自我に苦しむクリスチャン


 だれひとりの例外もなく、自分を含めたすべての人間は、罪深い存在なのだという認識に立たなければ、

 神のひとり子イエス・キリストの福音は、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は意味を持たなくなります。

 救い主・メシア・キリストとしての神のひとり子イエスがこの世界に生まれ来たということは、

 この世界を造られた神の目から見て、

 この世界は堕落していることをあらわしているのです。

 私たち人間のひとりひとりをも含めてです。

 だれひとりの例外もなく、私たちが逃げることも救われることもできない状態でなかったなら救い主など必要とはしないのですから。

 洗礼を受け、10年も15年も信仰を持ちながら、

 自我に苦しみ続けているクリスチャンは少なくはありません。

 信仰には熱心であっても、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ・・・・という、

 キリスト教の根幹をなしている事柄への理解が、

 キリスト教を成り立たせているもっとも大切な働きをする事柄をあまり理解していないからかもしれません。

 さらに、イエス・キリストを自分の主として、

 自分の心に迎え入れることへの抵抗・・・・。

 迎え入れることに抵抗する自我が存在し、

 その自我に苦しんでいるのです。

 自分の王座を主に明けわたす・・・・。

 それが、どれだけ素晴らしいものだと力説されても、

 多くの人はそこにこそ抵抗し苦しみ困難を覚えているのです。

 よく問題にされるのは、

 信仰とは、心の持ち方だと・・・・。

 しかし、キリストの福音は、

 心の持ち方を問うているのではないのです・・・。

 苦しみ続けているクリスチャンは、

 例外なく、

 自分の思い描く自分に、

 そうでありたいと自分を縛り、つらくしています。

 私たち人間は、だれひとりの例外もなくみな罪人です。

 生まれながらに罪の性質を持っているのです。

 主イエスを自分の心に迎え入れる・・・、

 イエス・キリストと人格的な交流を持つこと・・・・、

 しかし、それは真の福音ではありません。

 その根拠となるイエス・キリストの十字架の贖いのわざの上に立たなければ・・・、

 イエス・キリストと人格的な交流など意味を持たないのです。

 自我から解放されるという道筋こそが、イエス・キリストの十字架の出来事を信じるということなのです。

 自我や自尊心やプライドなどを捨てさり・・・・。

 イエス・キリストに、自分のすべてを明け渡すことが、

 イエス・キリストに全幅の信頼をよせて、

 イエス・キリストに聞き従うという信仰なのです。

 自分のすべてを疑い、

 自分の罪深さを認めることです。

 人は、あくまで自分を守ろうとします、

 なぜ、罪を認めないイエス・キリストは罪人として、

 すべての人の罪をその身に負い、

 十字架の死にまで従われたのか・・・・・。

 この出来事こそキリスト教の信仰の基礎となるものなのです。

 ごくごくちっぽけな自分にしがみついている自分・・・。

 そこからの解放と自由・・・・・。

 自分のすべてを疑い、自分の罪深さを認めることほどエネルギーを必要とするものは他にありません。

 イエス・キリストの十字架の死による贖いの出来事の、

 その内容と意味とを理解できたなら、

 イエス・キリストが、私たち人間に代わって、

 十字架にかけられたその意味が分かったなら・・・。

 信仰するためのエネルギーなど必要とはしません。

 自我に苦しみ続けることもないのです。

 罪を赦され、神の裁きから救われたのですから。

 あくまでも自分は正しいと思うのなら、

 罪の赦しも、罪からの解放も、救いもやってはきません。

 その必要はないはずですから。


 「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、

 故意に罪を犯し続けるとすれば、

 罪のためのいけにえは、もはや残っていません。」

 (新約聖書・ヘブル人への手紙・10章26節・新共同訳聖書)


 あくまで手放そうとはしないあなた・・・。

 そのようなあなたのためにもイエス・キリストは十字架刑に従われたのです。

 あなたの願いや求めを、とりあえず横に置いといて・・・、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)に目を向けてみましょう。


北白川 スー

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Wrote up: 18 July 2010.