教会の閉塞感
キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルが日本の地を踏んでから460年あまり。
今の沖縄・・琉球にプロテスタントの宣教師ベッテルハイムがキリストを宣べ伝えて163年・・・。
徳川幕府による外国との通商や交通を禁じていた鎖国政策が終わりを告げ、
横浜・長崎・函館の港が海外に開かれた1859年、
海外のプロテスタントの宣教師が福音宣教のために来日してから150年・・・・。
しかし、未だに日本はキリスト教化されはいない。
キリスト教化されていないと言っても、クリスマスやチャペル・ウエディング、ファッションとして胸元を飾る十字架などといったキリスト教文化の影響は深く根付いています。
しかし、全人口に占めるクリスチャンの割合は1パーセント未満と言われています。
ギャロップの調査によれば、教会から離れてしまったり、教会には行かないが自称クリスチャンを含めて6〜7パーセントは、クリスチャンだと報告している。
さて、
教会そのものが、何かでふさがれているのか、閉じられているのか、
教会で何が語られているのか、一般の人たちにはまったく伝わってこないし、
何を言いたいのかさえ明らかになっていないのが現状なのかもしれない。
信仰しているという喜びが伝わってこないし、
満ち足りているふうには見えないし聞こえてこないのです。
教会の内部にこもっている、信仰の香りや熱気や輝きなどが、
あたりに広がるように外部へもれ出ている様子もないようです。
キリストの福音というものが作り出す、
特定の傾向や支配的な雰囲気さえ感じ取れないのが現実なのです。
教会を取り巻く多くの日本人には、
実際何も知らされてはいません。
キリスト教は明らかに ” 人間の罪 ” を取り扱う教えなのですが、
クリスチャンから香るものであるはずの、
自分の罪深さから・・・・、
罪から解放された喜び・・・・・。
自分の罪の本質をを知り・・・・、
罪の束縛から解き放たれた喜び・・・・・、
罪深さを脱ぎ捨てた喜びというものが、
言い換えれば、罪をゆるされ生まれ変わった喜びというものが、
教会の外に位置している者には伝わっては来ないのです。
「だれでもキリストのうちにとどまる者は、
罪のうちを歩みません。
罪のうちを歩む者はだれでも、
キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」
(新約聖書・ヨハネの第1の手紙・3章6節・新改訳聖書)
日本の教会は、
何かでふさがれていて、
何かで閉じられているとしか思えないのです。
教会の中で人間の罪について、罪の赦しについて語られているのでしょうか。
人間の罪に深くかかわっているイエス・キリストの十字架と復活について、
つまり福音・・良き知らせについて、
教会の中でくりかえしくりかえし語られなければ、外へはもれ出てはきません。
もしかすれば、教会自身に問わなければならないかもしれない。
今の状況を作り出しているのは、
すべてをまわりのせいにして、
自分自身への反省を忘れてはいないかと。
そのあたりが1パーセントの範囲もしくは理由なのかもしれないのです。
この日本に ”神の国 ”をもたらすものこそキリストの福音なのですから。
福音宣教とは、内にこもるのではなく、
外に向かっての建設的な作業なのですから。
北白川 スー
関連記事・「キリストへのプロローグ」
表紙にもどります。
エッセイの部屋・バックナンバーへもどります。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up: 28 July 2009.