重荷が、
 すべての人たちの不安と、むなしい努力があるのではありませんか。
 イエス・キリストは、そのようなすべての私たちをこの世界から救い出そうとして、
 あえて十字架刑を受けられたのではありませんか。
 限られた特定の人たちだけのために十字架刑を受けられたのでしょうか。
 私に声をかけてくれる人はひとりもいないと思っている人であっても、
 私は必要とされていないと悩んでいる人であっても、
 だれも私に助けの手を差し出してくれないと悲観している人であっても・・・・。
 私は満ち足りている、孤独ではなく幸せだ、
 重荷など負ってはいない、苦労などしていないと。
 必要など何もない・・・・と言い張る人であっても。
 イエス・キリストは、「 わたしのところに来なさい 」 と言われる。
 重荷を感じていない人であっても。
 重荷として感じている人であっても。
 重荷を重荷として感じたくない人であっても。
 イエス・キリストは、十字架の死という出来事によって、
 ご自身が、すべての私たちのすべての重荷を、
 ” どれほど負わなければならないものなのかを ” 人間に向けて明らかにされることによって、
 私たちの重荷を少しでも軽くなるようにと、
 ご自身の命をささげられたのです。
 イエス・キリストの前には、だれひとりとして特別な者はいません。
 ひとりの人がすべての人のために死なれたのですから。
 私たちは、ただこのイエス・キリストの語りかけに答えるか否かなのです。
 それによって明日からの道筋は変わってきます。
 永遠の命へと進むのか、
 それとも、永遠に続く苦しみへと落とされるのか・・・・・。
北白川 スー
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Wrote up: 18 September 2009.